尾張の織田信長が、東海の雄・今川義元を討ち果たしたのです。
この戦い、もう1人の武将の運命をも大きく変えました。
その人物とは・・・長きにわたる戦国時代を終わらせ、天下泰平の礎を築いた徳川家康です。
この頃家康は、大国・今川氏の傘下から離れて、現在の愛知県東部・三河国の統一を図っていました。
そんな若き家康に、絶体絶命の試練が訪れます。
家康の生涯三大危機のひとつに数えられる三河一向一揆です。
当時、三河一円に広がっていた一向宗勢力が、打倒・家康を唱えて一斉に蜂起したのです。
すると、家康を支えてきた家臣団までもが、家康をとるか、信仰をとるかで敵味方に分かれてしまったのです。
存亡の危機に面した家康・・・この苦難を如何にして乗り越えたのでしょうか??
その奇策とは・・・??
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桶狭間の戦いが行われた1560年5月19日、松平元康・・・後の徳川家康は今川軍の先鋒として最前線である尾張の大高城まで進出していました。
ところがこの日、総大将・今川義元は新興勢力の織田信長に破れ、討ち死にしてしまいました。
同じ日の夕刻、この衝撃の報せが元康のもとに届けられました。
義元が討ち取られ、今川本体が総崩れになると、孤立無援となった大高城が織田軍に囲まれるのは時間の問題でした。
その日の夜・・・元康は大高城からの撤退を決断、一路三河国の岡崎城を目指します。
岡崎は、松平氏代々の本拠地です。
岡崎の地に生れ、幼いころ駿河の今川家に人質に出された元康・・・
「桶狭間の戦い」をきっかけに、10数年ぶりの帰郷を果たしました。
義元が討ち死にしたことで、織田・今川の大国のハザマとなった西三河・・・
元康は、岡崎城を拠点に西三河の統一を目指します。
岡崎城は、矢作川と乙川の二つの河川に囲まれた天然の要害です。
しかし、堅固な岡崎城を居城としたとはいえ、元康のような小勢力が生き延びるためには織田か、今川か・・・どちらかに与さなければなりません。
そして・・・元康は、桶狭間の戦いの翌年、その後の運命を決める決断をします。
「松平記」には・・・岡崎と尾張の間の戦いを停止する
元康は、織田との和睦を図ったのです。
どうして今川ではなく織田を選んだのでしょうか?
当時の松平家は、国衆という立場でした。
国衆は、自分を保護してくれる戦国大名を次々に選んでいきます。
ところが、今川家は上杉の南下により、東で武田・北条と三国同盟をし、家康まで手が回りませんでした。
切り捨てられた今川との関係より織田との関係の方が開けるのではないか??と考えました。
織田と和睦したことで、西に対する憂いの無くなった元康は東に向かいます。
東三河の今川方の重要拠点・牛久保城を攻めます。
将軍・足利義輝が、ある大名に送った手紙には、「今川氏真と三河岡崎の元康が戦になった」と記されています。
牛久保城周辺に砦を築き、城攻めを仕掛けた元康に対し、氏真は1万の大軍勢を率いて三河へ出陣!!
家康方の砦を攻撃しました。
砦に籠った兵は、数百だったと言われています。
知らせを受けた元康は、3千の援軍を率いて岡崎城を出陣!!
砦を包囲する今川軍を攻め、籠城していた兵の救出に成功します。
1万の今川方が、3千ばかりの元康を食い止めることが出来なかったのです。
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1563年、元康は、名前を家康と改め、今川義元からもらった元の字を捨て、ここに今川からの完全な独立を宣言しました。
ところが・・・12月、三河統一に邁進する家康の前に、更なる敵が立ちはだかります。
若き日の家康、最大の苦難・「三河一向一揆」の始まりでした。
三河統一を目指し、今川方と戦う家康・・・
しかし、そこには第三の勢力が存在しました。
当時、一向宗と呼ばれた宗教勢力です。
武士・農民の区別なく、信仰で結びついた一向一揆は時には大名とも対立、徹底抗戦しました。
加賀国では守護大名を倒し、100年にわたる一揆勢の支配を実現・・・戦国大名に匹敵する武装集団でもありました。
戦国時代、全国各地に勢力を拡大した一向宗・・・
一向とは、一心に阿弥陀仏を念じることで、浄土真宗本願寺派の呼び名です。
飢饉や戦乱が続く乱世に生きる人々は、死と隣り合わせの中、来世に救いを求めました。
それは、家康の三河国にしても同じことでした。
当時、三河では家康の居城・岡崎城の周辺に、一向宗の寺院が勢力を拡大していました。
「信長公記」にも・・・三河の一向宗寺院は、川沿いの攻めにくい要害の地にある
経済的にも豊かで、人の多い港である・・・国中の半分が門徒となっていました。
三河一向宗は、武士たちの心を主従関係とは別の形で強くとらえ、勢いを増していました。
今川との戦いを続ける家康は、そんな一向宗と敵対することになります。
きっかけは、家康の家臣が一向宗寺院から強引に兵糧米を取り立てたことでした。
本願寺教団からすれば、不入の権で税の免除・警察権が及ばないという特権を得ていました。
しかし、家康は、戦争をつうけるために兵糧を課してしまったのです。
一向宗寺院との対立が深まる中、家康は一向宗門徒である家臣たちに一向宗から改宗し、反逆者に味方しない旨の起請文を出すことを命じました。
しかし、一向宗門徒の家臣たちは、「主君の恩は現世のみ、しかし、阿弥陀如来の大恩は未来永劫尽きることなどない」と、一揆方につきました。
家康の有力家臣たちも、家康側に残る者と一向一揆に参加する者に分かれました。
後に、家康の天下統一事業を支え懐刀と言われた本多正信も、一向一揆側に分かれたその一人です。
そして、1563年12月、ついに三河の一向宗門徒が一斉蜂起!!
堅固な寺院に籠城し、反家康の兵を挙げたのです。
兵の数は、家康方を上回っていました。
若き家康に最大の試練の時が訪れました。
1564年1月11日、一揆勢は岡崎城の南3キロにあった家康方の砦・上和田城に大軍勢で攻めかかりました。
知らせを受けた家康は、すぐに岡崎城を出陣!!
一揆勢に突入します。
大乱戦の中、家康に銃弾が命中!!
鎧が硬かったため、命拾いをしたといいます。
翌日も一揆勢の攻勢は続きます。
ところが、一揆勢の武士の中には、家康の姿を見ると逃げ出す者も多くいました。
一揆方に身を投じたとはいえ、主君と侵攻のハザマで苦悩していたのです。
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1月15日、最大の激戦が小豆坂で行われました。
小豆坂は、岡崎城の南東3.5キロに位置する丘陵地にあります。
この時、一揆勢は、家康の別動隊と戦っていました。
そこを家康本隊が小豆坂を押し登って一気につきました。
挟み撃ちになった一揆勢は撤退せざるを得ませんでした。
2月になって、一揆方から和議の申し入れがありました。
この申し出をとりあえず受け入れた家康・・・
しかし、問題は和睦ののちの一揆勢の処分です。
反旗を翻した一揆勢を許すべきか??
それとも厳しく罰するべきか??
「家康十六将図」・・・家康に仕え、特に功績のあった16人の家臣です。
酒井忠次や井伊直政など、後に徳川四天王と称えられる名将が居並ぶ中、槍の半蔵と称えられた渡辺守綱、人質時代の家康のそばに仕えた蜂屋半之丞・・・この二人は、三河一向一揆の際、一向宗側に付き家康に敵対した門徒武士です。
1564年2月、一揆勢の主将格にあった蜂屋半之丞が家康方に和議を申し入れました。
一揆方は、参加者や首謀者たちの命を保障すること、そして一揆のきっかけとなった寺院については前々の通り不入の権を認めるということを出しました。
家康は、これらすべての条件を受け入れ、起請文を交わしたといいます。
反旗を翻した一揆勢を許すことを選択したのです。
これによって、一揆勢は正式に降伏・解散しました。
一揆に加わった武士たちは、許されたものの多くは家康のもとを去り三河国を離れました。
家康は、この時を待っていました。
一揆勢との和睦から2か月・・・家康は、一向宗寺院に対し一つの要求を突き付けました。
”宗旨を変えよ”と迫ったのです。
それに対し、寺側は前々の如くと起請文を交わしたと主張します。
ところが家康は、
「寺が立つ前は野原である
前々の如く野原にせよ」と言い、
一向一揆の拠点となった四寺や道場を破却しました。
寄るべき寺院の無くなった僧侶は、三河から離れるほかありませんでした。
以後、20年に渡り、三河では一向宗の活動が禁じられました。
この戦いを乗り越えることによって、三河における家康優位の状況が出来上がってきました。
そして、家康のもとに三河国がまとまっていきました。
戦国大名・徳川家康の誕生でした。
西三河を完全に掌握した家康は、勢いに乗って東三河・奥三河を制圧!!
三河国の統一を成し遂げ、天下人への第一歩を踏み出しました。
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