その丸の内南口券売機前の床面に、六角形の小さなタイルが埋め込まれています。
まさに、この場所で・・・1921年11月4日・・・
「この国賊・・・!!」
現職の総理大臣であった原敬が暗殺されました。
犯人は、鉄道職員の中岡艮一・・・18歳の青年でした。
中岡の凶行で命を落とした原敬は、憲政史上、初めて爵位を持たない平民宰相として総理大臣の地位に付き、初の本格的政党内閣を樹立した人物です。
明治維新から続く藩閥政治から、国民に基盤を置いた政党政治へと基盤を動かしました。
平民のために尽力した原敬がなぜ暗殺されなければならなかったのでしょうか??
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1856年2月9日、原敬は、陸奥国岩手郡本宮村(現:岩手県盛岡市本宮)に生れました。
生家は、盛岡藩の家老を輩出するほどの名門の武家でしたが、1868年、盛岡藩が戊辰戦争で旧幕府側に付き敗戦すると、朝敵として新政府軍に賠償金を支払うことに。
それをねん出するために、原家の家禄は1/10までに減少し、家や土地を売却しなければならなくなりました。
生活が苦しくなる中、1871年、原は、学問で身を立てるために15歳で上京。
英語の私塾に入ったものの、すぐに授業料が払えなくなり私塾を退学。
しかし、原は
「自分は餓死したとしても、人から金銭の援助は受けたくない!
働いて自活しながら、学問を続ける方法があると思うから、それを考えようではないか!!」
苦境に立たされてもそれにくじけない強い心を持っていました。
選んだ学校は、神学校でした。
教会の運営で食費や宿泊費が無料だったからです。
原は、フランス人神父の家に身を寄せ、布教活動を手伝いながら、そこでフランス語を習得します。
7人兄弟の2男だった原敬が、実家から分家し、士族から平民となったのはこの頃です。
原は、ここからたゆまぬ努力を重ね、総理大臣にまで上り詰めていくのです。
その足掛かりとなったのが、23歳で郵便報知新聞社(元:報知新聞社)に入社したことです。
習得したフランス語を活かし、翻訳の仕事に従事します。
やがて記者として、自ら記事を書くようになった原は、ある人物の同行取材を任されます。
長州出身で明治維新の元勲のひとり・・・井上馨です。
井上は、原の語学力の高さを認め、外務省にヘッドハンティングします。
その後、原は、農商務省参事官などを務めるなど、官僚として評価を得ていきます。
そんな原に、大きな影響を与えたのが、初代内閣総理大臣となった伊藤博文です。
その政治手腕に感銘を受ける中で、伊藤が抱く政党政治への思いを知ります。
当時の伊藤の考えとは・・・??
伊藤博文は、長州出身で藩閥ですが、立憲政治を定着させる方法を考えていました。
1885年、44歳の時に初代内閣総理大臣に就任します。
総理大臣になってからは、政府ー議会ー国民がどうつながっていくか??考えていました。
まとまれるものとして、政党の必要性を考えていくのです。
政党政治を目指す伊藤は、1900年、立憲政友会を結党。
才能を買っていた原を、その中心メンバーに据えました。
政治家の道を進むことになった原は、44歳で立憲政友会の初代幹事長、第4次伊藤内閣では逓信大臣として初入閣を果たしました。
その後、内務大臣を歴任するなど、政界でもその高い能力を発揮していった原に、大命が下ったのは1918年のことでした。
米の価格が急騰したことで、米の取引所などが襲撃される米騒動が日本各地で発生しました。
その責任をとり、寺内正毅内閣が総辞職。
この難局に、立憲政友会総裁となっていた原が、次期総理大臣に指名されたのです。
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9月27日、第19代内閣総理大臣に就任。
憲政史上初の平民宰相の誕生でした。
この時、原敬62歳。
原は、政党政治を目指すべく、外務と陸海軍以外の閣僚全てを立憲政友会から選出し、藩閥組を一掃、本格的な政党内閣を組織しました。
公家でも、薩長出身でもない平民宰相を、世間は歓迎しました。
原は、賊軍の地・盛岡に生れながらも総理大臣にまでなった人物です。
戊辰戦争の敗者が、明治維新の勝者になった・・・そんな原の存在は、人々を勇気づけました。
藩閥政治側としても、徳川の世に変わる新しい政府を創るためには正当性を持たなければならないと思っていました。
その為、”五箇条の御誓文”には、「すべての人々が夢をもち、それを実現できる社会を創造する」と書かれています。
この明治維新の精神を体現して成功した一番最初の人物が原敬でした。
実際、「平民」という言葉が流行語になるほど国民は強い期待を原に寄せていました。
同じく岩手出身の新渡戸稲造も、
「階級的道徳の時代は終わりをつげ、国民的道徳を行う時代が到来した」とエールを送っています。
総理大臣となった原が最初に行ったのは、
①米騒動の発端となった米の価格の安定でした。
外国米の輸入を拡大することでこれを実現させます。
②教育改革
公立・私立大学の設置を容認し専門学校だった、慶応義塾大学、早稲田大学、明治大学、法政大学、中央大学、日本大学、同志社大学など・・・大学に昇格しました。
高等学校の創設を推進し、5万人以上の若者たちが進学します。
③衆議院議員選挙法の改正
1919年、選挙権の刺客を直接税の納税額10円から3円に引き下げました。
より多くの国民が政治に参加できるようにしました。
国民のために尽力する平民宰相・・・
1921年11月4日金曜日。
東京は気温10度を少し下回る肌寒い日でした。
午前8時ごろ・・・東京・芝公園にあった自宅で目を覚ました原敬は、寝室の布団に腹ばいになって各紙の朝刊を隅々まで読んだのち、応接間でお茶を飲みながら、妻・浅と何気ない会話をして過ごしていました。
普段と変わらない1日の始まりでした。
しかし、この日、原を暗殺することになる中岡艮一の朝は・・・??
東京巣鴨にあった自宅で、仕事が休みなのに早く起き、最期になるかもしれない家族との朝食を済ませました。
そして、カバンの中に刃渡り5寸の担当を忍ばせました。
中岡は、前日の新聞で原がこの日、東京駅から夜7時30分発の急行列車で京都に向かうことを知り、そこで原を襲うつもりでいました。
大塚駅の鉄道職員だった中岡は、家を出る際に母親に告げました。
「今日の休みは、友達と遊ぶ」by中岡
「今夜のおかずは鮭よ」by母
母から電車賃として14銭をもらった中岡・・・
午前10時ごろ、芝公園の自宅を出た原は、立憲政友会本部へ。
翌日京都で開かれる党の近畿大会に出席するためスピーチ原稿を確認します。
党本部にいたのもつかの間、原は皇居に向かいます。
大正天皇に拝謁し、毎月恒例の政務報告をすることになっていたからです。
一方、浅草にやってきた中岡は、街をブラブラ・・・昼食に肉飯を食べ、甘味処ではあんみつを味わいました。
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仕事を済ませた原は、京都に向かう支度をするため一旦自宅に戻ると、あわただしく夕食を済ませて支度をしました。
「今夜は冷えそうですのでこれを」by浅
「必要ない、京は随分と温かいからな」by原
この時、妻・浅の言うとおりに厚手のオーバーコートを着て行ったなら命を落とすことはなかったのでは??と言われています。
同じ頃、中岡はすでに東京駅の待合にいました。
原が乗るのは夜7時30分発の列車です。
中岡が2時間以上も前に東京駅に来たのには理由がありました。
中岡は、これまでに3度、原の暗殺を計画。
①10月2日上野駅
②10月9日立川駅
③10月24日東京駅
しかし、原の到着時刻が予定よりずれたりしたことで、失敗に終わっていました。
「これだけの余裕があれば大丈夫だろう」by中岡
午後7時ごろ・・・自宅を出た原が東京駅に到着します。
待合室から切符売り場の前を通過する原の姿を中岡は見ていました。
「原はきっと駅長室に行くはずだ
そのあとを狙おう・・・」by中岡
中岡の予測通り、原は駅長室へ。
応接で列車の発車時刻まで待ちます。
その間、中岡は駅長室後方の太い柱の後ろに身を潜め、機を伺います。
そして・・・午後7時25分。
原は、駅長らと談笑しながら列車が出るホームに向かいました。
「東京駅には一日どれくらいの人が乗り降りするのですか?
一日の収益はどのくらいでしょう?」by原
これが、原の最期の言葉となりました。
「この国賊!!」by中岡
一瞬の出来事でした。
中岡は、東京駅で原の警護に当たっていた日比谷警察署の警察官によって取り押さえられました。
警察が警護していたにもかかわらず、防げなかったのでしょうか??
要因①東京駅
当時の東京駅は、まだ開業したばかりで、通勤客だけでなく見物人もたくさんいました。
丸の内南口で、1日約2万人の乗降客がありました。
この日は金曜日の夜・・・人混みが多かったと考えられます。
東京駅の人ごみに紛れてしまい、警察が犯行に気付くのが遅れたのです。
要因②警護体制
総理大臣には多くの警察官が警護につくことが慣例となっていたため、原も警察官の警護がついたのですが・・・
「平民宰相なはずなのに、今までのように警察官を警護につけるのか!」
そう、新聞が批判!!
以来、原は警護嫌いとなり、警察もその意をくんだのか、事件当日の警護はわずか7人。
しかも、彼らは原から離れてついていました。
犯行現場となった東京駅が混雑していたうえに、警護の人数が少なく原から離れていたことで犯行を未然に防げなかったのです。
駅長室に担ぎ込まれた原は、テーブルの上に寝かされ応急手当てがなされました。
その際、着付けにと赤ワインを口に含ませますが、反応はありません。
刺し傷は右肺から心臓にまで達していました。
襲撃されていた際に着用していた衣服が、岩手県盛岡市にある原敬記念館に残されています。
ワイシャツについた血痕、衿には着付け具するの代わりに使われた赤ワインのシミが・・・
生々しく、事件の凄惨さが伝わってきます。
午後7時40分・・・
事件発生からおよそ20分。
原のかかりつけ医が到着し、手当に当たりますが・・・当時はまだ救急車がなく、現場で出来ることは知れていました。
事件の報せを受け、妻・浅も駆け付けます。
気丈にも涙をこらえ、傷口を洗うなど看護に務めたといいます。
しかし・・・午後7時50分。
第19代内閣総理大臣・原敬・死去。
原敬・・・65歳でした。
突然命を奪われた平民宰相・原敬。
現職総理大臣の命を奪った犯人は、18歳の青年でした。
大塚駅に勤務していた中岡艮一・・・どうして凶行に及んだのでしょうか??
中岡艮一は、抵抗することなく東京駅前の派出所に連行されます。
「名前は??」
「土佐の士族・中岡だ!!」by中岡
1903年、中岡艮一は栃木県で生まれました。
父親は、旧土佐藩士。
土佐藩は、坂本龍馬を輩出するなど、大政奉還や明治維新で重要な働きをした藩です。
その誇りを父親から強く受け継いだ中岡は、学問を学び、優秀な成績を治めますが、父親が病気になったことで高等小学校を中退し、やむなく印刷会社で住み込みで働きます。
その後、父親が亡くなり、東京巣鴨の小さな家で、母親・妹・弟の4人暮らしでした。
レールのポイントを変える職人である転轍手となり、大塚駅で勤務することになったのは、事件を起こす年の春のことでした。
担当の日は、朝8時から翌朝8時までの24時間勤務でした。
この間、眠れるのは3時間だけという激務でした。
日給は、50銭の本給と徹夜手当を併せて95銭5厘・・・月収にして現在の15万円ほどでした。
楽しみと言えば、映画の脚本を書き、応募することぐらいでした。
そんな中岡が、どうして原を暗殺したのでしょうか??
事件現場となった東京駅の銘板には、こう書かれています。
”犯人は原首相の率いる政友会内閣の強引な施策に不満を抱いて凶行に及んだと供述”
中岡が、原の政治に対して不満を抱いていたというのです。
実は原は、平民宰相として米価の安定・高等教育の推進・選挙権の拡大など、国民の側に立った政治を行ってきましたが・・・次第に国民から不信を買う用になっていました。
きっかけは、野党が人気取りのため25歳以上の男子なら誰でも選挙できる男子普通選挙の実現を訴えたことでした。
これを受け、男子普通選挙運動が過熱します。
日比谷公園で行われた国民大会の参加者は、1万人に上りました。
しかし原は・・・「男子普通選挙はまだ時期尚早だ、もう少し機が熟してからでいい」
選挙権の拡大には賛成だった原でしたが、政治について知識のない人たちが急に選挙権を持ってもかえって政治の混乱を招くと考えていたのです。
宗とは知らない民衆は、望んでいた男子普通選挙を認めない原に、
「平民宰相に裏切られた!!」
と、大きな反感を抱くようになります。
さらに、第1次世界大戦後の恐慌で株式市場が暴落。
経済不況は深刻さを増し、庶民は厳しい暮らしを強いられました。
そんな中、1920年2月5日、原は、警察と憲兵を出動させます。
官営の八幡製鉄所の職工1万3000人が職場の改善を求めストライキを挙行、数千の職工が溶鉱炉を襲撃しようと騒乱状態となったためでした。
騒動は、250人近い職工が解雇、労働組合が壊滅状態となったことで終息したのですが・・・原の強硬な姿勢に批判が高まりました。
マスコミからは「官僚以上の傍若無人の態度」と批判されます。
原はリアリストで、ストイックな性格でした。
それは、国民からすれば厳しいという印象がありました。
しかし、それは政治家としては非常に誠実な態度でした。
原の行動は理解されず、国の舵取りが出来ないのは総理大臣の責任だとして新聞や雑誌から叩かれたのです。
そうした偏った報道を、中岡も目にしていました。
そして、いつしか原を、民衆の敵、悪の権化、国賊と考えるようになったのです。
世間の原への不満も高まります。
男子普通選挙の実現を求める人々が、原の自宅へ押しかけ、抗議の声をあげます。
立憲政友会本部が放火によって全焼。
外相官邸で行われた夜会では爆発騒ぎが起きました。
原の身にも危険が及びます。
殺害予告などの脅迫文が次々と来るようになります。
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そんな中、原内閣への不信感を増幅させることが起きます。
立憲政友会に南満州鉄道からの不正な選挙資金提供疑惑がかけられたのです。
”満鉄疑獄事件”・・・これによる政治家の逮捕者は出ませんでしたが、格好のネタとして新聞などで連日取り上げられました。
さらに、禁止されていたアヘンの密売がよりによって日本の植民地行政を担当する拓殖局長官の指図で行われているという疑惑まで浮上します。
長官の古賀廉造は、原が重用してきた旧友でした。
古賀は無実を主張・・・辞職するも、様々な憶測が報じられました。
満鉄疑獄事件に、アヘン密売疑惑・・・政治腐敗に対する行き過ぎた報道が土佐士族の生まれという中岡の誇りに火をつけます。
中岡は、坂本龍馬などの維新の志士に憧れ、自分も世を正したいという思いを日頃から抱いていたのです。
「多くの国民が怒りを爆発させているのに、誰もが口だけで行動を起こさない!!
ならば、この土佐の士族中岡が、国賊の原を討つ!!」
新聞などの報道の影響で、平民宰相・原への不満を募らせた中岡は、土佐の士族という誇りが使命感へと変わり、凶行に及んだと言われています。
原敬暗殺事件の黒幕・・・
中岡の動機は、平民宰相・原の政治に対する不満でした。
しかし、その背後には黒幕がいたのではないかという説もあります。
事件の黒幕の一人と言われたのが、中岡が務める大塚駅の助役・橋本栄五郎です。
橋本は、日頃から原政権に対する不満をあらわにしていました。
それを中岡は聞いていました。
暗殺に及んだきっかけとなったのが、事件の1か月前の会話でした。
「何が平民宰相だ!ちっとも俺たちのためになってねえじゃねえか!
今の日本には、武士道精神が失われた!
腹を切るというが、実際に腹を切った例なんかねえんだ!」by橋本
「橋本助役、私が原を斬って見せます!」by中岡
腹と原の間違い??
橋本は殺人をけしかけた容疑で逮捕され、裁判にかけられますが、証拠がなく早々に釈放されます。
事件の黒幕ではないかと言われた人物はもう1人・・・
国粋主義を掲げる「玄洋社」の総帥・頭山満です。
玄洋社は、1881年に旧福岡藩士を中心とする政治結社です。
アジア諸国の独立を支援し、それらの国と同盟を結ぶことで、西洋列強に対抗しようという大アジア主義を掲げていました。
どうして黒幕として頭山の名が挙がったのでしょうか?
ひとつには、頭山たちにとって原が邪魔な存在だったからです。
第1次世界大戦後、世界に軍縮の機運が高まります。
原もこれを受け、軍備予算の削減を決めるなど、軍部の力を弱める軍縮を進めて行きました。
さらに・・・日本は東アジア最大の軍事国家であり、日清戦争、日露戦争、第1次世界大戦後と、10年に一度大きな戦争をしていました。
そして、原以前の総理大臣の過半数は軍人でした。
日本は世界の国際協調からすると、最も警戒すべき相手でした。
そこに、平民宰相が出てきた・・・そこには大きな意味がありました。
そして、それに原も乗っていく形で国際協調をして世界と手を組み、中国やシベリアに対して領土的な野心がないということを明確に宣言します。
様々なメディアに対して日本の国際協調の方針を発信していました。
そうした原の政策が、日本の軍事力によって大アジア主義の実現を目指す頭山たちの考えとそぐわなかったと言われています。
もうひとつの理由は・・・頭山と中岡の関係です。
事件後に中岡が頭山を頼ったことから、2人は以前から関係があったのではないかと推測され、原の存在が邪魔だった頭山たちが中岡に事件を起こさせたのではないかという黒幕説が浮上したのです。
事件から1年後、検察側が中岡の死刑を求刑。
下された判決は・・・
「中岡艮一を無期懲役に処す」
黒幕説については、様々な憶測が当時からありました。
ただ、公判の結果は中岡の単独犯と結論が出ました。
この時の公判の資料が法務省大審院の火災によって現在まで残っていません。
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無期懲役が下された中岡でしたが、3度の恩赦によって11年3カ月に減刑。
刑期を終えた中岡は、陸軍に身を置くなどして太平洋戦争の終戦を迎え、77歳まで生きたのです。
原敬の死の波紋
原敬は、脅迫状が多く届いていたこともあって、遺言状を認めていました。
そこには・・・
「葬儀は生まれ故郷の盛岡で質素に行うこと」
遺言通り、事件から3日後の1921年11月7日、原の棺は上野発の急行列車に乗せられ、盛岡へと向かいます。
盛岡駅から原の別邸迄の沿道には、当時の盛岡市民の人口とほぼ同じ、およそ3万人が見送ろうと集まりました。
多くの人々が、平民宰相の死を悼む中、葬儀はしめやかに営まれました。
原の死後、立憲政友会が分裂するなど、政党政治の勢いも弱まっていきます。
そして、事件から15年・・・青年将校たちによる2.26事件が発生。
日本は、軍事色を強めていったのです。
原敬が生きていれば、軍事主義的な時代に進むことはなかったのではないかと当時から言われていました。
ただ実際には、国際政治の中で変わっていきます。
なにより原自身が、自分の後継者を育てずに命を失ったことは、日本の政党政治、近代の歴史にとって大きな悲劇でした。
大きな波紋を呼んだ現職総理大臣の暗殺事件・・・平民宰相と呼ばれた原敬は、遺言状にこうも書いていました。
「死後、位階勲等の陞叙を受けないようにしてほしい」
最期まで平民でいたいのだと・・・。
岩手県盛岡市にある大慈寺・・・原敬は、今、妻の浅と共にここに眠っています。
墓碑に刻まれたのは名前だけ・・・これもまた原敬の遺言でした。
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