日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:六角義賢

天下取りへの第一歩、桶狭間の戦い・・・織田信長が、今川義元の大軍を打ち破った奇跡の逆転劇です。
しかし、実は信長には用意周到な作戦があったのでは・・・??
どうして桶狭間の戦いに勝てたのでしょうか??

レジェンド&バタフライ



1560年、27歳の時、桶狭間の戦い!!
この頃、織田家が支配する周りは、敵だらけ・・・!!
危機的状況を打開するために織田家の長男として育てられた信長。
しかし、期待外れの変わり者とみられていました。
信長公記には、従来の信長の姿が描写されています。

”いつも着物の袖を外し、短い袴をはいただらしない格好で、特に見苦しいには街中で栗や柿、うりをかじりつき、人に寄り掛かり、ぶらぶら歩いている”

大うつけ・・・大バカ者と噂されたといいます。
その後、父の病死で当主となった信長・・・
うつけ者が、どうやって強大な今川軍と戦ったのでしょうか??
従来、桶狭間の戦いのきっかけは、今川義元が京の都にのぼろうとしたためだといわれていました。
江戸時代初期に記された信長公記には・・・

”今川義元は上洛し、国家の政治を正すため兵を挙げた”

その為、今川義元が尾張に進軍してきたというものです。
さらに、桶狭間で信長が勝った理由は、これまでは奇襲攻撃だといわれてきました。

”敵の後ろ側へ迂回して移動しろ
 旗を巻いて忍び寄り、義元の本陣を攻めろ”

信長軍は北へ迂回しながら今川軍に見つからないように丘陵地帯を進み、桶狭間に展開する義元本陣を急襲したというものです。
しかし、近年、研究者が記録を総合的に見直すと、全く異なる戦いの姿が浮かんできました。

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事の発端は、桶狭間の戦いの7年前・・・信長が、19歳で家督を継いだことでした。
それを知った義元は、

「信長はうつけと聞く
 今が大高城を手に入れる好機!!」by義元

大高城は尾張でも大きく重要な城でした。
そこを義元は奪い取ります。
大高城を手に入れたことで、義元は織田家の領地を南北に両断!!
しかも、この大高城は伊勢湾の目の前にあり、海上交易の利益を得られます。
大高城を奪ったことで、織田の経済力に打撃を与えたのです。
また、大高城と同じ年、義元は同じく伊勢湾に面した鳴海城も手に入れ、経済的支配を確固たるものにしました。
信長は絶体絶命の危機・・・!!
しかし、義元の策を読んで、戦略を練っていたのです。

桶狭間の年の前年、1559年26歳の時、信長は大高城のそばに2つの付城・・・丸根砦と鷲津砦を作ります。
さらに、北に3つの砦を作りました。
大高城と鳴海城を砦で囲み、今川軍の兵糧の運び込みを妨害、義元が大高城を助け出陣すせざるを得ない状況を作ったといわれています。
義元が出てくることを見越していたからこそ、付城を作って包囲して、攻め立てたことがきっかけで義元が出てきたのです。
今までのイメージとは違い、信長の方が自ら仕掛けていって義元を誘い込んでいたのです。

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1560年5月12日、今川義元出陣!!
大高城救援に向かう義元・・・道中にあったのが桶狭間でした。
この時、清州城で戦況をにらんでいた信長は、5月19日早朝、出陣!!
向かったのは、鳴海城東に位置する善照寺砦でした。
この砦は、これまで鳴海城を監視する砦と考えられていました。
ところが、砦の構造を丁寧に検証すると・・・
鳴海城の反対側の山の端っこに作った城だったことが分かります。
つまり、善照寺砦からは鳴海城が監視できないのです。
その代わり、南東の方角が一望出来ました。
善照寺砦の南東方面・・・それは桶狭間でした。
信長は最初から、今川軍の行動を読んで、桶狭間方面を監視するためにこの砦を設置してたのです。
今川の軍勢が尾張に向かってやって来れば、いち早くそこでキャッチできる監視塔のような役割を果たしていたのが善照寺砦でした。

記録によると、信長はここで2時間ほど動いていません。
信長が善照寺砦に到着したころ、すでに鷲津砦・丸根砦が今川先陣によって落とされていました。
この状況で信長が桶狭間に向かえば、大高城にいる今川軍に背後をつかれる恐れがありました。
また、最も重要だったのは、義元が今どこにいるのか??という情報でした。
戦全体を一望できる善照寺砦から、大高城の今川軍が動かない・・・義元は桶狭間にいるという二つの条件を見極めていたのです。

さらに、信長は運も味方につけていました。
二つの砦を落した今川軍は、人馬を休め、休憩。
この時、急に天候が激変し、豪雨が降りだしました。
今川軍は雨の中、動きが鈍くなり、火縄銃なども火薬が湿って使えない状況でした。
織田軍は砦に待機し、雨が上がるのを待っていました。
しばらくすると一転、晴れ渡る空~~!!
その時、信長は、

”空が晴れるのをご覧になって、信長は槍をとって大声で「さあ、かかれ、かかれ」とおっしゃった”

織田軍は、砦から2000の兵で正面攻撃!!
今川軍は総崩れ・・・義元は討ち死に!!

桶狭間の戦い・・・それは、奇跡の逆転劇ではなく、用意周到な戦術家・信長が起こした必然の勝利かもしれません。

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1568年、35歳の時、桶狭間の戦いの8年後、信長は室町幕府の将軍候補・足利義昭と共に上洛。
従来、天下統一のため将軍を利用したとされてきました。
明治期の歴史書には・・・

”信長の上洛は、義昭のためではなく足利氏の代わり天下を平らげんとする意味”

その後、義昭を京から追放し、それに代わって自ら権力を握った事実から、信長のイメージは伝統的秩序の破壊者に・・・!!

ところが、近年の研究では信長の違った一面が見えてきています。
どうして将軍・足利義昭と共に上洛したのでしょうか??

1568年、35歳の時、信長は足利義昭と共に上洛。

”将軍上洛のともとして織田信長が参陣する”

しかし、この発見された書状の年を見てみると、永禄9年となっています。
信長は、実際の上洛の2年も前から義昭と共に京を目指す計画を立てていました。
しかし、永禄9年の時点では、桶狭間の戦いで今川義元に勝利したとはいえ信長の周囲は強敵ばかり・・・
いつ攻められてもおかしくないため、上洛など考える余裕はありませんでした。
しかし、信長はそんな状況の中でも、義昭と共に上洛することを考えていました。
信長にとって、義昭と上洛することはどんな意味があったのでしょうか??

1467年、応仁の乱・・・京で始まった権力争いは、全国を巻き込む戦乱へと発展します。
室町幕府は衰退の一途をたどっていきます。
そんな中でも信長は幕府の権威を重んじていたことを示す記録が残っています。
上洛の5年前に書かれた室町幕府の家臣の名簿・・・
その中に、”織田尾張守信長”の名が・・・!!
信長も、将軍を支える大名のひとりだったのです。
権威を重んじる信長が、上洛を目指した目的・・・それは、室町幕府の再興を図ったからです。

信長は、特に中央が維持された中で、「自分の領国があるんだ」という考え方の人物でした。
中央も鎮まるべきだという考えから、積極的に動いて行きました。
伝統的秩序に対する信長の思い・・・
新たに見直されている言葉「天下布武」!!
信長が用いたスローガンで、”天下に武を布く”と読めます。
自分の書状に、この正印を押した信長・・・
これまでは、「天下を武力で我がものとする」という意味で捉えられてきました。
しかし、この天下布武・・・当時の使われ方は・・・??
天下・・・今では日本全国という意味ですが、戦国時代、日本に滞在した宣教師ルイス・フロイスは、「五畿内の領主は、天下の領主と呼ばれる」
つまり、天下とは、全国ではなく、京都周辺の地域(京・山城・摂津・和泉・河内・大和)を示しているのです。
もう一つの手がかりが、”天下静謐”という表現です。
上洛後の信長が、足利義昭への手紙で使った言葉です。
「天下」すなわち「五畿内」に将軍を置き穏やかに治めることを理想としているのです。
これらの事実から、天下布武の意味を読み解くと・・・

”武力という手段を使ってでも五畿内の平和的秩序を目指す”

というスローガンとも取れるのです。
実際に信長のやったことを見ていくと、乱れていた中央を鎮めるという意味合いが一番強い・・・
安泰を維持していく、そういう世の中を求めていたのです。

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1568年9月、35歳の時に4万の軍勢を率いて京へ!!
立ちはだかる敵を蹴散らします。
遂に、義昭と共に念願だった上洛を果たしました。
10月には、信長の軍事力を背景に、義昭が征夷大将軍に就任。
その後、信長が政権内で担当したのは、義昭が行う行政の監査、京の町の治安維持・・・
あくまで財政や守護の任命などの内政面は、義昭が担当しました。
二人は補い合う関係でした。

しかし、蜜月の時は長くは続きませんでした。
上洛からわずか2年・・・信長の怖れていたことが起こります。
越前の大名・朝倉氏の反逆をきっかけに、畿内周辺の有力大名や寺社勢力が信長に反旗を翻したのです。
これに対し、信長は戦を重ね、支配地域を拡大!!
勢いを増す信長に、義昭は不安を抱き始めます。
やがて二人の関係に亀裂が生じていきます。
将軍義昭は、信長と組んで気付いたら周りが敵対者に囲まれてしまっている!!
自分も共倒れになってしまうんではないか??
そんな中、徐々に信長とのすれ違いが生まれてきます。
これに対しの信長は、義昭のふるまいを非難した意見書を送ります。
十七箇条の意見書です。
義昭の怠慢や悪政を、十七条にまとめ、厳しい言葉で忠告しています。

・忠勤の部下を大切にせよ
・えこひいきがあってはならない
・世間から悪しき御所と陰口をたたかれている

信長としては、中央を治める将軍なんだから、しっかりしなさいということを求めていました。
義昭からすれば、不信感の上に、説教まで・・・!!と、怒りが増大してきていました。

上洛から5年後の1573年、信長40歳の時、義昭は信長に対し挙兵。
しかし、信長の圧倒的軍勢の前になすすべなく和睦するほかありませんでした。
信長は、義昭を都から追放。

「命を助けて後世の人々の評価に委ねようと、恨みを恩で返すつもりで送り届けた」

伝統的秩序の破壊者という信長のイメージ・・・
しかし、その実像は、室町幕府再興を願う武将だったのかもしれません。

将軍を京から追放し、戦を重ねて領地を広げた信長・・・
その強さを支えたのは卓越した経済力でした。
信長は、これまでにない経済政策を次々と打ち出していったパイオニアだといわれてきました。
しかし、そのほとんどは、他の武将のマネだったことがわかっています。
信長は、どうやって経済を発展させたのでしょうか??
楽市楽座とは、これまで商人たちが商売を行う際に、土地の所有者に払っていた税を廃止し、組合に入らなければ商売ができなかったものを緩和、自由な商売を認め、経済を活性化させたものです。
歴史の教科書でも信長の経済政策として取り上げられるので、革新的なイメージと相まって、信長発案の印象がありました。
しかし、近年、戦国時代の都市や政策の計画の研究が見直され・・・
楽市楽座は、信長が実施する以前からありました。
現在残る文献では、近江の戦国大名・六角義賢が1549年に楽市令を出していることが確認されています。
信長が岐阜で初めて楽市政策を始める18年も前のことです。

さらに、今川氏の楽市令・・・信長が楽市楽座を行う前年の1566年に出されています。
治安の悪化で活気が減った富士大宮の市に対して税をとらない楽市にすると書かれています。
こうした先人たちの試みである楽市楽座を信長が取り入れたのは、当時解決しなければならない課題があったからです。
流通経済の乱れ・・・特に、拠点となるところを通らずに、流通が展開してしまう・・・!!
信長としては、戦争が終わった状況でそれを再興していく必要がありました。
足利義昭を追放したのち、世の中の安泰を望む信長にとって、戦によって乱れた町と、流通経済の復興が必要だったのです。
信長は、以前からの楽市政策に、ある改良を加えて城下町の復興を活かします。

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1567年、信長が34歳の時に岐阜城下に楽市楽座令を出します。
最初の条文にこう書かれています。

”この市場に移住するものについては、国内の流通を保証し、税を免除する”

城下に移住する商人たちに限って税を免除!!
定住する人を増やして、城下が栄えることが目的としたのです。

自分の支配地域だけで、戦に必要な物資が全て集まることは、各地で戦っていた信長にとって大きなメリットでした。
そして信長は、経済力を高めるため、当時の日本随一の港・堺に目をつけます。
堺は当時、海外貿易で巨万の富を得ていました。
中国・明との貿易では、1回の航海につき2万貫(20億円)の利益が出ていたともいわれています。
当時の戦国大名の多くは、土地を獲得して年貢による収益を得るのが一般的でした。
しかし、信長は、領地拡大だけでなく、港に目をつけ、貿易での商人たちから税をとることで、収入を増やしました。
さらに貿易港・堺を押さえたことは、戦にも有利に働きます。
その効果が分かる戦いが・・・
1575年、信長42歳の時、武田勝頼の軍と対峙した長篠の戦いです。
織田軍が鉄砲を駆使し、武田軍に勝利したことで知られています。
2019年、合戦場の発掘調査で、織田軍の武器から驚くべき特徴が浮かんできました。
織田軍の鉄砲の玉・・・成分調査をすると、東南アジアの鉛の成分が出ました。
鉛は加工が簡単で、銃弾を大量生産できるため、鉄砲の玉に適した材料です。
しかし、日本ではあまり取れず、十分な量をとるのが難しい素材です。
信長は、堺の貿易ルートを使って、東南アジアから銃弾の原料となる鉛を大量輸入していました。
さらに、このルートで、国内では手に入らない硝石・・・火薬の原料も同時に手に入れていました。
硝石は、国内では取れません。
それを押さえているのは堺の港・・・信長は当然硝石の独占権を握ることとなります。
鉛の弾を輸入していた港は堺・・・堺を押さえていた信長が、圧倒的に鉛も手に入れていました。
武田は鉄砲はありましたが、火薬は作れないし鉛の玉もない・・・
鉄砲はほとんど使えませんでした。

たとえ改革の先頭を走らなくても、先人の成功を取り入れ、プラスアルファ―を加えることで、ライバルを上回る・・・それが織田信長でした。

元は尾張の大名にすぎなかった信長・・・
46歳の頃に安土に居城を移し、所領を大きく広げていました。
その躍進の原動力となったのが、身分にとらわれず重用した家臣たちです。
羽柴秀吉は低い身分から家臣となり、明智光秀は足利将軍の側近の出身、滝川一益に至っては忍者だったという逸話もあります。
一方で、結果が出なければ追放もある厳しい実力主義は、家臣たちとのゆがみを生んでいきます。

1579年、46歳の時に安土城が完成。
信長は安土城に身を置き、各方面の統治を自らの有力家臣たちに任せるようになります。
広い領国を、ひとりでは見切れないためです。
この時信長は、家臣たちに厳しい統治のルールを課します。
柴田勝家らが越前を治める際に、信長が勝頼に送った書状が信長公記に残っています。

”不法な税は取るな
 ただし事情がある場合は我々に尋ねよ
 そして裁判は公正に
 双方が納得しないようなら、我々に伺いを出して判決せよ”

そして、各地を治める家臣たちのもとに与力と呼ばれる信長直属の配下たちを監視役、目付として付けました。
信長は、部下を監視し、支配に揺るぎがない体勢を築いていこうとします。
しかし・・・お互いを離反させるような、仲良くさせないような仕掛けが多すぎて、織田か診断の中がぎすぎすしていました。
そこが、信長流人事の欠点でした。
そして、仕事ぶりがよくない家臣を罵倒!!
信長の父の時代から織田家に仕えていた尾張出身の重臣・・・佐久間信盛。
佐久間は、本願寺と戦う前線の指揮官でしが、目立った功績はあげていませんでした。
そこで信長が、佐久間信盛に送りつけた手紙には・・・

”丹波は明智が平定し、目覚ましい活躍をしている
 秀吉も数カ国で”功績をあげている
 それに引き換えお前は、5年間、感心する功績を一度もあげていない
 剃髪して高野山へ行け”

信長は、他の武将の名を上げて、佐久間を激しく批判します。
そしてこの手紙ののち、佐久間信盛は追放・・・2年後に、失意のうちに亡くなります。

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さらに、この状況に不安を抱いた人物がいました。
明智光秀です。
光秀は、佐久間が指揮していた本願寺攻めに参加。
祖の指揮官であった佐久間が追放処分になっていることが、穏やかではありませんでした。
手柄なき者は去れという露骨な人事・・・
武将達の神経を逆なでするようなことも、平気でやるのがこの頃の信長でした。

実力主義の信長軍団・・・しかし、一方でこの頃から信長は、長男・織田信忠に家督を譲り、次男・織田信雄には伊勢を与えるなど、息子たちを重用し始めます。
こうした信長の対応は、家臣たちの間にほころびを生んでいきます。
荒木村重、松永久秀といった家臣たちは、織田家の中での立場を不安視・・・
信長に対して反旗を翻しました。
そして、家臣の恐怖や不満が、形に立って現れたかのような事件が起きます。

本能寺の変です。

京の本能寺に滞在していた信長を、家臣・明智光秀が襲いました。
本能寺は炎の包まれ、信長はこの世を去りました。
1582年・・・織田信長死去、享年49歳。

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1582年6月2日、織田信長は天下統一を目前に、家臣・明智光秀の謀反によって命を落とします。
本能寺の変です。
この事件は、信長や光秀を取り巻く女たちにも影響を及ぼしました。
信長の妹・お市の方もその一人です。
戦国一の美女と謳われ、二度も政略結婚の道具となり、嫁ぎ先が二度とも滅亡・・・
その生涯はなぞに包まれています。


お市は、尾張の戦国大名・織田信秀の五女として1547年に生まれました。
代名詞は、「無双の美人」・・・
”緑鬢紅顔 楊柳の風に随ふ如く 桃花の露を 含むに似たり”とされ、つやのある黒髪を持つ、変な美人で、しなやかさと華やかさを併せ持っていたと言われています。
嫡男・信長と13歳も離れたお市の少女時代ことは、ほとんどわかっていません。

兄・信長は、美濃の斎藤家を滅ぼし、本拠地を岐阜に移して天下取りを目指そうとしていました。
西へ向かおうとする信長に立ちはだかっていたのは近江国・・・南近江は名門で名君・六角義賢が、北近江は六角家から独立した若き当主・浅井長政が治めていました。
そこで信長が選んだのは・・・
この二つの勢力と争うのではなく、浅井家と同盟を結び、六角家を滅ぼそうとするものでした。
そのために妹・お市を長政に嫁がせようとしました。

政略結婚を、女性はどう考えていたのでしょうか??
親が決めた相手と結婚する・・・それが普通の時代でした。
武将の場合は、特に政略結婚が当たり前・・・娘たちも違和感がありませんでした。
もちろんお市も受け入れますが・・・浅井家の方から猛反対が・・・!!
浅井家は織田家と敵対していた越前の朝倉家と同盟を結んでいたからです。
その中には、長政の父・久政もいました。
織田の家臣もついてくる・・・
信長としては、長政を見込んでいて、ゆくゆくは家康と同等の評価を与えようと思っていたようです。

何としても同盟を結びたい信長は、浅井家の反対の意見を抑えるべく、「朝倉家との不戦の誓い」を立てます。
もし、戦う場合には、前もって浅井家に連絡すると・・・
ようやく1568年結婚。

不安なお市を待っていたのは、穏やかで幸福な結婚生活でした。浅井長政は、知友と義侠心を併せ持つ・・・兄・信長に勝るとも劣らない武将で、純粋に夫としてお市を愛してくれました。
夫婦は仲睦まじく・・・茶々・・・初・・・を設けました。

そんな市には、兄から言いつけられた役目がありました。
①実家と嫁ぎ先との外交官
②実家のスパイ
重要な使命を帯びていました。
お市、長政の協力を得て、六角軍を打ち破り、天下にその名を轟かせることとなった信長!!


お市の悲劇①兄と夫の断絶
1570年お市を驚愕させる事件が・・・!!
突如、兄・信長が朝倉義景に「叛意あり」と、不戦の誓いを破り、3万の軍勢で朝倉領に攻め込みました。
しかも、朝井領を通るという知らせは一切ありませんでした。

それは織田家と浅井家の蜜月関係の終わりを意味していました。
浅井家に嫁いだお市の立場などはお構いなし!!
信長は、朝倉方の所領を奪い、金ヶ崎城まで・・・!!
一気に朝倉の本拠地・一乗谷城に迫ろうとしていました。

この暴挙に、長政の父・久政を筆頭に、信長憎しの声が上がり始めます。
板挟みとなったお市・・・
夫の長政は、信長との戦を避けたいと考えますが・・・抑えきれずに・・・ついに、信長からの離反を決意します。

「信長を討つ・・・!!」

金ヶ崎城を落とし、ほぼ勝ちを手中にした信長・・・
お市からの陣中見舞いが送られてきました。
それは、両端を紐で縛った小豆の袋でした。
袋の両端が縛られている・・・
既に織田軍が、前にも後にも逃げられない・・・ということを示していました。
信長にとっては寝耳に水の浅井の離反でした。
お市からの知らせで、僅か10人ほどで京都に逃れ、九死に一生を得ました。
”金ヶ崎の退き口”と呼ばれています。

このエピソードは、江戸時代の創作と思われます。
お市そのものはスパイ活動ではなく・・・お付きの者からの知らせだったのでは・・・??

しかし、互いを思いやるお市と長政に悲劇が・・・!!

政略結婚で嫁いだお市にもはやとどまる理由はありませんが・・・
家臣やお付きの者が織田に帰っていく中、浅井に残りたいと・・・実家に帰ることを固く拒みます。
普通は離縁され実家に戻されるのですが・・・
浅井家の嫁として生きようと考えていたようです。

長政の妻でありたい・・・それは、死を覚悟することでもありました。
兄・信長は、妹のお市が残ると言っても、将来を嘱望していた長政の裏切りが許せません!!
裏切りから2か月後・・・家康の協力の元、浅井領に攻め入ります。
浅井軍は朝倉軍と合流し、激しい戦いが繰り広げられました。
この姉川の戦いで、浅井・朝倉連合軍に大勝利を収めた信長は、浅井家を追いつめていきます。
信長との縁を切ったお市は、浅井家で不安な日々を送りながら、1573年三女・お江を出産。

しかし、この年ついに運命の日が・・・!!
当時、信長の周りの武将たち・・・武田信玄・朝倉義景・松永久秀・本願寺の蓮如そして浅井長政は、信長包囲網を作っていました。
ところが、その要だった武田信玄が急死したことによって、信長包囲網が瓦解!!
この機を逃さなかった信長は、浅井・朝倉討伐へと乗り出すのです。

1573年越前に攻め込み、朝倉家を滅亡させ、北近江の浅井に侵攻!!
その先頭を任されたのが羽柴秀吉でした。
秀吉は、姉川の戦いで浅井から奪い取った最前線の横山城から浅井家を徹底的に監視!!
浅井家の家臣たちを次々に調略。
浅井の勢力を突き崩していきます。


お市の悲劇②浅井家滅亡

秀吉の調略によって家臣たちに裏切られて行った浅井家は、信長の圧倒的軍事力の前に、あっという間に居城・小谷城のみになってしまいました。
浅井家、絶体絶命の危機!!

そこへやってきたのは秀吉。・・・長政に告げます。
「城を明け渡してくだされば、命だけはお助け申そう。」by秀吉
断固拒否する長政!!

「命を惜しんで信長に屈するよりも、たとえ浅井が滅びようとも武士として最後まで戦うのみ!!」

そんな中、お市は三人の娘を連れて浅井家を脱出するのですが・・・

落城を覚悟した長政はこう切り出します。

「お前と子供たちは、今すぐ信長のもとへ帰るのだ。」by長政

一緒に覚悟するというお市を説き伏せて・・・
幼い娘たちのために生き延びて、私の菩提を弔ってほしい!!
諭され、これが、長政との最後の約束となるのです。

8月28日、妻と子の命だけは助けてほしいという長政の願いが聞き入れられ、お市は三人の娘を連れて信長の陣へ・・・!!
幼い子たちのために生き延びるという約束を果たすために・・・!!

無事に織田方に渡されたのを見守って・・・長政、自刃!!
9月1日、小谷城は落城したのでした。
お市との結婚からわずか4年の事でした。
浅井家は信長によって領地をすべて没収され、嫡男・万福丸は串刺し、末子の幾丸は出家させられてしまいました。
忘れ形見は3人の娘たちでした。


織田家に戻ったお市たちは、信長の弟・信包に預けられ、伊勢・上野城で手厚く保護されました。
戦国時代、嫁ぎ先から戻ってきた女性は尼になることが多かったのですが、お市は出家しませんでした。
それは、織田信長が敢えて出家させなかったのではないか??
政略結婚の駒として使えるのではないか??
3人の子供たちと穏やかな日を過ごすお市。。。
しかし、運命は一変します。


お市の悲劇③兄・信長の死

小谷城落城から9年後の1582年6月2日、本能寺の変!!
明智光秀の謀反の謀反によって兄・信長が急死!!
最大の庇護者であった信長を失ってしまいました。
そして・・・織田家臣団に覇権争いが勃発するのです。

しかもこの時、家督を継いでいた信忠も亡くなったため、家臣団は混乱を極めます。
次の覇権を握るのは誰・・・??
家臣が集まって、清須会議が行われました。

この話し合いで、織田家の将来を決めるとともに、お市の将来を決めるのです。
最も力を持っていたのが、織田家・筆頭家老&猛将の柴田勝家。
織田家のために一途に生きてきた勝家の想いは、信長亡き後の織田家を守り抜くことでした。
そこで、三男・信孝を支持します。

頼りない次男・信勝よりも、体制が維持できると考えたのです。
これに異を唱えたのが羽柴秀吉!!

中国大返しの強行軍に、謀反人・明智光秀の天下を三日天下とし、勝家をしのぐ勢いを持っていました。
秀吉は長男・信忠の子・三法師を推挙!!
実質的な権力を自分が取ろうとします。
秀吉の用意周到な根回しによって、会議では三法師が跡継ぎと決まってしまいます。

秀吉の策略に破れてしまった勝家・・・
そのうえ、秀吉は播磨に加え、山城国などを領地とし、光秀の領地であった丹波を自分の一族に分け与えました。
かたや・・・勝家の領地は北近江の36万石のみ・・・
筆頭家老としての面目をなくしたばかりか、領地においても秀吉に大きな差をつけられてしまいました。

これに対し・・・
「お市の方を嫁にもらっていただきたい。。。」
提案してきたのは・・・??
 
勝家はお市より25歳年上で、この時61歳!!
昔からお市は勝家にとってあこがれの存在でしたが、信長の妹であり、絶世の美女であったため、高嶺の花でした。
勝家は、この提案を受け入れ、お市も受け入れます。

提案してきたのは秀吉だったという説もありますが、三男・信孝という説もあります。
信孝が、自分の勢力を強化するために、持ち掛けたというのです。
秀吉は反対しなかったんでしょうか??
三法師を跡継ぎとするためには、何かしら譲る条件としたのかもしれません。

勝家や秀吉に対してお市はどう思っていたのでしょうか??
浅井家を滅ぼした秀吉憎し・・・
秀吉は浅井家を滅ぼしたのち、お市の居城であった小谷城を自らのものとし、間もなく平地に長浜城を築きます。
小谷城は、山城で交通の便が良くないと潰してしまったのです。
秀吉はお市から思い出の場所さえも奪ってしまったのです。

そのうえ、三法師を操って織田家を牛耳ろうとしたり・・・絶対に許せない男でした。
それを見返すためには、柴田勝家に秀吉を討ってほしい!!
秀吉に一泡吹かせるためにも結婚したとも考えられます。

1582年織田家・筆頭家老の柴田勝家と結婚。
三人の娘を連れて越前国北ノ庄城へ・・・
北ノ庄城は、天守が九層もあり、信長の安土城を上回るほどの巨大な城でした。
ここで平和な新し暮らしが始まりました。

夫・勝家は優しく・・・鬼柴田の異名の強面も・・・お市を慈しみ、「城に花が咲いたようだ。」と、三人の娘も可愛がりました。
しかし・・・風雲急を告げる・・・


お市の悲劇④柴田家滅亡

勝家と秀吉の対立は激化し、戦に発展!!
1583年賤ヶ岳の戦いで敗れた勝家は、撤退を余儀なくされ、北ノ庄城へ・・・
秀吉は追撃の手をゆるめず・・・北ノ庄城は包囲されてしまいました!!

敗北を悟った勝家は、お市と娘たちを城の外へ出そうと試みます。
そんな勝家の言葉にお市は・・・
「殿の妻となりえたのが、我が運命・・・ 共に死にとうございます。」

勝家は何度も城の外に出るように諭しますが・・・
最後まで拒み、死を選んだのです。

どうして頑なに死を選んだのでしょうか??

①娘たちは大きくなり、自分が居なくても大丈夫だったから。
②実家の織田家に帰っても安泰ではなかった。
③秀吉の側室になることを嫌った。

③が大きな要因だったようです。

前の夫・長政を死に追いやり、兄・信長が盛り立てた織田家を乗っ取ろうとする秀吉に、命を救われるぐらいなら死んだほうがまし!!

「お前たちは何があっても生き抜くのです。
      浅井の血を絶やさぬために・・・!!」

三人の娘を落城寸前の城から出し・・・1583年4月23日。
お市は夫・勝家と共に命を絶つのです。

信長の妹にして無双の美女・・・お市・・・波乱に満ちた37歳の生涯・・・。
本能寺の変からわずか1年後の事でした。


”さらぬだに うちぬる程も なつの夜に
           わかれをさそふ ほととぎすかな”


武将たちの政略に巻き込まれたお市・・・
しかし、三人の娘たちはお市の想いを遂げていきます。

浅井と織田の血を引いた茶々・初・江が、柴田家滅亡のあと秀吉の庇護をうけることとなります。
長女・茶々は秀吉の側室となり秀頼を生みます。
皮肉にもお市の孫が、浅井と織田を蹂躙し、天下取りを成し遂げた秀吉の後継者となります。

次女・初は京極家に嫁ぎ、徳川の世になっても京極家は大名として生き残ります。

三女・江は、徳川家康の息子・秀忠に嫁ぎ二男・五女を設け・・・その一人が、江戸幕府三代将軍家光となるのです。
浅井長政の孫が・・・天下人となったのです。
お市の死から40年後の事でした。


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