日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:北条政子

1221年、日本の歴史を大きく変えた争いが起こりました。
承久の乱です。
相対したのは、京の朝廷と、東国武士を束ねる鎌倉幕府でした。
後鳥羽上皇が、幕府執権である北条義時追討の院宣を発したことで、その火ぶたが切って落とされました。
この時、後鳥羽上皇は治天の君・・・日本の頂点に立つ存在でした。
その後鳥羽上皇が、どうして武士に戦いを挑んだのでしょうか??
結果は、鎌倉幕府の圧勝に終わります。
その勝敗を分けたものは一体何だったのでしょうか??

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1203年、源頼朝が築いた鎌倉幕府の新たな将軍として、頼朝と北条政子との間に出来た次男・実朝が就任します。
この時、まだ12歳でした。
その若き3代将軍を支えたのが、政子の弟・北条義時でした。
北条氏は、血で血を洗う争いで幕府内での抗争を繰り返し、政敵を次々と排除。
幕府の政務を担う政所別当に加え、軍事を司る侍所別当にも就き、義時は将軍を補佐する執権として幕府No,2の地位を築きます。
当初、将軍実朝は、義時らに政務を任せていましたが、成長するにつれて自らで政を行おうと、為政者の手本を求めました。
それが、実朝の名づけ親でもある後鳥羽上皇だったのです。
わずか4歳で将軍となった後鳥羽は、19歳で長男の土御門天皇に譲位、上皇による政治・・・院政を敷き、絶大な権勢を誇っていました。

後鳥羽上皇とは・・・??
資質として歴代の天皇で最も有能な傑出した人物でした。
しかし、自信がありすぎました。
そんな後鳥羽上皇から、政を学ぼうと、実朝は上皇に近づき、蹴鞠や和歌を通じて信頼関係を築いていきます。
上皇側にも、実朝に近づきたい思いが・・・
幕府を実朝を通じて遠隔操作しようと考えていました。
後鳥羽上皇は、将軍・実朝を、自分の私的グループに引き入れたかったのです。
後鳥羽上皇は、実朝を取り込むため、自分のいとこを実朝の正室に迎えさせ、姻戚関係を結ぶなどの手を打ちます。
その思惑通り、実朝は上皇に心酔・・・

”山がさけ 海はあせなむ 世なりとも
         君にふた心 わがあらめらも”   by実朝

後鳥羽上皇は、このまま実朝を思いのままに操り、幕府とうまくやっていけるとそう考えていました。

後鳥羽上皇33歳の時・・・

”人もをし 人も恨めし あぢきなく
     世を思ふるゑに もの思う身は”

上皇の抱く不満とは・・・??

朝廷と幕府・・・不協和音
当時、諸国を統治する守護と、朝廷の公領・荘園の管理をする地頭の任命権は、幕府が握っていました。
それは、初代将軍・源頼朝が武士の世を築く根幹として強引に朝廷に認めさせた権利でした。
これが後鳥羽上皇が抱く不満の火種でした。
熊野三山を参詣する熊野詣に熱心だった後鳥羽上皇は、その費用を調達するため沿道の地域への課税を考えます。
その為には、京から熊野三山までの道が通る和泉国と紀伊国の守護が邪魔になると・・・その罷免を幕府に要求しました。
しかし、幕府はこれを拒否。
さらに、「朝廷への実入りが少なくなるから、備後の公領の地頭を罷免せよ」
地頭は、公領や荘園を管理することで、年貢の一部を管理費として得ていました。
その地頭がいなくなれば、朝廷の取り分が増えると上皇は罷免を命じたのです。
この要求に対しても、幕府は受け入れませんでした。
どうして頑なに幕府が拒んだのか・・・??
頼朝が幕府を造った時から、鎌倉殿の幕府は武士たちを守る組織でした。
それが存在意義でした。
それがゆえに、多くの武士が御家人となったのです。
守護や地頭は御家人が任命されます。
幕府は、御家人である地頭を守るために、罷免要求には従えなかったのです。
幕府成立以前には、武士が朝廷の言うことを聞かないということはあり得ませんでした。
命令に逆らい、朝廷の権威を傷つけるようになった幕府に、後鳥羽上皇は強い不満を抱くようになったのです。

「後鳥羽上皇と承久の乱」



後鳥羽上皇の幕府への不満が募る中、事件が起こります。
1219年1月27日、実朝の昇進を祝う儀式が鶴岡八幡宮で執り行われました。
ところが、そのハレの席で・・・鶴岡八幡宮を管理する別当・公暁によって、実朝が暗殺されたのです。
公暁は、実朝の甥にあたりました。
源頼朝亡き後、嫡男・頼家が2代将軍となっていましたが、北条氏が幕府幹部と対立し、将軍職を追われてしまいます。
この時、頼家の嫡男・一幡がすでに亡くなっていたので、頼家の次男・公暁と、頼家の弟・実朝。
結果、将軍となったのは、北条氏に都合のいい実朝でした。
公暁は、将軍になれなかったことを恨み、実朝を殺したと言われていますが・・・黒幕がいたという噂も・・・。
それは義時・・・??幕府の実権を握るため将軍・実朝を排除したともいわれています。
それとも後鳥羽上皇??表面上は昵懇にしていたものの、邪魔な幕府TOPを消そうとしたとも言われています。
しかし、双方とも、実朝が亡くなってのメリットはありません。
そうなると、やはり公暁の単独犯行ではないのか・・・??
幕府と朝廷をつないでいた実朝を失ったことで、両者の関係は急速に冷え込んでいきます。
後鳥羽上皇は、実朝暗殺を嘆き、警護を怠った幕府に不信感を抱くようになります。
そして、執権・北条義時に、こんな要求を突き付けました。

「亀菊に与えた所領、摂津国の荘園の地頭を罷免すべし」

亀菊とは、上皇が寵愛した女性です。
その亀菊が、自分の荘園の地頭を辞めさせてほしいとおねだりし、上皇がそれを受けて幕府に命じたのです。
どうしてこの時に・・・??
それは、踏み絵でした。
義時や政子が自分の言うことを聞くかどうかを試そうとしたのです。
対応に苦慮した義時ら幕府幹部は、協議を重ねます。
そして、義時の弟・時房が一千騎を率いて上洛します。
上皇に、幕府の返答を伝えます。

「頼朝公が、恩賞として任命された地頭を、大した罪もないのに罷免することができませぬ」

意のままにならない幕府に対して、後鳥羽上皇は反幕感情を強めて行きました。
一方、幕府は、1219年、摂家の九条家から、源氏の血をわずかにひく三寅(のちの4代将軍・藤原頼家)を招聘します。
ところが、朝廷の内裏を警護する大内守護を務めていた源頼茂が、源氏の血を引く我こそが将軍になるべきと謀反を起こします。
謀反は鎮圧されたものの、内裏の一部が消失、その修理費用捻出のために増税を行いますが、御家人や寺社などから強い抵抗を受けてしまいます。
その状況を幕府は静観・・・
もともと、将軍の後継をめぐる諍いが原因にもかかわらず、それらの抵抗を押さえない幕府に対して、後鳥羽上皇の不満はついに限界に達しました。
そして、その怒りの矛先は、幕府を束ねる執権・北条義時に向けられたのです。

決戦・・・朝廷VS.幕府
1221年6月5日、鎌倉幕府の大軍が、尾張一宮に到着します。
承久の乱合戦①美濃・尾張の戦い
敵方に後鳥羽上皇がいないことを確認した幕府軍総大将・北条泰時は、躊躇することなく上皇軍に攻めかかりました。
その攻撃に耐え切れず、上皇軍は敗走・・・

承久の乱合戦②砺波山の戦い
6月8日、北陸方面を進む幕府軍4万・・・
越中加賀の境に位置する砺波山で上皇軍と対峙します。
圧倒的な兵力差を前にして、上皇軍は相次ぎ投降・・・
ここでも敗走を余儀なくされたのです。
後がない上皇軍は、京の都に近い宇治川を最後の防衛線として決戦に挑みました。
承久の乱・・・最大の激戦の始まりです。

承久の乱合戦③宇治川の戦い
6月13日、幕府軍総大将・北条泰時は、全軍を宇治川に集中させ、防衛線突破を図ります。
しかし、上皇軍は橋を落とし、必死の抵抗を見せます。
攻めあぐね、立ち往生する幕府軍の兵たちに、上皇軍の屋の雨が降り注ぎました。
苦戦を強いられた幕府軍は、一旦兵を引きます。
6月14日、泰時は、川を渡って攻めることを指示します。
しかし、宇治川は、折からの豪雨で激流と化していました。
重い具足を身につけていた武将たちは、増水した川に次々と沈んでいきました。

「もはや・・・これまでか・・・!!」

泰時は、自ら川の中へ進もうとします。
しかし、周囲にいた武将たちに止められ、冷静さを取り戻すと・・・
近隣の家を壊して筏を作り、川を渡ることに成功します。
こうなれば、数に劣る上皇軍は敵ではありません。
その日のうちに、京になだれ込み、上皇軍を制圧します。
後鳥羽上皇は、泰時に使いを送り、執権北条義時追討の宣旨を撤回し、降伏しました。
幕府は承久の乱に勝利したのです。
後鳥羽上皇が宣旨を下してから、わずか1月での決着でした。

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どうして上皇軍は完敗を喫したのでしょうか?
敗因は、後鳥羽上皇の誤算でした。
誤算①己の権力への過信
自分が出した宣旨に逆らえるものなどいない・・・
朝廷が敵に回るとなれば、北条義時は孤立し滅びるだろうと、たかをくくっていました。
しかし、東国武士のほとんどは、北条氏につき、京周辺にも幕府に味方する者がいました。
御家人たちは、朝廷の意向よりも、幕府への恩義を選んだのです。

誤算②三浦市の篭絡の失敗
上皇は、北条氏の幕府内最大のライバル・三浦氏を味方に引き入れ、強力な援軍にしようと考えていました。
そこで、京にいた三浦一族の三浦胤義を味方につけますが・・・鎌倉にいた当主・三浦義村をどう取り込むのか??
義村の弟である胤義は、上皇にこう進言します。

「兄は恩賞を与えれば、必ずやこちらにつくでしょう」by胤義

「であれば”恩賞は思いのままに”と書いた密書を送ることにしよう」by後鳥羽上皇

しかし、幕府側が有利と見ていた義村は、その誘いに乗りませんでした。
それどころか、執権・義時に上皇からの密書を渡しました。
鎌倉で、三浦義村が蜂起してくれると信じていた上皇にとって、痛すぎる誤算でした。

後鳥羽上皇の独断専行が過ぎたこと、恩義のために幕府方につくという御家人たちの心情が読み切れなかったことで、上皇軍は完敗を喫したのです。

乱の後・・・公武逆転
後鳥羽上皇は、上皇軍敗北の報せを受けると、幕府軍の陣営に使いを送ります。
「此度の合戦は、謀臣等が申し行ふところなり」
と、責任を臣下に押しつけます。
しかし、執権・北条義時の裁断は苛烈なものでした。
上皇方に加わった公家、御家人はすべて処刑。
さらに、「西面の武士」は廃止、「北面の武士」は縮小・・・朝廷から武力を剥奪しました。
軍事力を失わせて幕府に逆らわせない・・・
7月6日、後鳥羽上皇は鳥羽離宮に移されます。
7月8日には出家・・・
そして、死罪の次に重い配流の沙汰が下されます。
後鳥羽上皇の息子たち・・・土御門上皇は土佐へ配流、順徳上皇は佐渡へ配流となりました。
さらに、幕府は上皇の孫・仲恭天皇を廃位させ、新たに御堀河天皇を擁立。
以後、幕府は皇位継承に関与し、朝廷は幕府の意向なしに天皇を決めることができなくなりました。
京からおよそ300キロ・・・日本海に浮かぶ絶海の孤島・隠岐・・・罪人用の輿に乗せられた後鳥羽上皇は、二週間ほどかけてこの島に流されてきました。
これまでとは違う粗末な屋敷で、謹慎生活を送りました。
楽しみは和歌を詠むことぐらいでした。

”我こそは 新島守よ 隠岐の海の
         荒き波風 心して吹け”

隠岐に来て19年後・・・1239年後鳥羽上皇崩御。

一方、幕府の支配は全国へと広がっていきます。
公家政権は没落し、武士による新しい世が始まったのです。
朝廷はこの後、600年以上、形式的な存在となり、長き武家政権が続くことになります。
承久の乱は、まさに日本の歴史の大きな転換点だったのです。

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「北条義時・チーム鎌倉の逆襲」



武士の都・鎌倉・・・源頼朝によって、日本初の武家政権がこの地に誕生しました。
ところが、頼朝の直系は、実朝暗殺によって三代で途絶えることになります。
この時、頼朝の妻・政子と二代執権・北条義時兄弟は、次の将軍に皇族の皇子を望みました。
しかし、朝廷はこれを受け入れず、代わりに天皇を補佐する摂政や関白を担う摂関家・九条家の男児が鎌倉に入りました。
後の、九条頼経・・・鎌倉幕府初の摂家将軍です。
幼い頼経を将軍にいただき、政子と義時は北条氏を中心地とした政治を推進・・・
将軍に仕える御家人たちのリーダーの地位を確立していきます。
義時の跡を継いだ3代執権・北条泰時の時代、北条氏の力は皇位継承にまで及びました。
幕府に敵意を持つ皇族を排除し、北条氏と縁戚関係にあった御嵯峨天皇を擁立したのです。
しかし、北条氏を思わぬ不幸が襲います。
泰時の嫡男・時氏・・・さらにその嫡男で4代執権・経時が若くして亡くなったのです。
その結果、次男ながら執権に就任したのがまだ20歳の時頼でした。

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鎌倉幕府5代執権・北条時頼・・・
時頼の執権就任には、かなりの反対がありました。
時頼の正妻の子供は名越・・・本流になるべきは名越氏だという考えがあったのです。
時頼(次男)に流れが行くことに、とくに名越一族は不満を持っていました。
名越氏ら、反時頼勢力は九条頼経をよりどころとしました。
この時、頼経はすでに将軍の座を息子・頼嗣に譲っていました。
しかし、前将軍として、北条氏に代わって幕府の実権を握ろうと野心を燃やしていました。

頼経のもとには、名越氏の他に三浦氏などの有力御家人などが結集。
彼らは時頼政権を転覆するため、謀議を重ねました。
鎌倉幕府の歴史をつづった吾妻鏡・・・
そこには当時の様子が書かれています。

1246年、時頼の執権就任からわずか2か月足らずで、鎌倉を不穏な空気が支配した

甲冑をつけた武士が町に溢れたのだ
5月24日、ついに時頼は敵対勢力を押さえ込む行動に出ました。
”宮騒動”と呼ばれる事件の勃発です。
時頼は、鎌倉中心部の構造を巧みに利用し、迅速な対応を見せました。
将軍御所への経路を封鎖し、頼経を孤立させます。
将軍御所周辺を制圧した時頼は、次の一手を打ちます。
頼朝以来、幕府に仕え、強大な軍事力を持つ三浦氏の当主・泰村を味方につけます。
時頼の周到で機敏な采配によって、クーデターは大きな流血なく収束しました。
首謀者の名越は、所領のほとんどを没収された上、流罪に処されました。
さらに時頼は、前将軍・九条頼経も鎌倉から追放し、京都に送り返しました。
幕府の中枢から敵対勢力を駆逐した時頼は、執権就任直後の危機を乗り越えました。
しかし・・・試練はまだ終わっていませんでした。

1247年3月、鎌倉を天変地異が襲います。
由比ヶ浜が、血の赤い色に染まり、その翌日には巨大な流星が音を立てて飛びました。
さらに黄色い蝶の大軍が、市中に充満し、人々は不吉・・・戦乱の予兆と噂しました。
そんな中、時頼の母方の祖父・安達景盛の怒りが爆発しました。
景盛は、宮騒動で時頼についた三浦泰村が幕府内で勢力を誇っていることにわだかまっていたのです。

御家人は、建前としてはみんな平等でした。
しかし、家柄には優劣があり・・・三浦は北条と並ぶ高い家柄でした。
これに対し、安達が不満を持つ理由は・・・
安達は、時頼の母方の実家で外戚として力を振るっていいはずでした。
しかし、家柄としては三浦の方が格上で、それが不満に思う原因でした。
実際に、三浦は幕府の人事に大きな発言権を持ち続けていました。
安達は、三浦の勢力を抑えて、自分達が時頼に近いとアピールしたかったのです。
メンツが関わっていたのです。
時頼は、非常に難しい立場にありました。

「吾妻鏡」によると・・・
時頼は戦を回避したかった・・・しかし、三浦泰村の弟・三浦光村たちは安達氏との合戦に備え、兵や武具を光村邸に集めていました。
各地から集まった三浦、安達双方の軍勢は、まさに一触即発の状況でした。

1247年6月5日未明、時頼は事態解決のため使者に文を持たせ、三浦泰村に改めて本意をときました。

”幕府は三浦氏を討伐するつもりがないことを誓う”

泰村も、これに安堵したといいます。
しかし・・・使者が泰村邸から時頼のもとへ帰りつく前に、安達勢が攻撃を仕掛けました。
世にいう”宝治合戦”の始まりです。
事態を知った時頼は、三浦氏から攻撃を受けると感じ、安達に加勢せざるを得なくなりました。
戦闘は一進一退でしたが、北条勢は泰村邸の風下から火をかけ、一気に優位に立ちました。

三浦勢は屋敷を捨て、頼朝を祀る法華堂を最後の地として選びました。
宝治合戦は、三浦泰村、光村兄弟を含む500人余りの自害という壮絶な幕切れを迎えました。
三浦氏が滅亡した場所は、現在、源頼朝の墓となっています。

”吾妻鏡”は、和平を探った時頼の意に反し、安達氏の攻撃で戦闘が始まったように記しています。
しかし・・・三浦市の背後に九条頼経がいたのでは・・・??
光村など急進派は、時頼との対決を最初から望んでいました。
光村は、前将軍・九条頼経に大変心を寄せていました。
九条家と結びついて、将軍の権力を九条家に取り戻し、それを支える存在として三浦氏がつく・・・
新しい幕府の体制を夢見ていました。
それは、北条時頼の考える幕府の形とは違っていました。
前年の宮騒動に続き、またしても政権の危機を脱した時頼・・・これ以降、時頼は幕府の安定に力を注いでいきます。

「源頼朝 死をめぐるミステリー 日本史上の大転換点」



宝治合戦で対立勢力を一掃した時頼は、幕府の改革に着手します。
御家人たちの保護を推進しました。
その最たるものが裁判制度の改革でした。
従来幕府では、表情と呼ばれた有力御家人を中心とした会議が、全ての訴訟を審議していました。
時頼はその下に、引付という審理の場を新たに設けました。
迅速かつ、公平に裁定を下す制度を整えたのです。

承久の乱などで御家人が西国に行くようになったり、移動があったこともあって、急速に増えた裁判は、評定の中ではさばききれないという状況にありました。
引付であらかじめ審理したものを表情で最終的な決定を下す・・・
それだけ裁判に関わる人物が増えたということは、評定衆という閣僚たち・・・一部の最重要人物の恣意が入る余地がなくなります。
久慈によって担当を決めたりして、公正に裁判が行われていることが、目に見える形で示されました。
御家人たちには、引付の設置は非常にありがたい精度でした。
さらに時頼は、一般庶民の訴えも、幕府が裁決する道を開きました。
これによって、御家人たちだけでなく、広く民の信頼を獲得していきます。

しかし、そんな時頼の足元を揺るがす事件が起こります。
1251年12月・・・
宮騒動で反時頼勢力に加担した残党による謀反計画が発覚しました。
またしても、前将軍・九条頼経の策略でした。
謀反は未然に阻止され、捕らえられた者は死罪や流罪の厳罰に処せられました。

しかし、依然として頼経の息子・九条頼嗣は将軍として鎌倉にいました。
頼嗣が鎌倉にいる限り、また、騒動が起こりかねないことを、時頼は憂慮しました。
この先、どのように幕府を運営していくべきか・・・??

自分が将軍になるべきか??
九条家より上の親王を将軍に迎えるべきか??

鎌倉幕府を盤石にするため、時頼は重大な選択を迫られました。

1252年2月、時頼は、自ら筆をとった書状を使者に持たせ、京都の朝廷に向かわせました。

”将軍・頼嗣を解任し、御嵯峨上皇の皇子を新たな将軍として下向させていただきたい”
 
時頼は、親王を将軍に迎えることを望んだのです。

朝廷は、時頼の申し出を受け入れ、御嵯峨上皇の皇子・宗尊親王の下向を決めました。
親王を将軍にいただくことで、幕府の権威は高まり、執権である北条氏の権力もゆるぎないものとなりました。
時頼は次々と法令を発し、政策の充実を図りました。
なかでも注目されるのは、撫民と呼ばれる政策でした。
民の頭を撫でるように慈しんで社会全体の安定を目指す政策です。
それは、祖父・泰時が制定した御成敗式目に追加される形で発令されました。

例えば窃盗犯について・・・
窃盗犯の親類妻子などを処罰してはならない
これに背くのは、撫民の法を否定する、ものである

農民の田畑を取り上げて追い出したり、財産を奪ったりする者があるという
ひたすら撫民の計らいに務め、農業を推進するよう

武士は、元々職業戦士・・・この時頼の時代の制作によって、はじめて武士は行政官・統治者としての自覚を強めるようになりました。
それによって、これから室町幕府、江戸幕府と続く、武家政権の基本的な立場が、時頼の時に形作られました。
親王将軍を迎え、執権としての指導力を発揮できる体制になったのです。
そこで、改めて撫民の法を宣言して幕府の再出発を考えていたのです。

1253年、日本初の本格的な禅宗寺院・建長寺の落慶法要が執り行われました。
鎌倉五山第1位の名刹・建長寺・・・
この巨大な寺院は、禅宗に深く帰依した時頼の発願で建立されました。
本尊は、全ての命あるものを救済するという地蔵菩薩が祀られています。
建立の2年後に鋳造された重さ2.7tもの重厚な梵鐘・・・
そこには、時頼の名が残され、信仰心の厚さを今に伝えています。

あじさい寺として名高い北鎌倉の明月院・・・
晩年、この地に最明寺を建立した時頼は、ここで静かに息を引き取ったといいます。
37歳の若さでした。
20歳で思いがけず執権となり、北条氏の為、幕府の為、激務に忙殺された短い生涯でした。

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鎌倉殿・源実朝暗殺!!それは歴史をどう動かしたのでしょうか?



鎌倉幕府三代将軍・源実朝・・・その治世は、初めから血にまみれたものでした。
1203年、二代鎌倉殿・源頼家、危篤に陥る・・・
後継者に指名されたのは、頼家の子・一幡。
母親は、頼家の後見役を務める有力御家人・比企能員の娘です。
比企氏の思いのままの時代が来ようとしていました。
この時動いたのは、実朝の祖父で貢献を務める北条時政でした。
時政は、比企能員を呼び出して謀殺!!
さらに、御家人たちを動かして、比企の館を攻め、一族を皆殺しにしました。
脱出した一幡も、探させて殺しました。
いわゆる比企の乱です。

1203年9月、クーデターを成功させた時政は、自らの屋敷で実朝に鎌倉殿を継承させました。
この時、実朝は12歳。
政治の実権は時政が掌握し、御家人たちの命令書には時政一人が署名しました。
その後、時政は病から奇跡的に回復した頼家を、伊豆・修善寺に追放。
翌年には、刺客を送って殺させています。
その殺害の手口がひもで首を絞めることだったことは、都にまで伝わりました。
頼家殺害の翌年・・・1205年、時政は更なる暴挙を企てます。
鎌倉幕府が編纂した歴史書「吾妻鏡」には・・・

”将軍・実朝を廃し平賀朝雅を将軍に擁立する”

実の孫を将軍から引きずりおろし、妻が寵愛する娘婿をその座につかせようとしました(牧氏事件)。
この企てに断固として反対したのが、実朝の母・北条政子と叔父の義時でした。
政子の命を受けた御家人たちは、時政の屋敷を襲撃し、実朝の身柄を確保・・・義時の屋敷に移しました。
実朝を奪われ、御家人たちの支持も失った時政は出家し、伊豆に隠遁しました。

ようやく平穏を取り戻した鎌倉・・・
とはいえ、実朝はいまだ14歳。
政治の実権は政子と義時の手中にありました。
そんな中で、実朝が始めたことがあります。
和歌の修行でした。
和歌を始めたのは、ある人物との関係からでした。
その人物とは、朝廷の最高権力者・後鳥羽上皇です。
上皇は、宮廷文化に秀で、勅撰和歌集「新古今和歌集」を完成させた歌道の達人です。
実朝が元服する際には名づけ親となり、自分のいとこに当たる女性を実朝の御台所に選び、鎌倉に下向させました。
御台所から都での上皇を中心とした和歌の盛り上がりを聞いた実朝は、新古今和歌集を取り寄せ、和歌を修行に励みました。



当時の国家は、朝廷と幕府・・・朝廷があくまで上でした。
朝廷とうまくつながるツールとして、和歌や蹴鞠をトップの鎌倉殿が重視するというのは、幕府を率いて朝廷と渡り合う公の存在・・・それが将軍なんだと自覚しつつ成長していたのです。

1209年、18歳となり、朝廷から従三位の位を与えられた実朝は、自ら政治を行う将軍家政所を開設します。
新たな政策を打ち出していきます。
各地の土地の面積や所有関係を記した太田文を作成・・・土地からあがる収益を把握し、御家人支配の基礎を固めます。
東海道に新たに宿場をもうけ、都と鎌倉をつなぐ交通の大動脈の安全と利便性を高めます。
都で、内裏や上皇御所の警護などに当たる大番役を御家人たちが確実に務めるよう罰則を設けます。
幕府が御家人たちを束ねて朝廷を守り、全国の治安維持に当たる!!
実朝は、朝廷と幕府が力を併せて国を治める新たな統治の形を目指したのです。

やがて実朝は、最大の実力者・北条義時にも自分の意見をはっきりと主張するようになっていきます。
吾妻鏡は、義時と実朝のある日のやり取りを記録しています。

「私の年来の家来のうち、功労のあった者を御家人に準ずる身分として扱うよう鎌倉殿に命じてもらえないでしょうか?」

特別扱いを要求する義時に、実朝はこう応じました。

「そんなことをしては、幕府内の身分秩序が乱れてしまう
 何度言われても、今後も許す気はない」

実朝は、鎌倉殿として、着実に独り立ちしつつありました。

1213年、実朝が将軍となって10年・・・鎌倉に激震が走ります。
北条義時に不満を持つ御家人たちが、前将軍・頼家の遺児を擁立して義時を討とうとする謀反の計画が発覚したのです。
謀反を企んだものの中には、北条氏と並ぶ有力御家人・和田義盛の一族が名を連ねていました。
義盛は、軍事を取り仕切る侍所の長官。
頼朝と同年代で武勇に優れ、実朝の信頼も厚かったのです。
義盛は、実朝に一族の赦免を願い出ます。
実朝は、義盛のこれまでの功績に免じて義盛の息子2人の罪を許します。
しかし、義時は、謀反の首謀者である甥の胤長の赦免を拒否!!
そればかりか、胤長を縄で縛り上げ、嘆願に来た和田一族の前を引き回し、義盛を辱めました。
実朝は、なんとか両者の間を取りなそうと義盛に使者を送ります。
しかし、もはや手遅れでした。

「鎌倉殿には恨みはございませんが、義時の傍若無人に一族の若者は暴発しようとしています
 もはや、抑えることはできません」

義盛は兵を挙げ、義時の館と将軍御所へ攻めかかります。
和田合戦の勃発です。
中心になっているのは、北条義時と侍所別当・和田義盛の戦いです。
しかし、比企氏の残党、三浦氏、千葉氏、いろんな御家人たちも加わっていて、かなり大規模な鎌倉市内で起こった合戦となりました。

義盛の作戦は・・・??
まず、御所の東西南北の門を押さえたうえで、主力部隊が南門から攻め込み、実朝の身柄を押さえ、将軍を和田方で確保することで自分達の正当性を他の御家人たちにアピールする作戦でした。
この作戦で、義盛が最も注視していた場所は・・・北門!!
北門は、一門の三浦義村に託しており、実朝が北門から逃げることがあれば身柄を確保してほしいと、頼んでいました。
義盛は、いとこでもある有力御家人・三浦義村に起請文まで出させて北門の封鎖を任せました。
ところが・・・ここに最大の誤算がありました。
なんと、その義村が、北条義時と内通していたのです。
義村は、義時に和田側の作戦を通報した上で、実朝を脱出させたうえ、身柄を北条方に渡してしまいます。
義盛のシナリオは、完全に崩れました。
しかし、巻き返しの可能性は残されていました。
戦いが2日目に入ると、近郊各地の御家人の軍勢が続々と集まってきたのです。
彼らがどちらにつくかで戦況が大きく変わります。
勝敗を決したのは、御所の真北にある頼朝の墓所・法華堂に避難していた実朝の行動でした。
実朝は、鎌倉に到着した御家人たちに北条方に立って参戦するように命令書を送ります。
戦いは、北条方の圧勝に終わりました。
和田方は、義盛以下主だった武将がことごとく討ち死に・・・晒された首は、234に及びました。

しかし、事件はそれで終わりませんでした。
戦の終結から20日後、鎌倉に驚くべき報告が届きます。
都では和田の残党が京を襲うという流言飛語が飛び交っている・・・
後鳥羽上皇は、御所警護の武士が鎌倉に帰るのを急遽差し止め、不測の事態に備えさせました。
御家人の分裂と反乱を阻止できなかった実朝の手腕に、上皇の信頼が大きく揺らいだのです。
時を同じくして、更なる試練が・・・!!
1213年5月21日、鎌倉を大地震が襲います。
家々は倒れ、山は崩れ、地は避けました。
天才は、為政者の不徳を天が責めると考えられていた時代・・・
将軍失格の烙印を押されたと感じた実朝は、一首の和歌を上皇に送ります。

”山は裂け 海は浅せなむ 世なりとも
       君にふた心 わがあらめやも”

山が裂け、海が干上がるような世であっても、決して上皇様に背く心はありません。
実朝の悲痛な弁明でした。
どうしたら、鎌倉を安定させ、上皇を信頼を取り戻せるのか??
たどり着いた答えは、善政でした。



1216年、実朝は、御家人の陳情を直接聴取
再び和田合戦の悲劇が起こらないように、不満が大きくならないうちに解消するように努めます。
朝廷に対しても手を打ちます。
実朝が下した幕府の命令書・・・責任者として記名する別当が、5人から9人に増員されています。
新たに加わった源仲章・源頼茂・大内維信の3人は、都で後鳥羽上皇に仕える側近でした。
実朝は、彼らの名を命令書に加えることで、朝廷の権威が幕府政治に反映されていると示したのです。

実朝の思いは、上皇にも確実に届いていました。
和田合戦から3年後、実朝は権中納言に、2月後には左中将になっています。
上皇は、実朝への信頼回復を、官職の上昇という形で示したのです。

1216年11月、新たな大事業に乗り出します。
唐船の建造です。
最先端の造船技術を持つ中国の技術者に命じて、外洋航海にたえる頑丈な船を作ろうというのです。
鎌倉では誰も見たことのない船を作ることは、人も、資金もたくさんかかります。
執権の義時と、文官の大江広元は反対しましたが、実朝は強行します。
鎌倉の海の玄関口・由比ヶ浜に、唐船はあらわになっていきました。

1217年4月・・・由比ヶ浜に巨大な唐船が姿を現しました。
鎌倉殿・実朝の権力は、わずか5か月で唐船建造を実現しました。
しかし、完成した船が海に浮かぶことはありませんでした。
由比ヶ浜の地形が、遠浅であることを計算に入れていなかったのです。
数百人の人夫にひかせても、船を進水させることはできませんでした。
唐船は、砂浜でむなしく朽ち果てて行きました。

反対を押し切って行った計画の失敗・・・
ようやく取り戻した御家人たちの信頼を失いかねない・・・!!
一体どうすればいいのか??
そこで浮かんできたのは、後継者問題の解決でした。
実朝はこの時26歳、都から御台所を迎えて13年経っても、子供には恵まれませんでした。
跡継ぎ不在のまま権威が失墜すれば、謀反を起こされる可能性が・・・??
ここで後継者を決めることは、幕府を安定させ、御家人の信頼回復の切り札となる・・・!!
では、誰を後継者にすべきだろうか・・・??

従来通り頼朝の血をひく公暁がいいのか??
血筋では源氏の中の源氏!!
政子も公暁への支援を行っていました。
頼家暗殺の2年後、政子は公暁を実朝の子供として扱うことを決定。
1217年10月、公暁は鶴岡八幡別当に就任させています。

御家人の誰もが納得する選択でした。
しかし、そこには大きな壁がありました。
北条義時!!
公暁の父・頼家とその子・一幡を手にかけたのは北条氏!!
自らの地位を危うくする公暁の鎌倉殿には猛反対するだろう。
反乱すら起こしかねない・・・!!

それとも都から候補者を下向させてもらう??
後鳥羽上皇の皇子??
果たして誰を後継者にすれば鎌倉を安定させることができるのでしょうか??



1218年、鎌倉から都に向かう行列がありました。
実朝の母・北条政子です。
表向きの目的は、熊野三山への参詣。
しかし、政子には脳ひとつの使命が・・・!!
後鳥羽上皇の妻・卿二位との会見です。

「院の宮の中で然るべきものを鎌倉に下向させ将軍とする」

実朝の選択は、後鳥羽上皇の息子を将軍として迎えることでした。
この案は、上皇にとっても歓迎すべきものでした。
朝廷の最高権力者と言っても、自前の軍事力間は持っていません。
息子を鎌倉殿として送り込み、信頼する実朝が後見・・・
強大な武力を持つ幕府が思いのままに・・・!!
上皇の承諾の証と言えるのが、実朝の官位の上昇です。
実朝は、左近衛大将→内大臣→右大臣・・・に昇進しています。

武家には想像できない地位には、上皇の実朝に我が子の後見人に相応しい官位を与えるという思いが込められていました。
しかし、この決定に心をざわつかせる人がいました。
頼家の遺児・公暁です。

吾妻鏡によれば、鶴岡八幡宮別当に就任したその日から、公暁はすべての仕事を投げ出し、千日に及ぶ祈祷を開始していました。
一説には、将軍・実朝を呪い殺し、とってかわる腹つもりでした。
しかし、上皇の皇子が鎌倉殿となった後ではその可能性は無くなる・・・!!
公暁は決断します。
1219年1月27日、鎌倉・鶴岡八幡宮・・・
実朝の右大臣就任を寿ぐ式典が行われました。
実朝が神仏への拝礼を終え、公家たちが立ち並ぶ中を会釈して通り過ぎようとしたこの時・・・!!
医師団に身を隠していた公暁が「親の仇はかく討つぞ!!」と叫びながら、実朝の首を打ち落としました。
享年28・・・あまりにも突然の死でした。

公暁は実朝の首を手に、三浦義村の元に走ったものの、義村の手の者に殺害されたのです。
鎌倉は、将軍不在の異常事態となりました。
このままでは幕府の存続が危うくなる・・・!!
北条政子と執権義時は、皇子を鎌倉に下向させてくれるように使者を送ります。
しかし、実朝を死なせた鎌倉幕府に対する上皇の信頼は失われていました。
上皇は皇子の下向を拒絶!!
これを機に、関係は悪化していきます。

1221年、両者はついに激突しました。承久の乱です。
実朝が目指した幕府と朝廷の融和は、ここに潰えたのです。

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鎌倉で長い歴史を誇る鶴岡八幡宮・・・この境内に、雄々しく凛と立つ黒塗りの社があります。
白旗神社・・・祀られているのは、鎌倉で日本初の武家政権・鎌倉幕府を開いた源頼朝です。

流人から武士の頂点・征夷大将軍に前上り詰めた源頼朝。
そこにどうやって至ったのでしょうか??

弟・義経を討て ~源 頼朝・武家政権確立への決断~



①1159年 平治の乱
1147年、頼朝は源氏を束ねる武家の棟梁・源義朝の子として京の都に生れました。
三男でしたが、頼朝は嫡男として育てられます。
それは、母親の家が名門貴族・藤原氏の血を引き熱田神宮の宮司を務めていたことで、2人の兄の母より家柄や地位が上だったからです。
血筋に恵まれたこと、そして父・義朝が院政を敷いていた後白河上皇の近臣・藤原信頼の信頼を得ていたこともあり、頼朝はわずか12歳で上皇の姉・上西門院統子に仕えることになります。
その翌年・・・1159年蔵人に就任・・・すべての事務・行事に関する官職で、出世の登竜門でした。
そして同じ年13歳で・・・頼朝は武士として初陣を飾ります。

それが平時の乱です。
父・義朝が、朝廷の実権を握ろうとしていた藤原信頼と共に起こした内乱です。
武家のライバル平清盛が熊野詣で京の都を留守にしていた隙に、後白河上皇の屋敷を襲撃。
上皇とその息子である二条天皇を幽閉したのです。
このクーデターにより、父・義朝は受領最高峰の播磨守に、初陣を飾った頼朝は右兵衛権佐となりました。
これは、源氏にとって大きな意味のあることでした。
右兵衛権助は、朝廷の有力者の子弟が任命される地位で、四位以上のものが任じられることが多かったのです。
当時まだ従五位以下であった頼朝が任じられたことは、源氏の家柄が非常に上昇したことを物語っています。
父・義朝たちの目論見は、うまくいったはずでした。
ところが・・・クーデターを知った平清盛が、急遽、京の都に戻ってきたのです。
清盛の挙兵によって、後白河上皇と二条天皇が脱出、これによって義朝たちは一転賊軍となりました。
そして、清盛の武力の前に惨敗・・・
父・義朝は、敗走中に命を落とします。
父とはぐれた頼朝にも命の危険が迫っていました。
平家方に捕らえられてしまったのです。
戦で負けた武士は、たとえ年が若くても元服していれば処刑されるのが当時の決まりでした。
頼朝も、その例にもれず処刑されるはずでしたが・・・

平時物語には、池禅尼が助命嘆願をしたと書かれています。
敵である頼朝を本当に助けたのか??
元服して戦に臨んだ敗軍の武士が処刑されることを武士の妻・池禅尼が理解できないはずはありません。
亡くなった息子に似ているからという理由で助命嘆願していないのでは??
池禅尼が頼朝の助命嘆願をしたのは、ある人に圧力をかけられてのことでした。
その人物は・・・上西門院統子と後白河上皇でした。
頼朝の母の一族に助命嘆願された2人が圧力をかけたのです。
母の家柄の良さが、頼朝を救ったのです。

1160年3月11日、頼朝は今日に都を追われ、伊東に流されます。
その身は、平家の有力武将・伊東祐親の監視下に置かれるも、ある程度の自由はありました。
そんな流人生活が従数年続いた頃・・・
頼朝は伊東祐親が上洛している間に、こともあろうにその娘・八重姫と恋仲になり、男の子・千鶴丸をもうけてしまったのです。
これを知った祐親は激怒、娘と頼朝を引き離しただけでは足りず、千鶴丸を殺害してしまったのです。
その後、頼朝の暗殺まで計画、頼朝に再び危険が迫ります。

この危機に救いの手を差し伸べたのが、祐親の次男・伊東祐清でした。
その祐清の手引きにより、伊東から脱出。
蛭ヶ小島に移るとこの地の役人だった北条時政の保護を受けることに・・・。
その後、31歳になった頼朝は、時政の娘・政子と結婚。
娘・大姫を授かります。
流人でありながら穏やかな暮らしを手に入れたのです。
そんな中でも胸の奥には武士としてのたぎる思いがありました。
しかし、平家にあらずんば人にあらずと言われるほど、清盛を中心とする平家の勢いは増すばかり。
頼朝は、挙兵の機会を伺えないまま伊豆に流されて20年を過ごすのです。
流人である頼朝には武力も何もなく、周囲も頼朝が平家を攻撃するとは思っていませんでした。
平家との立場の違いに、頼朝は敵討ちをほとんど諦めていました。

「源頼朝 死をめぐるミステリー 日本史上の大転換点」



②1180年 源頼朝挙兵
流された伊豆の地で、頼朝は父の仇である平家を討つと誓いながらも20年・・・
勢力を増す平家を前に挙兵できずにいました。
そんな中、1180年4月、平家の権勢を良しとしない後白河法皇の皇子・以仁王が挙兵に動きます。
全国の武士に、平家を倒すためともに立ち上がってほしいと呼びかけたのです。
それは、伊豆にいる頼朝のもとにも届けられました。

遂に、平家に一矢報いるチャンスが来たはずでした。
しかし、以仁王の乱は、自然に平家の知る処となり、2か月ほどで鎮圧されてしまいます。
以仁王が殺された後、平家がどう出るのか??頼朝には予想がつかなかったのです。
同時に、清盛の圧政に対して平家への不満が高まりつつありました。
平家の今後の出方と反平家の武士たちの動向を見極め、頼朝はどう動くか、慎重に考えました。
頼朝は伊豆周辺の状況を見ながら、虎視眈々と挙兵のための味方集めをしていきます。
以仁王の乱ののち、それまで源氏の一族が治めていた伊豆国の知行国司の座に平時忠が就任します。
平家による支配が色濃くなったことで、北条氏を含む伊豆の武士たちは反発!!
頼朝はそんな彼等を味方に取り込んでいきました。
さらに・・・相模、上総・・・平家が知行するようになり、後白河法皇の知行国の武士たちは、圧力を受けるようになっていました。
頼朝は、そうした平家の圧力に不満を抱く相模、上総の武士たちにも目をつけます。
すぐさま、相模に腹心を派遣し、味方に引き入れることに成功しました。

1180年8月17日・・・頼朝は平家打倒ののろしを上げます。
しかし、8月23日、相模国の石橋山で、平家方の武将・大庭景親の軍と激突するも圧倒的兵力差により惨敗を喫してしまうのです。
そこで、頼朝は更なる味方を・・・

「平家によって幽閉されている院(後白河法皇)を共に救おう」

後白河法皇のためという大義名分が功を奏したのか、上総、下総の有力武将たちが頼朝の味方に。
不満を持っていた関東の武士が続々と味方となり、平家方の武将を倒していきました。
すると、その形勢に平家方の武将の中にも頼朝に下るものが現れます。
こうして頼朝は、流人ながらも強大な力を持つ軍団を築き上げることに成功します。
そしてその大軍を率いて源氏ゆかりの地・鎌倉に入り、本拠地とします。
石橋山での敗戦からわずか1月半後のことでした。
頼朝は、息つく暇もなく京の都から送り込まれてくる平家の大軍を迎え討つべく出陣!!
黄瀬川沿いに布陣し、富士川の近くに陣を構えた平家軍と対峙します。
富士川の合戦です。
両軍勢に走る緊張・・・!!
ところが意外な結末を見せます。
10月20日未明・・・一斉に飛び立った水鳥の羽音を、源氏軍の奇襲と勘違いした平家軍が慌てふためいて逃げて行ったのです。
戦わずして勝利した頼朝は、これによって実質的に関東を支配することになりました。
そして、この合戦後、運命的な出会いを果たします。

腹違いの弟・義経との出会いです。
平時の乱の混乱のさ中に生れた義経は、幼いころに京の鞍馬寺に預けられるも、打倒平家を胸に京の都を脱出!!
奥州・平泉を拠点とする藤原秀衡の庇護を受け、武士として立派に成長を遂げていました。
そして・・・義経は、兄の挙兵を知り訪ねてきました。
2人は涙しながら語り合ったといいます。
こうして、頼朝と義経は、力を合わせて平家打倒に邁進することになります。

頼朝は如何にして寄せ集め軍団をまとめ上げたのでしょうか?
頼朝は、新恩給与という仕組みを作りました。
敵・・・平家方がもっていた所領を恩賞として手柄を上げた者たちに与えることです。
頼朝は、平家という共通の敵を作り、勝ったら平家の所領を与えることにしたのです。
頼朝は、新恩給与を朝廷にも認めさせ、後の地頭という制度につなげていきました。
頼朝に従っていた武士たちは、やがて御家人と呼ばれるようになっていきます。
御恩と奉公・・・という関係が生まれ、これが鎌倉幕府を支える制度として発展していきます。

関東の武士たちを味方につけ、富士川の合戦で平家軍に勝利した頼朝は、鎌倉を拠点に実質的に関東を支配することになりました。
しかし、頼朝は平治の乱で平家に敗れて以来、いまだ朝廷に弓を引いた謀反人のままでした。
そこで、上洛してなんとか後白河法皇に近づき、謀反人の立場を解いてもらおうと考えていました。
その頼朝の策が・・・
平家打倒と幽閉されている後白河法皇の救援を建前として上洛するというのです。
ところが、そんな頼朝のもとに衝撃的な知らせが・・・!!

時代劇法廷 被告人は源頼朝



③1181年 平清盛死去
1181年2月4日、平家を率い、強大な権力を有していた平清盛が熱病にかかり急死したのです。
清盛の死により、頼朝の策が破たんします。
大黒柱を失った平家が政権を返上したことで、後白河法皇の院生が復活!!
頼朝が上洛する理由が無くなってしまったのです。
そこで頼朝は、驚くべき策を講じます。
源氏と平家の和平です。
頼朝は、後白河法皇に書状を送り、こう申し入れました。

❶院への敵意はない
❷これまでの行動は院の九円が目的
❸員が平家の滅亡を望まない場合は、朝廷の支配のもとで源氏が東国、平家が西国の治安維持を担当する

後白河法皇は、この頼朝の和平案に興味を示しますが、平家は猛反発します。
無き清盛の遺言があったからです。

「必ずや我が墓前に頼朝の首を供えよ」

結局和平は結ばれませんでした。
しかし、これはすべて頼朝の思惑通りでした。
頼朝も、平家と和睦できるとは思っていませんでした。
頼朝は、和平案を出すことで、自分はやみくもに戦争しようとしているわけではない・・・と、後白河法皇の信頼を得ようとしたのです。
実際法皇は、和平を突っぱねた平家に不信感を抱き、頼朝に近づいて行きました。
こうして上洛への道筋を作った頼朝・・・
その最終的な狙いは、謀反人の汚名をそそぎ、朝廷を守る唯一の官軍になること!!
そこに思わぬ横やりが入ります。

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④1183年 木曽義仲上洛
平家打倒と後白河法皇の救援を建前に挙兵し、賊軍の汚名を雪ごうと上洛を画策していた頼朝でしたが・・・同じ源氏の棟梁で従兄弟の木曽義仲が先に上洛。
平家を都落ちさせてしまいました。
さらに、義仲は後白河法皇と面会。
平家を追悼する宣旨を受けます。
一説には、この時義仲は、頼朝を謀反人のまま据え置くように働きかけたといいます。
こうして、後白河法皇の信任を得た義仲が、頼朝より先に官軍として平家追討軍を率いることに・・・
頼朝は、上洛の機会を逸してしまいました。
ところが・・・義仲軍の兵士が京の都で乱暴狼藉を働いたことで、後すら変わ法皇が激怒。
これを知った頼朝は、すぐに後白河法皇に使者を送り、いかに自分が法皇のために力をつくしているかをアピールします。
その苦労が実ったのか、1183年10月9日、頼朝は朝廷から謀反人の立場を解かれ、従五位下に任じられるのです。
14歳で伊豆に流されてから23年、ようやく少年時代の官位にまで返り咲きました。
そして、この5日後、頼朝は次のことを朝廷に認めさせます。

❶東国にある荘園の年貢や税は頼朝が徴収して朝廷や荘園領主に納める
❷これに違反する者がいれば、朝廷は追討を命じることができる

これにより、名実ともに関東の支配権を得た頼朝・・・
京の都では、後白河法皇や朝廷からの信頼を失った義仲追討の為、頼朝の上洛を期待する声が高まります。
その声に応え、頼朝が京に派遣したのが、弟の義経でした。
1184年1月、義経は宇治川の合戦で義仲軍と激突、見事義仲を討ち取りました。
これで、源氏内でのライバルはいなくなり、頼朝が平家追討の旗頭となったのです。

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⑤1185年 平家滅亡
頼朝は、平家追討の為、弟・義経を西国に派遣します。
兄の期待に応えるように、義経は一の谷の合戦や屋島の合戦で奮戦し、平家を追い詰めていきます。
そして・・・壇ノ浦の合戦で平家軍に勝利。
頼朝の挙兵から、およそ4年半・・・遂に源氏が平家を滅ぼしたのです。
この時、頼朝は鎌倉にいました。
滅亡の報せを聞いたのは、父・義朝の菩提を弔う寺院建立に関する儀式の際でした。
頼朝は、感慨のあまり・・・鶴岡八幡宮に向かって座り込も、ただただ黙っていたといいます。

平家を滅亡させた功労者となった義経・・・
父も兄も失くしていた頼朝にとって、血のつながった身内である義経の存在は心から信頼できる唯一の味方と言えました。
そんな義経を頼朝は子として迎え入れ、後継者にしようとしたほどでした。
ところが・・・頼朝は次第に義経と対立を深めていきます。

吾妻鏡によると・・・1184年8月6日、義経は法皇から左衛門少尉に任ぜられ、検非違使の職を宣下されます。
義経は、源氏の権威が上がったと・・・兄・頼朝も喜んでくれるとそう思いました。
しかし・・・平家追討に対する恩賞を誰が与えるか自分が決めると朝廷に申し出ていた頼朝は、自分の許可なく官位をもらった義経に激怒。
これが、頼朝と義経の対立の原因だったと書かれているのです。

しかし、吾妻鏡は事実とはいいがたい・・・??
頼朝は、義経が検非違使に任じられ、後白河法皇に接近したことが問題だと言いながら、その後も後白河法皇との取次などを任せていました。
頼朝は、義経を検非違使に推挙していた可能性もあるのです。

2人が対立した本当の理由とは・・・??

⑥1189年 源義経追討
血を分けた兄弟である頼朝と義経・・・
2人はともに平家打倒の宿願を果たしましたが、その後、激しく対立します。
頼朝は実の弟である義経を死に追い込んでいくことになるのです。
どうして頼朝は、義経を追討することになったのでしょうか?

通説では、頼朝は自身の許可を得ずに検非違使に就任したことに激怒。
これが対立の原因だったと言われてきました。
しかし・・・検非違使就任は頼朝も了承していた・・・
義経の検非違使留任が問題だったのです。

対立の理由
❶検非違使留任問題
頼朝は、平家追討の勲功として義経に伊予守の官職を与えるよう推挙していました。
京の都の治安を守る役職である「検非違使」は、ずっと京に留まる必要がありました。
伊予守などの受領は、必ずしも現地に行く必要がありませんでした。
つまり、頼朝は、義経を伊予守に就任させ、鎌倉に呼び戻し、自分の近くに置いておこうと考えていたのです。
ところが・・・義経は、伊予守の職をもらった後も、通常ならば辞任しなければならない検非違使に留任し、京の都に居続けました。
これに頼朝は腹を立て、2人の間に決定的な亀裂が生じたのだといいます。
頼朝は、自分の軍が朝廷を守る唯一の官軍になることを目指していました。
ところが、義経は検非違使に留まることで京都にそのまま拠点を置き、後白河法皇の直属軍となる可能性がありました。
そうなると、頼朝は唯一の官軍ではなくなってしまう・・・!!
義経の検非違使留任問題が、頼朝軍を唯一の官軍にする大きな妨げとなったのです。

❷後継者問題
弟・義経との初対面から2年・・・頼朝は、待望の嫡男・頼家に恵まれます。
我が子を跡継ぎにしたい頼朝は、弟・義経の存在を疎ましく思うようになっていきます。
義経が源氏の後継者となり、頼家が退けられることを頼朝は恐れていました。
源氏が二つに分裂し、頼朝が築いた権力が消滅する危険性もあったのです。

我が子・頼家を後継者にする弊害となり、源氏内の派閥闘争の火種となる義経を排除したかったのです。

こうして、頼朝と義経の関係は、急速に悪化、義経は挙兵の意思を後白河法皇に伝えたといいます。
一方、頼朝は、御家人たちに呼びかけ、義経との全面対決を決意するのです。
京の都での評価が、頼朝を上回っていた義経は、すぐに兵を集められると考えていたようです。
しかし、実際は、特に恨みのない頼朝を倒すために兵はあげられないと・・・味方に付くものはほとんどいませんでした。
義経は挙兵に失敗し、都から落ち延びていきます。
向かった先は、奥州・平泉でした。

1187年、義経は、藤原秀衡を頼って奥州・平泉に到着。
一方、頼朝は、義経追討の宣旨を朝廷から受けていました。
しかし、秀衡の強大な軍事力を前に、頼朝は手を出せずにいたのです。
ところが・・・その年の10月、秀衡が病で亡くなります。
頼朝は、義経追討に動きます。
秀衡の後継者である泰衡に圧力をかけ、義経と奥州藤原氏の分裂を画策。
泰衡は、家を守るため、義経を襲撃することに・・・
追い詰められた義経は・・・1189年4月30日、自害。
その後、頼朝は平泉・・・奥州藤原氏を滅ぼすのです。
これで敵対する勢力は消滅・・・頼朝はついに武家の頂点に立ったのです。

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⑦1192年 頼朝将軍就任
弟である源義経、奥州藤原氏を滅ぼし、後顧の憂いを断った源頼朝は、1190年11月7日、1000騎の兵を従え、堂々とした姿で京に戻ってきました。
14歳で伊豆に流されて以来、30年ぶりの都でした。
この時頼朝は、武官の最高職・右近衛大将に任じられ、名実ともに武士の最高峰に上りつめます。
しかし、わずか9に後に辞任し、鎌倉に帰ってしまいました。
実は、右近衛大将は、朝廷の政務、儀式への参加が主な仕事でした。
京の都にたえず居なければなりませんでした。
頼朝は、拠点とする鎌倉で政権を盤石にすることを優先したのです。
頼朝は、その一方で、鎌倉にいても務まる権威ある官職を朝廷に求めます。
そうして2年後、1192年、朝廷から賜ったのが征夷大将軍でした。
46歳・・・頼朝は、ついに流人から将軍となったのです。
その3年後、頼朝は再び上洛します。
妻・政子、嫡男・頼家、娘・大姫らを引き連れてのことでした。
頼朝は、娘の大姫を、後鳥羽天皇の后にしようと考えていたのです。
朝廷の有力者に大姫を紹介し、後鳥羽天皇との縁談を取り持ってもらおうと・・・

娘を天皇に・・・やがて生まれた子が男の子であればその子が天皇・・・
そうなれば、源氏は天皇の外戚となります。
さらに源氏の権威が高まります。
また、大姫は時政の孫でもありました。
大姫を天皇に嫁がせることで、源氏と北条氏の権威が上がると頼朝は考えていました。
源氏と北条氏が天皇と縁戚になり、高い権威を持つことで幕府の安定を図ろうとしたのです。

ところが・・・1197年7月14日、入内を待たずに大姫が病によりこの世を去ります。
20歳だったと言われています。
悲しみ癒えぬままに頼朝は大姫の代わりとしてその妹の入内計画を進めるのですが・・・
最後の願いはかないませんでした。

1199年正月13日・・・頼朝、53歳で死去。

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大河ドラマ「鎌倉殿の13人」・・・源頼朝が立ち上げた鎌倉幕府を舞台に、3台の源氏将軍・鎌倉殿に仕えた13人の宿老の物語です。
その主人公が、北条政子の弟・北条義時です。
過去の歴史書では、陰謀を張り巡らせる冷酷非情な男だと描かれ、有力御家人を次々と滅ぼし、父さえも追放しました。
ついには日本史最大の転換点・承久の乱で朝廷にたてつく逆賊となりました。
義時は朝廷を屈服させ、上皇を島流しにする暴虐の限りを尽くしたといいます。
しかし、近年、北条義時に研究が進み、冷酷な謀略化と違う一面があらわになってきました。
義時の真実の姿とは・・・??

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1163年、北条義時は、現在の伊豆の国市で生まれます。
父・時政は、伊豆に拠点を構える豪族の主・・・次男だった義時は、本家の跡取りではなく与えられた所領の名を冠し、江間小四郎義時と名乗っていました。
平穏な時代であれば、そのまま江間で生涯を終えるかもしれなかった義時。
そんな義時を、歴史の表舞台に引き上げたのが、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝です。
鎌倉幕府の公式歴史書と言われる「吾妻鏡」に、頼朝が義時に寄せた期待の大きさを示す記載があります。
頼朝は、毎夜自分の身辺警護に当たらせる親衛隊として有望な有力御家人11人を選び、その中で義時を”家子専一”としました。
家子とは、頼朝直属の家臣で、その筆頭として取り立てられたのです。
頼朝が義時を高く評価したのは、ひとえにその人となりにありました。

頼朝の妻・政子が男子を出産したばかりのこと・・・
頼朝が隠れて愛人を囲っていたことを知った政子は激怒。
愛人の家を叩き壊してしまいました。
舅の時政も怒って伊豆へ帰り、頼朝は踏んだり蹴ったりでした。
困った頼朝は、義時がどうしているのかを調べさせました。
すると義時は、時政に同行せず、鎌倉の邸宅にいたことが判明します。
頼朝はすぐさま義時を呼び出します。
そして、時政より自分を選んでくれたのだと感激し、

「自分の子孫まで守ってくれる忠義者だ」

と、評価しました。
特に何をしたわけでもないのにお褒めの言葉をいただくことになった義時・・・。
そこには、頼朝の信頼がありました。
義時は、家を大きくしたいとか、金もうけをしたいとか、勢力を伸ばしたいというような発想はしなかったようです。
そこが、頼朝的には良かったのです。
一番苦労した時代、一番力がなかった時代に、自分を助けてくれた北条氏の一族だったのです。
しかも、”こいつは俺を裏切らない、俺のために尽くしてくれるだろう”という意識があったのです。

1185年、平家を滅ぼした頼朝は、鎌倉で武家政権を開きます。
頼朝は、将軍として君臨しながらも、側近たちの言葉に耳を傾けて、議論を交わしながら幕府を運営していました。
その中に、義時の姿もありました。
ところが・・・鎌倉幕府が成立して間もない1199年1月、頼朝が落馬事故によって急死。
リーダーを失った御家人たちは、一時的に不安定な状態になります。
頼朝の後を継いで2代鎌倉殿となったのが、18歳の頼家でした。
若き頼家は、政治に積極的に参加しましたが、有力御家人たちの土地を再分配するなど新しい政策をとり、幕府内に不協和音を生じさせました。
その頼家を支えるために、経験豊かな有力御家人の宿老13人が、合議制で訴訟の取次ぎを行い、頼家を補佐することになりました。
メンバーは、梶原景時など、頼朝旗揚げの頃からの武将たち6人。
これに、京くだりの中流貴族・・・大江広元などの文官4人。
そこへ頼家の縁者からは北条時政と比企能員が選ばれました。
37歳となっていた義時も、側近代表として一員に加わり、総勢13人となりました。
宿老13人の合議制により、将軍・頼家の力は抑えられていきますが、幕府の混乱状態は続きました。
今度は宿老同士が幕府内での主導権を巡り、血で血を洗う抗争を始めるのです。

まず、標的にされたのが頼家第一の側近・梶原景時です。
景時は、クーデターを起こそうと計画、一族ごと滅ぼされました。
義時の父・時政も動きます。
頼家が、側室が産んだ子を世継ぎにしようとしたことで、自分の立場が危うくなると、側室の父だった比企能員を謀殺しました。
その後、頼家も将軍の座を追われ、何者かに暗殺されました。
頼朝のしからわずか5年で、宿老の13人の多くは次々と粛清されていったのです。
そうした中、幕府最大の権力を手に入れたのが、北条時政でした。
時政は、頼朝の次男、12歳の実朝を3代鎌倉殿・征夷大将軍に擁立し、その後ろ盾となります。
以後、幕府の命令書である下知状は、全て時政の名で出され、まるで独裁者のように振る舞うようになっていきます。

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そんな父・時政と義時が激しくぶつかり合う時が・・・
きっかけは、時政が有力御家人の畠山重忠を滅ぼし、豊かな武蔵国を手に入れようとしたことでした。
時政は、1205年6月、重忠に謀反の疑いがあるとして討伐軍を送り、畠山を滅ぼしました。
しかし、戦いの際に見た重忠の軍勢があまりにも少なかったことから、義時は、そもそも畠山の謀反は父・時政のでっち上げではないのかと糾弾します。
しかし、時政は耳を貸さず、次は実朝を将軍の座から降ろし自分の娘婿を新将軍の擁立を画策。
この企てを知った義時は、姉・政子や重臣の大江広元を、三浦義村に協力を求め、父・時政追放を決意します。

「もはや、これ以上放っておくことはできない・・・!!」

まず、姉・政子が動きます。
三浦義村らに命じ、実朝を救出、御家人が義時邸に集結します。
孤立無援となった時政は失脚し、伊豆に追放されました。
一族の繁栄より幕府の安泰を優先すべきだと考え、義時は父を切り捨てたのです。
独断・独裁ではなく合議によって幕府が進むべき方針を決めていく・・・それが、義時が出した答えでした。
義時は時政に代わって北条家の当主となり、2代執権・北条義時として幕府を支える中心人物となります。
ところが・・・この後、義時たち鎌倉幕府にとてつもない試練が押し寄せるのです。

義時たち鎌倉幕府に更なる難敵が現れます。
朝廷の最高権力者・後鳥羽上皇です。
新古今和歌集を編纂した歌人であるとともに、乗馬や弓の扱いにも長けていたと言われています。
上皇は、自ら刀を鍛錬したと伝えられています。
そんな万能の帝王である後鳥羽上皇が、虎視眈々と狙っているものがありました。
義時率いる鎌倉幕府です。
東国に勢力を広める幕府の軍事力を支配下に置こうと目論んでいたのです。
1217年、幕府は大きな問題を抱えていました。
26歳になった実朝に世継ぎが出来ず、次の将軍候補がいなかったのです。
そこで幕府は、実朝と懇意のある後鳥羽上皇の親王を次の将軍に推すことを考えました。
義時は、姉・政子を上洛させ、親王の鎌倉下向について極秘交渉をさせました。
上皇は快諾し、時期が来れば親王を送ると密約を結びました。
幕府首脳部は、誰もが将軍断絶の危機は終わったと、胸をなでおろしました。
ところが・・・1219年正月、幕府に激震が走ります。
実朝暗殺・・・源氏将軍は、突如潰えることとなりました。
この事態に、義時と政子は、即座に動きます。
京都に使者を出し、上皇に親王を次の将軍にする密約の実行を促しました。
ところが、後鳥羽上皇は、思いもよらぬ態度に出ます。
物騒な鎌倉にすぐに親王を下向させることは難しい・・・
それより、摂津国にある荘園の地頭職を解任せよと幕府に命令します。
義時たちを試す、踏み絵の如き返答を送りつけてきました。
追い込まれた義時は、幕府首脳と相談・・・一度与えた地頭職を理由なく罷免すれば、御家人たちが幕府に寄せる信頼は揺らぐことになります。

”頼朝公が恩賞として任命なされた地頭は、大した罪もないのに解任することはできない”

と、後鳥羽上皇に拒否の意を伝えました。

義時の答えに上皇は激怒。
親王の下向は拒絶し、代わりに公卿の子を将軍に送ると突き返しました。
幕府の拒否は、上皇には信じられないことでした。
そして、事態は最悪の状況を迎えます。
1221年5月、上皇との関係は改善されず、ついに決裂!!
後鳥羽上皇が幕府に戦いを挑んだ承久の乱が始まります。
上皇は、幕府の有力御家人や全国の守護・地頭に義時追討を命令。
標的を義時ひとりに絞り、幕府の内部分裂を図りました。
この絶体絶命の局面を、義時たちは知恵とチームワークで乗り切ろうとします。
上皇の義時追討の密書が届けられた三浦義村は、自分以外のところにも密書が届けられようとしていることを察知。
義村は密書を携え、すぐさま義時に報告。
さらに、鎌倉に潜入した朝廷の密使を捕まえ、上皇の命令・院宣が御家人たちの目に触れる前にそのすべてを奪うことに成功します。
院宣の内容は、まさに辛辣でした。

”義時が思うままに天下の政務を執り、天皇の権威を忘れず、これはもはや謀反というべきだ
 義時討つべし”

すると、宿老の大江広元は、この命令は義時ではなく幕府そのものを壊滅させる策略だと断言。
一刻も早く鎌倉が一丸となるべきだと説きました。
そして、亡き頼朝の妻・政子が立ち上がります。
朝廷との戦いを御家人たちに決意させるため、一世一代の演説を行いました。

「頼朝さまの御恩は山よりも高く海よりも深い」

と、頼朝への忠誠心を御家人たちに思い出させ、朝廷が出した命令は、非義の綸旨・・・御家人の権利を奪う不当な命令だとまで言い切りました。
政子の言葉に御家人たちは奮い立ち、戦いは上皇と鎌倉幕府の全面対決となりました。
しかし、後鳥羽上皇率いる朝廷軍とどう戦うのか??
朝敵にもなりかねない前代未聞の決戦に、幕府の議論は紛糾・・・!!
この時、御家人たちの指揮官・義時にどんな選択があったのでしょうか?

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朝廷軍を迎え撃つのか??
幕府首脳部は、朝廷尾を箱根で迎え撃つ迎撃策に傾きました。
ところが、宿老の大江広元がすぐに京に攻め上るべきだと進言します。
京に攻め上り朝廷を撃つ!!と。
上皇が軍を集め、鎌倉まで攻めてくるのには時間がかかる・・・一気に京に上るべきだ・・・!!と。
鎌倉で迎え撃つか、京に攻め上るのか・・・??

義時たちは朝廷とどう戦うのか??
多くの御家人たちは、鎌倉で迎え撃つ迎撃策を支持。
義時もその意見に傾き始めていました。
その中で、「皆の心が変わらないうちに今すぐ京都に攻め上るべき」と進言した大江広元。
広元は、元々朝廷につけていた貴族で、京の事情に詳しい・・・
その後、鎌倉幕府の実務官僚として40年近く仕え、身近で東国武士たちを見続けていました。
だからこそ、東国武士は瞬発力に秀でてはいるが、士気の持続は難しいことを理解していました。
もしこのまま迎撃策を選べば、朝廷軍が攻めてくるまでに迷いが生じ、帝に矢を向けることへの恐怖心や朝廷からの内容で離反する御家人が続出すると踏んだのです。

広元に並ぶ頼朝以来の宿老・三善康信も、「即時出撃、第将軍ひとりでもまず進発すべきだ」と主張。
政子も重臣2人の意見が一致したのは神の意思だと即時出撃に賛同しました。
義時はついに京への出撃を決意、東北武士が朝廷の軍勢と真っ向から向き合う前代未聞の作戦に打って出たのです。

1221年5月22日早朝。
義時の嫡男・泰時が総大将となり、18騎が鎌倉を出撃。
泰時が出撃すると、東国の有力御家人も次々に続く・・・
東海道、東山道、北陸道に分かれ、三方から京を目指します。
各地で続々と援軍が合流しました。
鎌倉方は、最終的に19万騎に膨れ上がったと言われています。
鎌倉方出撃の報せに、義時追討の院宣を発した後鳥羽上皇は愕然としました。

和歌山県高野山・・・この高野山・霊宝館に承久の乱を描いた「承久記絵巻」が保管されています。
江戸時代初期の作で全6巻。
この絵巻は長らく行方不明となっており、2020年1月、80年ぶりに再発見されました。
その絵巻には、後鳥羽状況が義時追討の兵を挙げたことを知らされた鎌倉側の様子も書かれています。
有力御家人の三浦義村が、義時に届いた密書を差し出し、義時は扇子を膝に押し当てて困惑の表情をしています。
全員で上皇に対抗するため、知恵を出し合う様子でした。
幕府と朝廷の戦いは、美濃で始まります。

大井戸の渡の戦い・・・朝廷軍は10倍の敵にその日のうちに敗走、退却しました。
北陸道では、火牛の計が用いられ、朝廷軍を打ち破りました。
その後、戦争は京都の最終防衛線・瀬田橋の戦いに。
幕府軍は激戦の末、朝廷軍を撃破。
京になだれ込み、朝廷を制圧しました。
絵巻の中には、京を征服した幕府軍に促されて後鳥羽上皇が四辻殿から出る様子も描かれています。
恐れ多いと上皇の姿は描かれず、牛車のみが描かれていました。

絵巻には、勝利を喜ぶ武士たちと対照的に、敗北の恐怖におびえる公家たちが描かれています。
武家の世の始まりを予感させます。
承久の乱は、朝廷側の完全敗北に終わります。
1221年7月、後鳥羽上皇は隠岐の島に流されます。

この時幕府は、西国を中心に三千に及ぶ朝廷側の領地を没収。
東国御家人を新しい地頭として送り込み、鎌倉幕府の版図を拡大、強化していきました。
承久の乱から3年後、1224年6月13日、北条義時死去、62歳の生涯でした。
その墓は、今も故郷を見下ろす江間の丘の上に静かにたたずんでいます。

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「源頼朝 死をめぐるミステリー 日本史上の大転換点」













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