日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:土方歳三

戊辰戦争最大の悲劇・・・会津戦争。
新政府軍の猛攻を受け、鶴ヶ城は開城・・・民間人も多く巻き込まれ、戦死者は2000人を超えました。
この時、会津藩を率いたのが松平容保。
義を重んじ、幕府に殉じた藩主というイメージが先行する中、その実像は意外なほど知られていません。容保が幕末についてほとんど語らなかったからです。

容保の運命を大きく変えたのが、京都守護職への就任でした。
京に乗り込み、一橋慶喜らと共に政治の実権を握りました。
しかし、変革の嵐はあまりにも激しく・・・
幕府を揺るがす薩長の台頭、思いもよらない長州征討での敗北、そして・・・朝敵とされた鳥羽・伏見の戦い!!
容保を次々と襲った究極の選択がそこにはありました。
その悲劇の真相とは・・??



会津若松市鶴ヶ城・・・松平家23万石の居城です。
天守閣にある博物館に資料が残されています。
描かれているのは、会津から遠く離れた浦賀湾・・・江戸後期、イギリスの帆船が通商を求めて来日した様子を描いたものです。
中央には巨大な異国船・・・その周囲を取り囲むように小舟が・・・
よく見ると、小舟には会津の旗印が・・・!!
実は江戸ののど元にあたる浦賀の警備を会津藩が引き受けていたのです。

江戸時代、泰平の世ということもあり、各藩、武備には力を入れていませんでした。
しかし、会津藩は日ごろ地元でも軍事訓練を続けていました。
だから、会津藩に白羽の矢が当たったのです。

会津藩は、親藩の中でも特に最前線で徳川将軍家を守ることを期待され代々それに応えてきました。
藩祖・保科正之定めた「家訓」
十五条の最初にはこうあります。

”大君の義 一心大切に忠勤を存ずべし”

将軍に絶対の忠誠を誓うことが歴代藩主に課せられた使命でした。
第9代藩主・松平容保は、18歳の若さで藩主の座を引き継ぎます。
高須松平家に生まれ、会津に養子に入った容保が、まず教えられたのがこの家訓でした。
この教えを胸に、容保は時代の荒波に立ち向かっていきます。

時は幕末・・・京では尊王攘夷の火が燃え盛っていました。
導火線に火をつけたのが長州藩・・・
その狙いは、幕府の開国政策の阻止でした。
藩士を京に送り込み、異国排斥を訴え、朝廷の有力公家たちを味方につけていきます。

長州に呼応するように、過激な攘夷派の浪士が続々と京に集結。
幕府に近い公家の家臣などを標的に、テロを繰り返します。
この事態に幕府が頼ったのが、会津藩でした。
新たに設けた京都守護職に容保の就任を命じました。
その任務は、京に千人規模の軍隊を駐屯させ、治安を守るというものでした。
当然、巨額の費用も見込まれます。
家臣たちは、”薪を負うて火を救う”ようなものだと反対の声をあげました。
都での動乱に巻き込まれることを逡巡しながらも、容保は幕府の要請に応えることを決めました。

「我が会津藩は、徳川宗家と存亡を共に存亡すべし定められている
 君臣、ただ京の地を以て死所となすべきである」by容保

1862年12月、会津藩上洛。
容保は会津藩兵を率いて京に到着しました。
御所からおよそ2キロ・・・金戒光明寺は京都守護職の本陣が置かれた寺です。
容保が使った部屋が当時の姿に復元されています。
ここで容保は、京の治安回復の指揮を執りました。

1863年3月・・・この広間で容保と対面したのが、新撰組局長・近藤勇でした。
後に新撰組になる若い浪士たちと容保が初めてであったのもこの寺の境内でのことでした。
土方歳三や沖田総司らの腕前に期待を寄せた容保は、彼等を京の治安維持に用いました。
会津藩御預新撰組は、攘夷派の取り締まりに大いに力を振るいました。
守護職・会津によって、京の治安が回復に向かったことを誰より喜んだのは・・・時の孝明天皇その人です。
初めて謁見した際、天皇は容保の功績を称して、緋色の衣を下賜しました。

katamori

この時の陣羽織がそれです。
容保は大いに感激し、守護職の任務への思いを新たにしました。

しかし、その一方で、長州藩の動きは過激さを増していきます。

1863年5月、長州藩が下関海峡で外国船を砲撃。
長州藩は、攘夷派の公家と共に、更なる計画に動き出しました。

孝明天皇を神武天皇陵へ行幸させ、攘夷戦争の御前会議を開く
というものでした。




この計画が実現すれば、天皇の名のもとに外国へ宣戦布告するにも等しい・・・!!
対外戦争の危機が寸前に迫ったその時・・・!!
容保のもとに外様の大藩・薩摩からの報せが届きました。
長州と攘夷派公家に対するクーデターに、会津藩の協力を求めてきたのです。
容保はすぐに決断、会津藩士に薩摩と行動を共にすることを命じました。
そして、事態を知らされた孝明天皇からの極秘命令が容保に届きます。

”会津の兵力を以て、国家の害を除くべし”

1863年8月18日、政変の幕が切って落とされました。
会津藩兵が御所の門を封鎖し、長州に与した公家の参内を阻止、彼らを排除した朝議でその処分が決められました。
朝廷を牛耳っていた攘夷派公家たちは官位を剥奪、御所警備を解かれた長州藩と共に西国へと落ち延びていきました。
尊王攘夷派は、都から一掃されたのです。

事件のあと、孝明天皇から容保に下された直筆の和歌・・・
自分の意をくんで攘夷派追放に働いてくれた容保の忠誠に対し、天皇はこう詠んでいます。

武士と心合わして いわおをも貫きてまし 世世のおもひで

天皇と武士が心を合わして、国の難局に当たっていくことを望んだ孝明天皇・・・
容保もまた、朝廷と幕府が一体となって政治を行う公武合体の実現を自らの使命としていくのです。


1864年7月、失地回復を目論んだ長州藩が、京に進軍!!
御所を舞台に激しい戦いが繰り広げられました。
禁門の変です。
この時容保は、禁裏御守衛総督の一橋慶喜らと共に出陣し、長州藩を撃退しました。
この結果、権力を掌握したのが一会桑・・・
容保と慶喜に桑名の松平定敬を加えた体制でした。
一会桑が目指したのは、江戸の幕府と京の朝廷をつなぐことです。
幕府が独断で政治決定を行う幕府専制から、朝廷の意思を組んで幕府が政治を行う公武合体への転換を図ろうとしました。

一方、禁門の変で御所に向けて発砲した長州に、孝明天皇は激怒。
7月23日、幕府に対し朝廷長州を討つべしと、長州征討の勅令を下しました。
この時、容保は江戸に書簡を送っています。
それは、将軍直々の上洛の要請です。
将軍・家茂を上洛させ、その後も京に常駐させることで、朝廷との意思統一を図り、公武合体を推し進めようという狙いでした。
ところが、容保の意図を阻止したのは、江戸の幕閣でした。

”容保公は単に京都守護職に過ぎない
 将軍の進退について、口を出すべきにあらず”

容保や会津藩は、朝廷と幕府が強調する・・・それが前提として幕府は存続できるという考えでした。
禁門の変みたいな重大な事件が起きれば、将軍自身が征夷大将軍として出陣をして、京都に行って将軍の誠意を見せる、朝廷の信頼を得るという考え方でした。
対して江戸の幕閣は、過去2度、将軍は上洛したが、朝廷や諸藩に振り回されて将軍の権威が失墜したと考えていました。
ここで、上洛をするということに対して非常に及び腰で、現状認識、危機感といううえで差がありました。

結局、家茂の上洛は持ち越され・・・代わりに征長総督に任命された尾張藩・徳川慶勝のもと、35藩・総勢15万の大軍が進発します。



1864年、第一次長州征討!!
全軍は、11月11日までに5つの攻め口に着陣。
1週間後に総攻撃を決しました。
ところが、ここで思わぬ動きを見せたのが薩摩藩でした。
薩摩は会津と共に長州排除に動いたものの、その後、一会桑によって政治の中枢から遠ざけられていました。
長州征討が成功し、一会桑の勢力がさらに強固になるのは好ましいことではなかったのです。
11月、征長軍参謀にあった西郷隆盛は、単身・岩国を訪れ、長州藩との交渉に臨みました。

”長州藩は速やかに禁門の変を主導した三家老を処分
 その首級を届けるべし”

過酷な処分のように聞こえますが、西郷は裏ではこの要求さえのめば攻撃を中止させ、その後も寛大な処分に動くことを長州に約束していました。
長州はこれを受諾、三家老を処刑し、恭順の意を示しました。
ここに、征長軍は、戦うことなく解兵することとなりました。

この時期、容保の元には、京都守護職をやめ、会津に戻ってくることを願う国元からの要請が度々寄せられていました。
しかし、長州征討が一段落した後も、容保はこう返答しています。

「自分が京にいるからこそ、薩長も好き勝手が出来ない
 引き上げた場合、どのような事変が生じるかわからない」by容保

第一次長州出兵は、三家老の首を長州藩が出して、一応終息しています。
しかし、問題はそれで終わっていません。
長州藩に対する朝敵としての具体的な処分を、京都で決めないといけません。
中途半端なところで帰っても、孝明天皇の信頼に応えることもできないし、幕府に対する責任を果たすことができない!!
京で自分が果たすべき使命がまだある・・・!!
容保は、守護職留任を決断しました。

1864年12月、長州で一大事変が勃発しました。
幕府への抵抗を掲げる高杉晋作らが決起、恭順派との内戦に勝利し、藩の主導権を握ります。
彼等は、藩内の武装を強化、表面上は幕府に恭順するが、いざとなれば戦争をも辞さないという方針でした。
この動きを察知した幕府は、
”長州藩内に容易ならざる企てがある
 御所からの要請もあったので、討伐のため将軍自ら出陣する”

朝廷にとっては寝耳に水でした。
天皇は軍事行動など命じていなかったからです。
急遽、説明のため参内を命じられた容保たちは、苦しい弁明を展開することになります。

「征伐」=将軍が大坂へ上る「進発」の意味に過ぎない

容保の言い訳の背景には、幕閣の計画を敢えて利用しようという狙いがありました。
容保たちから見れば、将軍を江戸から引っ張り出す千載一遇のチャンスでした。
将軍を上洛させて、長期間滞在させることで、朝廷と幕府が一体化、長州処分を執行することで、朝廷と幕府の権威が維持できる・・・!!

結局、朝廷も幕府の追討令を追認・・・
1865年5月、将軍・家茂は、江戸を進発し、大坂城に入りました。
11月、広島に目付が派遣され、長州の陰謀を糾問。
これに対し、長州側は、陰謀など事実無根だと弁明しました。
藩内への立ち入り調査も拒否され、使者は引き下がざるを得ませんでした。

どうにも不審な長州の態度に、老中が急遽状況。
一会桑との間で、対応が話し合われることとなりました。
この時、長州の軍事討伐にこだわった老中は失脚し、その顔触れは穏健派に代わっていました。
長州の態度にはあいまいな部分があるが、再度詰問すれば、紛糾し戦の恐れがある・・・
戦争を避けるためには、藩主親子の謹慎や、領地の削減など、寛大な処分にとどめるべき??

これに反発したのが一橋慶喜でした。
道理を曲げて寛大な処分を下すことに断固として反対しました。
反逆者への処分がうやむやになるようでは、幕府と朝廷の権威失墜を天下に示すことになる・・・!!
いざとなれば戦う覚悟で再度使者を送り、疑惑を徹底究明すべきだ・・・!!

果たして、容保はどちらに与すべきか・・・??

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容保の選択を伝える記述が越前藩の記録に残っていました。

”長州問題を巡って、一橋と老中は一旦決裂したが、その後、会津と桑名がとりなしたことで、両者は再協議することになった
 会議が物別れに終わると、容保が動いていた
 慶喜に直談判!!老中との再協議を説得した”

容保の選択は、長州に対する寛大な処分でした。
改めて開かれた会談で、長州処分最終案は・・・
・藩主父子の隠退
・領地10万石の削減
・朝敵の名は除く
でした。

1866年2月、長州藩に処分案を伝達、返答期限は5月29日に・・・!!

しかしこの時、容保の知らないところで歴史は大きく動いていました。
1866年1月・・・薩長同盟締結

”長州の朝敵の汚名を晴らすため、薩摩はいかようにも尽力する
 一会桑が邪魔立てするようならば、決戦に及ぶ”

長州は、処分を断固拒否し、徹底抗戦の意思を固め、薩摩もその支援を確約していたのです。
当然返答期限に長州の返事が届くことはありませんでした。
幕府の面目をつぶされたことに、慶喜は激怒。
6月7日、孝明天皇から一橋慶喜に長州征討の勅許が下ります。
開戦に踏み切りました!!
もはや、容保に止める術はありませんでした。
1866年6月、第2に長州征討の戦端が開かれました。
薩摩の援助で入手した最新式の武器が、幕府軍を圧倒していきます。
実はこの戦いには、精強を誇る会津藩兵が導入されていません。
容保は、この戦が、長州と会津の私戦と受け取られることを危惧し、出兵に踏み込めませんでした。
しかし、その後、会津兵を欠いた幕府は、各地で連戦連敗・・・
戦局を変えるべく、遂に出陣を決意します。
しかし、予期せぬ事態が待ち受けていました。
1866年7月20日、将軍・家茂が大坂で病死。
後を託された慶喜は、容保の必死の説得にも応じず、戦を続けることを断念・・・
第2次長州征討は、幕府の敗北に終わりました。
そして、更なる事態が容保を襲います。
1866年12月25日、孝明天皇崩御。
これをきっかけに、まるで崖を転がり落ちるかのように容保は窮地に追い込まれていきました。



1868年1月3日、鳥羽・伏見の戦い
会津は、徳川慶喜擁する旧幕府方として、薩長を中心とする新政府軍と戦火を交えました。
火力の差は歴然でした。
そして・・・新政府軍が、戦場に錦の御旗を掲げると・・・
朝敵に名指しされた慶喜は戦意喪失、海路を江戸へと帰ってしまいました。
傍らには、容保の姿もありました。

容保の小姓の手記「浅羽忠之助遺録」
容保の会津藩主就任以来そのそば近くに仕えた小姓です。
家臣に一言も告げず、戦場を離脱した容保に対し、忠之助はこう記しています。

「このような苦戦になり、死傷者も多く出ている
 それをお見捨てになって、お立ち退きとはあってはならない」

決死の逃避行の末、江戸にたどり着いた忠之助は、主君に拝謁し、そのことを諫言しました。
容保は、ただこう返したといいます。

「誠に失策の至りであった」

1868年閏4月、会津戦争
朝敵とされた会津は、新政府軍の猛攻に晒されました。
2500発もの砲弾を撃ち込まれ、鶴ヶ城は開城。
老人や女性、子供にまで多くの犠牲者を出し、会津戦争は終結しました。
鶴ヶ城のほど近くにある御薬園・・・
降伏ののち、死罪を免れた容保は、明治に入ってから数年間、この地で過ごしました。
公武合体の実現をひたむきに追い求め、夢破れた容保・・・

家訓十五箇条が会津藩の憲法でした。
「大君」は、将軍家であるとともに、帝・皇室であると考えていました。
帝と武家が、手を取り合って平和な国を作っていこうと・・・
これが、激しい時代の中で、全く逆の立場に立たされたのです。
自分は戦争責任者・・・
会津の罪もない人たちに大変な塗炭の苦しみを味あわせてしまった・・・
このことを、何より悔いていました。

会津戦争から25年・・・1893年、松平容保死去。
容保は59歳で没しました。
その亡骸は、会津の山中で、静かに眠っています。

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黒船が来航し、開国か攘夷かでゆれる幕末・・・日本事象最強と言われる剣客集団が京都で誕生しました。
新撰組と言えば、局長・近藤勇と鬼の副長・土方歳三です。

”近藤に誤謬なきは歳三ありたればなり”

近藤が過ちを犯さなかったのは、歳三がいたからこそ

と言われるほど、実質的に新撰組を取り仕切っていたのが土方歳三でした。
その人生は波乱万丈・・・!!
それでも最期まで新撰組として戦います。
江戸から明治へと時代が変わりゆく中、儚く散った新選組・・・土方歳三の生き様とは・・・??

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1835年武蔵国多摩郡石田村(現在の東京都日野市)の豪農の家に10人兄妹の末っ子として生まれました。
父は歳三が生まれた年に病で病死。
母も6歳の時に他界しました。
歳三は、年の離れた兄夫婦に育てられました。
11歳と17歳の時、江戸の商家に奉公に出ます。
しかし、二度とも長続きせずに出戻って来てしまいました。
土方歳三は、2番目の姉・のぶの夫で日野宿の名主だった佐藤彦五郎の家など親戚の家に入り浸ります。
そこで、運命的な出会いを果たすことになります。

朋友との出会い・・・
土方は、17,8歳で武道を志し、立派な武人になって天下に名を上げようとして家の隅に矢竹を植えました。
しかし、江戸時代は、武家に生れたもの以外は、武士になることは難しかったのです。

土方が生まれる少し前・・・文化文政年間。
江戸近郊の村々にも急速に貨幣経済が浸透します。
それに乗じて農民の中には、高利貸しや質屋、酒作りなどを兼業するものが現れます。
彼等は商売で得たお金を使って、周辺の土地を買い集め、やがて豪農としてのし上がっていったのです。
土方の家も、「石田散薬」の製造販売で財を成していました。
その一方で、幕府の取り締まりを逃れようと博徒たちがやってきてしばしば賭場を開いていたので、多摩など関東の農村にならず者が集まり、治安は悪化。
そこで幕府は、集落のリーダー的存在だった豪農たちに、名字を名乗ることを許し、刀の所持・・・帯刀を認め、彼等に治安の維持を一任したのです。
このことが、豪農たちの意識を変えました。
名字帯刀を認められることは、武士と同様の刺客を与えられることを意味していました。
身分は農民でしたが、「身上り願望」・・・豪農たちには士族の身分に上がりたいという願望が強かったのです。
御家人に多額のお金を払い、家格を買い取るなどして実際に武士になる豪農もいました。

帯刀を許された豪農たちは、剣術の習得に励みます。
土方が育った多摩で一大勢力を誇っていた剣術の流派が、天然理心流です。
土方の義理の兄・佐藤彦五郎の家にも、天然理心流の師範が出稽古をつける道場がありました。
その為、彦五郎の家に入り浸っていた土方は、自然と剣術を学ぶようになります。
そして、そこへ江戸から指導にきていたのが、後に天然理心流宗家となる近藤勇でした。
一つ年上の近藤もまた多摩の豪農出身ということもあり、2人は意気投合。
やがて土方は、江戸にあった天然理心流の道場「試衛館」に通うようになり、若き日の沖田総司、長倉新八などと出会うのです。

土方が正式に天然理心流に入門したのは25歳の時でした。
10代の頃から彦五郎の道場で剣術を学んでいました。
実家で作っていた薬の行商を手伝っていて、薬箱に武具をくくりつけて売り歩いていました。
色々な流派の道場で、他流試合をし、腕を磨いていたようです。
天然理心流は、他流試合を禁じていたので、なかなか入門しませんでした。
正式に入門した2、3年後には、近藤に代わって門人の指導にあたっていました。
剣の腕前は相当でしたが、沖田総司には敵わなかったようです。
土方は、生涯独身で過ごします。
兄たちが世話した許嫁はいたようです。
江戸の三味線屋の看板娘でしたが、彼女をおいて京都へ行ってしまいました。

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いざ、京都へ
1862年、14代将軍徳川家茂が、京都の孝明天皇のもとへ参上することが決定します。
幕府将軍の上洛は、3代将軍家光以来・・・229年ぶりのことでした。
この頃、開国を進めていた幕府は、外国勢力を追い払う攘夷を主張する孝明天皇を懐柔しようと朝廷と共に政治を行う公武合体を進めており、家茂が京都で孝明天皇に拝謁することで、それを世に知らしめようとしていました。
しかし、当時の京都は、幕府に不満を抱き、天皇を敬い攘夷を唱える尊王攘夷派の浪士が暴れ回り、無法地帯と化していました。
そこで幕府は、浪士には浪士をぶつけようと・・・
江戸周辺の浪士たちを募って「浪士組」を結成します。
彼等に京都の浪士たちを取り締まらせ、家茂の警護に当たらせようとしました。
浪士組には、幕府に忠誠をつくし、腕に覚えのある者なら誰でも応募が出来ました。
無事、警護を務めれば、幕臣に取り立てられる可能性までありました。
それを聞きつけた土方は、武士になれると、近藤勇、沖田総司らと共に浪士組への参加を決めました。
土方が育った多摩地域は、江戸の西に接しています。
多摩は幕府の直轄領が多い地域で、西から敵が責めてきたときに、まず、多摩の地域で防衛することが想定されていました。
多摩の地域は、江戸を守る防衛線・・・自分達が江戸の町を守るという意識が高かったのです。
そんな土地柄で育った土方らは、将軍家茂の警護は自分たちの警護だと考えていました。

1863年2月8日、土方は故郷を離れ、将軍警護のために京都に向かいました。
この時、29歳。
京都についた土方たちは、会津藩お預かりとなります。
藩主の松平容保が京都守護職で、京都の治安維持と御所の警備などを担う役職でした。
その容保のもと、近藤や土方など試衛館のメンバーは、水戸出身の芹沢鴨の一派などと壬生浪士組を結成し、将軍家茂の警護を務めたのです。

1863年6月、14代将軍・家茂が江戸へ戻ります。
壬生浪士組は、引き続き会津藩預かりとして京都に残ることになりました。
その2か月後・・・八月十八日の政変が起き、朝廷とつながっていた攘夷派の長州藩やそれを擁護する公家たちを京都から追放することに成功します。
その際、会津藩と共に壬生浪士組は御所の警護に当たっていました。
その功績が認められ、新たに”新選組”の名が与えられたのです。
新選組は、かつて会津藩にあった剣客集団と同じ名前で、容保は期待を込めて、壬生浪士組に与えたものです。

新選組が誕生しましたが・・・
近藤勇と芹沢鴨の2人が局長の座についていたため、近藤派と芹沢派に分裂・・・
水面下でし烈な派閥争いが生じていました。
そんな中、鬼の副長・土方が、近藤勇中心の組織にすべく、冷徹なまでの一手に出るのです。

鉄の掟4箇条

一、武士道に背くことをしてはならない
二、局を脱走してはならない
三、勝手に金策をしてはならない
四、勝手に訴訟を取り扱ってはならない

禁を犯した者は切腹!!
厳しいものでした。
隊士の数は結成当初は24人でしたが、徐々にその数は増えていきました。
隊士は様々な身分から集まっており、地域も・・・千差万別でした。
そんな隊士をまとめるために、厳しい規制が必要だったのです。
しかし、その掟に従わないものがいました。
近藤勇と共に局長の座についていた芹沢鴨です。
芹沢は、活動資金と称して、豪商からお金の無心をします。
断わられるとその店を焼き討ちにすると脅迫しました。
さらに、力士たちと乱闘騒ぎを起こしたり、遊郭で遊女たちに乱暴を働くなど、その狼藉三昧は目に余るこのがありました。
これに激怒したのが、統括していた会津藩主・松平容保でした。
会津藩の沽券に関わる・・・もう一人の局長・近藤勇に、芹沢を処分するように命じます。
そこで動いたのが土方歳三でした。
土方は、芹沢を宴に誘い出し、たっぷりと酒を飲ませます。
そして、酔いつぶれた芹沢が屯所に戻り寝入ったところを・・・沖田総司らと共に襲撃し、惨殺したのです。
土方は、局長の近藤にカリスマ性を・・・と、自らはその為に、汚れ役に徹することで組織を円滑に運営していこうとしました。
時に冷徹なことも引き受けたことで、鬼の副長と呼ばれたのです。
こうして新選組は、局長の近藤勇と副長の土方歳三を中心とした組織へと生まれ変わるのです。

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1864年6月5日、そんな新選組の名を世に知らしめる事件が起きます。
池田屋事件です。
この日の朝、尊王攘夷派の協力者を捕縛します。
その男の家から大量の武器が見つかりました。
何かを企んでいると察した土方は、拷問にかけると・・・男はたまらず白状します。
長州藩が、尊王攘夷派の志士たちを使い、近々京都市中に火を放ち、孝明天皇を聴衆に連れ去ろうとしている計画が発覚したのです。
新選組は、なんとか阻止しようと近藤隊と土方隊の二手に分かれて捜索を開始。
やがて、近藤隊が池田屋で尊王攘夷派の志士たちを発見!!
知らせを受けた土方隊も池田屋に急行!!
新選組は、見事な連携で7人を討ち取り、4人を手負いにし、23人を捕縛しました。
京都の町と天皇を守ったのです。

新たな野望
局長・近藤勇のもと、新撰組を京都の治安を守る警察組織へと変貌させていった鬼の副長・土方歳三。
新選組は、京都の町で暗躍する尊王攘夷派の志士たちに畏れられる存在となりました。
そんな中、八月十八日の政変で京都から追放され、朝廷への影響力を失った長州藩が、7月19日、朝廷での復権を目論み、兵を率いて上洛・・・禁門の変を起こします。
しかし、御所を警備する会津軍や薩摩軍らの反撃にあい、長州軍は敢え無く敗走。
逃げる際、御所に発砲したため、朝廷は長州藩を朝敵と見なします。
幕府に長州藩を追悼するように命じます。
長州征討です。
これを聞いた土方は、「今こそ新選組の力を見せようぞ!!」と、新選組を発展させる新たな野望を抱きます。

土方が作成した”行軍録”・・・組織の編成表が書かれています。
長州征討に参加させるために書いたものです。
長州征討は、1864年と1866年の2度にわたって行われました。
土方は、新選組が招集されることを想定し、従軍した際の隊列を考え、行軍録に記したのです。
その編成を見ると・・・
中心には土方自身を、後方に近藤を配しています。
注目すべきは、部隊先頭に書かれた大銃隊、小銃隊です。
新選組は、軍備の洋式化を進めていました。
幕府は、フランスをバックに軍制改革をしていました。
その一環として、会津はもちろん、新選組も最新の軍備を進めていたのです。
長州征討が決まってすぐに、江戸で隊士の募集を行い、近藤は24人を連れて帰ります。
そんな近藤に宛てた手紙の中に、土方は、新選組隊士たちが毎日西洋式の砲術訓練を行っていることを報告しています。
土方は、組織を拡大し、西洋式軍備を進めることで、新選組を警察組織から軍隊組織に変貌させようとしていたのです。
結局、幕府は今まで通り、新選組を京都に残し治安維持にあたらせたため、新選組が長州征討に加わることはできませんでした。

1867年6月、新選組にとって嬉しい出来事がありました。
幕府直参の見廻組格となり、隊士全員が幕臣となったのです。
土方歳三は、見廻組肝煎格として70俵5人扶持が与えられました。
この時33歳。武士になるという大きな夢を抱き、29歳で江戸を発ってからわずか4年ほどでその夢を叶えたのです。
しかし・・・半年後、260年余り続いた江戸幕府が滅亡してしまいました。

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晴れて幕臣に取り立てられ、武士となった新選組でしたが、4か月後には15代将軍・慶喜が大政奉還。
それを受け、王政復古の大号令が発せられたことで、仕えるべき江戸幕府が滅亡してしまいました。
それでも、新選組、副長・土方歳三の幕府への忠誠心が揺らぐことはありませんでした。
1868年1月、旧幕府軍は、新政府軍と京都で激突。
鳥羽伏見の戦い・・・戊辰戦争の始まりでした。
新選組も、旧幕府軍として戦いに参加。
しかし、旧幕府軍がわずか3日で敗走・・・慶喜の指示によって、新選組は江戸へと向かいます。
土方は、鳥羽伏見の戦いを振り返り、こう述べたといいます。

「もはや銃や大砲の時代である
 刀や槍ではとても勝てない」

新選組自体は、近代化、西洋化されてきていました。
しかし、大きな戦いは初めてでした。
改めて、西洋式の軍隊としての訓練が必要だと考えたのです。
鳥羽伏見の戦いの敗戦で、新選組を西洋式の軍隊に変える必要性を痛感した土方。
江戸で、最新式の銃と共にマントやズボンを購入。
土方自身が洋服をまとい、髷を落としたのはこの頃だと言われています。
しかし、この新選組の軍隊かが思わぬ不協和音を・・・!!

盟友との別れ
江戸に入って2か月後・・・
新選組は、甲斐国の治安維持のために甲府に向かいます。
しかし、新政府軍がすでに甲府の町を占拠。
新選組はその手前、勝沼で新政府軍と激突します。
土方は応援を呼ぶために離脱!!
しかし、残った近藤らは、圧倒的な戦力の差によって2時間ほどで大敗してしまいました。
その直後、試衛館時代からの盟友・永倉新八や原田左之助らが脱退を表明。
永倉、原田など初期メンバーは、感情的にも不満がたまっていました。
そもそも新選組は、平等で同志的な関係性でした。
これに対して、近藤や土方は、上下関係がはっきりした関係性に切り替えたかったのです。
自分たちの意見が通らない・・・彼らの離脱は止む終えないことでした。

その1か月後・・・
近藤と土方は、新選組を立て直すべく200人以上の隊士と共に下総の流山に陣を張っていました。
すると、いつの間にか新政府軍に囲まれてしまいます。
隊士のほとんどが出払っていたため、陣には近藤と土方と数人のみ。
とても太刀打ちできない・・・と、観念した近藤は、切腹する覚悟を決めました。
しかし、土方は・・・

「ここで割腹するのは犬死にだ
 ここは近藤さんが出頭して、自分たちは徳川の脱走兵を鎮圧するための部隊だと言い張ってくれないだろうか」by土方歳三

少し前から、近藤はもしもの時のために、大久保大和という偽名を使っていました。
出頭しても近藤とわからず処刑されないだろうと土方は考えていたのです。
近藤は、土方の提案を受け入れ、新政府軍に投降。
一方、土方は隙を見てその場を抜け出し、出払っていた隊士たちに会津に向かうように指示して自らは江戸城に向かいます。
土方は、旧幕府の代表として新政府との交渉にあたっていた勝海舟に、大久保大和の助命嘆願の手紙を書くように頼みます。
しかし、土方の思惑は打ち砕かれました。
運悪く、新政府軍の中に元新選組隊士がいて、近藤の身元が露見!!

4月25日、近藤勇、斬首刑に処される

その首は見せしめとして京都・三条河原に晒されました。

土方は少したってから近藤の死を知ることになります。
最期は武士らしく切腹したいと願った近藤を出頭させたことに、小路方は後悔の念を感じていたかもしれません

盟友・近藤勇を失い、悲しみに暮れた土方。
新選組と共に・・・
江戸を発った土方歳三らは、大鳥圭介率いる旧幕府軍と合流し、東北を目指します。
京都で新選組と後ろ盾だった松平容保の会津藩を中心に、東北の諸藩が新政府軍と対決する姿勢を表明していたからです。
その道中、土方らは新政府軍が占拠する宇都宮城をわずか1日で攻め落とします。
幸先は良かったのですが・・・その後は劣勢続き・・・会津、仙台へと移動します。
その間、新政府軍の猛攻の前に、当てにしていた東北諸藩がわずか数か月で次々と降伏していき、戦況は苦しくなるばかり・・・!!
一説に、土方はこの頃こんな事を口にしたといいます。

「到底、勝算の必ず期すべきあるにあらず」by土方歳三

それでも土方は新政府軍と戦い続けていくのです。
ひとつは近藤勇のため・・・
新政府軍が近藤を罪人扱いし、処刑したことが許せませんでした。
もうひとつは、近藤と共に築き上げた新選組を守りたかったからです。
新選組がどこまで新政府軍と戦い続けられるかも届けたかったのです。

東北での劣勢が続く中、新たな出会いもありました。
仙台で夷で合流した旧幕府軍・海軍副総裁・榎本武揚です。
旧幕府軍の主力戦隊など6隻を率いていた榎本は、旧幕臣たちと共に蝦夷を開拓し、新たな独立国家を作ろうと考えていました。
松平容保の会津藩も降伏し、東北での後ろ盾を失った土方は、新天地を求め、20人余りに激減した新選組隊士を引き連れて榎本と共に蝦夷へと渡るのです。
箱館に築かれた五稜郭に拠点を置き、2か月後、榎本武揚を総裁とする箱館政府を樹立。
しかし、1869年4月、新政府軍が蝦夷に上陸。
乙部に上陸した新政府軍は、函館に向け徐々に進軍し、5月11日、奇襲攻撃をかけ、ついに箱館の町を制圧します。
すると、土方と別行動をとって弁天台場にいた新選組が新政府軍に囲まれて孤立。
土方は僅かな兵を率いて救出に向かいますが・・・そのさ中、悲劇が!!
五稜郭と弁天台場の間・一本木関門で両軍が激突!!
新政府軍の一人が放った銃弾が、土方の腹部を貫通したのです。
最期まで戦い抜いた男の突然の幕切れでした。
奇しくも盟友・近藤勇と同じ35歳でした。

その1週間後、箱館政府が降伏し、戊辰戦争は集結しました。
6年に及んだ新選組の歴史にも終止符が打たれたのです。
その後、新選組の生き残りの兵士によって、箱館の写真館で撮られたという洋装の写真が兄弟のもとに届けられました。
決して降伏することなく、どこまでの戦い続けた男がいた・・・その証として。

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長い日本の歴史では、それまでの世の中をひっくり返す大変革がいくつかありました。

天皇中心の体制を固めた大化の改新
武士が政権を作った鎌倉幕府
武士の世を終わらせ近代国家へと生まれ変わった明治維新・・・。

明治維新は、世界でもまれにみる犠牲者の少ない革命と言われています。
戊辰戦争の戦死者数は約8500人・・・明治10年の西南戦争を含めても約3万人です。
18世紀にはじまるフランス革命の犠牲者はおよそ40万人、アメリカ南北戦争は60万人と言われています。
どうして、日本では犠牲を抑えることができたのでしょうか?

そのヒントは、敗者とされた者たちです。
激動の中、敢えて困難な道を選んだ侍たちの歴史です。

ペリー来航に始まった幕末の動乱・・・
1868年、動乱はついに日本の運命をかけた武力衝突に・・・!!
鳥羽伏見の戦いです。
徳川の世か、新政府の世か、その争いは1年5カ月に及び、戊辰戦争と呼ばれました。
旧幕府軍を率いたのは、徳川慶喜・・・西郷隆盛らの新政府軍の前に敗走。
大坂城に退却し、そこに温存していた巨大な兵力で反撃に出るはずでした。
しかし、その直前・・・慶喜が密かに逃亡・・・旧幕府は総崩れとなりました。

①もしも徳川慶喜が大坂城で戦っていたら??

幕末、幕府は諸外国の圧力に屈して国を開きました。
それまで絶大だった幕府の権威は揺らぎ、乱世となりました。
その中で、天皇を中心とした新たな国家体制を望む声が日増しに高まっていました。
西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允など薩摩・長州の一部は公家の岩倉具視と連携し、密かに倒幕に動き出します。
この動きにいち早く反応したのが、将軍・慶喜でした。
1867年慶喜は討幕派に対して先手を打ちます。
政権を朝廷に返上・・・大政奉還です。

慶喜は幕府がだんだん斜陽化していくのを見ていて、このままの体制では駄目かもしれないと考えていました。
それならば、自分が将軍になった後に、即幕府を廃止してしまえば討幕派の目標は失われる・・・
そこで、新しい政府を作れば、自分が中心に改めてなり、そして日本をリードする考えでした。

大政奉還によって倒すべき幕府を失った西郷と大久保・・・
しかし、徳川を排除した政権実現のためにある計画を実行します。
12月9日、早朝・・・
薩摩兵らが天皇の住む御所を封鎖、王政復古のクーデターです。
慶喜らを中枢から排除し、天皇のもとで新たなメンバーが政治を行う新政府樹立を宣言。
当然ながら、旧幕府側は激怒!!
慶喜は、大坂城に移動・・・1万5000の旧幕府軍を従え、情勢を見守ることにしました。

1868年1月2日、旧幕府軍1万が大坂城から京へ出発!!
目的は、天皇に薩摩の討伐を願い出るためです。
旧幕府軍は、鳥羽街道と伏見、二手に分かれて北上。
京の御所を目指しました。

1月3日、旧幕府軍はその途中で、新政府軍に行く手を阻まれます。
新政府軍の兵は5000!!旧幕府軍は1万!!
そこには倍の兵力がありました。

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しかし敗北・・・
敗北の原因①突然の戦闘開始
1月3日、午後5時・・・新政府軍が鳥羽伏見の戦いの火蓋を切ったとき、旧幕府軍は大混乱に陥りました。
何故なら、旧幕府軍の目的は、あくまでも天皇に薩摩討伐を願い出る為だったからです。
その為、京への登城への途中で戦いになることを想定せず、銃に弾を込めていませんでした。
そして、伏見でも・・・賭場で鳴り響いた銃声が呼び水になって戦闘が始まりました。
伏見には、土方歳三率いる新撰組もいましたが、猛烈な火力に晒されました。
虚を突かれた旧幕府軍は、じりじりと後退します。

敗北の原因②錦の御旗
1月5日早朝・・・戦場に錦の御旗が翻りました。
これで、新政府軍が官軍で、旧幕府軍が賊軍であることが示されました。
士気をくじかれた旧幕府軍は、敗走をかさね、大坂へ撤退していきます。
鳥羽伏見の戦いを決定づけた錦の御旗・・・
仁和寺には、実際に戦場で掲げられたといわれる旗が大切に保管されています。

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御所にあった布をもらう・・・下賜されるのがこの御旗の価値です。

錦の御旗を最初に掲げたとき、旗を知る者はほとんどいませんでした。
幕府の兵隊が、「この旗はどこの藩のものか?」と、敵に聞きました。
新政府軍「これは錦の御旗だ、我々は皇軍だ」
旧幕府軍「わしらは賊か?」
噂が噂を呼んで、じわじわと賊軍となっていきました。
旗ひとつで戦局が変わる・・・如何なる軍事力でもこれには抗えなかったのです。

新政府側に錦の御旗が翻ったという知らせは、大坂城の徳川慶喜のもとにも届いていました。

「朝廷に対して刃向かう意思はつゆばかりもないのに、何かの誤りで賊名を背負うことになってしまった」by慶喜

朝敵とされたことにショックを受けた慶喜・・・そこには彼の生い立ちが深く関係していました。

1837年、慶喜は、水戸藩主・徳川斉昭と皇族での母との間に・・・水戸藩に生れます。
水戸藩は、天皇を尊ぶ尊王思想の筆頭格でした。
そこで育てられた慶喜は、幼いころから聡明で知られ、徳川の御三卿・一橋家の跡取りになります(1847年11歳)。
1864年、28歳の時、御所の治安維持を任されます。
29歳の時、14代将軍家茂が病死・・・慶喜は、15代将軍となりました。
しかし、家臣たちには慶喜の考えが日によって変わることを揶揄され、”二心殿”と呼ばれました。
1868年1月5日、錦の御旗が翻った日・・・旧幕府軍は大坂方面へ後退・・・
大坂城にいた慶喜のもとで立て直しを図る・・・!!
慶喜は家臣たちを前に檄を飛ばしました。

「この大坂城が、たとえ焦土になろうとも、断固死守しようではないか!!
 予がここで死んでも、忠義の家臣たちが志を継いでくれるだろう」by慶喜

慶喜の言葉に家臣たちは再び奮い立ちました。
大坂湾では、最新鋭の軍監・開陽丸をはじめとする旧幕府軍が、薩摩藩の艦隊を撃退!!
いよいよ反撃開始!!と誰もが確信しました。

ところが・・・1月6日夜・・・慶喜は、密かに開陽丸で江戸へ・・・!!
大坂城に残る家臣のほとんどには、何も告げずに・・・
慶喜の側近は、「なぜですか」と尋ねました。

「あの調子でやらなければ、兵が奮い立たないからだ 方便だよ」by慶喜

その後、大坂城は陥落。
旧幕府軍も瓦解しました。
こうして、戊辰戦争の初戦・・・鳥羽・伏見の戦いは集結しました。

もしも、慶喜が大坂城で戦っていたら??

鳥羽伏見の戦いは勝てたかもしれない。
でも、外国勢力の介入や、内戦の長期化を避けるため、慶喜は大坂城から逃げたのでは・・・??
悪評を背負っても、混乱が起きない道を選んだのです。

鳥羽伏見の戦いを放棄し、江戸に戻った徳川慶喜は、新政府に恭順するとしました。
しかし、新政府には西郷隆盛はじめ、なにがなんでも徳川家を攻撃し、慶喜の命を奪うべし!という人がたくさんいました。
果たして・・・慶喜の運命は・・・??
1868年1月18日、鳥羽・伏見の戦いに勝利した新政府軍は、錦の御旗を掲げ、京を出発。
東海道、東山道、北陸道の三方向から進軍し、途中にある藩を次々新政府軍に加えて江戸へ向かいました。
一方、江戸では、旧幕臣の多くが徹底抗戦を訴えていました。

”新政府軍の進軍に、江戸は殺気立ち、鎮撫するのは非常に困難である”

新政府軍と旧幕府軍との全面戦争・・・そうなれば、100万都市・江戸が火の海になる!!

江戸城に戻った徳川慶喜は、上野・寛永寺に蟄居・・・新政府に恭順の意を示しました。

「追討使を差し向けられる事態に至ったのは、全く慶喜一身の不束より生じたことである」by慶喜

しかし、
「慶喜の首を引き抜かねばおかれぬ」by西郷隆盛

西郷隆盛率いる新政府軍は、進軍を続行。
慶喜はこの時、徳川の命運を陸軍総裁の勝海舟に一任しました。
西郷は、江戸総攻撃を3月15日に行うことに決定。
両軍の武力衝突は、何としても回避したい・・・そう考えた勝は、西郷に書状を送ります。
3月6日・・・総攻撃の9日前でした。

「我が徳川が恭順を守るのは、徳川とて国家の一員であるゆえ
 今は、兄弟相争う時ではない」

それに対し西郷は、旧幕府側に降伏の条件を示しました。

・徳川慶喜の備前藩へのお預け
・江戸城明け渡し
・軍艦・軍器全ての引き渡し
・徳川家臣の処罰

慶喜の命こそは奪われないが、徳川宗家の存続は危ぶまれる・・・
勝には、到底飲めないものでした。
最悪の事態も想定していた勝・・・恐るべき戦略を練っていました。
その内容は日記に残されています。
島津家が書き残した”勝海舟日記”・・・
江戸総攻撃5日前の3月10日の日記に、勝はこう記しています。

”我も先に市街を焼いて、一戦焦土と化す!!”

新政府軍が来る前に、水から江戸に火を放つという江戸焦土作戦です。
はったり・・・??交渉材料だったようです。
勝海舟は、交渉能力に長けていました。

3月13に理、勝、西郷と直談判!!
西郷が提示した条件に対し、勝はこう訴えました。

・徳川慶喜は水戸で謹慎
・江戸城は明け渡す
・軍艦・軍器の必要数を残して引き渡す
・徳川家臣の寛大な処罰(処刑なし)

もしこの交渉が決裂すれば、江戸がし焦土になる作戦があると伝えていたのかもしれません。
勝と話し合った西郷は、態度を一変させます。

”色々難しい議論もありましょうが、私が一身にかけてお引き受けします”by西郷隆盛

江戸剃ぷ攻撃は中止、予定日である3月15日の1日前の出来事でした。

その1か月後、勝は江戸城を新政府軍に明け渡しました。
無血開城でした。

江戸総攻撃が起きていたら・・・??
新政府軍の江戸決戦は失敗したのではないか??
結局、明治維新後の日本の近代化が出来たのは、江戸時代の蓄積、土台があったからです。
一切なくなってしまっていたら・・・近代化は50年ぐらい遅れていただろうと思われます。
軍事的に負けても、江戸城攻撃を回避できた・・・それは勝海舟の勝利だったのかもしれません。

「西郷と最後まで闘った男」



江戸城無血開城の後も、新政府軍と旧幕府軍との戦いは終わりません。
会津をはじめ、北陸や東北で多くの犠牲者を出しながら、戦線は北上・・・
戊辰戦争最後の舞台は、北の大地・箱館でした。

旧幕府軍のリーダーとして新政府軍と戦った榎本武揚と土方歳三・・・二人の侍は、戦いの先に何を見たのでしょうか?
1868年4月以降・・・戦いは北へうつっていきました。
東北や越後では、最新の武器を備えた新政府軍が旧幕府に味方する諸藩を圧倒・・・
劣勢に立たされた旧幕府軍の頼みの綱は、世界有数の強さを誇った軍艦・開陽丸を中心とする海軍でした。
開陽丸を指揮するのは、海軍副総裁・榎本武揚です。

やがて、仙台と、土方歳三率いる新撰組も合流。
総勢3000人となった榎本の艦隊は、蝦夷地と呼ばれた北海道へと向かいます。
そこには、榎本の大きな野望がありました。

1836年、榎本武揚は江戸に旗本の子として生まれました。
幼いころから学問好きで、昌平坂学問所に・・・若くしてオランダ語、英語、フランス語を習得。
19歳の頃には、蝦夷地の海洋調査に随行。
箱館にも足を踏み入れていました。
1862年、27歳の時、オランダに留学。
5年の間、西洋の知識を吸収します。
中でも力を注いだのが、海の国際法でした。
その詳細な解説書「万国海律全書」は、生涯、榎本の座右の書となりました。
1867年、幕府がオランダに発注した軍艦・開陽丸を発注すると、それに乗って帰国・・・この時、32歳、幕府の若きエリートでした。

一方、土方歳三は、1835年、武蔵国の多摩の農家に生れます。
武士に憧れ、剣術の修行に励む中で、生涯の盟友・近藤勇と出会います。
1863年、29歳の時、近藤と共に上京。
新撰組を結成、藤方は副長となります。
寄せ集めの新撰組を、武士以上に武士を目指すと考えた土方は・・・
武士道に叛いたもの、組を抜けようとしたものは、切腹など、隊士らに鉄の掟を課しました。
ついた異名は、鬼の副長!!

1868年、34歳の時に戊辰戦争勃発。
旧幕府軍は劣勢になり、配送をかさねる中・・・盟友・近藤勇が新政府軍に処刑されてしまいます。
もはやこれまでか・・・

「このまま終わっては、地下の近藤とまみえることができようか!!」by土方歳三

土方は、あくまで新政府軍の戦う道を模索していました。

同じく幕臣だった榎本武揚・・・しかし、土方とは違い、この戦いの先を見据えていました。

「薩摩長州など強い藩が好き勝手に徳川の領地を没収したのは、真の王政ではない
 家臣は路頭に迷っている
 その救済を願い出たが許されなかったので、一戦を辞さぬ覚悟で江戸を退去する」by榎本武揚

1868年9月、榎本と土方は仙台で合流。
仙台城で旧幕府軍会議が行われます。 
榎本は、土方ら旧幕府軍に自分の最終目的を伝えました。

「蝦夷地に赴き、そこで朝廷に嘆願し、脱走した者たちで蝦夷を開拓したい」by榎本武揚

徳川家に仕える家臣やその家族は、30万人・・・!!
しかし、新政府は、徳川家の収入を400万石から70万石に削減してしまいます。
収入が1/6以下では、彼等を養いきれない・・・!!
路頭に迷う家臣たちを集め、蝦夷を開拓しながら北方警備にもあたる・・・
それが榎本の戦いの後の野望でした。

10月12日、総勢3000人を乗せた榎本艦隊は、仙台から函館へ出航!!
土方はその時の心境を友人への手紙に記しています。

”到底勝算があるにあらず
 我ら闘こうて快く死せんのみなり”

10月20日、蝦夷・鷲の木に上陸
1週間足らずで現地の新政府軍を破り、函館を制圧!!
榎本たちは、五稜郭を拠点としました。

新政府軍と戦ううえで、榎本が最も大切にしたのは外交でした。
箱館に在留する諸外国の領事に榎本はこう説明しています。

”我々は、反逆者でも逆賊でもない
 祖国の地で誇り高く生きる権利を持ち、武器を手にその権利を守ろうと戦う者たちである”

榎本たちが暴徒と見なされ、諸外国が新政府軍に味方をしたら・・・勝ち目はない!!
そこで榎本は、中立を守るように諸外国と交渉をかさねます。
そして、遂に、
「榎本たちは略奪者ではない
 しっかりと組織された軍隊を備えた政府である」
榎本は、自分たちを事実上の政権と認めさせることができたのです。
諸外国は、中立の立場を表明しました。

諸外国としては、勝ち馬に乗るつもりでした。
しかし、なかなか見極めきれなかったのです。
旧幕府側の圧倒的に近代化された海軍力が、ミリタリーバランスを保っていたのです。
そのミリタリーバランスが、諸外国を揃って中立で見守る立場に置いたのです。
榎本の外交を成功させた強大な海軍力・・・これが、旧幕府軍の生命線でした。

榎本海軍の切り札・開陽丸・・・!!
飛距離4キロのクルップ砲!!
開陽丸には、操船に長けた船員がたくさんいました。
それが、開陽丸の強さの源でした。
最大500人の兵を乗せることができました。

榎本艦隊は開陽丸を持っている・・・それが抑止力にもなっていました。
簡単に新政府軍も攻撃できなかったのです。

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1868年11月、旧幕府軍松前城を攻撃!!
土方を隊長とする旧幕府陸軍は、蝦夷地の南部を治めていた松前藩を攻略・・・北へ逃げる敵を追って江差へ・・・!!
榎本は、土方たちを海から援護しようと開陽丸の出撃を決断します。
ただ・・・それは・・・

「江差までつれて行って、大砲の2,3発でも撃たせてやろう」by榎本武揚

土方率いる義陸軍ばかりが活躍していたため、海軍にも功績を与えようという榎本の海運への計らいだったのです。
しかし、この判断が悲劇を生みます。
11月15日夜・・・江差沖に停泊中の開陽丸は、暴風雨に襲われました。
激しい波で、岸へ押し流され座礁・・・!!
大砲を撃ち、その反動で岸から離れようとするも沈没してしまいました。
榎本は、土方たちと共に沈みゆく開陽丸を見つめていました。

”暗夜に灯火を失ったようだ”

土方歳三嘆きの末・・・この松の下で、榎本と共に開陽丸を見ていた土方があることをしました。
真偽は定かではありません・・・が・・・
土方が何度もたたいたのでこぶが出来て曲がった・・・と。

1868年12月15日、榎本たち旧幕府軍は、蝦夷地の全域を制圧、各国の領事にその領有を宣言します。
さらに、日本初の選挙を実施、榎本が総裁に、土方が陸軍奉行並に選ばれました。
ところが、それから2週間もたたない12月28日・・・
榎本に衝撃的な知らせが舞い込みます。
諸外国が中立の撤回を布告したのです。
開陽丸が沈んでしまったことで、局外中立を保っていた諸外国からすれば軍事力に大きな違いが出てくる・・・榎本政権の行き先を見切ったのです。

このすぐ後、アメリカは新政府軍に細心の軍監を譲渡しました。
甲鉄と命名された協力な軍監です。
これで、旧幕府軍と新政府軍の海軍力は逆転してしまいました。

1869年4月9日・・・新政府軍が総勢7000人で攻撃開始。
上陸後、三方向に分かれて箱館に進軍しました。
迎え撃つ旧幕府軍にとって、開陽丸の不在はあまりにも大きかった・・・
甲鉄で、新政府軍が制海権を握ります。
旧幕府軍は、陸軍の攻撃に加えて、海からの艦砲射撃に晒されます。
しかし、海から遠い山の中に陣取る土方の部隊は違いました。
狭い一本道を見下ろす場所に銃を置き、登ってくる敵を待ち受けます。
やがて、新政府軍の兵が・・・1日に3万5000発もの銃弾を浴びせ、新政府軍を撃退したのです。
その夜、土方は、兵士に酒をついで回り、労をねぎらいました。

「少ない兵力で、大軍相手に良く守っていてくれている
 たくさん褒美を与えたいが、酔って軍規を乱すと困るので、今日はいっぱいで我慢してくれ」by土方歳三

しかし・・・その他の地域では、旧幕府軍は敗北続き・・・遂には、土方を含む全員が箱館へと撤退していました。

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5月11日・・・新政府軍は、函館へ大攻勢をかけます。
その結果、台場を守る新撰組が孤立してしまいます。
土方は、周りが止めるのも振り切って救援に向かいます。
一本木関門に到着すると、逃げようとする見方に檄を飛ばしました。

「俺はここで指揮を執る!!
 突撃せよ!!」by土方歳三

しかし、その直後・・・一発の銃声と共に崩れ落ちました。
銃弾は、腹部に命中・・・土方歳三35年の生涯でした。

武士を貫いて死んだ土方の死は、近世から近代への転換とも受け取れます。

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榎本武揚もまた、死を覚悟していました。
妻に手紙を送っています。

”もはやこの世でお目にかかれるかどうかわからない
 自分への評価は、死後、棺のふたをしめた後にわかる”

新政府軍の軍監甲鉄は、五稜郭へ繰返し砲撃!!
五稜郭が作られた時代、
海から2キロ以上離れた五稜郭には大砲の玉は届かないはずでした。
しかし、甲鉄の玉の飛距離は4キロ・・・
海から球が届くほど進化していました。

5月13日、新政府軍は榎本に投降を求めます。
榎本はこれを拒否!!
死を覚悟し、新政府軍の大将に宛ててある書物を送りました。
オランダ留学以来、榎本が肌身離さず持っていた「万国海律全書」です。

「この万国海律全書は、皇国無二の書である
 もし、戦火によってこれを失えば、痛惜の極みである」by榎本武揚

将来、日本が外国と交渉する際に、この本を役立ててほしい・・・そう願いました。
そして、武士らしく、自決のために短刀を手にしました。
しかし・・・刀を素手で掴んだ部下が、懸命に説得します。

5月18日、榎本は降伏・・・その日のうちに五稜郭を手放しました。
1年5カ月にも及ぶ戊辰戦争は、こうして終わりました。

しかし・・・戦いの行方を決定づけた開陽丸の沈没・・・。
②もしも開陽丸が沈まなかったら??
新政府軍に甲鉄が与えられなかったかもしれません。
そして、旧幕府軍は、開陽丸などの軍監がある!!
開陽丸には絶大な威力がありました。
しかし、榎本は、勝っても喜べませんでした。
何故なら、豊富な物量を誇る新政府軍にいずれは屈することになると読んでいたからです。

すると道は一つ・・・どこで負けるのか・・・??
北方警備、蝦夷地の開拓などを任されるような形で新政府と交渉したかったのでは??
旧幕臣たちの居場所を作りたかったのです。

彼等はどうして敗北を自ら受け入れたのでしょうか?
いかにどう負けるのか・・・??
家族や知人を救うため、負け方を探ってきた戦いでした。
今の時代をどう未来につなぐのか??最善の選択をしたのです。
そこには、日本ならではの負け方の美意識がありました。
その美意識が、犠牲の少ない革命につながったのです。

徳川幕府最後の将軍となった慶喜は、政治の表舞台から去り、77歳で人生の幕を閉じました。

「家康公は日本を統治するために幕府を開かれた
 私はその幕府を葬り去るために将軍となったのだ」by慶喜

榎本武揚は、北海道開拓を進める新政府軍に重用され、後に外交でも活躍します。
明治政府が作った北海道開拓使には、榎本と共に戦った旧幕府軍の幹部が登用されていきました。
北海道開拓に尽力したのは旧幕臣のエリートだけではありません。
北の大地に移住し、開拓に汗を流した者の多くは、旧幕臣や戊辰戦争で負けた藩の貧しい侍たちでした。
仙台藩の伊達家は、朝敵の汚名をすすごうと積極的に開拓に参加。
有珠に赴いた彼等は、現在の伊達市の礎を築きました。

そして、1874年、屯田兵制度が始まります。
兵員として北海道の開拓と警備にあたったのは東北の侍たちが中心でした。

箱館山には榎本が仲間と建てた石碑が残っています。
”碧血碑”・・・箱館戦争で戦った旧幕府の戦友たち800人を弔うものです。

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戊辰戦争の新視点 上: 世界・政治

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榎本武揚・・・蝦夷地、現在の北海道で明治政府とは別の政府を作ろうとした人物です。
1867年、明治維新前夜・・・将軍・徳川慶喜は、大政奉還をします。
しかし、徳川家はいまだ大きな勢力でした。
その後、錦の御旗を掲げる新政府軍と旧幕府軍が激突・・・!!
朝敵となった慶喜は、戦いに負け江戸に帰って恭順します。
しかし、徹底抗戦を・・・!!それは、幕府海軍副総裁・榎本武揚でした。

「家臣は路頭に迷っている
 その救済を願い出たが、許されなかったので、一戦を辞さぬ覚悟で江戸を退去する」by武揚

最強の軍艦・開陽丸に乗り込んだ榎本・・・目指すは蝦夷地でした。
榎本たちは五稜郭を占領!!
西洋列強の代表と交渉し、事実上の政権と認めさせます。

「我々は反逆者でも逆賊でもありません」by武揚

しかし・・・開陽丸を事故で失うと、形勢は逆転!!
やがて、蝦夷地に上陸した新政府軍との決戦に敗れました。
もはやこれまで・・・それを思いとどまらせたのは、仲間との思いでした。

かまさん 榎本武揚と箱館共和国 [ 門井 慶喜 ]
かまさん 榎本武揚と箱館共和国 [ 門井 慶喜 ]

明治維新のおよそ5年前・・・榎本武揚は、徳川幕府初の留学生として、念願の海外に出発しました。

1836年・・・榎本釜次郎は、江戸で旗本の子供として生まれました。
幼い釜次郎は、寺子屋でガキ大将・・・べらんめえ口調の江戸っ子でした。
そんな釜次郎に影響を与えたのが、父の円兵衛でした。
円兵衛は、幕府天文方に仕えて暦を研究・・・伊能忠敬の弟子として活躍しました。
そんな榎本家には、当時は珍しい地球儀がありました。
釜次郎は、広大な世界に思いをはせていました。

1851年、16歳で昌平坂学問所に入学。
釜次郎が特に力を入れて学んだのが外国語でした。
最先端の知識を得るためにオランダ語を習得、さらにアメリカから帰国したジョン万次郎の私塾にも通い、英語を学びました。

1853年、18歳の時、日本の運命を変える出来事が・・・
ペリー率いるアメリカ艦隊が浦賀に現れました・・・黒船来航です。
外国の脅威を感じた幕府は、海岸防備の強化を進めます。
幕府はその一環として蝦夷地の調査を決定!!
釜次郎は父の口添えもあり、調査に参加しました。
調査ルートは、函館から日本海側を通って宗谷岬へと北上、さらに樺太に回り、東回りで蝦夷を一周するというものでした。
19歳の釜次郎にとって、蝦夷の旅は驚きの連続でした。
箱館湾でみたのは、何隻もの巨大な軍艦・・・この年、日米和親条約が締結され、開港したばかりの箱館にはアメリカ、イギリス、フランスの軍艦が集まっていたのです。
そして、蝦夷の果てしない大空と、広い大地・・・その豊かさに圧倒されます。

靺鞨の山青一髪 
我行 此に至り
漸く豪とするに
堪えたり

3年後、22歳の榎本が向かったのは、長崎の海軍伝習所でした。
近代海軍の設立を目指す幕府が、オランダの協力を得て作った学校です。
一期上には、後に軍艦奉行となる勝海舟もいました。
釜次郎は、数学や科学をはじめ、航海術、蒸気機関の動かし方など・・・伝習所に入って4年後、思いがけないチャンスが巡ってきます。
幕府は海軍力強化のため、初めて留学生を海外に派遣することにしました。
行先は、オランダ・・・榎本は、これに志願し、15人の留学生の一人に選ばれました。

1862年、27歳の時にオランダに出発。
オランダに到着したのは10か月後でした。
榎本はこの留学で、その後の人生を大きく変えるものと出会います。
国際法です。
榎本が、プロイセンとオーストリアの戦争で、和平協定が国際法に基づいて結ばれたことを知りました。
西洋列強といえど、国同士で守らなければならないルールがある・・・
これこそ、西洋の脅威にさらされている日本に必要だと考えたのです。

”万国海律全書”・・・ヨーロッパの国同士が、長年の経験をもとに取り決めた、海事に関する国際ルールの解説書です。
外国船同士の接触が多い港で、事故など国際問題になるような事態が起きた時、どのような権利や義務が発生するのかなどが記されています。
榎本は、オランダ人教師に頼み込んで、フランス語で書かれた本をすべてオランダ語に翻訳してもらい、何度も熱心に読み込みます。
榎本の熱心な勉強ぶりに感心した教師は、こんな言葉を送っています。

「あなたはこの本を読むために400時間かけた
 私は最初、簡単に訳していたが、貴方の理解が深いことを知り、正確に訳すようになった」

榎本たち留学生たちにはもうひとつ重要な任務がありました。
幕府がオランダに発注した軍艦・開陽丸を引き取って帰国することです。
開陽丸は、全長72m、排水量2590t、当時は世界的に見ても大きな蒸気軍艦でした。
さらに、榎本はこの船にクルップ砲と呼ばれる強力な大砲を装備させました。
こうして、開陽丸は完成!!
開陽丸の完成披露では、榎本たちはシャンパンで祝杯を挙げ飲み明かしたといいます。
無類の酒好きだった榎本は、留学中に飲んだビールを気に入り、開陽丸に積んで持ち帰ったといわれています。

1867年、航海術と国際法を学んだ榎本は開陽丸と共に5年ぶりに日本に帰国。
そして、幕府より開陽丸の艦長・軍艦頭に任命されます。
榎本武揚、32歳の時でした。

開陽丸と共に帰国した榎本・・・しかし、榎本が向かったのは蝦夷地、北海道でした。
オランダから帰国して3か月後の1867年、32歳の時に結婚します。
相手は、17歳の多津・・・榎本と共にオランダへ留学した仲間の妹でした。
仕事も、私生活も、順調だった榎本・・・しかし、それは長くは続きませんでした。
結婚から半年後の、1867年11月・・・将軍・徳川慶喜が大政奉還をしました。
12月には、朝廷が王政復古の大号令を発します。
幕府を廃止し、天皇を中心とする新しい政治体制を作るという・・・!!
さらに、徳川慶喜から内大臣の地位を奪い、徳川領400万石を朝廷に返上することが決定しました。
ここに、260年続いた徳川幕府が終わりを告げます。
明治新政府が設立されました。
しかし、徳川家の処分を巡り、旧幕府軍と新政府軍が対立!!
京の郊外で、一触即発となりました。
この時榎本は、京に上る将軍を警護するため、軍艦に乗って、江戸から兵庫の港に来ていました。
榎本が家族に宛てた手紙には、もしも戦になっても勝つ自信があったことが記されています。

”我が方の兵力はおよそ3倍、勝利は十分である”

1868年1月3日、榎本の予感は当たり、戦の火ぶたが切られました。
鳥羽伏見で新政府軍と旧幕府軍が激突!!
これが、およそ1年半に及ぶ戊辰戦争の始まりでした。
兵力では圧倒的に有利だった旧幕府軍・・・しかし、旧幕府軍は敗走してしまいます。
新政府軍が錦の御旗を掲げたことで、旧幕府軍は朝敵と扱われることに大きく動揺したのです。
その場を去る兵士たちが続出しました。

翌日未明・・・1868年1月4日、榎本のいる兵庫港でも戦いが始まりました。
兵庫沖から新政府軍の船が出航しようとしたところを、榎本率いる開陽丸がクルップ砲で砲撃!!
1隻を撃沈して、他の船も追い払いました。
海上では、榎本たち旧幕府軍が圧勝でした。
しかし、陸上の敗戦がひびき、旧幕府軍は劣勢になっていきます。
2日後・・・榎本たちは戦況を立て直すために大坂城に入城。
徳川慶喜が出席する中、今後の戦略を話し合いました。
兵力に勝る旧幕府軍・・・結論は、徹底抗戦でした。
しかし・・・その夜、慶喜は密かに側近と共に開陽丸に乗り込み、江戸に逃亡!!
置いてきぼりを食った榎本は、こうつぶやきました。

「将軍たち重臣の無策に、ますます驚き失望した
 徳川家の命運これまでと、血の涙が止まらなかった」by武揚

榎本たちは、大坂城に残された兵と共に、別の軍艦に乗り込み、江戸へ帰りました。
その中には、幕府の命を受けて京都の治安を守っていた新撰組の面々もいました。
その後、改めて会議が開かれましたが、意見は真っ二つ!!
明治政府に従う恭順派と、あくまで戦い続ける徹底抗戦派!!
恭順派には慶喜や、軍の全権を担う勝海舟が・・・抗戦派には、榎本や陸軍奉行並の小栗忠順がいました。
榎本は、恭順を支持する慶喜にこう言い放ちます。

「慶喜さまは、腰が抜けたのか!!
 いまさら恭順とはどういうことか!!」by武揚

しかし、榎本の意見が取り入れられることはありませんでした。
それからおよそ1か月・・・慶喜は新政府軍に恭順の意を示し、上野・寛永寺に蟄居。
その後の一切を、勝海舟に託しました。
その間、新政府軍は東に進軍!!江戸総攻撃は目前に迫っていました。
3月13日、勝は、新政府軍の責任者・西郷隆盛に直談判します。
武装解除の条件をのみ、江戸城を引き渡すことで総攻撃を回避しました。
いわゆる無血開城です。

定説の検証「江戸無血開城」の真実 西郷隆盛と幕末の三舟 山岡鉄舟・勝海舟・高橋泥舟 [ 水野 靖夫 ]
定説の検証「江戸無血開城」の真実 西郷隆盛と幕末の三舟 山岡鉄舟・勝海舟・高橋泥舟 [ 水野 靖夫 ]

翌月、榎本は勝の自宅を訪問・・・相談をしています。
それは、蝦夷地の開拓でした。
徳川宗家は、明治政府の処分によって駿河への移封が決まり、石高が1/6に減らされていました。

「生活に困窮する幕臣を救うため、蝦夷地を開拓できないだろうか」by武揚

「するべきではない」by海舟

旧幕府の了承が得られないのなら、実力行使しかない!!
榎本の胸中は決まりました。
徳川宗家が駿河にうつされたのを見届けて、8月20日未明、開陽丸に向かいました。
榎本は、旧幕臣ら1600名を連れて、無断で開陽丸を出航します。
家族を残しての旅立ちでした。
出発直前、榎本は新政府軍に対して通告文を送っています。

”王政復古と称しながら、薩摩・長州などの強い藩が好き勝手に徳川の領地を没収し、幕臣や旗本らを窮地に陥れたのは、真の王政ではない
 家臣は路頭に迷っている
 その救済を願い出たが許されなかったので、一戦を辞さぬ覚悟で江戸を退去する”

さらに、勝に対しても謝罪の手紙を送っています。

”あなたを煩わせてしまい、申し訳ない”

開陽丸の進路は、北!!
目指すは旧幕府軍の拠点・仙台でした。
ところが、榎本たちが仙台に到着して間もなく、仙台藩も新政府に降伏してしまいます。
そんな中、心強い味方と再会します。
新撰組の土方歳三や、旧幕府の陸軍です。
新政府軍と交戦の末、北上していました。
そして榎本は、土方たちを加えた仲間に、こういいました。

「蝦夷地に赴き、そこで朝廷に嘆願し、脱走した者たちで蝦夷を開拓したい」by武揚

1868年10月12日、榎本は、2800人ほどの仲間と共に、開陽丸をはじめ8隻の船で蝦夷地へ出発しました。
この時、32歳でした。

1868年10月20日、蝦夷地上陸!!
一行は、警備の厳しい函館港を避け、北側の鷲ノ木から上陸します。
榎本はまず明治政府の拠点となっていた五稜郭にあって嘆願書を送りました。
上陸は戦闘ではなく開拓のためである・・・これを許可してほしいとおいう内容でした。
しかし、明治政府は嘆願書を無視、武力衝突へと発展します。
榎本の軍は函館へと南下、10月26日、五稜郭を占領します。
ここでも榎本は、古くから蝦夷の南部を治める松前藩に手紙を送ります。
共存共栄を図りたいという趣旨のものでした。
しかし、明治政府の統治下にあった松前藩は、榎本の使者を斬り、返答しませんでした。

ここに至り榎本は、松前城に攻撃を開始!!
土方歳三率いる陸軍部隊が一斉攻撃を浴びせ、わずか1日で松前城は陥落しました。
戦いのさ中、榎本が最も重要視したのは外交でした。
明治政府軍と戦うには、西洋列強が干渉せず、中立を保つことが不可欠だったからです。
榎本は、函館に在留していた各国領事に、自らの立場を表明します。

”我々は、反逆者でも逆賊でもありません
 祖国の地で、誇り高く生きる権利を持ち、武器を手にその権利を守ろうと戦う者たちなのです”

オランダ留学時代に身に着けた語学と国際法を武器に、榎本はイギリスやフランスなど各国の代表と交渉・・・
榎本は、自分たちを事実上の政権として彼等に認めさせ、中立を認めさせました。
これが後に、蝦夷政権と呼ばれるものです。
諸外国が明治政府に味方して、榎本たちを攻撃すれば、榎本の構想が一気に崩れてしまう・・・!!
榎本としては、味方にならなくてもいいから、局外中立だけは守ってほしいと・・・
外国との交渉が重要で、それが蝦夷政権を樹立できた要因でした。

その後も、陸軍部隊は着々と蝦夷地を進軍していきます。
土方歳三たちの活躍を聞いた榎本は、軽い気持ちでこういいました。

「蝦夷地上陸以来、陸軍ばかりが活躍して、海軍兵たちの不満が募っている
 気休めに、江差まで連れて行って、大砲の2.3発でも撃たせてやろう」by武揚

この一言が、運命を大きく変えることになります。

1868年11月15日・・・榎本は、江差方面で戦う陸上部隊を支援するため、軍艦・開陽丸を移動させます。
そこへ、運悪く猛吹雪が襲い、船が座礁・・・!!
岩場に挟まった開陽丸は、船底が破れ沈没しました。
沈みゆく船を、榎本と共に見ていた兵が、この時の心境を書き残しています。

「暗夜に灯火を失ったようだ」

丁度その頃、東北地方の反政府勢力を平定した明治政府軍が、青森に集まってきていました。
冬が過ぎ、春になったら一気に攻撃を仕掛けようと準備を整えていました。
一方、榎本は、冬の間に政権の体制を整えていきます。
アメリカに習い、投票で新政府の役職を決めています。
明治政府に20年以上も先駆けて行われた日本初の選挙です。

1868年12月15日、33歳の時・・・そこで榎本は、総裁に選出されます。
蝦夷は、独立国への道を着々と歩んでいるように見えました。
しかし・・・12月28日、榎本たちを事実上の政権と認めていた諸外国が、中立の立場を撤回、明治政府支持に回りました。
榎本たちの最大の戦力だった開陽丸を失ったことが、諸外国の態度を変えさせました。
これによって、榎本たちは頼れるものを失い、明治政府軍と武力を持って戦うしか無くなるのです。

1869年1月、榎本は、東京にいる妻と家族に手紙を送ります。

”もはや、この世でお目にかかれるかどうかわからない
 自分への評価は、死後、棺の蓋を閉めた後にわかる”

1869年4月、明治政府軍が蝦夷地に上陸。
8000の大軍で、函館を目指して進軍します。
対する旧幕府軍は、3200!!
防衛線は次々突破されてしまいます。
5月11日、箱館戦争開始!!
明治政府は函館を総攻撃します。
この日、激しい戦闘を繰り広げてきた土方歳三が、敵の銃弾に斃れました。
もはや、榎本たちの敗戦は明らかでした。
明治政府軍に降伏を促されて拒否、死を覚悟し、明治政府に手紙と共にある書物を送りました。
留学時代から肌身離さず持ち歩いていた”海律全書”です。

”この万国海律全書は、皇国無二の書である
 もし、戦火によってこれを失えば、痛惜の極みである”

これからの日本のために、この本を役立ててほしい・・・という願いでした。
これを受け取った明治政府軍の総指揮官・黒田清隆は、榎本の志に胸をうたれ、酒とマグロを送ったといいます。
その夜、榎本は切腹を覚悟!!
短刀を手にしました。
しかし、気配を察した部下が駆けつけ、短刀を素手でつかんで・・・

「ここで死ぬべきではありません!!」

榎本は、部下の指が切れ、血が流れているのを見て思いとどまったといいます。
翌朝、榎本は、これまで共に戦ってきた仲間に感謝を述べ、降伏する旨を伝えました。

1869年5月18日、箱館戦争終結!!

榎本34歳の時でした。

箱館で敗北した榎本は、滅びゆく幕府と運命を共にしようと考えていました。
しかし、そのわずか3年後、榎本は政府から北海道の開拓を任されます。

箱館戦争の首謀者として捕らえられた榎本は、東京の牢獄に入りました。
榎本は、家族に宛てて、手紙を何通も送っていますが、中身は意外なものでした。
オランダ留学でみにつけた様々な知識や技術が延々と書かれていました。
石鹸やろうそくの作り方、ブランデーの蒸留方法、卵の人工ふ化器の作り方が、詳細な絵図と共に書かれています。
自分の死後、日本の産業のために役立ててほしいという言葉が添えられていました。
そんな榎本に救いの手を差し伸べたのが、政府高官の黒田清隆でした。
箱館戦争では、薩摩の軍人として榎本と戦いました。
黒田は、その時榎本の海律全書の翻訳を福沢諭吉に依頼しました。
しかし、福沢は数ページを訳すと黒田に

「本当にこの本を訳すことができるのは、榎本以外にはいない
 榎本に頼めないようでは、国家のために残念である」by諭吉

明治政府では、榎本を厳罰に処すべしという声が大きかったのです。
しかし、黒田は榎本の非凡な才能を惜しみ、粘り強く嘆願しました。

「榎本こそ、欧米と対等に渡り合える人物・・・殺すべきではない!!」

遂には、
「この通りだ、私の頭に免じてくれ」と、丸坊主に剃り上げました。
黒田は、3年間、嘆願を続けます。
その甲斐もあり、政府は榎本の赦免を決定します。

江戸無血開城の深層 NHK英雄たちの選択 [ 磯田道史 ]
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その頃、岩倉使節団が欧米に向かう頃でした。
榎本の処罰がどうなるか、諸外国からみられていました。
もし、処刑になれば、日本は立ち遅れた国家だと思われてしまう懸念がありました。
榎本は、欧米の文化を体験した数少ない武人・・・
明治政府は、有能な人材を手に入れたのです。
黒田はこの頃、北海道開拓の責任者でした。
榎本を良く知る黒田は、牢獄にいるときから釈放されたら開拓の手伝いをしてほしいと誘っていました。
榎本は、自分は徳川家に仕える者で、明治政府に仕える気はないと断り続けていました。
しかし、数か月後、考えを変え、これを受け入れます。

”君恩 いまだ報いず 今日にあう”

主君の恩に、未だ報いられず、今日を迎えている・・・
その”君恩”の横にルビをうって、国為と書いています。
「君恩」は徳川幕府を指します。
オランダ留学は、徳川幕府のお金で学んできました。
形は違えど、幕末は徳川幕府のため、明治以降は近代日本発展のため、人々のために役に立つようなことを学んできたことの中から、お返ししなくてはいけない・・・!!

1872年、榎本は37歳で釈放されます。
その後、政府の役人として、北海道開拓に尽力・・・かつて蝦夷地を探索した知識で次々と農場を開墾、そして日本最大級の炭田を発見し、石炭を輸送するための鉄道も建設します。

1873年、38歳で長男誕生。
子供は金八と名付けました。
自分の幼名・釜次郎の釜から取ったものです。
開拓に従事したのち、榎本は外交官として海外を飛び回りました。
家族と過ごす時間は少なかったものの、多くの手紙のやり取りをしています。

榎本は、明治政府で大臣にまで上り詰めたが、晩年まで旧幕臣の援助を忘れませんでした。
俸禄を失い、暮らしに困る旧幕臣の子供たちのために、1885年、50歳の時に徳川育英会・・・奨学金制度を設立。
箱館戦争の時に、榎本の切腹を止め、指が不自由になった部下を、自分が設立した会社に招きました。
そして、1908年10月26日、73歳の生涯を閉じました。

亡くなる前、榎本はある場所を訪ねています。
箱館山にある碧血碑・・・箱館戦争の死者・800名を弔うため、榎本たちが建立しました。
碧血とは、”忠義を貫き亡くなった者が流した血”です。
石碑の裏にはこう書かれています。

”山上に石を立て、もってその志を表す”

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江戸時代、幕末動乱の京都・・・町では無差別に人が斬られ、放火や恫喝が横行・・・
そんな京の町の治安を守ろうと結成されたのが、局長・近藤勇が率いた幕末最強の剣客集団とも称される新選組です。
そんな新選組が一躍有名となったのが・・・1864年6月5日、池田屋事件です。
発端は、江戸幕府と対立する長州藩などの尊王攘夷派の志士たちが京都の町を大混乱に陥れ、とんでもない計画を企んでいることが発覚したことでした。
京都の町を震撼させた池田屋事件!!その一日とは・・・??

当時江戸幕府は、欧米列強の開国要求に屈したことで、諸藩からの信頼を失い、急速に弱体化・・・
そこで、朝廷に近づき、共に政治を行うことでなんとか幕藩体制の再強化を図ろうとしていました(公武合体)。
14歳将軍・徳川家茂と、孝明天皇の妹・和宮の婚礼を推し進めたのもその為でした。
この公武合体に激しく反発したのが長州藩を中心とした尊王攘夷派でした。
すぐさま外国勢を打ち払い、時の天皇・孝明天皇を中心に政治を行うべきだと主張します。
そうした尊王攘夷派の一部の志士たちは、天誅と称して対立する幕府側の要人や、その家族を襲撃するなど過激な行動に出ていました。
そこで、悪化の一途をたどる供与の治安を守るために結成されたのが、新選組でした。
京都守護職を務める会津藩主・松平容保の配下におかれ、新選組は市中の警備を任されます。

土方歳三日記 上: 生い立ち、上京、新選組結成、そして池田屋事件 (ちくま学芸文庫)

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池田屋事件当時、新選組の隊士は40名ほど・・・
局長・近藤勇、副長・土方歳三、そして沖田総司、斎藤一、永倉新八、原田左之助、島田魁などがいました。
隊士のほとんどは農民や町民の出身でしたが、剣術道場で研鑚を積んでいました。
腕の立つ強者ぞろいだったのです。
斬捨御免の特権が与えられていたこともあり、尊皇の志士たちからは鬼神のごとく恐れられていたといいます。
対する尊王攘夷派の主なメンバーは、長州藩・桂小五郎・・・後の木戸孝允です。
長州藩から京都留守居役を命じられた桂は、京都にある長州藩の屋敷に滞在し、密かに尊王攘夷派の志士たちと連絡を取り諜報活動を行っていました。

そんな中、事態が動き始めます。
池田屋事件の4日前・・・6月1日。
この頃、新選組はある男の行方を血眼になって探していました。
桂小五郎と並ぶ尊王攘夷派の肥後藩・宮部鼎蔵です。
幕府や新選組は宮部を危険人物としてマークしていたのです。
宮部は、同じ尊皇思想である吉田松陰と親友でした。
処刑された吉田松陰の志を継ぐべく、京都での尊王攘夷運動に参加します。
さらに、宮部には長州藩と共に企んでいる噂が・・・

”御所に火を放ち、会津の容保公と中川宮の首を狙っている”

この時、長州藩は前の年に起こった政変によって朝廷から締め出され、京都の町からも追放されるという憂き目にあっていました。
その政変の首謀者だった会津藩・松平容保と宮家・中川宮二人の命を宮部が狙っているというのです。
当然そのたくらみを阻止したい新選組・・・しかし、なかなか宮部の行方がつかめません・・・。

この日も、手掛かりを求め、宮部がかつて定宿にしていた南禅寺塔頭の前で張り込んでいました。
すると、宮部の下で働く小間使いの忠蔵がやってきたのです。
忠蔵をすぐにとらえた新選組は宮部の行方を厳しく追及しますが、なかなか口を割りません。
そこで、作戦を変更し、忠蔵を利用することに・・・。
南禅寺の山門に忠蔵をくくりつけ晒し者にしたところ・・・仲間が救出に来ました。
新選組は気付かれないように忠蔵の後をつけたのです。
忠蔵の向かった先は、市場にある桝屋という店でした。
新選組はにわかに色めき立ちます。
何故なら、この桝屋、幕府側が尊王攘夷派と関係があるかもしれないと目をつけていたからです。

”表向きは、薪や炭などを扱う店だが、下働きの男2人を召し抱えている以外、家族もなく、町内の付き合いも致さず、不審である”

新選組局長・近藤勇は、すぐに桝屋を調べるように指示・・・
張り込みや聞き込みを続けました。
その結果、桝屋の主人・古高俊太郎と尊王攘夷派の志士たちの深いつながりがわかってきたのです。
果たして桝屋主人・古高俊太郎と尊王攘夷派の関係は・・・??
近江出身の古高は、儒学者で尊王攘夷派の指導者・梅田雲浜の弟子でした。
しかし・・・1859年、雲浜は安政の大獄で投獄中に病死していました。
古高は、その志を継ぎ、京都での尊王攘夷運動に参加します。
その後、縁あって、桝屋に養子に入り”桝屋喜右衛門”を名乗りました。
古高は、商人という隠れ蓑を利用し、諜報活動に没頭・・・
いつしか桝屋は、尊王攘夷派の活動拠点となっていきます。
実は桝屋、筑前藩御用達であったため、武士である尊王攘夷派の志士たちが出入りしても、目立たなかったので、重用されていました。
そして、新選組が行方を追っていた宮部鼎蔵も桝屋に仮住まいし、活動拠点にしていたのです。
さらに、古高は長州藩からある重要任務を任されていました。
それは、長州藩に朝廷の情報を提供する連絡役だったのです。
当時、朝廷内の重職は、幕府派で占められていましたが、有栖川宮は数少ない長州派でした。
有栖川宮は、幕府の介入によって孝明天皇の妹・和宮との婚約を破棄されていました。
和宮は、結局14代将軍・家茂に嫁いでいます。
長州藩は、有栖川宮熾仁親王を足掛かりに、朝廷での復権を目論んでいました。
しかし、古高と有栖川宮とのつながりは・・・??
古高は、父親の代から山科にある毘沙門堂の門跡に仕えていました。
その門跡が、有栖川宮の叔父であったため、古高は有栖川宮との交流があったのです。
長州藩にとって、古高はまさに好都合な人物だったのです。
古高俊太郎は、長州藩と朝廷を繋ぐ重要な連絡係であり、尊王攘夷派の志士たちの強力な支援者だったのです。

近藤勇は、桝屋の摘発を命じます。
1864年6月5日、池田屋事件当日早朝・・・
緊張の面持ちで、四条にある桝屋へと向かう新選組の隊士たち・・・
この時、尊王攘夷派の志士たちが潜伏しているというとの情報を得ていました。
ところが、いざ桝屋へ乗り込んでみると、中にいたのは主人の古高俊太郎ただ一人・・・!!
実は、京都に残ることを許された長州藩士たちが、忠蔵が捕まったと聞き危険を感じて、宮部鼎蔵ら尊皇攘夷派の志士たちを藩の屋敷に匿っていたのです。
してやられた新選組の面々・・・
しかし、このまま手ぶらで帰るわけにはいきません。

「徹底的に調べ上げろ!!」

すると、奥にあった蔵の中から、刀や鉄砲など大量の武器と甲冑が出てきたのです。
それは、古高が来るべき時に備え、買いそろえていたものでした。
さらに、志士たちが書いた命を懸けて戦うとの血盟書や長州藩との書簡も出てきました。
そこには・・・
”御所に火を放ち、会津藩主・松平容保、宮家の中川宮を襲撃する”
と・・・襲撃をほのめかす内容が書かれていたのです。

尊王攘夷派が企む過激な計画の確かな証拠をつかんだ新選組は、古高を連行し、意気揚々と壬生の屯所に引き上げていきました。
そしてこの日の夜、池田屋事件が起きるのです。

6月5日、池田屋事件当日・午前・・・
古高を三部の屯所に連れ帰った新選組は、さらに厳しい尋問を行いました。
担当したのは、鬼の副長・土方歳三でした。
土方は、古高を逆さづりにし、拷問にかけます。
五寸釘を古高の足の甲に打ち込み、貫通させた上でそのくぎにロウソクを立てました。
火を点け、暫くすると熱いロウが古高の傷口に滴り落ちていきます。
たまらず、大きなうめき声をあげる古高・・・
それでも、もだえ苦しみながら耐え忍んでいましたが、30分ほどで観念・・・
一説には古高はこう白状したといいます。

「6月22日ごろ、風が強ければ御所を焼き打ちし、帝を奪い去り、山口城へと連れ去る謀反を企んでいる
 その為、大勢の長州人が京都に潜伏している」

松平容保や中川宮を襲撃するどころか、孝明天皇を長州藩の山口へと連れ去ろうとしているというのです。
天皇が連れ去られるなど、前代未聞・・・!!
これは一大事です。
当然、市中の取り締まりを任せられていた新選組の面目も丸つぶれに・・・
なんとかしなければ・・・!!

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古高俊太郎の自白によると、御所襲撃計画の実行は6月22日ごろ・・・
この時は6月5日でしたが、近藤勇は焦っていました。

「我々が古高を捕らえたことで、やつらは慌てて事を起こすかもしれん!!
 ・・・!!
 今日は宵々山か・・・!!」by近藤勇

この日は、祇園祭の直前に行われる祭り・宵々山の日でした。
毎年、町には大勢の見物客が訪れます。
近藤はその混乱に乗じ、尊王攘夷派の志士たちが仕掛けてくると、考えたのです。
すぐに、京都守護職で新選組を統括する会津藩主・松平容保に事態を報告!!
そして、潜伏する志士たちを摘発する為に支援を要請しました。
これに対し、会津藩は・・・

”一橋様 桑名様 町奉行と相談の上 人を差し出そう
 夜五つ時 祇園会所前で待つよう”

この時、京都の警備にあたっていたのは容保の会津藩の外、禁裏御守衛総督・一橋慶喜、容保の弟で京都所司代の松平定敬の桑名藩、そして京都町奉行所などでした。
会津藩は、それぞれに根回しして援軍を送るので、夜5つ時・・・9時ごろに八坂神社近くにある祇園会所前で合流しようというのです。

その頃、尊王攘夷派の志士たちは・・・
古高が捕縛されたと聞き、長州藩の屋敷に次々と集まってきていました。
重要な協力社を奪われ、今後どうするのかを激論を交わします。
一説に、その席には尊王攘夷派のリーダー・宮部鼎蔵や、長州藩主の吉田稔麿などもいたといいます。
吉田は、松下村塾出身で、高杉晋作、久坂玄瑞と共に”三秀”に数えられ、将来を嘱望された若者でした。
そして、宮部と吉田の二人は、この夜起こる池田屋事件に巻き込まれることになるのです。

池田屋事件当日昼過ぎ・・・
新選組は、夜の摘発に向けて早くも動き出しました。
局長・近藤勇は、病に伏していた一部の者を屯所に残して34人で出動することにします。
潜伏する尊王の志士たちに気付かれないよう、数人に別れ分散して出動させました。
さらには、武器や甲冑などをまとめて大八車に乗せ隠しながら運びました。
慎重に事を進めたのです。

池田屋事件当日8時ごろ・・・
準備を整えた新選組は、まだ会津藩との約束前でしたが、それを待たずに動き出します。
近藤は、隊を自分が率いる組(10人)と、土方歳三が率いる(24人)二つに分けます。
土方率いる24人に祇園界隈の捜索をはじめませます。
この時近藤は、潜伏先を祇園と三条周辺にある茶屋や旅籠など二十数カ所に絞っていました。
茶屋は、会員制で不審なものが入ってくることはなく、芸妓の口が固かったので、情報が漏れにくかったのです。
旅籠は、様々な場所からいろいろな身分の人が宿泊したので、志士たちは紛れ込みやすかったのです。

そして会津藩との約束の9時・・・
約束の時間になっても、援軍はやってきませんでした。
どうして幕府の援軍は来なかったのでしょうか??

援軍は、来るには来たのですが、かなり遅れてやってきました。
遅刻した理由は、色々説がありますが・・・
①会津藩が根回しに時間がかかってしまった
②新選組とは違う作戦で摘発するつもりだった
夜9時ごろの集合時間はあくまで目安で、会津藩は指示を出すまで配下の新選組は動かないと思っていたのです。
援軍が期待できない中、近藤率いる10人も動き始めました。
しかし、尊王攘夷派の志士たちの潜伏先はいまだ不明・・・目星をつけていた個所を探していくほかありません。
祇園周辺と三条周辺の二手に分かれて捜索する新選組・・・
先に土方歳三率いる24人が祇園周辺を調べていましたが、なかなか見つかりません。
一方、近藤が率いる10人は、四条通から木屋町通りを北上し三条へと向かいます。
この辺りには多くの旅籠は軒を連ねていたからです。

池田屋事件当日夜10時ごろ・・・
そんな中、新選組は三条にある旅籠・池田屋で長州藩と尊王の志士たちが密会をしていることを突き止めます。
尊王攘夷派の志士たちはどうして池田屋にいたのでしょうか?
当時、長州藩京都留守居役だった桂小五郎は、この時のことを後にこう書き残しています。

”かつて古高と同盟していた者を三人選んで古高救出に加わることを許し、他の者が門を出ることを禁じた
 私もこの夜、池田やで会合する約束をしていた“

古高が長州藩と朝廷の一部との窓口になっていたので、新選組に捕縛された古高俊太郎をいかにして奪還するか相談するための会合でした。
”すぐに奪還すべき”という過激派と、”慎重に状況を見極めるべき”という慎重派に分かれていました。
一説に、宮部鼎蔵や吉田稔麿は、過激派を思いとどまらせようと池田屋にやってきたともいわれています。

近藤勇は、近隣の者から池田屋の間取りを聞き出します。
建物には、三条通側にある表口の外に、裏手にも出入り口があることが分かり、近藤はそれぞれに3人の隊士を配置、そして、近藤・沖田総司・永倉新八・藤堂平助の4人で中へ踏み込みます。

夜10時30分頃・・・
近藤は、怯むことなく踏み込んでいきました。
すると、奥から旅籠の主人が出てきました。

「今宵、御用改めである」by近藤勇

驚いた主人は、急いでおくに・・・2階に向かって

「御用改めでございます!!
 御用改めでございます!!」by池田屋主人

そう叫びます。
池田屋は、元々長州藩の定宿で、何かと尊王攘夷派の志士たちに融通をきかせていました。
近藤は、主人を殴り飛ばし、奥の階段から沖田と共に二階へ上がります。
するとそこでは・・・十数人の志士たちが、密会していたのです。

「手向かい致せば容赦なく切り捨てる!!」by近藤勇

志士の一人が斬りかかってきました。
沖田はそれをかわし、すかさず切り捨てたのです。
すると、尊王攘夷派の志士たちの大半が、吹き抜けになっていた中庭や裏庭に飛び降りたため、近藤は急いで1階に向かいます。
その直前、沖田総司が突然倒れてしまうのです。
今までは、持病の結核で喀血し倒れたと言われていましたが、喀血なら医学的にそれ以後4年も生きられないのではないのか??と言われています。
最近の説では、暑さにやられて熱中症だったのではないか?と言われています。
いずれにしても、剣の達人の沖田の離脱は、新選組にとっては大きな痛手でした。
近藤、永倉、藤堂のわずか3人で戦うこととなった新選組・・・
そこで近藤は、永倉には表口付近の台所で、藤堂には中庭付近で戦うように指示・・・自分は奥の間で敵を迎え討ちました。
すると・・・まず、永倉が表口に逃げようとする敵を続けざまに後ろから仕留めました。
一方、中庭付近にいた藤堂は、敵に額を切られてしまいます。永倉が助太刀し、命だけは助かりましたが、出血が激しく、藤堂も離脱・・・残るは、近藤と永倉の二人だけ!!
絶体絶命のピンチ!!
しかも、近藤は大勢を相手に苦戦!!
その時のことを、永倉は晩年、こう振り返っています。

「近藤は、2、3度斬られそうになっていた」

その窮地を救ったのが、新選組最強の一人に数えられていた永倉その人だったのです。
永倉の余りの強さにおののき、一部の尊王攘夷派の志士が降伏・・・
丁度その頃・・・一報を聞いた土方歳三率いる一団が、ようやく祇園から駆けつけました。
一気に形勢は逆転、土方や、島田魁などの活躍により、新選組は池田屋にいた尊王の志士たちを見事鎮圧したのです。
踏み込んでから、1時間半ほどが経っていました。

6月6日、深夜0時半ごろ・・・
会津藩や、桑名藩など幕府の援軍が到着しました。
新選組は、援軍と共に潜伏する残党をも一網打尽にしたのです。
近藤勇によると、池田屋とその周辺を含め、新選組は7人を斬殺、4人を手負いにし、23人を召し捕ったといいます。

しかし、この時亡くなった長州藩や尊王攘夷派の志士たちの身元についての詳しい記録は残っていません。
一説に、尊王の志士たちのリーダー格だった宮部鼎蔵は池田屋で自刃、長州藩士の吉田稔麿は、援軍を呼ぼうと長州藩邸に戻る途中に討ち取られたと言われています。

幕末最強の剣客集団・新選組が、京都三条にあった旅籠・池田屋で密会する尊王攘夷派を襲撃した池田屋事件・・・
この池田屋での会合に、長州藩京都留守居役の桂小五郎も出席する約束を交わしていましたが、難を逃れています。
後年、桂はこう記しています。

「約束の刻限に池田屋に行ったが、まだ誰も来ておらず、一度池田屋を後にし、対馬藩の屋敷で待たせてもらっていた
 その後、新選組が池田屋を襲撃した」

なんと、桂は、新選組とニアミスしていました。
そして、すんでのところで難を逃れていたのです。

一方、事前に尊王の志士たちの過激な計画を阻止し、京都を混乱から守った新選組は、幕府から総額600両、の報奨金が与えられ、新選組の名を天下に知らしめたのです。
しかし、この時、多くの同志を殺された長州藩から大きな恨みを買ったことで、やがて新選組の運命は一転・・・
時代の波に飲み込まれていくことになります。

池田屋事件から3年・・・長州藩が、薩摩藩と手を組み倒幕を叫ぶと、15代将軍・徳川慶喜は、あっさりと政権を返上。
しかし、江戸幕府が終わりを告げても、なお、徳川に忠義を尽くし続けた新選組は、逆賊となってしまうのです。
局長・近藤勇や、土方歳三は、旧幕府軍と共に最後まで抵抗を続け、無念の死を遂げていきます。
池田屋事件での新選組の活躍は、長州藩をはじめとする尊王攘夷派に、大きな打撃を与え、明治維新が1年遅れたともいわれています。
しかし、時代の波には逆らうことが出来なかったのです。
そう思うと、池田屋事件は、幕末最強の剣客集団と畏れられた新選組のハイライト・・・最後の花道だったのかもしれません。

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