五代将軍・徳川綱吉・・・綱吉は、幕府政治の大転換を図り、武断政治から文治政治を目指したとして再評価されています。
就任早々「民は国の本なり」と宣言しています。
そこにあるのは、民への慈悲に溢れる名君の姿でした。
しかし、生類憐みの令は、民を苦しめた史上まれにみる悪法として名高いものがあります。
徳川綱吉と生類憐みの令・・・理想に燃えた将軍は、どうして暴走していったのでしょうか??
儒学を重んじ、文治政治への大転換を目指した将軍・綱吉・・・
一体どのような人物だったのでしょうか??
1646年、綱吉は、三代将軍・徳川家光の四男に生れました。
母は側室で、庶民の出だったと言われています。
将軍となることは、全く期待されていなかった綱吉・・・
若いころからのめりこんだのが儒学でした。
”徳川実記”にはこう記されています。
”綱吉公は、儒学の経典を学ぶことに打ち込み、病の時にも書を手放すことはなかった”
学芸に秀でた一門の大名として生きる道を歩んでいた綱吉・・・
しかし、その運命は35歳の時に一変します。
1680年、四代将軍である兄・家綱が死去。
家綱には子がなく、綱吉の2人の兄も若くして亡くなっていました。
図らずも、綱吉は次期将軍の有力候補となりました。
しかし、政治の実権を握ってた老中の中には綱吉の就任に異を唱える者もいました。
綱吉の治世を記した”御当代記”によれば、大老・酒井忠清は次のように主張したとされます。
「綱吉公には、天下を納める様な気量はない」
時の最高権力者の猛反対・・・
これに対し、綱吉を強硬に推した人物が、老中・堀田正俊でした。
後に、綱吉の政治を支えることとなります。
堀田家に残る”伝徳川家綱遺言状”・・・死の床にあった家綱が、堀田に対し、今後のことを支持した文書です。
「その方が提出した書付の内容はいかにももっともである
そのように計らうように」
堀田家では、これを次の将軍は綱吉にするという許可をいただいたと理解しています。
正俊自身は、次の将軍は血筋の通った綱吉でなくてはいけないと考えていました。
それを一番に後押しする大事な書類でした。
1680年8月、綱吉は、第5代将軍に就任しました。
その頃、幕府政治は大きな曲がり角に差し掛かっていました。
全国的な天候不順が何年も続き、凶作から飢饉が蔓延・・・
にもかかわらず、代官たちによる過酷な年貢の取り立てが横行していました。
代官の中には、代々その土地を支配し、領民を自分の持ち物のように考える者も多く、各地で農民の騒乱を引き起こしていました。
こうした社会の在り方を見直すべく、綱吉と堀田は一大政治改革に乗り出しました。
将軍となって1か月・・・堀田の名で、7箇条からなる命令が代官たちに下されました。
”民は国の本なり
代官は常に 民の辛苦をよく察し 飢えや寒さの憂いのないように申しつけられるべし”
民生の基本的な心得を、代官たちに知らしめ、違反する者はことごとく罷免し、新たな代官と後退させたのです。
儒学・・・”仁政”・・・民には慈しんで優しく父母のごとく・・・
単に儒学を知識として知っているということではなく、「実践」し、民衆統治の高らかな宣言でした。
「天保の改革」と同じようなレベルで「天和の改革」と言っていいくらいの政治的な改革がそこにはありました。
堀田正俊は、かねてから儒学への造詣が深く、領地でも仁政を志していました。
綱吉は、そんな堀田を大老に任じ、新たな政治を目指しました。
後に、天和の治と呼ばれる改革です。
2人が模範とした儒学は、孔子を始祖とし、理想の政治の在り方を追求する学問です。
為政者が徳を積み、民を慈しむことで理想の政治が実現すると説きます。
堀田は、父母への孝行に励み近隣の飢えた民を救った百姓を表彰し、年貢90石を免除しています。
”孝”を人々に奨励しました。
父・家光が建造した幕府の軍監・安宅丸・・・綱吉は、年に10万石もの維持費がかかるこの船を破却しました。
民の負担を軽くするため、老中の反対をおして決定したと言われています。
新たな政治の実現へと邁進する綱吉・・・その理想は誰よりも誠実で、真っ直ぐなものでした。
1684年8月、江戸城内で衝撃的な事件が起こります。
大老・堀田正俊、江戸城内で殺害される!!
堀田への個人的な恨みの犯行でした。
この突然の事件が、その後の綱吉の政治に大きな変化をもたらすこととなりました。
綱吉は、まず、事件現場近くにあった老中詰所を将軍の居室から遠ざけ離れた場所へと移しました。
将軍と老中とのやり取りは、新たに設けられた側用人によって中継されるようになります。
この結果、将軍と老中が直接政策について相談する機会が減少します。
将軍・綱吉の意志がより強く政治に反映するようになっていきました。
そして・・・悪法として名高いあの法令も、堀田の死後綱吉の主導で発せられました。
1685年、江戸の町に一枚の高札が立てられました。
”将軍御成の際、犬猫が出てきても構わないので、今後はつながなくてもよい”
これまで、将軍がお出ましの際には、犬や猫はおとなしくつないでおく義務があったのを廃止。
それがたとえ将軍の列のそばに来ても、お咎めなしとしました。
さらに綱吉は、江戸の庶民に、飼っている犬や猫、馬などの毛色や特徴を提出させました。
飼い主を明確にし、それぞれに飼育の責任を持たせるためでした。
これ以後、綱吉は生き物にまつわる100を超える法令を出していきます。
これらを総称して”生類憐みの令”と言います。
どうして綱吉は、このような法の制定に向かったのでしょうか??
生類憐みの令の「生類」とは、すべての動物を包み込む概念です。
そこには、一般の動物の他に人間も含まれています。
とりわけ人間の中でも捨て子や病人、弱い立場の人たちを救済したり保護しなさいということも触れています。
生類憐みの令の中の法令には・・・
・捨て子が見つかった場合、近隣の者が死なないように養育し、やしない親が見つかったら引き取らせること
・江戸市中で、生活に困窮した物乞いらに米を支給し、飢え死にを減らすべし
・牢屋に格子戸をもうけて囚人には毎月5回行水をさせるべし
・衛生状態をよくして牢で死ぬ囚人を減らすこと
現在の福祉政策につながるような部分もあり、野蛮な時代から法治国家、法律や制度に基づいた社会へというものが綱吉の意図でした。
一方で、法の内容について綱吉と周囲の間でずれが生じることもありました。
”犬が行方不明になった場合、あちこち八頭根歩いているようだが、そこまでする必要はない”by老中
その10日後・・・
”先に老中が触れた法令には、心得違いがある
犬が見えなくなった場合は、徹底的に探し、替え玉などで数合わせしてごまかすなど以ての外である
なお一層、生類憐みを心がけるように”by綱吉
そして、先の法令を出した老中に、綱吉は謹慎処分を下しています。
弱者を労わり、生命を慈しむためにはじめられた生類憐みの令・・・
しかし、その前途には、早くも不安が立ち込めていました。
生類憐みの令が暴走して行く画期は1693年にありました。
きっかけは、鷹狩りの廃止です。
飼いならした鷹を話して鳥や獣を捕らえる鷹狩り・・・軍事訓練としての側面や、獲物の贈答を通じて朝廷や大名との関係を深める役割を持ち、武家にとって重要な意味を持つ行事です。
しかし、獲物の命を奪う狩りは、生類憐みの精神に反する・・・
綱吉は、この年、その全面廃止に踏み切りました。
ところが、この決断が江戸の町に大きな混乱を引き起こすことになりました。
諸藩の大名屋敷から、鷹狩り用の猟犬や、鷹の餌として飼育されていた大量の犬が行き場を失って野良犬となり、江戸の町に溢れたのです。
増え続ける野犬と町人の間で、トラブルが続出しました。
戌が人間をかむことはもちろん、今度は人間が犬を厄介な動物として殺す・・・!!
犬を殺すことによって憂さを晴らす・・・??
江戸の町では、武士が腹いせに犬を斬り捨てる事件が続出!!
町人たちは、犬とかかわって罪に問われることを恐れ、野良犬がいてもエサを与えず、腹をすかせた犬が捨て子を襲うといった事態にまで・・・!!
生類憐みの令が引き起こした江戸の大混乱に、将軍としてどう対処すべきか・・・??
生類憐みの令の緩和??それとも、継続する・・・??
東京・中野・・・
区役所の一角に、7匹の犬のモニュメントがあります。
1695年、綱吉はこの場所に、犬小屋「御囲」を建設します。
綱吉は、生類憐みの令を継続・・・増えすぎた野犬対策として、それらを収容する施設を作らせました。
これは、並大抵の事業ではなく、最初の御囲が完成したのはその年の秋。
その後、収容する犬の増加に伴って増築に増築を重ねて最終的には5区画・・・29万坪にもなりました。
東京ドームおよそ20個分の広さです。
犬の数は、最盛期で10万匹を数えました。
エサ代は、年間98000両。
現代の貨幣価値で120億円もの莫大な経費が必要となりました。
しかし、当時の幕府にこれを支払う余裕はなく・・・
財源をどこに求めたのでしょうか??
なんと、民に背負わせたのです。
綱吉は、江戸の町に犬小屋の維持費用を納めることを命じています。
新たな税負担に、町民の不満が高まるのをよそに、生類憐みの令はさらに厳しさを増していきました。
犬を傷つけたことによって死罪となった幕臣・・・
いよいよ人々が仁愛の心を持つよう厳しく申し付けるものなり・・・!!
町人の生活への介入も進みます。
ウナギやドジョウを扱っている商売を禁ずる
これに違反し、ウナギをアナゴだと称して販売した町人は見せしめとして牢に入れられました。
生活の隅々まで厳しく規制する綱吉に対し、人々は声をあげることもできず不満が募っていきます。
その後、生類憐みの令は、改められることもなく、20年以上に渡って人々の生活を縛ることになりました。
1709年1月10日、徳川綱吉死去・・・享年64歳。
その10日後、幕閣は、生類憐みの令に関して今後の方針を発表します。
中野の御囲は廃止、町々に命じられた費用負担も撤回が決まります。
あわただしく法改正を行った後、綱吉の亡骸は徳川家の菩提寺・寛永寺に葬られました。
その死後、犬公方と揶揄され、批判の的とされた綱吉・・・
しかし、彼が始めた捨て子や病人の保護に関する法令は形を変え、その後も継続されていったのです。
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一体どのような人物だったのでしょうか??
1646年、綱吉は、三代将軍・徳川家光の四男に生れました。
母は側室で、庶民の出だったと言われています。
将軍となることは、全く期待されていなかった綱吉・・・
若いころからのめりこんだのが儒学でした。
”徳川実記”にはこう記されています。
”綱吉公は、儒学の経典を学ぶことに打ち込み、病の時にも書を手放すことはなかった”
学芸に秀でた一門の大名として生きる道を歩んでいた綱吉・・・
しかし、その運命は35歳の時に一変します。
1680年、四代将軍である兄・家綱が死去。
家綱には子がなく、綱吉の2人の兄も若くして亡くなっていました。
図らずも、綱吉は次期将軍の有力候補となりました。
しかし、政治の実権を握ってた老中の中には綱吉の就任に異を唱える者もいました。
綱吉の治世を記した”御当代記”によれば、大老・酒井忠清は次のように主張したとされます。
「綱吉公には、天下を納める様な気量はない」
時の最高権力者の猛反対・・・
これに対し、綱吉を強硬に推した人物が、老中・堀田正俊でした。
後に、綱吉の政治を支えることとなります。
堀田家に残る”伝徳川家綱遺言状”・・・死の床にあった家綱が、堀田に対し、今後のことを支持した文書です。
「その方が提出した書付の内容はいかにももっともである
そのように計らうように」
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その頃、幕府政治は大きな曲がり角に差し掛かっていました。
全国的な天候不順が何年も続き、凶作から飢饉が蔓延・・・
にもかかわらず、代官たちによる過酷な年貢の取り立てが横行していました。
代官の中には、代々その土地を支配し、領民を自分の持ち物のように考える者も多く、各地で農民の騒乱を引き起こしていました。
こうした社会の在り方を見直すべく、綱吉と堀田は一大政治改革に乗り出しました。
将軍となって1か月・・・堀田の名で、7箇条からなる命令が代官たちに下されました。
”民は国の本なり
代官は常に 民の辛苦をよく察し 飢えや寒さの憂いのないように申しつけられるべし”
民生の基本的な心得を、代官たちに知らしめ、違反する者はことごとく罷免し、新たな代官と後退させたのです。
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単に儒学を知識として知っているということではなく、「実践」し、民衆統治の高らかな宣言でした。
「天保の改革」と同じようなレベルで「天和の改革」と言っていいくらいの政治的な改革がそこにはありました。
堀田正俊は、かねてから儒学への造詣が深く、領地でも仁政を志していました。
綱吉は、そんな堀田を大老に任じ、新たな政治を目指しました。
後に、天和の治と呼ばれる改革です。
2人が模範とした儒学は、孔子を始祖とし、理想の政治の在り方を追求する学問です。
為政者が徳を積み、民を慈しむことで理想の政治が実現すると説きます。
堀田は、父母への孝行に励み近隣の飢えた民を救った百姓を表彰し、年貢90石を免除しています。
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父・家光が建造した幕府の軍監・安宅丸・・・綱吉は、年に10万石もの維持費がかかるこの船を破却しました。
民の負担を軽くするため、老中の反対をおして決定したと言われています。
新たな政治の実現へと邁進する綱吉・・・その理想は誰よりも誠実で、真っ直ぐなものでした。
1684年8月、江戸城内で衝撃的な事件が起こります。
大老・堀田正俊、江戸城内で殺害される!!
堀田への個人的な恨みの犯行でした。
この突然の事件が、その後の綱吉の政治に大きな変化をもたらすこととなりました。
綱吉は、まず、事件現場近くにあった老中詰所を将軍の居室から遠ざけ離れた場所へと移しました。
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”将軍御成の際、犬猫が出てきても構わないので、今後はつながなくてもよい”
これまで、将軍がお出ましの際には、犬や猫はおとなしくつないでおく義務があったのを廃止。
それがたとえ将軍の列のそばに来ても、お咎めなしとしました。
さらに綱吉は、江戸の庶民に、飼っている犬や猫、馬などの毛色や特徴を提出させました。
飼い主を明確にし、それぞれに飼育の責任を持たせるためでした。
これ以後、綱吉は生き物にまつわる100を超える法令を出していきます。
これらを総称して”生類憐みの令”と言います。
どうして綱吉は、このような法の制定に向かったのでしょうか??
生類憐みの令の「生類」とは、すべての動物を包み込む概念です。
そこには、一般の動物の他に人間も含まれています。
とりわけ人間の中でも捨て子や病人、弱い立場の人たちを救済したり保護しなさいということも触れています。
生類憐みの令の中の法令には・・・
・捨て子が見つかった場合、近隣の者が死なないように養育し、やしない親が見つかったら引き取らせること
・江戸市中で、生活に困窮した物乞いらに米を支給し、飢え死にを減らすべし
・牢屋に格子戸をもうけて囚人には毎月5回行水をさせるべし
・衛生状態をよくして牢で死ぬ囚人を減らすこと
現在の福祉政策につながるような部分もあり、野蛮な時代から法治国家、法律や制度に基づいた社会へというものが綱吉の意図でした。
一方で、法の内容について綱吉と周囲の間でずれが生じることもありました。
”犬が行方不明になった場合、あちこち八頭根歩いているようだが、そこまでする必要はない”by老中
その10日後・・・
”先に老中が触れた法令には、心得違いがある
犬が見えなくなった場合は、徹底的に探し、替え玉などで数合わせしてごまかすなど以ての外である
なお一層、生類憐みを心がけるように”by綱吉
そして、先の法令を出した老中に、綱吉は謹慎処分を下しています。
弱者を労わり、生命を慈しむためにはじめられた生類憐みの令・・・
しかし、その前途には、早くも不安が立ち込めていました。
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きっかけは、鷹狩りの廃止です。
飼いならした鷹を話して鳥や獣を捕らえる鷹狩り・・・軍事訓練としての側面や、獲物の贈答を通じて朝廷や大名との関係を深める役割を持ち、武家にとって重要な意味を持つ行事です。
しかし、獲物の命を奪う狩りは、生類憐みの精神に反する・・・
綱吉は、この年、その全面廃止に踏み切りました。
ところが、この決断が江戸の町に大きな混乱を引き起こすことになりました。
諸藩の大名屋敷から、鷹狩り用の猟犬や、鷹の餌として飼育されていた大量の犬が行き場を失って野良犬となり、江戸の町に溢れたのです。
増え続ける野犬と町人の間で、トラブルが続出しました。
戌が人間をかむことはもちろん、今度は人間が犬を厄介な動物として殺す・・・!!
犬を殺すことによって憂さを晴らす・・・??
江戸の町では、武士が腹いせに犬を斬り捨てる事件が続出!!
町人たちは、犬とかかわって罪に問われることを恐れ、野良犬がいてもエサを与えず、腹をすかせた犬が捨て子を襲うといった事態にまで・・・!!
生類憐みの令が引き起こした江戸の大混乱に、将軍としてどう対処すべきか・・・??
生類憐みの令の緩和??それとも、継続する・・・??
東京・中野・・・
区役所の一角に、7匹の犬のモニュメントがあります。
1695年、綱吉はこの場所に、犬小屋「御囲」を建設します。
綱吉は、生類憐みの令を継続・・・増えすぎた野犬対策として、それらを収容する施設を作らせました。
これは、並大抵の事業ではなく、最初の御囲が完成したのはその年の秋。
その後、収容する犬の増加に伴って増築に増築を重ねて最終的には5区画・・・29万坪にもなりました。
東京ドームおよそ20個分の広さです。
犬の数は、最盛期で10万匹を数えました。
エサ代は、年間98000両。
現代の貨幣価値で120億円もの莫大な経費が必要となりました。
しかし、当時の幕府にこれを支払う余裕はなく・・・
財源をどこに求めたのでしょうか??
なんと、民に背負わせたのです。
綱吉は、江戸の町に犬小屋の維持費用を納めることを命じています。
新たな税負担に、町民の不満が高まるのをよそに、生類憐みの令はさらに厳しさを増していきました。
犬を傷つけたことによって死罪となった幕臣・・・
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ウナギやドジョウを扱っている商売を禁ずる
これに違反し、ウナギをアナゴだと称して販売した町人は見せしめとして牢に入れられました。
生活の隅々まで厳しく規制する綱吉に対し、人々は声をあげることもできず不満が募っていきます。
その後、生類憐みの令は、改められることもなく、20年以上に渡って人々の生活を縛ることになりました。
1709年1月10日、徳川綱吉死去・・・享年64歳。
その10日後、幕閣は、生類憐みの令に関して今後の方針を発表します。
中野の御囲は廃止、町々に命じられた費用負担も撤回が決まります。
あわただしく法改正を行った後、綱吉の亡骸は徳川家の菩提寺・寛永寺に葬られました。
その死後、犬公方と揶揄され、批判の的とされた綱吉・・・
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