日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:大政奉還

長い日本の歴史では、それまでの世の中をひっくり返す大変革がいくつかありました。

天皇中心の体制を固めた大化の改新
武士が政権を作った鎌倉幕府
武士の世を終わらせ近代国家へと生まれ変わった明治維新・・・。

明治維新は、世界でもまれにみる犠牲者の少ない革命と言われています。
戊辰戦争の戦死者数は約8500人・・・明治10年の西南戦争を含めても約3万人です。
18世紀にはじまるフランス革命の犠牲者はおよそ40万人、アメリカ南北戦争は60万人と言われています。
どうして、日本では犠牲を抑えることができたのでしょうか?

そのヒントは、敗者とされた者たちです。
激動の中、敢えて困難な道を選んだ侍たちの歴史です。

ペリー来航に始まった幕末の動乱・・・
1868年、動乱はついに日本の運命をかけた武力衝突に・・・!!
鳥羽伏見の戦いです。
徳川の世か、新政府の世か、その争いは1年5カ月に及び、戊辰戦争と呼ばれました。
旧幕府軍を率いたのは、徳川慶喜・・・西郷隆盛らの新政府軍の前に敗走。
大坂城に退却し、そこに温存していた巨大な兵力で反撃に出るはずでした。
しかし、その直前・・・慶喜が密かに逃亡・・・旧幕府は総崩れとなりました。

①もしも徳川慶喜が大坂城で戦っていたら??

幕末、幕府は諸外国の圧力に屈して国を開きました。
それまで絶大だった幕府の権威は揺らぎ、乱世となりました。
その中で、天皇を中心とした新たな国家体制を望む声が日増しに高まっていました。
西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允など薩摩・長州の一部は公家の岩倉具視と連携し、密かに倒幕に動き出します。
この動きにいち早く反応したのが、将軍・慶喜でした。
1867年慶喜は討幕派に対して先手を打ちます。
政権を朝廷に返上・・・大政奉還です。

慶喜は幕府がだんだん斜陽化していくのを見ていて、このままの体制では駄目かもしれないと考えていました。
それならば、自分が将軍になった後に、即幕府を廃止してしまえば討幕派の目標は失われる・・・
そこで、新しい政府を作れば、自分が中心に改めてなり、そして日本をリードする考えでした。

大政奉還によって倒すべき幕府を失った西郷と大久保・・・
しかし、徳川を排除した政権実現のためにある計画を実行します。
12月9日、早朝・・・
薩摩兵らが天皇の住む御所を封鎖、王政復古のクーデターです。
慶喜らを中枢から排除し、天皇のもとで新たなメンバーが政治を行う新政府樹立を宣言。
当然ながら、旧幕府側は激怒!!
慶喜は、大坂城に移動・・・1万5000の旧幕府軍を従え、情勢を見守ることにしました。

1868年1月2日、旧幕府軍1万が大坂城から京へ出発!!
目的は、天皇に薩摩の討伐を願い出るためです。
旧幕府軍は、鳥羽街道と伏見、二手に分かれて北上。
京の御所を目指しました。

1月3日、旧幕府軍はその途中で、新政府軍に行く手を阻まれます。
新政府軍の兵は5000!!旧幕府軍は1万!!
そこには倍の兵力がありました。

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しかし敗北・・・
敗北の原因①突然の戦闘開始
1月3日、午後5時・・・新政府軍が鳥羽伏見の戦いの火蓋を切ったとき、旧幕府軍は大混乱に陥りました。
何故なら、旧幕府軍の目的は、あくまでも天皇に薩摩討伐を願い出る為だったからです。
その為、京への登城への途中で戦いになることを想定せず、銃に弾を込めていませんでした。
そして、伏見でも・・・賭場で鳴り響いた銃声が呼び水になって戦闘が始まりました。
伏見には、土方歳三率いる新撰組もいましたが、猛烈な火力に晒されました。
虚を突かれた旧幕府軍は、じりじりと後退します。

敗北の原因②錦の御旗
1月5日早朝・・・戦場に錦の御旗が翻りました。
これで、新政府軍が官軍で、旧幕府軍が賊軍であることが示されました。
士気をくじかれた旧幕府軍は、敗走をかさね、大坂へ撤退していきます。
鳥羽伏見の戦いを決定づけた錦の御旗・・・
仁和寺には、実際に戦場で掲げられたといわれる旗が大切に保管されています。

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御所にあった布をもらう・・・下賜されるのがこの御旗の価値です。

錦の御旗を最初に掲げたとき、旗を知る者はほとんどいませんでした。
幕府の兵隊が、「この旗はどこの藩のものか?」と、敵に聞きました。
新政府軍「これは錦の御旗だ、我々は皇軍だ」
旧幕府軍「わしらは賊か?」
噂が噂を呼んで、じわじわと賊軍となっていきました。
旗ひとつで戦局が変わる・・・如何なる軍事力でもこれには抗えなかったのです。

新政府側に錦の御旗が翻ったという知らせは、大坂城の徳川慶喜のもとにも届いていました。

「朝廷に対して刃向かう意思はつゆばかりもないのに、何かの誤りで賊名を背負うことになってしまった」by慶喜

朝敵とされたことにショックを受けた慶喜・・・そこには彼の生い立ちが深く関係していました。

1837年、慶喜は、水戸藩主・徳川斉昭と皇族での母との間に・・・水戸藩に生れます。
水戸藩は、天皇を尊ぶ尊王思想の筆頭格でした。
そこで育てられた慶喜は、幼いころから聡明で知られ、徳川の御三卿・一橋家の跡取りになります(1847年11歳)。
1864年、28歳の時、御所の治安維持を任されます。
29歳の時、14代将軍家茂が病死・・・慶喜は、15代将軍となりました。
しかし、家臣たちには慶喜の考えが日によって変わることを揶揄され、”二心殿”と呼ばれました。
1868年1月5日、錦の御旗が翻った日・・・旧幕府軍は大坂方面へ後退・・・
大坂城にいた慶喜のもとで立て直しを図る・・・!!
慶喜は家臣たちを前に檄を飛ばしました。

「この大坂城が、たとえ焦土になろうとも、断固死守しようではないか!!
 予がここで死んでも、忠義の家臣たちが志を継いでくれるだろう」by慶喜

慶喜の言葉に家臣たちは再び奮い立ちました。
大坂湾では、最新鋭の軍監・開陽丸をはじめとする旧幕府軍が、薩摩藩の艦隊を撃退!!
いよいよ反撃開始!!と誰もが確信しました。

ところが・・・1月6日夜・・・慶喜は、密かに開陽丸で江戸へ・・・!!
大坂城に残る家臣のほとんどには、何も告げずに・・・
慶喜の側近は、「なぜですか」と尋ねました。

「あの調子でやらなければ、兵が奮い立たないからだ 方便だよ」by慶喜

その後、大坂城は陥落。
旧幕府軍も瓦解しました。
こうして、戊辰戦争の初戦・・・鳥羽・伏見の戦いは集結しました。

もしも、慶喜が大坂城で戦っていたら??

鳥羽伏見の戦いは勝てたかもしれない。
でも、外国勢力の介入や、内戦の長期化を避けるため、慶喜は大坂城から逃げたのでは・・・??
悪評を背負っても、混乱が起きない道を選んだのです。

鳥羽伏見の戦いを放棄し、江戸に戻った徳川慶喜は、新政府に恭順するとしました。
しかし、新政府には西郷隆盛はじめ、なにがなんでも徳川家を攻撃し、慶喜の命を奪うべし!という人がたくさんいました。
果たして・・・慶喜の運命は・・・??
1868年1月18日、鳥羽・伏見の戦いに勝利した新政府軍は、錦の御旗を掲げ、京を出発。
東海道、東山道、北陸道の三方向から進軍し、途中にある藩を次々新政府軍に加えて江戸へ向かいました。
一方、江戸では、旧幕臣の多くが徹底抗戦を訴えていました。

”新政府軍の進軍に、江戸は殺気立ち、鎮撫するのは非常に困難である”

新政府軍と旧幕府軍との全面戦争・・・そうなれば、100万都市・江戸が火の海になる!!

江戸城に戻った徳川慶喜は、上野・寛永寺に蟄居・・・新政府に恭順の意を示しました。

「追討使を差し向けられる事態に至ったのは、全く慶喜一身の不束より生じたことである」by慶喜

しかし、
「慶喜の首を引き抜かねばおかれぬ」by西郷隆盛

西郷隆盛率いる新政府軍は、進軍を続行。
慶喜はこの時、徳川の命運を陸軍総裁の勝海舟に一任しました。
西郷は、江戸総攻撃を3月15日に行うことに決定。
両軍の武力衝突は、何としても回避したい・・・そう考えた勝は、西郷に書状を送ります。
3月6日・・・総攻撃の9日前でした。

「我が徳川が恭順を守るのは、徳川とて国家の一員であるゆえ
 今は、兄弟相争う時ではない」

それに対し西郷は、旧幕府側に降伏の条件を示しました。

・徳川慶喜の備前藩へのお預け
・江戸城明け渡し
・軍艦・軍器全ての引き渡し
・徳川家臣の処罰

慶喜の命こそは奪われないが、徳川宗家の存続は危ぶまれる・・・
勝には、到底飲めないものでした。
最悪の事態も想定していた勝・・・恐るべき戦略を練っていました。
その内容は日記に残されています。
島津家が書き残した”勝海舟日記”・・・
江戸総攻撃5日前の3月10日の日記に、勝はこう記しています。

”我も先に市街を焼いて、一戦焦土と化す!!”

新政府軍が来る前に、水から江戸に火を放つという江戸焦土作戦です。
はったり・・・??交渉材料だったようです。
勝海舟は、交渉能力に長けていました。

3月13に理、勝、西郷と直談判!!
西郷が提示した条件に対し、勝はこう訴えました。

・徳川慶喜は水戸で謹慎
・江戸城は明け渡す
・軍艦・軍器の必要数を残して引き渡す
・徳川家臣の寛大な処罰(処刑なし)

もしこの交渉が決裂すれば、江戸がし焦土になる作戦があると伝えていたのかもしれません。
勝と話し合った西郷は、態度を一変させます。

”色々難しい議論もありましょうが、私が一身にかけてお引き受けします”by西郷隆盛

江戸剃ぷ攻撃は中止、予定日である3月15日の1日前の出来事でした。

その1か月後、勝は江戸城を新政府軍に明け渡しました。
無血開城でした。

江戸総攻撃が起きていたら・・・??
新政府軍の江戸決戦は失敗したのではないか??
結局、明治維新後の日本の近代化が出来たのは、江戸時代の蓄積、土台があったからです。
一切なくなってしまっていたら・・・近代化は50年ぐらい遅れていただろうと思われます。
軍事的に負けても、江戸城攻撃を回避できた・・・それは勝海舟の勝利だったのかもしれません。

「西郷と最後まで闘った男」



江戸城無血開城の後も、新政府軍と旧幕府軍との戦いは終わりません。
会津をはじめ、北陸や東北で多くの犠牲者を出しながら、戦線は北上・・・
戊辰戦争最後の舞台は、北の大地・箱館でした。

旧幕府軍のリーダーとして新政府軍と戦った榎本武揚と土方歳三・・・二人の侍は、戦いの先に何を見たのでしょうか?
1868年4月以降・・・戦いは北へうつっていきました。
東北や越後では、最新の武器を備えた新政府軍が旧幕府に味方する諸藩を圧倒・・・
劣勢に立たされた旧幕府軍の頼みの綱は、世界有数の強さを誇った軍艦・開陽丸を中心とする海軍でした。
開陽丸を指揮するのは、海軍副総裁・榎本武揚です。

やがて、仙台と、土方歳三率いる新撰組も合流。
総勢3000人となった榎本の艦隊は、蝦夷地と呼ばれた北海道へと向かいます。
そこには、榎本の大きな野望がありました。

1836年、榎本武揚は江戸に旗本の子として生まれました。
幼いころから学問好きで、昌平坂学問所に・・・若くしてオランダ語、英語、フランス語を習得。
19歳の頃には、蝦夷地の海洋調査に随行。
箱館にも足を踏み入れていました。
1862年、27歳の時、オランダに留学。
5年の間、西洋の知識を吸収します。
中でも力を注いだのが、海の国際法でした。
その詳細な解説書「万国海律全書」は、生涯、榎本の座右の書となりました。
1867年、幕府がオランダに発注した軍艦・開陽丸を発注すると、それに乗って帰国・・・この時、32歳、幕府の若きエリートでした。

一方、土方歳三は、1835年、武蔵国の多摩の農家に生れます。
武士に憧れ、剣術の修行に励む中で、生涯の盟友・近藤勇と出会います。
1863年、29歳の時、近藤と共に上京。
新撰組を結成、藤方は副長となります。
寄せ集めの新撰組を、武士以上に武士を目指すと考えた土方は・・・
武士道に叛いたもの、組を抜けようとしたものは、切腹など、隊士らに鉄の掟を課しました。
ついた異名は、鬼の副長!!

1868年、34歳の時に戊辰戦争勃発。
旧幕府軍は劣勢になり、配送をかさねる中・・・盟友・近藤勇が新政府軍に処刑されてしまいます。
もはやこれまでか・・・

「このまま終わっては、地下の近藤とまみえることができようか!!」by土方歳三

土方は、あくまで新政府軍の戦う道を模索していました。

同じく幕臣だった榎本武揚・・・しかし、土方とは違い、この戦いの先を見据えていました。

「薩摩長州など強い藩が好き勝手に徳川の領地を没収したのは、真の王政ではない
 家臣は路頭に迷っている
 その救済を願い出たが許されなかったので、一戦を辞さぬ覚悟で江戸を退去する」by榎本武揚

1868年9月、榎本と土方は仙台で合流。
仙台城で旧幕府軍会議が行われます。 
榎本は、土方ら旧幕府軍に自分の最終目的を伝えました。

「蝦夷地に赴き、そこで朝廷に嘆願し、脱走した者たちで蝦夷を開拓したい」by榎本武揚

徳川家に仕える家臣やその家族は、30万人・・・!!
しかし、新政府は、徳川家の収入を400万石から70万石に削減してしまいます。
収入が1/6以下では、彼等を養いきれない・・・!!
路頭に迷う家臣たちを集め、蝦夷を開拓しながら北方警備にもあたる・・・
それが榎本の戦いの後の野望でした。

10月12日、総勢3000人を乗せた榎本艦隊は、仙台から函館へ出航!!
土方はその時の心境を友人への手紙に記しています。

”到底勝算があるにあらず
 我ら闘こうて快く死せんのみなり”

10月20日、蝦夷・鷲の木に上陸
1週間足らずで現地の新政府軍を破り、函館を制圧!!
榎本たちは、五稜郭を拠点としました。

新政府軍と戦ううえで、榎本が最も大切にしたのは外交でした。
箱館に在留する諸外国の領事に榎本はこう説明しています。

”我々は、反逆者でも逆賊でもない
 祖国の地で誇り高く生きる権利を持ち、武器を手にその権利を守ろうと戦う者たちである”

榎本たちが暴徒と見なされ、諸外国が新政府軍に味方をしたら・・・勝ち目はない!!
そこで榎本は、中立を守るように諸外国と交渉をかさねます。
そして、遂に、
「榎本たちは略奪者ではない
 しっかりと組織された軍隊を備えた政府である」
榎本は、自分たちを事実上の政権と認めさせることができたのです。
諸外国は、中立の立場を表明しました。

諸外国としては、勝ち馬に乗るつもりでした。
しかし、なかなか見極めきれなかったのです。
旧幕府側の圧倒的に近代化された海軍力が、ミリタリーバランスを保っていたのです。
そのミリタリーバランスが、諸外国を揃って中立で見守る立場に置いたのです。
榎本の外交を成功させた強大な海軍力・・・これが、旧幕府軍の生命線でした。

榎本海軍の切り札・開陽丸・・・!!
飛距離4キロのクルップ砲!!
開陽丸には、操船に長けた船員がたくさんいました。
それが、開陽丸の強さの源でした。
最大500人の兵を乗せることができました。

榎本艦隊は開陽丸を持っている・・・それが抑止力にもなっていました。
簡単に新政府軍も攻撃できなかったのです。

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1868年11月、旧幕府軍松前城を攻撃!!
土方を隊長とする旧幕府陸軍は、蝦夷地の南部を治めていた松前藩を攻略・・・北へ逃げる敵を追って江差へ・・・!!
榎本は、土方たちを海から援護しようと開陽丸の出撃を決断します。
ただ・・・それは・・・

「江差までつれて行って、大砲の2,3発でも撃たせてやろう」by榎本武揚

土方率いる義陸軍ばかりが活躍していたため、海軍にも功績を与えようという榎本の海運への計らいだったのです。
しかし、この判断が悲劇を生みます。
11月15日夜・・・江差沖に停泊中の開陽丸は、暴風雨に襲われました。
激しい波で、岸へ押し流され座礁・・・!!
大砲を撃ち、その反動で岸から離れようとするも沈没してしまいました。
榎本は、土方たちと共に沈みゆく開陽丸を見つめていました。

”暗夜に灯火を失ったようだ”

土方歳三嘆きの末・・・この松の下で、榎本と共に開陽丸を見ていた土方があることをしました。
真偽は定かではありません・・・が・・・
土方が何度もたたいたのでこぶが出来て曲がった・・・と。

1868年12月15日、榎本たち旧幕府軍は、蝦夷地の全域を制圧、各国の領事にその領有を宣言します。
さらに、日本初の選挙を実施、榎本が総裁に、土方が陸軍奉行並に選ばれました。
ところが、それから2週間もたたない12月28日・・・
榎本に衝撃的な知らせが舞い込みます。
諸外国が中立の撤回を布告したのです。
開陽丸が沈んでしまったことで、局外中立を保っていた諸外国からすれば軍事力に大きな違いが出てくる・・・榎本政権の行き先を見切ったのです。

このすぐ後、アメリカは新政府軍に細心の軍監を譲渡しました。
甲鉄と命名された協力な軍監です。
これで、旧幕府軍と新政府軍の海軍力は逆転してしまいました。

1869年4月9日・・・新政府軍が総勢7000人で攻撃開始。
上陸後、三方向に分かれて箱館に進軍しました。
迎え撃つ旧幕府軍にとって、開陽丸の不在はあまりにも大きかった・・・
甲鉄で、新政府軍が制海権を握ります。
旧幕府軍は、陸軍の攻撃に加えて、海からの艦砲射撃に晒されます。
しかし、海から遠い山の中に陣取る土方の部隊は違いました。
狭い一本道を見下ろす場所に銃を置き、登ってくる敵を待ち受けます。
やがて、新政府軍の兵が・・・1日に3万5000発もの銃弾を浴びせ、新政府軍を撃退したのです。
その夜、土方は、兵士に酒をついで回り、労をねぎらいました。

「少ない兵力で、大軍相手に良く守っていてくれている
 たくさん褒美を与えたいが、酔って軍規を乱すと困るので、今日はいっぱいで我慢してくれ」by土方歳三

しかし・・・その他の地域では、旧幕府軍は敗北続き・・・遂には、土方を含む全員が箱館へと撤退していました。

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5月11日・・・新政府軍は、函館へ大攻勢をかけます。
その結果、台場を守る新撰組が孤立してしまいます。
土方は、周りが止めるのも振り切って救援に向かいます。
一本木関門に到着すると、逃げようとする見方に檄を飛ばしました。

「俺はここで指揮を執る!!
 突撃せよ!!」by土方歳三

しかし、その直後・・・一発の銃声と共に崩れ落ちました。
銃弾は、腹部に命中・・・土方歳三35年の生涯でした。

武士を貫いて死んだ土方の死は、近世から近代への転換とも受け取れます。

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榎本武揚もまた、死を覚悟していました。
妻に手紙を送っています。

”もはやこの世でお目にかかれるかどうかわからない
 自分への評価は、死後、棺のふたをしめた後にわかる”

新政府軍の軍監甲鉄は、五稜郭へ繰返し砲撃!!
五稜郭が作られた時代、
海から2キロ以上離れた五稜郭には大砲の玉は届かないはずでした。
しかし、甲鉄の玉の飛距離は4キロ・・・
海から球が届くほど進化していました。

5月13日、新政府軍は榎本に投降を求めます。
榎本はこれを拒否!!
死を覚悟し、新政府軍の大将に宛ててある書物を送りました。
オランダ留学以来、榎本が肌身離さず持っていた「万国海律全書」です。

「この万国海律全書は、皇国無二の書である
 もし、戦火によってこれを失えば、痛惜の極みである」by榎本武揚

将来、日本が外国と交渉する際に、この本を役立ててほしい・・・そう願いました。
そして、武士らしく、自決のために短刀を手にしました。
しかし・・・刀を素手で掴んだ部下が、懸命に説得します。

5月18日、榎本は降伏・・・その日のうちに五稜郭を手放しました。
1年5カ月にも及ぶ戊辰戦争は、こうして終わりました。

しかし・・・戦いの行方を決定づけた開陽丸の沈没・・・。
②もしも開陽丸が沈まなかったら??
新政府軍に甲鉄が与えられなかったかもしれません。
そして、旧幕府軍は、開陽丸などの軍監がある!!
開陽丸には絶大な威力がありました。
しかし、榎本は、勝っても喜べませんでした。
何故なら、豊富な物量を誇る新政府軍にいずれは屈することになると読んでいたからです。

すると道は一つ・・・どこで負けるのか・・・??
北方警備、蝦夷地の開拓などを任されるような形で新政府と交渉したかったのでは??
旧幕臣たちの居場所を作りたかったのです。

彼等はどうして敗北を自ら受け入れたのでしょうか?
いかにどう負けるのか・・・??
家族や知人を救うため、負け方を探ってきた戦いでした。
今の時代をどう未来につなぐのか??最善の選択をしたのです。
そこには、日本ならではの負け方の美意識がありました。
その美意識が、犠牲の少ない革命につながったのです。

徳川幕府最後の将軍となった慶喜は、政治の表舞台から去り、77歳で人生の幕を閉じました。

「家康公は日本を統治するために幕府を開かれた
 私はその幕府を葬り去るために将軍となったのだ」by慶喜

榎本武揚は、北海道開拓を進める新政府軍に重用され、後に外交でも活躍します。
明治政府が作った北海道開拓使には、榎本と共に戦った旧幕府軍の幹部が登用されていきました。
北海道開拓に尽力したのは旧幕臣のエリートだけではありません。
北の大地に移住し、開拓に汗を流した者の多くは、旧幕臣や戊辰戦争で負けた藩の貧しい侍たちでした。
仙台藩の伊達家は、朝敵の汚名をすすごうと積極的に開拓に参加。
有珠に赴いた彼等は、現在の伊達市の礎を築きました。

そして、1874年、屯田兵制度が始まります。
兵員として北海道の開拓と警備にあたったのは東北の侍たちが中心でした。

箱館山には榎本が仲間と建てた石碑が残っています。
”碧血碑”・・・箱館戦争で戦った旧幕府の戦友たち800人を弔うものです。

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幕末、その男は様々な姿で写真に納まりました。
ある時は紋付・羽織袴で、銃と刀を両脇に勇ましい武士の姿・・・
ある時は高貴な衣冠の装束・・・伝統を重んじる公家のよう・・・
またある時は、フランス式の軍服に身を包み革新的なリーダーを気取る・・・

江戸時代最後の将軍・徳川慶喜・・・いったい慶喜とはどのような人物だったのでしょうか?

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当時の人々は、ミステリアスな慶喜のことを”二心殿”と呼びました。
海外列強が日本に押し寄せ、攘夷の風が吹き荒れた動乱の時代、英邁の誉れ高かった慶喜は将軍候補として期待され、政治の表舞台に登場しました。
しかし、力強く開国を唱えたと思ったら、攘夷と意見を翻す・・・
国の行く末を決める会議を暴言を吐いてぶち壊す・・・!!
二心殿の言動は、しばしば周りを混乱させました。
そんな慶喜に迫られた最大の選択・・・それは、将軍になるべきか、ならざるべきか・・・!!

当時すでに幕府は弱体化し、朝廷や雄藩に振り回されるばかりでした。
将軍となって、この舵取りを担うことは果たして得策なのか・・・??
慶喜はどうして将軍となり、自ら幕府に終止符を打ったのか・・・??

茨城県水戸市・・・徳川御三家の一つ水戸家の城下町だったこの地に、慶喜が書いた書”楽水”が残されています。
七郎麻呂と呼ばれていた頃の書です。
”楽水”とは、中国の孔子の言葉です。
論語の中で「知者は水を楽しむ」という一節があり、知識が豊かな人は水のように変幻時代に形を変える・・・書いた本人は意識していなかったかもしれませんが、慶喜の変幻自在ともいえる政治手法を6歳の段階で暗示しています。

慶喜は、水戸藩主・徳川斉昭と皇族出身の登美宮吉子との間に生れました。
徳川と皇族、二つの血筋を受け継いだ子供でした。
しかし、7男だったため、藩主となる道はほとんど閉ざされていました。
通常では、他の大名家に養子に出されるところでしたが、父・斉昭はその才能に期待し、水戸に置いていました。
そんな中、幕府からある意向が伝えられます。
慶喜を、御三卿・一橋家の養子に欲しいというのです。
家康の子供たちで作られた御三家に対し、御三卿とは八代将軍吉宗が子供や孫に作らせた3つの家・・・将軍に跡継ぎがいないときに宗家を絶やさないためでした。
1847年、慶喜は10歳で一橋家の当主となります。
しかし、一橋家には城もなく、家臣も幕府からの出向で賄われていました。
独立した大名ではなく、あくまで将軍家の家族・・・政治的実権を持たない存在でした。

慶喜の運命が大きく変わったのが6年後・・・
1853年、ペリー来航し、強大な軍事力を背景に、日本に開国と通商を迫りました。
この時の将軍・徳川家定は、ひどく内気で病弱・・・緊急事態に適切な判断は出来ないとみられていました。
その為、この国難を担う次期将軍の必要性が叫ばれました。
幕閣や譜代大名の多くは、家定の従兄弟で、血統的にも近い紀州藩主・徳川慶福を押しました。
しかし、慶福はこの時10歳に満たず、政治手腕に疑問がありました。
一方、越前藩の松平春嶽、薩摩藩の島津斉彬ら有力大名は、当時17歳となっていた慶喜の擁立に動きました。
しかし、水戸徳川家出身の慶喜は、宗家の血縁とは遠く、正当性が弱かったのです。
しかも、父・斉昭は、幕府の政治に対して強硬意見を繰り返し、幕閣や大奥とも折り合いが悪い・・・慶喜が将軍になればうるさく口を挟むのではないかと警戒されました。
不利な状況の中で、どうやって慶喜を将軍候補として推していったのでしょうか?

尾張徳川家に残っている「慶喜公御言行私記」・・・
慶喜を推す大名たちは、慶喜の日々の行動を記した文書を配り、支持を集めました。
これを書いたのは、慶喜の側近・平岡円四郎と考えられています。
平岡は、慶喜が一橋家に入ったときに、推薦され家臣となった人物です。
慶喜が最も信用した側近でした。
書かれたエピソードには、慶喜を将軍につけたいという平岡の強い思いが感じ取れます。

その人柄を知らしめると共に、東照宮・神孫という・・・慶喜こそ将軍に相応しいというイメージを広げていきます。
慶喜自身はどう思っていたのでしょうか??
当時、父・斉昭に宛てた手紙によると・・・

”天下を取ることほど気骨の折れることはありません
 天下を取った後仕損じるよりは、天下を取らない方が大いに勝るのではないでしょうか”

しかし、そんな思いとは裏腹に、慶喜を推す勢力と慶福を推す勢力の対立は一層深まっていきました。

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大老・井伊直弼が就任すると、事態は大きく動きます。
将軍家の血筋を重んじた井伊は、慶福の就任を強く後押しします。
さらに、将軍・家定の希望もあり、跡継ぎは慶福に・・・後の14代将軍・家茂です。
次期将軍候補から外れた慶喜・・・しかし、この構想を通じて慶喜に対する期待はますます高まっていくのです。

将軍継嗣問題のあと、幕府の危機が深まる中で慶喜は政治の表舞台に登場することになります。
1858年、幕府は列強の圧力に屈し、アメリカはじめ5か国と・・・安政五カ国条約締結。
新たに4つの港を順番に開き自由に交易することを認めました。
開国に舵を切ったのです。
しかし、これに激怒したのが孝明天皇でした。
外国嫌いの天皇は、勅許をえることなく結ばれた条約を決して認めようとはしませんでした。
そうした中、天皇を尊び、外敵を排除しようとする尊王攘夷の動きが高まり、一部の志士が過激な行動に出ます。
1860年3月3日、江戸城桜田門外で、井伊直弼暗殺。
将軍のおひざ元で大老が襲撃されるという前代未聞の事件・・・幕府の弱体化が白日の下にさらされました。
これを機に、英邁の誉れ高い慶喜に幕府の立て直しが期待されたのです。
その結果、薩摩藩などの後押しによって、慶喜は将軍・家茂を補佐する将軍後見職に就任することになりました。
しかし、前途多難!!
当時、京都では強硬な攘夷を唱える長州藩が公家たちと結びついていました。
長州藩の武力に力を得た朝廷は、将軍・家茂に条約の破棄、攘夷の実行を約束させようと考え、三条実美を孝明天皇の勅使として江戸に派遣しました。
勅使を受け入れ、攘夷を実行すべきか?
このまま開国路線を続けるべきか??
幕府で議論が紛糾する中、慶喜は語りました。

「世界ではすでに多くの国が交流している
 独り日本のみ鎖国のしきたりを守るべきではない
 むしろ、自ら進んで外国と交わりを結ぶべきだ」by慶喜

朝廷にもはっきりと意見が言えるリーダーかと思われました。
しかし、その2週間後・・・改めて開国の覚悟を聞かれると

「しばらく明言はやめて、老中たちが開国というのを待とう」by慶喜

すっかり弱気な発言に、慶喜の本心はどこにあったのでしょうか?
そこには、母が皇族出身ということが考えられます。
慶喜は、徳川家よりも朝廷の方に比重がかかっていた人物だったのでは??
縁の深い、血縁的にも深い人である・・・
一方で、慶喜はクレバーなので、もう攘夷が出来ない、開国は避けられないと思っていました。
心の中では開国すべきと思いながら、天皇の願いを蔑ろにはできない・・・
結局、幕府は攘夷の実行を約束してしまいます。
朝廷の圧力に屈し、列強の脅威にもさらされるという八方ふさがりの状況でした。

そんな幕府にとって、起死回生のチャンスとなったのは・・・
1863年、八月十八日の政権です。
長州藩の過激な動向に目を見張らせていた会津藩と薩摩藩が、御所の門を藩兵で固め、長州藩とそれに組する公家たちを京都から追放したのです。
むやみに攘夷を主張し、外交を妨害してきた長州藩はいない・・・
朝廷を説得する好機でした。
ここで動いたのが、薩摩藩で国父として実権を握る島津久光でした。
久光は、朝廷と幕府が協力して政治を行う公武合体の実現を目指します。
久光の建議で、慶喜を含む有力諸侯が参与というポストに任命され、朝廷との話し合いがもたれました。
参与たちは、このまま開国を続ける考えを示し、話しはまとまりかけました。
しかし・・・またもや慶喜が混乱を巻き起こします。
既に開いていた箱館、横浜、長崎の3つの港のうち、横浜を閉鎖し、朝廷が要求する攘夷の一歩を踏み出すことを主張したのです。
それだけではなく、その後開かれた宴席で、慶喜は先に酔いました。
そして、朝廷の実力者・中川宮に向かって、目の前の島津久光らを罵倒したのです。

「この者たちは、天下の代愚物、天下の大奸物であります
 何故この者たちを信用されるか?
 後見職である自分と一緒にしないでほしい」by慶喜

久光たちは怒り、結局、参与会議は解散となりました。
この騒動をきっかけに、久光は慶喜に強い不信感を抱くようになります。

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”一橋卿の御心底 大いに六ヶ敷”

ころころと考えを変える慶喜・・・人々はそんな彼を皮肉を込めて”二心殿”と呼びました。

参与会議の解散後、慶喜は驚きの行動に出ました。
将軍後見職を一方的に辞退し、新設された”禁裏御守衛総督摂海防禦指揮”に就任しました。
禁裏とは、天皇の暮らす御所、摂海とは大坂湾・・・その警備を担う役職でした。
このポストは、聖慮・・・つまり、将軍ではなく天皇の意向に基づいて任命されました。
京都にとどまり、朝廷への接近を強める慶喜・・・江戸の幕閣はその行動を疑い、将軍・家茂の命で何度も江戸に呼び戻そうとしました。
しかし、慶喜は断ります。
将軍の命令を拒否して、京都に残る・・・
体感的に、自分は天皇、朝廷上層部と引っ付いた方がいいだろうと感じていました。

京都で慶喜は獅子奮迅の活躍を見せます。
1864年7月、前年に京都を追放された長州藩が兵を引き連れ上洛しました。
退去の呼びかけにも応じず、戦闘が始まりました。
禁裏御守衛総督・一橋慶喜は、自ら先頭に立って薩摩、会津の軍事支援のもと、長州を退けることに成功しました。
この活躍で慶喜は孝明天皇の厚い信頼を得ることになります。
そして、天皇の意を受けて、長州への処罰の実行を主張しました。
そこで、幕府は長州藩を朝敵と見なし、諸藩からなる征討軍を送ります(第1次長州征討)。
この時、参謀を務めた薩摩藩の西郷隆盛は、長州と取引し、家老3人を自害させるなどの条件で事態を収束させます。

微笑む慶喜: 写真で読み解く晩年の慶喜

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しかし、長州への甘い処分に、一部の幕臣や会津藩は納得しませんでした。
その不満を抑えきれず、1866年第2次長州征討。
これに、今度は薩摩が反発!!
薩摩は出兵を拒否し、長州と密かに通じるようになります。
国を二分するかもしれない内戦の事態でした。
この局面をどう打開すればいいのか・・・??
悩む慶喜に、急報が届きます。
1866年7月20日、将軍・家茂死去。
もはや、難局を乗り越えられるのは慶喜しかいない・・・!!
老中たちは、慶喜に将軍になることを要請します。

迷う慶喜・・・!!

将軍就任の要請に、慶喜はどう答えたのでしょうか?
慶喜が朝廷に送った手紙の写しが残っています。

”徳川宗家の相続につきましては、国家の大事には代えがたく、承知いたします
 ただ、将軍職に関しましては、私は薄力非才、失態の恐れもあり、お断りいたしたく申し上げます”

将軍職を断わり、徳川宗家の相続だけを引き受ける・・・誰も想像できない選択でした。
徳川宗家を相続することが、自動的に将軍職を継ぐことだと・・・家康以来そうなってきました。
それが初めて実は違うんだと、別のものなんだと示されたのです。

それだけではありません。
徳川宗家を継ぐにあたり、慶喜は自らの思い通りに幕政改革をするという条件を取り付けます。
前代未聞の将軍空位という中、慶喜は幕府の立て直しを進めます。
フランスに習った軍制改革を導入、旗本御家人から石高に応じて人や資金を出させ、新たな歩兵部隊を編成、フランス式の軍事教練を受けさせました。
慶喜のもとで幕府軍は着実に強化されていきました。

長州藩の木戸孝允は、後にこう語っています。

「いまや、江戸幕府の政治体制は一新され、その軍事力は目を見張るものがある
 一橋の大胆にして思慮深い計略は、決して侮るべきではない
 実に、家康の再生を見るようだ」

その一方、慶喜は幕府の精鋭軍を率いて長州との戦争に自ら出陣することを表明。
長く続いた戦いに決着をつけようとしました。
しかし・・・ここで、慶喜はまたもや心変わりをしてしまいます。
先発した幕府軍が敗北を喫したという報告を聞くと、急遽出陣を中止・・・
そして、周囲の十分な同意を得ることなく長州と和解し、休戦に持ち込みました。
突然の休戦に、共に長州征討を推進してきた会津藩や幕臣は納得できず、怒りをあらわにしました。
慶喜は孤立を深めていきます。

頭がいいので、変わり身が早い・・・先が読めてしまう・・・
しかし、人の心はもう一つ読めないところがるのです。

そうした中、1866年12月5日、慶喜はあれほど固辞していた将軍に・・・第15代将軍に就任。
この時30歳。
何故このタイミングで受諾したのか??
諸説あります。
①最初から将軍になるつもりで自分に味方する勢力を見極めていたのか?
②孝明天皇の願いを断わり切れなかった?
いずれにせよ、慶喜は第15代将軍として日本のかじ取りをする覚悟を決めたのです。

将軍宣下のわずか20日後・・・孝明天皇が突然この世を去りました(12月25日)。
常に後ろ盾になってくれた天皇の死・・・しかし、それは攘夷という天皇の願いから解放されるということを意味していました。
慶喜は、ようやく開国という本来の考えのために動き出します。
当時、通商条約で定められた港のうち、兵庫だけが開港されていませんでした。
孝明天皇が京都に近い兵庫の開港を断固拒否していたためです。
慶喜は、国際条約を守り、兵庫開港を実現することは日本の将来の為と信じました。

慶喜は、松平春嶽、伊達宗城、山内容堂、島津久光など有力諸侯とこの問題を協議しました。
この時、諸侯たちも兵庫開港に反対ではありませんでした。
貿易の利益で藩が潤うことを期待していたからです。
しかし、まだ大勢いた攘夷論者を恐れ、積極的に賛成する者はいませんでした。
慶喜は違いました。
夜を徹して熱弁を振るい、遂に諸侯たちを説得しました。
そして、朝廷に強く働きかけて、
1867年5月、兵庫開港の勅許がおります。
慶喜の決断によって、安政の条約締結以降揺れていた日本の開国への道は決定的となりました。

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慶喜のすごいところは、攘夷主義者がものすごく多いことを知っていました。
しかし、あえてそれを無視して、この機会に一気に開国体制に持って行こうと決断して、それを実行したのです。
慶喜の、幕末史におけるもっとも重要な役割の一つです。

政局の主導権を握りつつあった慶喜に対して、薩摩藩や長州藩は畏れ、警戒しました。
そして、倒幕のクーデター計画を練ります。
ところが、慶喜が先手を打ちます。
1867年10月、大政奉還です。
幕府に委任されてきた政権を天皇に返納する・・・
慶喜は、264年続いた幕府を終わらせたのです。
それでも、新たな政府が出来れば、慶喜は要職に就くことが見込まれました。
慶喜の名声は依然高く、本人もそれを確信していたと言われています。
ところが、薩摩・長州は許しませんでした。
王政復古のクーデターを断行し、天皇を頂点とする新政府を樹立、鳥羽伏見の戦いに始まる戊辰戦争では旧幕府軍を賊軍として征討。
慶喜を新政府から徹底的に排除しました。
慶喜は、死罪は免れたものの、全ての官位を奪われ、謹慎を命じられます。
最後の将軍・・・激動の幕末は終わりました。

明治になり、謹慎をとかれた慶喜は、静岡や東京で長い隠居生活を送りました。
溢れる才能・・・写真や油彩画など様々な趣味に傾けました。
前半生とは正反対の悠々自適の日々・・・
名誉回復を計られ、明治35年に最高の爵位・公爵に叙せられました。
自らを追いやった西郷たちよりも長生きし、大正2年、77歳でこの世を去りました。

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日本資本主義の父・渋沢栄一・・・生涯で、500もの会社を立ち上げ、日本経済の発展に多大な貢献をしました。
晩年は、国際交流にも尽力し、ノーベル平和賞候補者に二度までも推薦されました。
しかし、渋沢の青春時代は、平和とは程遠かったのです。
時は幕末!!外国船を打ち払えと、攘夷が叫ばれ、日本国内は騒然としました。
若き日の渋沢も、攘夷を実行しない幕府に、同志を集めて討幕のテロを計画します。
これを発端に、いくつかの出会いが渋沢を導きます。

埼玉県深谷市・・・かつて武蔵国と呼ばれたこの地に渋沢栄一は生まれました。
栄一の家は、麦の栽培や養蚕の他に、藍染めに使う藍玉の製造販売で財をなしていました。
藍の葉を発酵して固めた藍玉・・・栄一の父・市郎衛門は藍の葉の目利きとして知られていました。
栄一は、6.7歳の頃から親戚の尾高惇忠のもとで学問をはじめます。
栄一が毎日のように通った尾高家が今も保存されています。
近隣の子供たちと家に集い、惇忠の薦めで読書に熱中しました。
自伝「雨夜譚」で、東寺をこう振り返っています。

”里見八犬伝のような小説や軍記物の類が至って好きで、正月のあいさつ回りの時も、本を読みながら歩いていて、溝に落ちてしまい晴着を汚してしまいたいそう母親に叱られたことがありました”

そんな栄一に、父親は厳しく・・・

”父から、家業にも精を出すよう言われ、13の年には一人で藍の葉の買い付けに行ったもんです”

後に、大実業家になる渋沢栄一の商いは、藍の葉を買い集めることから始まりました。
藍玉の出来は、葉の出来の良し悪しに左右されました。
そこで、栄一は、農家に良質の愛を栽培してもらうために工夫します。
農家を力士に見立て、葉の質に応じて番付にします。
これを、農家を集めた宴会の余興に配ったといいます。
行司役には、栄一の名が記されています。

渋沢が考えたのは、情報共有でした。
上位の人は、何か工夫があるはずだと勉強する場となり、村全体が一致団結、もっといい藍を作って藍玉というものを製造販売すれば、村全体に利益がある・・・ひいては人々が豊かになる・・・!!
そこに、渋沢栄一の原点があります。

商売の面白さを知り、父の信頼も得た栄一は、各地の集金を任されるようになります。
はじめて栄一が愛の買い付けをしたのが・・・1853年6月、江戸は大変な騒ぎに・・・
ペリー提督率いる黒船の来航です。
栄一が暮らす武蔵国の隣国・常陸国・水戸では、外国を打ち払えと攘夷が叫ばれ、すでに軍事演習まで行われていました。
栄一の師匠・尾高惇忠も、攘夷思想に傾倒していました。

1856年・・・16歳になった栄一にも、政治に不満を抱く事件が起きます。
それは、血洗島を治める岡部藩の代官から御用金差出の命が下ったことに始まります。
御用金とは、逼迫した藩の財政では賄えない出費を、領民に供出させるというもので、返済されることはありませんでした。
裕福な栄一の家には、ことあるごとに御用金が要求されていました。
都合で行けない父に代わって他の当主たちと陣屋に出向きます。
代官は、横柄な態度で、栄一に500両差し出すように命令します。
よその主人たちは、平伏して引き受けましたが・・・
「私は代理ですから、一度帰って父の承諾を得たうえで、改めてご返事に参ります」と答えました。
代官は、こんな判断もできないのかと、栄一を子ども扱いしてバカにしました。
しかし、栄一は頑として受け付けず、陣屋を後にします。

「無性に腹が立った私は、その根本をよくよく考えました
 あんな下劣な男が代官を務めているのは、もとをただせば藩がだらしなく、藩がだらしないのは幕府がいけないのだと思い至ったのです」

結局、渋沢家は、御用金を引き受けましたが、その後も栄一の心を騒がせる事件が次々とおこります。
栄一、19歳の年に横浜が開港。
さらに、その翌年には桜田門外の変で大老・井伊直弼が水戸藩士らによって殺害されます。
天皇の許可なしにアメリカと通商条約を結んだことが原因でした。

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21歳になった栄一は、農閑期だけという許しを得て、江戸に出ました。
栄一は、塾や千葉道場で憂国の同志たちと合流し、最新の情報に触れます。

1863年8月・・・攘夷を実行しない幕府を倒すしかないと思いつめ、尾高惇忠や従兄弟・喜作と共に討幕の策を練ります。
その策とは・・・横浜を焼き討ちして、外国人を片っ端から切り殺すという乱暴なものでした。
藍玉の売り上げから流用した金で、刀や槍・100本余りを用意しました。
決行に当たり、まず高崎城を襲撃、さらに武器を補充してから鎌倉街道を横浜へと南下する作戦でした。

「幕府に攘夷などできない・・・もはや、徳川の政府は滅亡するに違いないと一途に思い込んでいたので、自分たちが目覚ましく血祭りになって、世の中に騒動を引き起こす引き金になろうと考えたのです」

この血気盛んな決意を、尾高惇忠が信託と題した檄文に認めます。
神に託された計画の正当性と外国人の打ち払いを激烈な言葉で綴り、人々を扇動するものでした。
集まった同氏は総勢69人・・・江戸で知り合った憂国の士と惇忠や栄一に感化された農民でした。
決行は11月23日・・・冬至の日と決定しまた。

10月29日・・・決行の日も近づき、栄一らは尾高家の2階に集まります。
京都の情勢を探索してきた惇忠の弟・長七郎が帰郷したのです。
長七郎を交え、倒幕計画の詰めが行われました。
剣術化として知られた長七郎は、挙兵の参謀官でした。
しかし、長七郎は、栄一たちの計画を聞き、猛烈に反対します。
長七郎は、京都で攘夷派の反乱が力づくで押さえ込まれ、攘夷派公暁までもが朝廷から放逐される様を目の当たりにしてきました。
意見の対立で興奮した栄一と長七郎は、お互いを殺してでも計画を止める、決行すると激論し、夜を明かしました。

「ここまで長七郎さんに言われ、よくよく考えてみたところが・・・
 百姓一揆のように、みなされては後に続く志士もなく、犬死になるかもしれないと悟ったのです
 長七郎さんが、命がけで私らの命を救ってくれたのです」

倒幕計画は断念しましたが、栄一は安穏としてはいられませんでした。
計画のうわさが幕府方に漏れると捕らえられる恐れがありました。
栄一は、各地から人と情報が集まる動乱の中心地・京都に身を隠すことにして、喜作と共に故郷血洗島村を出奔します。

栄一と喜作は情報と策謀の渦巻く京都にいました。
道中の安全は、平岡円四郎という人物の助けを借りました。
平岡は、徳川家の身内・御三卿の一つ一橋家重役でした。
攘夷倒幕に逸る栄一と違い、平岡は開国派でしたが栄一を見所ある若者と評価していました。
平岡は、すでに主君・一橋慶喜に従い京都にいました。
しかし、栄一たちが江戸の留守宅に来たら、家来の身分を与えて京都に来るようにと言い残していたのです。
京都についた栄一たちは、もとより家来になる気はないため、平岡への挨拶もそこそこに諸国の志士たちとの交流や物見遊山に時を過ごしました。

1864年2月・・・栄一のもとに驚愕すべきたよりが届きました。
高崎城襲撃を命がけで止めてくれた尾高長七郎が、殺人事件を起こし捕らえられ、懐から栄一の手紙が出てきたというのです。
それは、栄一が、京都から幕政批判を書き連ね、長七郎も上洛するようにと誘った文でした。
これによって長七郎は討幕派の嫌疑をかけられているという・・・
翌朝、栄一は平岡円四郎から呼び出され、長七郎の一件で、江戸から一橋家に問い合わせが来たのです。
栄一は事の経緯を包み隠さず話しました。
聞き終えた平岡は、栄一たちに思いがけない提案をします。

考えの違いは脇において、一橋家に仕官しないかというのです。
 
予想もしなかった平岡からの誘いに栄一は戸惑います。
宿に戻って悩みます。
討幕の意志を貫くのか、あるいは幕府を支える一橋家に身を寄せるのか??

思い悩むうちに、夜は白々と明けてきました。
渋沢栄一、この時24歳!!
人生の岐路となる選択を迫られます。

議論の末、朝を迎えた栄一たちは、平岡円四郎のもとに出向きます。
そこで栄一は、平岡の申し出を受け、一橋家への仕官を願い出ます。
しかし、召し抱えられるにあたり、条件を付けます。
あろうことか、慶喜本人に直接思いのたけを伝えたいというのです。
前例がないと渋る平岡に、農民を直に召し抱えることも例がありますまいと食い下がる栄一・・・!!
数日後、平尾確信の差配によって、慶喜の宿で拝謁が実現します。

「身の程知らずにも、慶喜公に幕府の命脈もすでに滅絶したと、無遠慮に申し上げたのです
 幕府が潰れるのを、とりつくろわれるようでは、一橋の御家ももろとも潰れます
 敢えて、好むことではござりませぬが、幕府をつぶすのが徳川家を忠孝するもとであります
 と、正直に申し上げたところ、慶喜公はただふむふむと聞いておられました」

慶喜との出会いで、栄一の運命は大きく動き出します。
一橋家仕官後の栄一の活躍は目覚ましく、栄一は一橋の武力強化のため、農民からなる歩兵の編成を目指します。
西国の一橋領をめぐって勧誘し、志願者500人という成果を上げました。
続いて取り組んだのが、一橋家の財政強化でした。
勘定組頭となった栄一は、藩札を発行して、播磨の木綿を買い上げます。
これを特産品として販売し、一橋家の財政を改善していきます。

明治政府がスローガンにあげた富国強兵の一橋家版でした。
慶喜の政界での力を高める意図で、一橋家の財政改革に尽力していきます。
ところが、またしても栄一に時代の大波が押し寄せます。
14代将軍・家茂が死去し、慶喜の15代将軍就任がとりだたされる事態となったのです。
栄一は、幕府はやがて斃れる運命とみていました。

「徳川氏は、家屋に例えていうと土台も柱も腐り、屋根も二階も朽ちた大きな家の如きもの・・・
 故に、何卒徳川家相続はおやめ願いたいと上司に進言し、直接慶喜公に申し上げる運びになったのですが」

一橋慶喜は、幕府老中からの懇請を受け入れ、徳川家を相続して徳川慶喜となりました。
栄一は、失望の極みにありました。

「この時は、また元の浪人になろうか、いや、いっそ死んでしまおうかと思い詰めた次第です」

栄一自身は、幕府は日本を背負える組織ではないと感じていました。
潰れていく幕府のTOPを継いでしまう・・・日本を変えていきたいといった思いで一橋慶喜のもとで一生懸命働いてきた栄一にとって、見通せなくなったことで落胆しました。
しかし、この後、またしても栄一に大きな転機が訪れます。

渋沢栄一検定 公式テキスト [ 公益財団法人 渋沢栄一記念財団 渋沢史料館 ]
渋沢栄一検定 公式テキスト [ 公益財団法人 渋沢栄一記念財団 渋沢史料館 ]

倒すべき敵だった幕府の家臣となってしまった栄一・・・
もう、死んでしまおうかと考えていた矢先、思いもよらない話が舞い込んできます。
フランス・パリに行かないかというのです。
1867年、パリで開催される万国博覧会に、幕府は義信の弟・昭武を将軍名代として派遣し、その後もパリで留学させることにしました。
栄一は、昭武の世話係として、庶務と会計を担うことを期待されていました。
多くの家臣の中から栄一を指名したのは慶喜でした。
これを聞き、栄一はパリ行きを即答します。

「この降ってきたような話、その時の嬉しさは実になんとも例えようもありませんでした
 速やかにお受けをいたしますから、是非お遣わしを願います、どのような甘苦も決して厭いませんとお答えしました」

1867年1月、栄一は横浜を出航!!
長旅の末に到着したパリで、栄一は昭武の世話や滞在費の管理に多忙な日々を送りながら、ヨーロッパの習慣になじんでいきました。

一方、日本ではその年の10月、徳川慶喜が大政奉還を朝廷に申し出ました。
この報せがパリに届いたのは、翌年の1月2日。
この時、すでに大坂を出た旧幕府軍は、京都鳥羽伏見に進軍をはじめていました。
しかし、旧幕府軍は惨敗し、慶喜は謹慎しました。
戊辰戦争開戦から2か月後、栄一はパリでこの報せを受け取ります。
栄一は、水戸・徳川家に生まれた昭武を、先行きが見えない日本に帰さず、フランス留学を続けさせることを望みました。
しかし、4月に水戸藩主・徳川慶篤が死去すると、これによって昭武が水戸藩を継ぐことが決まりました。
止むなく栄一がフランスを発った4日後、日本は年号を明治と改めました。
帰国後、栄一は駿府に向かいます。
かつて行き場を失った自分を召し抱え、活躍する場所を与えてくれた慶喜がそこで謹慎していました。

「慶喜公は、貧相なお寺に蟄居していらっしゃいました。 
 畳が破れて、薄暗い行燈のともった小さな一室に、ひとりでひょろりと入って来られ、しょんぼりとお座りになりました
 余りのお変わりように、感極まって涙がこぼれました」

慶喜は、フランスでの昭武の様子を聞き、栄一の労をねぎらったといいます。

明治以降、経済界で華々しい業績を積み上げる栄一・・・
しかし、老境に至っても、倒幕に思いを寄せた血洗島村の生家に度々帰郷しました。
ふるさとの家族たちも、栄一のための座敷を作り、温かく迎えたといいます。

「私は特に人より優れた才能があったわけではありませんが、真心ひとつで万事に当たってまいりました
 まるで夢うつつのようですが、忘れがたいことばかりでありました」

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江戸幕府15歳将軍・徳川慶喜・・・在任期間はわずか1年足らずで、歴代で最も短かったものの260年に及んだ江戸時代最後の将軍です。

1837年9月29日・・・
江戸・水戸藩上屋敷でひとりの男の子が生まれました。
後の慶喜です。
父親は、水戸徳川家九代当主斉昭、母親は有栖川宮家の吉子でした。
父・斉昭の教育方針により、慶喜は生後7か月で水戸にうつされ、これ以後、天皇を尊ぶ尊王学など英才教育を受けて育ちます。
そんな慶喜に、斉昭は大きな期待を寄せ、こう語ったといいます。

「天晴な名将となるか さもなくば 手に余るようになる」

1847年、慶喜が10歳の時、大きな転機が訪れます。
一橋家から養子の申し出が来たのです。
東寺の一橋家は、11代将軍家斉、12代将軍家慶を輩出した最も将軍職に近い家柄で、慶喜は将軍後見職などの幕府要職を歴任することになり、26歳の時朝廷の対応に当たるため京都に赴き、幕府の代表として幕末混乱期の政局に手腕を発揮しました。

14代将軍・家茂が亡くなると・・・
1866年12月5日、京都にいた慶喜がそのまま15代将軍となります。
就任当時の幕府は、度重なる政策の失敗で、指導力を失い、存続の危機に瀕していました。
弱体化した幕府を強化するため、慶喜がまず行ったのが、軍事改革です。
特に海軍力に力を入れ、国内最大級となる開陽丸など、海外から軍艦を購入し配備しました。
さらに、暗礁に乗り上げていた外交問題にも着手します。
兵庫の開港を求める欧米列強に対し、朝廷は京都に近いという理由から強く反対し続けていましたが・・・慶喜は朝廷を説得して将軍就任わずか半年で開港の勅許を得ます。
各国の大使はそんな慶喜の手腕を高く評価しました。

就任から次々と成果を上げていく慶喜でしたが、この後、わずか半年ほどの間に3度の大きな決断を迫られることになります。
最初の決断は、将軍就任からおよど10か月後の1867年10月14日、大政奉還です。
当時、国内には、幕府政治に疑問を抱き、武力で討幕を目指す(武力討幕)者がいました。
最も積極的だったのが、薩摩藩です。
下級武士名から、反の実権を握っていた大久保利通や西郷隆盛は同じ討幕派の長州藩と手を結び、イギリスから武器を購入するなどして倒幕に向けての準備を着々と進めていました。
一方、同じ討幕でも平和的に政権を移そうと考えていたのが山内容堂率いる土佐藩です。
彼等が掲げたのが、大政奉還論でした。
①幕府は政権を朝廷に返上
②議会を設置
  徳川慶喜も諸侯の一員として参画
といった武力に頼らない討幕を目指したのです。
そんな中、1867年6月22日、京都で土佐の後藤象二郎・坂本龍馬と、薩摩の大久保・西郷らとの間で話し合いがもたれます。
強硬姿勢を崩さない薩摩に対し、挙兵を思いとどまらせようとする土佐・・・
話し合いは、平行線のまま終わるかに見えました。
しかし、一転、大政奉還で合意に至ったのです。
薩摩藩は、どうして態度を変えたのでしょうか?

10月3日、慶喜に土佐藩から大政奉還の建白書が出されます。
しかし、その裏で、薩摩の大久保らも動いていました。
あくまでも武力討伐にこだわる彼等は、公家の岩倉具視と組み、朝廷から慶喜討伐の密書を出してもらう用画策。
すると、10月14日、朝廷は、薩長の藩主に慶喜の討伐を命ずるという「討幕の密勅」を出したのです。
日本を滅ぼしかねない賊臣・慶喜を討て!!
待ちに待ったこの日に、薩摩藩の指揮は一気に上がりました。
しかし、同じ日・・・慶喜は、周囲の予想を裏切り、自らあっさりと大政奉還をしてしまうのです。

「このままに持ち堪えんとすれば無理ばかり多くなり、罪責はますます増加
 遂には奪わるるにも至るべきは必然と見切り申候」

慶喜の中では、幕藩体制の維持は不可能と考えていました。
内乱や外国の介入を阻止するために、大政奉還が一番いい方法だと考えたのです。
朝廷はずっと政治を担っていなかったので、慶喜に頼ざらるをを得ないとも考えていました。

大政奉還からわずか2か月後の12月9日・・・慶喜は、再び大きな決断に迫られます。
武力討伐の中止を余儀なくされた大久保らは、新しい体制となってもなお慶喜が主導権を握るのではと脅威を感じていました。
そこで、古い政治体制をすべて打ち壊すしかないとして・・・
12月9日明け方・・・西郷の指揮のもと、薩摩藩を中心とする兵が、御所の門を完全封鎖し、明治天皇が臨席する中で討幕派主導のクーデターが起きます。
世にいう王政復古のクーデターです。
徳川幕府の廃絶と、新政府の樹立が宣言され、政権運営は新たに創設された三職(総裁・参与・議定)によって行われることが決定しました。
総裁は、今の総理大臣に当たり、議会を統括する役職で、有栖川宮熾仁親王が就任。
議定は上院議員で、皇族や公家、藩主から。
参与は下院議員で、下級の公家や藩士から選ばれました。
しかし、この新政府メンバーに、慶喜の名はありませんでした。

王政復古のクーデターが決行されたその日の夕方、京都御所で新政府による初めての会議が行われました。
議題は、慶喜の処遇です。
この時、新政府内は、旧幕府の徹底排除を求める討幕派と、旧幕府との融合を主張する公議政体派に分裂し、会議は紛糾します。
慶喜に対して最も厳しい条件を突き付けたのは、討幕派の大久保らでした。

「慶喜公からは、内大臣の官位を剥奪し、徳川家の領地800万石を没収し、それを新政府の資金に当てましょう。」

これにたいし、公議政体派の山内容堂が反対の意を唱えます。

「大政奉還という大英断を下した慶喜公こそ、新政府に必要な人物!!
 相応の役職に、迎え入れるべきだ!!」

領地没収に関しても、徳川家だけというのは不公平だと反論し、話し合いは夜中まで続きました。
しかし、最終的には、討幕派が押し切り、慶喜の官位剥奪、領地没収が決定してしまいました。
政権を返上し、諸侯の一人となった慶喜でしたが、元将軍であり、徳川家の当主としての求心力は健在・・・!!
さらに、反幕府派の中からも、大政奉還を好意的にとらえる勢力が現れ始めます。
多くの公卿たちも同調し始めたことで、慶喜を擁護する勢力が勢いを増していきます。
そんな中、旧幕府を支持する会津藩と桑名藩が、御所に向けて出兵!!
討幕派を一掃すべしという声をあげました。

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王政復古から3日後の12月12日・・・
慶喜は、家臣たちの暴発を避けるために、会津、桑名の軍勢を引き連れて京都から大阪城に移ります。
経済的にも軍事的にも重要な大坂を抑えることで、新政府にプレッシャーを与えようと考えたのです。
この選択が、自分自身の運命を大きく帰ることとも知らずに・・・!!

翌日、倒幕派の大久保と岩倉との間で、慶喜の処遇について話し合いがもたれ・・・
岩倉は、二つの案を提示します。
①強硬案・・・薩長の軍事力を背景に、このまま強硬路線を貫くというもの
②妥協案・・・慶喜が、官位剥奪と領地没収を飲むなら、議定職への就任を認めるというもの
強硬な姿勢を貫く大久保らは、新政府内で孤立しつつあり、妥協案で合意するしかありませんでした。
その後の合議の末、慶喜は

①内大臣を辞して”前内大臣”と称す
②領地没収の撤回
③議定職就任

慶喜の思惑通り、新政府に迎え入れられることとなりました。

王政復古のクーデターのおよそ1か月後・・・慶喜は最後の決断を迫られます。
大久保や西郷ら討幕派の勢いは、この頃風前の灯となっていました。
同盟を組む長州藩でさえも、薩摩の行動は理解しがたいと離れて行ってしまったからです。
孤立を深めていく中で、大久保は覚悟を決めます。
「もはや、薩摩一国となっても一戦交えるまでだ!!」
そんな中、慶喜の議定職就任が決定した翌日の1867年12月25日・・・
旧幕府から市中取り締まりを命じられていた庄内藩が、江戸の薩摩藩邸を焼き討ちするという事件が勃発します。
薩摩浪士たちが江戸で、強盗や放火を繰り返し、幕府を挑発していたことに対する報復でした。
藩邸を襲われた薩摩は、一気に戦闘態勢に!!
一方、焼討事件を知らされた大坂城でも、会津・桑名の藩士たちが武力行使を訴えます。
慶喜が、暴発を抑えようと必死になるものの・・・
薩摩を倒すべきという声が上がり、機運の高まりはもはや慶喜にも抑えられなくなっていました。


「いかようにも勝手にせよ・・・」

慶喜は、薩摩討伐を決意し、署名します。
五か条の「討薩の表」には、こう記されていました。

”王政復古以来、朝廷のふるまいは、薩摩藩の陰謀によるものである
 薩摩の引き渡しを求める”

あくまで薩摩藩を相手に戦うことが目的でした。

1868年1月2日・・・江戸から脱走した薩摩藩士の捕縛を命じられていた開陽丸の艦長・榎本武揚は、4隻の軍艦と共に大坂湾にいました。
すると、脱走した藩士を乗せた薩摩藩の艦船3隻を発見し、ここに戦いの火ぶたが切られます。
日本初の洋式海戦の勃発(阿波沖の海戦)です。
旧幕府軍・開陽の圧倒的な勝利の前に、薩摩の2隻は敗走・・・1隻は逃げきれずに自沈しました。
旧幕府軍は、海上戦で圧勝・・・慶喜が行ってきた軍事力強化がここで実を結んだのです。
海上戦が始まったこの日、陸上では、旧幕府軍が”討薩の表”を朝廷に提出するため大坂城から京を目指し北上していました。
二手に分かれた軍勢は、3日、鳥羽と伏見に到着します。
一方、薩長両藩も、鳥羽と伏見に布陣し・・・旧幕府軍を待ち伏せていました。

1868年1月3日、午後5時・・・4日間に及ぶ戦いが始まります。
鳥羽で旧幕府軍が隊列を組み強行突破を仕掛けると、新政府軍の銃砲が一斉に火を噴きました。
不意を突かれた旧幕府軍は大混乱に陥り、容赦なく浴びせられる銃弾に、歩兵は次々と倒れていきました。
鳥羽から聞こえた銃声を合図に、伏見でも戦闘が始まりましたが、戦況はこちらも同様新政府軍が優勢となりました。
新政府軍の方は、指揮官たちの巧みな戦術のもと、着実に作戦を遂行していたのですが、一方の旧幕府軍は、精鋭部隊のほとんどが江戸にいて、各部隊の命令系統はバラバラ・・・
兵の中には農民もいるなど、寄せ集めの軍隊だったのです。
翌4日になっても、旧幕府軍の劣勢は変わらず、後退を余儀なくされていきます。

鳥羽伏見の戦いのおよそ3か月前・・・
討幕派が集まって、密議が重ねられていました。
岩倉具視が中心となって、幕府軍と武力衝突が起きた際の、戦局を有利に運ぶためにはどうすればいいか??作戦が練られていました。
彼等が、切り札としたのは”錦の御旗”でした。
鎌倉時代に、朝敵を退治する戦で使われた朝廷の軍隊を象徴する旗で、その後は使われなくなり文献にしか残っていなかったのですが・・・
岩倉は、これを復活させ利用しようと提案したのです。
大久保は、早速、錦の布を買いに行かせ、それを長州藩士に渡し、西陣織の職人によって極秘裏に作成されました。

鳥羽伏見の戦いが始まって3日目・・・
新政府軍が掲げた”錦の御旗”が前線に翻りました。
これにより、慶喜は天皇に歯向かう朝敵となってしまったのです。
御旗の効果は絶大でした。
朝敵となることを恐れた諸藩は、次々と新政府側に寝返っていきました。
慶喜は、前線で戦う兵士の士気を高めるため、大坂城でこう演説します。

「たとえ、千騎が一騎馬になろうとも、決して退くな!!
 大坂が破れても江戸がある!!
 屈してはならぬ!!」by慶喜

しかし、その舌の根も乾かぬうちに、慶喜はわずかの供を連れて大坂城を脱出・・・
この日、城で慶喜に拝謁した軍艦奉行の浅野氏祐は、直筆として1枚の紙を渡されたといいます。
そこには、慶喜と共に帰還する者の名と共に、戦場に残す者たちの名があり、それは、主戦論を強硬に唱えていた重臣たちでした。
慶喜は、なんと彼等に戦の責任を取らせることにして、大坂城から逃げたのです。
兵を鼓舞したすぐ後に、どうして大坂城を脱出したのでしょうか?

「これ以上、大坂城に滞在すると、ますます過激論者を刺激してしまう
 自分さえいなくなれば、激論も沈静するであろう
 私は江戸に戻って恭順の姿勢を貫き、朝命に従うつもりだ」

鳥羽伏見の戦いを早期に集結させるために江戸にもどると説明しています。
しかし、実際は、錦の御旗が出て、自分が朝敵になった事が大きかったのです。

1868年1月6日、午後9時・・・慶喜は、わずかな供を連れて大坂城の裏門から抜け出しました。
その際、慶喜はお小姓を装い、城門の衛兵の目をくらましたと言われています。
そして、八軒屋の船着場から、小舟で川を下り、沖に向かったのですが・・・
闇夜でもあり、大坂から離れた西宮周辺に停泊していた徳川家の軍艦を見つけることはできませんでした。
そこで、アメリカ大使に依頼し、夜が明けるまで軍艦に乗船させてもらうことにしました。
翌朝、慶喜一行は、開陽に乗り込んだのですが・・・館長の榎本武明が、大坂城に行っていて船にいなかったため、乗組員たちに出航は無理だと言われてしまいます。
しかし、慶喜は、半ば強引に説き伏せ、江戸に向かわせました。

大坂城脱出から5日ご・・・開陽は、品川港に到着・・・
江戸にもどった慶喜は、恭順の姿勢を示すために、もう一度戦を仕掛けようという声をかたくなに拒否しました。
そして、自ら徳川の霊廟である上野の寛永寺に入り、謹慎のみとなることで政治の表舞台から去っていきました。
その後、謹慎場所を水戸へと移し、
1868年7月19日、戊辰戦争による治安悪化を理由に駿府へと向かいます。
謹慎場所は、徳川家ゆかりの宝台院でした。
この時、慶喜の元を尋ねた旧幕臣の渋沢栄一は、将軍の時とあまりにもかけ離れたその暮らしぶりに涙したといいます。
1869年9月28日、鳥羽伏見の戦いから始まった戊辰戦争の終結を受け、慶喜の謹慎はようやく解かれます。
この時、32歳でした。

この後、一市民として、狩猟や釣りなどから洋画や刺しゅう、自転車を買ったり、カメラを使ったり・・・様々な趣味に没頭しました。
1913年11月22日、慶喜は76年に及ぶ波乱に人生を終えました。
歴代の将軍が眠る寛永寺でも、増上寺でもなく、自らが購入した谷中墓地で静かに眠りについたのです。
一市民として・・・!!


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時代は幕末から明治へ・・・
戊辰戦争、破竹の勢いで進軍する新政府軍に立ちはだかった男がいました。
越後長岡藩士・河合継之助です。
最新兵器ガトリング砲や近代兵器を使って徹底抗戦し、新政府を苦しめました。
郷土を荒廃してまで戦った河合継之助・・・どうしてなのか・・・??
越後の蒼龍と恐れられた男、河合は新政府軍との戦いの先に、何を見ていたのでしょうか?

江戸時代、越後長岡藩7万4000石の城下町として栄えた新潟県長岡市。
1827年、河合継之助は代々藩の勘定方を務めた中級藩士の家に生れました。
河合は若くして勉学に精進します。
藩校での音読中心の勉学では飽き足らず、感銘を受けた書物は一文字一文字写して体得することを心掛けました。
中でも心酔したのは王陽明の陽明学でした。
その思想は、学問を実際の行動に生かす知行合一です。
当時、陽明学の実践者として世に知られたのは、幕臣の大塩平八郎・・・貧民救済のための反乱を起こしたのは、河合が11歳の時でした。
17歳になった河合は誓いを立てます。
”十七 天に誓いて 輔国に擬す”
国のために力を尽くして働く・・・と。
陽明学が、長岡藩のためになると思っていたようです。

17歳の河合が誓いを立てた年、長岡藩を揺るがす大事件が・・・
藩が管理し、日本海海運の要として栄えていた新潟湊・・・各地からの物資に紛れ、中国からの密貿易が発覚!!
そのため長岡藩は、政府に新潟湊を没収されてしまったのです。
湊での商取引から税をとってた長岡藩は、収入減を失います。
河合の誓いは、何の行く末に対する強い危機感からでした。
案の定長岡藩は、6年後には23万両の赤字をだし、財政危機に陥ってしまいます。
藩の再建を一途に考え続けた河合・・・この後、時代の大きなうねりが彼を表舞台へと押し出していきます。

1853年6月、ペリーが黒船を率いて浦賀に現れ日本に開国を求めます。
この時、長岡藩主牧野忠雅は、譜代大名として老中を務めていました。
牧野は未曽有の国難に対する対応策を若手藩士たちに求めます。
河合も意見書を提出・・・これが藩主の目に留まり、初めて藩で役職をもらうこととなります。
藩の重役会議に列席し、意見を述べる機会を与えられた河合・・・。
ところが、席上・・・面と向かって重役たちを批判し激怒させてしまいます。
さらに、藩主の跡継ぎ勉強を教える役に任じられると・・・教えるために学問を学んでいたのではないと断ってしまいました。

1858年、旧態依然とした長岡藩を離れ、遊学の旅に出ることを決心します。
西国にどうしても会いたい人物がいたのです。
天空の城・松山城で知られる備中松山藩・・・石高は5万石でしたが、実高は2万石の小さな藩でした。
慢性的な財政年に陥り、一時は10万両もの借金に苦しみました。
これを立て直したのが、松山藩参与陽明学者の山田方谷でした。
河合は方谷から、藩政改革の極意を学びたいと願いました。
河合の旅日記「塵壺」・・・方谷に面会した日、書留がありました。

封建の世、人に使われること出来ざるは ツマラヌ物

能力があっても藩に使われなくては意味がない・・・
方谷は、藩士としての心得を伝えます。
方谷が藩政改革で力を注いだのは”備中鍬””松山きざみ”など、特産品の生産を領民たちに奨励することでした。
これを藩が買い上げ、領民たちが潤います。
松山藩では、この特産品を江戸に運び、商人を介さず、藩士が自ら販売して大きな利益を上げていました。
方谷は生産性をあげ、武士が自ら経済活動を担うことで、藩全体が豊かになるシステムを作りました。
そして藩の再建を成し遂げたのです。

民は国の本
吏は民の雇い

民衆は国の基礎であり、役人である武士はその雇われ人に過ぎない

江戸時代の身分意識にとらわれない画期的な考え方でした。
方谷から、財政立て直しの秘訣を学んだ河合・・・
長岡に戻り、いよいよ藩政改革に腕を振るうこととなります。

1860年3月、河合が方谷のもとで研鑚を積んでいた頃、幕末の政局を動乱に巻き込む大事件が起こりました。
桜田門外の変です。
開国に反対する攘夷派を弾圧した大老・井伊直弼が暗殺されたのです。
これによって幕府の権威は失墜・・・以後各地でテロ事件が頻発します。
京都では朝廷と結びついて政治の実権を握ろうとする薩摩藩や長州藩が暗躍し、時代は大きく動こうとしていました。
河合は藩主にその行動力を認められ、郡奉行に抜擢されます。
いよいよ藩政改革の重責を担うこととなります。
目をつけたのが、領内を流れる信濃川・・・流域で水害が頻発し、耕作地に甚大な被害がでていました。
河合は治水工事を完工し、米の増産に成功します。
さらに、藩内の流通にも大胆な手を打ちます。
重要な財源だった信濃川の通行税を廃止します。
人や物の往来を促進し、商業が発展するという考え方です。
独占していた商売を開放し、藩への届け出だけで新規参入できるようにしました。
生産性をあげ、流通を促進し、経済を活性化する・・・方谷に学んだ河合の改革によって、わずか2年で10万両を蓄えるようになります。
河合の藩政改革が実り始めていた頃、中央は激動の時代となっていました。

1867年10月14日、大政奉還
     12月9日、王政復古の大号令

新政府は天皇を中心とする新政府樹立を宣言します。
新政府と幕府の対立は強まり、一触即発の状態に・・・!!

内乱の危機を察した河合は京都に向かいます。
長岡藩として朝廷に意見書を提出するためでした。
河合直筆の草稿が残されています。
そこには、内乱を防ぎたいという強い想いが認められていました。
譜代藩の立場から、河合は徳川の政権復帰を提案します。
しかし、朝廷はこれを黙殺・・・
そして、1868年1月、鳥羽・伏見の戦い勃発
近代兵器を豊富にそろえた新政府軍を前に、旧幕府軍は歯が立ちませんでした。
江戸に戻った河合は、長岡藩邸に会った美術品や茶器を売り払い、その金で横浜の外国商人から近代兵器を購入します。
なかでもアメリカ製のガトリング砲は、1台で歩兵100人分に匹敵するという割れた機関銃でした。
河合はこれを2台購入し、戦乱に備えます。

鳥羽・伏見で圧勝した新政府軍は、三手に分かれ、錦の御旗で諸藩を恭順させながら東へ進軍・・・
江戸の旧幕府勢力を一掃し、会津、東北諸藩と戦端を開こうとしていました。
その途中、北陸道を進む新政府軍は、長岡藩に恭順を求めます。
新政府軍に参加するか、軍資金3万両を供出せよというものでした。
長岡藩の重役たちの意見は割れます。
恭順か抗戦か・・・議会は紛糾し、返答は先延ばしに・・・。
業を煮やした新政府軍は、長岡に向けて侵攻開始・・・
4月27日、長岡藩に隣接する小千谷に進駐・・・長岡城までわずか17キロ・・・!!

この日、河合は家老上席・軍事総督に任命され、名実ともに長岡藩の全権を預かりました。
そして藩士たちに、交戦でも恭順でもない新たな考えを伝えました。

「勤王佐幕の論外に立ち 封土を鎮撫し 十万の民を治め以て 上は朝廷および徳川氏に対し忠実を尽くし 下諸侯たる責めを全うする外なし」

それは、新政府にも旧幕府にもつかず、武装したまま中立を保つという宣言でした。

1868年5月2日、新政府軍と直接交渉する為に、小千谷の慈眼寺を訪れた河合・・・
その時に使われた部屋が残っています。
新政府軍幹部と対峙した河合・・・
自分が必ず東北諸藩を説得すると時間の猶予を乞い、新政府首脳部に向けた嘆願書を差し出しました。
そこには、河合の目指す理想の国家像が書かれていました。

10万もの領民が安心して仕事に励み、藩全体が豊かになるよう努めることが、私の天職です。
長岡のような小さな藩でも、倹約に努め、産業を起こせば海軍を持てるようになるでしょう。
それなのに、戦争によって領民を苦しめ、農業を妨げ、国を疲弊させるのは、かなしむべきことです。
今こそ、日本国中で協力し、世界へ恥じない強国を作るべきです。

河合が訴えようとしたことは、長岡藩の中立だけではなく、全ての藩が富国強兵に努め、国全体を豊かにするというものでした。
しかし、新政府側は、軍備を整えるための時間稼ぎだと決めつけ、わずか30分で立ち去りました。
河合の信念を込めた嘆願書は、受け取ることさえ拒否されたのです。
窮地に立たされた河合・・・

新政府に恭順し、会津討伐に加われば、長岡が戦場になることはない・・・
それとも・・・強引な新政府軍に徹底抗戦する・・・??
ガトリング砲を始め、最新兵器をもってすれば、数か月は持ちこたえることができるはず・・・
雪の季節まで持ちこたえることができれば、勝機も見えてくる・・・??
諸藩も味方に付くかも・・・??
それまでに長岡が戦場となれば、多くの領民が犠牲になってしまう・・・。
中立する・・・??
徳川譜代の長岡藩が、核版図の調停役を買って出れば、新政府にとっても悪いことではないはず!!
どうにかして嘆願書を新政府首脳部に・・・!!

交渉が決裂した翌日の5月3日・・・河合は新政府軍本陣をたずね、再交渉を願い出ました。
中立を貫くことを選んだのです。
しかし、河合の懇願が取り次がれることはありませんでした。
諦めきれない河合は、他藩に仲介を頼みましたが、結果は同じでした。
河合は心を決めます。

此上は君国の為に一藩を挙げて奸賊を防ぐの外途なし

最早、新政府軍と戦うしかない・・・!!
しかし、長岡藩邸1300人に対し、新政府軍はおよそ3倍の4000人!!
兵力の差は歴然でした。
河合は新政府軍と対立する東北諸藩と軍事同盟を結びます。
5月10日、両軍が衝突・・・北越戦争が始まりました。
新政府軍は信濃川の対岸から大砲を撃ちかけ、長岡城下に突入!!
長岡城に陣取った河合は、自らガトリング砲を操りこれに応戦!!
しかし翌日、河合の奮戦虚しく、新政府軍によって長岡城は落城します。
最新兵器をもってしても、新政府軍の物量攻撃には抗いきれませんでした。
しかし、河合は諦めず、地の利を生かしたゲリラ戦を展開!!
領内各地で新政府軍を苦しめます。

7月24日、深夜・・・河合は長岡城奪還の奇襲作戦を試みます。
城の裏手に広がる沼地を胸にまでつかりながら6時間行軍し、早朝・・・
攻撃を開始します。
不意を突かれた新政府軍は大混乱に陥り敗走!!
この時、城を守っていた新政府軍の兵2500に対し、河合の兵はわずか700でした。
河合は兵力差をものともせずに、長岡城の奪還に成功したのです。

しかし、この戦いには大きな犠牲が伴っていました。
河合が左足に銃撃を受けたのです。
河合重傷の報せに長岡藩兵の士気は一気に低下・・・
かたや新政府軍は時を置かず猛反撃!!
新政府軍は、各地からの援軍を加えて3万に膨れ上がっていました。
4日後・・・城は再び新政府軍の手に落ちました。
3か月に及んだ北越戦争で、長岡の町は焼け野原となってしまいました。

河合は長岡藩兵の残兵と会津を目指します。
自力で歩けないために、担架で運ばれながら、80里越えという国境の険しい峠を超えました。
道中、日に日に傷が悪化した河合は、会津の塩沢村に身を寄せます。
今もこの地に河合が最期を迎えた座敷が大切に残されています。

1868年8月16日、この部屋で河合は42年の生涯を閉じました。
塩沢村の人々は、河合の死を悼み、墓を立て弔います。
しかし、墓石に河合の名はありません。
追撃してくる新政府軍に墓を暴かれないためでした。
賊軍の罪人・・・河合は日本の未来を見据えた構想を抱きながら、賊軍の将として世を去りました。
敗走ちゅうの峠で句を詠んだといます。

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