日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:大高城

天下取りへの第一歩、桶狭間の戦い・・・織田信長が、今川義元の大軍を打ち破った奇跡の逆転劇です。
しかし、実は信長には用意周到な作戦があったのでは・・・??
どうして桶狭間の戦いに勝てたのでしょうか??

レジェンド&バタフライ



1560年、27歳の時、桶狭間の戦い!!
この頃、織田家が支配する周りは、敵だらけ・・・!!
危機的状況を打開するために織田家の長男として育てられた信長。
しかし、期待外れの変わり者とみられていました。
信長公記には、従来の信長の姿が描写されています。

”いつも着物の袖を外し、短い袴をはいただらしない格好で、特に見苦しいには街中で栗や柿、うりをかじりつき、人に寄り掛かり、ぶらぶら歩いている”

大うつけ・・・大バカ者と噂されたといいます。
その後、父の病死で当主となった信長・・・
うつけ者が、どうやって強大な今川軍と戦ったのでしょうか??
従来、桶狭間の戦いのきっかけは、今川義元が京の都にのぼろうとしたためだといわれていました。
江戸時代初期に記された信長公記には・・・

”今川義元は上洛し、国家の政治を正すため兵を挙げた”

その為、今川義元が尾張に進軍してきたというものです。
さらに、桶狭間で信長が勝った理由は、これまでは奇襲攻撃だといわれてきました。

”敵の後ろ側へ迂回して移動しろ
 旗を巻いて忍び寄り、義元の本陣を攻めろ”

信長軍は北へ迂回しながら今川軍に見つからないように丘陵地帯を進み、桶狭間に展開する義元本陣を急襲したというものです。
しかし、近年、研究者が記録を総合的に見直すと、全く異なる戦いの姿が浮かんできました。

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事の発端は、桶狭間の戦いの7年前・・・信長が、19歳で家督を継いだことでした。
それを知った義元は、

「信長はうつけと聞く
 今が大高城を手に入れる好機!!」by義元

大高城は尾張でも大きく重要な城でした。
そこを義元は奪い取ります。
大高城を手に入れたことで、義元は織田家の領地を南北に両断!!
しかも、この大高城は伊勢湾の目の前にあり、海上交易の利益を得られます。
大高城を奪ったことで、織田の経済力に打撃を与えたのです。
また、大高城と同じ年、義元は同じく伊勢湾に面した鳴海城も手に入れ、経済的支配を確固たるものにしました。
信長は絶体絶命の危機・・・!!
しかし、義元の策を読んで、戦略を練っていたのです。

桶狭間の年の前年、1559年26歳の時、信長は大高城のそばに2つの付城・・・丸根砦と鷲津砦を作ります。
さらに、北に3つの砦を作りました。
大高城と鳴海城を砦で囲み、今川軍の兵糧の運び込みを妨害、義元が大高城を助け出陣すせざるを得ない状況を作ったといわれています。
義元が出てくることを見越していたからこそ、付城を作って包囲して、攻め立てたことがきっかけで義元が出てきたのです。
今までのイメージとは違い、信長の方が自ら仕掛けていって義元を誘い込んでいたのです。

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1560年5月12日、今川義元出陣!!
大高城救援に向かう義元・・・道中にあったのが桶狭間でした。
この時、清州城で戦況をにらんでいた信長は、5月19日早朝、出陣!!
向かったのは、鳴海城東に位置する善照寺砦でした。
この砦は、これまで鳴海城を監視する砦と考えられていました。
ところが、砦の構造を丁寧に検証すると・・・
鳴海城の反対側の山の端っこに作った城だったことが分かります。
つまり、善照寺砦からは鳴海城が監視できないのです。
その代わり、南東の方角が一望出来ました。
善照寺砦の南東方面・・・それは桶狭間でした。
信長は最初から、今川軍の行動を読んで、桶狭間方面を監視するためにこの砦を設置してたのです。
今川の軍勢が尾張に向かってやって来れば、いち早くそこでキャッチできる監視塔のような役割を果たしていたのが善照寺砦でした。

記録によると、信長はここで2時間ほど動いていません。
信長が善照寺砦に到着したころ、すでに鷲津砦・丸根砦が今川先陣によって落とされていました。
この状況で信長が桶狭間に向かえば、大高城にいる今川軍に背後をつかれる恐れがありました。
また、最も重要だったのは、義元が今どこにいるのか??という情報でした。
戦全体を一望できる善照寺砦から、大高城の今川軍が動かない・・・義元は桶狭間にいるという二つの条件を見極めていたのです。

さらに、信長は運も味方につけていました。
二つの砦を落した今川軍は、人馬を休め、休憩。
この時、急に天候が激変し、豪雨が降りだしました。
今川軍は雨の中、動きが鈍くなり、火縄銃なども火薬が湿って使えない状況でした。
織田軍は砦に待機し、雨が上がるのを待っていました。
しばらくすると一転、晴れ渡る空~~!!
その時、信長は、

”空が晴れるのをご覧になって、信長は槍をとって大声で「さあ、かかれ、かかれ」とおっしゃった”

織田軍は、砦から2000の兵で正面攻撃!!
今川軍は総崩れ・・・義元は討ち死に!!

桶狭間の戦い・・・それは、奇跡の逆転劇ではなく、用意周到な戦術家・信長が起こした必然の勝利かもしれません。

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1568年、35歳の時、桶狭間の戦いの8年後、信長は室町幕府の将軍候補・足利義昭と共に上洛。
従来、天下統一のため将軍を利用したとされてきました。
明治期の歴史書には・・・

”信長の上洛は、義昭のためではなく足利氏の代わり天下を平らげんとする意味”

その後、義昭を京から追放し、それに代わって自ら権力を握った事実から、信長のイメージは伝統的秩序の破壊者に・・・!!

ところが、近年の研究では信長の違った一面が見えてきています。
どうして将軍・足利義昭と共に上洛したのでしょうか??

1568年、35歳の時、信長は足利義昭と共に上洛。

”将軍上洛のともとして織田信長が参陣する”

しかし、この発見された書状の年を見てみると、永禄9年となっています。
信長は、実際の上洛の2年も前から義昭と共に京を目指す計画を立てていました。
しかし、永禄9年の時点では、桶狭間の戦いで今川義元に勝利したとはいえ信長の周囲は強敵ばかり・・・
いつ攻められてもおかしくないため、上洛など考える余裕はありませんでした。
しかし、信長はそんな状況の中でも、義昭と共に上洛することを考えていました。
信長にとって、義昭と上洛することはどんな意味があったのでしょうか??

1467年、応仁の乱・・・京で始まった権力争いは、全国を巻き込む戦乱へと発展します。
室町幕府は衰退の一途をたどっていきます。
そんな中でも信長は幕府の権威を重んじていたことを示す記録が残っています。
上洛の5年前に書かれた室町幕府の家臣の名簿・・・
その中に、”織田尾張守信長”の名が・・・!!
信長も、将軍を支える大名のひとりだったのです。
権威を重んじる信長が、上洛を目指した目的・・・それは、室町幕府の再興を図ったからです。

信長は、特に中央が維持された中で、「自分の領国があるんだ」という考え方の人物でした。
中央も鎮まるべきだという考えから、積極的に動いて行きました。
伝統的秩序に対する信長の思い・・・
新たに見直されている言葉「天下布武」!!
信長が用いたスローガンで、”天下に武を布く”と読めます。
自分の書状に、この正印を押した信長・・・
これまでは、「天下を武力で我がものとする」という意味で捉えられてきました。
しかし、この天下布武・・・当時の使われ方は・・・??
天下・・・今では日本全国という意味ですが、戦国時代、日本に滞在した宣教師ルイス・フロイスは、「五畿内の領主は、天下の領主と呼ばれる」
つまり、天下とは、全国ではなく、京都周辺の地域(京・山城・摂津・和泉・河内・大和)を示しているのです。
もう一つの手がかりが、”天下静謐”という表現です。
上洛後の信長が、足利義昭への手紙で使った言葉です。
「天下」すなわち「五畿内」に将軍を置き穏やかに治めることを理想としているのです。
これらの事実から、天下布武の意味を読み解くと・・・

”武力という手段を使ってでも五畿内の平和的秩序を目指す”

というスローガンとも取れるのです。
実際に信長のやったことを見ていくと、乱れていた中央を鎮めるという意味合いが一番強い・・・
安泰を維持していく、そういう世の中を求めていたのです。

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1568年9月、35歳の時に4万の軍勢を率いて京へ!!
立ちはだかる敵を蹴散らします。
遂に、義昭と共に念願だった上洛を果たしました。
10月には、信長の軍事力を背景に、義昭が征夷大将軍に就任。
その後、信長が政権内で担当したのは、義昭が行う行政の監査、京の町の治安維持・・・
あくまで財政や守護の任命などの内政面は、義昭が担当しました。
二人は補い合う関係でした。

しかし、蜜月の時は長くは続きませんでした。
上洛からわずか2年・・・信長の怖れていたことが起こります。
越前の大名・朝倉氏の反逆をきっかけに、畿内周辺の有力大名や寺社勢力が信長に反旗を翻したのです。
これに対し、信長は戦を重ね、支配地域を拡大!!
勢いを増す信長に、義昭は不安を抱き始めます。
やがて二人の関係に亀裂が生じていきます。
将軍義昭は、信長と組んで気付いたら周りが敵対者に囲まれてしまっている!!
自分も共倒れになってしまうんではないか??
そんな中、徐々に信長とのすれ違いが生まれてきます。
これに対しの信長は、義昭のふるまいを非難した意見書を送ります。
十七箇条の意見書です。
義昭の怠慢や悪政を、十七条にまとめ、厳しい言葉で忠告しています。

・忠勤の部下を大切にせよ
・えこひいきがあってはならない
・世間から悪しき御所と陰口をたたかれている

信長としては、中央を治める将軍なんだから、しっかりしなさいということを求めていました。
義昭からすれば、不信感の上に、説教まで・・・!!と、怒りが増大してきていました。

上洛から5年後の1573年、信長40歳の時、義昭は信長に対し挙兵。
しかし、信長の圧倒的軍勢の前になすすべなく和睦するほかありませんでした。
信長は、義昭を都から追放。

「命を助けて後世の人々の評価に委ねようと、恨みを恩で返すつもりで送り届けた」

伝統的秩序の破壊者という信長のイメージ・・・
しかし、その実像は、室町幕府再興を願う武将だったのかもしれません。

将軍を京から追放し、戦を重ねて領地を広げた信長・・・
その強さを支えたのは卓越した経済力でした。
信長は、これまでにない経済政策を次々と打ち出していったパイオニアだといわれてきました。
しかし、そのほとんどは、他の武将のマネだったことがわかっています。
信長は、どうやって経済を発展させたのでしょうか??
楽市楽座とは、これまで商人たちが商売を行う際に、土地の所有者に払っていた税を廃止し、組合に入らなければ商売ができなかったものを緩和、自由な商売を認め、経済を活性化させたものです。
歴史の教科書でも信長の経済政策として取り上げられるので、革新的なイメージと相まって、信長発案の印象がありました。
しかし、近年、戦国時代の都市や政策の計画の研究が見直され・・・
楽市楽座は、信長が実施する以前からありました。
現在残る文献では、近江の戦国大名・六角義賢が1549年に楽市令を出していることが確認されています。
信長が岐阜で初めて楽市政策を始める18年も前のことです。

さらに、今川氏の楽市令・・・信長が楽市楽座を行う前年の1566年に出されています。
治安の悪化で活気が減った富士大宮の市に対して税をとらない楽市にすると書かれています。
こうした先人たちの試みである楽市楽座を信長が取り入れたのは、当時解決しなければならない課題があったからです。
流通経済の乱れ・・・特に、拠点となるところを通らずに、流通が展開してしまう・・・!!
信長としては、戦争が終わった状況でそれを再興していく必要がありました。
足利義昭を追放したのち、世の中の安泰を望む信長にとって、戦によって乱れた町と、流通経済の復興が必要だったのです。
信長は、以前からの楽市政策に、ある改良を加えて城下町の復興を活かします。

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1567年、信長が34歳の時に岐阜城下に楽市楽座令を出します。
最初の条文にこう書かれています。

”この市場に移住するものについては、国内の流通を保証し、税を免除する”

城下に移住する商人たちに限って税を免除!!
定住する人を増やして、城下が栄えることが目的としたのです。

自分の支配地域だけで、戦に必要な物資が全て集まることは、各地で戦っていた信長にとって大きなメリットでした。
そして信長は、経済力を高めるため、当時の日本随一の港・堺に目をつけます。
堺は当時、海外貿易で巨万の富を得ていました。
中国・明との貿易では、1回の航海につき2万貫(20億円)の利益が出ていたともいわれています。
当時の戦国大名の多くは、土地を獲得して年貢による収益を得るのが一般的でした。
しかし、信長は、領地拡大だけでなく、港に目をつけ、貿易での商人たちから税をとることで、収入を増やしました。
さらに貿易港・堺を押さえたことは、戦にも有利に働きます。
その効果が分かる戦いが・・・
1575年、信長42歳の時、武田勝頼の軍と対峙した長篠の戦いです。
織田軍が鉄砲を駆使し、武田軍に勝利したことで知られています。
2019年、合戦場の発掘調査で、織田軍の武器から驚くべき特徴が浮かんできました。
織田軍の鉄砲の玉・・・成分調査をすると、東南アジアの鉛の成分が出ました。
鉛は加工が簡単で、銃弾を大量生産できるため、鉄砲の玉に適した材料です。
しかし、日本ではあまり取れず、十分な量をとるのが難しい素材です。
信長は、堺の貿易ルートを使って、東南アジアから銃弾の原料となる鉛を大量輸入していました。
さらに、このルートで、国内では手に入らない硝石・・・火薬の原料も同時に手に入れていました。
硝石は、国内では取れません。
それを押さえているのは堺の港・・・信長は当然硝石の独占権を握ることとなります。
鉛の弾を輸入していた港は堺・・・堺を押さえていた信長が、圧倒的に鉛も手に入れていました。
武田は鉄砲はありましたが、火薬は作れないし鉛の玉もない・・・
鉄砲はほとんど使えませんでした。

たとえ改革の先頭を走らなくても、先人の成功を取り入れ、プラスアルファ―を加えることで、ライバルを上回る・・・それが織田信長でした。

元は尾張の大名にすぎなかった信長・・・
46歳の頃に安土に居城を移し、所領を大きく広げていました。
その躍進の原動力となったのが、身分にとらわれず重用した家臣たちです。
羽柴秀吉は低い身分から家臣となり、明智光秀は足利将軍の側近の出身、滝川一益に至っては忍者だったという逸話もあります。
一方で、結果が出なければ追放もある厳しい実力主義は、家臣たちとのゆがみを生んでいきます。

1579年、46歳の時に安土城が完成。
信長は安土城に身を置き、各方面の統治を自らの有力家臣たちに任せるようになります。
広い領国を、ひとりでは見切れないためです。
この時信長は、家臣たちに厳しい統治のルールを課します。
柴田勝家らが越前を治める際に、信長が勝頼に送った書状が信長公記に残っています。

”不法な税は取るな
 ただし事情がある場合は我々に尋ねよ
 そして裁判は公正に
 双方が納得しないようなら、我々に伺いを出して判決せよ”

そして、各地を治める家臣たちのもとに与力と呼ばれる信長直属の配下たちを監視役、目付として付けました。
信長は、部下を監視し、支配に揺るぎがない体勢を築いていこうとします。
しかし・・・お互いを離反させるような、仲良くさせないような仕掛けが多すぎて、織田か診断の中がぎすぎすしていました。
そこが、信長流人事の欠点でした。
そして、仕事ぶりがよくない家臣を罵倒!!
信長の父の時代から織田家に仕えていた尾張出身の重臣・・・佐久間信盛。
佐久間は、本願寺と戦う前線の指揮官でしが、目立った功績はあげていませんでした。
そこで信長が、佐久間信盛に送りつけた手紙には・・・

”丹波は明智が平定し、目覚ましい活躍をしている
 秀吉も数カ国で”功績をあげている
 それに引き換えお前は、5年間、感心する功績を一度もあげていない
 剃髪して高野山へ行け”

信長は、他の武将の名を上げて、佐久間を激しく批判します。
そしてこの手紙ののち、佐久間信盛は追放・・・2年後に、失意のうちに亡くなります。

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さらに、この状況に不安を抱いた人物がいました。
明智光秀です。
光秀は、佐久間が指揮していた本願寺攻めに参加。
祖の指揮官であった佐久間が追放処分になっていることが、穏やかではありませんでした。
手柄なき者は去れという露骨な人事・・・
武将達の神経を逆なでするようなことも、平気でやるのがこの頃の信長でした。

実力主義の信長軍団・・・しかし、一方でこの頃から信長は、長男・織田信忠に家督を譲り、次男・織田信雄には伊勢を与えるなど、息子たちを重用し始めます。
こうした信長の対応は、家臣たちの間にほころびを生んでいきます。
荒木村重、松永久秀といった家臣たちは、織田家の中での立場を不安視・・・
信長に対して反旗を翻しました。
そして、家臣の恐怖や不満が、形に立って現れたかのような事件が起きます。

本能寺の変です。

京の本能寺に滞在していた信長を、家臣・明智光秀が襲いました。
本能寺は炎の包まれ、信長はこの世を去りました。
1582年・・・織田信長死去、享年49歳。

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戦国武将最大の天才・織田信長。
その名を始めて天下に轟かせたのが、桶狭間の戦いです。
押し寄せる今川軍・およそ2万5千に対する信長軍・2千。。。
27歳の信長が、起こした奇跡的勝利です。
天才・信長の奇襲作戦で有名ですが、この時も逆境に苦しんでいました。
その逆境の真実とは??

一族の謀反が続発し、弟までもが敵だったのです。
そこに押し寄せてきたのが今川義元の大軍勢・・・
まさに内憂外患でした。

義元の攻撃に・・・降伏を考えるまでに葛藤していました。

決戦前夜、軍議を行わず部屋に閉じこもる信長。。。

桶狭間の3年前に、若き信長が認めた手紙によると・・・
”敵”・・・敵は実の弟・信行のことでした。
どうして弟が敵なのか???
それが始まったのは18歳の時。
1551年信長の父・信秀が死去。
父の墓前に抹香を投げつけます。
理由はいろいろ考えられますが、父の突然の死による重荷があったようです。
信秀は、守護代の一家臣でした。
そこから成り上がりとなり、尾張統一を想うようになります。
海運の要・熱田と津島を手に入れたことが始まりでした。

海運を通じて経済を活性化した父は、莫大な資金を得ました。
その財力の大きさは・・・朝廷への献金に4000貫文(6億円)使ったといわれています。
遂には主君・尾張守護職さえもしのぐ力を手に入れます。

そんな最中の信秀の死だったのです。

嫡男としてその後を継いだ信長。。。
”大うつけ”と疎まれていました。

それが、一族の不信感を招いていきます。
弟・信行の方が???
これが信長にとっての大きなプレッシャーとなっていたようです。
一族に対する恐れ・・・不安感の方が強かったのです。
不安は的中し、一族の離反が始まります。

「信長公記」によると・・・
”鳴海の城主は織田信秀の配下だったが信秀が死ぬと謀反を企てた”
とあります。
寝返った先は、今川義元でした。

これによって、鳴海城・沓掛城・大高城・・・が義元のものとなってしまいました。
信長大打撃!!
鳴海城と大高城は、伊勢湾沿いにあり、津島と熱田が狙われやすい状況になったのです。
信長は、織田家の経済力の危機に遭っていたのです。

さらに内紛は。。。
1552年織田信友らの攻撃
1556年兄・信広の謀反
信長は、過剰ともいえる一族討伐を始めました。

叔父・信光の追放
謀反の疑いのある弟・信行を暗殺
激しさを増していく一族討伐!!

信長公記には・・・
”信長が苦労している時、助けるものは稀であった”
とあります。

そして・・・信長の手紙は、弟を暗殺した直後に書かれているものでした。
あて先は、熱田神宮。

”謀反を企てた弟・信行に味方した者の財産は没収したが、その者たちが熱田神宮に預けたものは除外する”
というものでした。

熱田港の商業にも深くかかわっていた熱田神宮。
熱田の経済力を頼りにしていた信長だったのです。
その熱田港に脅威が迫っていました。

東海一の弓取りと謳われた今川義元です。
義元は内紛に苦しむ信長を攻略しようと着々と手筈を整えていました。
今川は、駿河・遠江・三河さらに織田を離反した者の総石高を合わせると、100万石!!

信長は、美濃の斎藤とも睨み合いの四面楚歌状態!!
援軍を望むべくもありませんでした。
信長は、寝返った鳴海城近くに、丹下砦・善照寺砦・中島砦、大高城近くに鷲津砦・丸根砦と牽制します。
1560年義元は尾張に進軍!!
その数およそ2万5千!!
信長の10倍以上でした。

尾張を手中に収めようとやってくる日本最強の義元!!
そして尾張で孤立した信長!!
まさに内憂外患!!

1560年5月18日夕刻。。。
清州城にいた信長に、今川を偵察していた家臣から連絡が・・・

「今川軍が明朝に攻撃する!!」

いよいよ決戦の時!!

しかし・・・

「さあ、夜も更けた。
 皆、帰宅していいぞ。」by信長

失望する家臣たちもいました。

ひとり閉じこもる信長。。。

①降伏策
降伏して織田を残す?
降参すれば、味方に組み入れてくれる今川だったのです。

②籠城策
清州城は平城として籠城には向かないとされてきていましたが・・・
近年の研究では・・・強く、外敵に強く、籠城に相応しいお城でした。
信長時代の清州城には天守閣はありませんでした。
幅が10mはあるような巨大な堀を巡らし、その周囲に武家屋敷が並んでいました。
そして・・・五条川は・・・天然の大きな堀・・・となっていました。
しかし、四面楚歌の自分には援軍は期待できないし、味方が寝返るかも知れない。。。

③野戦策
乾坤一擲!!戦いに打って出て、良い条件で和平交渉に臨む???
数の差は圧倒的でしたが、兵の質は信長に!!
当時の兵隊は農民が主流でしたが、信長軍は違っていました。
おもに家業を継がない次男などを中心に武士軍団を編成し、平素から兵隊として訓練し、禄を与えていたのです。職業軍人の先駆けです。
これも、海運業のおかげでした。
しかし、まともに戦えば全滅・・・
いかに戦うか???

深夜・・・一人で思案を巡らせる信長でした。


ぎりぎりまで悩んでいた5月19日夜明け方・・・
家臣から鷲津砦と丸根砦が攻撃されたとの連絡が入ります。
義元は自分に寝返った大高城の周囲を攻略し始めたのです。
わずか5騎を連れて清州城を飛び出した信長・・・
具体的な今川の攻撃場所を知る必要がありました。

okehazama




















煙が上がる・・・砦陥落???
善照寺砦で足を止める信長。。。
ここには物見やぐらがありました。
そう、ここが前線基地だったのです。
高いところから見ると・・・鷲津砦・丸根砦を見ることができます。
立ち上る煙・・・二つの砦が陥落してしまった・・・!!

当時の攻め方として・・・今川先陣が砦を陥落させ、本陣は後方で待機している・・・。
今川軍が二手に分かれるこの時を、狙っていたのです。
そう、今川本陣がむき出しになっている瞬間を・・・!!
勝機はその時・・・!!

鷲津砦と丸根砦を陥落させた義元が、先陣から3km離れた桶狭間山で休憩をし始め・・・謡を謳わせている!!
ここに勝機を見出した信長。
この時今川本陣は5千、対する信長軍は2千。。。

「今川軍は既に疲れている。
 大軍を怖れるな!!
 この戦に参加するものは、全て名誉を得て功名は永久に語り継がれるであろう!!」

午後2時頃、今川本陣に突進!!
豪雨も味方します。
散り散りになって雨宿りをする今川軍に突入!!

信長の号令で一斉攻撃!!
不意を突かれた今川軍・・・
信長の精鋭部隊に、今川義元は討たれたのでした。
その知らせに今川軍は撤退を余儀なくされます。

信長軍の奇跡的大勝利だったのです。
その裏には、ぎりぎりまで悩み、絶妙のタイミングで出撃する信長の決断力があったのです。
戦国時代最強の天才が生まれたのでした。

信長が生涯大切にしていた一振りの刀・・・
桶狭間で今川義元から奪った”義元左文字”。
信長は常に、この刀を手元に置いていたといいます。
はるかに大きな敵、今川義元を倒したことは、信長にとっても大転換点だったのです。

桶狭間での自分に自信を持ち、新しいビジョンを出していきます。

”天下布武”。。。

それまでは、旧来の大名同様自分の土地を守って大きくしていくという考え方でしたが、自分で全てを一切抑える!!という発想が芽生えてきたのでした。

当時の日本は、各地に戦国大名が割拠する時代でした。
それを制するために信長が考え出したのが”軍団制”・・・各地方ごとの軍団部隊です。
出仕を問わない実力主義の軍団制は、桶狭間の職業軍人を発展させたものです。

農民出身の羽柴秀吉が抜擢されたのも、この仕組みのおかげです。
方面軍の軍事力を背景に、天下統一計画が進んでいきます。
関所の撤廃と商業の自由化。
貨幣経済の活発化で土地に縛られずに活発に人と物が動きます。
全国規模の街道整備。
インフラの向上で物の流通が活発化し、早く移動が可能となりました。

信長の改革は城にまでおよび・・・
日本初の天守を持つ近代城郭の建築が行われます。
中央集権の具現化でした。

茶器の政治利用。。。
古いシステムを解体し、新しい価値観でひとつの国にまとめ上げる信長。
その裏には、地縁血縁に悩まされる日々・・・悩んだ末の桶狭間での勝利があったのでした。


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