ところが、首相官邸の一室では、ある文書の草案が秘密裏に作られていました。
3日間、ほぼ徹夜・・・!!
終戦の詔書です。
日本政府は、アメリカなど連合国から降伏を迫られたポツダム宣言を受諾し、3年8カ月に及んだ戦争を終わらせる決断をしていました。
しかし、これに全ての者が納得したわけではありませんでした。
玉音放送を阻止しようとクーデターを起こした将校たちがいました。
一体何があったのか・・・緊迫の24時間!!
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1945年8月14日、午前11時55分
玉音放送のおよそ24時間前・・・アメリカ軍の爆撃機B-29が、山口県岩国市に焼夷弾の雨を降らせました。
さらに、光市にあった海軍工廠も爆撃。
岩国市と光市で死者1200人以上!!
皇居では、御前会議が終わろうとしていました。
日本の運命を決めるご聖断が下されました。
皇居の防空施設・御文庫付属庫・・・御前会議はこの中にあった会議室で行われていました。
その中で天皇はこう述べられました。
「私は世界の現状と国内の実情を十分検討した結果、これ以上戦争を継続することは無理だと考える
自分は如何になろうとも万民の生命を救いたい
この際、耐え難きを耐え 忍び難きを忍び 一致協力 将来の回復に立ち直りたいと思う
私として為すべきことがあれば 何でもいとわない
国民に呼びかけることが良ければ 私はいつでもマイクの前に立つ」
天皇の涙ながらのお言葉に、会議の列席者も皆涙していたといいます。
時の総理大臣・鈴木貫太郎は、ご聖断を煩わせたことを天皇に詫び、日本の再建を誓いました。
こうして、日本のポツダム宣言の受諾・・・連合国に対する無条件降伏が決まったのです。
8月14日、午後0時30分(玉音放送まで23時間30分)
御前会議の終了からおよそ30分・・・会議に列席していた陸軍大臣の阿南惟幾が陸軍省に戻ると、すぐに青年将校たちが駆け寄ってきました。
「即時終戦のご聖断が下った
力及ばず諸君の信頼に添えなかったことを詫びる」by阿南
これに将校たちが激怒、大臣に激しく詰め寄りました。
阿南は、青年将校たちに対してポツダム宣言は受諾しない・・・日本はこのまま戦争を継続すると、言っていました。
青年将校たちは、阿南陸軍大臣が戦争を続行させてくれると思ってたのです。
しかし、阿南陸軍大臣もポツダム宣言受諾を容認したのです。
阿南陸軍大臣が、当初、ポツダム宣言の受諾に反対していたのには理由がありました。
それが国体護持です。
国体護持とは国の在り方を変えずに護るということで、すなわち天皇制の存続を意味していました。
天皇を現人神と考えていた当時の人々にとっては絶対に譲れない条件でしたが・・・
日本に無条件降伏を迫るポツダム宣言にはそれが明記されていなかったため、阿南は強硬に受諾を反対、徹底抗戦を主張していたのです。
しかし・・・
「陛下は”苦しかろうが我慢してくれ”と涙を流して申された
自分としては、もはやこれ以上、反対を申し上げることはできぬ
それでも納得がいかぬなら、まこの阿南を斬れ!阿南を斬ってからやれ!」by阿南
天皇のお言葉に心を打たれた阿南は、ポツダム宣言の受諾を容認するしかありませんでした。
そして、天皇の思いに応えるために、戦争継続を望む青年将校たちを命がけで止めようとしました。
すると・・・一人の将校が絶叫にもにた大声をあげ、泣き始めました。
畑中健二少佐・33歳・・・その泣きわめくさまは、周りの者が怯えるほどでした。
普段温厚な男でも、平静を保てないほど無条件降伏は受け入れがたいものでした。
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8月14日午後1時(玉音放送まで23時間)
首相官邸において、全大臣出席の元閣議が始まりました。
3日間、ほぼ徹夜で書き上げた終戦の詔書の審議・・・つまり、どのような言葉で終戦を国民に告げるべきか?についてと、その終戦の詔書を天皇が読み上げてラジオで流すという玉音放送についてでした。
日本の敗戦を知れば、国民が激しく動揺し混乱するのは明らかでした。
それを少しでも抑えるべく、天皇の声・・・玉音で伝えることにしました。
閣議では生放送という案も出ましたが、天皇に日本放送協会・東京放送会館まで足を運ばせたうえ、放送時間に合わせてマイクの前に立っていただくのはあまりにも恐れ多いということで、玉音放送に決定しました。
そして、天皇が朗読する終戦の詔書の録音は、14日のうちに宮内省の2階で録音されることになりました。
日本放送協会の会長に録音班を連れて宮内省に出頭せよという命令が下されました。
8月14日午後3時(玉音放送まで21時間)
閣議を中座して陸軍省に戻った阿南大臣は、庁舎にいたもの全員を会議室に集め、ご聖断に従って陸軍も無条件降伏を受け入れたことを報告します。
これは決定事項であり、いかなる背反も許さないと、強く言い聞かせ、最後にこう告げました。
「諸君においてはもはや、玉砕は任務を解決する道ではない
泥を食い、野に臥しても、最後まで皇国護持のため奮闘せられたい」by阿南
しかし、そこに先ほど大臣室で号泣していた畑中少佐の姿はありませんでした。
畑中は、無条件降伏をどうしても受け入れることが出来ず、同志である椎崎中佐と共に戦争を継続するためのクーデターを模索していました。
それは・・・皇居を占拠し、玉音放送を阻止することでした。
日本政府は日本が劣勢という情報を、一切流していませんでした。
畑中たちにしてみれば、この段階で玉音放送を阻止すれば国民が敗戦を知ることはないため、戦争を継続できると考えたのです。
畑中たちはエリート軍人でした。
最前線で戦った経験もなく、現状もしらず、神国日本が負けるはずがないという考えに凝り固まっていました。
東京周辺の軍の施設には、戦闘機や戦車が、まだ多く残っていました。
絶対に負けない!!と思っていたのです。
東京国立近代美術館・工芸館・・・
現在、重要文化財に指定されているこの地は、かつては近衛師団司令部の庁舎でした。
近衛師団とは、天皇と皇居を警護する陸軍精鋭部隊のことです。
師団とは、一つの作戦を単独で遂行できる最小単位の部隊のことで、トップは師団長でした。
その師団が2つ以上合わさると軍になるなど、複合していくことで大きな組織となり、その軍医上のTOPが司令官と呼ばれました。
クーデターを画策する畑中少佐は、陸軍の中間幹部で司令官や師団長を作戦面で補佐する参謀に起用されることが多い階級でしたが、陸軍省勤務でどの部隊にも属していなかったため、戦況をあまり把握していなかったようです。
1945年8月14日午後2時(玉音放送まで22時間)
畑中少佐は椎崎中佐と共に近衛師団の司令部を訪れ、旧知の中だった古賀秀正参謀らと面会。
戦争継続の正当性を訴え、クーデター実行のための下工作を依頼します。
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8月14日午後3時(玉音放送まで21時間)
近衛師団の司令部を後にした畑中は椎崎と別れ、日比谷にある東部軍管区司令部へと向かいます。
東日本を統括する東部郡にもクーデターに協力してもらおうと、司令官を説得しにやってきました。
しかし、司令官室に入るなり田中静壱司令官は割れんばかりの声で一括!!
「俺のところへ何しに来た!!
貴様の考えていることはわかっておる!!
帰れ!!」
畑中は顔面蒼白となり、しばらくたち尽くしたのち、一礼して逃げる用に帰りました。
東部軍は、関東一円を統括している実働部隊で、各地の戦況をよく把握していました。
日本の悲惨な戦況をよく知る田中司令官は、やみくもに戦争を叫ぶ畑中に腹を立てたのだと思われます。
終戦を決めた日本・・・それを強硬に反対する青年将校たち。
しかし、そんな軍部の状況など国民は知る由もありませんでした。
みな、必死に耐えて生きていました。
日本が必ず勝つと信じて・・・!!
8月14日午後9時(玉音放送まで15時間)
突然、ラジオのニュース番組が告げます。
「明日15日正午に重大なラジオ放送があります
国民はみな謹んで聞くように」
8月14日午後10時30分(玉音放送まで13時間30分)
ラジオから玉音放送の予告が流れたおよそ1時間30分後・・・
クーデターを目論む畑中と椎崎は、陸軍の先輩将校である井田正孝中佐の元を訪ねていました。
寝ている井田中佐を起こし、クーデターの下工作が進んでいることを説明しました。
近衛師団全体を動かすために、森第一師団長の同意が欲しいと訴えます。
畑中の真剣なまなざしに心を動かされた井田は、「ダメなときは本当に諦めるのだな」と、念を押し、畑中が頷くと覚悟を決めました。
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8月14日午後11時(玉音放送まで13時間)
首相官邸で続けられていた閣議がようやく終わり、終戦の詔書の文案が完成しました。
鈴木内閣の閣僚たちが署名し、天皇の裁可を受けました。
続けて、アメリカなどの連合国に、中立国であるスイスを通じてポツダム宣言を受諾した旨を通告しました。
対外的な日本の敗戦はこの時決まりました。
そして、日付も間もなく変わろうとする午後11時30分・・・
宮内省の2階にある御政務室で宮内大臣や天皇の側近である侍従長の立ち会いのもと、終戦の詔書の録音が始まりました。
マイクの前に立った天皇は・・・
「声はどの程度でよろしいか」
と、お聞きになり、「普通で結構です」と、立会人が答えると、静かに朗読を始めました。
天皇の肉声・・・玉音が公式に録音されたのは、この時が初めてです。
朗読は、1回およそ5分、天皇の希望もあって、2回行われ、2組のレコード盤に別々に収録されました。
そして、出来上がった玉音盤は、日本放送協会の担当者によって丸い管の中に納められ、さらにふたが開いてしまわないように木綿の袋に入れられました。
天皇が皇居の防空施設に帰られたのは、丁度日付が変わった頃でした。
玉音放送まであと12時間・・・!!
この時、近衛師団司令部を訪れていた陸軍将校・畑中・椎崎・井田の三人は苛立っていました。
クーデター実行のために、近衛兵を動かしてもらおうと森師団長を訪ねたものの、先客がいたため1時間以上待たされていました。
ようやく室内に通されたのは、午前0時30分ごろでした。
畑中は、別件があってその場を離れていたため、説得役は井田が務めることになりました。
すでに軍服を脱ぎ、くつろいでいた森師団長は、最初こそ
「陛下のご意思に反する行動は許さぬ」
と、反対したものの・・・
汗をびっしりとかきながら懸命に戦争継続の正当性を訴える井田の姿に心を動かされたのか・・・
「諸君の意図は十分理解した
率直に言って感服した
今、直ちに明治神宮の神前に額づき、最後の決断を授かろうと思う」
井田は戦後この時のことを手記にこう綴っています。
”この言葉を聞いた時ほど嬉しかったことはなかった”by井田の手記
さらに井田は、森師団長から自分の右腕である参謀長にも意見を聞くようにと言われ、師団長室を退出。
するとそこへ畑中が戻ってきました。
この時、午前1時30分・・・
”ところが、それから10分もたったであろうか
突如として師団長室が騒がしくなったような気がした”by井田の手記
そして・・・何事かと井田が慌てて師団長室に戻ると・・・拳銃を握りしめた畑中が、顔面蒼白で出てきました。
「時間がなくてやりました
仕方がなかったんです」
井田が師団長室に飛び込むと、既にこと切れた森師団長が無残な姿で横たわっていました。
師団長の行動はウソではないか??
殺さなければ・・・!!
と畑中は思ったのでした。
時間がない・・・畑中は、近衛師団の協力が遅ければ、クーデターは失敗すると考えていました。
しかし、森師団長の命令がなければ、近衛兵は動かせない・・・!!
そこで畑中たちは、大胆な手を考え付きます。
森師団長の机から印鑑を取り出すと、あらかじめ用意していた偽の命令書に押印!!
この偽の師団長命令を、近衛師団の各連隊に発令したのです。
そこにはこう書かれていました。
”皇居と放送局を占拠せよ”
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8月15日午前2時(玉音放送まで10時間)
師団長命令が偽物とは知る由もない近衛兵たちは、すぐに動き始めました。
皇居のすべての門を封鎖して、人の出入りを禁じ、東京放送会館を占拠。
さらに、玉音版の作成を終えて帰宅しようとしていた職員たちを捕らえて監禁。
そして、職員たちの尋問によって、玉音盤が宮内省に保管されていることが分かると・・・
近衛兵たちに宮内省を占拠せよという新たな命令が下されました。
近衛兵たちは、瞬く間に宮内省を占拠し、外部と連絡が取れないように電話線を切断。
そのうえで玉音盤を探し始めました。
しかし、そんなに探しても見つかりません!!
8月15日午前2時(玉音放送まで10時間)
近衛兵たちは、玉音盤が保管されているという宮内省を占拠。
各部屋を回り隅々まで探すも、玉音盤はどこにもありません。
宮内省の職員や侍従を脅してみても、みな知らないと答えるばかり・・・
結局見つけられませんでした。
玉音盤はどうして見つからなかったのでしょうか?
玉音盤が完成したのち、それを放送まで保管し、守るべきか検討されました。
宮内省側は「放送局が預かるべき」
日本放送協会は「持ち帰るのは畏れ多い」
結局、常に天皇のそばにいる侍従がいいだろうということになって中堅侍従だった徳川義寛がその大役を任されました。
そして、徳川侍従は、大胆にもその金庫をいつも仕事をしている事務室の戸棚の上に無造作に置いておいたのです。
徳川侍従は、玉音盤の保管場所を秘密にし、近衛兵に摑まった際も、決して口を割りませんでした。
また、宮内大臣ら要人を人質に取られないよういち早く宮内省の地下にある隠し部屋に匿ったことも功を奏しました。
自分の事務室の入り口に、”女官寝室”と書きました。
玉音盤を託された徳川侍従が保管場所を誰にも話さず、しかも機転を利かせたことが玉音盤を守ることとなりました。
玉音盤が見つからなければ、放送を阻止することはできません・・・
クーデターは失敗!!
井田は畑中を説得します。
「畑中・・・もういかんよ
世が明ける前に兵を引け
そして、我々だけで責任をとろう
世の人々は真夏の世の夢を見たと笑って済ませてくれるだろう」by井田
しかし、井田の言葉は、畑中の心を変えることはできませんでした。
諦めきれない畑中は、なんと近衛兵たちに占拠されている放送会館へと向かったのです。
8月15日午前4時30分(玉音放送まで7時間30分)
日本放送協会東京放送会館に乗り込んだ畑中は、報道部室に押し入ると、そこにいた副部長に拳銃を突き付け、
「5時からのニュースに自分を出せ」
と、迫りました。
しかし、副部長はこれを拒否。
「全国同時放送なので、各局と連絡を取ってから出ないとできない」
すると畑中は、隣のニューススタジオに入り込み、現行の下読みをしていたアナウンサーに銃口を向けました。
自分に放送させろと迫る畑中の左手には、クーデターの趣旨を綴った分厚い原稿がありました。
放送させてなるものか!!と思ったアナウンサーは、咄嗟に嘘をつきます。
「現在、警戒警報が発令中です
会報発令中に放送するには、東部軍の許可が必要です」
東部軍の田中司令官には、昨日、一喝されたばかり・・・畑中は銃口を下ろすしかありませんでした。
同じ頃、近衛兵たちに占拠されていた皇居に、一人の男が駆けつけていました。
まさにその人・・・東部軍管区司令官・田中静壱大将!!
田中は、近衛師団の連隊長たちに、命令が偽物であったことを告げ、即時解散するように命じました。
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8月15日午前5時30分(玉音放送まで6時間30分)
国民に敗戦を告げる運命の日の朝・・・
玉音放送を前に一人の男が自らの手で命を絶ちました。
陸軍大臣・阿南惟幾大将です。
その遺書には・・・
”一死を以て 大罪を謝し奉る”
その命を以て敗戦の責任をとったのです。
8月15日午前7時21分(玉音放送まで4時間39分)
突然ラジオから・・・
”かしこくも天皇陛下におかせられましては本日正午、御自ら放送あそばされます
誠に畏れ多き極みでございます
送電のない地方にも、放送の時間には特別に送電しますので国民はひとり残らず謹んで玉音を拝しますように”
この玉音放送の予告アナウンスは、もともと午前5時に放送される予定でした。
しかし、畑中少佐の襲撃の影響で、放送が遅れたのです。
8月15日午前10府(玉音放送まで2時間)
宮内省から、2組の玉音盤が運び出されました。
1組は警視庁の車で東京放送会館の会長室へ、もう1組は宮内省の車で日比谷の第一生命館の地下にあった予備スタジオへ!!
不測の事態を想定し、万全の態勢がとられました。
8月15日午前11時(玉音放送まで1時間)
当日は、アメリカの戦闘機がたくさん飛んでいました。
それが、11時過ぎになると姿を消して音がピタッとやみました。
その頃、玉音放送が行われる東京放送会館のスタジオには、すでに多くの人が集まっていました。
まもなく訪れる終戦の時を前に、えもいわれぬ緊張感が漂う中・・・
畑中たちとは関係のない、ひとりの憲兵が突如乱入しようとしました。
すぐに取り押さえられ、事なきを得たものの、スタジオ内は騒然!!
8月15日午前11時30分(玉音放送まで30分)
皇居前の芝生広場にはクーデターに失敗した畑中と椎崎がいました。
玉音放送を止められなかった・・・日本が負けた・・・その悔しさと共に自ら命を絶ちました。
8月15日午前11時59分(玉音放送まで1分)
この時の東京の天気は晴れ・・・気温はすでに27度を超えていました。
最新の戦況を伝えていたラジオから正午の時報が・・・!!
ラジオが起立を促し、”君が代”が流れた後、天皇の声が聞こえてきました。
”朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ
非常ノ措置ヲ以テ 時局ヲ収拾セムト欲シ
慈ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク”
人々の心の中は、戦争が終わった安堵感と、焼け野原となった日本でこれからどう生きていくのかという不安で入り乱れていました。
3年8カ月に及んだ太平洋戦争が終わりました。
この戦争で300万人以上の日本人が亡くなったと推定されています。
戦争孤児は12万人以上。
戦争は終わっても、人々の生きるための戦いが終わったわけではありませんでした。
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