武士の都・鎌倉・・・源頼朝によって、日本初の武家政権がこの地に誕生しました。
ところが、頼朝の直系は、実朝暗殺によって三代で途絶えることになります。
この時、頼朝の妻・政子と二代執権・北条義時兄弟は、次の将軍に皇族の皇子を望みました。
しかし、朝廷はこれを受け入れず、代わりに天皇を補佐する摂政や関白を担う摂関家・九条家の男児が鎌倉に入りました。
後の、九条頼経・・・鎌倉幕府初の摂家将軍です。
幼い頼経を将軍にいただき、政子と義時は北条氏を中心地とした政治を推進・・・
将軍に仕える御家人たちのリーダーの地位を確立していきます。
義時の跡を継いだ3代執権・北条泰時の時代、北条氏の力は皇位継承にまで及びました。
幕府に敵意を持つ皇族を排除し、北条氏と縁戚関係にあった御嵯峨天皇を擁立したのです。
しかし、北条氏を思わぬ不幸が襲います。
泰時の嫡男・時氏・・・さらにその嫡男で4代執権・経時が若くして亡くなったのです。
その結果、次男ながら執権に就任したのがまだ20歳の時頼でした。

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鎌倉幕府5代執権・北条時頼・・・
時頼の執権就任には、かなりの反対がありました。
時頼の正妻の子供は名越・・・本流になるべきは名越氏だという考えがあったのです。
時頼(次男)に流れが行くことに、とくに名越一族は不満を持っていました。
名越氏ら、反時頼勢力は九条頼経をよりどころとしました。
この時、頼経はすでに将軍の座を息子・頼嗣に譲っていました。
しかし、前将軍として、北条氏に代わって幕府の実権を握ろうと野心を燃やしていました。

頼経のもとには、名越氏の他に三浦氏などの有力御家人などが結集。
彼らは時頼政権を転覆するため、謀議を重ねました。
鎌倉幕府の歴史をつづった吾妻鏡・・・
そこには当時の様子が書かれています。

1246年、時頼の執権就任からわずか2か月足らずで、鎌倉を不穏な空気が支配した

甲冑をつけた武士が町に溢れたのだ
5月24日、ついに時頼は敵対勢力を押さえ込む行動に出ました。
”宮騒動”と呼ばれる事件の勃発です。
時頼は、鎌倉中心部の構造を巧みに利用し、迅速な対応を見せました。
将軍御所への経路を封鎖し、頼経を孤立させます。
将軍御所周辺を制圧した時頼は、次の一手を打ちます。
頼朝以来、幕府に仕え、強大な軍事力を持つ三浦氏の当主・泰村を味方につけます。
時頼の周到で機敏な采配によって、クーデターは大きな流血なく収束しました。
首謀者の名越は、所領のほとんどを没収された上、流罪に処されました。
さらに時頼は、前将軍・九条頼経も鎌倉から追放し、京都に送り返しました。
幕府の中枢から敵対勢力を駆逐した時頼は、執権就任直後の危機を乗り越えました。
しかし・・・試練はまだ終わっていませんでした。

1247年3月、鎌倉を天変地異が襲います。
由比ヶ浜が、血の赤い色に染まり、その翌日には巨大な流星が音を立てて飛びました。
さらに黄色い蝶の大軍が、市中に充満し、人々は不吉・・・戦乱の予兆と噂しました。
そんな中、時頼の母方の祖父・安達景盛の怒りが爆発しました。
景盛は、宮騒動で時頼についた三浦泰村が幕府内で勢力を誇っていることにわだかまっていたのです。

御家人は、建前としてはみんな平等でした。
しかし、家柄には優劣があり・・・三浦は北条と並ぶ高い家柄でした。
これに対し、安達が不満を持つ理由は・・・
安達は、時頼の母方の実家で外戚として力を振るっていいはずでした。
しかし、家柄としては三浦の方が格上で、それが不満に思う原因でした。
実際に、三浦は幕府の人事に大きな発言権を持ち続けていました。
安達は、三浦の勢力を抑えて、自分達が時頼に近いとアピールしたかったのです。
メンツが関わっていたのです。
時頼は、非常に難しい立場にありました。

「吾妻鏡」によると・・・
時頼は戦を回避したかった・・・しかし、三浦泰村の弟・三浦光村たちは安達氏との合戦に備え、兵や武具を光村邸に集めていました。
各地から集まった三浦、安達双方の軍勢は、まさに一触即発の状況でした。

1247年6月5日未明、時頼は事態解決のため使者に文を持たせ、三浦泰村に改めて本意をときました。

”幕府は三浦氏を討伐するつもりがないことを誓う”

泰村も、これに安堵したといいます。
しかし・・・使者が泰村邸から時頼のもとへ帰りつく前に、安達勢が攻撃を仕掛けました。
世にいう”宝治合戦”の始まりです。
事態を知った時頼は、三浦氏から攻撃を受けると感じ、安達に加勢せざるを得なくなりました。
戦闘は一進一退でしたが、北条勢は泰村邸の風下から火をかけ、一気に優位に立ちました。

三浦勢は屋敷を捨て、頼朝を祀る法華堂を最後の地として選びました。
宝治合戦は、三浦泰村、光村兄弟を含む500人余りの自害という壮絶な幕切れを迎えました。
三浦氏が滅亡した場所は、現在、源頼朝の墓となっています。

”吾妻鏡”は、和平を探った時頼の意に反し、安達氏の攻撃で戦闘が始まったように記しています。
しかし・・・三浦市の背後に九条頼経がいたのでは・・・??
光村など急進派は、時頼との対決を最初から望んでいました。
光村は、前将軍・九条頼経に大変心を寄せていました。
九条家と結びついて、将軍の権力を九条家に取り戻し、それを支える存在として三浦氏がつく・・・
新しい幕府の体制を夢見ていました。
それは、北条時頼の考える幕府の形とは違っていました。
前年の宮騒動に続き、またしても政権の危機を脱した時頼・・・これ以降、時頼は幕府の安定に力を注いでいきます。

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宝治合戦で対立勢力を一掃した時頼は、幕府の改革に着手します。
御家人たちの保護を推進しました。
その最たるものが裁判制度の改革でした。
従来幕府では、表情と呼ばれた有力御家人を中心とした会議が、全ての訴訟を審議していました。
時頼はその下に、引付という審理の場を新たに設けました。
迅速かつ、公平に裁定を下す制度を整えたのです。

承久の乱などで御家人が西国に行くようになったり、移動があったこともあって、急速に増えた裁判は、評定の中ではさばききれないという状況にありました。
引付であらかじめ審理したものを表情で最終的な決定を下す・・・
それだけ裁判に関わる人物が増えたということは、評定衆という閣僚たち・・・一部の最重要人物の恣意が入る余地がなくなります。
久慈によって担当を決めたりして、公正に裁判が行われていることが、目に見える形で示されました。
御家人たちには、引付の設置は非常にありがたい精度でした。
さらに時頼は、一般庶民の訴えも、幕府が裁決する道を開きました。
これによって、御家人たちだけでなく、広く民の信頼を獲得していきます。

しかし、そんな時頼の足元を揺るがす事件が起こります。
1251年12月・・・
宮騒動で反時頼勢力に加担した残党による謀反計画が発覚しました。
またしても、前将軍・九条頼経の策略でした。
謀反は未然に阻止され、捕らえられた者は死罪や流罪の厳罰に処せられました。

しかし、依然として頼経の息子・九条頼嗣は将軍として鎌倉にいました。
頼嗣が鎌倉にいる限り、また、騒動が起こりかねないことを、時頼は憂慮しました。
この先、どのように幕府を運営していくべきか・・・??

自分が将軍になるべきか??
九条家より上の親王を将軍に迎えるべきか??

鎌倉幕府を盤石にするため、時頼は重大な選択を迫られました。

1252年2月、時頼は、自ら筆をとった書状を使者に持たせ、京都の朝廷に向かわせました。

”将軍・頼嗣を解任し、御嵯峨上皇の皇子を新たな将軍として下向させていただきたい”
 
時頼は、親王を将軍に迎えることを望んだのです。

朝廷は、時頼の申し出を受け入れ、御嵯峨上皇の皇子・宗尊親王の下向を決めました。
親王を将軍にいただくことで、幕府の権威は高まり、執権である北条氏の権力もゆるぎないものとなりました。
時頼は次々と法令を発し、政策の充実を図りました。
なかでも注目されるのは、撫民と呼ばれる政策でした。
民の頭を撫でるように慈しんで社会全体の安定を目指す政策です。
それは、祖父・泰時が制定した御成敗式目に追加される形で発令されました。

例えば窃盗犯について・・・
窃盗犯の親類妻子などを処罰してはならない
これに背くのは、撫民の法を否定する、ものである

農民の田畑を取り上げて追い出したり、財産を奪ったりする者があるという
ひたすら撫民の計らいに務め、農業を推進するよう

武士は、元々職業戦士・・・この時頼の時代の制作によって、はじめて武士は行政官・統治者としての自覚を強めるようになりました。
それによって、これから室町幕府、江戸幕府と続く、武家政権の基本的な立場が、時頼の時に形作られました。
親王将軍を迎え、執権としての指導力を発揮できる体制になったのです。
そこで、改めて撫民の法を宣言して幕府の再出発を考えていたのです。

1253年、日本初の本格的な禅宗寺院・建長寺の落慶法要が執り行われました。
鎌倉五山第1位の名刹・建長寺・・・
この巨大な寺院は、禅宗に深く帰依した時頼の発願で建立されました。
本尊は、全ての命あるものを救済するという地蔵菩薩が祀られています。
建立の2年後に鋳造された重さ2.7tもの重厚な梵鐘・・・
そこには、時頼の名が残され、信仰心の厚さを今に伝えています。

あじさい寺として名高い北鎌倉の明月院・・・
晩年、この地に最明寺を建立した時頼は、ここで静かに息を引き取ったといいます。
37歳の若さでした。
20歳で思いがけず執権となり、北条氏の為、幕府の為、激務に忙殺された短い生涯でした。

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