日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:小早川隆景

戦国乱世を収束させ、天下統一を成し遂げた英雄・豊臣秀吉。
秀吉がまだ羽柴と名乗っていた時代、秀吉を評した言葉が西国の雄・毛利氏の書状に残されています。

”秀吉は、合戦はむろんのこと城攻めを得意とした武略に秀でた名人である”

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1580年8月、11年の長きに及んだ織田信長VS.大坂本願寺の戦いがようやく幕を閉じました。
これにより、畿内統一を果たした信長の敵は、東の武田、北の上杉、そして、西の毛利に絞り込まれました。
毛利に対抗する中国方面を担ったのが、織田家の武将・羽柴秀吉・・・後の豊臣秀吉です。
秀吉は、反旗を翻した別所氏の三木城を下し、姫路城を拠点に播磨や但馬の敵を次々に攻略。
そして、毛利との国境・因幡国・・・現在の鳥取県に矛先を向けました。
毛利氏の山陰地方の要となった鳥取城・・・
2021年、復元されたばかりの大手門・・・江戸時代、鳥取藩32万石の格式を誇る重厚な門構えです。
門をくぐると、そこには鉄壁の防御の工夫がなされていました。
江戸時代の鳥取城は、石垣に覆われた山のふもとに築かれた近世城郭で、城郭の博物館と呼ばれています。

戦国時代の鳥取城は・・・??
それは、城の背後を守る久松山の上にあります。
1580年5月、秀吉は1万騎を率いて因幡へ向け進軍を開始しました。
秀吉VS.毛利・・・戦いの前哨戦となる、第1次鳥取城の戦いの幕開けです。
秀吉の進軍と同じ頃、但馬方面を制圧した秀吉の弟・秀長軍は、海から上陸し、織田方に味方した南条氏も西から進軍を開始します。
秀吉軍は、三方から鳥取城に進軍します。
秀吉軍は、怒涛の快進撃で国内の七つの城を陥落させ鳥取城を包囲しました。

当時、鳥取城の城主は、毛利方に与した山名豊国。
かつて山陰地方を治めた名門大名の末裔です。
しかし、秀吉の大軍勢を目の前にして山名氏は、家臣たちの反対を押し切り秀吉に降伏を申し出ました。
秀吉は、わずかな期間で鳥取城を手に入れたのです。
ところが、秀吉が居城・姫路城に帰陣した後、事件が起きました。
同じ年の8月、鳥取城攻めに参加した南条氏に対し、毛利軍が攻撃を開始。
これによって、南城氏は孤立します。
さらに因幡各地で反織田一揆が勃発。

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そして、1580年9月、秀吉に降伏した山名氏が、毛利を支持する家臣たちによって城から追放され、鳥取城は再び毛利方の手に渡ってしまいました。
追放された城主に代わり、毛利本国から新しく鳥取城主が派遣されました。
毛利を支える武将・吉川経家です。
鳥取城をめぐる新たな戦いが、再び始まろうとしていました。

1581年6月下旬、秀吉は総勢2万の大軍勢で再び鳥取城へと進軍しました。
一方、鳥取城に籠城したのは周辺の避難民を含めて4000人ほど。
鳥取城を完全包囲する織田方の付城群・・・その要となったのが、鳥取城の背後に築かれた秀吉の本陣・・・後世、太閤ヶ平と呼ばれた場所です。

1581年7月上旬・・・鳥取城を包囲した秀吉は、それぞれの付城群を土塁と堀でつなぎました。
その防衛線は、なんと総延長12キロ以上に及んだといいます。
どうして秀吉は鳥取城を包囲するための陣城にもかかわらず、大規模な工事を行ったのでしょうか?
太閤ヶ平には不思議なところがあります。
秀吉の本陣には、それぞれ櫓が設けられていたことが分かっています。
ところが、東側の広大な突出した部分には、櫓とは異なる建造物がありました。
天主台があったのでは??と推測されます。
秀吉がここに天主を築いたその理由とは・・・??
この戦いが、毛利VS.織田の決戦になる!!と、計画を立てていました。
太閤ヶ平は、毛利と織田との決戦が実現した時に、織田信長が鳥取にやってくる・・・
そして、織田信長が鳥取で入場する「御座所」として信長のために建てていた特別な陣城出会ったのです。
信長の格式にあう城を造ろうとしていました。
こうした推測を裏付ける資料が残されています。
信長が織田方の武将に宛てた手紙には・・・??
”信長公が御出馬を急いでおられる
 御座所の普請については、日夜油断なく申し付けている”
御座所とは、高貴な人の拠出のことを言います。
秀吉にとってのその人とは、信長に他なりません。

秀吉自身も、信長を迎える準備をした後は自分自身は西の方・・・伯耆の方に兵を進めると言っている資料が残っています。
単なる兵糧攻めと捉えるのではなく、東伯耆まで含めた広い視野・いろんな角度でとらえ直していく必要があります。
つまり、秀吉の目的は、鳥取城を包囲するだけにとどまらず、さらに西へ向かい、国境を越え、伯耆へと侵攻するものでした。
さらに西へ向かって進軍して、どんどんと西に進み、毛利の本隊・主力軍を鳥取に引きずり出してくるという情勢が整えば、すぐさま信長が畿内の軍勢・広域の軍勢を率いて本体が鳥取にやってくる・・・
毛利輝元の軍勢と信長の軍勢が、鳥取で雌雄を決する!!毛利対織田の決戦を、秀吉が主導して行っていく・・・これが描いていた戦略でした。

信長の書状には・・・
”万一、毛利輝元・小早川隆景の毛利本隊が鳥取城へ出陣し、後詰めするようであれば、すぐに我々も出陣し、毛利を討ち果たす予定だ”とあります。
毛利輝元とは毛利家の当主であり、小早川隆景は毛利宗家を支える知将と知られた人物です。

秀吉は、鳥取城を完全に包囲したのち、毛利領である西への侵攻を開始、秀吉は鳥取城救援のため進出している吉川元春と激突、秀吉のこの陽動作戦により毛利本隊は後詰めのために鳥取城に向かいます。
毛利本隊が進出すると、信長本体も鳥取に侵攻。
信長は御座所となる秀吉の本陣に布陣。
両軍が鳥取城を間に対峙し、やがて織田対毛利の一大決戦となる・・・という作戦です。
秀吉が計画した織田対毛利の一大決戦・・・勝利を手にするのは一体どちらでしょうか??

1581年7月、秀吉軍は鳥取城の西に向かい侵攻を開始。
第2次鳥取城の戦いの始まりです。
ところが、毛利方の資料には・・・
”秀吉が攻め寄せたが、毛利方の吉岡氏が無二の覚悟で合戦に及び、羽柴軍50余りを討ち取った”
とあります。
秀吉軍の当初の目的であった西への侵攻は、毛利方の反撃にあって進軍を阻まれてしまいました。
秀吉が西へ進軍して初めて毛利本隊は鳥取城に進出します。
そしてそれに応じて信長本体も進軍し、僚友の一大決戦が行われるという秀吉の作戦計画です。
ところが、秀吉は毛利方の国衆に阻まれ、西への進軍さえままなりません。
これからどうすればいいのか・・・??

一大決戦の計画を進める??
大崎城は、秀吉軍の侵攻を阻止する要となった毛利方の山城です。
毛利方の最前線の守りを固めた城を、攻め落とすのは難しいものがありました。

計画を諦め、城攻めに専念する・・・??
鳥取城さえ陥落すれば、毛利方の武将達も我が方へ与するかもしれない・・・
そうなれば、西への道も自ずから開けるのではないか??

あくまでも計画通りことを進めるべきか??
それとも計画を諦め、鳥取城包囲に力を注ぐべきか・・・??

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1581年7月下旬・・・
西へ向かった秀吉は、毛利方の思わぬ反撃にあい、なんと三度も敗北を喫したと言われています。
秀吉の西への進出は果たされず、その為毛利本隊は動かず、信長の進出も頓挫しました。
秀吉の、織田対毛利の全面戦争の目論見は崩れ去りました。

秀吉は、やむなく鳥取城の包囲に専念し、兵糧攻めを選択しました。
毛利軍は、流通路を確保することが一番のポイントであると見抜いていて、確保する出城を作って守りを固めていました。
それに対して秀吉は、その丸山城の先にある川と海の接点に砦を作り、丸山城に物資が運び込まれるというのを防いでいました。
8月、秀吉軍の鉄壁の包囲戦によって、丸山城では餓死者が続出。
悲惨な状況に追い込まれていました。
一方、鳥取城包囲戦に計画を変更した秀吉軍も、毛利軍と同じく兵糧不足に悩まされていました。
こうした秀吉の窮状を知った信長は、味方の城へ兵糧を確実に入れておけと、船で兵糧を届けさせたといいます。

両軍の我慢比べの決着がついたのが10月下旬・・・
兵糧が先に尽きた鳥取城主・吉川経家は降伏を決断。
自らの切腹と引き換えに、城兵の命を助けました。
鳥取城は、ついに陥落したのです。

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最終的には、本陣山の太閤ヶ平に秀吉はずっといて、鳥取城を兵糧攻めにして落城させました。
それはあくまで最小限の戦果でした。
鳥取城が開城すると、毛利方の国衆も降伏。
秀吉は、なんとか因幡平定を成し遂げたのです。
その5か月後、秀吉は、織田方の大名・宇喜多氏と共に山陽方面の毛利方の城を攻略しました。
三木城・鳥取城に次ぐ、秀吉の三大城攻めのひとつ、備中高松城の水攻めです。
鳥取城の戦いを進化させたこの包囲戦は、水を利用した兵糧攻めでした。
秀吉はこの作戦で、ついに毛利本隊を戦場に引きずり出すことに成功します。
それに応じた信長は自ら兵を率いて出陣することを決定!!
ところが・・・山陽方面に向かうため京に滞在していた信長を悲劇が襲います。
本能寺の変!!
秀吉の企てた織田対毛利の一大決戦は、ついに幻と化したのです。

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群雄割拠する戦国時代、城攻めの達人と呼ばれたのは、農民から天下人になったといわれる戦国三英傑の一人・・・豊臣秀吉です。
秀吉は、武力よりも知力を重視し、様々な策によって多くの城を攻略・・・中でも、奇策中の奇策といわれるのが、現在の岡山県・・・備中高松城を攻め落とした際の水攻めでした。

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備中高松城攻め~毛利攻略~

ひとつの城を丸ごと水没させたという秘策中の秘策・備中高松城の水攻め!!
まだ、羽柴と名乗っていた頃の秀吉は、どうしてそこまでしなければならなかったのでしょうか?
事の発端は、秀吉の主君・織田信長と中国地方をしはいする毛利輝元との激しい覇権争いでした。
当時の毛利氏は、中国地方を制圧した毛利元就の孫・輝元が当主、叔父である吉川元春・小早川隆景が支えて盤石の態勢を取っていました。
信長と輝元は、互いの出方を見ながらも・・・1575年までは、緩衝地帯である播磨と但馬を挟んで友好関係を保持していました。
しかし、1576年6月・・・信長と敵対していた石山本願寺に輝元が救いの手を差し伸べたことで、その関係は破たんします。
本願寺に兵糧を届けようとする毛利水軍と、それを阻止しようとする織田水軍が激突!!
激戦の末、毛利水軍が勝利します。
どうして毛利輝元は、石山本願寺と結び、信長と敵対することにしたのでしょうか?

信長は、かつての中国地方の支配者・尼子氏を支援して、毛利軍の中国支配をかく乱させようとしていました。
また、信長と対立して京を追われた室町幕府の15代将軍足利義昭が、毛利氏の領国である備後国・鞆に居を構えたことで、織田・毛利の関係は緊張状態にありました。
その為輝元は、信長と争いになる要因があり、対立は避けられないと判断し、先手を打ったのです。

一方、輝元と敵対することになった信長は、毛利征圧の為の中国方面軍を新設。
その司令官に抜擢されたのが、それまで毛利との交渉役を務めていた羽柴秀吉でした。
そして、秀吉は勝つためには手段を択ばず、冷酷なまでの策を講じて毛利方の城を次々と攻略していきます。
同じ年の7月、居城である長浜城から京都に入った秀吉は、手始めに中国攻めの下工作を開始。
毛利氏との緩衝地帯だった播磨の武将を得意の調略で織田方に引き込もうとしました。
この時、秀吉が調略の相手として目をつけたのが、播磨の武士・姫路城城主だった黒田官兵衛でした。
後に、秀吉の軍師となり、天下取りに大きく貢献する官兵衛です。
官兵衛は、長篠・設楽原の戦いでの信長の戦略を高く評価していたため、秀吉に調略されるとすぐに信長方につき、以後は自分が説得役となって、近隣の武将たちを信長方につかせました。

そして翌年・・・1577年10月、秀吉が播磨国に出陣してくると、官兵衛は居城である姫路城を中国方面軍の司令本部として提供、自らは参謀として秀吉に付き従うことにしたのです。
黒田官兵衛の尽力もあり、平定されつつあった播磨でしたが、織田方につくことを頑なに拒み続けた武将もいました。
美作との国境に立つ上月城の城主・赤松政範でした。
赤松は、毛利方についていた備前・宇喜多直家と手を結んでいたのです。
すると秀吉は、大軍をもって上月城に攻め込み、救援に駆けつけた宇喜多軍もろとも完膚なきまでに打ちのめしました。
敗北を認めた赤松が首を差し出しても、秀吉は攻撃の手を緩めず、城兵たちも皆殺しに・・・そして、その子供や妻まで殺害し、亡骸をさらしました。

「刃向かえば上月城のようになる!!」

という毛利方への見せしめでした。

1578年2月、播磨を制圧した秀吉は、毛利氏の勢力圏に突入します。
先鋒を任せたのは、三木城の城主・別所長治でした。
別所は、20万石を誇る播磨最大の大名で、織田と毛利が敵対する以前から信長の従属していました。
ところが・・・出陣直前に反旗を翻し、毛利方に寝返ったのです。
別所長治は、自分こそが中国方面軍の司令官に相応しいと考えていました。
成りあがりものの秀吉を中国方面軍の司令官に抜擢した信長に不満を抱いていました。
また、上月城での虐殺など、秀吉の非情なやり方を快く思っていませんでした。
それらが重なって、毛利方に寝返ったと考えられます。
周辺の武将たちも、次々と信長から離反・・・!!

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中国攻めの中断を余儀なくされた信長は激しく怒り、秀吉に別所を討つように命じます。
そこで、秀吉のとった行動が・・・後に”三木の干殺し”といわれる兵糧攻めでした。
別所が立てこもった三木城の周囲に、40を超えるともいわれる付城を配置、その間に土塁まで設けて三木城の食料補給路を遮断したのです。
それでも、2年近くは耐えた別所勢ですが、1580年1月、兵糧が尽き、餓死者が出るようになると、別所長治はついに降伏・・・三木城を開城し、一族もろとも切腹して果てました。

秀吉が三木城を攻略し、再び播磨を平定したころ、もうひとつの緩衝地帯だった播磨を秀吉の弟だった秀長が平定。
喜んだ信長は、播磨と但馬を秀吉に与えました。

そして、1581年6月、中国征圧に燃える秀吉は、因幡に侵攻・・・鳥取城攻略に臨みます。
ここでも秀吉は、後に”飢殺し”と呼ばれる壮絶な兵糧攻めを行うのです。
その下工作は、実に周到でした。
兵糧攻めを行う前に因幡中の米を買い占めます。
さらに、鳥取周辺の村を焼き払い、領民たちを城内に逃げ込ませます。
その上で、大軍をもって城を取り囲んだのです。
籠城する人数が多ければ当然兵糧のヘリは大きく、しかも、補給する米がどこにもないため鳥取城の兵糧は2か月ほどで枯渇・・・飢餓状態に陥った城内の人々は、草木はおろか、馬まで殺して食べ、それも尽きると死人の肉を貪り食ったといいます。
開戦からおよそ3か月で、鳥取城の城主・吉川経家は降伏・・・
秀吉に、城兵たちの助命を嘆願したのち、切腹しました。

信長の期待に応えるべく、獅子奮迅の活躍を見せる羽柴秀吉・・・
次なる攻撃対象は、備中高松城でした。
1582年3月15日、織田信長から中国方面軍の司令官に抜擢されていた羽柴秀吉は、播磨・但馬・因幡の軍勢およそ2万を率いて姫路城を出陣!!
毛利方についていた備前・宇喜多直家がすでに織田方に寝返っていたため、次なる攻撃目標は備中でした。
対する毛利氏は、備前と備中の国境に立つ七つの城・境目七城(宮路山城・冠山城・高松城・賀茂城・日幡城・松島城・庭瀬城)を整備して、防衛ラインを強化。
その核となる城が、高松城でした。
城主は毛利輝元の叔父・小早川隆景に仕えた清水宗治!!
そして、4月4日、宇喜多氏の本拠である岡山城に立ち寄った秀吉は、清水宗治に降伏を促すよう黒田官兵衛らに命じます。

「戦わずして勝てるなら、それが一番良い」

これ以上、血を流さずに済むならば・・・と、秀吉は考えていました。
その為、官兵衛が宗治に送った密書には、織田方に味方すれば備中と備後を与えると好条件が書かれていました。
清水宗治は、毛利氏譜代の家臣ではありませんでした。
30を過ぎた頃から小早川隆景に臣従しました。
新参者だったのです。
与えられた領地は、備中の東半分・・・秀吉の条件は破格でした。
しかし、密書を読んだ宗治は・・・

「毛利を裏切ることはできぬ・・・!!」by宗治

その理由は・・・4年前の毛利軍による上月城奪還戦に宗治が参陣した時の事。
高松城の留守を預かっていた家老が、織田方に寝返り、まだ幼かった宗治の次男・景春を人質にとるという事件が起こりました。
家老の要求は、上月城攻めからの清水軍の撤退でした。
そんなことはできない・・・宗治は、息子の命を諦めようとしました。
事情を知った小早川隆景が、高松城への帰還を許しました。
宗治は、無事息子を救出することができました。
この一件以来、宗治は、毛利氏・・・特に小早川隆景に対し、ゆるぎない忠誠を誓っていました。
諦めた秀吉は、宇喜多隊1万を加えた3万の大軍と共に岡山城を出陣!!
備前備中の国境を越えると、すぐさま境目七城の攻略に・・・!!
毛利勢の必死の抵抗も、秀吉の強大な戦力には歯が立たず、次々と攻め落とされてしまいました。
4月27日、最後の高松城を秀吉軍が包囲・・・!!
この時、高松城には5000人が籠城していました。
城兵だけではなく、領民も多数いました。
秀吉は、城内にいた城兵や領民たちに、

「今降伏すれば罰することはない」

と、働きかけます。
しかし、誰一人、城を離れませんでした。
清水宗治は、人々から慕われる城主だったのです。
5000対3万!!時間の問題か??
しかし、苦戦を強いられたのは秀吉軍でした。

4月27日、羽柴秀吉は、備中高松城を見下ろす小山の上に本陣を置き、3万の軍勢で城を包囲!!
対する清水宗治は、高松城に籠城・・・!!
毛利氏の援軍が到着するまで城を守り抜き、援軍と共に秀吉軍を討つ!!もしくは撤退させる!!
のが狙いでした。
しかし、清水軍の兵力は5000・・・戦力の差は明らかでした。
午前8時に戦いが始まりました。
劣勢に立たされたのは秀吉軍でした。
小山を駆け下り高松城に突撃したものの、城の周りに広がる沼地に足を取られて思うように動けなかったのです。
高松城は、水に守られた城でした。
すり鉢状の沼地の中に、2mほどの土台を作り、その上に本丸・二の丸・三の丸を並べて建てた難攻不落の沼城・・・
沼地が外堀の役割をはたして、敵の侵入を防いでいました。
ぬかるみにはまって動けない秀吉軍は、籠城する清水軍の格好の的でした。
鉄砲隊が一斉に打ちかけられ、多くの兵が命を失ったのです。
思わぬ惨敗を喫した秀吉は、翌日も果敢に高松城に攻め込みましたが、結果は同じ・・・。
どうしても沼地を攻略できません。
秀吉おそるるに足らずと清水軍の士気を高めてしまうだけでした。
窮地に追い込まれた秀吉は、軍議を開き、そこで黒田官兵衛からこう進言されたといいます。

「水攻めというのはいかがでしょう」

こうして秀吉は、武力による攻略を諦め、沼地に立つという高松城の地の利を逆手に取り、沼に水を注いで水没させるという作戦に出たといわれています。
しかし・・・確かな資料はありません。
黒田官兵衛ではなく、蜂須賀小六が発案者かもしれません。
攻め手を欠いていた秀吉は、この作戦に勝機を見ました。



どうやって水没させるのか??
高松城は、すり鉢状の沼地にあり、三方を山に囲まれていました。
唯一開けている部分に堤防を築けば完全に城を包囲することができるのです。
そして、近くを流れている足守川の水を流しこもうとしたのです。
堤防の築造工事が始まったのは、5月8日でした。
その全長は、3キロに及んだといわれています。
秀吉は、わずか12日間で堤防を完成させました。

岡山県岡山市にある秀吉が築いた水攻めの築堤跡・・・
現在は2mほどの高さですが、完成当時は7mほどもありました。地面に杭を打ち、土嚢を積んで堤防を築く・・・
しかし、重機などない時代、全て手作業で大堤防を築くのには12日間では短すぎる・・・??
毛利の援軍が高松城に迫る中、一刻も早く堤防を完成させたい秀吉は、驚きの方法を取ります。
土嚢を運ぶ農民たちに、やる気を出させるために、土嚢を一つ運ぶごとに米一升と銭百文を支払いました。
これは、当時の農作業の労賃の1日分以上でした。
破格の報酬に喜んだ農民たちが、我先にと土嚢を運んだのは言うまでもありません。
その数はおよそ635万個に及んだといわれています。
さらに・・・もともとあった自然堤防も利用したと考えられます。

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この時、堤防づくりと並行して行われたのが、堤防の内側に足守川の水を入れるための堰の築造です。
大量の石を積んだ船を足守川に並べて浮かべ、その船ごと川底に沈めて川を堰き止めたのです。
そして、5月19日、秀吉は堰を切って足守川の水を一気に堤防の内側に流し込みました。
すると・・・高松城の周囲は見る見るうちに水没・・・
湖面に浮城のようになってしまったのです。
5月19日は、梅雨時でした。
毎日雨が続いて、足守川の水流も増していたのです。

川の水は、高松城内にまで入り、満足に体を休めることもできなくなってしまいました。
しかも、梅雨時・・・水につかった食糧はすぐに腐り、食べられなくなってしまいました。
援軍が来てもなすすべ無し・・・秀吉の勝利は決定的・・・??
しかし、堤防が完成する前に、秀吉は信長に援軍を要請する書状を送っています。
秀吉が水攻めを行ったのは、この時が初めてでした。
今後の戦の展開が読めなかった事・・・
さらに、毛利方の援軍の数がわからなかった事もあって、信長を頼りました。

もうひとつは、信長の性格をよく知っている秀吉は、信長に気を遣った・・・。
信長は、自分以外の功績を妬むところがありました。
秀吉は水攻めの手筈が整ったところで最終的な功績を信長に立てさせようとしたのです。
安土城で、秀吉からの手紙を受け取った信長は、これを了承。
6月上旬に出陣することを決め、その先発隊に選んだのは、重臣の一人であるあの明智光秀でした。

5月19日、羽柴秀吉軍の水攻めによって備中高松城は水没し、完全に孤立しました。
兵糧が尽きて落城するのは時間の問題でしたが、手を焼いた沼地が無くなったことで、秀吉は高松城の周りに船を受かべ更なる攻撃を仕掛けます。
高松城の城主・清水宗治は、屋根の上から応戦するも、全く太刀打ちできません。
そんな中、5月21日、毛利の援軍4万が高松城近くに到着。
高松城を挟んで、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景らは陣を敷きます。
しかし、思いもよらない高松城の惨状を目の当たりにして言葉を失いました。
さらに、信長が援軍として備中にやってくることを知った輝元は、もはや打つ手はないと判断・・・
高松城で籠城する清水宗治らを救うため、和睦を求めて僧侶の安国寺恵瓊を秀吉の元に送りました。
多くの戦国大名が、外交役として僧侶を抱えていました。
恵瓊を迎えた秀吉は、和睦を承諾。
しかし・・・その条件として提示したのは、毛利氏にとって厳しいものでした。

①毛利氏が有する8か国のうち備中・備後・美作・伯耆・出雲の譲渡。
②高松城城主・清水宗治の切腹

でした。

恵瓊からこれを伝え聞いた輝元たちは絶句・・・
中でも宗治の主君である小早川隆景は、
「毛利に忠誠を尽くす宗治を見殺しにしては面目が立たぬ」と、宗治の切腹を拒否したため、和睦交渉は暗礁に乗り上げてしまいました。

5月29日、信長は僅かな手勢と共に京都・本能寺に入りました。
ここで数日すごしたのち、中国地方に向かうはずでした。
一方、先発隊を任されていた明智光秀は、6月1日の夕方、丹波亀山城から備中に向けて出陣したのですが・・・

「敵は本能寺にあり」

突如、進路を変えて本能寺に向かったのです。
6月2日、明智光秀・謀反!!
本能寺を襲ったのが、光秀だと知った信長は、「是非に及ばず」といって応戦!!
深手を追うと、燃え盛る炎の中で自害しました。

備中にいた秀吉が、信長の死を知ったのは6月3日夜。
毛利輝元に信長の死を知らせようとした光秀の密使が、誤って秀吉の本陣に迷い込み、秀吉の知ることとなったといわれていますが・・・
密使は、信長の家臣が秀吉に送った飛脚ではないか??と思われます。
信長の突然の死に秀吉は激しく動揺し、しばらくは何も手につかなかったといいます。
そんな秀吉を我に返らせたのが・・・軍師として常に傍らにいた官兵衛でした。

「今こそ好機ですぞ!!」by官兵衛

官兵衛の言葉の意味を理解した秀吉は、すぐに動き出しました。
信長の死が毛利方に知られないように箝口令を敷き、高松城の戦いを終わらせるべく安国寺恵瓊を呼びます。
そして、信長の死をおくびにも出さずに

「信長様の着陣後では和睦は難しく、毛利の存続も危うい」と脅し、その上で

・領地の譲渡は備中・伯耆の折半のみでよい
・清水宗治が切腹すれば城内5000人の命は助ける

という譲歩案を提案しました。
すると恵瓊は、独断で小舟を仕立てて高松城に渡り、秀吉から提示された譲歩案を清水宗治に伝えました。
自らの切腹が求められていると聞いても、宗治は少しも動揺せず、

「毛利の安泰と、家臣や領民の命がこの首ひとつで贖えるのであれば容易いこと」

と、すぐにこれを受諾したといいます。

武士の本懐―名こそ惜しけれ―

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秀吉は、安国寺恵瓊に前から金品を送り、意のままに動かしていたといわれています。
その為に、小早川隆景にも知らせずに、独断で清水宗治に会いに行って切腹を決意させたのかもしれません。
この決意を聞いた小早川は困惑したものの、清水宗治の意を尊重し、秀吉の出した和睦条件をのんで血判の誓詞をかわしました。
秀吉の清水宗治の切腹にこだわった理由とは・・・??

当時は切腹が武士にとって名誉の死という認識はなく、制裁という意味合いが強くありました。
自分に逆らったらこうなる・・・ということを、秀吉は知らしめたかったのではないか??と思われます。
秀吉は、清水宗治の切腹で、毛利との和睦を強固なものにしたかったのです。
和睦後、もし、毛利輝元が信長の死を知れば、和睦を放棄して秀吉に牙をむく可能性が高かったのです。
しかし、宗治の命によって結ばれた和睦ならば、毛利方も簡単には破棄できない・・・!!
と、秀吉は考えたのです。
毛利方の追撃を受けることなく畿内まで戻るための布石だったのです。

6月3日夜半・・・
5000人の命を救うため、切腹を決意した清水宗治は、羽柴秀吉に使者を送りこう申し入れます。

「あくる日に切腹いたす故、小舟を一艘いただきたい」

すると秀吉は、

「無二の忠士で比類なき者の願い 何事でも叶える」

そう言って、小舟一艘に加え、酒・肴を宗治に送りました。
その夜、宗治は、浸水していない本丸の上階に家臣たちを集め、秀吉から贈られた酒と肴で宴を開きます。
この時、宗治は、ひげを綺麗に整えていました。
その理由を家臣が訪ねると・・・

「届けられたわしの首を信長が見たとき、無精な男と侮られるのは口惜しいからのう」

そう笑って別れの酒を酌み交わしました。

6月4日、午前10時ごろ・・・
小雨が降る中、宗治は秀吉から贈られた小舟に乗って水面に漕ぎ出でました。
そして、秀吉の本陣近くまで進むと、船上で一さし舞を披露し、辞世の句を読んだといいます。

浮世をば 今こそ渡れ 武士の
         名を高松の  苔に残して
 
武士としてその名を高松の苔のようにしっかりと残してあの世に行こう・・・

介錯人によって落とされた宗治の首は、桶に納められ、同乗していた宗治の兄と弟・介錯人も後を追って自害します。
一部始終を見届けた秀吉は、宗治を
”古今武士の明鑑なり”・・・これ以上ない武士の手本・・・と称賛し、最大限の礼を尽くして埋葬しました。

切腹が、武士の名誉の死になったのは、清水宗治の切腹がきっかけといわれています。
宗治の切腹は、秀吉の心にも強く残り、天下人となった後に宗治の嫡男である景治を1万石で譲ってほしいと小早川隆景に頼んでいます。
景治の方がこれを拒んだため、実現しませんでした。

峯治の切腹を見届けた秀吉は、腹心の武将に高松城を任せ、即座に2万の大軍を率いて京への進軍を開始!!
中国大返しです。

毛利軍が織田信長の死を知ったのは、それから間もなくだったといいます。
秀吉に騙されたことに気付いた毛利軍は、和睦の誓詞を破り捨て、
「秀吉を追撃せよ!!」と、いきりたちました。
しかし、小早川隆景が、「誓詞の血判が乾かないうちにこれを破るのは武士の恥」と、諌め、追撃が見送られたといいます。
清水宗治の切腹にこだわった秀吉の狙い通りだったのです。

こうして秀吉は、毛利軍の追撃に遭うこともなく、岡山=京都間200キロを驚異的な速さで駆け抜け、山崎の戦で明智光秀に勝利。
戦国史に残る奇策・備中高松城の水攻め・・・それは、織田信長と豊臣秀吉という二人の天下人が入れ替わる歴史のターニングポイントでもあったのです。

岡山県岡山市にある備中高松城址公園・・・
園内には、広々とした蓮沼があり、毎年7月ごろになると可憐な蓮の花が咲き誇ります。
1982年に、干上がっていた沼を復元しようと水を注いだところ、地下で眠っていた400年前の蓮の種が一斉に芽吹いたといいます。
地元では、それを宗治蓮と名付け、かつての主君を今も忍んでいます。

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1582年6月2日、この日、時代を揺るがす大事件が勃発!!
明智光秀が謀反を起こし、主君・織田信長を討ち取った本能寺の変です。
この時、羽柴秀吉・・・豊臣秀吉が奇跡を起こします。
備中高松城から姫路城まで100キロを、わずか2日で駆け抜けた・・・??
秀吉軍、2万5000の高速代移動・・・中国大返しです。
この奇跡の行軍により、秀吉は京郊外・山崎で光秀を討つことに成功!!
その後、天下人への道を切り開いたのです。
秀吉は、どのような方法で長距離移動を可能にしたのでしょうか?
戦国の軌跡・中国大返し・・・秀吉は天下への道程をいかにして切り開いたのか・・・??

1582年5月26日、本能寺の変5日前・・・近江の居城・坂本を出発した光秀は、丹波・亀山城に入城しました。
その3日後、安土城を出発した信長も、光秀同様、上洛を果たしています。
信長と光秀・・・両者の行く先は、実は同じ場所にありました。
史料には・・・”中国への御出陣”とあります。
中国方面軍・羽柴秀吉の援軍のため、2人は西へ移動したのです。
この時秀吉は、備中高松城を水攻めで包囲、中国地方の覇者・毛利軍と対峙していました。
ところが・・・6月2日、前代未聞の大事件・本能寺の変が勃発します。
光秀が謀反を起こし、信長を殺害!!
これにより、秀吉の戦況は一変します。

6月3日、秀吉に事件の一報が届きます。
6月4日、毛利と講和を締結・・・停戦協定を結びます。
信長亡き今、秀吉はすぐさま敵の勢力圏から離脱し、100キロ先の姫路城まで撤退・・・不測の事態に備えなければなりません。
秀吉はいつ撤退したのでしょうか??
史料によると、6月5日・・・秀吉が撤退したのは、本能寺の変から3日後のことでした。
いよいよ中国大返しの始まりです。

撤退は、実際どのように行われたのでしょうか?
そのほとんどが平装でした。
移動には、武者押しと平押しがあって、武者押しはのぼり旗を押し立てて全員が武装して美々しく軍事行動をします。
それに対して、現場に向かう時には平押し・・・平常の衣服のまま、甲冑などはすべて荷駄として後方から運ぶというものです。
そして敵地に近づいてきて警戒しなければとなると、武装するのです。
兵や馬の消耗を防ぐため、甲冑は戦場に近づいたときに着用するのが戦国の世の習わしでした。

では、当時の道路事情は・・・??
道幅6~8m、綺麗に平らにして人工的な道を作っていました。
これは、記録に残る軍道と呼ばれるもので、このような道を作っておくことで即座に軍勢が大勢を維持しながら進むことが出来る・・・退却することが出来るのです。

信長は、早くから道路政策に力を注いでいました。
信長はこう命じています。

「険しい道を平らげ岩を砕き、道を広げよ 道幅は三間半とする」

三間半とは、およそ6.3mのことです。
当時としては道幅の広い道路でした。
道路を整備することで、補給路を確保、日本各地での戦闘を展開した織田軍・・・
迅速な行軍こそ、織田軍をして常勝軍たらしめたのです。
秀吉の中国大返しでも、こうした軍道が利用されたと推測されます。

6月5日、沼城まで撤退。
しかし、秀吉の行く手を待ち受けるのは、居城・姫路城までのおよそ78キロの道程・・・
秀吉はどのような方法で、中国大返しを実行したのでしょうか?

謎多き中国大返し・・・
その手掛かりが、中国大返しのルートで新たに発見されました。
兵庫県神戸市・兵庫城跡・・・近年の発掘調査で、兵庫城は信長時代の特徴を持つ城郭であったことが明らかになりました。
兵庫城の石垣は、石垣の下に木材を敷き、朕かを防ぐ胴木組と呼ばれる築城技術・・・当時の最新技術が取り入れられていました。
当時、畿内の先進的な技術を握った信長と家臣たちは、こういう石垣を築いていました。
さらに、城の中心部本丸に入るための出入り口が2カ所もあります。
城の守りを固める入り口がたくさんあるのはそれだけ守りが弱くなります。
通常ではこのようなことはしません。
しかし、わざわざ正面に2つの入り口を作った兵庫城は、城の使い方が大きく変わるきっかけがありました。

洛中洛外図屏風の格式高い大名の屋敷には、正門と脇門があります。
高貴な人とそれ以外の人を分ける出入り口です。
兵庫城がこのような形に改修されたのは、本能寺の変の2年前のことでした。
同じ頃、秀吉の書状にある言葉が頻繁に出てきます。

”御座所”・・・織田家の武将にとっての高貴な存在・・・信長のことです。
兵庫城の改修は、信長の”御座所”にするために、2つの入り口を持っている城としたのです。
中国大返しのルート上にある兵庫城の御座所跡・・・食料などを備蓄していたと考えられています。
秀吉の中国大返しでは、御座所を利用することで高速の長距離移動が実現できたのでは・・・??

御座所の痕跡は、兵庫県加西市にある小谷城にもあります。
室町時代に築かれたとされる山城です。
小谷城は、東西南北すべてに通じたまさに交通の要衝に築かれた城で、信長時代に改修されたところがたくさん発見されています。
秀吉が、この地の領主に宛てた書状では、小谷城の改修が見受けられます。
書かれたのは、本能寺の変の数年前とされていて、信長の御座所、信長の西国政策・毛利攻めを前提とした城を造っていたのではないか?
信長が中国の毛利と決戦する時に、ここへ入っていただく城としても造っていたのです。

歴史上、これとは全く違う戦場においても、信長のための御座所が築かれた実例があります。
本能寺の変の2か月前、織田家滅亡後・・・甲府市にある右左口宿・・・武田攻めを担った徳川家康が、この地に信長の宿所を築いたとされています。

驚くべきは、信長が甲府に入る時、すでに息子・信忠が躑躅ヶ崎に立派な御殿を造っていました。
さらに、駿河を通って帰る際に、家康が立派な御座所を造って・・・それは、かなり金銀をちりばめた豪華なものでした。
信長の移動には、織田・徳川両氏はかなり気を遣っていました。
信長が中国に来る際にも、上様の御座所を要所要所に整備しておくのは必要不可欠のことでした。
信長のために整備した街道を走り、信長のために造った御座所を活用する・・・それこそが、秀吉が中国大返しを成功させた秘策だったのでは・・・??

秀吉軍は、整備された道を行軍し、途中食料を備蓄した御座所を休憩所し、1日78キロを移動したとみられます。
そして・・・次に秀吉の前に立ちはだかるのが明智光秀。
秀吉対光秀・・・決戦の時が近づいていました。

1582年6月6日・・・本能寺の変から4日後、秀吉は信長のために用意した街道を駆け抜け、沼城から居城・姫路城までおよそ78キロの道程をわずか1日で走破することに成功!!
次に秀吉の前に立ちはだかるのは明智光秀!!
さらに、この時大阪近海の淡路島で異変が起こっていました。
瀬戸内の海賊・菅達長が本能寺の変をきっかけに洲本城を奪取、光秀に組したのです。
こうした不穏な情勢の中、いかに光秀と戦うべきか・・・!?

即時決戦を挑む??
当時、織田家の武将たちは全国各地で戦っていました。
本能寺の変の情報伝達には時差がありました。
北陸の柴田勝家には6月6日、関東の滝川一益には6月9日・・・この時点で、どの織田軍武将よりも一歩先んじていました。
光秀は信長様の三男・信孝さまを討とうと大坂へ向かったと聞く・・・
我が軍も大坂に向かい、この弔い合戦に勝利すれば、織田家中での発言力が増すことは必定・・・
信長様の後継者となるのももはや夢ではない!!
信孝はこの時、四国に攻め入るべく、軍を率い大阪に配陣していました。
ところが・・・信孝を切腹させたという風聞が・・・!!

もはや亡き者に・・・??情報を冷静に見極めるべきか??

当時秀吉は、本領・長浜をほぼ明智に押さえられてしまっていました。

1582年6月9日、秀吉は居城・姫路城を出陣!!
明石に到達しました。
およそ35キロの道程です。
秀吉は、光秀を討つべく即時決戦を挑みました。
秀吉の書状には・・・
”反旗を翻した菅達長には海と陸から軍勢を派遣し、攻め崩し、悉く討ち果たした”
とあります。
秀吉は、僅かの日にちで大坂への道を切り開いたのです。
さらに秀吉は、明石を出立、尼崎まで進出しました。
およそ45キロの行軍・・・大坂まで残すところあと10キロの距離です。

一方光秀は、この頃京に対陣。
光秀が大坂を包囲したというのは噂話に過ぎなかったのです。
しかし、秀吉の素早い進軍は、予想以上の結果をもたらすことになります。
秀吉が急速に兵を進めたことで、大坂の信孝、摂津の武将たちはもちろん、光秀の配下に属していた細川藤孝、筒井順慶、高山右近、中川清秀・・・秀吉に味方したのです。

6月13日、京の郊外で山崎の戦い・・・両軍が激突します。
軍勢の勝る秀吉は、わずか半日の戦いで光秀軍に勝利しました。
備中高松城を発した秀吉の中国大返し・・・光秀との決戦の地・山崎まで総距離230キロ・・・この長距離移動が勝敗を決したのです。

光秀との決戦に勝利した秀吉は、天下人への道を切り開いていきます。
山崎の戦いから4か月後、天下への野心を表した秀吉の書状にこうあります。
27里を一昼夜で姫路城まで帰陣することができた。
27里とはおよそ108キロのことです。
備中高松城から姫路城まで2日がかりで走破した中国大返し、それがわずか1日のことに改ざんされています。
秀吉が書き換えた中国大返し・・・
秀吉自身の手により、戦国の軌跡と称えられる伝説がここに誕生したのです。

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本能寺の変に謎はあるのか?: 史料から読み解く、光秀・謀反の真相

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1582年・・・6月2日早朝・・・
京都で戦国の歴史を大きく変えた本能寺の変が起こります。
天下取りを目前にしていた織田信長が、明智光秀の謀反に会い自害したのです。
そんな主君の敵を討ったのは、ご存じ、豊臣秀吉です。

織田信長の死を一番最初に知ったのは、京都に近い大坂で四国攻めの準備中だった信長の三男・信孝と丹羽長秀でした。
信孝と丹羽長秀が信長の死を知ったのは、本能寺の変の当日6月2日でした。
どうして京都に向かえなかったのか??
彼等はかん口令を敷かなかったので、兵士たちがパニックを起こし、逃げ出してしまったので、仇討どころか守りを固めることで精いっぱいだったのです。

柴田勝家は京都から300キロのところにある越後で上杉攻めをしていました。
勝家が信長の死を知ったのは、数日たった6月5日~7日の間のことでした。
勝家はすぐに越前の北ノ庄城に戻り、明智光秀等夏の準備をしますが、出かけられません・・・
京都に戻る際に、上杉軍に追撃される恐れがあったからです。
明智光秀は、上杉景勝に、本能寺の変の計画を事前に伝えていたともいわれています。
信長が死ねば、勝家は戦どころでなくなる・・・と、追撃態勢を整えていたので、勝家は動くに動けなくなっていたのです。

滝川一益は、北条の治めていた関東をほぼ制圧しつつありましたが・・・変を知ったのは、6月7日~9日の間と言われています。
しかし、時を同じくして北条氏政も、信長死亡を知り、反撃してきたのです。
そのため、一益は、京都に行くことができませんでした。

羽柴秀吉の場合・・・
中国地方を制圧する為に、備中高松城を攻めていた秀吉は・・・。
信長の死を知ったのは、変の翌日、6月3日の夜でした。
京都から200キロ離れた土地で、どうしてそんなに早く知ることができたのでしょうか?
明智光秀は、この時、「信長を討ったので、和平交渉に応じるな」と、毛利に密書を送っていました。
その使いが、秀吉の陣営に迷い込み、捕らえられてしまったのです。
この時、秀吉は、毛利方清水宗治の居城・備中松山城を水攻めにし、落城寸前まで追い込んでいました。
城の周りを全長3キロ、高さ7メートルの堤で囲んで、近くの川を引き入れ、水滅させようとしていました。
警備も厳重・・・そこへ、光秀の密使が捕まってしまったのです。
城攻めの奇策のおかげで、信長の死をいち早く知ることができた秀吉ですが、草履取りから自分を取り立ててくれた信長を父のように慕っていた秀吉は、泣き崩れるばかり・・・。

そんな秀吉の目を覚まさせたのは・・・軍師・黒田官兵衛の・・・

「これは天のご加護 天下取りの好機でございます。」

の一言でした。

その言葉で冷静さを取り戻した秀吉は、主君の敵を討ち、天下とるという野望をたぎらせるのです。
そして、かん口令を敷きました。
当然、」毛利方にも、漏れないように、密使を斬ったうえで備前から備中への道を封鎖しました。
そして、交渉が始まっていた毛利との和睦を急ぎます。
信長の死を知ったその夜、毛利方の交渉人・安国寺恵瓊を呼び出し、それまでの条件を緩めます。
備中・美作・伯耆を割譲するように求めていたのを、美作だけで備中・伯耆は折半にします。
さらに、備中高松城主が切腹すれば、城に残っている5000人の兵士たちの命は保証するとしたのです。

こうして、毛利とのスピード講和が実現します。
秀吉が信長の死を知ってから数時間のことでした。
その日のうちに、清水宗治は備中高松城に浮かぶ船の上で自刃・・・
その見事な最期に「武士の鑑」と言ってほめたたえました。
その直後・・・毛利が信長の死を知ってしまいました。
毛利の追撃は・・・??
この時、毛利方の吉川元春と小早川隆景が、1万5000の兵を引き連れて援軍に駆け付けていました。
どうなる??

吉川は・・・「信長が死んだ以上、講和など破棄して秀吉を討つべきだ。」
小早川は・・・「誓いの書の墨が乾かぬうちに、講和を破棄するわけにはいかぬ。」

結局、小早川の主張が通り、毛利方が追撃することはありませんでした。
そして・・・和睦の1か月前・・・毛利輝元が家臣に宛てた手紙には・・・??

「こちらは、鉄砲は言うに及ばず、弾薬も底をついている。」

武器弾薬を使い果たしていたのなら、追撃どころではありません。
しかし、これもまた秀吉の策によるもので・・・瀬戸内海を支配する村上水軍を調略していたので、毛利伸樹の補給路をあらかじめ絶っていたのです。
もともと村上水軍は、因島村上家・村上吉充、来島村上家・来島通総、能島村上家・能島武吉・・・毛利方の水軍でした。
そのうちの来島村上家は毛利を裏切り信長についていましたが、秀吉はこの時、能島村上家を調略し手中に治めていました。

6月5日、吉川と小早川の軍勢は撤退を開始・・・  
それを見届けた秀吉は、翌日・・・京都への怒涛の行軍を始めるのでした。
秀吉は2万の軍勢を率い、備中高松城から京都を目指し、200キロの大移動を開始しました。
神業ともいわれる秀吉の中国大返しが始まりました。

6月6日(1日目)午後2時
備中高松城を後にした秀吉軍は、西国街道を通り、22キロ離れた備前・沼城へ・・・。
西国街道は、援軍として信長が来ることになっていたので、秀吉によって整備されていました。
向う沼上は、秀吉の家臣・宇喜多直家の居城でした。
待ち受ける宇喜多もぬかりありません。
秀吉たちが夜でも動きやすいようにとたいまつを焚き、城についたときに食事が出来るようにしていました。
順調なスタートを切りましたが・・・

6月7日早朝
沼城で仮眠をとった一行は、翌朝早くに出発し、70キロ先に姫路城を目指します。
その途中には、西国街道最大の難関・船坂峠がありました。
谷が深く、道幅が4メートルに満たないところもあり、2万の軍勢が重装備で多くの武器弾薬を運びながら進むのは困難を極めます。
姫路城までの行軍では、暴風雨にも見舞われていました。
道筋の河川が増水し・・・農民を雇って、人間の柵を作らせ、その方にすがって川を渡らせたといいます。

当時の甲冑などの装備は30kg~50kg・・・。
秀吉は大軍を率いてどうやって早く移動したのでしょうか?
秀吉は兵士の負担を減らすために・・・
海路を利用したのではないか?という説があります。
騎馬隊や足軽隊は走ったでしょうが、物資を運ぶ輜重部隊は海路を行ったと言われています。
言い伝えによると、牛窓から佐古志、片上津から赤穂岬・・・と言われています。
兵士たちを身軽にし、大軍勢の移動のスピードをあげた秀吉・・・

もう一つの説は・・・??
秀吉の書いた一通の手紙に秘密がありました。
本能寺の変を知った中川清秀の手紙に対する秀吉の返書です。
その文面の日付と内容・・・
6月5日に「今、野殿まできている」と書いています。
野殿は備中高松城から7キロのところです。
この書状が正しければ、出発日の定説が覆ることに・・・??
6日出発という説は小瀬甫庵の「太閤記」によるものです。
太閤記は、秀吉の活躍を書いたものなので、誇張表現なのではないのか?とも言われています。
中川清秀宛ての書状の6月5日に野殿にいるが注目され、6月5日の時点で備中高松城から野殿に向かって・・・という策が注目されています。
5日と言えば、毛利が撤退した日です。
この日に追撃の余裕がないと知って・・・しかし、追撃の可能性がゼロということではなく・・・この秀吉の判断はあっぱれでした。
この6月5日出発説・・・本体は微衷高松城に残り、秀吉と何人かは野殿へ向かったのではないか??
今後さらに検討が加えられることでしょう。

1582年6月2日本能寺の変・・・主君・織田信長の敵を討つために、備中高松城から京都まで200キロの道程を8日間で走破した羽柴秀吉の中国大返し、その成功のうらには秀吉の知略が・・・。

人心掌握術・・・
備中高松城を出発し姫路城まで2日で92キロを走ってきましたが、まだ道半ば・・・
京都まで100キロ以上残っていました。
疲弊している・・・逃げ出す者も出て来るのでは・・・??
そこで、姫路城につくと皆に信長の死を教えます。
この行軍は、信長の仇・明智光秀を討ち取るためであると皆の士気を上げます。
城にあった兵糧米・8万5000石と金・800枚、銀750貫文・・・現在の価値にして66億円相当を兵士たちに分け与えたのです。
そして、仲間・小者たちにも5斗・・・半年分の米を与えたのです。
翌日からの行軍に備え、一日ゆっくり休ませます。
そこへ一人の僧侶がやってきて・・・
「明日は、二度と帰ることができない悪日にございます。
 それゆえ、出陣は延期された方がよろしいかと・・・」
それを聞いた秀吉は、
「二度と帰ることができないには、むしろ吉日じゃ!!」
そう言って取り合わなかったといいます。
秀吉は、光秀を見事討ち取ることができれば、その先には天下人の道がある・・・
そうすれば、姫路城に戻ってくる必要はない!!
城などどこにでも作れる!!
だから、帰って来れないのはむしろ吉日!!
自分が勝って天下をっとるということだ!!と。

中国大返し成功のため、他にも策を講じていました。
姫路を出た秀吉軍は、100キロ先の富田を目指します。
しかし、その途中には摂津国が・・・!!
そこに居るのは茨木城主・中川清秀と高槻城主・高山右近でした。
かつて・・・織田信長に謀反した荒木村重の重臣たちでした。
秀吉は、「奴らが信長様の死を知ったら、反旗を翻すかもしれない・・・」と、書状を送っています。

「上様は難を逃れ・・・」

信長派生きているという嘘を伝えることで、中川清秀らが光秀に加勢するのを防ごうとしたのです。
この時光秀は、信長の遺体を見つけることが出来ずにいました。
もし、首を晒すことができていれば・・・でも、出来なかったので、その嘘を信じてしまったのです。
情報を操作することで、裏切りの目を摘んだ秀吉は、安心して行軍することができたのです。
秀吉は家臣たちにも恵まれていました。
事務管理能力に優れていた石田三成は、この時、後方支援を担当!!
食糧や武器、人出の手配・・・迅速かつ的確に行いました。
これによってスムーズな移動が可能に・・・!!
黒田官兵衛は、軍師としての才能を発揮!!
隊列の先頭に毛利家の旗を持たせ、毛利方が秀吉軍に加わったと思わせます。
この旗は、備中高松城で和議が成立し、秀吉軍が撤退する際に、小早川隆景の元を訪ね、毛利軍の旗を20本ほど借りています。
隆景はある程度察しがついていて・・・秀吉に協力しておいた方が、毛利家のためになると考えたのです。
旗を見て、毛利が味方に付いたと勘違いした武将たちが次々と秀吉軍に加わります。

6月11日、秀吉軍は尼崎に到着!!
秀吉は大坂城にいた織田信孝と丹羽長秀に尼崎まで来たことを伝えますが・・・信孝を光秀討伐の総大将とすることはありませんでした。
本来ならば信孝でしょうか・・・信孝にすれば、自分は駒になってしまう・・・おまけに信孝には当時、兵が4000人しかおらず、父・兄を殺されてしまっていました。
の舞台兄は、光秀を討つ気迫がなかったので、秀吉の上には立てなかったのです。
6月12日、富田に到着した秀吉は、池田恒興、中川清秀、高山右近らと共に、軍議を開きます。
明智光秀を討ち、天下人となるために・・・!!

その頃光秀は・・・
6月2日から4日までの間に坂本城に戻り、近江を平定。
6月5日には安土城と秀吉の長浜城を占拠、丹羽長秀の佐和山城も押さえていました。
娘のガラシャを嫁がせていた丹後宮津城主細川忠興や、大和郡山城の筒井順慶に参戦を呼び掛けています。
その一方で、朝廷工作を行って・・・
朝廷から京都の経営を任せると言われ、信長の後継者は自分であると思っていたようですが・・・??
8日、大返しの知らせを受けました。
しかし・・・光秀は、京都に献金するなどの朝廷工作に勤しんでいました。

秀吉軍は4万のふくらみ・・・しかし、明智光秀は、織田信長の謀反に成功するも、味方に付けようとしてた武将たちが味方に付かないという誤算に・・・。
細川忠興は、光秀のために動かなかっただけでなく正室に迎えていた娘・ガラシャを謀反人の娘として丹後の山中に幽閉してしまいました。
筒井順慶は一度は参戦に応じるも、秀吉側に寝返り、居城に籠ってしまいました。
結果、光秀の軍勢は1万5000!!秀吉の半分にも及びません。
決戦の地は、京都に近い天王山の麓・山崎でした。

6月13日・・・
劣勢で迎え撃つことになった光秀には策がありました。
天王山の地の利を生かします。
当時、川が迫る天王山には、馬がやっとすれ違えるだけの細い道しかなく、そこで秀吉の大軍をおびき寄せ、天王山に配置した兵に吸収させて撃破しようと考えていました。
しかし、この作戦は、もし秀吉に天王山を取られるようなことがあれば成功しません。

「先に天王山を押さえねば!!」by光秀

しかし、秀吉もそこのところはよくわかっていて・・・
そこで、地の利に明るい中川清秀に天王山の奪取を命じます。
中川は、敵に気付かれぬよう、松明なしに前日夜に天王山に分け入り、光秀軍より先に天王山を占拠したのです。
これで光秀軍は、勝機を失います。
そして遂に両軍が激突!!
僅か数時間で秀吉軍の圧勝に終わりました。
光秀は命からがら逃げだすも、落武者狩りの竹やりで重傷を負い・・・6月13日、明智光秀自害!!

三日天下と揶揄されることとなった光秀、一方、主君の敵討ちを見事に成し遂げた秀吉は、天下取りにぐっと近づきました。
中国大返し・・・その成功の秘訣は、情報操作など、優れた知略、巧みな人心掌握術、有能な家臣の存在、そして、大胆な行動力と決断力・・・そのスピードの速さでした。

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武将たちがしのぎを削った戦国時代、およそ100年続いた下剋上に終止符を打ったのは関ケ原の戦いでした。
石田三成の西軍8万4000の軍勢と、徳川家康の東軍7万4000の軍勢があい見えた天下分け目の合戦です。
勝ったのは東軍!!
その勝因は、西軍の4人の武将たちによる裏切りがありました。

その中で誰が一番痛手を与えて得をしたのでしょうか?

①小早川秀秋 
②島津義弘
③毛利輝元
④吉川広家

明治時代、日本政府の招聘により来日していたドイツ人将校に関ケ原の布陣を見せたところ・・・
「勝ったのは西軍であろう。」と言いました。
西軍は、石田三成が笹尾山に、他の武将たちはその周りに・・・鶴翼の陣で、重要な山をすべて押さえていました。
迫りくる東軍を山の上からけん制し、平地に追い込んで一網打尽にしようと考えていました。
一方東軍は、家康以外はほとんどが平地に布陣。。。
両軍の配置は・・・西軍の方が圧倒的に世おりな状態で始まったのです。
圧倒的に不利な東軍・・・しかし、それがひっくり返るのですが・・・
松尾山に布陣したのは小早川秀秋1万5000。
三成の傍にいたのは闘将・島津義弘。
家康のすぐそばにいたのは、吉川広家。
さらにその後ろにいたのは毛利軍でしたが・・・ここに、西軍の大将である毛利輝元はいませんでした。
この時、輝元は大坂城にいたのです。

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①小早川秀秋
1600年9月15日午前6時・・・
雨もやみ、深い霧が立ち込める中・・・15万の軍勢が睨み合っていました。
そして午前8時・・・天下分け目の戦いの火ぶたが切って落とされます。
一進一退の攻防が続くこと2時間・・・早く膠着状態を打開したい石田三成は、松尾山に布陣している小早川秀秋に攻撃を仕掛けるように合図します。
しかし・・・小早川は動きません。
再三の出撃命令にも攻撃しない小早川にいら立ちが募る三成・・・。
この時、小早川に苛立っていたのは・・・東軍の大将・徳川家康でした。
小早川は、戦の前から家康と内通し、東軍に寝返るように説得されていたのです。
開戦から4時間後の正午・・・業を煮やした家康は、小早川軍に向かって鉄砲を打ち込ませます。
世に言う家康の問鉄砲です。
小早川はこれにひるみ、寝返りを決断、味方である西軍に襲い掛かったと言われていますが・・・
関ケ原の平地から松尾山までは1.5キロ・・・火縄銃の有効射程はたかだか100m。
弾は届きそうにありませんが・・・小早川は銃声に怯んだのでしょうか??
戦の時は、怒号や銃声が飛び交っています。
大筒の音さえも聞こえにくかったようですが・・・
家康の問鉄砲が後世の創作だったとすると、どうして寝返るまでに4時間もかかったのでしょうか??

三成からは、勝った暁には関白の地位と、上方に2ヵ国を加増すると褒賞を約束されていました。
悩む小早川は、戦局をうかがっていたので4時間もの間動かなかったのです。

そもそも小早川はどうして家康と内通したのでしょうか?
豊臣秀吉の正室ねねの甥である小早川秀秋・・・
3歳の時に跡継ぎのいなかった秀吉の養子となり、ねねの手で大切に育てられましたが・・・
秀吉の側室淀の方が秀頼を産むと、状況は一変!!
13歳で有力大名・小早川隆景のもとに養子に出されてしまいます。
さらに秀吉から・・・もう一人の養子であった秀次と、謀反を企てた嫌疑をかけられます。
秀秋も、丹波亀山10万石を没収されてしまうのです。
謀反は秀吉のでっち上げ・・・??
自分を疎んじた秀吉を恨んでいたのかもしれません。

丹波亀山を没収された秀秋ですが、その後、養父・小早川隆景から領地の一部の筑前などを受け継ぎます。
そして、15歳で秀吉の命で朝鮮出兵!!
ところが帰国すると、いきなり筑前30万石から越前北ノ庄15万石への減俸・転封を命じられたのです。
一説には石田三成が、朝鮮における秀秋の失敗を大げさに報告したと言われています。
秀吉と三成を恨んでいた・・・??

小早川が寝返ると、近くにいた脇坂・朽木・小川・赤座も寝返ります。
大混乱の西軍・・・2時間後、東軍の勝利が確定します。
家康は、この機を逃さず総攻撃!!
これに焦った石田三成は、なぜか、開戦から傍観している薩摩・島津義弘に出陣を命じます。
ところが、島津も動かなかったのです。

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②島津義弘
朝鮮出兵では、7000の兵で20万の明と朝鮮の兵を破った島津軍・・・
しかし、関ケ原の戦いに参加したのは、僅か1500の兵でした。
それは、この時義弘が、兄・義久と対立し、島津家が二分していたからです。
義久は、中央勢力とは距離を置いた方がいいと考えていました。
なので、義弘に対して、国元の軍勢を送ることはなかったのです。
鬼の島津こと、島津義弘66歳・・・。
百戦錬磨の武将ですが・・・1500の兵で戦っても勝ち目はないと動かなかったのです。

そして三成との確執・・・
合戦前日の出来事です。
西軍は大垣城に・・・東軍は美濃赤坂宿付近に陣取り、杭瀬川を挟んで前哨戦が行われました。
結果は西軍の大将・・・兵たちの士気は大いに上がります。
そこで島津義弘は三成に進言します。
「勢いをそのままに、夜襲をかけてはどうか?」
これに対し三成は・・・
「夜襲はかけぬ!!」でした。
この時三成は、家康の軍は大坂城へ向かうのでは??という情報を掴んでいました。
それを阻止する為に、先回りをしたかった・・・関ケ原で東軍を待ち構えることになったのです。
1500の兵の島津軍を頼りにできないと考えていました。
前回、墨俣の戦いでも置き去りにされてしまった義弘・・・軽んじられた義弘・・・。
三成に対して不信感を持っていたのです。

午後二時・・・西軍は総崩れ・・・
主力が次々と敗走し、多くの武将たちが討死・・・。
これを見た島津義弘は、
「さて・・・われらも如何にここから脱出するか・・・」
その大脱出劇が島津の退き口です。

関ケ原は6つの街道が交わる交通の要所です。
西への逃走ルートは三つ・・・
❶北国街道へ向かう北西ルート
この道は、敗走していく西軍と、追いかける黒田長政の軍、細川忠興の軍で溢れていました。
❷中山道の南西ルート
東軍に寝返った小早川秀秋の軍が占拠。
❸伊勢街道の南東ルート
ここには前線まで来ていた徳川本隊が待ち構えていました。
井伊直政、本多忠勝・・・猛者たち相手に1500の兵では討死しに行くようなもの・・・
しかし、鬼の島津は・・・敵中突破!!
島津軍は笹尾山あたりから南東方向へ進み、徳川本隊の脇を通って伊勢街道へと出ます。
穿ち抜けという戦法で、敵の一点を集中攻撃し、対象の義弘を通した後で捨てがまり戦法へ・・・!!
部隊が残って敵と戦い、その間に本隊は先へ・・・これを何度も繰り返して、距離を稼ぎます。
島津義弘は、こうして井伊直政、本多忠勝らを振り切って、関ケ原を脱出します。
関ケ原から脱出した際には、100人も残っていなかったといいます。

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③毛利輝元
中国地方の半分120万石を治めていた毛利輝元は、九州征伐で大きな成果をあげるなど、秀吉の天下統一に貢献。
秀吉亡き後の政権で、家康と共に五大老を務めるなどしていました。
関ケ原の戦いで、西軍の大将に就任したのは・・・
反家康の三成の要請を受けたからでした。
7月半ば・・・輝元は大坂城に入ります。
三成はこの時、まだ8歳だった秀頼の補佐を輝元に任せ、合戦の際は供に出陣させようとしていました。
関ケ原の合戦は、秀吉の家臣同士の戦いでした。
恩顧の意識が強いうちに、秀頼が出てくることで、こちらの方に大義名分があるということを示したかったのです。
合戦間近、三成は輝元に出陣を要請。
しかし、大坂城に留まる輝元。
代わりにやってきたのは、養子・秀元と1万5000のの軍勢でした。
輝元はどうして関ケ原に来なかったのでしょうか??
色々あります。
淀の方が、幼い我が子の参戦を好まなかったので、補佐役の輝元も出陣できなかった。とか、
大阪城内に、家康と内通していると噂の増田長盛の軍勢がおり、その動向をうかがっていたから。とか・・・

輝元は、秀頼を守るために、大坂城に留まった??

しかし、実のところ、家康を気にして戦う気などなかった??
輝元から家康への手紙には・・・
「三成殿の謀と当方とは関係ない」とあります。
今回の戦いには自分は関係ないと言っているのです。
その真意は・・・どちらが勝ったとしても、毛利家が生き残れるように・・・という思惑はあったようです。
東軍西軍を両てんびんにかけていたのでは・・・??

毛利輝元は、当時、自国の領土拡大に動いていました。
関ケ原に出陣していた蜂須賀家など四国の大名たちに攻め入っていたのです。
東西の面目を保ちながら、自らの野望も叶える・・・そんな戦略家だったのです。

桃配山・・・東軍の大将・徳川家康が最初に陣を置いた場所です。
家康はその周辺に3万の軍勢を配置しました。
その背後にそびえるのは・・・南宮山。
西軍の多くの武将がここに陣を置いていました。
長曾我部盛親、安国寺恵瓊、長束正家、毛利秀元・・・
兵の数を合わせるとおよそ3万・・・西軍の主力ともいえる軍勢です。
その中で、先陣を任されたのが、毛利家家臣・吉川広家でした。
家康に最も近い場所に布陣していました。

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④吉川広家
毛利秀元をはじめ、安国寺、長束、長曾我部の軍勢は、開戦と共に南宮山を下って家康軍に襲い掛かろうとしていました。
ところが・・・肝心の吉川広家の軍が動きません。
後ろにいた武将が問いただすと・・・
「霧が立ち込めて、敵の姿がみえぬ・・・」
確かに、周囲は深い霧に包まれていました。
しかし・・・数時間後の霧が晴れた後も、吉川は相変らず陣にとどまったままでした。
これに激怒したのが、長曾我部盛親です。
苛立つのも当然・・・吉川が動かないのは大問題でした。
一番槍は、決められていました。
そして、それに従うのが、当時の習わしだったのです。
つまり、吉川が動かなければ、皆、動くことができなかったのです。
吉川に代わって長宗我部に応えたのが毛利秀元でした。
「今、丁度兵に、弁当を食べさせようとしているところじゃ・・・!!」と。
宰相殿の空弁当と言われるエピソードです。

吉川広家は、毛利輝元と同じ毛利元就の孫でした。
二人はいとこ同士だったのです。
吉川家は、父・元春の頃から献身的に毛利家を支えてきていました。
その一方で、吉川は黒田長政とも通じており・・・
早々に東軍有利と見た広家は、輝元に東軍に着くべきだと進言ようとした矢先、輝元は三成らによって、西軍の大将に担ぎ上げられてしまったのです。
仕方なく西軍に着いた吉川でしたが・・・黒田長政の父・官兵衛から書状が届きます。
「上方の大名もみな、家康公に味方します。
 あなたの判断が第一。」
東軍の勝利を確信した吉川は、寝返ることを決断し、家康に約束します。
この密約が、既に戦の前になされていたことは、家康の陣の位置からもわかります。
吉川が陣取っていたのは南宮山の頂上・・・家康の桃配山とは峯続きなので、三万の軍で攻めればひとたまりもなく・・・そんな無謀な布陣ができたのも、吉川が後ろで留めてくれると安心していたからでしょう。

吉川の寝返りの真意は・・・??
家康との間に、毛利輝元の寛大な処遇を内々で求めていました。
毛利本家のことを思っていたのです。
輝元に、大坂城に残ることを強く進言したのもまた、広家なのです。
さらに吉川の裏切りは・・・小早川秀秋にも関係しています。
小早川は吉川が足止めしている情報を手に入れていたので、寝返ることにしたのです。

毛利輝元を大坂城に留まらせ、
西軍3万の軍勢を足止めし、小早川秀秋に寝返りの決断をさせた・・・
もっとも西軍にダメージを与えたのは、吉川広家でした。
真の裏切り者は・・・吉川広家だったのです。
こうして関ケ原の戦いは、僅か半日で東軍の勝利に終わりました。

西軍を裏切った武将のその後は・・・??
関ケ原の戦いを制し、大坂城に入った徳川家康が、東軍の武将たちに褒賞を与えるとともに、西軍方の処遇を決定します。
筑前30万石の小早川秀秋は岡山55万石に加増・・・
しかし、その2年後、小早川は21歳の若さでこの世を去ります。
戦場で切腹した西軍武将の呪いと言われました。

戦は傍観していたものの家康軍に突っ込んだ島津義弘に対しては討伐を考えます。
しかし、周囲の取りなしによって中止。
義弘の隠居を持って領土を安堵します。

西軍の大将・毛利輝元は、吉川広家の根回しもありお咎めなしと思われましたが、身分所領をすべて没収する改易でした。
家康はその領地の一部を吉川広家に与えようとしていました。
これを聞いた吉川は・・・家康に毛利家の存続を直談判し、自分の報奨を辞退します。
その甲斐あって、毛利家は120万石から30万石に減俸されましたが、改易は免れたのです。
毛利家のために尽力した吉川には、毛利家から岩国3万石が与えられました。

数の上でも、陣形でも、最初は勝っていた西軍でしたが、多くの裏切りによって負けてしまいます。
天下分け目の戦いでどちらにつくのか・・・??
それは、大名たちにとって裁量が試される時でした。
日本の歴史を大きく変える関ケ原の戦い・・・
一人一人の心のうちを覗くと、それもまた面白いものです。

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