豊臣秀吉が築いた肥前名護屋城です。
高層の店主がそびえたち、周囲には全国の大名たちが陣を構えました。
城郭都市の人口は、30万人に及んだといわれています。
城の巨大さは、秀吉の大陸侵攻への野心の大きさでした。
秀吉が起こした文禄・慶長の役・・・
中国の王朝・明の征服を目論み、朝鮮半島を戦火に巻き込んだ対外戦争は、7年も続きました。
この無謀な戦争を止めるべく、講和交渉を担ったのが小西行長でした。
行長は、日本と朝鮮・明との講和を早急に実現しようと奔走します。
しかし、積年のライバル加藤清正が立ちはだかりました。
![]() |
小西行長?「抹殺」されたキリシタン大名の実像 (史料で読む戦国史) 新品価格 |

玄界灘を望む交通の要衝に築城された肥前名護屋城・・・
面積17万平方メートルに及ぶ、当時日本最大級の城でした。
秀吉は、ここを拠点に大陸侵攻への野望を実現しようとしました。
秀吉の野心が記録に現れるのは・・・
織田信長の死後、その後継者となった秀吉が周囲の大名を次々と従え、天下に号令をかけようとしていたその時です。
「日本のことは申すに及ばず 唐国まで仰せつけられ候 こころに候」
関東の雄・北条氏を滅亡させ、遂に天下統一を成し遂げた秀吉・・・ここから大陸侵攻の意思をあからさまにしていきます。
建国以来、200年となる朝鮮王朝を経由し、中国・明に攻め入ろうとする壮大な計画・・・当時は唐入りと呼ばれました。
肥前名護屋城は、その前線基地でした。
城跡からは、秀吉の対外戦争にかける意気込みが浮かび上がってきます。
大手口から城の本丸へと向かうと・・・本丸には、壮麗な建物が並び立ち、高僧の天守がそびえていました。
玄界灘、そして大陸に睨みを利かすかのような巨大なシンボル・・・さらに、この城には、当時最先端の防御の工夫がなされていました。
秀吉の居館があった山里口・・・複雑に門が組み合わさっています。
外枡形をより発達させた門で、敵の侵入を防ぐために、屈曲が連なっています。
この連続外枡形は、後の熊本城や姫路城に採用され、近正の城郭に大きな影響を与えたと思われます。
城の周囲には、商人たちが城下町を形成していました。
人口は、爆発的に急増し、その数2,30万に達したといわれています。
今日や大阪、堺の商人でにぎわっていました。
”肥前名護屋は、日本一の港町である”
それだけではありません。
城を中心とする半径3キロ圏内には、各地の大名が集結・・・
現在確認されているだけでも、150もの陣が築かれていました。
東北から九州まで、日本中の大名が集められたのです。
大名の陣には、能舞台だけでなく茶室まで整備されていました。
大名たちは秀吉の命令に従い、城の周囲に堅固な陣を築き、長期的な対陣を覚悟していました。
この肥前名護屋城を拠点に、総勢30万もの大軍勢が動員され、7年に及んだ大戦争・・・
文禄・慶長の役が始まるのです。
熊本県宇土市・・・かつてここに、小西行長の居城・宇土城がありました。
現在、城跡に残る石垣は、行長の後にこの地を治めた肥後熊本藩主・加藤清正時代のものです。
行長が作った石垣は、この石垣の中にパックされています。
行長の痕跡は、積年のライバル・清正によって、跡形もなく消え失せています。
宇土城の本丸に建立された小西行長像・・・キリシタン大名として知られていましたが、関ケ原の戦いで西軍に属し、時代の敗者となりました。
行長は、初め備前の戦国大名・宇喜多氏に仕えていたと考えられています。
その後、宇喜多氏が織田信長と手を結んだことで、当時、信長配下で中国方面の攻略を担っていた秀吉に仕えることになったといわれています。
![]() |
秀吉の交渉人 キリシタン大名 小西行長 (メディアワークス文庫) 新品価格 |

信長の書状に、当時の行長の活躍が記されています。
”毛利方の警護船200艘ばかり海上を上がってきたところ、行長が船で乗り出し敵を追い払った
実に素晴らしい働きである”
当時、来日した宣教師・フロイスも、こう記録しています。
”行長は海の司令官である”
こうした海での活躍が、信長・秀吉に重んじられた理由だと思われます。
瀬戸内海の、毛利の海ではない海(大阪に近い方)に従わせること・・・
各港の海の民・海賊衆、いざとなったら戦に船を提供してくれる人々・・・行長は、司令官としてその方々を説得して、秀吉政権が上手く回るようにしました。
秀吉の信頼を得た行長は、肥後南部を領する大名に抜擢されます。
この頃、秀吉は、行長はじめ、加藤清正、黒田長政など、子飼いの武将などを九州に配置、唐入りの準備を着々と進めていました。
その中でも特に交渉力に優れた行長に、朝鮮との交渉を担わせることにしました。
1592年3月、行長は朝鮮とのかかわりが深い対馬の宗氏と共に事前工作に奔走します。
目的は、仮道入明・・・朝鮮に道を仮、明に攻め入ることでした。
秀吉の計画は、肥前名護屋城から軍船を仕立て、壱岐・対馬を経由し、朝鮮に上陸。
兵を進め、明に侵攻するというものでした。
それには、朝鮮の協力が必要だったのです。
しかし、長きにわたって明を宗主国としてきた朝鮮が、こうした要求を受け入れるはずがありませんでした。
秀吉は、あくまで強硬姿勢を貫きます。
朝鮮が異議を申し立てるようなことがあれば、対峙すべきである!!
武力で朝鮮に攻め入ることになるのか・・・??
行長は、難しい交渉を託されたのです。
そして結果は・・・朝鮮は、日本に対する協力を正式に拒否!!
4月12日、行長はおよそ2万からなる第1陣を率いて朝鮮・釜山に上陸・・・文禄の役です。
翌日、早くも釜山の城を攻め、これを陥落させることに成功します。
戦闘は、僅か半日ほどで終了しました。
この時、勝敗を左右したとされるのが、当時の日本の主力兵器・鉄砲でした。
戦に習熟した秀吉の軍勢は、200年の泰平を維持してきた朝鮮王朝にとって、大きな脅威となりました。
釜山を陥落させた行長は、破竹の勢いで進軍!!
その4日後、加藤清正率いる第2軍が上陸します。
両軍は競い合うように朝鮮王朝の首都・ハンソン(漢城)・・・ソウルを目指しました。
そして、上陸から1月足らずで・・・5月20日、行長率いる第1軍がハンソンに入城しました。
この時、行長は、朝鮮に対し降伏を促す書状を作成・・・無益な争いを避けるため、これを朝鮮軍に届けようとしました。
ところが・・・加藤清正の軍勢に行く手を阻まれ、書状を届けることができなかったのです。
同じ日本軍とはいえ、行長と清正の戦略は違っていました。
清正は、秀吉に命じられた通り朝鮮の武力制圧、明への侵攻を目指しました。
そんな清正にとって、朝鮮との交渉を目指す行長の行動は、許しがたいものでした。
2人が手紙で相談したやり取りは、1通も残っていません。
清正との対立によって、朝鮮との交渉は暗礁に乗り上げてしまいました。
そこで行長は、さらに北上を続け、明との国境に近い平壌まで進出!!
今度は、明との直接交渉に臨もうとしました。
しかし、そんな行長の思いとは裏腹に、明は朝鮮の援軍のために大軍勢を平壌に向かわせていました。
![]() |
新品価格 |

文禄の役・・・
行長率いる第一軍に続き、総勢16万の日本の軍勢が海を渡り朝鮮全土に侵攻しました。
行長はじめ、加藤清正、黒田長政、小早川隆景など、武将たちは朝鮮各地に・・・それぞれの地域を制圧しようとしました。ところが、文禄の役は僅か2か月でほころびを見せ始めます。
陸では、郷土防衛のため、朝鮮の有力者が地元の人々を義兵として組織、各地でゲリラ戦を展開し、日本を苦しめました。
さらに、海では朝鮮水軍を率いるイ・スンシンが、日本の軍船を各地で撃沈!!
これにより、日本からの兵糧や軍事物資の輸送がままならなくなっていました。
1592年8月・・・明との直接交渉を模索していた行長は、朝鮮在陣の武将たちと軍議を開きます。
このまま民へ侵攻するのは難しい・・・そこで決議したのが、年内への明への侵攻の延期でした。
1593年1月、明・朝鮮の連合軍5万の大軍勢が、行長のいる平壌を襲ってきました。
その攻防戦を描いた屏風では・・・鉄砲を駆使し、大軍を退けようとする行長の軍勢が書かれています。
しかし、およそ7000という少ない行長軍は、連合軍の総攻撃を前に、ピョンヤン撤退を余儀なくされてしまいます。
勢いに乗じた明・朝鮮連合軍は、首都・ハンソンを目指し南下・・・そこを、小早川隆景らが迎撃・・・ピョクチェグァンの戦い。
今度は明軍を撤退させます。
戦線は膠着・・・ここに、講和の期は熟したとみた行長は、明との接触を試みます。
戦争は、始めたら終わらせなければならない・・・その時、相手の国との交渉を行い、戦争開始よりも利益を得ることが大切です。
行長としては、この戦争で何も日本側に利益がきていないことから、相手との落としどころを探りたいと思っていました。
3月、行長は、明の使節との会談が実現します。
その結果、明との一時的な停戦協定が結ばれ、明の勅使の日本への派遣が決定されました。
行長は、その後家臣を明に派遣し、自らは日本と朝鮮を行き来するなど三年にわたって明の勅使を迎える環境を整えることに力を尽くしました。
そして、最終的に秀吉が明の勅使を受け入れるための条件を3つにまとめます。
①朝鮮の王子を来日させ秀吉の臣とする
②日本と明の間で勘合貿易を行う
③朝鮮八道のうち四道は日本領とする
当時、朝鮮は八道と呼ばれる行政区に分けられていました。
秀吉が求めたのは、南四道・・・明との交渉にあたり、これが一番の問題でした。
この時、明は日本に対して、朝鮮からの全軍撤退を求めていました。
互いに折り合わない条件の中、明との講和をどう実現すべきか・・・苦悩する行長・・・!!
時間をかけて講和条件を詰めていく??
それとも、秀吉と明勅使との対面を優先して講和の既成事実を作る・・・??
1596年9月1日、秀吉と明の勅使の対面が実現します。
行長の努力が実ったのです。
行長は、講和条件についてはいったん棚上げし、対面を優先したのです。
勅使から秀吉に対し、明の皇帝の言葉が伝えられました。
”ここに特になんじを封じて日本国王と為す”
柵封といわれる措置です。
皇帝から国王として承認を受けることで、中国と朝貢貿易を行うことができました。
近年の研究では、莫大な貿易の利益を生む条件に、秀吉は満足したと考えられています。
こうして両者の対面はうまくいき、秀吉も上機嫌でした。
行長は、事前に明の勅使に対し、領土問題を口に出さぬようにくぎを刺していました。
ところが・・・面会を終えた明の勅使が宿所に戻った時、事件が起きます。
勅使歓待のために派遣された日本の高僧が秀吉のこんな言葉を伝えたのです。
「おのれに対して要求するものはなんでも正直に言うがよかろう」
この言葉を聞いた明の勅使は、思わず朝鮮に駐留する日本の軍勢の撤退を口にしてしまったのです。
後でそれを伝え聞いた秀吉は激怒!!
「彼が激怒したのは、講和を結ぶためには朝鮮国の半分だけでも入手する己の考えを忘れてはいなかったからである」byフロイス
ここに、行長の講和交渉は頓挫してしまいました。
1597年2月、秀吉は再び朝鮮出兵を命じます。
![]() |
新品価格 |

14万余りの大軍勢が渡海し、およそ2年に及んだ慶長の役が始まりました。
今度の戦は、明に攻め入るためではなく、秀吉がこだわった南四道への侵略が目的となりました。
秀吉は容赦なく、「老若男女、僧俗に限らず、あまねくなで斬りにせよ!!」と言明しました。
これにたいし、明や朝鮮は事前に戦闘態勢を整え、日本軍を迎え撃ちます。
行長も、1万5000の兵を率いて出陣!!
戦闘の傍ら講和を模索し続けます。
しかし、郷土防衛に徹する朝鮮に、日本との講和など考える余地もありませんでした。
朝鮮側の資料に、行長の言葉が残されています。
「朝鮮は文禄の役のとがを私の責任にしているが、それは事実ではない
私は秀吉の命に従っているだけである」
自ら望んでいない戦いを強いられた行長の本音が垣間見えます。
戦闘は激しさを増し、凄惨を極めます。
京都にある耳塚・・・日本軍が戦果として持ち帰った耳や鼻を埋めて供養した塚です。
日本軍は、朝鮮の兵士のみならず、民衆に至るまで武力で蹂躙・・・各地に深い傷跡を残していました。
泥沼化の一途をたどった慶長の役・・・1598年8月・・・秀吉の死去と共にようやく幕を閉じました。
大陸侵攻の前線基地として築かれた肥前名護屋城・・・!!
秀吉の野望のシンボルは、僅か7年でその役割を終え、人口30万を誇った城郭都市と共にやがて消え失せていきました。
文禄・慶長の役に動員された全国の大名は、新たに獲得した土地もなく、莫大な戦費ばかりを負担することとなりました。
その不満の矛先は、講和交渉に失敗し、戦を長引かせた小西行長や石田三成に向けられました。
一方、朝鮮に出兵することなく国内で実力を蓄えた徳川家康の権勢は増しました。
1600年9月15日、三成や行長は、反家康の軍勢を集め挙兵!!
東軍と西軍を二分した関ケ原の戦いです。
わずか半日で決した戦いは、行長が属した西軍の敗北となりました。
行長は、三成と同じく西軍の首謀者として捕らえられ、10月1日処刑・・・43年の短い生涯だったと伝えられています。
江戸時代以降、行長は家康に歯向かった大悪人として伝えられ、その実像は覆い隠されました。
1980年、没後380年を記念して、行長の銅像が建てられました。
しかし、落成後、すぐにトタンでおおわれいます。
当時、まだ大悪人のイメージがついていて、反行長派の破壊行為から銅像を守るために2年間もおおわれていました。
宇土の地域で神社仏閣を焼き払ったという誤った伝承があり、市民感情が非常に悪かったのです。
小西行長は、歴史に何を残したのか・・・??
その評価は、今でも問われています。
↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです


にほんブログ村

戦国時代ランキング
![]() |


