東京・目白にある学習院大学・・・
敷地内には、大学の他にも幼稚園、中等科、高等科が併設され、皇族の子息が通われる学校として知られています。
その起源は、江戸時代の京都にありました。
1847年、御所の日御門前に、学問所を新設・・・その2年後に、時の天皇が学習院と名付けたのです。
その名付け親こそ、孝明天皇・・・激動の幕末に即位した江戸時代最後の天皇です。
孝明天皇が在位していた20年の間に、①安政②万延③文久④元治⑤慶應・・・と、5回も変わっています。
国家を揺るがす色々なことが起きた時代でした。
この未曽有の国難にどのように対処したのでしょうか?
①前代未聞
弘化3年2月、もう姪天皇は16歳で天皇の位を承け継ぎます。
その5月、事件が勃発します。
日本近海に度々外国船がやってくる中、浦賀にアメリカ艦隊が来航します。
通商条約の締結を要求してきたのです。
さらに、6月には長崎にフランス艦隊が来航・・・
幕府は鎖国を理由に彼らの要求を拒み、退去させました。
しかし、その2か月後、孝明天皇が思わぬ行動を起こします。
時の関白を通じ、幕府へ勅書を下したのです。
「近年、異国船が時々渡来するという噂を耳にする
幕府は異国を侮らず畏れず、海防を強化し、日本の恥とならないよう処置し、朕を安心させるようにせよ」by孝明天皇
その孝明天皇の勅書に、時の将軍・第12代家慶をはじめ幕府の役人たちは驚きます。
何故なら、幕府の政策に天皇が口出しするなど前代未聞のことだったからです。
当時の天皇と幕府の関係は・・・??
形の上では、天皇が将軍に国政を委任するというものでした。
実際、圧倒的に幕府が力を持っており、朝廷は抑えられているという感じでした。
天皇・朝廷が幕府に口を出すことはなかったのです。
その理由の一つが、天皇・公家は、幕府から経済的な支援を受けていました。
天皇の所領は禁裏御料と呼ばれ、3万石。
さらに、朝廷に仕える公家たちには合わせて7万石ほど・・・
つまり、幕府は朝廷に年間10万石を献上していました。
幕府からの支援を受け、孝明天皇は豪勢な生活をしていました。
幕府の支援を受けながら、実に優雅な暮らしを送る孝明天皇・・・
ひどく怖れていたのは、開国を迫る欧米諸国の存在です。
嘉永6年、アメリカからペリーが来航し、開港を要求します。
日本は激動の時を迎えます。
安政元年、アメリカの強硬な開国要求に、日米和親条約を締結・・・
箱館と下田の二港を開港しました。
さらに、イギリス、ロシアとも条約を結びます。
この時、孝明天皇は、朝廷がある関西地方の警備体制の強化を要望しながらも、条約締結に関しては承認します。
なぜなら、和親条約は友好をうたったもので貿易協定などを結ぶものではありませんでした。
箱館、下田は、京都から遠く離れていたので、恐れるほどではなかったのです。
しかし、事態は急転・・・

安政3年、アメリカから在日総領事ハリスが下田に着任します。
正式な交易・・・通商条約の締結を要求してきました。
さらに、アメリカ大統領からの親書を、直接江戸城で将軍と謁見し渡したいというのです。
幕府は、ハリスの要求を受け入れます。
将軍との謁見を許可し、通商条約締結へ向けての交渉に入ったのです。
この時、幕府ははなからアメリカと戦う気などありませんでした。
隣国である中国・清がイギリスとのアヘン戦争にやぶれ、不平等な通商条約を結ばされたうえ、香港の割譲を強いられるという惨状を知っていたからです。
欧米諸国と戦えば、清と同じ運命をたどる・・・
開国賛成派と、鎖国維持派・・・諸大名の意見は真っ二つに分かれ、合議を得るどころではありませんでした。
そこで、天皇からの勅許を得られれば、みな、アメリカとの条約締結を納得すると考え朝廷に老中を派遣します。
この時、京都御所に向かったのは、堀田正睦・・・孝明天皇を簡単に説得できるだろうと考えていたようですが・・・孝明天皇は幕府を驚かせます。
幕府が条約締結へと動いていると事前に聞いていた朝廷では、その対応が協議されました。
そこで、孝明天皇は自らの意見を表明します。
「アメリカの願い通りになってしまっては、天下の一大事の上、朕の代よりそのようなことになってしまったのでは後々まで恥となる」
だから、条約締結は承認できないと・・・!!
幕府の提案を承認しないなど、前代未聞・・・!!
幕府とうまくやっていきたい公家たちは、困惑しました。
天皇の御威光をそのまま幕府に伝えれば角が立つ・・・なんと返答すべきか・・・??
迷った挙句、公家たちは参内した老中・堀田正睦にこう告げました。
「徳川御三家以下、諸大名の本心を今一度聴取し、その報告を聞いたうえで改めて帝が判断を下される・・・!!」
開国に反対する大名を納得させるためにわざわざ京にまでやってきたのに、その大名の意見をもう一度聞いて来いと・・・??
堀田はこれを拒みます。
「アメリカと戦っても、勝ち目などありません
世界の情勢を見ても、通商条約締結はもはや避けられないことなのです」by堀田
理路整然と説明し、涙ながらに訴えました。
しかし、孝明天皇の心は変わりませんでした。
最後に堀田は、朝廷にこう迫ったといいます。
「アメリカがしびれを切らし切迫した場合は、戦か条約締結か、幕府が判断してもよろしいのでしょうか?」by堀田
これに対し孝明天皇は、
「アメリカが武力に訴えるならば、戦も致し方ない!!」by孝明天皇
あくまでも孝明天皇が望んでいたのは、今までの体制・・・鎖国体制の維持継続でした。
折り合いをつけるという方法を知らないアメリカの強引なやり方が、孝明天皇の”外国人に対する嫌悪感”に繋がったのです。
それが、攘夷につながった可能性があります。
頑なな天皇を前に、なすすべを失くした堀田は、勅許を得ぬまま江戸へと戻っていきました。
幕府は強硬手段に出ます。
指揮を執ったのは、大老・井伊直弼・・・
井伊は、諸藩の意見を聞くことも、孝明天皇の許可を得ることもなく、日米修好通商条約に調印(安政5年)。
これが、孝明天皇の逆鱗に触れました。
「絶体絶命の今、うかうか致してはおられぬ!!」by孝明天皇
天皇は、すぐに幕府に御趣意書を送り、猛烈に抗議!!
「この度の幕府の措置は、厳重に申せば勅書を無視したものであり、不信感を抱かせるものである」by孝明天皇
それでもまだ収まらない孝明天皇は、水戸藩に勅書を下します。
さらに、その内容を他の藩にも伝えるように命じました。
その中で天皇は、独断で日米修好通商条約を締結した幕府に、経緯の説明を求めること
さらに、外国人を打ち払う”攘夷”を推進すべく幕府を改革していくこと
を、強く求めました。
ただし、これは天皇の越権行為でした。
幕府は天皇と諸大名が直接やり取りすることを禁じていました。
それだけ、孝明天皇は幕府に対して怒っていたのです。
しかし、幕府の大老・井伊直弼は、攘夷にこだわる孝明天皇をまるで逆なでするかのように更なる強硬手段に出ます。
天皇や朝廷側につく尊王攘夷派を大量に処罰!!
吉田松陰や橋本佐内は死罪となりました。
世に言う安政の大獄です。
これを聞いた天皇は、再び激怒!!
扇子で関白の頭を執拗にたたいたと言われています。
どうして孝明天皇はそこまで攘夷にこだわったのでしょうか??
200年以上鎖国体制が続いていました。
急に開国しようとも気持ちがついていきませんでした。
当時は変化を嫌い、如何にして今を保つかが大事なことでした。
歴代の天皇が守ってきたものを、自分の代で変えることに抵抗があったのです。
将軍の職務は、外国人を制圧することにありました。
征夷大将軍の職務を果たしていないのでは・・・??
孝明天皇の勅許を得ずに日米修好通商条約を勝手に調印し、天皇を支持した尊王攘夷派の者たちを大量に処罰した江戸幕府の大老・井伊直弼・・・当然、その強引なやり方は多くの敵を生みました。
安政7年3月3日・・・江戸城桜田門の前で、井伊は暗殺されます。
襲撃の主犯は、尊王攘夷派の水戸藩士たちでdした。
これをきっかけに、諸大名の幕府の強引なやり方に反発・・・幕府の権威は急激に失墜していきます。
そして、こののち、孝明天皇は、図らずも維新という大きな渦に巻き込まれていくのです。
②妹・和宮
失墜した権威を取り戻すべく、幕府は朝廷と融和し、一体となる体制・・・公武合体を画策します。
その象徴として進められたのが、14代将軍・徳川家茂と孝明天皇の妹・和宮の結婚でした。
皇族が武家である将軍家へ嫁ぐなど、前代未聞のことでした。
この時、孝明天皇自身も公武合体を望んでいました。
しかし、迷っていました。
なぜなら、妹には婚約者・有栖川宮熾仁親王がいたからです。
そして、何より和宮が江戸で暮らすことを嫌がっていました。
宮中で育った和宮には、外国人たちが多く暮らす江戸は恐ろしい場所に映っていました。
妹の幸せを願った孝明天皇は、この縁談を却下・・・
しかし、幕府は食い下がります。
困った天皇は、信頼を置く公家・岩倉具視に助言を求めました。
すると岩倉は・・・
「幕府が攘夷の実行を約束するならば、降嫁をお許しになればよろしいのでは・・・」
そこで、その条件を幕府に突き付けると、
「10年以内に鎖国体制に戻す」
つまり、孝明天皇の望み通り、攘夷を決行すると約束してきたのです。
問題は頑なにこの結婚を拒む和宮でした。
幕府から攘夷の約束まで取り付けた孝明天皇は、いまさら破談にはできません。
そこで、和宮の代わりに生れたばかりの娘・寿万宮を嫁がせようと考えます。
すると・・・それを知った和宮は、自分が江戸へ行かなければ誰かが犠牲になると、兄のため、朝廷のため、将軍家に嫁ぐ決意を固めたのです。
その代わりに和宮は、
・大奥に入っても御所の流儀を通すこと
・御所の女官を御側付きにすること
などの条件を出しました。
孝明天皇は、苦渋の決断を下した妹のため、幕府に和宮の要求を順守することを厳しく命じたうえで、江戸へと送り出しました。
これによって、孝明天皇は幕府に大きな貸しを作りました。
降嫁の交換条件として出した”攘夷”を幕府はいつ決行するのか??
幕府に対し、有利に立った孝明天皇は、人事にまで介入します。
”老中を決める際、事前に天皇に伺いをたてること”を幕府に認めさせました。
攘夷に反対する人物を、幕府の首脳陣に加えさせないためでした。
さらに孝明天皇は、悲願だった攘夷実現に動き出し、それが、”尊王攘夷”という大きなうねりを生み出すことになります。
ところが、この後、天皇は意外な行動に出ます。
和宮は、家茂のやさしさに、二人の仲も睦まじく・・・公武合体もうまくいくと思われました。

そんな中、新しいうねりが巻き起こります。
孝明天皇のもとで政治を行い、開国を迫る外国勢を打ち払おうという尊王攘夷運動です。
理想に燃える尊王攘夷派の志士たちの存在を、孝明天皇も当初は容認していました。
③尊王攘夷派
天皇がいる京都に続々と集まる尊王攘夷派の志士たち・・・
その中心となったのが、桂小五郎久坂玄瑞らを中心とする長州藩でした。
朝廷内の公家たちに近づき、その多くを味方につけて行ったのです。
そんな中、文久3年3月、将軍・徳川家茂が上洛・・・
将軍の上洛は、3代将軍徳川家光以来およそ230年ぶりのことでした。
孝明天皇が、将軍・家茂を呼びつけた形になります。
幕府は、「文久3年5月10日に攘夷を決行する」ことを約束させられます。
孝明天皇が、将軍・家茂に約束させた攘夷決行日である5月10日・・・尊王攘夷を掲げる長州藩が動き出します。
下関沖を航行中のアメリカ商船を砲撃!!
ついに、攘夷を実行に移したのです。
さらに、長州藩は、当時めったに行われなかった天皇の行幸を勝手に計画。
①神武天皇陵・春日大社を参拝
②孝明天皇の指揮で譲位を行うべく軍議を開く
長州藩と尊王攘夷派の志士たちの行動は、日に日に過激さを増していきます。
ところが・・・文久3年8月18日、京都・御所・・・クーデターが勃発します。
長州藩とそれに味方する”尊王攘夷派”の公家が京都から追放されます。
八月十八日の政変・・・クーデターを実行したのは、公武合体派の会津藩と薩摩藩でした。
そして、彼らに命じたのは、孝明天皇だったのです。
どうして味方である尊王攘夷派を追放したのでしょうか??
はじめのうちは、尊王攘夷派は、孝明天皇の意見を代替えする存在でした。
しかし、いつしか孝明天皇の意向を無視して、ことを進めていくようになったのです。
孝明天皇が望んだのは、幕府による緩やかな攘夷だったのです。
尊王攘夷派の中には、幕府を倒し、王政復古を目論む者もいました。
孝明天皇はあくまでも幕府と共にやっていきたい・・・幕府と共に国を治める公武合体だったのです。
しかし、尊王攘夷派を追放し誰がために、孝明天皇自身の運命が大きく変わっていきます。
過激な尊皇攘夷派を追放したのち、孝明天皇は再び参内した徳川家茂に対し、こう表明します。
「無謀な征夷は実に朕が好むところに非ず」
なんと、急進的な攘夷は望まないというのです。
幕府に対し、あれだけ攘夷を主張してきた孝明天皇が、その態度を軟化させたことに世間は驚きました。
天皇の真意は何処にあるのか??
”攘夷”の態度を軟化させたことで、世間は孝明天皇に対し、不信感を抱くようになります。
天皇の絶対的な権威に対する疑い・・・
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敷地内には、大学の他にも幼稚園、中等科、高等科が併設され、皇族の子息が通われる学校として知られています。
その起源は、江戸時代の京都にありました。
1847年、御所の日御門前に、学問所を新設・・・その2年後に、時の天皇が学習院と名付けたのです。
その名付け親こそ、孝明天皇・・・激動の幕末に即位した江戸時代最後の天皇です。
孝明天皇が在位していた20年の間に、①安政②万延③文久④元治⑤慶應・・・と、5回も変わっています。
国家を揺るがす色々なことが起きた時代でした。
この未曽有の国難にどのように対処したのでしょうか?
①前代未聞
弘化3年2月、もう姪天皇は16歳で天皇の位を承け継ぎます。
その5月、事件が勃発します。
日本近海に度々外国船がやってくる中、浦賀にアメリカ艦隊が来航します。
通商条約の締結を要求してきたのです。
さらに、6月には長崎にフランス艦隊が来航・・・
幕府は鎖国を理由に彼らの要求を拒み、退去させました。
しかし、その2か月後、孝明天皇が思わぬ行動を起こします。
時の関白を通じ、幕府へ勅書を下したのです。
「近年、異国船が時々渡来するという噂を耳にする
幕府は異国を侮らず畏れず、海防を強化し、日本の恥とならないよう処置し、朕を安心させるようにせよ」by孝明天皇
その孝明天皇の勅書に、時の将軍・第12代家慶をはじめ幕府の役人たちは驚きます。
何故なら、幕府の政策に天皇が口出しするなど前代未聞のことだったからです。
当時の天皇と幕府の関係は・・・??
形の上では、天皇が将軍に国政を委任するというものでした。
実際、圧倒的に幕府が力を持っており、朝廷は抑えられているという感じでした。
天皇・朝廷が幕府に口を出すことはなかったのです。
その理由の一つが、天皇・公家は、幕府から経済的な支援を受けていました。
天皇の所領は禁裏御料と呼ばれ、3万石。
さらに、朝廷に仕える公家たちには合わせて7万石ほど・・・
つまり、幕府は朝廷に年間10万石を献上していました。
幕府からの支援を受け、孝明天皇は豪勢な生活をしていました。
幕府の支援を受けながら、実に優雅な暮らしを送る孝明天皇・・・
ひどく怖れていたのは、開国を迫る欧米諸国の存在です。
嘉永6年、アメリカからペリーが来航し、開港を要求します。
日本は激動の時を迎えます。
安政元年、アメリカの強硬な開国要求に、日米和親条約を締結・・・
箱館と下田の二港を開港しました。
さらに、イギリス、ロシアとも条約を結びます。
この時、孝明天皇は、朝廷がある関西地方の警備体制の強化を要望しながらも、条約締結に関しては承認します。
なぜなら、和親条約は友好をうたったもので貿易協定などを結ぶものではありませんでした。
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正式な交易・・・通商条約の締結を要求してきました。
さらに、アメリカ大統領からの親書を、直接江戸城で将軍と謁見し渡したいというのです。
幕府は、ハリスの要求を受け入れます。
将軍との謁見を許可し、通商条約締結へ向けての交渉に入ったのです。
この時、幕府ははなからアメリカと戦う気などありませんでした。
隣国である中国・清がイギリスとのアヘン戦争にやぶれ、不平等な通商条約を結ばされたうえ、香港の割譲を強いられるという惨状を知っていたからです。
欧米諸国と戦えば、清と同じ運命をたどる・・・
開国賛成派と、鎖国維持派・・・諸大名の意見は真っ二つに分かれ、合議を得るどころではありませんでした。
そこで、天皇からの勅許を得られれば、みな、アメリカとの条約締結を納得すると考え朝廷に老中を派遣します。
この時、京都御所に向かったのは、堀田正睦・・・孝明天皇を簡単に説得できるだろうと考えていたようですが・・・孝明天皇は幕府を驚かせます。
幕府が条約締結へと動いていると事前に聞いていた朝廷では、その対応が協議されました。
そこで、孝明天皇は自らの意見を表明します。
「アメリカの願い通りになってしまっては、天下の一大事の上、朕の代よりそのようなことになってしまったのでは後々まで恥となる」
だから、条約締結は承認できないと・・・!!
幕府の提案を承認しないなど、前代未聞・・・!!
幕府とうまくやっていきたい公家たちは、困惑しました。
天皇の御威光をそのまま幕府に伝えれば角が立つ・・・なんと返答すべきか・・・??
迷った挙句、公家たちは参内した老中・堀田正睦にこう告げました。
「徳川御三家以下、諸大名の本心を今一度聴取し、その報告を聞いたうえで改めて帝が判断を下される・・・!!」
開国に反対する大名を納得させるためにわざわざ京にまでやってきたのに、その大名の意見をもう一度聞いて来いと・・・??
堀田はこれを拒みます。
「アメリカと戦っても、勝ち目などありません
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理路整然と説明し、涙ながらに訴えました。
しかし、孝明天皇の心は変わりませんでした。
最後に堀田は、朝廷にこう迫ったといいます。
「アメリカがしびれを切らし切迫した場合は、戦か条約締結か、幕府が判断してもよろしいのでしょうか?」by堀田
これに対し孝明天皇は、
「アメリカが武力に訴えるならば、戦も致し方ない!!」by孝明天皇
あくまでも孝明天皇が望んでいたのは、今までの体制・・・鎖国体制の維持継続でした。
折り合いをつけるという方法を知らないアメリカの強引なやり方が、孝明天皇の”外国人に対する嫌悪感”に繋がったのです。
それが、攘夷につながった可能性があります。
頑なな天皇を前に、なすすべを失くした堀田は、勅許を得ぬまま江戸へと戻っていきました。
幕府は強硬手段に出ます。
指揮を執ったのは、大老・井伊直弼・・・
井伊は、諸藩の意見を聞くことも、孝明天皇の許可を得ることもなく、日米修好通商条約に調印(安政5年)。
これが、孝明天皇の逆鱗に触れました。
「絶体絶命の今、うかうか致してはおられぬ!!」by孝明天皇
天皇は、すぐに幕府に御趣意書を送り、猛烈に抗議!!
「この度の幕府の措置は、厳重に申せば勅書を無視したものであり、不信感を抱かせるものである」by孝明天皇
それでもまだ収まらない孝明天皇は、水戸藩に勅書を下します。
さらに、その内容を他の藩にも伝えるように命じました。
その中で天皇は、独断で日米修好通商条約を締結した幕府に、経緯の説明を求めること
さらに、外国人を打ち払う”攘夷”を推進すべく幕府を改革していくこと
を、強く求めました。
ただし、これは天皇の越権行為でした。
幕府は天皇と諸大名が直接やり取りすることを禁じていました。
それだけ、孝明天皇は幕府に対して怒っていたのです。
しかし、幕府の大老・井伊直弼は、攘夷にこだわる孝明天皇をまるで逆なでするかのように更なる強硬手段に出ます。
天皇や朝廷側につく尊王攘夷派を大量に処罰!!
吉田松陰や橋本佐内は死罪となりました。
世に言う安政の大獄です。
これを聞いた天皇は、再び激怒!!
扇子で関白の頭を執拗にたたいたと言われています。
どうして孝明天皇はそこまで攘夷にこだわったのでしょうか??
200年以上鎖国体制が続いていました。
急に開国しようとも気持ちがついていきませんでした。
当時は変化を嫌い、如何にして今を保つかが大事なことでした。
歴代の天皇が守ってきたものを、自分の代で変えることに抵抗があったのです。
将軍の職務は、外国人を制圧することにありました。
征夷大将軍の職務を果たしていないのでは・・・??
孝明天皇の勅許を得ずに日米修好通商条約を勝手に調印し、天皇を支持した尊王攘夷派の者たちを大量に処罰した江戸幕府の大老・井伊直弼・・・当然、その強引なやり方は多くの敵を生みました。
安政7年3月3日・・・江戸城桜田門の前で、井伊は暗殺されます。
襲撃の主犯は、尊王攘夷派の水戸藩士たちでdした。
これをきっかけに、諸大名の幕府の強引なやり方に反発・・・幕府の権威は急激に失墜していきます。
そして、こののち、孝明天皇は、図らずも維新という大きな渦に巻き込まれていくのです。
②妹・和宮
失墜した権威を取り戻すべく、幕府は朝廷と融和し、一体となる体制・・・公武合体を画策します。
その象徴として進められたのが、14代将軍・徳川家茂と孝明天皇の妹・和宮の結婚でした。
皇族が武家である将軍家へ嫁ぐなど、前代未聞のことでした。
この時、孝明天皇自身も公武合体を望んでいました。
しかし、迷っていました。
なぜなら、妹には婚約者・有栖川宮熾仁親王がいたからです。
そして、何より和宮が江戸で暮らすことを嫌がっていました。
宮中で育った和宮には、外国人たちが多く暮らす江戸は恐ろしい場所に映っていました。
妹の幸せを願った孝明天皇は、この縁談を却下・・・
しかし、幕府は食い下がります。
困った天皇は、信頼を置く公家・岩倉具視に助言を求めました。
すると岩倉は・・・
「幕府が攘夷の実行を約束するならば、降嫁をお許しになればよろしいのでは・・・」
そこで、その条件を幕府に突き付けると、
「10年以内に鎖国体制に戻す」
つまり、孝明天皇の望み通り、攘夷を決行すると約束してきたのです。
問題は頑なにこの結婚を拒む和宮でした。
幕府から攘夷の約束まで取り付けた孝明天皇は、いまさら破談にはできません。
そこで、和宮の代わりに生れたばかりの娘・寿万宮を嫁がせようと考えます。
すると・・・それを知った和宮は、自分が江戸へ行かなければ誰かが犠牲になると、兄のため、朝廷のため、将軍家に嫁ぐ決意を固めたのです。
その代わりに和宮は、
・大奥に入っても御所の流儀を通すこと
・御所の女官を御側付きにすること
などの条件を出しました。
孝明天皇は、苦渋の決断を下した妹のため、幕府に和宮の要求を順守することを厳しく命じたうえで、江戸へと送り出しました。
これによって、孝明天皇は幕府に大きな貸しを作りました。
降嫁の交換条件として出した”攘夷”を幕府はいつ決行するのか??
幕府に対し、有利に立った孝明天皇は、人事にまで介入します。
”老中を決める際、事前に天皇に伺いをたてること”を幕府に認めさせました。
攘夷に反対する人物を、幕府の首脳陣に加えさせないためでした。
さらに孝明天皇は、悲願だった攘夷実現に動き出し、それが、”尊王攘夷”という大きなうねりを生み出すことになります。
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③尊王攘夷派
天皇がいる京都に続々と集まる尊王攘夷派の志士たち・・・
その中心となったのが、桂小五郎久坂玄瑞らを中心とする長州藩でした。
朝廷内の公家たちに近づき、その多くを味方につけて行ったのです。
そんな中、文久3年3月、将軍・徳川家茂が上洛・・・
将軍の上洛は、3代将軍徳川家光以来およそ230年ぶりのことでした。
孝明天皇が、将軍・家茂を呼びつけた形になります。
幕府は、「文久3年5月10日に攘夷を決行する」ことを約束させられます。
孝明天皇が、将軍・家茂に約束させた攘夷決行日である5月10日・・・尊王攘夷を掲げる長州藩が動き出します。
下関沖を航行中のアメリカ商船を砲撃!!
ついに、攘夷を実行に移したのです。
さらに、長州藩は、当時めったに行われなかった天皇の行幸を勝手に計画。
①神武天皇陵・春日大社を参拝
②孝明天皇の指揮で譲位を行うべく軍議を開く
長州藩と尊王攘夷派の志士たちの行動は、日に日に過激さを増していきます。
ところが・・・文久3年8月18日、京都・御所・・・クーデターが勃発します。
長州藩とそれに味方する”尊王攘夷派”の公家が京都から追放されます。
八月十八日の政変・・・クーデターを実行したのは、公武合体派の会津藩と薩摩藩でした。
そして、彼らに命じたのは、孝明天皇だったのです。
どうして味方である尊王攘夷派を追放したのでしょうか??
はじめのうちは、尊王攘夷派は、孝明天皇の意見を代替えする存在でした。
しかし、いつしか孝明天皇の意向を無視して、ことを進めていくようになったのです。
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尊王攘夷派の中には、幕府を倒し、王政復古を目論む者もいました。
孝明天皇はあくまでも幕府と共にやっていきたい・・・幕府と共に国を治める公武合体だったのです。
しかし、尊王攘夷派を追放し誰がために、孝明天皇自身の運命が大きく変わっていきます。
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