黒船来航・・・それは、2世紀半続いた江戸幕府の終焉の始まり・・・
外圧に、攘夷を叫ぶ声、幕府の権威は低下していきました。
そんな時代に幕府をしょって立つことになったのが、14代将軍・徳川家茂です。
家茂が将軍だったのは、8年9カ月・・・そのすべてを、幕末の騒乱を治めるために奔走しました。
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14代将軍・徳川家茂誕生。
黒船の来航により、長く続いた太平の世は終わります。
ペリーは開国を要求、そのわずか19日後、危機に直面した幕府に追い打ちをかけるように、12代将軍徳川家慶が死去。
13代将軍に就任したのは、家慶の子・家定でした。
しかし、生まれつき病弱の家定に、世継ぎの誕生が望めなかったことから、早々に次の将軍を誰にするか、将軍継承問題が持ち上がります。
候補は2人・・・御三家・水戸藩の出身で御三卿・一橋家を継いだ一橋慶喜と、御三家・紀州藩主の徳川慶福(のちの家茂)です。
慶喜を擁立した一橋派を占めるのは、薩摩藩主・島津斉彬や土佐藩主・山内容堂らの外様大名、将軍選びには能力を重視し、譜代大名以外の有力大名も幕政に参加すべしという開明派でした。
対して慶福を担ぎだしたのは、譜代大名の彦根藩主・井伊直弼や会津藩主・松平容保らの南紀派・・・今までの幕藩体制を維持しようとする保守派でした。
この将軍争いで、当初は慶喜がリードしていました。
慶喜はすでに元服していて慶福より年長で、さらに、非常に優秀で、英名の誉れ高い青年でした。
慶福はまだ13歳・・・血筋は近いが、難しい政局を乗り切るには慶喜の方がいいのでは??と思われていました。
しかし、将軍の光景となったのは、劣勢とみられていた慶福でした。
どうして将軍になれたのでしょうか??
ひとつには、慶喜の足を引っ張った人物・・・慶喜の父で水戸藩主の徳川斉昭です。
斉昭は、かつて大奥の女中を襲って妊娠させ、大奥から嫌われていました。
その為、その子である慶喜が将軍になることに、大奥が強く反発したのです。
当時、大奥の力は強く、将軍後継選びにも及びました。
さらに、慶福を押す南紀派の井伊直弼が大老に就任。
形勢は逆転・・・直弼の強権によって、慶福は将軍後継となるのです。
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1858年、13代将軍・徳川家定が死去。
それに伴い、慶福は名を家茂と改め、14代将軍に就任します。
この時まだ13歳でした。
家茂は、1846年5月24日、11代紀州藩主・徳川斉順の嫡男として江戸赤坂の紀州藩邸で生まれます。
幼名は菊千代・・・父は、菊千代が生まれる前に亡くなってしまったため、誕生後、12歳紀州藩主となっていた叔父・斉疆の養子となりました。
ところが、斉疆も、30歳の若さで死去・・・
1849年、菊千代はわずか4歳で13代紀州藩主に就任しました。
そんな菊千代には心強い味方がいました。
波江という美しく聡明な教育係です。
家茂の誕生から教育係を務め、しっかりと手堅く、相応の人物でした。
波江の教育のおかげで、家茂はリーダーとしての資質を備えて行きました。
6歳になった菊千代は、元服の儀に先立って、12代将軍・家慶に拝謁することになりました。
「今日は非常に大切な日ですから、お泣きにならないよう、大人しくしていなければなりませんよ」by波江
しかし、重々しい雰囲気で不安になり号泣・・・
「好きなものでなだめすかし 遊ばせよ」by家慶
そうして座敷に持ってこられたのは小鳥・・・
菊千代は、鳥や虫が大好きで、この時もすぐに泣き止み、無事将軍と対面することができました。
屋敷に帰ってきた菊千代は、波江の顔を見るなり
「波江、泣いたよ!」by菊千代
約束を破って泣いてしまったことをそのまま報告・・・
誠実な少年へと成長していきます。
菊千代は、家慶から慶の字を賜り、13代紀州藩主・徳川慶福となります。
そして藩主として恥じないよう、鍛錬をかさねて行きました。
毎日、朝は手習いのために筆をとり、その後、論語や孟子などを素読・・・剣術や柔術の稽古も怠りませんでした。
まさに文武両道・・・
1858年、慶福は江戸幕府14代将軍・徳川家茂となります。
その真面目さ、聡明さは変わることがありませんでした。
そんな家茂は、多くの幕臣から慕われます。
しかし、その優しさが動乱の時代の家茂を苦しめます。
家茂は、自分を将軍にしてくれた大老・井伊直弼に絶大な信頼を寄せます。
しかし・・・幕府の実権を握る直弼が暴走して開国路線を強行・・・!!
朝廷の勅許をえることなく独断でアメリカと日米修好通商条約を結んでしまいます。
さらに、安政の大獄を行い、幕府に批判的な勢力を弾圧粛清していきました。
直弼の横暴を良しとしない水戸藩士たち・・・尊王攘夷派によって、大事件・・・桜田門外の変!!
1860年3月3日・・・水戸浪士たちが登城中の井伊直弼を江戸城桜田門前で暗殺!!
直弼の死を知った家茂は涙し、悲嘆にくれたといいます。
将軍継承問題で勝利した南紀派の力が一気に弱まり、対立していた一橋派が息を吹き返します。
1862年、新たに将軍後見職に就任したのは、家茂と将軍を争った一橋慶喜でした。
幕府の実権は、一橋派が握っていくことになります。
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1860年、家茂の婚礼の儀が執り行われます。
将軍家に輿入れするため、京の都から江戸へ向かったその女性こそ・・・
時の孝明天皇の妹・皇女和宮でした。
アメリカの強硬な姿勢に屈し開国を決めた弱腰外交への批判、そして、大老・井伊直弼が白昼暗殺されるなど幕府の権威は急速に衰えていきました。
焦った幕府は、将軍・徳川家茂と皇女との婚礼を画策します。
天皇家と姻戚関係を結び、公武合体を行うことで、緊張を緩和し幕府の権威回復を働こうと目論んだのです。
この時、家茂と年のころが釣り合うと選ばれたのが、時の孝明天皇の妹・皇女和宮でした。
しかし、宮中以外の世界を知らない皇女には、江戸は恐ろしいところと死か思えませんでした。
「鬼のような異人が集まるところに違いない」by和宮
和宮は、当初この婚礼を強く拒みました。
しかし、
”惜しまじな
君と民とのためならば
身は武蔵野の
梅雨と消ゆとも”
兄・孝明天皇の為、民衆のためとこの婚礼を受けることになります。
1861年、和宮はお輿入れのために京都を発ちます。
道中の警備を入れると、総勢1万人以上、50kmにも及ぶ行列になったといいます。
そして、和宮の江戸到着から3か月後・・・
1962年2月11日、将軍家茂と和宮との婚儀が行われました。
この時二人は同じ17歳。
若い二人に混迷する幕府の行く末が託されたのです。
皇女から御台所となった和宮の住まいは、江戸城大奥!!
200年以上にわたる伝統と、厳しいしきたりによってつくられた女の園でした。
京の都とは異なる大奥での暮らし・・・不安と孤独の中で、和宮の心は固く閉じていきます。
しかし・・・やがて、和宮は心を開いていきます。
家茂の優しさから、信頼関係が生まれていったのです。
家茂は、和宮を大事にすることによって、幕府と朝廷の関係が良くなることを望んでいました。
かなり気を遣って大切にし、気にかけていたのです。
夫・家茂の優しく誠実な人柄が、和宮の心を開かせたのです。
229年ぶりの上洛・・・
時の孝明天皇は、異国人が日本に入ることを嫌い、外国勢力を打ち払う攘夷を望みます。
これに呼応し、天皇のいる京の都には、尊王攘夷派の志士たちが、全国から集結していました。
中心となったのは、桂小五郎・高杉晋作らのいた長州藩です。
朝廷内の公家たちに近づき、その多くを味方につけていきます。
そして、過激化した長州藩士とそれに呼応する公家たちは、天誅と称して、反対派への脅迫行為と暗殺を繰り返していました。
これに対し、幕府は会津藩主・松平容保を京都守護職に任じ、配下に浪士集団である新選組を置くなど、治安維持に努めます。
そんな中、1863年3月、14代将軍・家茂が上洛するのです。
江戸幕府将軍の上洛は、3代将軍家茂以来229年ぶりのことでした。
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当時の京都は、尊王攘夷を掲げる過激派の志士たちが暴れ回っていました。
将軍がいくことによって、幕府の力を京都に及ぼそうとしたのです。
それは、公武合体をより確かなものにするためでした。
孝明天皇と対面した家茂・・・2人の間である約束が交わされます。
「攘夷」実行が、天皇及び朝廷の強い意向でした。
孝明天皇の周りの尊王攘夷の過激派を納得させるためには、幕府が戦闘に立って外国船を打ち払うこと・・・それが、孝明天皇に対する忠誠だと考えました。
家茂は、現実的に外国船打ち払いは不可能だとわかっていました。
しかし、孝明天皇に対し、5月10日に譲位を実行すると約束するのです。
妻・和宮の兄でもある孝明天皇の御心を無下にはできない・・・
心優しき将軍は無理を承知の約束をしますが、これが家茂をさらに追い詰めていきます。
家茂が譲位決行日とした5月10日、幕府は動きませんでしたが、長州藩がとんでもない行動に出ます。
なかなか攘夷を行動に移さない幕府に業を煮やし、下関を航行中のアメリカ商船などに向かっていきなり大砲を放ったのです。
さらに、家茂が江戸に帰ったのち、京の都でも事件が起きます。
際限なく過激化する長州藩と尊王攘夷派の公家たちが、孝明天皇の不興を買い京都から追放されたのです。
世にいう、八月十八日の政変です。
その翌年の1864年1月・・・将軍家茂は、二度目の上洛を果たします。
参内した家茂は、孝明天皇からお言葉を賜ります。
「汝は朕が赤子
朕 汝を愛すること子の如し
汝 朕を親しむこと父の如くせよ
その親睦の厚薄
天下挽回の成否に関係す」by孝明天皇
親子のように互いに情愛をもって親しむことが、天下泰平へとつながると・・・
それは、公武合体を強固なものにしていこうということでした。
さらに、
「無謀な攘夷は望むところではない」
京都で家茂の心を癒してくれたものは、他にもありました。
和宮からの手紙でした。
しかし、時代のうねりは早く、激しく、家茂を巻き込んでいきます。
1864年7月19日、京の都を追放された長州藩が、御所周辺で武力蜂起!!
御所に攻め込んできました。
禁門の変です。
この暴挙に、孝明天皇は激怒!!
1865年9月、孝明天皇は長州征討の勅許を下します。
第1次長州征討・・・大坂にいた将軍・家茂が、幕府軍総大将として指揮を執りました。
しかし・・・なんと、混乱のさ中、朝廷に将軍の辞職を願い出るのです。
家茂はどうして将軍の辞職を望んだのでしょうか?
当時、国内の混乱に加え、諸外国からの圧力も強硬になっていく一方でした。
イギリス・フランス・オランダが、兵庫(神戸)の開港と、通商条約の勅許を強硬に求めていました。
幕府は兵庫開港をやむなしと考えていましたが、将軍後見職・一橋慶喜が開港に反対していました。
慶喜は江戸幕府と別の権力を京都で構築していました。
一会桑・・・一橋家・会津藩・桑名藩のことで、彼らは朝廷と強く結びついていました。
江戸幕府は、朝廷をコントロールしようと考えていましたが、「一会桑」は、朝廷の意向を第一に考えていました。
それが、大きな亀裂となっていたのです。
家茂は、幕府と一会桑の対立に板挟みとなり、有効な手段を打てずにいました。
事態は、家茂のキャパシティを越えてしまっていたのです。
将軍職を、慶喜に譲ろうとしていました。
しかし、慶喜はこの一番の難局に将軍となって火中の栗を拾う必要はないと考えていたのです。
家茂は、慶喜の説得を受けて辞意を撤回し、将軍職にとどまります。
不安なご時世に、庶民が歌い踊る「ええじゃないか」がはやる中、決してええじゃないかと言えない将軍・家茂はますます追い詰められていきます。
第1次長州征討の際、幕府への恭順派が権勢を握ったことで長州藩は戦わずして降伏。
しかし、これに我慢できなかったのが、長州藩の尊王攘夷派の中心にいた高杉晋作でした。
高杉は、町人や農民などの民衆で組織した奇兵隊を結成、武装蜂起し、再び幕府に反旗を翻しました。
これに対し、1866年再び長州征討の勅許が出され、幕府は15万人の兵を挙げて鎮圧に乗り出します。
第2次長州征討の始まりでした。
三度目の上洛をしていた将軍・家茂は、大坂城で布陣。
しかし、前とは状況が変わっていました。
長州藩と密か同盟を組んでいた薩摩藩が出兵を拒否します。
足並みが乱れた幕府軍は、敗戦を繰り返します。
そんな中、家茂が体調を崩します。
喉や胃腸の障害をきたし、やがて足が腫れだしました。
脚気です。
墓所の発掘調査によって、家茂には虫歯が30あったことがわかっています。
当分は、脚気の原因であるビタミンB1の消費を加速させます。
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孝明天皇が、自らの御典医を家茂のもとに送ります。
懸命の治療が行われましたが、その甲斐もなく、1866年7月20日、14代将軍・徳川家茂死去。
大坂城で息を引き取りました。
将軍在位・8年9カ月、まだ21歳でした。
激動の時代に将軍となった徳川家茂・・・後世の評価は??
幅広い人たちの信頼を得て、幕府の内紛や事件を未然に防いでいます。
確執が表に出ないような安定した政治を行えた人でした。
バランスがよく、人との信頼関係も上手に築けたようです。
家茂のような調整型の人との信頼関係を作る政治家には、もっと時間が必要でした。
家茂の亡骸は、和宮の待つ江戸城に運ばれました。
一緒に届けられたのが西陣織の反物・・・和宮が家茂におねだりしていたもので、家茂は具合が悪い中、忘れずに買っていてくれたのです。
悲しみに暮れる和宮が詠んだ歌・・・
空蝉の 唐織衣 なにかせむ
綾も錦も 君ありてこそ
家茂亡き後、和宮は京の都に戻ることなく、徳川の女として生きます。
そして、1877年8月に亡くなりました。
その遺言により、2人は今、寄り添うように眠っています。
いつまでの仲睦まじく・・・
家茂の後、将軍となった第15代将軍徳川慶喜は、1867年に大政奉還。
江戸幕府は終焉を迎えました。
しかし、混迷を迎える幕末・・・
大きく揺れる日本を、崩れゆく江戸幕府を、必死で支えようと紛争開いていたのは間違いない将軍・家茂でした。
激動の世を駆け抜けた将軍、波乱に満ちた21年の生涯でした。
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