日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:川崎尚之助

川崎尚之助と八重―一途に生きた男の生涯

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あ~なんだか夏休みが終わったのでバタバタして・・・なんだか更新も遅れ気味・・・

もう明治3年・・・新島襄が居候することとなった夏・・・
襄は八重にプロポーズしていました。。。

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「眠れない・・・」

そこには、京都にキリスト教の学校を作ろうと・・・奔走する襄・・・ではなく、恋に悩む襄がいました。
気取ったところのない襄に、覚馬もまんざらではなさそうですが・・・

女紅場にやって来た時尾。。。
その傍らには、斉藤一・・・じゃなかった。
藤田五郎がいました。

一方、西洋の学問を取り入れることに賛成の槇村も・・・
耶蘇の先生が学校で教えることに反対のお寺の嘆願書に。。。態度を一変、手のひらを返したのでした。

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大殿・松平容保が上 仲人、佐川官兵衛と山川浩、倉沢平治右衛門が下仲人を務めました。
この 時、斉藤一は時尾の母方の藤田の姓を名乗ることとなりました。
官兵衛の引き立てで警察官となって・・・新選組の血塗られた過去を、捨てたかったのかなあ・・・
ま・・・あんまり斉藤一のことはよく分からないのです。。。
新選組で有名なのに、山崎烝と藤堂平助と斉藤一は謎ですね・・・

東京の鳥越では・・・
肺を患っている尚之助がいました。
裁判で東京を離れることもできず・・・

「しっかりしろ!!
 まだ書くことがある・・・!!!」

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「八重さん・・・!!」
力尽きる尚之助なのでした。。。

「尚さんが死んだ・・・」
覚馬に知らされた八重。。。
病院を抜け出してまでやり遂げたかったこと・・・
それは、「会津戦記」を仕上げることでした。
守護職拝命から会津に何が起きたのか・・・
みな書かれてありました。
しかし、籠城戦の途中で尽きていました。。。

「私はまた・・・置いてかれた・・・」

宣教師先生との勉強にも身の入らない八重・・・

「ピクニックに行きましょう。。。野駆けですよ。。。」
そうか・・・野駆けっていうのね。

場所は、三郎の亡くなった鳥羽街道の戦地・富ノ森へ・・・。

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戦いで亡くなった人と向き合わなくてはいけません。。。

私ができるのは、悲しむあなたの傍にいることです。。。

そして・・・無くなった人たちの声に、耳を傾けるように・・・

「亡くなった人たちはもうどこへも行きません。あなたのそばにいてあなたを支えてくれます
 あなたが幸せであるように・・・
 強くあるように・・・」

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八重・・・
尚之助のことを忘れられる・・・???


襄と2人で・・・

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襄の作ったサンドイッチを食べるふたり。。。
なんだか八重の心も溶けてきたかも・・・
尚之助にしても、襄にしても、昔の男の人にしては、とっても優しいですね。
それはきっと、八重がひきつけているんでしょうね。。。

ま、アメリカ帰りの耶蘇教の宣教師という変わり者の襄・・・
今でこそレディーファーストないい男に映るけれども当時は変人だったからなあ。。。
襄と違って、日本男児は厳格で台所にも入らないから。。。
いやいや、平成になっても、うちの旦那様、お湯ひとつ沸かせませんが。。。

学校設立に賛成だった槇村も豹変。。。
覚馬に言い放ちました。
「そげいなこと会津のもんに話しても仕方なかろう。あんたは所詮日の目を見ん側の人間じゃ!
坊主と宣教師のことが解決せんうちは学校設立は認められん!!」


そして八重は・・・
再度襄からプロポーズ。。。

「私は・・・尚之助様のことは忘れることは出来ねえから。。。」

「いいのです。それで。。。
 むしろ忘れないでいてほしい。。。
 私は川崎さんに喜んでいただける夫婦となりたいのです。
 あなたとなら・・・素晴らしいホームが築ける。。。」

「はい。」

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襄と一緒にホームを作ることを決めた八重・・・。
八重の前に、新しい景色が広がっていました。
と、ナレーションしていましたが。。。

これからも、前途多難な毎日が待っていますよ。

あ~このプロポーズ・・・「めぞん一刻」を想い出しちゃいました。

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このシーンではなく・・・

前夫の惣一郎さんに報告に行くこのシーン・・・。
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思わず、「いやいや、五代君は、宣教師みたいにできた人じゃないわ・・・」
なんて思ったんですけど、そう言えば、保育士さんです。
あれからもう25年、五代君、良い園長先生になったかしら???

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明治6年太陽暦を導入・・・千年の古都にも文明開化の波が押し寄せてきていました。

女紅場で働くことになった八重。
英語を学びながらテキパキと仕事をこなしています。
あれから1年も経っていたのでした。。。

すっごく前向きになった八重さん。ちょっと違和感ありかも・・・???

そして今回は、ほんとうは資料もないので多分創作の”尚之助様との再会”です。

覚馬の発案、槇村の決済、明石の実行・・・京都の街が・・・近代かがどんどん出来上がっていきます。
東京では征韓論論争が・・・!!!

土佐・板垣退助、佐賀・江藤新平らが出兵覚悟を決めますが・・・岩倉使節団はこれに反対、対立していきました。
そして・・・その狭間に西郷がいたのでした。。。


ま・・・国内に目を向けているか、国外に目を向けているかの違いね。。。
当時の士族の怒りが爆発するのは目に見えていて・・・
西郷さんはそれに対して・・・大久保や木戸が楽しく外遊していた時に、あるときは圧力かけて・・・なだめて・・・頑張ってきているからなあ・・・

やっぱり大久保利通は根っからの官僚で、西郷隆盛は根っからの武士なんでしょうね。。。
そんな西郷さんがやっぱり大人気なのが解ります。
だって、大久保利通は、死んだときに財産は家しかなく・・・つまり、私腹を肥やすことなく日本の為に頑張ったのに、薩摩人にも恩人・西郷を討った男として嫌がられてますから。。。
だって、貧乏だった大久保利通は、西郷隆盛の家でごはんよばれてたのよ・・・。
そんな義理も人情もない・・・となるのでしょうが・・・
西南戦争で西郷を討つときには、2人とも腹の中で了解していたのかも???と、少年漫画的に思ってしまいます。
他人の入るすきのない部分があったんじゃないかなあ。。。

八重は、女紅場の生徒が増えたので、お金をたくさんほしいと槇村と折衝中・・・
相変わらず勇ましい八重さんです。
槇村は、八重がとっても苦手なようで、逃げちゃいました。
って、なんかギャグになっちゃってます??このドラマ。。。
それに・・・アットホームドラマにもなっちゃって・・・1年でこんなふうになるか???
とも思うけれども、ま、それはおいといて・・・

そんな覚馬の元に・・・尚之助の消息が・・・
このドラマでは、離縁したことになっているのですが、そのように会津藩に申請したという証拠もなく・・・
死別って話もあります。

藩閥争いに巻き込まれた槇村・・・司法省へ槇村を助けるために東京にやって来た覚馬と八重。。。
蒸気機関車にも乗って、東京の文明開化を目の当たりにします。
壊された荒れ地に新しい文明を作る・・・そんな理想を持っている槇村の為に、幕府に直談判です。

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司法省にたいして引き下がる・・・それが条件だと言われてしまいます。理由は長州の面目。。。

正当な政をするために必要なのは・・・長州でも薩摩でもない・・・自ら藩をぶっ潰しておきながら未だに藩にしがみついている・・・そんな政府の要人に喝・・・!!!

しかし・・・相変わらず、藩にこだわり続けている人たちがそこにはいました。。。
失望してしまった西郷は参議を離職・・・板垣・江藤もそれに続くのでした。
江藤の失脚により京都に返してもらえることになった槇村。。。

尚之助の居場所を勝から聞きます。
3000両の裁判を起こされていることを知った八重。。。
どうしてそんなことになってしまったのか???
国の中心にいてもおかしくはない人物だったのに・・・!!!

会いに行く八重。。。
そんな寺子屋な長屋に居たのは尚之介でした。。。

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「がっかりさせないでください。あなたには京都で生徒達を助ける舎監の仕事があるでしょう

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わたしの妻は鉄砲を撃つ女子です。わたしの好きな妻は夫の前を歩く凛々しい妻です。
八重さんの夫になれたことが、わたしの人生の誇りです。
もう二度とここに来てはいけません。あなたは新しい時を生きる人だ・・行きなさい。」

あ・・・覚馬のことといい・・・なんかご都合主義な感じがしてきちゃいました。

主人公やその周りの人たちを正義にする???
だったら来年の大河ドラマ「黒田官兵衛」はどうなるの???
汚いところが魅力でもあるのに・・・!!!

江戸時代から明治にかけて・・・
離婚は当たり前なところがありました。
特に、武士階級の離婚率は10%、再婚率は50%もありました。
当時は女性も労働者。私のような専業主婦なんていないので、かなりの発言権を持っていて、武士は実家からの後ろ盾なんかもあって強かったとか・・・。
おまけに離縁するとなると家財道具は一式妻のもの。
夫は身ぐるみはがされて無一文になってしまうので、奥さんが怖かったとか???
おまけに当時は今みたいに8時間~12時間労働じゃなくって、離婚をしても定食屋で午前中だけ働いたら、子供たちと生きていけるほどの経済力になったといいます。
だから、離婚できたのよ。
ただ、再婚するためには「三行半」が必要だったから、夫にはその義務があったってだけなんだけどね。。。
八重夫妻がそうだったとは言いませんが、そういう風潮があったのです。

だから、覚馬にしても、八重にしても、離縁は普通のことで、美談にする必要もないんじゃないかなあ・・・
この時間の間・・・
「だって、新島襄と再婚するじゃん・・・」と、ず~っと思って観ていました。
やっぱりこの展開は不自然ですよね。。。

ほら・・・もう、新島襄が出て来ちゃったじゃないの???

会津城の籠城を1か月も放送するなら、ここんところを丁寧に書いて欲しかったなあ・・・
なんて思いますが、尚之助の事は、ほとんど残っていないので、書くの難しかったでしょうね。。。

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会津藩 斗南へ―誇り高き魂の軌跡

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あ~お盆と夏祭りでバタバタしてなかなかじっくり見れません・・・

鶴ヶ城開城ののち、会津はお家再興の許しを得ましたが・・・領地は北辺・陸奥の国・・・23万石は3万石と減らされました。
大蔵たちはこの地を斗南とし、交易を中心とした国を作ることを決意します。

米沢の八重たちは、行商などでどうにか暮らしていました。。。

そんな八重に、お手紙が・・・
そのお手紙は、尚之助からのものでした。

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良い知らせ???と思ったその手紙は・・・離縁状でした。。。
当時は男性に三行半を言い渡されれば別れるしかなかった時代。
八重にはどうすることもできません。。。
何も言わないまま。。。
何でも一人で決める尚之助を勝手とする八重。。。甘んじて受け入れるようです。。。

その頃斗南では、寒さと飢えで多くの死者が出ていました。。。
大蔵は名を浩と改名し、藩の舵取りに当たっていましたが。。。3万石と言われても・・・実のところは7000石・・・。
まさに、藩ごと島流しにあったようなものでした。

辛抱してたら死んじまう・・・

生きてなお苦しみを味わうことになった会津藩士たち・・・
一縷の望みは北海道で奔走していた尚之助の米の買い付けでした。
しかし、尚之助は詐欺事件に巻き込まれていたのです。。。

行き倒れていたのはユキ。。。
斉藤一が家に連れて帰ると時尾がいました。
連れて来てくれた人が斉藤一だと知ったユキは・・・
新選組が人斬り集団であること、やり過ぎたために長州が会津を憎むのだ・・・と、

会津の為に命がけで最後まで戦ってくれた斉藤一たち。。。
みな生きるのがつらくて・・・恨みをぶつける相手を探してしまうのです。。。

「戦の後に、もっとつらい目に遭うなんて・・・」

東京では・・・駆け足で近代化が行われていました。

新政府もお金がないようです。。。
廃藩置県を論じています。。。

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武士が無くなってしまうと、200万の武士が失業してしまう。。。
それは、また戦が起こるかもしれない・・・武家の世に幕を引く。。。
それは、腹を切るかも知れない。。。覚悟が必要でした。


一方、尚之助の米の買い付けは、訴訟と決まってしまいます。
米の代金が工面できなかったのは、仲買人に騙されたためでしたが、3000両が用意できない・・・
斗南藩としては。。。助けようにも金がない。。。

尚之助は取り調べで、

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「藩命ではない・・・これはすべて、これはすべて私の一存で執り行ったことでございます。。。」

斗南の為にやった米の買い付け。。。
しかし無情にも山川は
「あずかり知らぬ」と返答します。

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3000両の借財を背負ったら、斗南は間違いなく野垂れ死にする。。。

自ら鬼となり、斗南を守ろうとする山川浩がそこにはいました。
そう、その借財を背負ったための離縁状と言われています。


遂に廃藩置県が行われます。斗南藩は、わずか2年でした。
藩がなくなる・・・武士は・・・殿はどうなるのでしょう???
そして・・・薩長への恨みも何処へ。。。。。


そんな不安の中、ひとりの若者が山本家へ・・・手紙を持ってやって来ました。
覚馬の使いでやってきたのでした。

消息不明だった覚馬。。。生きていたのです!!!

これから京都府に出仕することになります。
みんなを都に迎えたい・・・と思っているようです。
しかし、覚馬は時枝の間に子を儲けていました。。。

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心境複雑なうら。。。

山川浩は東京へと行くことに・・・東京に行ったみんなの身がたつ様に・・・
散り散りとなる会津藩士たち。。。

その時梶原平馬は・・・二葉と離縁するのでした。
山川家に戻って二葉と寅次郎を東京へと頼む平馬。。。

「別れるのはいやでごぜえます。。。
 私は・・・梶原平馬さまの妻にごぜえます。。。」

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「無理言うな・・・俺はぬけがらだ・・・
 東京でやり直す気力が俺にはねえ・・・」

梶原平馬は会津戦争当時の立場は若いのに家老。
最後に藩の責任を負って切腹した家老の萱野権兵衛に、その命を伝えたのがこの平馬でした。

そして容保が、鳥取藩江戸屋敷に幽閉されたとき随行したのも平馬でした。

おもだった家老たちが戦死していった中、生き残って代表して責任をとったのが萱野権兵衛。
一方、生きて「その後」の責任を負う立場だったのが、梶原平馬です。

亡くなった萱野と、生きて地獄を歩んだ梶原・・・
本当に、もう、燃え尽きてしまったのかもしれません。。。


うらは、京都には行けないという。。。

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身を切る思い出みねを手放すのでした。。。
うらは会津へ、山本一家は京都へと向かうのでした。。。
京都では・・・身なりもきちんとした京女。。。
若い女性・時枝が待っていました。



勝手の違う家で・・・若くてきれいな女性が・・・
生きていた覚馬。。。しかしその眼は・・・・・見えなくなっていたのです。。。

探すことも迎えに行くこともできなかったと覚馬。。。

「すまなかった。。。」

「生きててくれて良かった・・・」

あ~やっぱり肉親か・・・???
って感じのする終わり方でした。


この回は、3組の夫婦の「離縁のわけ」を書いたわけですが。。。
やっぱり覚馬が納得できませんか???

女の身・・・嫁の立場からすると、うらさん可哀想です。。。
やっぱり、嫁は嫁!!
って感じがプンプンしちゃって。。。
尚之助はあげあげ
平馬も苦労したんだね~と、納得の離縁です。。。
実際、二葉は明治10年ごろには東京女子師範で教えていたと言われています。
彼女もエリート山川の血が流れています。
埋もれさすには惜しい賢い人だったのでしょう。。。

それなのに覚馬ですよ。。。

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感想(2件)

アメリカ、マサチューセッツ州の教会にいるのは、オダギリジョー・・・いえいえ、新島襄です。


日本では・・・1869年・・・会津戦争から半年が過ぎ。。。
八重は、米沢城下で反物を売っていました。

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時がたち、藩士たちは謹慎していた猪苗代から東京へ移送されていました。

米沢藩士の内藤新一郎の申し出で、離れに身を寄せていた八重は、反物を売り歩いて細々と家計を繋いでいたのです。
しかし、尚之助の行方はまだ知れず・・・。

大蔵たちの助命嘆願により、大殿たちは死一等を減じられ・・・
新政府は代わりに首謀者の首を差し出すように命じました。

そして・・・それは、萱野権兵衛に。。。

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大変なとばっちりです。
本当は、首謀者3人の首を差し出せ・・・とのことでしたが。。。
この時すでに、神保内蔵助と田中土佐は切腹していたので、あと一人・・・本当は、上からいくと西郷頼母・・・となるところ、行方知れずだったので、次席の萱野権兵衛になってしまいました。
これには新政府軍も、とっても可哀想・・・と思ったみたいで・・・
この件ですべて勘弁してくれたみたいです。。。

大殿からの親書には・・・
「そなたの忠義・・・終生忘れぬ・・・」
照姫様からは。。。
「夢うつつ 思いも別かず 惜しむぞよ まことある名は 世に残れども」

「ただ一つ無念なのは、会津が逆賊の汚名を晴らす日を見届けずに死ぬことだ・・・
 さらばだ・・・」
平馬と大蔵にそう言い残して・・・処刑されるのでした。


同じころ箱館の五稜郭では、旧幕府軍は奥羽越列藩同盟の生き残りと共に激しい戦いに中にいました。
その中には、土方歳三も・・・

しかし、萱野の処刑の日と同じくして降伏。。。
鳥羽伏見からおよそ1年半にわたった戊辰戦争は、これをもってついに終結したのでした。

その箱館に西郷頼母がいました。
「松平容保公のかわりに首を討たれるのは某の役目でござった・・・
 萱野権兵衛殿ひとりに責めを負わせてしまった・・・」

泥水をすする覚悟で敵陣に下る頼母。
「わしは生きる。。。 
 千恵・・・わしはいきっぞ・・・
 わしらの会津を踏み潰してった奴らが、どんな世の中つくんのか、この目で見届けてやる・・・!!!」

そして・・・八重もまた泥水をすすって生きる・・・
世間からは、会津にはそんな目が向けられていました。
しかし、どんなに誹られようとも、侮辱されようとも・・・恥を忍んで生きるそんな八重がいました。

「今は生きていくことが戦だ!!!
 生きていればいつかきっと会津に帰れる。。。
 それを支えに生きていくべ。。。!!」

そんな苦労の中、会津藩士にはお家存続の許しが出たのでした。
しかし、与えられた地は・・・
会津ではなく、陸奥の国・下北の3万石。。。でした。
会津でないことに承服しかねる藩士たち。。。
23万石をたった3万石・・・島流しではねえか!!!

「新しい藩名を”斗南”とする!!」

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意味は、北斗星より南。
転じて、天下。斗南の一人《「唐書」 狄仁傑伝から》天下第一の人。天下に並ぶ者のない人。のことです。

最北の地も帝の領地・・・我らは朝敵ではなく、帝の民であるとの意味だそうです。
”斗”とは・・・戦うという字。。。
我らは会津武士。。。
戦い続けていつの日か故郷の土地と会津の名を奪い返す!!!」

富国強兵をして、再び立ち上がるために・・・!!!

大蔵は、家名再興を受けて藩筆頭の第参事に就任します。
平馬は戦の真の首謀者は自分であったと・・・役職を退くことを決めていて。。。
藩を率いることを大蔵に託したのでした。

山川健次郎は、平馬の命で脱走し・・・
長州の奥平謙輔の元へ書生として預けられていました。

健次郎は死んだ者たちの想いを両肩に背負って・・・
会津を捨てて生きることを決意したのです。

「命がけで学べ!!
 お家の為に!!!」

その年の秋・・・大蔵が八重を訪ねてやって来ました。
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「会津の再興がかないやした。」

尚之助は東京にいるらしく・・・その後、斗南に来るらしい。。。

「八重さん。。。 
 斗南に来ねえか???
 ここより厳しい暮らしになっかもしんねえが、新しい国を造るために、八重さんの力を借りてえ。」


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しかし、八重の心には、まだ恨みが・・・
そして・・・恨みだけでは前には進めない・・・

そして・・・大蔵は尚之助の想いを話して聞かせるのでした。

「川崎殿は仰せでした。
 開城の日・・・己の勝手な思い出八重さんから誇りを奪ってしまった。。。
 それを返す為に、斗南の地に八重さんの故郷をもう一度作りたい。。。
 その想いを胸に斗南に行くんだ・・・と。」

「尚之助さんに伝えてくなんしょ。
 待っていますと。。。」

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年が明けて・・・
会津藩士たちは、次々に新天地斗南を目指したのでした。


いやあ・・・先週会津戦争は終わったのですが・・・
戦後処理はどうなったのでしょう?
萱野権兵衛が切腹というのはそうなんだけれども・・・。

例えば、会津藩士たちは戦死しても野ざらしにされた・・・とか、
それを埋葬しようとすると処罰されたとか・・・
NHKだから出来ないのかしら???
そののち・・・疾病の原因になるからと埋葬が新政府軍によってようやく許可されるのですが・・・
それも埋葬という形とは程遠いものでした。。。

っていうか、本当に書けないぐらいの悲惨さなんですよね。。。
そこから這い上がってきた会津藩士たちって、本当にすごいのです。

これから這い上がってくる会津藩士たちをみんなで温かく見守りましょう。

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新政府軍の圧倒的な兵力を前に、東北諸藩は、次々と降伏。。。
遂に、鶴ヶ城への総攻撃が・・・!!!

大蔵の妻・登勢が被弾。

兵糧も尽き・・・補給路確保のために決死隊が編成され、八重の父・権八が参加することになりました。

「八重、わしらが場門を出るときは、にしが鉄砲隊を指揮して守ってくれ!!
 誰かが行かねばなんねえ・・・。」

降伏した米沢藩から書簡が・・・
そこには、降伏を勧めるような内容が描かれていました。
「降伏の道を探るが最善・・・」と。

冬が来れば・・・幹部は、敵が会津の冬を怖れての総攻撃と。。。
しかし、冬まで城が持つのか・・・!!!

登勢の死を知った大蔵、帰ってきた健次郎に怒り大爆発です!!!

「なぜ討ち死にしなかった・・・!!
 なじょして帰ってきた!!!
 女でさえ、命を落としている!!!
 腹を切れ!!今ここで腹を切れ・・!!!」

と、怒りに任せる大蔵。。。

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無念の健次郎さんです。。。
「もうたくさんだ・・・!!これ以上、死ぬことはねえ・・・!!!」


降伏した諸藩を巻き込んで、大軍が会津へと向かってきていると、尚之助は判断しているようです。
2000発は超えるであろう砲弾を浴びる鶴ヶ城。。。
夜中でもその砲弾は止むことはなく。。。
その砲弾の中、秋月悌二郎がお城を後にしました。。。
密命を帯びているようです。

新政府軍の総攻撃が始まって4日が経ちました。。。

何もかも戦で燃やしてしまった・・・誇りまでも・・・。
苦悩する容保。

総督の元へ・・・
会津の降伏を伝えに行った悌二郎。。。
板垣には会わせてはもらえません。。。ひとり、また一人命を失っているというのに。。。

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権八も、米の補給をして帰ってくるも・・・
砲弾を浴びて命を落としてしまいます。




「女子がすすだらけで・・・
 やっぱり、鉄砲を教えたのは間違いだ・・・
 八重・・・にしは、わしの誇りだ・・・
 皆をまもれ。。。」

総攻撃7日目。。。
悌二郎が白旗を掲げて帰ってきました。。。

降伏嘆願が受け入れられたのです。
そして間もなく、城への砲撃は止みました。

その翌日、城内の者たちに・・・女たちには照姫の口から、降伏が伝えられました。
藩士は・・・男たちは、猪苗代で謹慎が命じられます。

男たちは容保から・・・。
あ・・・その中に八重もいます。。。

殿が頭を下げるのを止めるみんな。。。

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「罪は我が一身にある。
 この上は、この一命を以って、会津を・・・皆の行く末を守る・・・!!
 何があっても生き延びよ!!!
 最後の軍命じゃ。生きよ!!!」


「お殿様は間違ってごぜえやす。
 何があっても、お殿様には生きていただかねばなりませぬ!!!」

と、八重、すっご~い!!
殿様に意見してるよ!!!
この八重の一言が効いたのか?殿は一生御宸翰を身につけて生き続けましたよ。yae5


「殿は、我らが命に代えてでも守りますゆえ・・・!!!」


そうそう、これから大蔵さんが走り回って、殿の助命嘆願を成し遂げます。


白い旗に「降参」
翌朝、降伏の白旗が城壁に掲げられました。
官兵衛にも知らせが・・・!!!

yae





yae8城の正面で降伏式が執り行われました。







そして、容保は謹慎所の妙国寺へと移っていったのです。






その夜・・・
「あすの夜は 何国の誰か眺むらん なれし御城に 残す月影」

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あ・・・間違いました。
スーちゃんでした。

頭上に浮かぶのは美しい会津の月。。。
辞世の句を書きしるし、猪苗代に向かおうとする八重。。。
その八重を抱いてなく母・・・謝る八重・・・そして、そんな二人を見ている尚之助がいました。。。


鶴ヶ城は明け渡しとなります。
9月23日開城。。。官軍の兵が続々と入ってきました。
女たちが磨いた廊下をずかずかと土足で入る板垣達。。。


男たちは城に残って・・・
その中には八重が・・・いえ、山本三郎がいました。

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「女だ!!女が紛れているぞ・・・!!!」

「私も猪苗代に活かせてくなんしょ!!
 お願いしやす!!私も一緒に戦いやした!!
 鉄砲で・・・!!
 私はあなたのお味方を殺しやした!!
 お願いしやす。猪苗代に・・・!!
 尚之助様・・・!!!」

そう、女がいると言ったのは尚之助・・・。
きっと、八重と、佐久と、権八のことを想って・・・
ひとり城に残されてしまった八重。。。

何もかも消えてしまったお城に立ち尽くす八重。。。
そう、八重の辞世の句は、荒城の月のモデルだとも言われています。


春高楼(こうろう)の 花の宴(えん)
巡る盃(さかづき) 影さして
千代の松が枝(え) 分け出でし
昔の光 今いずこ

秋陣営の霜の色
鳴きゆく雁(かり)の数見せて
植うる剣(つるぎ)に照り沿いし
昔の光 今いずこ

今荒城の 夜半(よわ)の月
変わらぬ光 誰(た)がためぞ
垣に残るは ただ葛(かずら)
松に歌う(うとう)は ただ嵐

天上影は 変わらねど
栄枯(えいこ)は移る 世の姿
映さんとてか 今も尚
ああ荒城の夜半の月

作詞した土井晩翠の宮城県仙台市の青葉城、同じく福島県会津若松市の鶴ヶ城。そして滝廉太郎が曲を構想したとされる大分県竹田市の岡城、く富山県富山市富山城なんかをモデルにしたようですが。。。

いろんなことを踏まえると、やっぱり鶴ヶ城がイメージ的に強いのは言うまでもありませんね。。。

尚之助は、本当に八重を死なせたくなかったのでしょうね。。。
みなさんご存知の通り、この後八重は新島襄と結婚するわけですが・・・
尚之助さんはこの後どうなったのかはあまりよく分からないのが実情です。

斗南藩の為に、いろいろ事業を始めようとしたようですが、それも武士の商売・・・。
上手くいかないまま、その上、藩は知らん顔を決め込みます。
尚之助がひとりでやったこと・・・みたいな感じになって、尚之助は多くの借金を背負うことになるのです。

本当ならば、戸籍を作るときに”妻・八重”となるところでしょうが、たくさんの借金を抱えたためにその借金を同じように背負うとなることを思って、妻の欄は空白にしてあったのでは?と言われています。

尚之助の気持ちはわかりませんが、八重が借金を背負うことがないように・・・
と思う人なら、八重を生かすために、ドラマのようなこともしたかもしれませんね。。。

だから八重は、尚之助が生きていたかどうかも解らないまま・・・
新島襄と結婚したのかも知れません。

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