”右の者、満三年皇居を距てる 三里以外の地、退去”
名指しされたのは、福沢諭吉!!
明治最大の啓蒙思想家にして教育者・・・
”天は人の上に人を作らず”で始まる学問ノススメは、あまりにも有名です。
ところが・・・明治政府は福沢を、危険人物とみなし、周辺に密偵を張りつけ、誰と会い、何をしゃべったかまで逐一報告をさせていました。
その訳は・・・”福沢は見え過ぎていた!!”
幕末、三度にわたって洋行した福沢は、理想的な政治体制を見出します。
イギリス議会政治です。
血を流すことなく政権交代ができる・・・福沢は、次々と啓蒙書を出版、イギリス流議会政治の導入を解き続けます。
その前に立ちはだかったのが、薩長藩閥政府でした。
福沢の国民への影響力を削ぐために、政府内で密かに進められた工作・・・そして引き起こされたのが、政府から福沢シンパを追い出す明治十四年政変でした。
時の権力者が恐れた福沢のすごみとは・・・??
東京・三田の慶應義塾大学・・・明治の末に建てられた図書館旧館に、福沢が生涯で目指したステンドグラスがあります。
”ペンは剣よりも強し”というラテン語の上に描かれているのは、鎧兜をつけた武士が馬から降り、西洋文明の象徴である女神を迎える様子です。
封建時代の旧制度を改め、文明の世を切り開くという福沢の理想が描かれています。
剣の時代からペンの時代へ・・・
福沢の思想は、いかに形作られたのでしょうか??
福沢と西洋の出会いは蘭学でした。
緒方洪庵が大坂で開いた蘭学塾・適塾に、郷里・中津から留学、修行に励んでいました。
下級藩士の次男坊だった福沢は、最新の西洋知識を身につけることで、人生を切り開こうとしたのです。
福沢の修行の様子を伝える資料が残されています。
福沢諭吉が初めて本格的に翻訳した原稿・・・ペルの「築城書」
西洋式の城の作り方の本で・・・それを通してオランダ語を翻訳する力を身につけ、西洋のことを知りたいという意欲が感じられます。
福沢は、オランダ語の原書を写し、独力で翻訳、精密な図も添えた力作にしました。
福沢諭吉なる蘭学に秀でたものがいる・・・評判は、中津藩で一気に広まりました。
1585年、福沢は、蘭学塾を開く藩命によって江戸へ・・・!!
しかし、待っていたのは驚くべき現実でした。
開港したばかりの横浜へ行ってみたところ・・・苦心して学んだオランダ語が全く通じない・・・!!
英語が世界の共通語となっていました。
一念発起して、英語を学び始めます。
その決断が人生を大きく開くことになります。
1860年、幕府に英会話能力を買われ、従者としてアメリカへ・・・
さらに1862年、ヨーロッパ諸国を歴訪した福沢は、旅の途中、国家のありようを大きく揺るがされる経験をしました。
あるオランダ人医師から、イギリスの政治について講義を受けたのです。
”イギリスの政治は、国王、上院、下院、3つの要素から成り立っており、政党は、自由・保守の2つがある”
福沢が一番理解に苦しんだのは、イギリスの二大政党制でした。
江戸時代、日本国内では徒党を組むことは禁止されていました。
イギリスの議会には、野党が存在して、野党を含めて議会が円満に運営されていました。
後に、福沢は日本にイギリス流の二大政党制を導入し、野党の役割が重要だということを強調していくことになります。
欧米諸国に追いつくためには、政治体制の大変革が必要・・・そう、福沢は悟りました。
ところが、帰国した福沢を待っていたのは・・・
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1864年、禁門の変が勃発。
過激な攘夷論を唱える長州藩が幕府に公然と反抗、武力衝突を起こします。
その後、禁門の変で幕府側についた外様の大藩・薩摩も、長州と同盟を締結し、倒幕に向けた動きが加速していきます。
1866年7月、幕府に「長州再征に関する建白書」を執筆。
幕府に提出しました。
”長州へ軍事行動を起こし、一挙に征服、その勢いで諸大名も制圧し、朝廷の動きも取り鎮める
前日本国封建の制度を一変させるべきだ”
将軍が一元的に権力を掌握して、外交を積極的に展開して、産業、文化を積極的に西洋から取り入れて変えていく・・・近代化、文明化を成し遂げて、西洋に追いついていく・・・!!
しかし、その提言が実を結ぶことはありませんでした。
1866年、第二次長州征討・・・幕府は惨敗・・・
翌年、将軍・慶喜は、大政奉還を行って、朝廷に政権を返上してしまいます。
福沢が期待をかけた幕府は消滅してしまったのです。
そして始まった明治という新時代・・・
薩長を中心とする新政府は、文明開化路線を採用。
職を失った幕府の通訳経験者も数多く採用されました。
福沢にも、役人にならないかという誘いが幾度となく届きます。
しかし、福沢は固辞し続けました。
”もはや武家奉公もたくさんに御座候
この後は双刀を投棄し、読書渡世の一小民と相成り候積”
新時代に福沢がどう向き合ったのか??
上野戦争・・・大砲の音がとどろく中、いつもと変わることなく経済の講義をする福沢がいました。
福沢が力を注いだのは若い世代の教育でした。
1872年に発表された「学問ノスゝメ」
天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らずといへり・・・
封建的身分制から脱した明治の代を、学問を身につけ社会に貢献し、身を立てよという福沢の考えを表したものです。
政治と一線を画し、在野の言論人として生きる・・・
福沢は、新時代に新たな一歩を踏み出しました。
幕府が倒れて数年・・・明治維新は新たな局面を迎えます。
佐賀の乱をはじめとする士族の反乱です。
従来の特権を取り上げられたことに対して各地で武装蜂起、西南戦争まで続きました。
武力ではなく言論で戦おうとする一派も現れます。
1874年、板垣退助・立志社を設立。
薩長藩閥の専横を押さえるには、国会開設以外にないと主張し、自由民権運動は大きなうねりとなります。
当時の心境を福沢は・・・
”うかうかしていては、次第にノーレジを狭くするようあいなるべく、1年ばかり学問する積なり”
激変する時代に対応するには、確固たる政治理論が必要だ!!
そう痛感した福沢は、西洋の最新の政治思想書を大量に買いこみ、1年かけて読み込みます。
1875年「文明論之概略」・・・満を持して発表します。
西洋と日本の文明を比較し、今後日本がどのような道を進むべきかを説いた渾身の論説です。
この本の草稿には、出版の際に削除された部分があります。
それは、議会開設についての福沢の提言です。
”民会の体裁は、速に作らざるべからず”
国会開設の前に、まず地方議会という民会優先論です。
あくまで地方の議会をまず作って、自分の地域のことを自分で決められるようになったうえで、その次の段階として国会を作るべきだと考えていました。
下から変えて、基礎が固まっていないと国家としての基盤が脆弱になってしまう・・・!!
もう一度政治と向き合うことを決めた福沢が、慶應義塾に建設したのが、日本初の演説会堂・三田演説館です。
演説や討論という、当時日本の存在しなかった概念は、この時福沢が導入したものです。
門下生たちは、日夜福沢の前で意見をぶつけ合い、弁舌家としての腕を磨きました。
その後彼等は、全国で演説会や講演を開き、地方議会開設を訴えていきます。
政府は、選挙による地方議会導入に踏み切ります。
理想の政治体制に、その第一歩が記されました。
1879年、新たな論説を発表します。
国民に新時代への心構えを説いたものです。
「民情一新」です。
そこには、注目すべき一説が・・・
”英政を美なりとしてこれを称賛する”
日本が目指すべきは、イギリス型の議会政治だと高らかに宣言したのです。
福沢が評価したのは、イギリスの議院内閣制の仕組みです。
2つの対立する政党のうち、議会で多数を占めた政党の党首が首相となり政治を行う・・・
しかし、次の選挙で野党が多数派となると首相は一議員に戻る・・・
政権交代は、平均して3~4年に一度おこるので、議員は権力にしがみつくことがなく、建設的な議論が行われる!!
はじめて知ったときには、呆然と眺めるだけだったイギリスの議会政治が、福沢にとって明確な目標となったのです。
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一方、その頃、政府の中でも国会開設の議論が進んでいました。
どのような政治体制を目指すのか、国民に示す必要が・・・目をつけたのが、民間に影響力のある福沢でした。
1880年12月、福沢は、政権中枢の参議・伊藤博文・井上馨・大隈重信に呼び出され、次のような申し出を受けました。
”政府はこの度、新聞を発行することとなった
巷の新聞は、国民を扇動して社会の安寧を妨げてばかりだ
政府の主張を書いた新聞が必要だ
ぜひ引き受けてほしい”
在野の言論人を標榜する福沢にとって、政府の御用新聞など問題外・・・
1か月後の1881年1月、申し出を断ろうと井上馨を訪ねた福沢・・・
そこで予期せぬ一言を聞かされます。
「しからば打ち明けよう
政府は国会を開くつもりだ
吾輩も国会開設に向け意を決した以上、一身の地位を惜しむものではない
いかなる政党が進出しようとも、多数を得たものならば政府を譲り渡そうと覚悟を定めた」
伊藤と大隈も、議院内閣制導入に同意しているという井上の言葉に、福沢は大いに感激しました。
「この諭吉、もちろん国のために全力を尽くします」
悲願のイギリス型議会制度がついに実現する・・・!!
福沢にとって、生涯最良の日でした。
1881年10月、福沢にとって青天の霹靂ともいうべき事態が起きます。
新聞発行を頼んできた参議のひとり・大隈重信が政府から追放されたのです。
明治十四年の政権です。
発端は、この年の3月、大隈が政府に提出した意見書でした。
”立憲の政は政党の政なり”
大隈は、この意見書でイギリス型の議員内閣制を主張していました。
この大隈の動きに、伊藤博文が激しく反発したのです。
福沢との会談の時には、志を同じくしていた伊藤にどんな心境の変化があったのでしょうか??
その謎のカギを握るのは・・・井上毅!!
後に、憲法制定にも関わることになる法制官僚です。
7月12日、伊藤博文宛に井上毅の「内陳」が・・・
”現在巷で発表されている憲法案は、全て福澤の私擬憲法が案に基づいている
福澤の勢力は、知らないうちに人々の脳内を泡立たせ、発酵させている”
井上は、伊藤に大隈の意見書の背後には福沢がいるとにおわせました。
さらに、福沢の思想の危険性を再三にわたって吹き込み、伊藤の考えを一変させたのです。
井上毅は、民衆が力を持つ国家感に対しては批判的でした。
人心が福沢に行ってしまえば、政治制度が議院内閣制になる可能性がありました。
実際に、選挙をやった時に、福沢派に負ける可能性が高い・・・!!
そうなると、立法権も、行政権も失い、明治政府にとって危険極まりないこととなります。
井上の説得に動かされた伊藤は、大隈を呼びつけ詰問します。
「大隈さんの主張は、天皇の大権を人民に投げ捨てる様なものだ
参議の住職にある君が、福沢如きものの代理を務めるとは、笑うべきではないか」
大隈の政府からの追放が決定します。
その下で官僚として働いていた福沢門下生・・・矢野文雄・尾崎幸雄・犬養毅らも一斉に官職を去りました。
イギリス型議会政治への道は、閉ざされるかに見えました。
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1882年4月、福沢のもとに来訪者が・・・大隈重信です。
自らの政党・立憲改進党を結成したばかりでした。
「ぜひ福沢先生も、改進党に入り、ともに尽力していただきたい」
政治家となり、現実を変革する道を提示されます。
選択を迫られた福沢は・・・どうする・・・??
政治家に転身する??それとも、在野の言論人??
福沢の発言の文書が残っています。
”余は諸種の人を育成するのを任とすれば、一派の政党に与するを欲せず”
大隈の誘いを断り、あくまで言論で立つ道を選んだのです。
その後、福沢は自ら創刊した「時事新報」誌上で、政府にも特定政党にも偏ることなく、持論を発表し続けます。
”国会開設の準備として、最も肝要なのは官民調和である
政府は真正面から人民の議論を圧迫すべきではないし、民権家が一身の不平を漏らすために、民権の名を借りるのもいただけない
官民が調和した上で、藩閥の寡人政府を改め、多人政府となすことが必要だ”
1882年4月から5月にかけて連載されたのが皇室の在り方を書いた「帝室論」です。
”帝室は直接に万機に当たらずして万機を統べ給ふものなり”
帝室の役割は、学術、芸術の奨励や、叙勲などに留めるべきで、政治とは離れ、国民精神の統合であるべきだ・・・
福沢は、あくまでイギリス型の立憲君主国家を目指していました。
しかし・・・発布された「大日本帝国憲法」・・・天皇大権が規定され、議会の権限が弱い、プロイセン型国家とすることが定められました。
政府と正反対の立場をとる福沢の周りには、密偵が張り付き、発言は逐一報告されました。
過激派に同情とも思える福沢は、政府にとって見過ごすことのできないものでした。
福沢は最大級の危険人物とみなされ、一時は首都東京からの追放すら検討されました。
生涯を在野の言論人として通した福沢は、1901年、病により死去・・・66歳でした。
あくまで官と対峙した思想家らしく、死後も国家からの叙勲を受けることはありませんでした。
福沢の死から40年・・・日本は英米を相手とする太平洋戦争に突入しました。
そして敗戦・・・明治国家体制は終わりをつげ、大日本帝国憲法は現在の日本国憲法に改正されました。
国民統合の象徴となった昭和天皇は、福沢諭吉の帝室論を知り、次のように感想を残しています。
「この書の中に説かれておるところは、すこぶるもっともである
わが意を得た」
象徴である天皇のもと、議院内閣制の政府が国政に当たる・・・
福沢の理想は、戦後ようやく制度化されたのです。
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