日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:幕末

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前回で、吉田松陰がこの世を去りました。
今回の副題は「残された者たちが新しい扉ひらく」です。
”花燃ゆ”は、もちろん、杉文さんの一生ですが、これから幕末維新の有名どころがドンドン出てきます。
ドラマとしても、新しく人気が出るといいですね。

まずは初めに・・・というか、いよいよ幕末の風雲児・坂本龍馬の登場です!!

1860年2月・・・
萩にいる人々は、ようやく新しい生活を楽しみだしたようです。
高杉晋作もようやく妻を娶り・・・これで落ち着いて欲しいと思っている父・小忠太。
放蕩息子なイメージの強い晋作ですが、実は・・・殿やこの父にはなかなか刃向えなかったようです・・・
でも、立ち上がりますよ。

文が家に入ろうとすると・・・叔父が空っぽになっていました。。。
そう、立ち直ろうとしている人々にとって、寅次郎のいなくなった・・・ぽっかり空いた穴は埋まりそうにありませんでした。

松下村塾を任かされた伊之助・・・
しかし、井伊の目もあって藩からの許可は下りません。
藩命で、越氏塾に行くことになってしまいました。

江戸では・・・季節はずれの雪が・・・って、何だか嫌な予感・・・
一発の銃声とともに・・・
予感的中!!いきなり桜田門外の変!!
んな馬鹿な・・・!!
っていうか、何じゃこりゃ・・・!!

長州が井伊に目をつけられている・・・って話したところなのに、なんの前触れもなくもう死んじゃうの・・・
せめて、誰が(って、水戸藩士+薩摩藩士)駕籠を襲って、お供と斬り合って、雪の上に血とか、椿・・・とか、やってほしかったんですけど。。。
杉家に来た手紙で終わっちゃいました。。。
なんてこった・・・松陰最大の敵だったのに。。。
講義をするほど歴史が大好きな高橋英樹さんも無念だったに違いない。。。


獄に繋がれていた入江九一・野村靖も釈放され・・・
前原一誠も、塾に帰ってきました。
そう・・・みんないろいろあって、お役御免です。
呑気に笑っていますが、多分、おぼっちゃんの高杉晋作以外は食べるにも困っていたはずです。
そんなに困っているのに、寅次郎のことを褒めちぎる・・・!!

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「君の志はなんですか??」

追悼だというけれど・・・きっとこんなにほんわかした雰囲気ではなかったはず・・・
だって、暗殺計画してたのよ・・・??
そこらへんが嘘っぽく感じちゃうのかなあ・・・??


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長州藩でも、いろいろ話し合っています。
伊之助、ちょっと頑張ってますけど。。。
まだ、危険思想と思われている松下村塾。。。
伊之助の意見は聞き入れてもらえそうにありません。

伊之助&重臣たちが無礼講で話している時にやってきたのは玄瑞・・・
長井雅樂の航海遠略策に対して反対・・・
寅次郎のことに話が及んで喧嘩になっちゃいました。
長井を懐柔しようとしていた伊之助の計画が水泡に帰してしまいました。

玄瑞の想いは届かず、航海遠略策は長州藩藩是となりました。
やるせない塾生たち。。。

??突っ走りだしました。久坂玄瑞・・・。
長井雅樂を怒らせてしまったことは言わずに・・・??もう、藩に望みは持たない!!
今なら、先生の気持ちがよく判る!!草莽崛起で頑張る!!みたいなことを言いだしました。

塾生たちが帰ってきたことで、杉家には久しぶりに明るい声が帰ってきました。

が・・・塾生たちは、寅二郎の書いた本の写本を熱心にしていました。
先生の言葉を広め・・・そのお金を軍資金とし、戦って・・・もし、志半ばで斃れた時にはそのお金で墓を建てる!!というものでした。
それを聞いて怒る文!!

それは松下村塾ではないと・・・兄・寅次郎の意志ではないと・・・。

???そうなんじゃないの???
方向性をつけたのは寅兄で・・・寅兄の育てた生徒たちなんですけど・・・。
やっぱりかなり少女漫画的になってるような気がします。
自分と恋人が助かりさえすればOKみたいなご都合主義変換・・・。
もちろん、文におんなの幸せを望むなというのはおかしいでしょうが、寅次郎のために人生が狂ってしまった人が・・・塾生が・・・あんなにたくさんいるのに・・・。

桂小五郎、伊藤博文・・・維新を生き抜く人はたくさんいますが、寅次郎の思想に共鳴した若い命が沢山散ってしまったという現実を考えると・・・。
いくら色眼鏡で、やさしい兄を一番にしたっている文だったとしても。。。
例えば・・・幼馴染のすみやふさに申しわけないと思うことはあっても、塾生たちは兄の言うとおりに進んでいるのだから・・・なんて思えてしまうのです。


落胆する文の前に現れたのは・・・あやしい。。。

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「土佐藩郷士・・・久坂玄瑞様に文を・・・
坂本龍馬・・・いいます。」
いよいよ龍馬登場!!
武市半平太からの手紙を持ってきました。

ここでも文ですね。

家の中を冒険する龍馬・・・ちょっとワイルド・・・そんな感じのする・・・伊原龍馬です。

「どういうお人じゃった??吉田松陰先生は・・・」

「優しい人でした。
 熱い人でした。
 講義に熱中しすぎて握り飯を頬張りながら、気付いたら朝なんでことも。。。

 ・・・でも、寂しかったと思います。
 こんまい時から叔父に厳しく育てられて・・・。
 神童・天才って言われて・・・ずっと独りで。。。
 
 やから、せめて私達家族だけはただの寅兄って・・・。
 朝起きて食べて寝て・・・そういう普通の暮らしに戻そう戻そうとして・・・
 でも、逝ってしまいました。
 消えて・・・おらんくなった。。。」

どうやったら生きていてくれたのか??
松陰なんて知らん・・・私たちにはただの寅兄だ・・・って言いたいの??
まるで”江”のような、ご飯食べて、子供産んで、お菓子食べて、子供産んで・・・って私が言ってるように言ってるみたいです。

そんな愚痴を龍馬に言うかい??
そんなこと、聞きたくないよね・・・??

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男が男に惚れた・・・そんな男の話を聞きたかったんじゃないの??
それとも文を助けに来たのかな・・・??龍馬。。。

この頃の龍馬は、まだあんまり目標がないです。
が・・・武市半平太と玄瑞はかなり密な交流があったから・・・??
人と人をつなぐのは文ではなく、やっぱり龍馬さんなんじゃないの・・・??


草莽崛起・・・この言葉に感動して帰ったという龍馬・・・
だ・か・ら・・・!!
激論を交わしてほしいんだって・・・!!
玄瑞と文のラブラブシーンは要らないわ!!


う~ん・・・やっぱり命を懸けるからには、草莽崛起、草莽崛起、言ってるだけじゃあ駄目だと思うの。。。
そこに行きつくまでには寅次郎の小難しいお話があったと思うんですよね。
男が男に動かされ・・・命を懸ける・・・松陰信者は、そこに人々は心を動かされ・・・私も惹かれたいのですが・・・。
このドラマを見る限り・・・全く感じられないのがねえ・・・。

日本の歴史上、明治維新は大化の改新と同じく・・・外圧によって日本が変わった政治です。
そう・・・今まで2000年ある中で、根底から覆ったのはその二つしかないのに・・・
もっと政治が見たい。。。
だいたい龍馬も大事ですが、宿敵井伊直弼をナレーションだけで殺しちゃうなんて・・・オカシイデス。。。
政治的なことをナレーションで終わらせるのなら、朝ドラでやってください。。。

もともと女性脚本家二人体勢だったのが、5月から女性三人になったって知ってました・・・??
一話完結のアニメじゃあるまいし・・・と思ってしまったのは私だけでしょうか

真央ちゃん頑張ってるのになあ・・・可哀想。。。

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幕末の日本を震撼させたのは黒船来航・・・。
幕府動乱の時代に突入し、徳川幕府は崩壊へと向かいました。
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しかし、その60年前に、異国の脅威に警鐘を鳴らしていたのは松平定信でした。

1792年の根室沖に武装した船がやって来た「北の黒船事件」がきっかけでした。
ロシア使節ラクスマンは、通商要求をしてきました。
ヨーロッパからアジアの大国ロシアの要求・・・
鎖国体制の危機に幕府は大混乱に陥っていたのです。
当時、老中首座の地位にあった松平定信。
どのように立ち向かったのでしょうか?


be-宮城県石巻市網地島には銅像があります。
帝政ロシアの探検家ベーリングです。

この島は・・・江戸時代の日本が初めてロシアと接触した場所でした。

1739年ベーリング配下の船団が網地島に来航したのです。
目的は、日本沿岸の調査でした。

当時の日本は鎖国体制。。。
突然の異国の民の出現に、仙台藩では兵の出陣にまでの騒動となりました。

ロシアが日本に関心を持ったのは・・・??

18世紀・・・ロシアは皇帝による専制政治の元、勢力を強めていました。
当時の皇帝は、エカチェリーナ2世。
領土拡張を掲げ・・・西では露土戦争に勝利、東でもシベリアやアリューシャン列島にまで勢力を拡大し、補給基地として千島列島を南下し始めていたのです。

これに対して危機感を抱いていたのは松平定信でした。
定信は、未曾有の災害・・・天明の大飢饉で、治める白河藩では一人の餓死者も出なかったこを認められ、中央へと進出します。
1787年老中首座に就任し、その翌年には家斉補佐にも任じられます。
幕府の舵取りを任せられた定信は、内外の書物を読み漁ります。
その中で・・・仙台藩の医師の書いた「カムサスカ国風説考」は、定信に衝撃を与えました。
そこには、日本で初めてロシアの姿を描いた地図が描かれてありました。
大国ロシアを目にした瞬間でした。
当時の蝦夷地は、松前藩を通して・・・幕府の間接支配しか及ばない地域でした。
蝦夷地というグレーゾーンを挟んで対峙することとなったロシアと日本。。。
1792年9月北海道根室沖に、一隻の帆船が・・・ロシア船エカチェリーナ号です。
舳には二本の大砲が・・・!!
目的は、日本人漂流民を祖国へ帰還させると同時に、日本との通商関係を・・・開国をせまろうというものでした。
rakusumann
9月5日ロシア使節が根室に上陸。
使節代表は、陸軍中尉アダム・ラクスマンです。

越冬するための住居も構え、日本と対峙します。
9月8日幕府に書状を提出します。

江戸の定信の元へ・・・
①漂流民を江戸の役人に引き渡したい
②返答がなければ我々の船は、直接江戸に向かう

定信にとっては、青天の霹靂でした。
何の防御もない江戸湾に・・・!!
前例のない対外交渉に・・・戦にもなりかねない状況にどうする??定信。

1792年10月・・・どう対処するかの評議が開かれました。
定信が招集したのは寺社奉行・町奉行・勘定奉行の3人。
①強硬策
あくまで江戸への来航を許さず、武力に訴えてでも打ち払う。
しかし負ければ幕府の権威が失われてしまいます。
②長崎回航策
唯一の外交の窓口・長崎への回航を求める。
③通商容認策 
蝦夷地の港を開き通商を認める。

定信自身も海外交易には懐疑的で・・・貿易は、海外の無用の物を輸入して、日本の雄用の銅を失うと考えていました。
大国の武力を背景に開国を求めるラクスマン・・・。

戦を回避し、国内の混乱も押さえたい・・・定信はどう判断するのでしょうか?
漂流民を返しに来たロシアには大義名分がある・・・
こちらも礼と法を持って対応するべきである・・・
と、1793年6月21日松前で日露の外交交渉が行われました。

幕府の者は衣冠し、その篤い対応にラクスマンは感銘を受けたと言います。
定信はロシア使節に礼を尽くしたうえで・・・
国是にのっとった上で・・・”国交無き国の船は、打ち払うのが古よりの国法である”としました。
しかし、それは拒絶ではなく譲歩でした。
「通信通商を望むならば、長崎へ行き現地の沙汰にまかせよ」と。。。
定信は、ラクスマンに長崎への信牌(長崎への入港許可証)を交付したのです。
相手にも活路を残したのです。

7月16日ラクスマンは、皇帝に報告すべく帰国。。。
三つの策を柔軟に活用して、国の危機を乗り切ったのです。

しかしその直後・・・将軍家斉が20歳となり・・・
定信との間で意見が対立するようになります。
1793年7月23日定信老中と将軍補佐を解任。。。
幕政の中心から排除されてしまうのです。

その12年後の1804年・・・定信が公布した入港許可証を持ってロシア使節レザノフがやって来ました。
再び通商の要求をし出しました。
通商の成功を疑わないレザノフ・・・。
しかし、幕府の返答は冷ややかでした。
我が国が国交を結んでいるのは朝鮮と琉球、通商を行っているのは中国・オランダのみなので、貴国の希望には議論の余地はない!!
定信の柔軟な外交は引き継がれることはなく・・・激怒したレザノフは、樺太・択捉を襲撃!!日本兵はなすすべなく敗走・・・露寇事件です。

定信は海防の強化を訴えていましたが・・・その後の幕府外交は、定信の考えとはかけ離れた方向へと進んでいきます。
露西亜は軍規違反を理由にレザノフの部下を処罰・・・事件は終息へと向かいます。
その間に日本は海防の強化を後退させていきます。
1825年異国船打ち払い令を宣言し、異国船は無条件で打ち払うことになっていきます。
幕府は海防強化に努めることなく進んでいきます。。。
それは迫りくる西欧列強には全く無力でした。

1853年ペリー艦隊が浦賀に来航!!
幕府は開国を余儀なくされます。
その後・・・幕府は攘夷の波にのまれ・・・崩壊へと向かっていくのです。

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私は・・・ブログの”八重の桜”カテゴリーで、人物紹介もしていましたが・・・
”軍師官兵衛”になって・・・今更、殿や猿や古だぬきを紹介してもなぁ・・・と、思っていたので、人物紹介はしていませんでした。。。
先日、パパと”花燃ゆ”を見ていて・・・
「ママと見やんと誰が誰やらわからん・・・」と言われました。
そう・・・パパは地理や歴史が大好きなのに、幕末は全く興味のない男なのです。
う~ん・・・一番面白いと思うのですが・・・

Katori_Miwako





なので、今回の”花燃ゆ”では、人物紹介も織り交ぜていきたいと思いました。



まず・・・最初は松陰・・・ではなくって、主人公の杉文さんです。
後に小田村伊之助(後の楫取素彦)の奥さんとなって・・・楫取 美和子となります。


”花燃ゆ”では、井上真央ちゃんが演じてくれています。

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元気いっぱいのかわいい感じです。

そう・・・幕末男子の育て方なので、元気にやる気スイッチ押してくれそうです。


が・・・門下生が引き留めても突っ走る・・・そんな松陰先生の時代・・・


やる気スイッチ押してくれる女子は必要なんだろうか・・・。

いえいえ、杉文さんの事でした。

お父さんの杉百合之助は、石高25石・・・
極貧の下級武士です。
なので、何処の藩でもそうですが・・・下級武士同様、兼業農家でした。

松下村塾の前身は・・・叔父さんの玉木文之進が作ったと言われています。
1857年に松陰が継いで・・・文は”女幹事”として采配を振るったと言います。
塾生とも親交を深め・・・15歳の時に、18歳だった久坂玄瑞に嫁ぐのでした。

1859年・・・安政の大獄に連座して・・・斬首刑にされた松陰の後を継いだ玄瑞・・・。
長州藩の尊王攘夷の急先鋒として・・・活躍・・・
しようとしたところで、蛤御門の変・・・今は禁門の変かな??で自刃・・・25歳でした。
その新婚生活は・・・3か月だったとも言われています。
22歳で未亡人となってしまった文。。。
文は聡明であったようで、1865年・・・23歳の時に、毛利元昭(興丸)の守役としてお城に上がります。
それは。。。萩から山口に移った際にも同行し、明治初期まで仕えるのでした。

ちなみに・・・姉・寿が亡くなったので・・・1883年、姉の旦那様だった小田村伊之助(後の楫取素彦)の元に嫁ぎます。
乗り気ではなかったとも言われていますが・・・甥っ子たちの世話もしなければならない・・・と、母の勧めもあったようです。
その時の文の条件は、久坂玄瑞からの手紙を持参してもよければ。。。というものでした。
そして・・・群馬県令・老院議官・男爵・・・となる楫取素彦を支えていくのです。

どうでしょうか??
比べては駄目ですが、女だてらに鉄砲を放つ山本八重にはちょっと遠い・・・。
賢いとは思いますが、かなり地味な主人公かと思います。
おまけにお兄さんがお兄さんですからね。。。

とりあえず・・・最近出ている本の中には、三人の男(吉田松陰・久坂玄瑞・梶取素彦)に愛された女性として取り上げられているモノもあるのでそんな感じになるのかもしれませんね。

大河は男性・朝ドラは女性・・・カチコチの頭でそう思っている私。。。
昔は女性の資料もあんまり残っていませんし・・・
この三人の男性を見て、この一年が終わるのかもしれません。


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新選組局長近藤勇―士道に殉じたその実像

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1864年6月5日・・・幕末の日本を揺るがす大事件が勃発します。
世にいう池田屋事件です。
新選組の目的は、過激な浪士の放火テロの阻止でした。
激しい戦闘の末に、新選組が鎮圧します。
これによって、局長・近藤勇は京都を大火から救った英雄に・・・新選組の名は天下に轟くのです。
しかし、この騒動で多くの長州人がなくなり・・・長州の恨みを買うことになります。
その後、池田屋事件の抗議に始まり長州藩は京都に兵を進め、軍事衝突が・・・!!
戊辰戦争の終結まで動乱の時代となるのでした。

近藤勇は”剣=武”のイメージが強いですが、自分の言葉をしっかりと人に伝えることのできる”政治家”でした。

そんな近藤勇が育ったのは、江戸郊外にある多摩。
裕福な農家が多く、近藤は農家の三男でした。
15歳で剣術をはじめます。
三男では家を継ぐことができないので、剣で生きていこうとしたのです。
多摩地方は治安維持のために剣術を学ぶものも多く、剣で食べていくことができました。
近藤は道場主の養子となり、28歳で道場を継ぎ、各地を回りました。
東京・町田にある小島家でも剣術を教えていました。
そこには近藤の稽古着が残っています。
背中には、妻に縫わせた髑髏が・・・。

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戦いで倒れ、野に屍をさらすことになる・・・そうなっても構わないという覚悟の現れです。
その頃道場には、新選組の主なメンバーとなる沖田総司・土方歳三などが集まってきていました。
後に近藤と行動を共にした永倉新八は・・・
稽古が終わると、国事を愁い議論を交わしていたそうです。


当時江戸幕府は、欧米列強諸国の圧力に屈し、開国を約束。。。
これに対し、京都では攘夷の命令が下されました。

防衛の最前線である薩摩・長州は単独で攘夷を決行し、幕府に開国撤回を要求します。
幕府は、諸外国と攘夷派の板挟みにあい、政治は混乱を極めました。
当時の日本の若者の多くは、攘夷に傾いていたようです。
じっとしてはいられない!!という雰囲気が、下層・下級武士・郷士に広がっていきました。

自分達の力を生かせないか???と思っていたところにチャンスが回ってきました。
幕府の浪士募集の知らせです。
任務は京都に向かう14代将軍家茂を護衛するという。
将軍の京都行きは、天皇の攘夷命令を直に受けるためのものでした。
この頃京都では、天誅が流行っていました。
治安が乱れていたのです。
要人の暗殺や放火が頻繁に起こり、それを取り締まる役人にも迫ってきました。

近藤たちの心を動かしたのは・・・
「尽忠報国之志」があれば、身分は問わないというところでした。

幕府に召し抱えられるわけではなく、給与も支給されないが、将軍の先駆けとなって攘夷を実行できる!!

京都についた近藤たちは、市中の見回りをしていた会津藩・松平容保のお預かりとなります。
そこで、会津の精鋭部隊の名前である”新選組”を許されるのです。
新選組は期待に応え、不逞浪士たちを取り締まっていきます。
京都市壬生で・・・100人の隊士たちが生活していました。
休んでいる時は隊旗を振り回して遊んでいた隊士たちも、出番となれば覚悟の上で屯所から出ていきました。
無給で命がけで働く新選組・・・しかし、京都の人は決して温かくはありませんでした。
みすぼらしい恰好を、”壬ぼろ”と揶揄し、無礼、暴言もありました。
そんなことは気にしない近藤。。。

京都の老舗の茶屋で行われた幕府や各藩の代表が集まる会合で・・・
近藤は・・・
「長州や薩摩は単独で攘夷を行っているが、徳川将軍の元一つになって攘夷を行うべきである」
と、進言しています。
この主張に誰もが感心したといいます。

あるとき、幕府の閣僚に呼び出された近藤。。。
新選組の隊士全員を、幕府の臣下に取り立てたいという話・・・
しかし、近藤は断ります。
攘夷をなさないうちに給与をもらう身分となってしまったら・・・気が緩む者も出てくると考えたのです。

現実的には攘夷ではなくなっていきます。
薩摩藩が開国に・・・
そして近藤の希望が打ち砕かれた日・・・それは、天皇に呼び出されていた家茂が、攘夷の気概を見せることもなく、近藤たちを残して江戸に帰ってしまったのです。
近藤は、京都に居ても攘夷は出来ないと悟ってしまいました。。。
隊士を結束させていた攘夷という目的を失ってしまったのです。

1864年、近藤は新選組の解散を決意し、上申書を提出します。
京都には攘夷のために来たのであり、果たせないならば解散させてほしい・・・。
池田屋事件の1か月前のことでした。

つまり・・・池田屋事件までは、攘夷をやるために市中警備をやっていたようです。
近藤の攘夷も、長州の攘夷も全く一緒で・・・
違うのは攘夷を行う主体者・・・つまり征夷大将軍である徳川家茂と天皇の違いなのです。
どうして家茂なのか???
近藤勇の出身地・・・多摩が幕府の領地だったことに大きく関係しているでしょう。
天領は税金が安く、農民が豊かでした。
農民でも剣術ができる・・・そして天領の百姓としての自負もあったのです。

京都についたときは1963年2月・・・
この時、天皇に働きかけていたのは長州藩でした。
町の中では、脱藩した過激派浪士が暗殺・放火を行ってる状態でした。
新選組の最初の任務は、この過激派浪士を取り締まることだったのです。
ところが・・・8月18日・・・八・一八の政変によって、長州藩が京都を追放されてしまいました。
長州藩の人間は、京都への立ち入りを禁止されてしまいます。
そこで、長州藩は非合法に藩士を潜伏させ・・・潜伏浪士に暗殺や放火を命じたのです。
新選組の対象は、潜伏志士だったのです。
より過激に・・・より過激に・・・

池田屋事件・・・事件の発端は、この池田屋で放火テロの密談が行われている・・・という疑惑でした。
1964年6月・・・京都に長州藩士が集まってきているという情報が・・・!!
この時期、長州藩士は京都に入ることを許されていませんでした。
手引きをしたのは???
6月5日早朝・・・古高俊太郎を捕縛。
古高の家を捜索すると、武器弾薬がずらり!!
追及するため拷問にかけられる古高。。。
これによって放火を白状します。

”御所に火を放ち、混乱に乗じて天皇を拉致し長州へ”と。。。
300人もの長州藩士が潜伏している???
緊急事態に会津藩に応援を依頼します。
午後7時会津藩が来る前に、単独で出発!!
鴨川を挟んで右と左・・・近藤と土方に分かれての捜索となりました。
午後10時・・・池田屋にたどり着いた近藤。。。
周りに見張りの隊士を置くと、切り込めるのはわずか4人。。。

翌日から祇園祭が・・・近藤の選択肢は???
援軍を待つ?それとも4人ですぐ突入??

腕に覚えのある近藤たち・・・負けるとは思っていなかったようです。

・・・突入します!!

2階には10人以上の浪士たちがいました。
ちゃんちゃんばらばら・・・乱戦になります。
そして、沖田総司が結核による吐血で戦線離脱・・・。
藤堂平助も頭を負傷。
近藤と永倉だけになってしまいました。

と・・・その時、土方隊登場!!
残った浪士たちは観念して降伏したのでした・
翌日まで残党狩りが行われ・・・新選組は朝廷から感謝状が贈られ、近藤勇は英雄となり、新選組の名は天下に轟いたのでした。

まさに命がけの選択だったのです。

しかし・・・攘夷とは違う目的で勝利してしまった近藤・・・違う方向へ流れて行ってしまう??
近藤勇の本心は何処にあったのでしょう。。。

ここで、新選組の方向性が変わってしまいました。
後戻りできない・・・幕府側について、長州と戦う位置に固定されてしまったのです。
近藤勇は、池田屋事件の後は、”攘夷”という言葉を使わなくなります。
もっぱら長州征伐を推すようになるのです。
しかし、これは近藤だけではなく、世の中が攘夷を語れなくなってしまったのです。
天皇自身が諸外国を許してしまったのがこの頃で、そこで攘夷を叫び続けることは、政治家・近藤勇としては非現実的な事だったのです。

その後の日本にはどのような影響を与えたのでしょうか?
池田屋事件の抗議を名目に、長州藩は、京都に兵を進めます。
遂に武力衝突・・・禁門の変が起こります。
新選組は会津藩の精鋭部隊として活躍!!
しかし、3年後・・・薩摩が長州と手を組んだことで形勢は逆転・・・。
王政復古のクーデターで薩長が実権を握ると、幕府を討伐するように命を出します。
これによって幕府は・・・新選組は朝敵・逆賊となったのです。

天皇を味方につけ、最新式の兵器で戦う新政府軍は、次第に幕府軍を追い詰めていきます。
新選組は敗走を続け・・・
池田屋事件が発端となった戦いは、全国各地に飛び火し、事件から5年間続きました。
恨みが重なっていくうえで、池田屋事件が大きなファクターだったことは否めません。

徳川が降伏を決めたあとも、闘い続けます。
しかし・・・千葉県流山市で新政府軍に囲まれてしまいました。
切腹を決意するも、代表として名乗り出ます。

1868年4月26日・・・新政府軍は近藤を斬首・・・。
近藤の首は、京都の三条河原に晒されたのでした。
忠義をつくし、国に報いようとして闘った近藤の罪は天皇に逆らった・・・逆賊の汚名でした。


近藤勇~新たなる真実~はこちら
ヒーロー伝説 「土方歳三~奔走するラスト・サムライ」はこちら
俺は負けない、負けたくない~土方歳三・走り続けた純粋戦士~はこちら


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もう一つの幕末維新①です。

世界における日本のイメージは・・・フジヤマ・ハラキリ・ゲイシャ・・・
芸者と言えば・・・日本人にもあまりなじみがありませんが・・・
芸者は、日陰の身でありながら、キャリアウーマンであり・・・芸能界としての憧れの的でした。
一番の仕事はとりもち・・・空気を読んで人と人とをとりなすことでした。
コミュニケーション能力に長け、社会性も磨かれていく。。。芸者無くして日本の女性史は語れません。

花街にはルールがあります。
①お客を名前では呼ばない=お兄さん、お父さん
②お手洗いもついて行って案内する=お客同士が鉢合わせにならない様に

幕末・・・勤皇芸者と言えば幾松・・・

ikumatsu
桂小五郎を維新の英傑に導きました。
京都の花街は情報収集と政治工作の舞台となっていきます。
情報を漏らさないお茶屋は、志士たちにとって最適な場所だったのです。
おまけに志士には芸妓が欠かせない存在でした。
超一流の・・・耳目の学を駆使し、商売を取り持つ・・・そんな存在でした。


幾松は、三本木の名妓でした。
9歳の時に口減らしのために芸妓修業を始めます。
文久2年桂小五郎と出会い恋に落ちます。
それは苦難の始まりでした。

討幕を目指す長州藩の中心人物桂小五郎は、常に新選組に狙われていました。
幾松は・・・桂を出せ!!という近藤勇の前で舞を見せ・・・
時間を稼いで小五郎を逃がしたと言われています。
当時のお茶屋には秘密の脱出路があったのです。
台所にあるかくし扉から河原へと逃げることが出来たようです。

元治元年・・・禁門の変が・・・!!
激しい戦闘のあと・・・京都を追われる長州・・・
小五郎は物乞いに変装し、河原に潜伏します。
幾松は、下女に変装し、握り飯を届け続けたと言われています。

しかし・・・小五郎は突然消えてしまいました。
幾松は芸妓を辞め、全財産をはたいて小五郎を探しました。
9か月後・・・潜伏しているのを発見し・・・
小五郎は、禁門の変で多くの仲間を無くしてしまっていました。
生きる気力も無くしていたのです。
幾松は・・・
鉱物料理と芸者遊びで・・・1か月も癒します。
血縁関係のない世界で生きてきた幾松。。。
当時の女性にしては珍しく、精神的に自立していたと思われます。
遂に歴史の表舞台に返り咲いた小五郎は・・・明治維新を成し遂げるのでした。
明治3年正式に結婚し・・・
木戸孝允・松子と改名しました。

松子は元勲の妻となった明治以降も花柳界にいた頃の道具を大切に持っていました。
かんざし、櫛、小物入れ・・・
これらには、芸妓時代の誇りが込められています。
芸妓時代があったからこそ木戸を支えられた。。。
そんな自負心を支えに生きてきたのです。

芸妓にとって男は4種類。。。
旦那・客・客色・真夫だそうで・・・
身分的にはお金で縛られている芸妓ですが、恋愛感情に対しては選べたのです。
心底惚れた真夫・・・桂小五郎に全てを託したのでした。

明治花柳界のゴッドマザー・・・
横浜富貴楼のお倉は、料亭政治を生み出しました。
日本独自の政治システムでした。
首都東京で???はなく、明治時代は新開地・横浜で。
幕末に開港し、日本最大の貿易港となった横浜。。。
明治5年には鉄道が開通!!
海・陸のターミナルとして人・物・金が集まる一大都市となっていました。

横浜富貴楼 お倉―明治の政治を動かした女

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そこでもっとも繁盛していたのが料亭・富貴楼。
芸者上がりの女将・お倉は、明治の元勲たちを相手に料亭政治を生み出したフィクサーとも言われています。

顧客は・・・伊藤博文・山県有朋・大久保利通・・・他にも・・・!!
大事なことは話さないお倉。。。
横浜が元勲を引き付けたようです。
陸蒸気に乗って横浜へきてアイスクリームを食べる・・・
それだけで、自分たちがやってきたことに対して肯定できる・・・
そんな気持ちにさせてくれるのが横浜だったのです。

最も重要だったのが欧米視察。
明治4年岩倉使節団が横浜から出航・・・。
送別の宴は富貴楼で。。。
一切合財を取り計らったのがお倉でした。
参加していたのは・・・岩倉具視・伊藤博文・大久保利通・木戸孝允・・・
新たな政治の舞台が富貴楼だったのです。
これからの日本をどうしていくのか???
日本の料亭政治の始まりでした。

絶大な信頼を得たお倉。。。
大変な苦労人でした。
6歳で家族が離散、20歳で遊女に身を落とし・・・
働いても働いても放蕩者の夫・・・。
富貴楼を始めるまで人生の底辺を歩いてきたお倉。

そんな人生経験のいかされた接待術があります。
「客の手が三つ鳴ったら料理を辛くすべし!」
江戸っ子は、三つ手を鳴らすのは神には慰霊するときだけ。。。
3つ手を鳴らすのは田舎の客なので、料理の味付けを濃くする。というものです。
細かい気遣いで先回りするサービスは、究極のおもてなし。
そこでは待合(料亭)政治が発達し、100年も続いたといいます。

初代総理大臣夫人・伊藤梅子は、地方芸者からファーストレディーへ!!
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梅子は下関の芸者でした。
17歳の時に、貧しい家計を助けるために茶店で働いていました。
そこへ飛び込んできたのは命を狙われていた伊藤。。。
とっさに匿いました。
その後、下関で芸者をしていた梅子を身請けし、維新直前の慶応2年に結婚しました。
初代総理大臣となった梅子。。。前代未聞のシンデレラストーリーでした。
足軽の子からトップへとなった伊藤博文。。。
秀吉以来の大出世でした。
梅子は、世界一勉強したファーストレディかも知れません。

字の読めなかった梅子は、猛勉強!!
目を悪くするほどの猛勉強で伊藤の代筆をするようになり、囲碁、和歌、英語・・・津田梅子を住み込みで雇い、英語だけではなく、欧米のマナーも勉強しました。
そんな梅子が外交の表舞台に立ったのが、鹿鳴館でした。
その鹿鳴館の目標は・・・日本の悲願、不平等条約の改正でした。
華やかな外交接待・・・
当時の鹿鳴館外交は、ファーストレディの梅子にとっても重大責任でした。
西洋風の接待は・・・何から何まで解らないことばかり・・・
まず悩んだのはドレスコード。
当時のドレスは、コルセットで締め上げます!!
梅子は、誰よりも率先し、ファッションリーダーとなります。
そして最大の問題は社交ダンス!!
異性と踊るなど・・・!!
舞踏練習会を開き、社交界を牽引していきます。

どうにかして条約改正にこぎつけたい・・・!!

ところがそんな妻の苦労はどこ吹く風・・・
伊藤は毎晩芸者遊びです。
自宅にまで芸者や愛人を連れ込みます。
そんな時も梅子は・・・
「御前様は公務で大変忙しい方だから、あなたに慰めてもらうのが一番気休めになるのよ」
と、お土産まで持たせて見送りました。
気の使い方がとっても粋だったと言います。
博文も、忸怩たる思いがあったのか・・・
「天皇陛下の次に尊敬している人は、おかかじゃ・・・
その他には、今日吾輩の尊敬するものはない。」
としています。
夫に恥をかかせないほどの女性になる。。。
其者上がりがばねになったのだ・・・と思われます。

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鹿鳴館は、女性の社会進出の先駆けとなりました。

そんな鹿鳴館の華・陸奥亮子・・・日本外交の悲願・・・不平等条約改正に尽力した影の外交官でした。
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夫は第8代外務大臣・陸奥宗光。。。
不平等条約改正と日清戦争講和で大活躍な人物ですが。。。
亮子の美貌と気品を兼ね備えた姿は、外国人を魅了します。
女性に厳しいアーネスト・サトウも亮子を称賛しています。
「陸奥の2番目の夫人、若くて大変な美人。
 涼しい眼と素晴らしい眉。。。」
世界に愛された陸奥亮子。。。
亮子は播磨国龍野藩の武家の娘でした。
明治4年の廃藩置県が武家の運命を大きく変えました。
200万人とも言われた藩士の大量解雇が行われ・・・没落した武家の娘が芸者となったとか・・・
亮子もそんな一人でした。
17歳で新橋の小兼として花柳界にデビュー。
その美貌で、瞬く間に売れっ子芸者となりました。
凛とした亮子は誇り高き武士の娘でした。
男嫌いで身持ちが固いと言われていた亮子のハートを射止めたのは・・・
当時神奈川県令だった陸奥宗光でした。
紀州の名家出身の陸奥は、薩長閥が占める中で実力でその地位を築いていたのです。
切れ者で、先妻を亡くしたばかりでした。
明治11年政府転覆計画に関与した罪で禁固5年の刑を受け・・・山形監獄へ・・・!!
女手一つで3人の子と姑をみました。
明治16年刑期を終えて釈放された宗光・・・
しかし、翌年には家族を残して、ヨーロッパに留学してしまいました。
宗光が亮子に送った手紙は・・・
2年間で50通にも及びます。
「もし暇があったら、新聞の社説を読むといい。
 ロンドンの女性はみな読んでいますよ。
 だから話も弾み、他人と広く交際できるのです。
 新聞は東京日日新聞がよく、小新聞は読んでも無益です。」
宗光は、国際的に活躍できる女性になってほしいと思っていたようです。

文明開化に時代には、そんな女性も必要だ!!

政界復帰を果たした宗光は、外交官として明治21年に駐米公使として亮子と共に渡米します。
その優雅な美貌と聡明さ・・・ワシントン社交界の華とも言われました。

夫の外交機敏にも優る東洋産の名花と、もてはやされました。
武家の気品と誇り、芸者のおもてなしを兼ね備えた、国際派トップレディだったのです。
悲しみをもとにした意地を通した上での美しさ・・・
だからこそ凛として生きる。。。

陸奥宗光の最大の功績は、不平等条約の改正でした。
当時陸奥家の邸宅では・・・外国客を招いた亮子がおもてなしをし、条約改正を裏で支えていました。
武士という時代が崩壊して・・・しかし、本当の品、誇りをもって生きた人でした。


鹿鳴館が終わると・・・欧化主義の揺り戻しが始まります。
良妻賢母教育が行われます。
激動の時代、女性が自立しているとも思わずに自立して生きていた時代だったのに。。。
女性が家を守る・・・時代へとなっていくのです。

料亭は・・・
男が男を鍛え、女が女を磨く場所でした。
戦いながら、ヒントや閃きをもらう場所が料亭であり、花柳界だったのです。
今の時代はどこで磨くの???
違う装置・・・演出を考えることが必要なのかもしれません。

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