「和漢の間比類少なき暗主」・・・愚かな主とそしりながら「人の制法にこだわらず」と、決心したことは人のルールに縛られず成し遂げたと!!
![]() |
新品価格 |

世の常として、皇位継承者は帝王学を学びます。
儒学の経典や漢詩、和歌、管弦楽器の演奏などです。
後白河院の兄で後に骨肉の争いを繰り広げる崇徳天皇は、5歳で即位して帝王学を学んでいます。
崇徳天皇の8歳年下の弟が、雅仁・・・後の後白河院です。
雅仁は、母親の待賢門院のそばで育てられます。
しかし、評判になるほど遊芸にふけっていました。
その為父親である鳥羽院からは”即位の器量にあらず”と、見られていたのです。
雅仁が没頭した遊芸とは・・・当時のはやり歌で母親の待賢門院が愛した今様でした。
今様は、遊女の芸能として始まり、七五調を基本とします。
歌の内容は、恋心から仏教思想までと幅広い・・・
雅仁の今様熱は、天皇、上皇になっても冷めることはなく、乙前(元遊女)を師匠にしてその道を極めようとしました。
後白河院が、自らの反省を振り返った梁塵秘抄口伝集・・・
今様への異様なまでの傾倒ぶりが伺えます。
”十余歳の時より 今に至る迄 今様を好みて怠る事なし
千日の歌も歌ひ通してき 昼は歌はぬ時もありしかど 夜は歌を歌ひ明かさぬ夜はなかりき”
後白河院は、今様の家基のようなものになりたかったのです。
後白河院が生涯を通して愛した今様・・・その音階、節回し・・・どんなものだったのかは明らかになっていません。
しかし、彼の生きざまは、梁塵秘抄の中で最も有名なこの歌と重なります。
”遊びをせんとや 生まれけむ
戯れせんとや 生まれけん
遊ぶ子供の声聞けば
わが身さへこそ ゆるがるれ”
しかし、後白河院の生涯は、決して平たんなものではありませんでした。
![]() |

29歳の時、大きな転機が訪れます。
1155年、腹違いの弟である近衛天皇崩御。
次の天皇をめぐり、父の鳥羽院と兄の崇徳院とが対立します。
兄の崇徳院は、自分の息子・重仁の即位を望みました。
それに対して父の鳥羽院は、雅仁の息子・守仁に皇位を継がせたいと考えていました。
しかし、守仁の父である雅仁の存在を無視することはできませんでした。
父親を飛ばして天皇になる前例はない・・・!!
そこで、守仁王が成人するまでの数年間、中継ぎの天皇として雅仁て親王を位につけることになりました。
1155年、後白河天皇即位。
後に、源平合戦の英雄たちと渡り合い、30年君臨することになるとは、当時誰も考える由もありませんでした。
後白河天皇が即位した翌年の1156年7月2日、鳥羽院崩御。
そのわずか9日後、後白河天皇と兄・崇徳上皇との間で戦闘が勃発します。
鳥羽院亡き後の主導権を巡って、双方が武士を集めてぶつかり合うという・・・保元の乱です。
後白河天皇は、平家の棟梁・平清盛とそれに次ぐ有力者・源義朝を味方につけて勝利を治めます。
1158年、後白河法皇が退位、上皇となります。
上皇となった後白河院の運命を大きく開いたのは、ひとりの美女でした。
平清盛の正室・時子の妹・滋子・・・彼女を見初めた後白河院は、滋子を女御として寵愛するようになります。
滋子は後白河院政の政務に携わっていました。
後白河院不在の時には、代行ができる立場にある女性で、その能力のある女性でした。
滋子を通じて後白河院は清盛を大いに取り立て、平家の全盛の時代がもたらされました。
1167年、清盛を太政大臣に任命。
1172年には、清盛の娘の徳子が後白河院と滋子の子である高倉天皇の中宮となります。
藤原氏にとって代わって平家が天皇家と結びつき、新たな時代を築こうとしました。
京都・東山・・・後白河院は、この地に自らの権威の象徴となる院の御所を築き上げました。
南北1キロ、東西500メートルに及ぶ法住寺殿です。
その北側には、平家一門が住む六波羅があります。
その立地からも、後白河院と平家の強い結びつきが伺えます。
ここを舞台に、四季折々の儀礼が行われました。
平家の後押しによって、政務の実権を握る”治天の君”となった後白河院・・・ここを拠点に、院政を行っていくことになります。
滋子の発願で極楽浄土の世界をこの世に映し出した最勝光院・・・
完成のわずか3年後、悲劇が訪れます。
1176年、後白河院と清盛の間を取り持っていた滋子が35歳でこの世を去りました。
死の直後から、後白河院と清盛の関係が悪化していきます。
急速に台頭する平家に貴族たちが反発。
1177年、反清盛を掲げる院の近臣たちが、京の鹿ヶ谷に集結しました。
清盛を暗殺して、後白河院中心の政治体制を築こうと企てます。
世にいう鹿ヶ谷の陰謀です。
この陰謀は、密告によって露呈・・・清盛は陰謀に加わった院の近習たちを斬首・流刑にしました。
後白河院も、陰謀への関与が疑われましたが、咎めはうけませんでした。
しかし、近臣を排除されたことで、政治基盤を失い、孤立していきます。
鹿ケ谷の陰謀の翌年、徳子が皇子(のちの安徳天皇)を出産します。
しかし、孫の誕生は、後白河院を一気に窮地に追い込みます。
安徳天皇が生まれると、即位すれば高倉院政が可能になり、後白河院は排除される危険性が出てきました。
安徳天皇の誕生は、孫の誕生とはいえ、穏やかではありませんでした。
1179年7月、平重盛、逝去。
すると、後白河院が反撃に出ました。
重盛の所領を奪い、近臣に与えました。
しかし、これは後白河院の首を自ら締めることになります。
平家との決定的な破局が訪れます。
11月15日、清盛は兵を挙げて後白河院を幽閉し、院政を停止させました。
治承3年の政変です。
1180年、平家を打倒し、幽閉された後白河院を救うという大義を掲げ、8月に源頼朝が伊豆で挙兵。
さらに、翌月には木曽義仲が信濃で挙兵します。
1181年2月14日、源平合戦のさ中、熱病に冒され平清盛死去。
清盛の葬儀の日、後白河院のいる最勝光院から今様を謡う声が聞こえたといいます。
清盛の死後2日後・・・平家の棟梁となった息子の宗盛から政権を後白河院に返したいとの申し入れがありました。
清盛によって院政を停止させられた後白河院は、よみがえったのです。
![]() |

次に後白河院の前に立ちはだかったのは、木曽義仲でした。
1183年5月、倶利伽羅峠の戦いで平家の大軍に勝利。
義仲軍は、京を目指します。
もはや防ぎきれないと見た平重宗盛は、三種の神器・安徳天皇・そして後白河院をつれて京を離れ西国へと向かう決意を固めます。
治天の君として君臨し続けるために、どのように立ち回るべきか・・・??
平家と共に西国へ移る??
平家を見捨てて京に留まる??
頼朝は、平家から後白河院を救済するという旗印のもと挙兵している・・・
京に留まって源氏を迎えれば、軍勢として飼いならすことができるのでは??
平家の都落ちは、極秘裏に進められようとしていました。
後白河院の逃亡を恐れたためです。
しかし、後白河院は、近臣を通してその計画を知っていました。
すると、後白河院は、密かに法住寺殿を脱出、比叡山へ逃亡しました。
後白河院は、都落ちする平家を見捨てて、京に留まる選択をしました。
平家都落ちの3日後、木曽義仲が入京します。
義仲は、後白河院に難題を突き付けます。
安徳天皇に代わる天皇として、義仲は北陸宮を推挙しました。
一介の武士が、皇位継承に口を挟むなど、前代未聞のことでした。
後白河院はこれに猛反対し、義仲と対立します。
1183年11月19日、木曽義仲が法住寺殿を襲撃、火をかけます。
院の権力の拠点・法住寺殿が炎上しました。
後白河院は、再び幽閉されることとなります。
そこに現れた救いの神が源義経でした。
翌年の正月20日、宇治川の戦いで義仲軍を破り入京、義仲を追い詰め、近江国粟津で討ち果たしました。
1185年、義経は、壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼします。
義経の名声は高まりましたが、悲運に・・・
兄・頼朝と激しく対立し、刺客を送られ命を狙われたのです。
身に危険が迫った義経は、後白河院に頼朝追討の宣旨を出すよう迫ります。
ここで後白河院は、義経に応じ、頼朝追討の宣旨を出しました。
これがのちに、後白河院と頼朝の大きなわだかまりを生むことになったのです。
結局、義経のもとに集まる兵はなく、義経は西国へ逃亡しました。
一方、頼朝は、朝敵である義仲や、平家を討伐した自分をなぜ後白河院が裏切るのかと、激怒します。
後白河院こそ”日本第一の大天狗”だと罵倒しました。
これを聞いた後白河院の動揺は激しく・・・
頼朝が何をするかわからない・・・
自分が正当な帝王として世の中を治めたいのに戦乱が続いている・・・!!
今回も、頼朝追討を言い出して世の中を乱した。
自分の失政かもしれない!!
追討の宣旨を出された頼朝が、どんな反撃を見せるのか・・・??
後白河院の周囲は不安に包まれました。
頼朝は交渉を行うため、北条時政を上洛させます。
しかし、後白河院を幽閉することはありませんでした。
その代わり、後白河院の独断を防ぐため、公卿が合議で政治を行う体制を構築します。
その一方で、義経追討の名目で、守護・地頭を設置する権利を獲得します。
頼朝の狙いはどこにあったのでしょうか??
頼朝は、後白河院を助けることが自分の権威の源泉であると考えていました。
一時的に後白河院と対立しても、保護し、朝廷を守る・・・一方で、地頭を各地に設置して武士の所領拡大の願望もかなえようとしていました。
両者のバランスをとったのが、頼朝が創った鎌倉幕府でした。
![]() |
眠れないほどおもしろい吾妻鏡???北条氏が脚色した鎌倉幕府の「公式レポート」 (王様文庫) 新品価格 |

1190年、頼朝が京に向かいます。
およそ30年ぶりに後白河院に謁見するためです。
1189年、頼朝は奥州藤原氏を滅ぼしていました。
朝廷を守る唯一の武家の大将としての地位を確立。
後白河院を支える武士は、もはや頼朝以外になかったのです。
上洛中、後白河院と頼朝の会談は8度に及びました。
上洛後、頼朝は法住寺殿を再建修復します。
頼朝が鎌倉に戻った2年後・・・1192年3月13日、後白河院崩御。
享年66。
死の1か月前、病床に伏してもなお、天皇の笛の音のもと今様を謡い続けていたといいます。
源平の戦い、そして新たな武士の世の始まり・・・
権力の座に30年余り座り続けた波乱の生涯でした。
↓ランキングに参加しています
↓応援してくれると嬉しいです
にほんブログ村
![]() |

