日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:後醍醐天皇

1350年~52年、室町時代草創期・・・朝廷が二つに分かれ、南北城時代とも言われた頃、幕府内の抗争に端を発した全国規模の争いが勃発しました。
観応の擾乱です。
相対したのは、室町幕府初代将軍・足利尊氏と、弟・直義です。
兄弟げんかが日本の武士たちを巻き込みました。

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1336年、足利尊氏は京に室町幕府を開きました。
しかし、政務にはほとんど干渉しませんでした。
尊氏が担ったことと言えば、軍事を取りまとめること。
そして、武士たちの手柄を査定する論功行賞を行い、恩賞を与える”恩賞充行権”を執行することでした。
代わりに政務全般を引き受けたのが、2歳年下の弟・直義でした。
所領の裁判や、寺社勢力との土地をめぐる交渉などを一手に引き受けました。
まさに、兄弟二人三脚で歩み出した室町幕府・・・
このまま順調にいくかと思われました。
しかし・・・幕府内に、不協和音が聞こえてきました。

原因は、直義と幕府の重臣・高師直との対立でした。
高師直は、主君・足利尊氏に従い、各地を転戦・・・室町幕府樹立に貢献した武将です。
将軍に次ぐナンバー2の役職である執事(のちの管領)として、幕府を支えていました。
最も重要な仕事は、尊氏が出す恩賞に関する文章を発給すること・・・
さらに、京の北朝と吉野の南朝・・・二人の天皇が存在する中、幕府が支持する北朝との交渉を行っていました。
そうした師直の幕府内での権力を、さらに強める出来事が起こります。
南朝を樹立した後醍醐天皇の意思を継いだ後村上天皇が、幕府を倒そうと画策します。
その動きに呼応して、1347年、南朝方の楠木正行が挙兵!!
尊氏は、すぐに討伐軍を派遣します。
しかし、大敗を喫してしまいました。
そこで、戦を得意とする師直を、討幕軍の大将として出陣させることにしました。
すると、師直は、見事楠木軍の城を攻め落としました。
さらに、勢いそのままに、後村上天皇のいる吉野にも兵を差し向け、皇居・公家の邸宅、寺社まで焼き払いました。
こうした師直の活躍によって、幕府は危機を回避、その軍功によって師直は忠直より力を得て・・・
尊氏がやっていた論功行賞まで行うようになったのです。
しかし、師直の恩賞の与え方は、配下の武士たちにとって問題がありました。

全ての武士を満足させられるほどの恩賞が与えられたわけではありませんでした。
それに不満を持った武士たちの多数が、直義を支持したことが対立を長引かせる原因にもなりました。
当時の武士たちにとって、領地が与えられる恩賞は、何より重要です。
その為、恩賞次第で誰につくかを決めていました。
さらに、直義は、師直が論功行賞にまで関与するようになったことに、苛立っていました。
そんな中、直義の腹心・上杉重能・畠山直宗が、直義が信頼を寄せる僧侶を通じて師直の悪行を密告してきたのです。

「天皇は木や金で作った人形で十分
 生身の天皇は、遠くに流してしまえ!!」by師直

これは、幕府内で権勢をふるう師直に嫉妬した二人による捏造でした。
ところが、直義は、信頼していた僧侶から聞いたため、これを信じてしまったのえす。

1349年6月、直義は、上杉や畠山らと密かに師直の殺害計画を練り始めます。
それは、100人以上の武士を配し、師直を襲わせるというものでしたが・・・
この計画は、事前に師直の知る処となって失敗に終わります。
すると直義は、将軍である兄・尊氏に直談判に出ました。

「師直が、悪行の限りを尽くし、困っております
 執事の罷免をお願いしたく・・・」

「よし、わかった」

尊氏は、弟・直義の言葉を信じました。
師直は、執事を解任され、所領も没収・・・幕府から追放されてしまいました。
しかし、根も葉もない話で追放された師直が黙っているはずがありません。
罷免されてからわずか2か月後、5万を超える兵を引き連れて京に攻め込むというクーデターを決行しました。
危険を感じた直義は、兄・尊氏の邸宅に避難するも師直の軍勢に取り囲まれてしまいます。
師直は、自分を陥れた上杉重能と畠山直宗の身柄の引き渡しを要求します。
すると尊氏は・・・

「なに!!わしにさしずだと??
 家臣に強要されて、下手人を出した前例などあるものか!!
 そんなことをするくらいなら、討ち死にじゃ!!」by尊氏

激高する尊氏を、直義はなんとかなだめました。
そして、腹心である上杉と畠山を越前国に流罪にし、自身も政務から退くことを師直に約束してことを治めました。
師直のクーデターは、対立する忠直の政務引退という当初の要求以上の大成功を収めました。
ところが、師直は、それだけでに止まらず・・・中国地方を統治していた直義の養子・直冬にも兵を差し向けたのです。
直冬はそれに屈し、九州へと逃れました。
さらに師直は、越前国に流されていた上杉・畠山を殺害させたのです。

この直冬・・・尊氏の実の子でした。
ところが、身分の低い側室から生まれた子供だったためか、尊氏に認められず冷遇されていました。
それを見かねた直義が、自分の養子として迎え入れ、とてもかわいがっていたのです。
それなのに・・・自分だけでなく直冬までも・・!!

1349年8月21日、高師直は、再び尊氏の執事となりました。
その2か月後、身を引くことになった足利忠義から政務を引き継いだのは、将軍・尊氏の跡継ぎと目されていた義詮でした。
正式な引継ぎを終えると、直義は出家。
粗末な家に籠り、 ひっそりと暮らし始めました。
ところが、黙っていなかったのが、直義の養子・直冬でした。
逃げ延びた九州で味方を募り、密かにその勢力を拡大!!

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1350年9月、直冬が反幕の兵を挙げたのです。
10月16日、挙兵の報せを聞いた尊氏は、直冬討伐を決意!!
自ら兵を率い、28日に師直と共に九州に向け京を出発することに成しました。
しかし、その2日前、直義が密かに京を出ていたという知らせが舞い込みます。
師直はすぐに尊氏に進言しました。

「なにやら悪い予感がいたします
 あちらも兵を挙げるやもしれません
 出陣を取りやめ、直義殿を探したほうがよろしいかと」by師直

「たとえ兵を挙げたとて、気にするほどではない
 予定通り出陣じゃ!!」by尊氏

尊氏は、直義のことなど気にも留めていませんでした。
当時の直義は、出家・・・直義に味方する武将はいないと、尊氏は考えていました。
それは、尊氏の判断ミスでした。
直義は、京を出ると大和国から河内国の石川城へ入り、次々と味方を集めていました。
打倒・師直!!
直義の師直討伐の劇に応え、各地の武士が次々と挙兵します。
中には、師直の恩賞の与え方に不満を持っていた尊氏派の重臣もいました。
さすがの尊氏も、直義を無視できなくなります。

そんな中・・・直義が禁じ手を出します。
河内国に入った直義が、次に向かった先は、幕府と敵対していた南朝。
直義は、南朝に和睦を申し入れます。
南朝の権威と戦力を利用し、尊氏と師直に対抗するためでした。
直義からの申し出に対し、南朝では激論が交わされます。
そして、直義と手を組むことが、南朝復活のきっかけになると考えます。

直義が南朝と手を組んだことで、師直に不満を抱いていた武士だけでなく、今後南朝が有利になると考えた武士たちが次々と直義側につきました。
そして、1351年1月7日、直義軍は、石清水八幡宮を占拠。
師直を討伐する準備を整えます。

観応の擾乱の幕開けです。
直冬討伐の為、京を出発していた尊氏と師直でしたが、直義は南朝と手を組んだことを知ると、急ぎ戻ります。
1月10日には、山城国山崎に着陣。 
15日には、尊氏の子・義詮も合流しました。
しかし、形勢が直義側に傾くと、尊氏・師直軍の武士たちは次々と直義に寝返っていきました。
尊氏たちは、ますます追い込まれていきました。

2月17日、摂津国打出浜で、直義軍と尊氏・師直軍が激突します。
尊氏・師直軍は、勢いに乗った直義軍によって、完膚なきまでに叩きのめされます。
ところが、この時、戦場に直義の姿はありませんでした。
直義は戦場から遠く離れた石清水八幡宮に留まっていました。
この戦いは、直義にとっては師直を粛清し、排除するのが目的でした。
尊氏と対立するつもりは全くなかったのです。

2月20日、尊氏と直義との間で和睦交渉が行われます。
尊氏は和睦交渉の条件として師直の出家を提案します。
直義はこれに納得し、兄と和睦しました。
その4日後、師直は出家しました。
そして、京に戻る尊氏を追い、師直も出発しましたが・・・その途中で惨殺されてしまいました。
犯行に及んだのは、かつて師直の嘘の悪行を密告し、流罪となり殺された上杉重能の息子の軍勢と言われています。
差し向けたのは、直義だったと言われています。
1351年2月26日、高師直死去・・・。

兄・尊氏と和睦を結んだ直義は、尊氏の子・義詮の政務を補佐するという形で幕府に復帰します。
直義の養子・直冬も、幕府の一員となり、九州の統治を任されました。
全て思い通り・・・そう安堵したのも束の間でした。
次々と誤算が生じます。

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直義の誤算①南朝との和睦
南朝との和睦交渉が行き詰まりを見せます。
直義は、和睦の条件として北朝と南朝がそれぞれ交互に天皇を出し合い一つの朝廷にすることを提案。
しかし、南朝は、自分達が正当な血筋であるから南朝の皇族だけが天皇になるべきだと断固拒否したのです。
1351年5月15日、5か月に及んだ南朝との和睦交渉が決裂してしまいました。
この交渉失敗に対して、直義はその政治力を疑問視され、信用を失っていきます。

②兄・尊氏に恩賞充行権を残したこと
それは、直義が、兄・尊氏と師直軍に勝利し、尊氏と和睦交渉に臨んだ時のこと。。。
敗者であるにもかかわらず、尊氏はこう言い放ったのです。

「わしに従い戦った武士への恩賞を、最優先にすべきであろう」by尊氏

尊氏は、これまでの恩賞は不十分だったからそれを不満に思っていた武士たちが直義に味方をしてそのために配備区したと考えていました。
将軍として恩賞を広く与えれば、直義に味方した武士も自分のもとに戻ると考えたのです。
その為に、恩賞を与える権限だけは死守したかったので、直義に対して強気に出ました。
観応の擾乱において、恩賞問題は大きなカギとなります。
全国規模の大きな戦いへと広がったのは、武士たちが尊氏、直義、どちらにつけばより確実に恩賞をもらえるかというところにありました。
武士に十分な恩賞を与えて満足させないと、自分に従ってくれないことを尊氏は思い知ったのです。
直義は、弟として尊氏に対して遠慮もあり、この戦いを起こした直義の目的は高師直の排除と、直冬の容認でした。
その二つの目標が達成されていたので、極力擾乱以前の体制に・・・政治体制を元通りに戻すことを、直義は望んでいました。
尊氏が強気の態度に出なくても、直義は恩賞を与える権限を残した可能性が高いのです。

しかし、この判断が直義を追い詰めていきます。
尊氏は、勝った直義側ではなく、尊氏側の武士たちへの恩賞を優先します。
直義は、自分の配下の武士へもちゃんと恩賞を与えるように尊氏を説得しましたが、それは叶いませんでした。
勝利に貢献したにもかかわらず、満足な見返りを得ることが出来なかった直義派の武士たちは、大いに失望します。
彼らまで、直義から離れて行きました。
さらに直義の誤算は続きます。
直義に立強いて、尊氏の子・義詮が強く反発するようになりました。

③義詮の反発
義詮は、補佐であるはずの直義が、このままでは自分の立場を奪いかねないと恐れます。
また、一説に、義詮は、自分を将軍の跡継ぎと認めてくれていた師直に恩義を感じていたため、師直を暗殺した直義のことを恨んでいたともいわれています。
義詮は、土地の所領に関する政務や、土地の訴訟をめぐる裁判をする直義に対抗し、午前沙汰という新たな裁判機関を設立します。
土地の問題に関して、独自に対応しました。
直義とは別の方法で・・・!!
所領争いの裁判は、たいていもともと土地を持っていた寺社側が、代わって土地を得た武士皮を訴えることがほとんどでした。
直義は、訴えた寺社側と、訴えられた武士側双方の言い分を聞き、土地の所有に関する文書を吟味して裁定を下していました。
ところが、義詮は、訴えた寺社側の言い分だけを聞いて裁定。
裁判のスピード化を図ったのです。
これに喜んだ寺社も、直義から離れていくことに・・・
直義は、幕府内で孤立を深めていったのです。

1351年7月19日、直義は、兄である将軍・足利尊氏に政務からの引退を申し入れます。
尊氏は、直義を説得し、引退だけはとどまらせたものの、もはや直義に、政治への熱意や意欲はありませんでした。
同じ頃、南朝が幕府から寝返った武士たちを味方につけたことで、勢いを取り戻し、各地で挙兵します。
尊氏は、南朝軍を討伐するべく、京を出陣!!
多くの兵が付き従いました。
その為、直義は留守を任されることになります。
なんとも不可解な行動に出ます。
深夜・・・京を出て、北陸に向かいました。
通説では、直義は、兄・尊氏の出陣を南朝軍討伐のためではなく、自分を包囲し殲滅するためと考えていたというのです。
だから、夜陰に乗じて京を出たのだと・・・!!
直義と南朝の講和の死牌によって、全国各地の南朝方の武士たちが挙兵をしました。
尊氏派も対処するために京を出ています。
それを自分を討つためだと誤解したのです。

尊氏は、直義が京を離れたことを知ると、大急ぎで京に戻り、使者を北陸に派遣!!
直義に戻ってくるように伝えました。
しかし、尊氏の説得にもかかわらず、直義は帰ってきませんでした。
そのうちに、足利の兄弟たちがたもとを分かったと噂が広まったのか・・・
幕府だけでなく、全国の武士たちが尊氏派と直義派に分かれて各地で戦乱を起こしたのです。
尊氏の歌には・・・

”おさまれと
  わたくしもなく
      祈るわが
心を神も
    さぞ守るらむ”

戦わなくてもいい相手でした。
どうか、今すぐにでも戦が終わってほしい・・・
尊氏はただそう祈ったのです。
しかし・・・1351年9月12日、尊氏と直義の和睦がなってからわずか7か月後のこと。
二人は再び戦うことになってしまいました。
両軍は、琵琶湖の北東にある八相山で激突!!
地の利を得た武士たちが多くいた尊氏軍が勝利しました。

1351年10月2日、近江国錦織興福寺で、尊氏派直義と和睦交渉を行います。
しかし、話し合いは決裂しました。
すると、尊氏は意外な行動に出ます。
なんと、南朝との和睦交渉を始めたのです。
敵対していた尊氏の突然の申し出に、南朝は困惑します。
しかし、尊氏が、今後天皇は南朝の皇族のみから即位させると提案したことで、話しはまとまりました。
どうして、尊氏は南朝と手を組むことにしたのでしょうか?
最大の理由は、直義と講和するというのが最終目標でした。
尊氏は、直義が失敗した南朝との和睦を実現することで、直義と和睦するつもりだったのです。

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感想(31件)



1351年11月3日、尊氏の子・義詮が幕府側の使者となり南朝との和睦を締結。
その内容は、おおむね尊氏の提案通りでしたが、尊氏は不満をあらわにします。
なぜなら、南朝との和睦の条件の中に、直義を追討せよという命令が含まれており、義詮がその条件を受け入れてしまったからです。
しかし、この条件で南朝との和睦は成立。
その翌日、11月4日、尊氏は直義追討の兵を挙げ、京を出発します。
義詮は直義を武力で倒すため、父・尊氏と共に出陣することを考えていました。
尊氏はすべて断っています。
義詮をつれて行くよりも、単独の方が直義と和睦できる余地があると考えたのです。
尊氏は最後の最後まで、直義と講和を諦めずに実現させようとしていました。

直義は、北陸を経由して鎌倉に向かっていました。
11月15日、直義は鎌倉に到着します。
尊氏もまた鎌倉に向かっていました。
11月29日、駿河国薩埵山に3000の兵で布陣。
直義軍も大軍を率いて鎌倉を出発し、尊氏軍を包囲します。
血を分けた兄弟の最後の決戦・・・そこに直義の姿はありませんでした。
直義は、薩埵山から離れた伊豆国府に籠り、そこから一歩も動こうとはしませんでした。
この時、直義が詠んだと言われる歌が残っています。

”暗きより
 暗きに迷う
    心にも
 離れぬ月を
   待つぞはかなき”

何故兄と戦わなくてはならないのか?
どうしてこんなことになってしまったのか?
和睦を拒否した直義でしたが、最期まで兄・尊氏と戦うことなどできなかったのです。
尊氏もまた同じ気持ちでした。
薩埵山に布陣したまま、兵を進めようとはしなかったのです。
そんな中、京にいた尊氏の子・義詮は、関東の武士たちに使者を送り、味方になるよう促しました。
これに、下野国の宇都宮氏などが呼応し、12月15日、尊氏軍として参戦!!
これによって一気に直義軍は劣勢に立たされ、薩埵山から撤退。

1352年1月、ついに、直義は降伏しました。
鎌倉浄妙寺・・・兄・足利尊氏との戦いに敗れた直義は、この寺に幽閉されることになりました。
すると、直義の体調は、そこから急激に悪化。
1352年2月26日、奇しくも宿敵・高師直を暗殺した日からちょうど1年後、直義は46歳でこの世を去ったのです。

この時、兄・尊氏はまだ鎌倉にいました。
戦後処理のため、鎌倉に腰を落ち着け、東国の統治に専念することにしたのです。
しかし、弟の最期に立ち会ったのか、わかっていません。
望まない戦いを続けなければならなかった兄弟・・・
最愛の弟への弔いの気持ちが消えることはなかったはずです。

室町幕府を二つに引き裂いた観応の擾乱・・・
この戦が、後の幕府を大きく変えたといいます。
擾乱以前に比べて、積極的に武士に恩賞を与えるようになりました。
武士の室町幕府への忠誠や支持が高まり、政権の基盤が強化されました。
南北朝の内乱が収束し、室町幕府の覇権が確立する・・・そんな意義のある戦乱でした。

また、全国規模で戦乱が起こったことから、武士の数が飛躍的に増加。
江戸時代まで続く武士中心の社会は、観応の擾乱から始まったといえるのです。

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感想(17件)



2021年に週刊少年ジャンプで連載が始まった歴史漫画「逃げ上手の若君」・・・その主人公は、実在の人物で、鎌倉時代末期、北条氏に生れた若君・北条時行です。




源頼朝の妻・政子の父・北条時政以来、将軍を補佐する執権の座につき、鎌倉幕府の実権を握ってきた北条得宗家・・・
その中で、最後の得宗となったのが、北条高時でした。
時行は、その高時と新殿との間に、1329年頃に生れたといわれています。
時行には、4歳年上の兄・邦時がおり、その邦時が跡継ぎとなるはずでした。
しかし、やがて、弟・時行に北条家の運命が託されることとなります。

時行が生まれる少し前に・・・父・高時は執権の座を降りていました。
その理由は、病によるものでしたが、一説に北条家の家臣・御内人に実権を握られて、次第に遊び惚け、人望を無くしてしまったからともいわれています。
そんな中、1331年、幕府に衝撃が走ります。
京都の後醍醐天皇が、倒幕を計画していることが発覚したからです。
元弘の乱の始まりでした。
そのたくらみは、鎌倉から派遣された20万を超える幕府軍によって鎮圧・・・後醍醐天皇は捕らえられ、隠岐へと島流しになってしまいます。
それでもあきらめきれない後醍醐天皇は、翌年、隠岐を脱出すると現在の鳥取県に当たる伯耆国の船上山に入り、諸国の武士に対し幕府を倒すべく蜂起するように促したのです。
多くの武士たちが応じ、船上山に集結します。
後醍醐天皇の近臣の指揮のもと、幕府によって抑えられていた京都に攻め入ります。
一方幕府も鎮圧しようと鎌倉から京都に援軍を派遣!!
この時、幕府軍を率いていた大将のひとりは有力御家人の足利高氏でした。
足利家は、代々北条得宗家から正室を迎え、嫡子の名に一字与えられるなど、北条氏と近しい関係にあり、幕府御家人の中でも筆頭格の家柄でした。
高氏自身も、北条高時から”高”の字をもらっていたのですが・・・尊氏はその北条氏を裏切り、御醍醐側に寝返ってしまいました。
高氏が寝返ったのには・・・
京都に行ってみると、公然と鎌倉幕府に反抗する者がいました。
討幕の機運が高まっていたのです。
このまま鎌倉幕府が、北条が危ないとなったときに、足利家も潰されてしまう・・・と考えたのです。

高氏は後醍醐天皇の軍勢と共に京都を制圧、するとそれに呼応し、かねてから幕府に不満を抱いていた上野国で御家人・新田義貞が挙兵。
義貞は、鎌倉へと進軍します。
この時、義貞が狙っていたのは、長年実権を握り続けていた鎌倉幕府の象徴・北条得宗家でした。
時行の父・高時とその一族の首でした。
義貞軍のすさまじい勢いに押され、幕府軍は次第に劣勢を強いられていきます。
やがて高時の屋敷も危なくなり・・・高時は菩提寺の東勝寺に逃げ込みますが、もはや逃れられないと、800人以上の家臣と共に自害しました。
こうして、およそ150年続いた鎌倉幕府は滅亡しました。
6000人以上の死者が出るなど、鎌倉の町は壊滅状態・・・
そんな中、高時の次男・時行は、見事に鎌倉から逃げ延びたのです。

「北条家が滅亡するのは、兄・高時が人望を失い、天に背いたからだ
 だが、これまでの善行の果報が当家に残っているならば、生き延びた者から滅びた一族を再興する者がきっと出るだろう
 なんとか時行を守り抜き、時が来たら兵を挙げ、北条家を再興して欲しい」by北条泰家

鎌倉幕府の実質的権力者であった北条得宗家に生れながら、幕府滅亡により5歳にして鎌倉を追われた北条時行・・・
北条家の御内人の諏訪盛高は、時行を連れ、諏訪家の本家がある信濃へ向かいます。
本家は諏訪大社上社の神官・大祝を務めていました。
諏訪大明神の氏人を集め、諏訪神道とと呼ばれる武士団を結成していました。
盛高は、そんな諏訪本家当主・諏訪頼重に、時行を預けます。
そして、時行は、その頼重と共にある決意を固めるのです。

「必ずや、北条家を再興して見せる!!」

幕府を倒し、晴れて京都に戻った後醍醐天皇は、倒幕の最大の功労者として足利高氏を重用します。
高氏は、後醍醐天皇の諱・尊治から一字賜り、高の字を尊の字に改名します。
そして、諸国の武士に対する軍事指揮権を与えられたうえ、正三位・参議に任命されるなど、上級貴族並みの待遇となりました。
また、後醍醐天皇は、自らが中心となって政権を運営。
次々に打ち出した斬新な政策は、建武の新政と呼ばれました。
ところが・・・後醍醐天皇政権発足直後から、各地で不満が爆発します。
2年半の間に、全国で20件以上の反乱が頻発。
北条氏側だった武士だけではなく、後醍醐天皇側の武士たちも希望通りに恩賞がもらえないことに不満を抱いていました。
北条氏の時代の方が良かったと発言する者もいました。
北条氏勢力と、御醍醐政権に不満を持つ武士たちが、共に反乱を起こしたのです。

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1335年6月、京都で反乱計画が発覚。
首謀者は名門貴族の西園寺公宗です。
かつて西園寺家は、朝廷と鎌倉幕府との連絡、意見調整を行う関東申次を代々務めていました。
その為、いつしか公宗は、鎌倉幕府や武士たちと親しい関係となっていき、幕府の・・・北条家再興の機会をうかがっていました。
そして、鎌倉幕府滅亡から2年後のこの時、ある人物を京都に呼び寄せていました。
鎌倉から逃れていた時行の叔父・北条泰家です。
公宗は、泰家をはじめとする北条家と共に、京都だけでなく鎌倉をも一気に制圧する計画を立てていました。
京都と鎌倉を奪還すべく、京都・関東・北陸で同時に放棄しようと考えていました。
京都の大将として北条泰家を、北陸の大将として名越時兼を、関東の大将として信濃に逃れていた北条時行が挙兵する計画でした。
公宗は、手始めに、後醍醐天皇を自分の別邸に招き、暗殺することを計画します。
しかし・・・公宗の弟の密告で、公宗は捕らえられてしまいます。
さらに、時行の叔父・北条泰家は京都から逃亡・・・計画は中止になるかと思われました。
ところが、公宗捕縛の報せを受けた時行が、諏訪頼重らと共に信濃で挙兵!!
この時、時行はまだ7歳ぐらいでした。

時行らは、挙兵後、信濃守護の小笠原貞宗らと激突しますが、ここで軍勢を二つに分け、別動隊が守護らの軍を押さえている間に時行は上野に入ります。
ここから鎌倉街道を一揆に南下し、鎌倉へと攻め込む計画でした。
時行軍は、全長140キロもの道のりを、わずか6日間ほどで踏破!!
そして、1335年7月24日、あっさりと鎌倉を奪還しました。

この時、後醍醐天皇の軍を率いていたのは、足利尊氏の弟・直義でしたが・・・
直義が鎌倉から送った軍勢は、ことごとく討ち取られました。
時行軍は、進軍のスピードが速かったうえに強かったのです。
御醍醐政権に不満を持つ多くの勢力が加わったことで、時行軍は大軍勢となりました。
そこには、時行というブランド・・・北条氏と鎌倉幕府の再興を期待する軍勢の思いが、時行軍に大きな勢いをもたらしたのでした。
その大きくなった時行軍に、後醍醐天皇軍が怖気づき、逃亡したため簡単に奪還できたのです。

この時行の反乱は、後に中先代の乱と呼ばれることになります。
この中先代とは、時行のことなのですが、室町幕府を開いた足利家を当御代、その前の鎌倉幕府で政権を担っていた北条家を先代・・・時行はその中間に当たることから中先代と称されました。
時行は・・・北条家と足利家と同格に扱われてたのです。
しかし・・・鎌倉を奪還した時行の前に、足利家が立ちはだかります。

尊氏の焦燥・・・
北条家の再興を目指していた時行は、1335年7月、鎌倉幕府を奪還。
その知らせを聞き、誰よりも強く危機感を抱いていたのは、後醍醐天皇政権の要職についていた足利尊氏です。
尊氏は、時行を討伐するため鎌倉への出陣を許可してもらうよう後醍醐天皇に願い出ます。
さらに尊氏は、警察権と軍事権を持った”総追補使”と、武士の棟梁”征夷大将軍”・・・二つの官職を与えてくれるよう強く求めました。
時行には、北条得宗家というブランドがありました。
そのブランドに対抗できる肩書が必要だったのです。
しかし、尊氏は、官職要求だけでなく、鎌倉への出陣さえ認められませんでした。

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後醍醐天皇は、時行を征伐した後、尊氏が新たな武家政権を作るのではないのか??と、疑ったのです。
尊氏が、頼朝と同じ官職を求めたことで、後醍醐天皇の中で疑念が生まれたからでした。
結果として尊氏は室町幕府を造ることになるわけですが・・・この時尊氏は、後醍醐天皇から好待遇を受けていたため、新たな幕府を開くことまでは考えていませんでした。
結局、尊氏は後醍醐天皇の許可を得ずに勝手に鎌倉に向けて出陣します。

若君、再び逃げる・・・
京都を発った足利尊氏は、三河で弟の直義と合流し、鎌倉に向かいます。
一方、尊氏の進軍を聞いた鎌倉の時行らは、先手に出るべく軍を西へ向けて派遣することを決断します。
ところがその矢先・・・台風が鎌倉を襲い、強風により大仏殿が壊されます。
境内に避難していた時行の軍勢500人以上が下敷きとなって圧死してしまいました。
台風により鎌倉の町全体が、大きな被害を受けていました。

時行は、残った軍勢をなんとか西へ向かわせますが・・・
8月9日の遠江・橋本での敗戦を皮切りに、連戦連敗・・・
10日後には、尊氏らの軍に鎌倉を奪還されてしまいました。

尊氏軍の有力武将を討ち取るなど、時行軍は奮戦しました。
時行軍側に台風の被害が無ければ、どちらが勝ったかはわからない・・・そんな状況でした。
時の運に見放された時行軍は、奪還からわずか20日余りで鎌倉を明け渡すことになってしまいました。
さらに、この敗戦で、時行方の43人が自害。
人々は、時行もその中にいると思い込み、かつて鎌倉に君臨した北条得宗家・若君の早すぎる死に心を痛めたといいます。

しかし、時行は鎌倉から逃げ延びていました。
この時、自害したのは時行方の主だった武将43人。
その中には、時行の後ろ盾だった信濃の諏訪頼重もいました。
なんとか北条得宗家の嫡流・時行だけは逃げおおせるよう、彼等は自ら命を絶ったといいます。
さらに、京都から姿を消した時行の叔父・泰家は、この翌年に信濃で兵を挙げますが、その後、行方不明・・・戦死したと言われています。
北条得宗家の血をひく者は、時行ただ一人に・・・
そんな状況下で時行は足利尊氏と戦っていったのでしょうか?

若君の行方・・・
宿敵・足利尊氏により、再び鎌倉の地を追われることとなった北条時行は、その後しばらく足取りがわからなくなります。
時行はどこに逃れたのでしょうか?
確かな記録は残っていませんが、大きく二つの説が唱えられています。
①鎌倉から船に乗って伊豆国へ
船なら陸路より安全で、伊豆は北条得宗家の祖・時政が拠点としていました。
代々、北条家から手厚く保護されていたこともあって、安心して身を隠せたのかもしれません。
②一度目の逃亡の後、潜伏していた信濃国へ
その際、匿ってくれた諏訪頼重は鎌倉で自害していました。
しかし、孫は生きていたので、信濃国に潜伏していた可能性は高いと思われます。
信濃の伊那地方大鹿村に、時行が隠れていたという伝説が残っています。
桶谷という土地がりますが、王家谷が桶谷になったのでは??と言われています。
北条時行の子孫という人も、昭和まで大鹿村に住んでいました。
さらに、北条坂、北条道といった北条の名の地名まであったといいます。



打倒尊氏・・・
足利尊氏は、時行軍を破った後も、弟の直義と共に鎌倉に残り続けていました。
後醍醐天皇は、京都へ戻るように再三促しますが・・・尊氏たちはそれに応じません。
一説に、尊氏が鎌倉に残ったのは関東に潜む時行軍の残党の動きを見張るためだったと言われています。
僧とは知らず、尊氏の謀反を疑った後醍醐天皇は・・・尊氏らを討伐すべく、軍を鎌倉に派遣!!
ついに、後醍醐天皇と足利尊氏が決裂してしまいました。
やがて尊氏は京都を奪還!!
新しい天皇として光明天皇を擁立。
後醍醐天皇も大和国・吉野に新たな朝廷を開いたことで、二つの朝廷が対立する南北朝の内乱へと発展します。
鎌倉幕府を滅ぼした宿敵二人の分裂・・・
時行が大きな決断を下しました。
南朝の後醍醐天皇のもとに使者を送り、こう願い出ます。

”今までの我が罪をお許しいただいたうえで、南朝の軍勢に加えていただきたい”

時行は、鎌倉幕府を滅ぼした張本人である後醍醐天皇の配下につくことを選びました。
父・高時が自害に追い込まれたのは高時自身に非があったからです。
尊氏はもともと鎌倉幕府の御家人でした。
足利氏は代々北条得宗家から正室をもらっていました。
おまけに足利の当主は、嫡子の名に一字もらっていたのです。
足利家は、北条得宗家から目をかけられていたのに裏切った・・・そんな尊氏が許せなかったのです。

逃亡の果てに・・・
足利尊氏が打ち立てた京都の北朝と、後醍醐天皇が吉野に新たに開いた南朝が激しく対立する中、北条時行は打倒尊氏を胸に後醍醐天皇の配下につき、数々の戦に参戦。
その間、度々窮地に陥りましたが、持ち前の逃げ上手の才能を生かし、何とか生き延びていました。
この時、時行は9歳ぐらいだったと言われています。
しかし・・・1339年、後醍醐天皇が崩御すると、南朝は急速に弱体化。
併せて時行の動きも鈍くなり、やがて10年以上、歴史の表舞台から姿を消してしまいました。



再び登場するのは、1352年、時行、24歳ごろのこと・・・。
この時、北朝方の室町幕府は、尊氏と弟・直義が対立、内乱状態にありました。
そんな中、尊氏が鎌倉にいる直義を討つべく出陣すると、その隙に南朝軍が京都を制圧。
南朝軍は同時に鎌倉を奪還すべく、進軍していました。
その鎌倉へ向かう南朝軍の中に、時行がいました。
南朝軍は、一度は鎌倉を制圧しますが、10日ほどで尊氏に奪い返され敗北!!
時行はこの時も、なんとか逃げ延びます。

1353年5月・・・逃げ上手な時行が、ついに尊氏軍に捕らえられてしまいました。
そして、5月20日、時行は家臣らと共に鎌倉郊外の刑場で処刑され、北条得宗家再興の夢はついえたのです。

鎌倉幕府滅亡から20年の歳月が経とうとしていました。

北条時行の起こした中先代の乱は、時代の大きなターニングポイントとなりました。
時行を討つために、足利尊氏が鎌倉に向かったことが、後醍醐天皇とたもとを分かち、やがて尊氏が新たな武家政権・室町幕府を開く大きなきっかけとなったからです。
打倒尊氏を掲げていた時行が、皮肉にも尊氏の世を作る原動力となってしまいました。
逃げ上手の若君は、悲運の若君でもありました。


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1333年5月、新田義貞の攻撃によって鎌倉幕府は滅亡します。
この時、東勝寺で、幕府の実権を100年以上も握ってきた北条一族と重臣たちは自害して果てました。
討幕の最大の要因は、幕府から政権奪取を狙う後醍醐天皇の呼びかけでした。
これに応えた足利尊氏が、北条氏を裏切って、御醍醐方に寝返ったことでした。
しかし、幕府滅亡に対し、燃え盛る鎌倉から脱出した幼子がいました。
北条得宗家の息子・北条時行でした。
生涯を通じ、北条家を裏切った尊氏と戦い続ける時行・・・!!

「“若君”北条時行の終わりなき戦い」



鎌倉幕府滅亡時、北条得宗家当主・高時には、2人の息子がいました。
しかし、嫡男は、鎌倉からの逃亡中に命を落とします。
ただ一人の息子となった幼い次男・時行は、北条得宗家の被官・諏訪盛高につれられ、炎上する鎌倉から脱出しました。

かつて諏訪氏が治めた信濃国・・・時行が匿われた場所は定かではありませんが、その一つと言われているのが長野県の大鹿村湧谷・・・桶谷の由来は、王家谷から転じたともいわれています。
明治時代の地図には、”北條坂”・・・北条の名前が記されていました。
北条を名乗った人々は、この山の端で暮らしていました。

700年前・・・時行が山奥で暮らしていた時、京都では後醍醐天皇が実権を握り、倒幕の功労者たちを次々に取り立てていました。
幕府から寝返った足利高氏派、後醍醐天皇の諱”尊治”の一字を拝領し、北条高時からの高の字を捨てました。
名実ともに後醍醐天皇に乗り換えたのです。
討幕の翌年・・・1334年、元号を建武に改めたことで、後醍醐天皇の政治は、天武の新政と呼ばれています。
しかし・・・日本各地で北条一族の残党や北条氏に与する者たちの反乱が頻発しました。
鎌倉幕府滅亡から2年後・・・信濃に身を隠していた時行も、諏訪氏と共に蜂起!!
世に言う”中先代の乱”勃発です。
鎌倉を目指す時行軍には、東国武士が次々と加わり、数千の軍勢になったといいます。
中には、御醍醐政権側から寝返った武士たちもいました。

建武政権に不満を抱いている武士たちがたくさんいました。
彼等が、前代の権力者北条氏を担いで建武政権に反旗を翻したのです。
彼らの不満で一番大きかったのは、建武政権による武士たちへの恩賞の給付の遅れです。
膨れ上がった時行軍は、鎌倉を守っていた足利尊氏の弟・直義を打ち破り、鎌倉奪還に成功します。
時行が信濃で蜂起する直前・・・京都でも事件が持ち上がっていました。
かつて朝廷と鎌倉幕府の取次役だった西園寺公宗が後醍醐天皇の暗殺を計画していたというのです。
太平記によると、時行を関東の大将とする計画でした。
彼等は、京都と鎌倉の同時占拠を狙っていたとも考えられます。
しかし・・・京都の暗殺計画は事前に漏れ、公宗は捕らえられました。
公宗が処刑されたその日、尊氏は弟・直義救援に向かっています。

京都を発つにあたり尊氏は、後醍醐天皇に征夷大将軍への任官を求めます。
この時、尊氏が望んだものは”征夷大将軍”と”諸国惣追捕使”です。
それは、両方とも鎌倉幕府を開いた源頼朝が就いたものでした。
それに就けなければ、時行を破ることができないと思っていました。

鎌倉という土地は、武士にとっては特別な場所”吉土”です。
頼朝を継承するのは誰か??という戦いでした。
北条時行は、再び鎌倉を舞台にした凄惨な戦いを見ることになります。

鎌倉陥落を知った尊氏は、急ぎ東海道を東へ向かいます。
攻め上る尊氏、迎え撃つ時行・・・!!
浜名湖畔で始まった戦いは、その後、双方多くの戦死者を出す熾烈な戦いが続きました。
しかし、8月19日、時行軍は、遂に鎌倉を奪われてしまいます。
諏訪氏はじめとする時行側近43人は、源頼朝が創建した勝長寿院で自害しました。
太平記は、この時彼ら全員、顔の皮をはぎ、それぞれの身元を隠したと伝えています。
これは、大将の時行もこの時に死んだと見せかける偽装でした。
偽装工作は、まんまと成功し、尊氏軍の手を逃れた時行はまたしても鎌倉を脱出し、行方不明になります。

時行が鎌倉を奪還した中先代の乱は、わずか1か月ほどで集結。
しかし、短かった時行の反乱は、後の歴史に長い影を落とすことになります。

時行軍を撃退した尊氏でしたが、京都からの帰還命令に従わず、鎌倉を動こうとはしませんでした。
業を煮やした後醍醐天皇は、尊氏討伐軍を鎌倉に差し向けます。
しかし、尊氏に強烈な反撃にあい、その上京都を奪われてしまいました。
尊氏の軍事力に屈服した御醍醐は、いったんは和睦の姿勢を見せ、尊氏が擁立した天皇を容認しました。
しかし、数か月後には、奈良の山中・吉野にうつり、南朝と呼ばれる朝廷を開きます。
かたや尊氏が建てた朝廷は北朝と呼ばれ、南朝と対峙することとなります。
討幕の号令をかけた後醍醐天皇と、それを武力で実現した尊氏でしたが、2人の溝は深まるばかりに見えました。

この頃、行方知れずとなっていた時行でしたが、北条氏と幕府の再興をあきらめてはいませんでした。
打倒尊氏に執念を燃やし、機会を伺っていた時行・・・!!

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北条氏を糾合する??
それとも後醍醐天皇と手を結ぶ??

山深い要害の地・・・吉野・・・
ここに朝廷を開いた後醍醐天皇のもとに、ひとりの使者が現れました。
携えた文に認められていたのは、行方知れずとなっていた時行の切々たる思いでした。

”父・高時が、帝からお咎めを受けたことを、この時行はみじんも恨みには思っておりません
 にくいのは、我が北条家の与えた恩を忘れ、さらには帝にも叛くという大逆非道を行う尊氏であります
 北条氏は、一族を挙げて尊氏を敵と定め、恨みを晴らしとうございます
 我らの心情をお汲み取りいただき、朝敵尊氏懲罰のため、帝の軍勢に加わるをお許しいただきとうございます”

時行は、倒幕を命じ、父を自害に追い込んだ御醍醐と手を結ぶことを選んだのです。
後醍醐天皇は、この申し出を受け入れ、時行と北条氏を赦免しました。

御醍醐にとっては、吉野に引っ込んだけれど、もう一回京都を取りに行く!!
北条一族、得宗被官は、全国に潜伏、散らばっていました。
泥臭くても勝つ!!ことが至上命題でした。
過去の遺恨は捨てて、目の前にある勝ちに執着したのです。

諸悪の根源は御醍醐・・・しかし、足利氏が北条氏を、鎌倉幕府を裏切ったことが何よりも許せませんでした。
足利氏は代々、北条氏から妻を娶ったりし、他の御家人より優遇されていました。
どうしても許せなかったのです。

南朝方となった時行は、上洛を目指す南朝の雄・北畠顕家と合流し、再び鎌倉を陥れます。
中先代の乱から2年後のことでした。
翌年正月・・・時行は後醍醐天皇の求めに応じて、北畠軍と西へ進軍!!
しかし、北畠軍は和泉の戦いで破れ、時行も戦線離脱・・・!!
この1年後、劣勢を挽回するため、後醍醐天皇は壮大な構想の実現に向け動きます。
それは全国に後醍醐天皇の皇子・分身を送り込み、皇子を有力な武将、公家が支えるという構造を各地に展開するのです。
まず地域を押さえ込み、それから京都を奪還するというものでした。

時行は、御醍醐の皇子の一人をいただき、東へ向かうことになりました。
9月、時行一行は、奥州へ向かう軍団と大船団を作り、伊勢の港を出港したと太平記にあります。
ところが・・・折あしく、遠州灘で大嵐に遭遇・・・船団は、散り散りになり、時行はこの後、またもや行方不明となるのです。

遠州灘の嵐から2年後、時行の姿は幼い頃を過ごした信濃にありました。
時行は、尊氏方の信濃守護・小笠原氏と戦っていました。
相模次郎時行を支えたのは、中山道の乱を共に戦った諏訪氏一族でした。
おそらく北条時行と諏訪上社は、何らかの連絡を取っていたと考えられます。
諏訪頼重以来の忠節が残っていたのです。

大徳王寺城と思われる遺構が残されています。
敵対する足利方の守護・小笠原勢も向かいの山に砦を築き、時行の戦は長期戦となりました。
4カ月に及ぶ籠城の末、大徳王寺城は開城しましたが、その時、そこに時行の姿はありませんでした。

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時行が再び歴史に現れるのは、籠城戦からはるか12年後のことです。
勢力挽回をかけた南朝方が、尊氏を破り鎌倉方を奪還します。
1352年2月20日、時行は、3度目の鎌倉入りを果たしました。
時を同じくして、奈良の南朝軍も京都に攻め入り、留守を預かる尊氏の息子・義詮を近江に逃亡させました。
遂に、南朝による京都と鎌倉の同時占領が達成され、南朝政権が再興するかに見えました。
しかし・・・鎌倉の南朝方は、尊氏の反撃にあい、時行の鎌倉入りからわずか2週間足らずで鎌倉を離れました。
同じく京都の義詮に奪い返され、南朝方はまたしても逼塞させられることになります。

時行が3度目の鎌倉入りを果たした翌年の5月・・・鶴岡八幡宮の記録に、京都・・・即ち幕府への反逆者が捕縛されたことが残されています。
とらわれたのは、北条家の家臣として長く仕えた長崎氏、工藤氏、そして相模の次郎こと北条時行・・・!!
鎌倉幕府滅亡から20年・・・1353年5月20日、時行は、長年連れ添った被官らと共に鎌倉の西・龍口の刑場で斬首されました。
足利尊氏打倒に生涯をささげた時行は、その最期を鎌倉からわずかの場所で迎えました。

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時代の変わり目には、強烈な個性を持った人物が現れます。
南北朝を駆け抜けた一人の武将・・・バサラ大名・・・佐々木道誉!!
バサラとは、婆裟羅とは、奇抜な衣装と振る舞いで、注目を集め、古い権力や秩序をものともせず、常識破りの行動をする者たちを指す言葉です。
道誉は、鎌倉幕府に仕えながら裏切り、後醍醐天皇につきまた裏切り・・・
一方で、茶の湯や生け花など、新たな文化を育てる傑出した千里眼の持ち主でした。

琵琶湖の東に位置する滋賀県米原市・・・中世には、近江国と呼ばれ栄えた場所です。
鎌倉時代後期の1296年、佐々木道誉は、近江国の有力御家人・佐々木氏の四男に生れました。
若くして鎌倉幕府に出仕し、最高権力者・北条高時にも認められる存在でした。
27歳で検非違使に任じられ、都の治安を守る仕事についています。
そんなエリート御家人・道誉に転機が訪れます。

1331年、後醍醐天皇が幕府打倒を掲げて挙兵・・・
笠置山に籠りますが、1か月で鎮圧・・・捕らえられ隠岐の島に流されました。
この時、後醍醐天皇の護送役となったのが道誉でした。
都から隠岐の島に向かう十数日の間、道誉は後醍醐天皇から幕府を討つ理由を聞かされたともいわれています。
天皇の挙兵は、幕府に不満を抱く各地の武士たちに決起を促しました。
都に近い河内国では、楠木正成が挙兵・・・後醍醐天皇も隠岐の島を脱出、これに対し、幕府は足利尊氏を大将とする鎮圧軍を派遣します。
道誉の子孫の家の伝えによると、道誉は進軍してきた尊氏を近江でもてなし、後醍醐天皇から討幕の綸旨を受けたと告げ、尊氏と共に天皇側に寝返ってしまいます。
尊氏は、京都の六波羅探題に攻め込みます。
この時の道誉の働きを、今に伝える場所があります。

米原市蓮華寺・・・
1333年、尊氏に敗れ鎌倉に逃げる北条仲時ら六波羅探題の軍を道誉が差し向けたといわれる軍勢が襲撃・・・蓮華寺に追い込みました。
弓矢も尽きてしまい、鎌倉まで到底行くことはできない・・・
ここで自害して果てるしかない・・・全員、刺し違えたり、切腹をして自害をして果てました。
その時、境内が血の海になったといわれています。

1333年5月、鎌倉幕府滅亡・・・。
まもなく、後鳥羽上皇による建武の新政が始まります。
道誉の功績が認められ、「雑訴決断所」の幹部に抜擢されます。
しかし、建武の新政は、早々に暗礁に乗り上げます。
太平記によれば、後醍醐天皇は、公家や仏門、お気に入りの武将ばかりを優遇・・・
京都二条河原には、痛烈な批判の落書が掲げられました。

”この頃都に流行るもの
     夜討 強盗 謀綸旨
        何でもありの世界になってしまった・・・”

新政が始まって2年後・・・1335年、北条氏の残党が、信濃で蜂起し鎌倉を占拠!!
足利尊氏は討幕軍を率いて京都を出立・・・道誉も従軍し、鎌倉奪還に成功します。
尊氏はそのまま鎌倉に居座り、天皇の許可を得ずに恩賞を与え始めました。
尊氏の勝手なふるまいを知った後醍醐天皇は、尊氏を朝敵として討伐軍を派遣・・・
この時、道誉は尊氏に天皇方と戦うことを強く促します。

”武家の棟梁になる人がおらず、心ならずも公家に従ってきたが、尊氏様が立つと知って付き従わないものはいないだろう”by道誉

1335年12月、道誉は、天皇の討伐軍と駿河で激戦!!
弟は討ち死に、自らも痛手を負いました。
すると、即座に天皇方に降伏・・・寝返ってしまったのです。

6日後、道誉は、天皇方として戦場に立ち、足利軍と対峙・・・
ところが、他の戦場で足利が有利の報せを聞くと、すぐに足利方に寝返り後醍醐天皇の軍勢を散々に蹴散らしました。
尊氏軍は、大勝利の勢いに乗って京都まで攻め上り、遂には後醍醐天皇を退位させます。
その後、後醍醐天皇は吉野に逃れ、南朝を創設。
寝返りを繰り返し、強い者につく道誉のふるまい・・・そこにこそ乱世を生き抜く渡世術がありました。
道誉は、自分の利益、恩賞を与えてくれる君主であれば誰でもよかったのです。
当時は、現代に比べると裏切りが恥という感覚は希薄でした。
”返り忠”といって、無能な主君を裏切ることはいいことのような観念すらありました。
1336年11月、京都に足利幕府が開かれます。
道誉は、若狭や近江などの守護を歴任・・・幕府の中心人物の一人になっていきます。

足利尊氏が幕府をひらいて4年後の1340年、秋・・・
道誉の行動が、都中の物議を呼びます。
「太平記」に一部始終が書かれています。
”誰もが驚く栄達を遂げた佐々木道誉殿
 一族郎党引き連れ、レイの婆裟羅ないでたちで、鷹狩りをした帰り道の事・・・
 ふと通りかかった寺のモミジの美しさに目を奪われ、
 「おい、あの枝を折ってもってこい」と、家来に命令いたします
 ところが、この寺は上皇様の弟が住職を務める門跡寺院・・・
 境内には僧兵がいて、枝を折った家来を見つけるや、殴り倒し、けりまわし、寺の外へ放り出してしまいます
 道誉殿は激怒!!
 「どんなに偉い寺だか知らぬが、この道誉の身内に手を挙げた者は許さん!!」
 その晩のうちに300あまりの兵を引き連れ、寺を焼き討ち!!
 寺の宝物まで奪い取ってしまったのです
 
事件を知った公家が、日記に・・・
 「言語道断の悪行・・・天魔の仕業か・・・!!」と記したほどの大事件
 焼き討ちされた寺の本山である比叡山延暦寺は、幕府に詰め寄り仏門を冒涜した道誉親子を死罪にせよと要求いたします
 実は、道誉のように振る舞う婆裟羅大名は、他にも居りました
 美濃守護・土岐頼遠は、天皇の兄である金剛院様の行列に行き会い、馬から降りるように求められたことに怒って「院だと??犬なら射よう」と、矢を射かけてしまいます
 その為、死罪にされたのでございました
 天皇家に近い門跡寺院を焼き討ちにした道誉にも、重い罰が下されると思いました
 ところが・・・下されたのは、上総国への入るという軽い処分でございました
 しかも、上総に向かう道誉は、一族郎党を引き連れ、道々に遊女や酒まで用意し、およそ罪人にこうとは思えぬありさまだったといいます
 その上、一行は全員が、サルの毛皮を腰に巻く異様な出で立ち・・・
 太平記はサルを神の使いとして尊ぶ比叡山を嘲ったのだと記しております”

処分から4か月後、足利尊氏は道誉を呼び戻し、政治に復帰させます。
どうして佐々木道誉の処分はこんなに軽かったのでしょうか?
実は、道誉は幕府にとって欠かせない存在でした。

1357年に完成した准勅撰連歌集「菟玖波集」
2190句もの連歌を収めた連歌集を紐解くと・・・天皇や公家、僧侶に交じって道誉の詠んだ句が81も載せられています。
連歌とは、和歌の上の句、下の句を何人もで次々と詠み連ねていく形式の歌です。
今も連歌の作法はそのままに残されています。
発句が詠まれ・・・詠まれた句の判定をするのが宗匠です。
評価し、採用不採用を決めていきます。
上の句に、参加者が即興で考え披露します。

菟玖波集に、道誉は、

今年なほ 花を見するは命にて 

と、句を詠んでいます。
これは”いたずらにこそ昔ともなれ”に続いたものです。
道誉は、一瞬一瞬を生きて、楽しんできた人でした。
道誉の邸宅に、公家や僧侶が集まり、連歌を早朝から1日かけて詠まれました。
休憩には、御馳走や菓子、酒が振る舞われました。
歓談することでより親密な関係を築ける場所でした。
この宴会こそが重要なカギでした。
武士と公家が融合するツールとして、積極的に導入していっています。
宴会を政治利用し、文化でもコーディネートしたり、プロデュースしたりする・・・
色々な仕掛けをこしらえたり、華美にしたり、趣向をこしらえたり・・・
道誉は一番抜きんでていました。
そこで行き交う情報を得ることで、共感、合意を持っていくような手法はあります。
菟玖波集を編纂した朝廷のじ津力者・二条良基も、道誉の能力を高く評価していました。

「道誉が連歌に熱中していた頃は、誰もが道誉の風情をまねた」

道誉は、幕府から武家申詞という役職に任ぜられています。
これは、幕府の求めを朝廷側に伝える重要な窓口です。
その仕事は、幕府の御家人たちへの所領安堵や処罰、公家の官職任免などの人事、寺社に対する政策など、あらゆる分野におよんでいました。
この時、朝廷側の窓口は、内大臣・勘修二経顕・・・道誉とは昵懇の間柄でした。
たとえ、門跡寺院に火を放つ大事件を起こしても、道誉は幕府にとってなくてはならない人材でした。

1350年、幕府が開かれて14年後・・・幕府は未曽有の危機に見舞われていました。
征夷大将軍の尊氏と、政治を主導していた弟・直義の対立が全国規模の内乱に発展・・・観応の擾乱です。
直義は、後醍醐天皇が開いた南朝と結び、尊氏打倒の綸旨を授かります。
諸国の有力守護が直義に従い、形勢は一気に直義有利に・・・!!
この時道誉は、敗北寸前の尊氏親子を説得・・・尊氏が南朝に降伏するという離れ業で、直義追討の綸旨を獲得!!
劣勢を挽回し、直義を打ち破りました。
観応の擾乱は、2年ほどで終息・・・
しかし、幕府が安泰となることはありませんでした。
将軍・尊氏が、戦いで受けた傷がもとで他界・・・
尊氏を継いで二代将軍となったのは、28歳の息子・義詮でした。
太平記では、周囲の口車に乗りやすい付和雷同型の人物だったとされています。
そんな義詮を補佐し、実際の政を行う評定衆・・・幕府最高の政務機関です。
評定衆に名を連ねたのは、足利一門の細川清氏、仁木頼章、守護大名の土岐頼康、そして佐々木道誉など、有力守護や足利一門が7名ほどが任命され、合議制で政務を行いました。
ところが、その評定衆内で、激しい勢力争いが行われることとなります。

1359年、仁木義長兄弟が6か国の守護職を兼ね、評定衆内で権勢をふるうようになります。
他の守護の土地を奪い、評定衆と口論するなど軋轢を起こしました。
周囲との対立が高じて、遂に将軍・義詮を軟禁・・・
道誉は機転を聞かせ、義詮を救出・・・他の評定衆と共に、仁木を京から追い出しました。

代わって権勢をふるうようになったのが、幕府No,2の細川清氏!!
道誉が娘婿に与えようとした加賀の守護職を横取りし、さらに道誉が孫に与えた摂津守護職の返上を求めるなど、道誉の力をそぎにかかります。
太平記には、清氏が将軍・義詮を呪う祈祷を行っていると密告!!
実際、清氏は討伐されることとなります。
有力な足利一門を追い落とす道誉・・・
この頃、武家権勢道誉法師と恐れられていました。
そんな道誉の前に、最大の敵が登場します。
足利一門の斯波高経です。
一門の中で、足利将軍家に匹敵する格式を誇り、幕府草創期には後醍醐天皇側の有力武将・新田義貞を討ち取るなどの功績をあげていました。
道誉は、高経の3男に娘を嫁がせるなど、二人の仲はもともと悪くはありませんでした。
しかし、細川清氏が失脚すると、高経は幕府内の自分の立場を強化・・・
4男をNo,2将軍執事の位につけると、その父として実権を握りました。
その外、次男を九州探題、五男を侍所頭人、孫を引付頭人に任命、幕府の要職を、一家で独占してしまいました。
主導権を握った高経は、幕府を意のままに動かしています。
全国の守護に将軍の屋敷の造営費を負担させたり、諸侯に課す税金を倍増させるなど強引な政策を推し進めます。
強健的な政治を独断で進める斯波高経・・・
その勢いの前に、道誉も手を打てないでいました。

高経をどうする・・・??
権勢をふるう高経とどう向き合うべきなのか・・・??

1366年3月、道誉に一通の招待状が届きます。
送り主は斯波高経・・・高経は、公家や守護たちを将軍御所に招いて盛大な花見の宴をしようと企画・・・
斯波一族の権勢を世間に見せつけようとしたのです。
この時、道誉も花見に参加すると返答・・・
ところが、道誉は高経の思いもよらぬ行動に出るのです。
将軍御所から10キロほど離れた京都大原野・勝持寺・・・
ここで道誉は、高経主宰の宴と同じ日、かつてないほどの盛大な宴を開いたのです。

その様子が太平記に記されています。

”花見の宴は型破りの一言・・・
 道には毛氈を敷き詰め、寺の高欄には金箔を施しておりました
 背の高い桜の木の前に大きな真鍮の花瓶を置き、桜の木を生け花に見立てたとてつもないスケール感、
 さらには、巨大な高楼を用意し、大量の名香を一気にたかせこの世のものとは思えない香が漂ったと申します
 宴には、道誉殿が流行らせたというお茶や生け花も持ち込まれ、道誉殿の元には次々とお客様が訪れ等のでございました

一方、高経主宰の花見には、人は集まらず、将軍の屋敷で宴を開いた高経の面目は丸つぶれとなったのです”

その腹いせに、高経は後日、道誉の仕事の不手際を攻め、摂津守護職を召し上げています。
高経は、道誉の挑発に乗ってしまったのです。
すると道誉は、主だった守護を味方に率いて、
「この管領、天下の政務に叶うまじ!!」
仕事に史上を挟む高経のような人物は天下の政など到底担えないなどと、義詮に進言。
将軍・義詮は、高経を京都から追放します。
道誉は、高経を排除することを決断したのです。
道誉は、義詮、義満にも仕え、幕府の重鎮であり続けます。

道誉が本拠地とした滋賀県甲良町・・・言い伝えでは、道誉は一帯の荒れ地を開墾、ため池を作り、河川の治水工事に力を注ぎ、領民たちの暮らしと安全を守りました。
開拓された豊かな農地が、京都で活躍する為の財源となったといいます。

道誉の善政は長く伝えられ、戦国時代に織田信長が勝楽寺を焼き討ちした時には、道誉が設置した御本尊を領民が隠し守ったといいます。
道誉70歳・・・古希の祝いに描かれた肖像画・・・そこに、自筆でこんな言葉を残しています。

”浮き沈みの激しいいろいろなことがあった人生だった
 しかし、私は世間の噂など気にしない
 私のすることは、理解されなくていい”

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1333年、100年以上続いた武家政権鎌倉幕府が滅亡しました。
幕府を倒したのは、北関東を拠点にしていた武士・新田義貞でした。
義貞の倒幕で、時代は大きく転換します。
倒幕後、政治の実権を握った後醍醐天皇は、建武の新政という天皇親政を実現します。
これが、南北朝時代といわれる日本史上まれにみる動乱の時代を呼び込むこととなるのです。

太平記・・・太平記の中で、新田義貞は後に室町幕府を開く足利尊氏のライバルとして熾烈な戦いを繰り広げています。
しかし・・・当時の義貞の立場に疑問が・・・??
実力の時代を切り開いた新田義貞の真の姿とは・・・??

新田氏が治めたのは、現在の群馬県太田市。
かつて新田荘と呼ばれたこの地には、井の文字が多く使われ、たくさんの水源があったことが分かります。
今も市内で湧き出す地下水・・・多くの水源は、新田荘を潤し、豊かな実りをもたらしました。
これにより新田氏は、北関東で大いに力を蓄えていきました。

新田義貞が生れたのは、今からおよそ700年前の1300年頃といわれています。
当時、鎌倉幕府の実権を握っていた北条氏の権力はゆるぎないものに見えました。
ところが・・・近畿地方で異変が起こります。
1331年、後醍醐天皇が政の実権を幕府から取り戻そうと河内の土豪・楠木正成らを動かし倒幕の狼煙をあげたのです。
義貞は、幕府軍の一員として制圧に向かいました。
しかし、ゲリラ戦を展開する楠木達後醍醐方に苦戦を強いられ、戦いは長期を呈しました。
戦のさ中、義貞は新田荘に帰郷します。
一説には、この時後醍醐方から倒幕の指令を受けていたともいわれています。

一方、畿内で苦戦する幕府は、戦費調達のため裕福な新田荘に臨時の税を課し、2人の使者を取り立てに向かわせます。
この時、事件が起こりました。
義貞は、なんと幕府の使者の一人を斬首・・・もう一人を拘束してしまいました。

鎌倉幕府は、盤石で最盛期を迎えていました。
強い鎌倉幕府に対して、新田義貞は戦争をしかけていくのです。
これは、非常に大きな選択でした。
戦が続く畿内でも、大きな衝撃でした。
幕府方の有力者・足利高氏が後醍醐方に寝返り、鎌倉幕府の京都監視機関・六波羅探題を攻め落としたのです。
新田荘の義貞も、これに呼応するかのように反幕府で挙兵!!
挙兵の地とされるのが、旧新田荘・生品神社・・・
古くから地元の信仰を集めてきたこの神社には、義貞が挙兵の際に幟を立てたといわれる巨木が保存されています。
この時、神社に集まった義貞軍は、わずか150騎・・・義貞はこの少数で鎌倉幕府に戦いを挑もうというのか・・・??

義貞は幕府本拠地・鎌倉への進軍を開始しました。
途中、鎌倉を脱出した足利高氏の息子・千壽王も合流。
大軍勢となった義貞率いる反幕府軍は、鎌倉で北条方と激突します。
義貞は、一族に犠牲を出しながらも奮戦し、北条氏の多くを自刃に追い込みます。
1333年5月・・・鎌倉幕府は、義貞の攻撃によって滅亡しました。
これまで無名の存在だった新田義貞は、この勝利で足利高氏とならぶ、倒幕の功労者として都でその名を知られることとなります。

義貞や高氏の働きで鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇は、幕府も院政も否定し、天皇自身への権限集中を実行しました。
1334年、年号が建武に変更されたことからこの政治体制は建武の新政といわれています。
義貞は、倒幕の恩賞として播磨の国司に就任し、新田一族の多くが都の警察に相当する武者所の要職につきました。
さらに新田氏は、北陸地方、越前・越後の国司などにも任命され、後醍醐政権の中枢を担うこととなります。

もう一人の倒幕の功労者・足利高氏は、更なる地位を築いていました。
武蔵・常陸・下総など東国の国司に任じられただけでなく、天皇の諱・尊治から”尊”の字をもらい尊氏へと名を改めます。
全国の武士への指揮権も与えられた尊氏は、後醍醐政権の侍大将ともいうべき地位に登りました。

鎌倉幕府滅亡の2年後、東国で北条氏残党による反乱がおこり、尊氏は鎮圧に向かいます。
ところが、乱の終息後も、尊氏は鎌倉を動こうとしない・・・
天皇の上洛命令にも従わないという不可解な行動に出ます。
その背景にはったのは、倒幕の恩賞への不満とも、征夷大将軍や幕府をめぐる考えの相違ともいわれています。
後醍醐天皇は尊氏の行動を反抗と受け取り、討伐を決意します。
その大将に指名されたのは義貞でした。
義貞の負けられない戦いが始まります。

太平記では、義貞も尊氏も、源氏の嫡流とされ、2人で武家の棟梁を争ったと書かれています。
しかし、近年の研究では、同格のライバル関係ではなかったという説が提唱されています。
足利家は格が高く、幕府でも重要視されていました。
新田は無位無官・・・同じ一族の上下縦の関係でした。
新田にとって足利を打倒する・・・それは下克上的な状況でした。
後醍醐につくのか、足利につくのか・・・大きな分かれ目でした。

義貞は、鎌倉に向かって出陣しました。
しかし、尊氏の反撃に撤退を余儀なくされ、逆に京都を奪われてしまいます。
後醍醐天皇は京都を逃れ、比叡山山麓の東坂本・・・現在の滋賀県大津市の日吉大社に籠りました。
義貞らは、東北からの援軍を受け反撃!!
尊氏を九州に追い落とすことに成功します。
しかし、わずか3か月後・・・
1336年5月、西国の武士たちを引き連れて大軍勢で攻め上ってきた尊氏に、義貞は惨敗・・・。
再び尊氏に京都を奪われ、またもや後醍醐天皇と共に比叡山に撤退することとなりました。

琵琶湖を望む比叡山東山麓・・・京都を尊氏に追われた後醍醐天皇は、ここ近江国・東坂本の日吉大社に籠ったと伝わっています。
古来、天皇家の崇拝を受けてきた日吉大社は、比叡山延暦寺と共通の境内を所有していました。
織田信長、明智光秀に延暦寺が焼き払われたとき、日吉大社も灰塵に帰しました。
義貞、尊氏は、共に散発的な戦いを繰り返しますが、双方戦局を打開できずにいました。
季節は秋から冬に向かおうとしていました。
膠着状態を打開しようと尊氏は一計を案じます。
密かに後醍醐天皇に使者を送り、和睦を持ちかけたのです。

後醍醐天皇は、尊氏からの申し出を誰に諮ることもなく、受け入れることに決めました。
後醍醐方の指揮官でありながら、義貞はこの謀を知らされることはありませんでした。
新田一族の武将・堀口貞満は、鎌倉討伐戦以来、義貞と戦い続けてきていました。
不穏なうわさを聞きつけて、天皇のもとに向かいました。
そこで目にしたのは、今まさに京都に向かおうとしている後醍醐天皇でした。
堀口は、涙ながらに義貞始め新田一族の忠誠を訴えます。
そこに、3千余りの兵を率いて義貞も駆け付けます。
尊氏との和睦を決めた後醍醐天皇・・・
一族の想いを語る堀口・・・
両者の間で義貞は、厳しい選択を強いられます。

堀口の言い分は至極最も・・・帝が尊氏と和睦するのは命がけで忠誠を尽くして来た我らに対する裏切りに他ならない・・・このままでは、一族の結束が保たれない・・・
あくまでも、武家の棟梁を勝ち取るために、尊氏と戦い続けなくてはいけない・・・鎌倉倒幕以来の決戦で、新田は多くの命を失ってきたが、ここは残った者たちを戦い続ける・・・??

しかし、このまま帝が尊氏方に行けば、我らは朝敵・・・賊軍となってしまう・・・。
帝と一緒に山を下り、尊氏に服従を誓う・・・??

義貞が鎌倉討伐のために、ふるさと新田荘を出てから3年が経とうとしていました。
後醍醐天皇は、独断で尊氏との和睦を決めていました。
多くの兵を従えた義貞に気おされたのか、口を開いたのは後醍醐天皇でした。

「義貞よ・・・尊氏と和睦するのは一時の謀にすぎず、巻き返す時が来るのを待つつもりなのだ
 事前に知らせなかったのは、事情が漏れることを恐れたに過ぎない・・・
 だが、堀口の恨みを聞いて、自分が誤っていたことに気が付いた
 義貞を朝敵にするつもりはない・・・
 こうなったからには、皇太子に位を譲るので、共に北陸へ向かい、体制を整えて再び朝廷のために働いて欲しい」

義貞は、これを聞き、覚悟を決めました。
後醍醐とはなれ、北陸に・・・尊氏と戦い続けることを選んだのです。
義貞は、北を目指しました。
冬がすぐそこまで来ていました。

一旦、尊氏方に下った後醍醐も、その年の暮れには、京都から吉野に脱出!!
京都と吉野、それぞれに朝廷が立ちました。
南北朝の始まりです。
皇太子を立てて北陸へ向かった義貞は、尊氏方の激しい追撃を受け苦戦していました。

1337年3月・・・越前国・敦賀の戦で、皇太子を尊氏側に奪い取られ苦境に陥った義貞・・・
しかし、義貞は戦いをやめませんでした。
尊氏方の追撃をかわしながらも、各地の兵を糾合し、地盤を固めようとしていました。
どうして義貞は、南朝の後醍醐と合流しなかったのでしょうか?
それは、北陸を拠点にして北関東・北陸で地盤を固め、後醍醐の吉野方、あるいは足利軍団に対抗する勢力を形成しようとしたのではないか・・・??
実力があれば交渉ができる・・・!!
北陸を固めることが、新田にとっては一番重要だったのです。

1338年7月2日・・・義貞が北陸に下って2年近く・・・尊氏からの執拗な攻撃は続いていました。
義貞は、尊氏方が立てこもる城の視察に50騎の兵を連れて向かいました。
しかし、その途中、敵方300騎と遭遇・・・攻めたてられた義貞は、泥田に落とされ、あえなく命を落としました。
義貞が最期を迎えたといわれる地は、現在では公園として整備され、その一角にはささやかな祠が建てられています。
新田義貞は、新田荘を出て以来、清らかな水に満たされたふるさとの地を一度も踏むことなく、その生涯を終えました。

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