日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:徳川家治

1787年江戸・・・激しい物価高に悩んでいました。
原因は凶作と商人たちによる買い占め・・・米の値段は例年の4倍にまで跳ね上がりました。
生活に行き詰まり、橋や船から川に身投げする人が後を絶ちませんでした。
ところが幕府は助けてくれない・・・!!

「昔、飢饉の時には犬を食べた、今回も犬を喰え」

人々の我慢は限界を超え、米屋を狙った一斉蜂起が起きました。
江戸時代最大規模の打ちこわし「天明の打ちこわし」です。
将軍のおひざ元での大暴動は、幕府に強い衝撃を与えました。
打ちこわしは、政権交代のきっかけとなり、後に寛政の改革を行う松平定信の登場をもたらします。

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1787年5月20日、江戸。
どこからともなく集まった町人たちが米屋を狙い、打ちこわしを行いました。

”店にある米俵はもちろん、店に置いていた米俵も担ぎ出して切り裂き、路上にぶちまけた”

打ちこわしの原因は例年の4倍以上となった米価の高騰でした。
打ちこわしは20日に深川と赤坂で始まり、21日には江戸一帯へと広がりました。
米屋を中心に、油屋、乾物屋、薬屋などが襲われました。
男たちは身の回りにあった木槌や鍬などを持って参加しましたが、とりわけ多くのものが手にしたのが鳶口でした。
火事の際、延焼を防ぐために周囲の家を引き倒したり、解体した木材を運ぶための道具です。
町々には、火事に備えて数多くの鳶口が保管されていました。
しかし、打ちこわしといっても家そのものを壊したり、暴れまわったりするものではなく・・・
記録によるとそれは・・・

打ちこわしを始まめる前に数人で店に入りきちんと火の元を消す・・・
火事を起こして周囲に迷惑をかけることを避ける気配りからです。
打ちこわしは、リーダーがうつ拍子木で始まります。
さらに、再び合図が鳴ると打ちこわしを止め、みんなが一斉に休憩をとりました。
次の合図でまた打ちかかる・・・規律のある行動でした。

店の商売道具は滅茶苦茶にしたが、店の人には手出しせず危害を加えることはありませんでした。
混乱に乗じて物を盗むことも禁じ、万が一盗みを働く者がいたときは、仲間内で即座に打ち殺すという申し送りまでありました。
こうした打ちこわしの様子を見た水戸藩士の証言は・・・

「誠に丁寧、礼儀正しく狼藉に御座候」

狼藉には違いないが、秩序と統制を重んじた一風変わった暴動だったのです。
打ちこわしに参加した町人たちは目に余るほどの大勢と記録され、打ちこわしの被害に遭った商店は1000軒と言われています。
参加者は日増しに増え、広がっていきました。
事態収拾のため、江戸の治安を守る与力・同心が出動します。
この時彼らを指揮したのが、鬼平でお馴染みの長谷川平蔵でした。
しかし、蜂起した町人たちのあまりの規模に、与力と同心たちだけでは多勢に無勢・・・
騒ぎを収めることはできませんでした。
こうして江戸の大混乱は5日間にわたって続いたのでした。

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18世紀、江戸の人口は100万を超え、その半分を町人が占めていました。
町人の大半は、家を借りて長屋で暮らす店子でした。
長屋では3坪か4坪の部屋にそれぞれの家族がひしめき合って暮らしていました。
仕事は異なれど、長屋で暮らす者は稼ぎで食料を買って暮らすその日暮らし・・・
食事は白米にみそ汁と漬物が基本の一汁一菜。
おかずは質素でも江戸っ子は白米を好んで食べました。
そんな江戸の庶民を直撃したのが、急激な物価高でした。
大豆や麦、そばなど穀物全般が値上がりしましたが、激しく値上がったのが米でした。
例年ならば100文で1升1合買えましたが、打ちこわしの正月には値上がりによって100文で6合~7合しか買えなくなりました。
米の値上がりは、留まることを知らずに、4月下旬には100文で5合~4合半、その10日後には4合半~4合・・・さらに1週間後には3合・・・その2日後には2合半にまで高騰しました。
例年の4倍以上、米価高騰が庶民を襲いました。
棒手振の稼ぎが1日300文・・・当時の人は、ひとり1日3合の米を食べたと言われています。
日銭暮らしの町人が一家を養うことは不可能となりました。

米価高騰の裏には・・・1783年浅間山の大噴火と異常気象がもたらした天明の大飢饉がありました。
降り続く火山灰と冷夏が、東日本で農作物に深刻な被害を及ぼしました。
さらに追い打ちをかけたのが、大洪水!!
関東一帯が大洪水に見舞われました。
打ちこわしの前年、全国の米の収穫量は例年の1/3にまで減少していました。

幕府も手をこまねいていたわけではなく、品不足による米価高騰を防ぐ対策を打っていました。
それが通称”米穀売買勝手令”です。
当時、決められた業者のみが米の販売や流通を行うことを許されていましたが、それを撤廃。
素人・・・それまで米取引を行っていなかった商人も自由に売買してもいいというものでした。
新たな商人の参入によって、米の流通量を増やして米価の引き下げを狙った緊急時の時限立法です。

しかし、この政策は、幕府の意図とは逆の方向に・・・
新たに参入した商人たちの中に、投機目的で米を買い占めて価格のつり上げを狙うものが現れました。
買占めによって米価は一層高騰します。
幕府は、米価高騰を収めるため、商人による米の買い占めを禁止します。
しかし、これが出されても、米の買い占めは治まることはなくあがる一方でした。
どうして買占めは止まなかったのでしょうか?
それは、商人たちが法の目をかいくぐったからです。
米価高騰の背景には、商人が旗本と結託して、賄賂などを贈って旗本の屋敷に預けて米を隠す・・・
市中に出回る米が少なくなるので米の値段が上がります。
これは、将軍直属の隠密であるお庭番が、町で広がる噂の実情を探っています。

米の値上がりと不正への怒りが、人々を打ちこわしに向かわせました。

打ちこわしがあった町の辻には、木綿の旗が掲げられていました。
その旗には、打ちこわしに及んだ理由と幕府への要求がびっしりと書かれていました。

”老中をはじめ町奉行や諸役人が、結託して悪事を働いたため、その罪により打ちこわしを行った
 もし、幕府が徒党の者をひとりでも逮捕し、罪を科すならば老中や町奉行、諸役人を行かしてはおけない
 その為の人数は、何人でも動員するし、このことを厭うことはない 生活の成立を保障する政策を実施すべし”

木綿の旗に記された言葉には、打ちこわしは正義の行いという強い思いが書かれていました。
怒りの矛先は、直接的には不正を行う商人に向かいます。
しかし、為政者たちにも向いていきます。
為政者は、全ての人の生活を成り立たせる大きな役割があるからです。
今、自分たちの生活が成り立たなくなっている・・・
これは正義の行いだと、自分たちは思っているのです。
自分達の正義の行いを取り締まるような為政者がいたならば、本来の正義に反するという思いがありました。

打ちこわしを目撃した人は・・・

「誰一人打ちこわしを憎むものなし」

打ちこわしは江戸に暮らす人々に強く支持されていました。

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1787年5月・・・江戸では米の値上がりの影響で家賃が払えなくなり、長屋を追い出される町人が続出し、飢えに苦しんでいました。
そして、思わぬ社会現象が起きました。
隅田川にかかる永代橋や両国橋から多くの人が身を投げ、溺死する人が続出しました。
その為、見張りが増やされ、橋の上での行動が監視されるようになりました。
橋からの身投げが難しくなると、隅田川の渡し船から身を投げるようになり・・・渡し船が停止されました。

米の値上がりで最も苦境に立たされたのが、長屋に住むその日暮らしの店子でした。
かつて享保の大飢饉の時、幕府は多くのためにお救い米を出しました。
今回も、店子たちの間でその期待が高まりました。
身分の低い店子が、町奉行に直接願い出ることなど許されません。
そこで、店子たちは自分の暮らし町の責任者である町名主にすがりました。
町名主にお救い米嘆願を訴えたのです。
ところが、町名主たちは、町奉行から、店子たちが騒動を起こさないように監視するように言われていました。
町名主たちは板挟み状態・・・苦しい立場にありました。
そうした町名主たちの代表が、商業の中心地・日本橋界隈を取り仕切っていた3人の年番名主でした。
上からの命令と、下からの訴えに挟まれた彼らは・・・??

お救い米を願い出る・・・??
町の者たちをなだめて騒ぎを防ぐ・・・??

5月18日、年番名主たちは決断を下します。
それは、店子たちに寄り添い、お救い米を願い出ることでした。
嘆願書は、江戸の行政と司法の責任者である町奉行宛に出されました。

”町の者たちはみな、困窮しています
 お救い米をいただけないと、餓死者が出続けます”

その文末には、

”お慈悲が全ての者たちに行き届くよう、甚だ恐れ入りつつお願い奉ります
 町中すべてが嘆いているため、やむを得ず申し上げた次第です”

必死の思いで町人たちが出した嘆願書・・・果たしてその願いは・・・??

江戸の年番名主の訴えから遡る事1年・・・
幕府を大きく揺るがす事態が起きていました。
1786年8月25日、10代将軍徳川家治死去。
これによって、およそ20年間にわたって老中として幕政を取り仕切ってきた田沼意次が失脚。
以後、田沼派と、白川藩主の松平定信を老中にしようとする反田沼派が反目する事態となります。
城内は緊張状態にありました。
そうした中、年番名主によるあのお救い米の嘆願書が提出されました。

5月19日、町奉行所からその回答が出ます。
しかし、それは驚くような内容でした。

男性は米2合、女性と子供は米1合を時価で売り渡すというものでした。

さらに、米の代わりに大豆を食べることを推奨するおふれが出されました。
しかし、大豆もまた高騰!!
無償のお救い米を待ち望んでいた江戸の町民たち・・・
その期待は、すっかり裏切られたのです。
おふれが出された日、米価が20%上昇。
さらに、北町奉行・曲淵景漸が暴言を吐いたという噂が・・・

「昔、飢饉のときに犬を食べたことがある
 今回も犬を食え」

町人たちの怒りは頂点に達しました。
そして翌日の5月20日、打ちこわしが始まりました。
5日間に渡り江戸の町は大混乱に陥ります。
事態を収拾すべく、幕府は遅ればせながら動き出しました。
お救いの実施を決定!!
まず、奉公人を除くすべての町人に米と大豆を3合ずつ支給されました。
さらに幕府は、20万両を支出し、商人から買い集めた米を安価で販売。

町人たちは、水を得た魚の如く喜び安堵したといいます。
町人たちの願いに向き合おうとしなかった着た町奉行曲淵景漸が打ちこわしの責任を取らされ解任。
さらに、田沼派の重鎮で御側御用取次の横田準松が将軍に打ちこわしを隠したとして失脚。
これをきっかけに、政治の主導権を反田沼派が掌握。
翌月には、松平定信が老中に就任しました。
民衆の蜂起によって政権が交代したということは、江戸時代始まって以来、初めての出来事でした。

田沼派に変わって政治の実権を握った松平定信は、米価引き下げのための政策を次々と打ち出します。
幕臣と商人との癒着や賄賂を厳しく取り締まります。
米を大量に必要とする酒の製造を1/3に制限。
さらに、地区ごとに町会所と呼ばれる米蔵を設置。
50万人が1か月食べられる米を備蓄しました。

これらの政策が功を奏して、天保の飢饉の際には江戸で打ちこわしが起きることはありませんでした。
町人たちの怒りの抗議が世を変えたのです。

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日本人が知らされてこなかった「江戸」 世界が認める「徳川日本」の社会と精神 (SB新書)

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およそ260年に渡り泰平の世を築いた江戸幕府・・・
その権威の頂点に立った将軍は、15人!!
在位期間をランキングにすると、栄えある一位に輝いたのは、11代将軍・徳川家斉。
なんと、その在位期間は50年!!
最も長く武家の頂点に立ち続けた男!!
にもかかわらず、ほとんど取り上げられることもなく・・・家斉って誰??
「続徳川実紀」によると・・・

”遊王となりて数年を楽しみたまふ
 嗚呼 福徳王と申したてまつるべきかな”



1773年、徳川家斉は、御三卿の一橋治済の嫡男として生まれます。
幼名は豊千代。
御三卿とは、田安、一橋、清水の三徳川家。
8代将軍・吉宗が創設したもので、徳川将軍家に世継ぎがない場合に、御三家からではなく吉宗の血筋の御三卿から将軍を輩出できるようにしました。

時は10代将軍・徳川家治の治世・・・
跡継ぎとなる時期将軍は、家治の嫡男・家基と決まっていました。
家基に万が一のことがあった場合、第2、第3の将軍候補も考えられていました。
第二候補は田安家の7男で吉宗の孫・賢丸(のちの松平定信)、第三候補が豊千代(家斉)でした。
豊千代は、吉宗のひ孫にあたります。
御三卿の格式は、田安家の方が上で、吉宗との血筋も、孫の賢丸の方がひ孫の豊千代よりも近く、この時点で豊千代が将軍になれる可能性はかなり低かったのです。

1779年、次期将軍に決まっていた・家基が18歳の若さで急死。
それを受けて将軍の跡継ぎとなったのが、21歳になっていた定信・・・ではなく、なぜかまだ9歳だった豊千代でした。
定信よりも格下だった豊千代がどうして将軍の跡継ぎに慣れたのでしょうか?

1773年、定信は、突然、幕府から白河松平家に養子に行けと命令が出されます。
将軍の家族から普通の大名に行けと言われてしまうのです。
定信は、田安徳川家を出され、将軍になれる資格を失ってしまったのです。
その裏で暗躍していたのが、豊千代の親の一橋治済だったと言われています。
治済は、嫡男である豊千代を将軍にしたいと強く望んでいました。
その為、格上である田安家の定信は目障りな存在でした。
そこで、時の老中・田沼意次と手を組み、定信を白河へ追いやったといいます。
田沼意次の弟が、一橋家の家老を務めるなど、田沼家と一橋家の関係が深くありました。
治済は、なんとか息子の豊千代を将軍にしたいと思います。
優秀と評判の定信がいることは、豊千代を将軍にするうえで邪魔だったのです。
田沼も、将軍が変わると前の時代の権力者は必ず失脚することを知っていました。
次の時代を考えたのです。
そんな二つの思惑が定信を排除したのです。



清廉な人柄で知られる定信は、賄賂が横行する田沼政治を批判していました。
その為、定信が将軍となれば、田沼の失脚は必至!!
その点、幼い豊千代が将軍になれば扱いやすいと考えたのです。
こうして利害が一致した二人が、有力候補・定信を早々に排除したため、豊千代は将軍の後継になれました。
そして7年後・・・将軍・家治が死去すると・・・
1787年、豊千代は、15歳で11代将軍・徳川家斉となります。

江戸城内では・・・
「家基さまは、本当は毒殺されたらしい・・・」
と、噂が立ちます。

家基が死んで一番得をするのは、我が子を将軍にした治済だということで、首謀者ではないかと噂までたちます。
真相はわかりませんが、家斉の父の野望はまだまだ続きます。
家斉が将軍となって1カ月がたった頃・・・江戸で前代未聞の事件が起きます。
天明の打ちこわしです。
1783年、浅間山が大噴火!!
その火山灰が、田畑をを覆ったことや、悪天候が続いたことで、大飢饉が発生!!
深刻なコメ不足となった上に、商人による米の買い占めが起き米価が高騰!!
これに反発した5000人もの町人が、米問屋を襲い、略奪する暴動を起こしたのです。
将軍のおひざ元である江戸での騒動・・・
その責任を取らされる形で田沼派は幕府から一掃されます。
そして、新たに老中として就任したのが、家斉と将軍の座を争った松平定信だったのです。

治済は、息子を将軍にする目論見を達成しました。
自分の子供の時代には、権力者は自分一人だけでいい・・・!!
そうなると、批判が高まる田沼意次は邪魔だ!!
まさに、身内である徳川一門で新しい政治を始めた方が得策なのではないか??と考えます。
そこで、田沼から松平定信に、乗り換えたのです。
定信は、逼迫していた白川藩の財政を立て直し、評判となっていました。
治済は、その手腕を利用し、徳川一門の手で政治をしようと考えたのです。
家斉・18歳、定信30歳・・・!!
こうして定信は、若い将軍・家斉のもとで、理想の政治を行っていくことになります。

寛政の改革です。
商業を重視した田沼意次の重商主義は、賄賂の温床となり、社会を乱すと定信は質素倹約を奨励。
町人の女房が髪結いを呼ぶことは贅沢だと禁じたり、障子の張替えの回数、ひな人形の大きさまで規制し、締め付けを行いました。
その結果・・・町から活気は消え、経済は停滞・・・やがて、倹約の締め付けが幕府内にも及ぶと、家斉はその窮屈さから対立するようになります。
そんな2人の関係が決定的となった事件は・・・
家斉は、自分を将軍にしてくれた父・治済に大御所の号を送りたいと考えていました。
しかし、定信はこれに対して先例がないことだと反対します。
将軍となった人が「大御所」になれるので、なっていない治済が「大御所」になることはできない、筋が通らないという定信。
何度も何度もこの問答が繰り返され、そのうちに家斉も堪忍袋の緒が切れて・・・
刀を抜いて成敗しようとしました。
ところが、そこにはおこしがいて

「定信殿、家斉さまからお刀をいただけるようでございます
 ちょうだいなされ」

家斉は、かざした刀を放り出しておくにはいってしまいました。

緊張した場面が、何回か繰り返されたのです。

1793年、松平定信・老中を罷免される!!

家斉は、古代中国の歴史書・三国志好きで、劉備玄徳の命参謀として知られる諸葛孔明の肖像画を自ら描き、掛け軸にするほどでした。
ある日のこと・・・この孔明を刺して・・・

「何故、(諸葛孔明のような)幕臣がいないのか?」by家斉

その場にいた幕臣たちは凍り付きました。

「それもそうだな・・・上に劉備玄徳のような(立派な)主君もいないのだからなあ」by家斉

そう言って笑ったといいます。
家斉は、自分自身に対しても、冷静に判断できる将軍でした。



徳川家斉の将軍就任から時は経ち・・・
家斉は、江戸幕府歴代の中で大奥を最も活用した将軍と言われ、正室以外に多くの側室を持ちました。
日頃、精力増強のためにオットセイの睾丸の粉末を飲んで・・・オットセイ将軍と言われています。
一説に、生涯に持った側室は40人、そのうち16人が家斉の子を身ごもり出産、その数は、徳川諸家系譜で名前が確認できるだけでも男子25人、女子27人の計52人!!
流産した子などを含めると、家斉は55人もの子をもうけたと言われています。
中には、2人の側室が同時に出産したこともあったとか・・・

しかし、家斉の名誉のためにいうと・・・
多くの子を持った理由・・・それは好色家というだけではなく、10代将軍・家治には男子が2人しか授からず、次男は生後3か月で早世・・・そのうえ、跡継ぎだった家基も急死。
自分の血を将軍として残せませんでした。
家斉は、このことを反面教師としてとらえてました。
徳川本家が途絶えたことで、紀州徳川家となり・・・結局、紀州徳川家も一橋という違う家から将軍を出すこととなります。
この新々の将軍家を、自分たちの血脈で維持していくためには、たくさん子供を作り、途絶えないようにしなければならない・・・!!
家斉は、使命と思っていたのかもしれません。
こうして、生涯に55人もの子をもうけた家斉でしたが、皮肉にも、それが幕府の危機を招くことになるのです。
家斉がもうけた55人の子供のうち、健康に育ったのは男子14人、女子13人でした。
嫡男が早世したため、次男の瓶次郎が嫡男となりました。
問題は、それ以外の子の行く末でした。
幕府は引き取り先を探すことに奔走します。
その結果、男子の場合は半ば押しつけるように大名への養子縁組が行われます。
幕府も、引き取り先には気を遣って、格式を上げたり、借金の返済を免除したり・・・
当然、貸していたお金が返って来なくなれば・・・幕府の資産は激減です。
姫君たちは・・・??
積極的に外様大名と縁組をさせました。
大変だったのは、婚礼にまつわる費用でした。
水戸藩に行った峯姫は、お化粧料1万両と、お手当1万両を持参金として付けています。
おまけに水戸家が借りていた借金2万2000両の返済を免除しました。
莫大な費用のために、幕府の財政がひっ迫し、危機を招いたのです。

家斉は、就任してしばらくの間は老中・松平定信がいたことで、質素倹約を心がけていました。
しかし、定信を罷免し、新たな老中にいうことを何でも聞くイエスマンの水野忠成をつけると一変、贅沢三昧に・・・!!
浪費をかさね、更なる財政危機を招くのです。

東京・汐留にある浜離宮恩賜庭園は、かつては浜御殿と呼ばれた将軍家の別邸でした。
見事な庭園は、家斉が莫大なお金を投じて整備させたものです。
当時、家斉は、浜御殿で園遊会を度々開催。
幕臣を招いて遊ばせたり、釣りをさせたり、庭木を与えたりして労ったといいます。
家斉も、大奥の女性たちと舟遊びに興じたり、巨大なクジラを運ばせて見学したりと楽しんでいました。
その贅沢ぶりは、大奥にも波及・・・
家斉時代の大奥は、3000人を超える大所帯で、規模は最も膨れ上がっていました。
当然、維持するための費用も莫大!!
正室の小遣いは、年間5000両+銀百貫・・・現在の価値で8億円!!
側室の小遣いなども合わせると、年関係費は30~40万両!!
幕府の年間経費140万両の1/4を大奥が占めていました。
江戸城に蔓延した贅沢で享楽的な気風は、幕府の財政難をより深刻なものに・・・
定信の緊縮財政による100万両の蓄えが半分になると・・・家斉も危機感を覚えます。
そして、自らが招いた財政危機を乗り越えるため、ある策を講じるのです。



老中・水野忠成に命じたのは、貨幣改鋳・・・
市中に流通している貨幣を回収し、鋳つぶして金や銀の含有量を改訂した新たな貨幣を作り、それを市中に流通させるというものでした。
貨幣改鋳を行うのは、8代将軍・吉宗以来で、しかも家斉は在位中、小判に限らず銀貨など8回も貨幣改鋳を行っています。
例えば、江戸時代市中に出回った小判は10種類あります。
大きさが違うだけでなく、金の割合も異なりました。
それまでの元文小判が金品位65%なのに対し、家斉が懐中して作らせた文政小判は56%。
江戸時代に作られた小判の中では最低の品位でした。
その文政小判を、金品位の高い元文小判と等価交換し、それをまた金の少ない文政小判に改鋳すれば枚数が増え増収になる・・・それが幕府の資産となりました。
こうして得た利益は、1550万両!!
家斉は、貨幣改鋳を行うことで、幕府の年間予算の10倍近い利益を得て財政を潤わせました。
しかし、その一方で、質の悪い貨幣が大量に出回ったため、お金の価値が下がり物価が上昇!!
インフレを招きました。
酒・1割、味噌・2割、塩・4割・・・米に関しては、7割も価格が上昇!!
庶民の生活を圧迫しました。

経済活動が活発になったことで、庶民文化が発展します。
浮世絵も爛熟期を迎えます。
風景画という新たなジャンルを開いたのは葛飾北斎。
最高傑作シリーズ・富岳三十六景・・・たぐいまれなる才能が生んだ富士の姿に、人々は魅了されました。
これに対抗し、歌川広重が描いたシリーズが東海道五十三次。
空前の旅行ブームに乗って、こちらも大ヒット!!
作家たちの腕も絶好調。
文学の分野でも続々と傑作が生まれます。
十返捨一九の「東海道中膝栗毛」・・・弥二さんと喜多さんの伊勢詣での道中を綴ったこの小説は、ベストセラーとなります。
滝沢馬琴が、「里見八犬伝」を描き始めたのもこの頃です。
こうした江戸庶民文化が花開いたのも、家斉の贅沢のたまものでした。

農民から年貢をとり、商人から税金を取ったとしても、武士階級が倹約でお金を貯めこんでいたら市中にお金が還流しません。
将軍の最大の仕事は、贅沢をしてお金を還流させることなのです。
家斉も、壮大なおすそ分けをしていると思っていました。
自由な風潮により、庶民の不満も少なく、安定した政権運営ができました。

徳川家斉が、幕府の中で最も長い政権を築けたのは、
①優秀な人材を適材適所に起用した
②自由な風潮で庶民の不満が少なかった

家斉は、生まれながらにして体が丈夫で、一年中薄着で過ごし、将軍在任中寝込んだのは、風邪を引いた数回だけ。
健康には特に気を遣い、毎朝江戸城内での散歩を欠かさなかったといいます。
さらに、家斉はしょうがを決行をよくし、身体を温める効果がある健康食として毎日欠かしませんでした。
そして・・・牛乳を煮詰めて丸めたチーズのようなものを作らせ、精力減退や疲労衰弱に効くと食べていました。

③常に健康に気づかい長生きだったのです。

だからこそ、長期政権を築くことができたのです。

1837年、65歳となった家斉は、嫡男の家慶に将軍職を譲り隠居。
将軍在位は50年に及びました。
その4年後・・・1841年閏1月13日・・・家斉は、激しい差し込み・・・疝癪に襲われました。
急性腹膜炎だったと思われます。
そして、そのまま帰らぬ人となりました。
69歳でした。

長い治世の中で、優秀な幕臣を巧みに使い、自らは自由に時代を謳歌した家斉・・・
まさに、遊王と呼ばれるにふさわしい、最強の将軍でした。

”武門の天下を平治すること これに至りて その盛を極むと云ふ”by頼山陽

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