日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:徳川家綱

皇居東御苑・・・かつて江戸城本丸だった場所に、巨大な石積みが残されています。
そのうえには、江戸城のシンボルとして天守が聳え立つはずでした。
五層六階、高さ58m・・・建てられていれば、日本で一番大きい天守となっていたことでしょう。
しかし、どうして石垣だけが残されたのでしょうか??
そこには、江戸を襲った未曽有の災害が関係しています。
4代将軍・家綱の治世・・・明暦3年1月、江戸で大火災が発生しました。
火は江戸の6割を焼き尽くし、10万人以上の犠牲を出しました。
明暦の大火です。

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猛火からなす術なく逃げるしかなかった人々は、江戸という町が火災に対して全くの無防備であることを思い知らされました。
この危機の中、事態の収拾に当たったのが、幕閣・保科正之・・・
幕府への不満が高まる中、保科は武士も町人も驚く策を講じました。
過去を覆すその決断は、政治そのものを根底から変えていくことになります。

1657年1月18日、江戸は幕府が開かれてから54回目となる正月を迎えていました。
「むさしあぶみ」と呼ばれる書物・・・著者は、浅井了意・・・当時の世相や風俗を書き記しています。
1月18日の記録は、江戸の天気から始まります。
”乾のかたより風吹出ししきりに大風となり”
乾・・・北西からの風が次第に強くなってきた

この時、江戸ではほとんど雨が降らず、乾燥した日々が続いていました。
午後2時過ぎ・・・江戸城の北・本郷で異変が起きます。
日蓮宗寺院・本妙寺で火災が発生!!
炎はあっという間に寺を焼き尽くし、さらに周囲に燃え広がっていきました。
明暦の大火の始まりです。
北西の風にあおられた火は、湯島天神はじめ多くの寺社を焼き払って南東へ!!
神田川などで水場にぶつかります。
しかし、日は船を伝って軽々と川を飛び越え対岸へ!!
大名屋敷を焼き、町人が暮らす人口密集地へ迫りました。
当時、江戸の消防を担っていたのは大名火消しでした。
幕府から指名された10の大名が、十日交代で担いました。
しかし、この大名火消し、火災が町人地で発生した場合、出動しないことも多かったのです。
町人たちは、そんな大名火消しを皮肉って、”消さぬ役”と呼んでいました。

この時も、日は消し止められることなく、江戸きっての町人密集地を襲いました。
日本橋には、川向うに避難しようとする町人が殺到。
身動きが取れないようになっていました。
避難が滞った原因の一つが、「むさしあぶみ」に描かれています。
路上に、車輪のついた箱があふれていました。
車長持です。
人々はこの中に貴重品を入れて逃げようとしました。
しかし、その結果、車長持が道に溢れ、避難経路を塞いでしまったのです。

”親は子を失い、子はまた親に遅れて、あるひは人に踏み殺され、あるひは車にしかれ、おめきさけぶものまたその数をしらず”

さらに、江戸の人々は、空に驚きの光景を目にします。

”はげしき風に吹きたてられて、車輪の如くなる猛火、地にほとばしり”

これは、炎が竜巻のように回転する火災旋風だったと考えられています。
命からがら避難した人々は、墨田川に行き当たります。
しかし、江戸城を守るため、墨田川には橋がかけられていませんでした。
焼け死ぬもの、冷たい川で溺れ死ぬもの、大火災への備えのない町の中で、多くの命が失われました。

”親は子を尋ね、夫は妻をうしなうて涕とともに声うちあげ
 死に失せてめぐり合うことなく、力を落して歎くもありてものゝわけも聞えず”

こうして、大火の1日目は終わりました。

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しかし、それはまだ、序章にすぎませんでした。

大火発生件数(1603~1867)
江戸・・・49回
京・・・・10回
大坂・・・3回
金沢・・・3回
その他・・16回

江戸の町が急速に大きくなったことで、自然災害に弱くありました。

明暦の大火2日目の1月19日・・・
本妙寺を火元とした火災は、未明には収まりました。
しかし、別の火災が・・・!!
午前11時過ぎ、小石川に合った大番衆の与力の宿舎から出火。
火災は、水戸藩の下屋敷をはじめ、多くの大名屋敷を焼きながら、ついに江戸城本丸まで迫りました。
江戸城で最初に燃え移ったのは、予想外の江戸城天守!!

天守は、黒く塗られた銅板で壁を覆い、同じく銅の瓦を吹くことで防火対策を施した建物のはずでした。
その隙をついたのは火の粉・・・
開いていた天守の窓から火の粉が飛び込み、室内から炎上させたのです。
火の粉は、火災の熱による上昇気流で舞い上がり、離れた場所に落下・・・新たな火災を発生させます。
火の粉は1㎞以上離れて落ちることもあり、堀も川も飛び越えて広がるのです。
天下一の天守は、小粒な火の粉に襲われ、あえなく落ちました。
その後、火は本丸御殿、二の丸へと燃え広がっていきました。
燃える江戸城の主・・・時の将軍は、4代藩主・徳川家綱(17歳)でした。
若い将軍を補佐する幕府首脳には、歴戦を生き抜いた強者が・・・!!
元老格の井伊直孝(68)、大坂の陣では、井伊家の大将を務めました。
元大老の酒井忠勝(71)、関ケ原の戦いでは、徳川秀忠と共に信州上田で真田氏と戦っています。
そして、島原の乱鎮圧の総大将を務めた知恵伊豆こと老中・松平信綱(62)!!
これら古参の幕閣の中に、ひと世代若いものがいました。
会津23万石の藩主・保科正之です。
保科は、腹違いの兄・三代将軍・家光から、幼い家綱の後見を託されていました。

大火の最中、彼ら幕閣は、江戸城内に詰め、家綱の傍らで策を練っていました。
迫りくる炎から家綱をどう守るのか・・・??
保科と重鎮たちとの間で意見が分かれました。

酒井忠勝や、井伊直孝は、城の外へ避難するように提案。
松平信綱は、上野・寛永寺への避難を提案。
しかし、こうした元老たちの案に、保科や老中・安倍忠明は反対しました。

「幸い、西の丸が残っています
 まずはここに上様をお移しすべきでしょう
 もし、西の丸が焼けてしまうようであれば、焼け跡に陣屋を立てればよい
 城の外へと動くことなど、あってはなりませぬ」by保科正之

保科が将軍の権威にこだわったのは、この機の乗じて幕府をなきものにしようとする勢力を警戒していたからでした。

大火の6年前の1651年。
幕府転覆未遂事件が起こっていました。
由比正雪の乱です。
軍学者の由比正雪は、幕府に不満を持つ浪人たちを扇動。
江戸城火薬庫に放火し、混乱に乗じて城を占拠、それを京や大坂など複数の都市で行う計画でした。
計画は未然に防がれたものの、幕府は大きな衝撃を受けました。
幕府への反発は、全国の大名に対する厳しい統制から生じていました。
家康、秀忠、家光、三代の間に、改易された大名は129!!
結果、主家を失う浪人となった者が町に溢れました。
将軍や幕府に対する恨みがこれ以上募れば、将軍の権威も地に落ちると保科は感じていました。

議論の末、保科の意見は取り入れられ、午後3時過ぎに家綱は西の丸に移動。
江戸城に留まることになりました。

その直後、火事は治まることなく新たに3カ所から出火。
場所は麹町でした。

ドキュメント明暦の大火 幕府を変えた江戸の危機



2日目に小石川と麹町で相次いで発生した火災は、初日に被災を免れた場所を容赦なく焼き尽くしました。

1月20日朝、全ての日がおさまりました。
3日に渡った火災で、大名屋敷160軒、旗本屋敷約810軒、町人地800町以上が消失、実に江戸の町の60%が灰になりました。

むさしあぶみは、死者の数を10万2100余人と伝えています。

”一るいけんぞくのある者は、尋ねもとめて寺にをくりしもあり
 大かたはいかなる人、いづくの者とも確かならず
 かはり果てたるありさま それとさだかにしる事なし”

江戸開府からおよそ50年、将軍のおひざ元は壊滅状態となりました。

3日に渡って燃え続けた大火は、江戸の町の6割を灰にしてようやく鎮火しました。
むさしあぶみは、火がおさまった様子も詳しく書いています。
飢えと寒さにあえぐ人々に、幕府は温かいかゆを与えました。
3週間にわたって行われた粥施行。
用いた1万7000俵の米は、幕府の米蔵から出されたものでした。

むさしあぶみでは、”まことに治世安眠の政道ただしきこと”と、高く評価しています。
焼けた家屋の再建のために、幕府から被災者へ資金が渡される様子もかかれています。

保科は、援助のために家康以来御金蔵にためてきた金銀を使おうとしました。
しかし、幕閣から猛反対の声が上がりました。
当時、民間にそれだけの大金を国家が拠出したケースは全くありませんでした。
お金は軍資金で、軍資金をためておくのが江戸城の御金蔵だという認識の人たちが、軍資金以外に消費してしまうことは考えられませんでした。

保科は反対する老中たちにこう説きました。

「官庫の貯蓄と云ふは斯様の時に下々へ施し、士民安堵せしむる爲にして、むざと積置きしのみにては一向蓄えなきと同然なり」by保科

議論の末、被災者への資金援助は・・・
大名(10万石未満)・・・銀300貫~100貫 貸与
幕臣・・・・・・・・・・金725両~3両   給付
町人・・・・・・・・・・銀1万貫(総額) 給付

墨田区両国にある回向院・・・
ここは火災の後、保科の働きかけで建立されたお寺・・・境内に供養塔があります。
江戸の町中に遺体が放置されているのを見た保科は、無縁仏としてここで供養させました。
本尊の阿弥陀如来・・・その台座には、供養のために、身分の差別なく人々の名がびっしりと書かれています。

町の復興が進む中、江戸城の再建も始まりました。
江戸城は半分以上が消失しており、工事は大掛かりなものとなりました。
そして、大火の翌年、城のシンボルとなる天守の再建が始まりました。
消失前、高さ60mの日本一大きい天守がそびえていました。
工事は土台の天守作りから始まりました。
普請を命じられたのは、加賀・前田家でした。
皇居・東御苑に残っているのは、その時の石垣です。
この石垣は、前田家の威信をかけたものでした。
真っ白な御影石は、瀬戸内海でないと取れません。
前田家は、瀬戸内海の島から石材を運んできて天守を建てたのです。
今までにない真っ白な意思を使うことで、前田家の力量を見せつけようとしたのです。
前田家はわざと四角形をずらして作っています。
五角形、六角形・・・前田家の石積みの技術の確かさ、高度さを見せつけようとしたのです。

着々と積みあがっていく天守台・・・
しかし、保科には迷いがありました。
天守再建を停止する??
江戸城の天守を作るのに、どれだけの労働力を必要つするのか??
資料によると・・・建築期間はおよそ4カ月、その間にのべ34万人以上の大工が必要でした。
江戸中で家屋敷の再建ラッシュとなる中で、職人の手間賃も高騰しています。
大火前、大工の日当は銀1匁5分+米1升5合でした。
それが大火後、1.7倍の銀2匁5分+米1升5合となっていました。
莫大なコストを集中させてまで、天守の再建は優先すべき事なのか??
その思いが、保科の脳裏に去来します。
それとも天守は必要??
天守は権現様がこの地にお建てになって以来のもの・・・軽々しくなき物にはできない・・・!?
天守は当時の人々にとっては・・・??
西国大名には、天守も建てられないのか!!と、思われる危険性がありました。
豊臣家の大名にとっては、天守は大切なものでした。
島原の一揆や由比正雪の乱らの農民らの謀反は、遠い昔のことではない・・・
この混乱に乗じて、幕府に不満を持つ者たちが再び騒ぎを起こすかもしれない・・・
ましてや上様もまだお若い・・・
今こそ、しかと徳川の権威を見せつけなければ・・・??
治世のためにはやはり聳え立つ天守が必要??

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保科は幕府の重臣たちを前に、自らの意見をこう述べました。

「天守は近代織田右府以来のことにて、さのみ城の要害に利あると申すにも非ず
 ただ遠く観望致す迄の事なり
 武家町家大小の輩家作致す砌に公儀の作事永引たらば、下々の障にも成るべし
 斯様の儀に国財を費やすべき時節に非ざるべし
 当分延引可然」by保科

天守の再建は、保科によって無期限の”待った”がかけられました。
そして、その資力、労力は、江戸の町全体の復興に充てられることになりました。
幕府が目指したのは、単に大火の前に戻すのではなく、火災に強い都市へと改造することでした。

その内容の資料が残されています。
幕府がつくった江戸の復興計画図・・・
この地図には、大火前の地図にはなかったものが書き込まれています。
空き地、広小路・・・幕府は、町中に空き地を作り、火事の延焼を防ぐための防火帯としました。
空き地を作るため、武士も町人もすべて巻き込んで住民の大移動が行われました。
現在の吹上御苑にあった水戸藩・尾張藩・紀州藩の御三家の上屋敷を、外堀の近辺へ移転。
跡地を広大な空き地としました。
江戸城の周囲で被災した大名たちには、まだ野原の広がる麻布などの郊外に新たな屋敷が与えられました。
本郷や湯島にあった寺は、当時まだ発展途上だった浅草などに移転しました。
江戸城防御のため、下流域に橋がかけられていなかった墨田川・・・
橋がなかったため、多くの犠牲者が出たことを重く受け止めた幕府は、建設を決断します。
大火の2年後、1659年に両国橋完成。
そして、この橋を渡った先にある本所地区をニュータウンとして開発しました。
ここには町人だけでなく、武家屋敷や寺社仏閣も移転しました。

幕府は、町の構造を変えるだけでなく、消防制度も整えます。
従来の大名火消しに加え、上火消を創設。
上火消には、10名の旗本が任命され、それぞれが与力6人と同心30人を率いました。
大名火消しとの最も大きな違いは、火の見櫓をもった火消屋敷に常駐したことです。
初めて火消専門の役人が誕生しました。

明暦の大火は幕府にとって、これまでの大名統制の在り方を見直す契機となりました。
大火の直後に作られた江戸の地図・・・
江戸の改造に際して、幕府はまず、大名側に移転先の希望を聞き、それを調整して割り当てを行っています。
これまでのように幕府の計画を一方的に押しつけるのとは違いました。
幕府は武力を背景に、強い権力で大名たちを屈服させる武断政治を見直し、高野制度に基づいて穏やかに統治する文治政治へと舵を切っていきます。
大火後の都市改造により、江戸の町の範囲は拡大・・・
それは後に、100万都市へと成長する布石となりました。

保科が中止させた江戸城天守の再建・・・
その後、江戸幕府が終わるまで行われることはありませんでした。

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五代将軍・徳川綱吉・・・綱吉は、幕府政治の大転換を図り、武断政治から文治政治を目指したとして再評価されています。
就任早々「民は国の本なり」と宣言しています。
そこにあるのは、民への慈悲に溢れる名君の姿でした。
しかし、生類憐みの令は、民を苦しめた史上まれにみる悪法として名高いものがあります。
徳川綱吉と生類憐みの令・・・理想に燃えた将軍は、どうして暴走していったのでしょうか??

儒学殺人事件 堀田正俊と徳川綱吉

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儒学を重んじ、文治政治への大転換を目指した将軍・綱吉・・・
一体どのような人物だったのでしょうか??
1646年、綱吉は、三代将軍・徳川家光の四男に生れました。
母は側室で、庶民の出だったと言われています。
将軍となることは、全く期待されていなかった綱吉・・・
若いころからのめりこんだのが儒学でした。
”徳川実記”にはこう記されています。

”綱吉公は、儒学の経典を学ぶことに打ち込み、病の時にも書を手放すことはなかった”

学芸に秀でた一門の大名として生きる道を歩んでいた綱吉・・・
しかし、その運命は35歳の時に一変します。
1680年、四代将軍である兄・家綱が死去。
家綱には子がなく、綱吉の2人の兄も若くして亡くなっていました。
図らずも、綱吉は次期将軍の有力候補となりました。
しかし、政治の実権を握ってた老中の中には綱吉の就任に異を唱える者もいました。
綱吉の治世を記した”御当代記”によれば、大老・酒井忠清は次のように主張したとされます。

「綱吉公には、天下を納める様な気量はない」

時の最高権力者の猛反対・・・
これに対し、綱吉を強硬に推した人物が、老中・堀田正俊でした。
後に、綱吉の政治を支えることとなります。
堀田家に残る”伝徳川家綱遺言状”・・・死の床にあった家綱が、堀田に対し、今後のことを支持した文書です。

「その方が提出した書付の内容はいかにももっともである
 そのように計らうように」

堀田家では、これを次の将軍は綱吉にするという許可をいただいたと理解しています。
正俊自身は、次の将軍は血筋の通った綱吉でなくてはいけないと考えていました。
それを一番に後押しする大事な書類でした。

犬将軍?綱吉は名君か暴君か

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1680年8月、綱吉は、第5代将軍に就任しました。
その頃、幕府政治は大きな曲がり角に差し掛かっていました。
全国的な天候不順が何年も続き、凶作から飢饉が蔓延・・・
にもかかわらず、代官たちによる過酷な年貢の取り立てが横行していました。
代官の中には、代々その土地を支配し、領民を自分の持ち物のように考える者も多く、各地で農民の騒乱を引き起こしていました。

こうした社会の在り方を見直すべく、綱吉と堀田は一大政治改革に乗り出しました。
将軍となって1か月・・・堀田の名で、7箇条からなる命令が代官たちに下されました。

”民は国の本なり
 代官は常に 民の辛苦をよく察し 飢えや寒さの憂いのないように申しつけられるべし”
 
民生の基本的な心得を、代官たちに知らしめ、違反する者はことごとく罷免し、新たな代官と後退させたのです。
儒学・・・”仁政”・・・民には慈しんで優しく父母のごとく・・・
単に儒学を知識として知っているということではなく、「実践」し、民衆統治の高らかな宣言でした。
「天保の改革」と同じようなレベルで「天和の改革」と言っていいくらいの政治的な改革がそこにはありました。

堀田正俊は、かねてから儒学への造詣が深く、領地でも仁政を志していました。
綱吉は、そんな堀田を大老に任じ、新たな政治を目指しました。
後に、天和の治と呼ばれる改革です。
2人が模範とした儒学は、孔子を始祖とし、理想の政治の在り方を追求する学問です。
為政者が徳を積み、民を慈しむことで理想の政治が実現すると説きます。
堀田は、父母への孝行に励み近隣の飢えた民を救った百姓を表彰し、年貢90石を免除しています。
”孝”を人々に奨励しました。
父・家光が建造した幕府の軍監・安宅丸・・・綱吉は、年に10万石もの維持費がかかるこの船を破却しました。
民の負担を軽くするため、老中の反対をおして決定したと言われています。
新たな政治の実現へと邁進する綱吉・・・その理想は誰よりも誠実で、真っ直ぐなものでした。

1684年8月、江戸城内で衝撃的な事件が起こります。
大老・堀田正俊、江戸城内で殺害される!!
堀田への個人的な恨みの犯行でした。
この突然の事件が、その後の綱吉の政治に大きな変化をもたらすこととなりました。
綱吉は、まず、事件現場近くにあった老中詰所を将軍の居室から遠ざけ離れた場所へと移しました。
将軍と老中とのやり取りは、新たに設けられた側用人によって中継されるようになります。
この結果、将軍と老中が直接政策について相談する機会が減少します。
将軍・綱吉の意志がより強く政治に反映するようになっていきました。
そして・・・悪法として名高いあの法令も、堀田の死後綱吉の主導で発せられました。

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1685年、江戸の町に一枚の高札が立てられました。

”将軍御成の際、犬猫が出てきても構わないので、今後はつながなくてもよい”

これまで、将軍がお出ましの際には、犬や猫はおとなしくつないでおく義務があったのを廃止。
それがたとえ将軍の列のそばに来ても、お咎めなしとしました。
さらに綱吉は、江戸の庶民に、飼っている犬や猫、馬などの毛色や特徴を提出させました。
飼い主を明確にし、それぞれに飼育の責任を持たせるためでした。
これ以後、綱吉は生き物にまつわる100を超える法令を出していきます。
これらを総称して”生類憐みの令”と言います。
どうして綱吉は、このような法の制定に向かったのでしょうか??

生類憐みの令の「生類」とは、すべての動物を包み込む概念です。
そこには、一般の動物の他に人間も含まれています。
とりわけ人間の中でも捨て子や病人、弱い立場の人たちを救済したり保護しなさいということも触れています。
生類憐みの令の中の法令には・・・
・捨て子が見つかった場合、近隣の者が死なないように養育し、やしない親が見つかったら引き取らせること
・江戸市中で、生活に困窮した物乞いらに米を支給し、飢え死にを減らすべし
・牢屋に格子戸をもうけて囚人には毎月5回行水をさせるべし
・衛生状態をよくして牢で死ぬ囚人を減らすこと
現在の福祉政策につながるような部分もあり、野蛮な時代から法治国家、法律や制度に基づいた社会へというものが綱吉の意図でした。
一方で、法の内容について綱吉と周囲の間でずれが生じることもありました。
”犬が行方不明になった場合、あちこち八頭根歩いているようだが、そこまでする必要はない”by老中
その10日後・・・
”先に老中が触れた法令には、心得違いがある
 犬が見えなくなった場合は、徹底的に探し、替え玉などで数合わせしてごまかすなど以ての外である
 なお一層、生類憐みを心がけるように”by綱吉

そして、先の法令を出した老中に、綱吉は謹慎処分を下しています。
弱者を労わり、生命を慈しむためにはじめられた生類憐みの令・・・
しかし、その前途には、早くも不安が立ち込めていました。

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生類憐みの令が暴走して行く画期は1693年にありました。
きっかけは、鷹狩りの廃止です。
飼いならした鷹を話して鳥や獣を捕らえる鷹狩り・・・軍事訓練としての側面や、獲物の贈答を通じて朝廷や大名との関係を深める役割を持ち、武家にとって重要な意味を持つ行事です。
しかし、獲物の命を奪う狩りは、生類憐みの精神に反する・・・
綱吉は、この年、その全面廃止に踏み切りました。
ところが、この決断が江戸の町に大きな混乱を引き起こすことになりました。
諸藩の大名屋敷から、鷹狩り用の猟犬や、鷹の餌として飼育されていた大量の犬が行き場を失って野良犬となり、江戸の町に溢れたのです。
増え続ける野犬と町人の間で、トラブルが続出しました。
戌が人間をかむことはもちろん、今度は人間が犬を厄介な動物として殺す・・・!!
犬を殺すことによって憂さを晴らす・・・??
江戸の町では、武士が腹いせに犬を斬り捨てる事件が続出!!
町人たちは、犬とかかわって罪に問われることを恐れ、野良犬がいてもエサを与えず、腹をすかせた犬が捨て子を襲うといった事態にまで・・・!!
生類憐みの令が引き起こした江戸の大混乱に、将軍としてどう対処すべきか・・・??

生類憐みの令の緩和??それとも、継続する・・・??

東京・中野・・・
区役所の一角に、7匹の犬のモニュメントがあります。
1695年、綱吉はこの場所に、犬小屋「御囲」を建設します。
綱吉は、生類憐みの令を継続・・・増えすぎた野犬対策として、それらを収容する施設を作らせました。
これは、並大抵の事業ではなく、最初の御囲が完成したのはその年の秋。
その後、収容する犬の増加に伴って増築に増築を重ねて最終的には5区画・・・29万坪にもなりました。
東京ドームおよそ20個分の広さです。
犬の数は、最盛期で10万匹を数えました。
エサ代は、年間98000両。
現代の貨幣価値で120億円もの莫大な経費が必要となりました。
しかし、当時の幕府にこれを支払う余裕はなく・・・
財源をどこに求めたのでしょうか??

なんと、民に背負わせたのです。
綱吉は、江戸の町に犬小屋の維持費用を納めることを命じています。
新たな税負担に、町民の不満が高まるのをよそに、生類憐みの令はさらに厳しさを増していきました。

犬を傷つけたことによって死罪となった幕臣・・・
いよいよ人々が仁愛の心を持つよう厳しく申し付けるものなり・・・!!

徳川家康 名言・辞世の句 「滅びる原因は」 武将のカード 家紋 御朱印帳、御城印帳 戦国武将

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町人の生活への介入も進みます。
ウナギやドジョウを扱っている商売を禁ずる
これに違反し、ウナギをアナゴだと称して販売した町人は見せしめとして牢に入れられました。
生活の隅々まで厳しく規制する綱吉に対し、人々は声をあげることもできず不満が募っていきます。
その後、生類憐みの令は、改められることもなく、20年以上に渡って人々の生活を縛ることになりました。

1709年1月10日、徳川綱吉死去・・・享年64歳。
その10日後、幕閣は、生類憐みの令に関して今後の方針を発表します。
中野の御囲は廃止、町々に命じられた費用負担も撤回が決まります。
あわただしく法改正を行った後、綱吉の亡骸は徳川家の菩提寺・寛永寺に葬られました。
その死後、犬公方と揶揄され、批判の的とされた綱吉・・・
しかし、彼が始めた捨て子や病人の保護に関する法令は形を変え、その後も継続されていったのです。

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江戸幕府開府からおよそ80年・・・人々を翻弄し苦しめた将軍が誕生します。
第五代将軍徳川綱吉です。

綱吉は、1646年三代将軍・徳川家光の四男として江戸城に生まれました。
母は側室の桂昌院、兄の家綱がわずか11歳で四代将軍となり、綱吉は16歳で舘林藩藩主となりました。
家綱は病弱で・・・ほかの兄弟たちも亡くなっていたので、幕閣の重臣たちは次の将軍候補に頭を悩ませていました。
1680年5月、家綱の病状が悪化・・・後継者は・・・??
時期将軍候補と上がったのは・・・唯一残っていた家光の実子・綱吉でした。
しかし・・・異議を唱えるものが・・・大老・酒井忠清です。

酒井は、「鎌倉時代にならい朝廷から宮将軍をもらうべきだ」と強硬に反対!!
そこには綱吉に対する厳しい評価がありました。
忠清は、「綱吉様は天下を治める器量なし!!」と、思っていたのです。
人々は困窮し、天下の騒動になるのでは??と思っていたのです。

当時強大な力を持っていた酒井に、多くの幕閣たちが意見できない中、老中に就任したばかりの堀田正俊が・・・
「鎌倉の先例に学ぶ意味などありませぬ。
 家康公の血を引く綱吉様が・・・将軍は綱吉様にすべきです。」
正俊は、病床の家綱に綱吉将軍継承を認める書を与えていました。
晴れて将軍となったのは35歳でした。

綱吉が将軍となって5年・・・1685年2月・・・
江戸の町に高札が・・・
「将軍御成の際に道筋に犬猫が出ても苦しからず」
それまでは将軍が出掛ける際は、必ず犬猫を繋いでいなければなえいませんでした。
しかし今後は、放しておいても構わないということです。
これが最初の生類憐みの令とされています。
その後24年間に生き物を保護する法令が130余り出され、その総称が生類憐みの令です。
最も多かったのは犬!!
「飼い主のいない犬を見つけたら餌を与えること」
「犬がケンカしているのを見たら水をかけて離すこと」
「うろつく子犬を見たら母親を見つけること」
やがて・・・
「犬を捨ててはならない」
「捨て犬を見つけた者は養育すること」
「傷ついた犬がいるときは、その町全体の過失とする」
その内容は、徐々に厳しくなっていきました。
人々は綱吉を犬公方と揶揄するようになります。

違反した者には厳罰が・・・!!
犬を切り殺したものは・・・市中引き回しの上斬首!!
告発した者には50両!?
新井白石の書「折りたく柴の記」には・・・
「このことにより罪かうぶれるもの何十万人という数を知らず」
そのため、人々は犬と関わることを恐れ、こっそり犬を放したり・・・町が野犬だらけになっていきます。

困った幕府は野犬の保護を名目に”犬屋敷”を作ります。
現在の東京・中野にあった犬屋敷は最大で、30万坪という広大なものでした。
総ヒノキの小屋が290棟・・・犬部屋・餌場・日よけ所・子犬養育所・犬医者の家・役人の家・・・10万頭も飼育され、犬一食は米二合に味噌、干物・・・年間にすると10万両・・・100億円にも上りました。
その費用は、江戸、江戸周辺の農家が負担、町ごとに野犬用の駕籠まで・・・!!

観賞用のコオロギや鈴虫の飼育も禁止、遊びとしての魚釣りや鳥の捕獲も禁止・・・
許されていたのは金魚だけだったようです。

どうして”生類憐みの令”を出したのでしょうか?
1638年、徳松という唯一の跡継ぎを失った綱吉は、世継ぎに恵まれませんでした。
その状況を綱吉以上に心配したのが母・桂昌院!!
仏教に深く帰依していた桂昌院は、真義真言宗僧侶・隆光に相談。
すると隆光は・・・
「世継ぎができないのは、綱吉様が前世に多くの殺生を行っていた報いであり、世継ぎを授かるには殺生を禁じるのがよいでしょう。
綱吉様は、戌年生まれだから特に犬を大事にするように・・・!!」と、進言したのです。
これによって桂昌院は、生類憐みの令を出させたと言われていますが・・・
これはでっち上げによるものと思われます。




江戸幕府誕生から80年余り・・・
未だに刀の試し切りで辻斬りがされるなど、戦国の気風が残っていました。
戦で名を上げることが出来なくなった旗本や御家人たちは、派手な格好をして町に出ては乱暴・狼藉を行い治安を悪化させていました。傾奇者です。
この傾奇者たちが好んで食べていたのが犬でした。
犬の保護を名目に、傾奇者の取り締まりを!!

最初の生類憐みの令が出たときに・・・
「鉄砲打を捕まえたものに銀500枚」というものも出ています。
全国に普及していた鉄砲は、当時でも鳥獣駆除に使われていました。
庶民たちが武装し、簡単に蜂起できる状況に鉄砲の取り締まりを行い・・・自衛のための各藩の武器も取り上げました。
民衆を守ることで幕府の権威を高める側面もありました。
鉄砲の抑制・・・武装しなくてもいい社会づくりの一環です。

湯島聖堂は、綱吉が学問所として整備・拡充しました。
儒学の奨励をし、自ら講義をし、幕臣のみならず町民にも開放しました。
これからの武士にふさわしい哲学、生き方のために・・・!!
儒教では、人や動物に対するやさしさ”仁”を最も尊ぶからです。
武家諸法度第一条を・・・
「文武弓馬の道 専ら相嗜むべきこと」→「文武忠孝を励まし 礼儀を正すべきこと」と、替えています。
生類憐みの令も、その一環だったのです。
人間もその対象でしたが・・・
当時は捨て子が多く、里親になれば養育費として3両もらえるという制度ができました。
これを悪用する人が出てきて詐欺が孝行します。
その状況を変えようと・・・捨て子禁止令を出し続けます。
出産したときは、大家・地主に届け、人別帳に記載する・・・ということも始めます。

とことん生きるものを大事にした・・・
生類憐みの令は、弱者に対する福祉政策の側面も持っていたのです。
世界に先駆けた先進的なものでした。
戦国時代から続く殺伐とした時代の気風を一掃し、人命を尊重する世の中を作ろうとしたのです。
24年間で処罰されたのは69件で、ほとんどが武士だったといいます。
白石は、六代将軍の家庭教師なので、綱吉時代の政策を否定しているのです。


命をいつくしむ心を大切にした綱吉・・・
服忌令・・・近親者の不幸に対しての服喪や忌引の期間を定めた法令を出しています。
もともとは朝廷や公家の習慣でしたが、武士や庶民にも強制し、新しい社会規範として死や殺生を忌み嫌う世界を作ろうとしたのです。
父母・・・忌引50日、服喪・・・13か月、続き柄によって詳細に決められていました。
しかし・・・仕事を休むわけにはいかないので人々はこっそり働いていたとか・・・。

酒運上・・・酒の値段を上げて飲みすぎを防ぐこともしました。
江戸時代になるとお酒が広く出回るようになって、アルコール中毒や酒の上での犯罪が増えてきました。
そのための対処なのです。
酒癖の悪いものへ飲ませた場合も処罰されました。

積極的に人事改革も行いました。
その一つが将軍と老中の間に側用人を創設しました。
綱吉は生まれながらの将軍ではなかったので、江戸城内に側近はおらず、将軍になる前からついていた信用できる人物を側用人としました。

なので、老中たちは、側用人を通してでしか・・・直に将軍と話せないようになってしまいました。
将軍の意志は側用人から老中へ・・・のトップダウンとなり、綱吉は煙たい幕閣の実力者を遠ざけて独裁体制を作り、将軍への権力集中を見せたのですが・・・
本当に綱吉はトップダウンだったのでしょうか?
それまで老中となるには、2万5000石以上の譜代大名でなければなりませんでした。
しかし、側用人に家柄は必要なく、将軍が認めてくれさえすれば能力に応じて出世をすることができました。
幕政の中心を担うことができるのです。
綱吉に最も重用された柳沢吉保も、530石の舘林藩士にすぎませんでした。
最終的には、22万石の甲府藩主となった柳沢吉保です。
武断政治から文治政治への転換期で・・・
有能な人材を側用人に登用し、従来の老中制度も生かした政治だったのです。


綱吉は、寺社の造営・修築に力を入れます。
その普請料は、就任から10年後には4倍以上となり、幕府財政は赤字に陥ります。
財政を悪化させてまで寺社の造営・修築をしたのは、母・桂昌院のためでした。
桂昌院は、深く仏教に帰依し、桂昌院のために将軍就任の翌年には護国寺を造営、その後も母の願いをすべて聞き入れ、寺社の造営をしていきます。
綱吉は、母に対し異常なまでに従順で、将軍になってからも度々母を訪れては助言を求めていました。
綱吉は、母・桂昌院は信頼できるアドバイザーの一人でした。
将軍を動かすためにはまず、桂昌院から・・・今のマザコンのように見えますが・・・
儒教の教えの”孝”を果たすことが人間としての義務だと思っていたようです。

時代は高度経済成長へ・・・!!
綱吉が寺社の造営、農業生産の向上、街道の整備、商業の発展・・・大衆文化をも発展させます。
このような公共事業で巨万の富を得たのが商人たちでした。
中でも幕府を相手にした商人は大儲け!!
材木問屋・紀伊国屋文左衛門、奈良屋茂左衛門・・・豪商が誕生しました。
紀文は、寛永寺根本中堂の工事で50万両(約500億円)を儲けたといいます。
奈良茂は、日光東照宮の修復工事を独占し、大出世し財を成したと言われています。

豪商の誕生、商業の発展で、元禄時代は空前のバブル時代となります。
しかし、商人が儲かったのは・・・商人に対する税制が確立していなかったからです。
儒教の倫理観では「商売は卑しい行為」で、上人にはほとんど税金はかけられていませんでした。

空前のバブル景気に沸いた江戸でしたが、貨幣改鋳によりその流通量が増えて物価が高騰!!
一転して庶民の生活が困窮に・・・!!
そんな中、1703年元禄大地震、1707年富士山大噴火・・・その復興費用が、幕府の財政を圧迫していきます。
当時は、災害はお上の悪政が引き起こすと言われていました。
庶民たちは、将軍への批判を始めます。
天に見放され、人心さえも・・・晩年は、生来の好き嫌いが激しくなり、気に入らないものはすぐに遠ざけたと言われています。
そして被害妄想も・・・
やがて、唯一成人していた娘・鶴姫を27歳という若さで亡くし、その翌年、最愛の母・桂昌院も亡くすのです。
4年後・・・綱吉は、自らの跡継ぎを残せないまま・・・64歳で孤独の中この世を去りました。


ドイツ人医師ゲッペルは綱吉のことを・・・
「法律を厳格に守り、国民に対し憐み深い優れた君主である。
 日本は、生活習慣、芸術、道徳において、ほかのあらゆる国の人を凌駕している」
様々な国を見てきたゲッペルには、綱吉が名君に映ったようです。


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