新政府軍の猛攻を受け、鶴ヶ城は開城・・・民間人も多く巻き込まれ、戦死者は2000人を超えました。
この時、会津藩を率いたのが松平容保。
義を重んじ、幕府に殉じた藩主というイメージが先行する中、その実像は意外なほど知られていません。容保が幕末についてほとんど語らなかったからです。
容保の運命を大きく変えたのが、京都守護職への就任でした。
京に乗り込み、一橋慶喜らと共に政治の実権を握りました。
しかし、変革の嵐はあまりにも激しく・・・
幕府を揺るがす薩長の台頭、思いもよらない長州征討での敗北、そして・・・朝敵とされた鳥羽・伏見の戦い!!
容保を次々と襲った究極の選択がそこにはありました。
その悲劇の真相とは・・??
会津若松市鶴ヶ城・・・松平家23万石の居城です。
天守閣にある博物館に資料が残されています。
描かれているのは、会津から遠く離れた浦賀湾・・・江戸後期、イギリスの帆船が通商を求めて来日した様子を描いたものです。
中央には巨大な異国船・・・その周囲を取り囲むように小舟が・・・
よく見ると、小舟には会津の旗印が・・・!!
実は江戸ののど元にあたる浦賀の警備を会津藩が引き受けていたのです。
江戸時代、泰平の世ということもあり、各藩、武備には力を入れていませんでした。
しかし、会津藩は日ごろ地元でも軍事訓練を続けていました。
だから、会津藩に白羽の矢が当たったのです。
会津藩は、親藩の中でも特に最前線で徳川将軍家を守ることを期待され代々それに応えてきました。
藩祖・保科正之定めた「家訓」
十五条の最初にはこうあります。
”大君の義 一心大切に忠勤を存ずべし”
将軍に絶対の忠誠を誓うことが歴代藩主に課せられた使命でした。
第9代藩主・松平容保は、18歳の若さで藩主の座を引き継ぎます。
高須松平家に生まれ、会津に養子に入った容保が、まず教えられたのがこの家訓でした。
この教えを胸に、容保は時代の荒波に立ち向かっていきます。
時は幕末・・・京では尊王攘夷の火が燃え盛っていました。
導火線に火をつけたのが長州藩・・・
その狙いは、幕府の開国政策の阻止でした。
藩士を京に送り込み、異国排斥を訴え、朝廷の有力公家たちを味方につけていきます。
長州に呼応するように、過激な攘夷派の浪士が続々と京に集結。
幕府に近い公家の家臣などを標的に、テロを繰り返します。
この事態に幕府が頼ったのが、会津藩でした。
新たに設けた京都守護職に容保の就任を命じました。
その任務は、京に千人規模の軍隊を駐屯させ、治安を守るというものでした。
当然、巨額の費用も見込まれます。
家臣たちは、”薪を負うて火を救う”ようなものだと反対の声をあげました。
都での動乱に巻き込まれることを逡巡しながらも、容保は幕府の要請に応えることを決めました。
「我が会津藩は、徳川宗家と存亡を共に存亡すべし定められている
君臣、ただ京の地を以て死所となすべきである」by容保
1862年12月、会津藩上洛。
容保は会津藩兵を率いて京に到着しました。
御所からおよそ2キロ・・・金戒光明寺は京都守護職の本陣が置かれた寺です。
容保が使った部屋が当時の姿に復元されています。
ここで容保は、京の治安回復の指揮を執りました。
1863年3月・・・この広間で容保と対面したのが、新撰組局長・近藤勇でした。
後に新撰組になる若い浪士たちと容保が初めてであったのもこの寺の境内でのことでした。
土方歳三や沖田総司らの腕前に期待を寄せた容保は、彼等を京の治安維持に用いました。
会津藩御預新撰組は、攘夷派の取り締まりに大いに力を振るいました。
守護職・会津によって、京の治安が回復に向かったことを誰より喜んだのは・・・時の孝明天皇その人です。
初めて謁見した際、天皇は容保の功績を称して、緋色の衣を下賜しました。

この時の陣羽織がそれです。
容保は大いに感激し、守護職の任務への思いを新たにしました。
しかし、その一方で、長州藩の動きは過激さを増していきます。
1863年5月、長州藩が下関海峡で外国船を砲撃。
長州藩は、攘夷派の公家と共に、更なる計画に動き出しました。
孝明天皇を神武天皇陵へ行幸させ、攘夷戦争の御前会議を開く
というものでした。
この計画が実現すれば、天皇の名のもとに外国へ宣戦布告するにも等しい・・・!!
対外戦争の危機が寸前に迫ったその時・・・!!
容保のもとに外様の大藩・薩摩からの報せが届きました。
長州と攘夷派公家に対するクーデターに、会津藩の協力を求めてきたのです。
容保はすぐに決断、会津藩士に薩摩と行動を共にすることを命じました。
そして、事態を知らされた孝明天皇からの極秘命令が容保に届きます。
”会津の兵力を以て、国家の害を除くべし”
1863年8月18日、政変の幕が切って落とされました。
会津藩兵が御所の門を封鎖し、長州に与した公家の参内を阻止、彼らを排除した朝議でその処分が決められました。
朝廷を牛耳っていた攘夷派公家たちは官位を剥奪、御所警備を解かれた長州藩と共に西国へと落ち延びていきました。
尊王攘夷派は、都から一掃されたのです。
事件のあと、孝明天皇から容保に下された直筆の和歌・・・
自分の意をくんで攘夷派追放に働いてくれた容保の忠誠に対し、天皇はこう詠んでいます。
武士と心合わして いわおをも貫きてまし 世世のおもひで
天皇と武士が心を合わして、国の難局に当たっていくことを望んだ孝明天皇・・・
容保もまた、朝廷と幕府が一体となって政治を行う公武合体の実現を自らの使命としていくのです。
1864年7月、失地回復を目論んだ長州藩が、京に進軍!!
御所を舞台に激しい戦いが繰り広げられました。
禁門の変です。
この時容保は、禁裏御守衛総督の一橋慶喜らと共に出陣し、長州藩を撃退しました。
この結果、権力を掌握したのが一会桑・・・
容保と慶喜に桑名の松平定敬を加えた体制でした。
一会桑が目指したのは、江戸の幕府と京の朝廷をつなぐことです。
幕府が独断で政治決定を行う幕府専制から、朝廷の意思を組んで幕府が政治を行う公武合体への転換を図ろうとしました。
一方、禁門の変で御所に向けて発砲した長州に、孝明天皇は激怒。
7月23日、幕府に対し朝廷長州を討つべしと、長州征討の勅令を下しました。
この時、容保は江戸に書簡を送っています。
それは、将軍直々の上洛の要請です。
将軍・家茂を上洛させ、その後も京に常駐させることで、朝廷との意思統一を図り、公武合体を推し進めようという狙いでした。
ところが、容保の意図を阻止したのは、江戸の幕閣でした。
”容保公は単に京都守護職に過ぎない
将軍の進退について、口を出すべきにあらず”
容保や会津藩は、朝廷と幕府が強調する・・・それが前提として幕府は存続できるという考えでした。
禁門の変みたいな重大な事件が起きれば、将軍自身が征夷大将軍として出陣をして、京都に行って将軍の誠意を見せる、朝廷の信頼を得るという考え方でした。
対して江戸の幕閣は、過去2度、将軍は上洛したが、朝廷や諸藩に振り回されて将軍の権威が失墜したと考えていました。
ここで、上洛をするということに対して非常に及び腰で、現状認識、危機感といううえで差がありました。
結局、家茂の上洛は持ち越され・・・代わりに征長総督に任命された尾張藩・徳川慶勝のもと、35藩・総勢15万の大軍が進発します。
1864年、第一次長州征討!!
全軍は、11月11日までに5つの攻め口に着陣。
1週間後に総攻撃を決しました。
ところが、ここで思わぬ動きを見せたのが薩摩藩でした。
薩摩は会津と共に長州排除に動いたものの、その後、一会桑によって政治の中枢から遠ざけられていました。
長州征討が成功し、一会桑の勢力がさらに強固になるのは好ましいことではなかったのです。
11月、征長軍参謀にあった西郷隆盛は、単身・岩国を訪れ、長州藩との交渉に臨みました。
”長州藩は速やかに禁門の変を主導した三家老を処分
その首級を届けるべし”
過酷な処分のように聞こえますが、西郷は裏ではこの要求さえのめば攻撃を中止させ、その後も寛大な処分に動くことを長州に約束していました。
長州はこれを受諾、三家老を処刑し、恭順の意を示しました。
ここに、征長軍は、戦うことなく解兵することとなりました。
この時期、容保の元には、京都守護職をやめ、会津に戻ってくることを願う国元からの要請が度々寄せられていました。
しかし、長州征討が一段落した後も、容保はこう返答しています。
「自分が京にいるからこそ、薩長も好き勝手が出来ない
引き上げた場合、どのような事変が生じるかわからない」by容保
第一次長州出兵は、三家老の首を長州藩が出して、一応終息しています。
しかし、問題はそれで終わっていません。
長州藩に対する朝敵としての具体的な処分を、京都で決めないといけません。
中途半端なところで帰っても、孝明天皇の信頼に応えることもできないし、幕府に対する責任を果たすことができない!!
京で自分が果たすべき使命がまだある・・・!!
容保は、守護職留任を決断しました。
1864年12月、長州で一大事変が勃発しました。
幕府への抵抗を掲げる高杉晋作らが決起、恭順派との内戦に勝利し、藩の主導権を握ります。
彼等は、藩内の武装を強化、表面上は幕府に恭順するが、いざとなれば戦争をも辞さないという方針でした。
この動きを察知した幕府は、
”長州藩内に容易ならざる企てがある
御所からの要請もあったので、討伐のため将軍自ら出陣する”
朝廷にとっては寝耳に水でした。
天皇は軍事行動など命じていなかったからです。
急遽、説明のため参内を命じられた容保たちは、苦しい弁明を展開することになります。
「征伐」=将軍が大坂へ上る「進発」の意味に過ぎない
容保の言い訳の背景には、幕閣の計画を敢えて利用しようという狙いがありました。
容保たちから見れば、将軍を江戸から引っ張り出す千載一遇のチャンスでした。
将軍を上洛させて、長期間滞在させることで、朝廷と幕府が一体化、長州処分を執行することで、朝廷と幕府の権威が維持できる・・・!!
結局、朝廷も幕府の追討令を追認・・・
1865年5月、将軍・家茂は、江戸を進発し、大坂城に入りました。
11月、広島に目付が派遣され、長州の陰謀を糾問。
これに対し、長州側は、陰謀など事実無根だと弁明しました。
藩内への立ち入り調査も拒否され、使者は引き下がざるを得ませんでした。
どうにも不審な長州の態度に、老中が急遽状況。
一会桑との間で、対応が話し合われることとなりました。
この時、長州の軍事討伐にこだわった老中は失脚し、その顔触れは穏健派に代わっていました。
長州の態度にはあいまいな部分があるが、再度詰問すれば、紛糾し戦の恐れがある・・・
戦争を避けるためには、藩主親子の謹慎や、領地の削減など、寛大な処分にとどめるべき??
これに反発したのが一橋慶喜でした。
道理を曲げて寛大な処分を下すことに断固として反対しました。
反逆者への処分がうやむやになるようでは、幕府と朝廷の権威失墜を天下に示すことになる・・・!!
いざとなれば戦う覚悟で再度使者を送り、疑惑を徹底究明すべきだ・・・!!
果たして、容保はどちらに与すべきか・・・??
容保の選択を伝える記述が越前藩の記録に残っていました。
”長州問題を巡って、一橋と老中は一旦決裂したが、その後、会津と桑名がとりなしたことで、両者は再協議することになった
会議が物別れに終わると、容保が動いていた
慶喜に直談判!!老中との再協議を説得した”
容保の選択は、長州に対する寛大な処分でした。
改めて開かれた会談で、長州処分最終案は・・・
・藩主父子の隠退
・領地10万石の削減
・朝敵の名は除く
でした。
1866年2月、長州藩に処分案を伝達、返答期限は5月29日に・・・!!
しかしこの時、容保の知らないところで歴史は大きく動いていました。
1866年1月・・・薩長同盟締結
”長州の朝敵の汚名を晴らすため、薩摩はいかようにも尽力する
一会桑が邪魔立てするようならば、決戦に及ぶ”
長州は、処分を断固拒否し、徹底抗戦の意思を固め、薩摩もその支援を確約していたのです。
当然返答期限に長州の返事が届くことはありませんでした。
幕府の面目をつぶされたことに、慶喜は激怒。
6月7日、孝明天皇から一橋慶喜に長州征討の勅許が下ります。
開戦に踏み切りました!!
もはや、容保に止める術はありませんでした。
1866年6月、第2に長州征討の戦端が開かれました。
薩摩の援助で入手した最新式の武器が、幕府軍を圧倒していきます。
実はこの戦いには、精強を誇る会津藩兵が導入されていません。
容保は、この戦が、長州と会津の私戦と受け取られることを危惧し、出兵に踏み込めませんでした。
しかし、その後、会津兵を欠いた幕府は、各地で連戦連敗・・・
戦局を変えるべく、遂に出陣を決意します。
しかし、予期せぬ事態が待ち受けていました。
1866年7月20日、将軍・家茂が大坂で病死。
後を託された慶喜は、容保の必死の説得にも応じず、戦を続けることを断念・・・
第2次長州征討は、幕府の敗北に終わりました。
そして、更なる事態が容保を襲います。
1866年12月25日、孝明天皇崩御。
これをきっかけに、まるで崖を転がり落ちるかのように容保は窮地に追い込まれていきました。
1868年1月3日、鳥羽・伏見の戦い
会津は、徳川慶喜擁する旧幕府方として、薩長を中心とする新政府軍と戦火を交えました。
火力の差は歴然でした。
そして・・・新政府軍が、戦場に錦の御旗を掲げると・・・
朝敵に名指しされた慶喜は戦意喪失、海路を江戸へと帰ってしまいました。
傍らには、容保の姿もありました。
容保の小姓の手記「浅羽忠之助遺録」
容保の会津藩主就任以来そのそば近くに仕えた小姓です。
家臣に一言も告げず、戦場を離脱した容保に対し、忠之助はこう記しています。
「このような苦戦になり、死傷者も多く出ている
それをお見捨てになって、お立ち退きとはあってはならない」
決死の逃避行の末、江戸にたどり着いた忠之助は、主君に拝謁し、そのことを諫言しました。
容保は、ただこう返したといいます。
「誠に失策の至りであった」
1868年閏4月、会津戦争
朝敵とされた会津は、新政府軍の猛攻に晒されました。
2500発もの砲弾を撃ち込まれ、鶴ヶ城は開城。
老人や女性、子供にまで多くの犠牲者を出し、会津戦争は終結しました。
鶴ヶ城のほど近くにある御薬園・・・
降伏ののち、死罪を免れた容保は、明治に入ってから数年間、この地で過ごしました。
公武合体の実現をひたむきに追い求め、夢破れた容保・・・
家訓十五箇条が会津藩の憲法でした。
「大君」は、将軍家であるとともに、帝・皇室であると考えていました。
帝と武家が、手を取り合って平和な国を作っていこうと・・・
これが、激しい時代の中で、全く逆の立場に立たされたのです。
自分は戦争責任者・・・
会津の罪もない人たちに大変な塗炭の苦しみを味あわせてしまった・・・
このことを、何より悔いていました。
会津戦争から25年・・・1893年、松平容保死去。
容保は59歳で没しました。
その亡骸は、会津の山中で、静かに眠っています。
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