そのすぐそばに、按針通りと呼ばれる小さな通りがあります。
按針とは、中国船や西洋船の航海士のことで、かつてこの地に徳川家康に仕えた航海しの屋敷がありました。
航海士の名は、三浦按針・・・本来の名をウィリアム・アダムスという青い目のサムライです。
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1564年、第5次川中島の戦いで武田信玄と上杉謙信が戦っていた頃。
後の三浦按針・・・ウィリアム・アダムスは、イギリス南東部ののどかな港町ジリンガムで生まれます。
高貴な生まれではなかったものの、イギリスの一般民衆の識字率が低かった当時においても、アダムスは読み書きを身につけていたことからそれなりの教育を受けていたと考えられています。
そして、12歳の時に、船大工に弟子入り。
厳しく仕事を叩きこまれ、24歳でようやく独り立ちしました。
しかし、その矢先、船大工の職をあっさりと捨てて英国海軍に入隊しました。
当時、小国イギリスに大国スペインが侵略して来るという情報が・・・
エリザベス女王の名で、英国海軍に協力する船と船員を募集しました。
アダムスは、航海術も学んでいたので、海軍に入ったのではないか?と言われています。
当時のイギリスは、スコットランドや北アイルランドとは連合していない人口300万ほどの小国でした。
一方、スペインは、ポルトガルを併合した世界最強の大帝国でした。
そんな両国が対立したのには、当時のヨーロッパの宗教問題が大きく関係していました。
共にキリスト教でありながら、ローマ教皇を中心とするカトリックと、そこから分離した改革派のプロテスタントが反目しあっていたのです。
その為、プロテスタント推進政策を掲げるエリザベス1世と、カトリック原理主義をとるスペイン国王・フェリペ2世が激しく対立。
大艦隊をもってイギリスに進攻しようとするスペイン軍に対し、アダムスは祖国を守ろうとエリザベス女王の呼びかけに応じて英国海軍に入隊したのです。
当時の海軍の名簿によれば、アダムスは前線に弾薬などを届ける貨物補給線リチャード・ダフィールド号の船長として参戦。
大激戦の末、イギリス海軍がスペインの無敵艦隊を退けて勝利を収めました。
しかし、英国海軍は、本隊を残して解散!!
止む無くアダムスは、イギリス~モロッコ間の貿易を行うバーバリ商会に就職します。
バーバリ商会にはもう一つの顔がありました。
それは、海賊です。
バーバリ商会がモロッコに向かう経路は、スペイン船やポルトガル船の主要航路と重なっていて、遭遇すれば船を襲って略奪行為を行うのが常となっていました。
そして、襲撃した船の積み荷の1/3が、船員に分配されました。
また、アダムスは、バーバリ商会に入社した翌年に結婚、1男1女をもうけています。
そんなアダムスが、どうして極東の日本に来ることとなったのでしょうか?
1597年、バーバリ商会は、モロッコ貿易の許可証が失効したことを理由に解散。
33歳になっていたアダムスは、再び職を失います。
「私のささやかな知識を活かす場所を見つけた」byアダムス
それが、オランダが開拓したアジア航路でした。
当時のヨーロッパの状況は、アジア貿易を行っていたのはスペインとポルトガルだけでした。
彼らは、アジアへの行路などを秘密にしていました。
しかし、イギリスと友好国であったオランダが、1595年にアジアへの進出に成功します。
そこで、オランダ人としてもアジアで貿易ができることが示されていました。
アダムスは、オランダが始めたアジア貿易で培った航海術を活かしたいと考えたのです。
1598年、オランダの貿易会社がアジア遠征を企画します。
アダムスはイギリスに妻子を残して、オランダ・ロッテルダムに渡ります。
1598年6月27日、オランダ・ロッテルダムを出航!!
大西洋を渡り、南米対立南端のマゼラン海峡を抜け、太平洋を渡ってアジアに来る予定でしたが、その航海は惨憺たる有様でした。
航海当初は風に恵まれて順調だったものの、まもなくビタミンC不足が原因とされる壊血病や熱病が船内で蔓延。
多くの船員が命を落とし、アダムスがのっていたホープ号の船長も病死。
すると、船員の配置換えで、アダムスはリーフデ号に移りました。
その後も苦難は続き、嵐も重なって船は一隻、また一隻と姿を消していきました。
最後の一隻となったリーフデ号は、それでも懸命に航海を続行。
出航からおよそ1年8カ月が過ぎた1600年3月16日に豊臣政権化にあった豊後国・白杵にたどり着きます。
長旅を耐え抜いた船員は、アダムスを含めてわずか24人。
みな、衰弱しきっていたため、臼杵の民衆が船の積み荷を盗もうと乗り込んできても何も抵抗できませんでした。
翌日には、臼杵の役人がやってきて、盗人を取り締まり、リーフデ号を検分。
すると、その報告を受けた臼杵城主・太田一吉は、首をかしげます。
貿易にやってきた商業船かと思いきや、リーフデ号には多くの大砲や武器が積み込まれていたのです。
太田は急いで、リーフデ号の報告書を作成します。
豊臣政権の長崎代官・寺沢広高に送付。
アダムスたちには処遇が決まるまでそのまま待機するよう命じました。
待機している間に3人の船員が衰弱死してしまいました。
残りの21人は、港近くの一軒家を逗留場所として与えられました。
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ウィリアム・アダムス ??家康に愛された男・三浦按針 (ちくま新書) 新品価格 |

半世紀前に来日していたイエズス会士・・・カトリックの宣教師たちは、豊後の臼杵にオランダ船が来航したことを知ると、臼杵城に向かい城主の太田一吉にこう進言しました。
「あの船は海賊船です
船員たちは即刻処刑すべきです」byイエズス会士
臼杵城下の民衆にも、「やってきたのは極悪な海賊だ」と、吹聴して回り、アダムスたちに敵意が向くように仕向けます。
さらに、日本でのイエズス会の活動を統括していたイエズス会司祭、アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、長崎代官・寺沢広高に、
「来航した船は海賊船であり、船員たちはポルトガル人とすべてのキリスト教徒の敵である」と言いました。
この時代は、まさしく宗教戦争の時代でした。
イエズス会士はカトリック、アダムスたちはプロテスタントでした。
プロテスタントはイエズス会士たちから見れば異端者でした。
改宗か、滅ぼさなければならない相手でした。
また、日本でのポルトガルの貿易の一部がイエズス会の活動資金になっていました。
もし、貿易独占が破られてしまえば大きな痛手だったのです。
イエズス会士たちにとってアダムスたちは、異端者であり、イギリス船などの来日を牽制するためにも排除しなければならないと考えていました。
そうした状況の中、アダムスたちの処遇をゆだねられたのが長崎代官から報告を受けた徳川家康でした。
この時、家康は59歳。
まだ豊臣政権の五大老でした。
しかし、2年前の秀吉の死後、急速に勢力を拡大。
豊臣家の居城である大坂城に強引に入城し、秀頼を差し置いて政の実権を握っていました。
来日から9日が過ぎた3月25日、家康からの指示が伝えられます。
「主だった船員2人で大坂に来るように」
選ばれたのが、ウィリアム・アダムスとオランダの商人ヤン・ヨーステンでした。
こうしてアダムスとヨーステンは、大坂城へ!!
そして、3月30日、自分たちの置かれれている状況すらわからないまま家康と対面しました。
「大王の宮殿は金箔が贅沢に使われた、非常に豪華なものだった」byアダムス
家康は、イギリスとオランダという見知らぬ国からやってきた二人に対し、身振り手振りで意思の疎通を図ろうとします。
上手くいかなかったため、ポルトガル語なら少しはわかるのではないかと、ポルトガル語が話せる家臣を呼んで通訳させることにしました。
アダムスたちの国が戦をしているのかと尋ねます。
「スペインとポルトガルとはしています
しかし、他の国とはみな平和に付き合っています
貿易によって日本にはない商品を、イギリスからもたらし、イギリスにはない商品を日本で購入したいのです」
次々と投げかけられる家康の質問に、片言のポルトガル語で懸命に答えるアダムスたち・・・
質疑応答は、真夜中まで続いたと言われ、政務に忙しい家康がこれほどの時間を費やしたことにアダムスたちに対する興味の深さが伺えます。
しかし、得体のしれない外国人に対する警戒心を解いたわけではなく、謁見後は牢屋に入れられてしまいました。
再び家康に呼ばれたのは2日後でした。
この日も家康は、アダムスたちを朝から晩まで質問攻めにしました。
「二度目の尋問後も牢屋に入れられた
二度目の牢屋は前回よりも快適だった」
生きて帰れるかもしれない・・・と期待したアダムスたちでしたが、それから1カ月以上もお呼びがかからず、外の情報も一切入りません。
「はりつけにされて死ぬのだと、毎日のように思っていた」
この間、イエズス会士たちは、家康に
「リーフデ号の船員たちを活かしておけば、家康さまや日本の不利益になる」と、処刑を訴え続けていました。
「今のところ、彼らは余ばかりか、我が国の誰にも危害を加えていない
そのため彼らを処刑するのは道理や正義に反する」by家康
と、退けます。
関ケ原の戦いの3か月ほど前のことでした。
アダムスたちに3度目の呼び出しがかかったのは、それから間もなくのこと。
牢屋に入れられてから41日目でした。
家康はこれまで同様、様々な質問をし、謁見が終わりに近づくとアダムスたちに
「仲間に会いたいか?」
と、たずねました。
当然、アダムスはうなずきます。
すると家康は、アダムスたちを開放し、堺へ向かわせました。
この時、家康は、リーフデ号とその船員たちを堺に移動させていました。
アダムスたちが涙を流して再会を喜んだのは言うまでもありません。
さらに家康は、船内にあったアダムスたちの所持品が盗難によって無くなっていることを知ると、現在の8億円相当の金銭を与えました。
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家康がアダムスたちを手厚く労ったのは・・・??
日本の統治にアダムスたちが必要だったからです。
家康は、日本の対外貿易におけるポルトガルの独占を快く思っていませんでした。
貿易の自由競争による輸入価格の低下を狙っていました。
日本の国内産業が潤うように・・・!!
そこで、アダムスたちを仲介して、ポルトガル以外の国とも貿易を行おうとしたのです。
当時の家康の政治基盤はまだ脆いものでした。
そこで武器の供給が非常に重要となっていました。
現に、リーフデ号には武器がぎっしりと積まれていました。
武器の供給源になることも期待していたのです。
後に大坂の陣ではアダムスたちを通じて武器を手に入れています。
1600年6月16日、徳川家康は、天下取りのライバルになりかねない会津の上杉景勝を討つため、大坂城を後にしました。
これに伴い、ウイリアム・アダムスたちを乗せたリーフデ号も浦賀に移動。
リーフデ号に積まれていた武器を、会津で使うためだったと言われていますが、会津討伐は中止に・・・。
アダムスたちはそれから2年間、家康からの命令が下されずほったらかしにされてしまいます。
彼はその間、日本語を習得。
政局が落ち着くと、アダムスは再び家康から呼び出されるようになり・・・
「小型船を一隻作ってくれぬか」by家康
船大工をしていたのは昔のこと・・・
アダムスは、依頼を受けるべきか悩みます。
造船を請け負うこととなったアダムスは、伊豆の伊東へ。
海に面し、木材を調達しやすい山にも近い伊東は、古くから造船が盛んでした。
船大工も多く、造船技術の伝授が狙いでした。
完成したのは、80トンほどの西洋式帆船
伊東まで見学にやってきた家康は、たいそうご満悦で、アダムスを褒め称え、今後は側近となって常に側にいるように命じました。
以来、アダムスは、好奇心旺盛な家康に西洋の学問や技術を教えるブレーンとなりました。
その蜜月関係は、家康が生体将軍に任命され、江戸幕府を開いてからも変わらず、アダムスに厚い信頼を寄せていました。
新しい妻を娶り、家族を作ったアダムスでしたが、イギリスに残した妻子を忘れることはできませんでした。
来日から5年が過ぎたある日、家康に帰国を願い出ますが・・・家康は機嫌を損ねてしまいました。
その後、アダムスは、家康からもう一隻船を作ってほしいと依頼され、120tの洋式船を作ります。
日本の海岸線沿いを測量し、海図も作成しました。
すると家康は、アダムスを日本に引き止めるという意味も含めて異例ともいえる褒美・・・それは旗本という身分を与えました。
大小の刀と三浦半島の逸見・・・約250万石が所領として与えられました。
そして、この地名にちなんで、三浦按針と呼ばれるようになりました。
三浦半島の航海士という意味で、江戸・日本橋にも屋敷を与えられたアダムスは、いつでも登城できるようにそこで過ごすことが多かったといいます。
江戸を闊歩する青い目のサムライ・・・人の目を引いたことでしょう。
アダムスは、航海士などの経歴と幅広い知識から家康の外交顧問を務めるようになりました。
時にはその発言が、日本の命運を左右したことも・・・
1611年、来日したスペイン使節のセバスチャン・ビスカイノが本国の鉱山技術を提供すると申し出ると、家康はその申し出に対し、キリスト布教の許可と江戸湾測量の許可を出しました。
それを知ったアダムスは、家康に・・・
「スペイン人が江戸湾を測量する目的は、いずれ大艦隊を率いて侵略するためです
私の母国であるイギリスならば、他国による海岸の測量は絶対に許しません」
そう止めても、
「今更断るのは面目が立たん、たとえ攻め込まれても、対抗する兵力は十分ある」
と納得しません。
「宣教師を送り込んで、その国の民衆をキリスト教に改宗させ、その後スペイン人がキリスト教徒と共謀して国を乗っ取るのが奴らの策略なのです」
アダムスは必死に訴えました。
これに心打たれた家康は、スペインとの外交に消極的となり、さらに、
1612年、家康が直轄地でのキリスト教禁止令を発布します。
この家康の決定には、アダムスの助言が大きくかかわっているといいます。
もしもアダムスが家康を諌めていなければ・・・南アメリカのインカ帝国のように日本もスペインの植民地となっていたかもしれません。
スペインとの外交には苦言を呈したアダムスでしたが、母国のイギリスにはアジア貿易の拠点・イギリス東インド会社に手紙を送り、日本との外交を働きかけました。
それが実を結んだのは、1613年。
徳川と豊臣の最終決戦・大坂の陣の前の年でした。
イギリス船・クローブ号が肥前国平戸に来航・・・日英貿易が始まったのです。
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アダムスは、イギリス船が来航したことによってイギリスに帰りたいという思いが再燃します。
そんな時、家康から呼び出しが・・・!!
決意を固めたアダムスは、所領を許された際の朱印状を差し出し、深々と頭を下げてこれまでの厚遇と感謝の意を述べ、所領をお返ししてイギリスに帰りたいという思いを伝えます。
すると家康は、
「貴殿のこれまでの行いと忠実な奉仕に鑑みると、その願いを拒否することは不当であろう」
と、帰国を認めました。
来日から13年目の1613年。
三浦按針ことウィリアム・アダムスは、徳川家康から帰国の許しを得たものの、結局本国イギリスに帰ることはありませんでした。
大きな要因だったと言われているのが、イギリス船クローブ号の総司令官を務めるジョン・セーリスとの不仲です。
イギリス使節でもあったセーリスは、家康との仲介役を務めるアダムスと共に過ごすことが多かったのですが、2人は馬が合わず、激しく口論が絶えませんでした。
その為、アダムスは、セーリスとの長旅は無理だと考え、
「もう少し現金を貯めてから帰国する」
そう言って、乗船を断わったのです。
アダムスは、日本では殿さまでしたが、イギリスでは一介の船乗りでした。
そしていつでも帰れるという安心感・・・。
日本にとどまったアダムスは、平戸に設立したイギリス商館で働きはじめ、琉球やシャムまで自ら足を運び貿易を行うようになります。
すると家康は、アダムスを呼び寄せてこう伝えます。
「航海などに出ず、我が国にとどまってくれぬか
知行が不十分ならば加増しよう」
家康は、再びアダムスを手元に置きたいと考えていました。
しかし、新たな道を歩み始めていたアダムスは、丁重に辞退。
これが二人の最後の対面となりました。
大坂夏の陣で豊臣を滅ぼし、徳川政権を盤石なものにした家康が、1616年4月17日この世を去ったのです。
幕府の実権は、2代将軍秀忠が掌握・・・これがアダムスの運命を変えます。
秀忠は、家康の側近たちから距離をとり、独自の政治を始めました。
中でも違いが大きかったのが外交面でした。
家康がヨーロッパ諸国との貿易を奨励したのに対し、秀忠は、京都・大坂・堺で外国人が日本人に商品を売ることを禁止します。
それまで特に決まりのなかった外国人の居留地を、江戸から遠く離れた長崎と平戸に限定しました。
さらに、家康の朱印状があれば日本のどこでも入港が可能だったのに対し、秀忠は長崎と平戸に限定。
当然、アダムスは納得できず、幕府の高官に外交の重要性を訴えましたが、全く聞き入れてくれません。
秀忠とは会うこともままならず、ついには外交担当からも外されてしまいました。
失意のアダムスは、帰国の機会も得られないまま平戸で家康の死のわずか4年後・・・
1620年4月24日、ウィリアム・アダムス死去・・・青い目のサムライ・・・56歳でした。
アダムスの遺産は、現在の価値で4000万円ほどでした。
その半分をイギリスの妻子に、残りの半分を日本の子供たちに与えると遺言に残していました。
そしてこれ以降、日本は鎖国に突き進み、アダムスが開いたイギリスとの国交も閉ざされてしまいます。
家康との運命的な出会いを果たし、故郷から遠く離れた日本でサムライとなったウィリアム・アダムス。
その人生は、時代の荒波に翻弄された数奇なものでした。
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