今からおよそ300年前の江戸時代前期、江戸城松の廊下で後世まで語り継がれることとなるあの事件が起こります。
播州赤穂藩主・浅野内匠頭が、高家・吉良上野介に殿中で斬りつけた・・・松の廊下事件。
内匠頭は、この事件からわずか7時間後に切腹処分。
それから・・・およそ1年9か月後の1702年12月14日、赤穂浪士四十七士が吉良邸に討ち入って上野介を討ち、切腹に処されるまでの一連の出来事が世にいう赤穂事件です。
そして、その事件をもとに作られた物語が、御存じ忠臣蔵です。
”預置候金銀請払帳”・・・これは、吉良邸討ち入りまでにかかった経費を記した文書・・・
忠臣蔵の決算書です。
その経費の総額は、現在の価値で8000万以上。
刃傷事件から討ち入りまで、1年9か月・・・そんな大金が、なぜ、何に必要だったのでしょうか?
刃傷事件当日、浅野内匠頭切腹から赤穂浅野家お取り潰しが決定しました。
国元の赤穂藩は、城を明け渡すことになります。
これに際し、筆頭家老の大石内蔵助は、様々な成算処理を迫られることになります。
藩がお取り潰しになると、領地・城・江戸屋敷は幕府に返上しなければなりません。
しかし、藩が蓄えてきたものは藩の財産でした。
それを清算処理してお金に換える必要がありました。
内蔵助がまず着手したのが藩札の清算でした。
清算処理①藩札
藩札とは、諸藩が独自に発行している紙幣のことで、代金の代わりに商人などに支払われたものでした。
しかし、その価値は、藩が消滅するとなくなります。
そうなる前に、出回っている藩札を監禁する必要がありました。
しかし、これが莫大で、浅野家の記録によると、藩がこれまでに領内で発行した藩札の総額は銀900貫目・・・およそ18億円・・・藩の年間予算に匹敵していました。
赤穂浅野家のお取り潰しが伝わると、藩札を持っていた商人たちがただの紙切れになると、刃傷事件から5日後には当時の貨幣である銀に交換してほしいと札座に殺到しました。
赤穂藩には替り銀と呼ばれる藩札のための準備金・銀700貫目が用意されていました。
これを使えば、藩札の換金に必要な銀900貫目の大部分が清算でき、残りは200貫目となります。
内蔵助は、残り分を赤穂藩の特産品の塩をつくる塩田に課した税金・運上銀で生産しようと考えていました。
しかし、赤穂藩は大坂商人に借金をして財政の不足分を補っていました。
運上銀を大坂商人への借金の担保にしていたため、取り上げられてしまったのです。
内蔵助は、藩札の清算を如何にして切り抜けたのでしょうか?
銀200貫目は、今のお金に換算すると約4億円という大金でした。
内蔵助は、すぐに浅野家の本家である広島藩などに借金を申し込みます。
しかし、どこもけんもほろろ・・・
すると、「藩札は6分替えで行う」・・・なんと、額面の6割で銀に交換するというのです。
藩札の交換に必要な銀900貫目の6割は、540貫目。
これなら、替り銀700貫目で十分に賄えます。
商人たちも、踏み倒されるよりはましだと、6割交換で納得しました。
こうして内蔵助は藩札の清算を切り抜けました。
しかし、清算しなければならないものがまだありました。
藩士たちへの最後の給料です。
清算処理②藩士への給料と退職手当
赤穂藩は、およそ300人の藩士を抱えていました。
藩が潰れれば、藩士たちは浪人となり、路頭に迷うことが目に見えていました。
そこで内蔵助は、給料にあたる米を、藩の蔵から放出。
この年の分を一括で支給することにします。
総額およそ16億5000万円!!
さらに、割賦金と呼ばれる退職金も支給します。
割賦金は、現在の価値で7億1000万
割賦金は、基本的には藩士の石高に応じて支給されるこのです。
しかし、内蔵助はこの時、今後浪人生活になるので、高い禄をもらっている者には減らし、下級藩士には比較的割合を増やしました。
内蔵助自身は、割賦金の受け取りを辞退しています。
こうして赤穂藩は、最後の給料と退職金をあわせ、23億5000万円を藩士300人ほどに分配。
単純計算でも藩士ひとり780万円ほどを支給したことになります。
しかし、それまでの給料は取り上げられて、京、大坂、までなければならない・・・
しばらくは、暮らしていける学でしたが、すぐに新しい生活の基盤を作らないといけませんでした。
内蔵助が赤穂藩の残務処理をすべて終えたのは、吉良邸討ち入りの1年6か月前のことでした。
赤穂藩が売ったものの中には・・・
船17艘・・・銀17貫目=3400万円
具足・馬具・弓・槍など・・・銀15貫目=3000万円
藩士たちも家財整理を行い、屋敷をすべて明け渡し、赤穂城から立ち退いて行きました。
1701年4月19日、赤穂城は幕府に引き渡されました。
大石内蔵助の手元には・・・391両、瑤泉院から預かっていた化粧料300両がありました。
これら残ったお金が691両・・・およそ、8292万円でした。
これが、討ち入りの軍資金となります。
神奈川県箱根町・・・箱根神社に、内蔵助が書き記した金銀受払帳の実物があります。
伝承では・・・神社に仕えていた赤穂藩関係者が奉納したという説、瑤泉院が箱根の温泉に養生に来た際に奉納したという説が残っています。
表紙を含め52ページあり、討ち入りまでの赤穂浪士たちが使った支出報告が記録されていました。
これによると、最初に使った先は、金100両・・・紫野瑞光院への寄付です。
京都・堀川にあった紫野瑞光院に、亡き主君・浅野内匠頭の墓を建てることになり、金100両を寄付したのです。
内蔵助は、内匠頭の菩提を弔うため、他にも複数の寺院に多額の祈祷料を支払っており、その仏事費用の総額は、なんと金127両3分・・・軍資金全体の2割近くに及びました。
内蔵助は、この時点ではお金を討ち入りに使おうとは考えていませんでした。
第一に浅野内匠頭のための仏事費用、そして、内匠頭の弟・浅野大学で赤穂浅野家を再興させることが目的でした。
内蔵助は親戚を頼り、京都山科に移住します。
家族と暮らすための土地と家を購入し、そこを拠点として全国各地に散らばった赤穂浪士たちと連絡を取り合いながら、浅野家の再興に奔走します。
浅野家再興嘆願の口利きを、京都智積院の隠居僧正にしてもらおうと1両1分のお金を渡したとあります。
さらに、時の将軍・徳川綱吉が信頼を寄せる大僧正・隆光に接触するため二度にわたって使者となってくれた赤穂遠林寺の僧にも、江戸での工作費と往復の旅費計45両を。
また、幕府の役人たちへの贈り物や接待での出費も見られます。
お家再興には伝手が必要でした。
お家再興のための交際費、接待費、工作費・・・65両1分。
このことから、内蔵助の願いは何より浅野家再興だということがわかります。
この時点での軍資金の残金は498両・・・討ち入りの話が出る前にすでに2000万円以上も使ってしまっていました。
また、かなりの支出割合を占めているのが、上方~江戸間の旅費でした。
内蔵助の母方の叔父・遠藤源四郎を江戸に使いにやった時の旅費と江戸滞在には金9両銀6匁・・・109万円
その後も8回、上方にいた赤穂浪士が次々と江戸に行っていたことがわかります。
その総費用は、金78両1分2朱、銀42匁=1000万円にも上ります。
金銀請払帳に日付の記載はありませんが、元禄14年9月ごろから11月までの支出と推測されます。
どうして何度も江戸に行かなければならなかったのか??
それは、その頃、赤穂浪士たちの間で意見が対立していました。
あくまでも浅野家の再興を目指す穏健派(内蔵助)と、江戸急進派(堀部安兵衛)・・・
急進派は、主君の無念を晴らすのが家臣の務めであると一刻も早く吉良邸に討ち入るべきだと主張していました。
そんな中、吉良邸討ち入りの1年4カ月前・・・
1701年8月19日、吉良上野介が江戸場近くの呉服橋門内から江戸のはずれの本所へ屋敷替えとなりました。
これに沸き立ったのが江戸急進派でした。
「江戸城から遠い屋敷に移したということは、幕府も暗に討ち入りらせよと言っているのではないか
上方は煮え切らぬ、上方へ行き説得し、急ぎ討ち入りの算段をつけよう!!」by安兵衛
そうした江戸での動きを知った内蔵助は、江戸急進派をなだめるため遠藤源四郎や大高源五を江戸に送ったのです。
その旅費の内訳は、
旅籠1泊料・・・350匁(1万円)
駕籠代や食費など1日・・・500文(約1万5000円)
大井川の川越しのための費用・・・48文~100文(1400円~3000円)
山科から江戸までは、およそ14日かかります。
片道の旅費は、14日分で一人当たり3両・・・36万円でした。
当時の旅は宿場宿場に泊り、それなりに置け長いりました。
しかし、元禄の世にしても、1日3両で移動するのはお金に余裕のある旅でした。
ところが、旅費を出して江戸に行った新藤たちは、急進派と意気投合!!
全く役目を果たしませんでした。
内蔵助が江戸へ送った使者が、次々と急進派に取り込まれたため、何度も使者を送ることになったのです。
そこで内蔵助は、安兵衛らに手紙を送ります。
討ち入りするのにより良い時期が来るまで自重するように・・・とくぎを刺しました。
しかし、それでも不安に思った内蔵助は、お供を連れて江戸へと向かうのでした。
その費用2人分で金23両3分・銀20匁・・・289万円でした。
江戸急進派をなだめるために旅費に大金が飛んでいき、軍資金の残高はおよそ419両となってしまいました。
吉良邸討ち入りまでおよそ1年1カ月の時でした。
江戸急進派は内匠頭の一周忌までに打ち入りたいと主張しました。
内蔵助は、討ち入りの期日を決める必要はないと返答しました。
しかし、安兵衛たちは、期日が決まらないと決心が固まらないと反論しました。
内蔵助は、翌年の春にもう一度相談しようと提案します。
そして、京都の山科あたりで話し合うことを決定しました。
急進派は、内蔵助が討ち入りに同意したと考えて納得しました。
急進派との会談を終えた内蔵助は、上方から江戸に来た者たちが使う屋敷を購入。
金70両・・・約840万円で、三田にある屋敷を購入。
修繕した上で、江戸のアジトにしようと考えていたようです。
しかしその矢先、付近で火事が発生。
屋敷は燃えなかったものの、将軍の別邸が類焼し、修繕が必要になってしまいます。
その間、内蔵助が大金を投じて手に入れた三田の屋敷が幕府の御用地になることに。
結局屋敷は使えず、840万円はムダ金に・・・。
手元に残った軍資金は、360両ほど・・・4320万円。
吉良邸討ち入りまであと1年!!
請払帳には、度々旧赤穂藩士たちへの援助金があります。
旧藩士たちの身分は浪人でした。
粗末な裏長屋に住むなど、厳しい生活を余儀なくされていました。
京都留守居役だった小野寺十内は、上方から妻に、手紙を出しています。
”母のことを忘れたり、妻子のことを思わないわけではないが、武士の義理に命を捨てる道はそれには及ばないものです
わずかながら残した金銀・家財を頼りに、母を世話してほしい
もし、御命が長く続き財産が尽きたなら、ともに餓死なさってください
それも仕方のないことと思います”
こう認め、命つなぎに金10両を送っています。
既に方々に借金をして首が回らなくなっている者もいました。
その困窮ぶりは、金銀請払帳からも見て取れます。
その為、飢えや生活困窮などの理由で援助金が出されています。
江戸の神崎与五郎が飢えているということで、内蔵助は金6両、銀30匁を渡しています。
また、物頭の原惣右衛門も生活困難となり、金10両を与えています。
他にも、三村次郎左衛門、矢頭右衛門七に金3両ずつ・・・
こうして、困窮する浪士たちを援助するため軍資金はさらに減っていきました。

1702年2月15日、山科の大石内蔵助の家で会合が開かれました。
この話し合いののち、内蔵助は嫡男・大学を残し、17年間連れ添った10歳年下の妻・理玖と子供たちを妻の実家に帰します。
この時理玖は、7カ月になる子を身ごもっていました。
討ち入り後、理玖たちに類が及ばぬように・・・苦渋の決断でした。
この会合の頃から、内蔵助は京都祇園の一力茶屋などで遊興にふけるようになります。
そうした費用は・・・??
金銀請払帳には、内蔵助の遊興費が記されていません。
それは自腹だったと考えられます。
吉良邸討ち入りの6か月前のことでした。
1702年7月18日・・・吉良邸討ち入りまで5か月。
浅野内匠頭の罪に連座し、閉門を命じられていた弟・浅野大学に対する幕府の処分が決定・・・”松平安芸守へのお預け”でした。
屋敷や領地を取り上げられ、妻子ともども浅野家の本家である広島藩に引き取られたのです。
実質的な改易処分でした。
これで、大学が当主として赤穂浅野家を継ぐことができなくなりました。
大石内蔵助が奔走していたお家再興の夢は砕け散りました。
内蔵助はついに、腹をくくります。
浅野大学の処分から10日後、京都丸山で会議を開き、吉良邸討ち入りを宣言するのです。
ちなみに19人が集まったこの会議の費用は、金1両・・・およそ12万円。
こののち内蔵助は、赤穂他、各地に住んでいる同志に連絡を取るよう大高源五と貝賀弥左衛門に命じます。
金銀請払帳によると、2人を赤穂へ遣わす旅費と滞在中の雑費が金2両1分と銀五匁五分。
大高は、2度赤穂に遣わせたようで、さらに金1両1分と銀4匁2分が・・・それでも滞在にが足りなくなったのか、金10両の援助までしています。
また・・・討ち入りのために江戸に下ることになったため、原惣右衛門が手紙を書いて同志たちに送った飛脚代・銀136匁5分4厘。
内蔵助はこの時、連絡係を任せた大高源五と貝賀弥左衛門にある重要な封書を預けました。
実は、以前、吉良上野介を討つと誓った120人に、誓約書である神文を出させていました。
内蔵助は、その神文の署名部分だけを切り取ってそれを封にい入れ託しました。
そして、大高源五らは、内蔵助に命じられた通り、神文を出した者たちにこう告げました。
「内蔵助殿は、当初の計画を取りやめて、妻子を養うために仕官することにしました
皆様も、勝手次第にしてください
ですから、この神文はお返しします」
内蔵助は、この言葉に腹を立ててそれでも仇討がしたいといった者にだけ真実を告げ、味方に引き入れました。
意思の固いものを選ぶということと・・・もうひとつは、大勢で江戸に下ると目立つので、それを避けたいという気持ちもありました。
結果、残った赤穂浪士たちはおよそ50人。
その者たちに、江戸に来る費用として支度金一人につき3両が与えられたのです。
こうして、内蔵助の手元に残ったお金は、わずか720万円ほどとなりました。
そして・・・吉良邸討ち入りまで1カ月となった11月5日。
討ち入りを決意した大石内蔵助は、自宅があった京都山科からおよそ1カ月かけて江戸に到着。
日本橋石町のアジトに・・・。
この時、60両ほどとなっていた軍資金から、借家住まいの同志の家賃を補助し、さらに一人当たり1k月につき金2分(6万円)の食費を支給。
軍資金の残りは、数両となってしまいました。
これで、弓矢、槍、長刀・・・討ち入りに必要な装備のすべてを購入しなければなりません。
装備の総額は12両・・・軍資金はマイナスとなってしまいました。
金銀請払帳の末尾には、
”金7両1分(78万円)不足、自分より払”
最後は、内蔵助は自分の起こ値を使ったのでした。
吉良邸討ち入りの15日前・・・11月29日までに、内蔵助は金銀請払帳を閉めます。
今のお金で8292万円あった軍資金の使い道は、最終的に・・・
仏事費・・・・・・・・1533万円
お家再興工作費・・・・・783万円
江戸屋敷購入費・・・・・840万円
旅費・江戸滞在費・・・2976万円
会議通信費・・・・・・・132万円
生活援助金・・・・・・1587万円
討ち入り装備費・・・・・144万円
その他・・・・・・・・・379万円
赤字の8369万円・・・
こうして、赤穂浪士四十七士は、12月14日に吉良邸に討ち入ることになりました。
討ち入りにあたって身辺を整理し、綺麗にしておけ・・・
店賃などを支払った同志たちは、12月13日の夜・・・わずかに残った金を持ち寄り、今生の暇乞い・・・と、酒を酌み交わしました。
いよいよ、討ち入りです。

江戸城松の廊下の刃傷事件からおよそ1年9か月後の1702年12月14日夜。
赤穂浪士四十七士は、吉良上野介の屋敷へと向かいました。
そして日が変わった12月15日午前4時半ごろ、討ち入り!!
浪士たちは、次々と吉良の家臣たちを討ち取り、遂には隠れていた吉良上野介を見つけ、見事主君の仇討ちを果たしたのです。
大石内蔵助は、12月14日討ち入りの夜・・・瑤泉院のもとに金銀請払帳を届けさせています。
討ち入りの計画が露見してしまうのを恐れ、ギリギリまで手元に置いていました。
主君の仇を討つとはいえ、瑤泉院の私財に手を付けてしまったため、使い道の報告と償いの意味もあったのでしょう。
もともと、瑤泉院の化粧料は金1000両ありました。
そのうちの300両を拝領して討ち入り資金に当てています。
お金を適切に判断し使い、様々な浪士たちを生活させ、宥め、最もいい時期に討ち入りを成功させた大石内蔵助の力量は、改めて高く評価すべきです。
藩士たちの忠誠心はもちろん、内蔵助が管理していた軍資金があったからこそ、討ち入りが成功したのです。
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播州赤穂藩主・浅野内匠頭が、高家・吉良上野介に殿中で斬りつけた・・・松の廊下事件。
内匠頭は、この事件からわずか7時間後に切腹処分。
それから・・・およそ1年9か月後の1702年12月14日、赤穂浪士四十七士が吉良邸に討ち入って上野介を討ち、切腹に処されるまでの一連の出来事が世にいう赤穂事件です。
そして、その事件をもとに作られた物語が、御存じ忠臣蔵です。
”預置候金銀請払帳”・・・これは、吉良邸討ち入りまでにかかった経費を記した文書・・・
忠臣蔵の決算書です。
その経費の総額は、現在の価値で8000万以上。
刃傷事件から討ち入りまで、1年9か月・・・そんな大金が、なぜ、何に必要だったのでしょうか?
刃傷事件当日、浅野内匠頭切腹から赤穂浅野家お取り潰しが決定しました。
国元の赤穂藩は、城を明け渡すことになります。
これに際し、筆頭家老の大石内蔵助は、様々な成算処理を迫られることになります。
藩がお取り潰しになると、領地・城・江戸屋敷は幕府に返上しなければなりません。
しかし、藩が蓄えてきたものは藩の財産でした。
それを清算処理してお金に換える必要がありました。
内蔵助がまず着手したのが藩札の清算でした。
清算処理①藩札
藩札とは、諸藩が独自に発行している紙幣のことで、代金の代わりに商人などに支払われたものでした。
しかし、その価値は、藩が消滅するとなくなります。
そうなる前に、出回っている藩札を監禁する必要がありました。
しかし、これが莫大で、浅野家の記録によると、藩がこれまでに領内で発行した藩札の総額は銀900貫目・・・およそ18億円・・・藩の年間予算に匹敵していました。
赤穂浅野家のお取り潰しが伝わると、藩札を持っていた商人たちがただの紙切れになると、刃傷事件から5日後には当時の貨幣である銀に交換してほしいと札座に殺到しました。
赤穂藩には替り銀と呼ばれる藩札のための準備金・銀700貫目が用意されていました。
これを使えば、藩札の換金に必要な銀900貫目の大部分が清算でき、残りは200貫目となります。
内蔵助は、残り分を赤穂藩の特産品の塩をつくる塩田に課した税金・運上銀で生産しようと考えていました。
しかし、赤穂藩は大坂商人に借金をして財政の不足分を補っていました。
運上銀を大坂商人への借金の担保にしていたため、取り上げられてしまったのです。
内蔵助は、藩札の清算を如何にして切り抜けたのでしょうか?
銀200貫目は、今のお金に換算すると約4億円という大金でした。
内蔵助は、すぐに浅野家の本家である広島藩などに借金を申し込みます。
しかし、どこもけんもほろろ・・・
すると、「藩札は6分替えで行う」・・・なんと、額面の6割で銀に交換するというのです。
藩札の交換に必要な銀900貫目の6割は、540貫目。
これなら、替り銀700貫目で十分に賄えます。
商人たちも、踏み倒されるよりはましだと、6割交換で納得しました。
こうして内蔵助は藩札の清算を切り抜けました。
しかし、清算しなければならないものがまだありました。
藩士たちへの最後の給料です。
清算処理②藩士への給料と退職手当
赤穂藩は、およそ300人の藩士を抱えていました。
藩が潰れれば、藩士たちは浪人となり、路頭に迷うことが目に見えていました。
そこで内蔵助は、給料にあたる米を、藩の蔵から放出。
この年の分を一括で支給することにします。
総額およそ16億5000万円!!
さらに、割賦金と呼ばれる退職金も支給します。
割賦金は、現在の価値で7億1000万
割賦金は、基本的には藩士の石高に応じて支給されるこのです。
しかし、内蔵助はこの時、今後浪人生活になるので、高い禄をもらっている者には減らし、下級藩士には比較的割合を増やしました。
内蔵助自身は、割賦金の受け取りを辞退しています。
こうして赤穂藩は、最後の給料と退職金をあわせ、23億5000万円を藩士300人ほどに分配。
単純計算でも藩士ひとり780万円ほどを支給したことになります。
しかし、それまでの給料は取り上げられて、京、大坂、までなければならない・・・
しばらくは、暮らしていける学でしたが、すぐに新しい生活の基盤を作らないといけませんでした。
内蔵助が赤穂藩の残務処理をすべて終えたのは、吉良邸討ち入りの1年6か月前のことでした。
赤穂藩が売ったものの中には・・・
船17艘・・・銀17貫目=3400万円
具足・馬具・弓・槍など・・・銀15貫目=3000万円
藩士たちも家財整理を行い、屋敷をすべて明け渡し、赤穂城から立ち退いて行きました。
1701年4月19日、赤穂城は幕府に引き渡されました。
大石内蔵助の手元には・・・391両、瑤泉院から預かっていた化粧料300両がありました。
これら残ったお金が691両・・・およそ、8292万円でした。
これが、討ち入りの軍資金となります。
神奈川県箱根町・・・箱根神社に、内蔵助が書き記した金銀受払帳の実物があります。
伝承では・・・神社に仕えていた赤穂藩関係者が奉納したという説、瑤泉院が箱根の温泉に養生に来た際に奉納したという説が残っています。
表紙を含め52ページあり、討ち入りまでの赤穂浪士たちが使った支出報告が記録されていました。
これによると、最初に使った先は、金100両・・・紫野瑞光院への寄付です。
京都・堀川にあった紫野瑞光院に、亡き主君・浅野内匠頭の墓を建てることになり、金100両を寄付したのです。
内蔵助は、内匠頭の菩提を弔うため、他にも複数の寺院に多額の祈祷料を支払っており、その仏事費用の総額は、なんと金127両3分・・・軍資金全体の2割近くに及びました。
内蔵助は、この時点ではお金を討ち入りに使おうとは考えていませんでした。
第一に浅野内匠頭のための仏事費用、そして、内匠頭の弟・浅野大学で赤穂浅野家を再興させることが目的でした。
内蔵助は親戚を頼り、京都山科に移住します。
家族と暮らすための土地と家を購入し、そこを拠点として全国各地に散らばった赤穂浪士たちと連絡を取り合いながら、浅野家の再興に奔走します。
浅野家再興嘆願の口利きを、京都智積院の隠居僧正にしてもらおうと1両1分のお金を渡したとあります。
さらに、時の将軍・徳川綱吉が信頼を寄せる大僧正・隆光に接触するため二度にわたって使者となってくれた赤穂遠林寺の僧にも、江戸での工作費と往復の旅費計45両を。
また、幕府の役人たちへの贈り物や接待での出費も見られます。
お家再興には伝手が必要でした。
お家再興のための交際費、接待費、工作費・・・65両1分。
このことから、内蔵助の願いは何より浅野家再興だということがわかります。
この時点での軍資金の残金は498両・・・討ち入りの話が出る前にすでに2000万円以上も使ってしまっていました。
また、かなりの支出割合を占めているのが、上方~江戸間の旅費でした。
内蔵助の母方の叔父・遠藤源四郎を江戸に使いにやった時の旅費と江戸滞在には金9両銀6匁・・・109万円
その後も8回、上方にいた赤穂浪士が次々と江戸に行っていたことがわかります。
その総費用は、金78両1分2朱、銀42匁=1000万円にも上ります。
金銀請払帳に日付の記載はありませんが、元禄14年9月ごろから11月までの支出と推測されます。
どうして何度も江戸に行かなければならなかったのか??
それは、その頃、赤穂浪士たちの間で意見が対立していました。
あくまでも浅野家の再興を目指す穏健派(内蔵助)と、江戸急進派(堀部安兵衛)・・・
急進派は、主君の無念を晴らすのが家臣の務めであると一刻も早く吉良邸に討ち入るべきだと主張していました。
そんな中、吉良邸討ち入りの1年4カ月前・・・
1701年8月19日、吉良上野介が江戸場近くの呉服橋門内から江戸のはずれの本所へ屋敷替えとなりました。
これに沸き立ったのが江戸急進派でした。
「江戸城から遠い屋敷に移したということは、幕府も暗に討ち入りらせよと言っているのではないか
上方は煮え切らぬ、上方へ行き説得し、急ぎ討ち入りの算段をつけよう!!」by安兵衛
そうした江戸での動きを知った内蔵助は、江戸急進派をなだめるため遠藤源四郎や大高源五を江戸に送ったのです。
その旅費の内訳は、
旅籠1泊料・・・350匁(1万円)
駕籠代や食費など1日・・・500文(約1万5000円)
大井川の川越しのための費用・・・48文~100文(1400円~3000円)
山科から江戸までは、およそ14日かかります。
片道の旅費は、14日分で一人当たり3両・・・36万円でした。
当時の旅は宿場宿場に泊り、それなりに置け長いりました。
しかし、元禄の世にしても、1日3両で移動するのはお金に余裕のある旅でした。
ところが、旅費を出して江戸に行った新藤たちは、急進派と意気投合!!
全く役目を果たしませんでした。
内蔵助が江戸へ送った使者が、次々と急進派に取り込まれたため、何度も使者を送ることになったのです。
そこで内蔵助は、安兵衛らに手紙を送ります。
討ち入りするのにより良い時期が来るまで自重するように・・・とくぎを刺しました。
しかし、それでも不安に思った内蔵助は、お供を連れて江戸へと向かうのでした。
その費用2人分で金23両3分・銀20匁・・・289万円でした。
江戸急進派をなだめるために旅費に大金が飛んでいき、軍資金の残高はおよそ419両となってしまいました。
吉良邸討ち入りまでおよそ1年1カ月の時でした。
江戸急進派は内匠頭の一周忌までに打ち入りたいと主張しました。
内蔵助は、討ち入りの期日を決める必要はないと返答しました。
しかし、安兵衛たちは、期日が決まらないと決心が固まらないと反論しました。
内蔵助は、翌年の春にもう一度相談しようと提案します。
そして、京都の山科あたりで話し合うことを決定しました。
急進派は、内蔵助が討ち入りに同意したと考えて納得しました。
急進派との会談を終えた内蔵助は、上方から江戸に来た者たちが使う屋敷を購入。
金70両・・・約840万円で、三田にある屋敷を購入。
修繕した上で、江戸のアジトにしようと考えていたようです。
しかしその矢先、付近で火事が発生。
屋敷は燃えなかったものの、将軍の別邸が類焼し、修繕が必要になってしまいます。
その間、内蔵助が大金を投じて手に入れた三田の屋敷が幕府の御用地になることに。
結局屋敷は使えず、840万円はムダ金に・・・。
手元に残った軍資金は、360両ほど・・・4320万円。
吉良邸討ち入りまであと1年!!
請払帳には、度々旧赤穂藩士たちへの援助金があります。
旧藩士たちの身分は浪人でした。
粗末な裏長屋に住むなど、厳しい生活を余儀なくされていました。
京都留守居役だった小野寺十内は、上方から妻に、手紙を出しています。
”母のことを忘れたり、妻子のことを思わないわけではないが、武士の義理に命を捨てる道はそれには及ばないものです
わずかながら残した金銀・家財を頼りに、母を世話してほしい
もし、御命が長く続き財産が尽きたなら、ともに餓死なさってください
それも仕方のないことと思います”
こう認め、命つなぎに金10両を送っています。
既に方々に借金をして首が回らなくなっている者もいました。
その困窮ぶりは、金銀請払帳からも見て取れます。
その為、飢えや生活困窮などの理由で援助金が出されています。
江戸の神崎与五郎が飢えているということで、内蔵助は金6両、銀30匁を渡しています。
また、物頭の原惣右衛門も生活困難となり、金10両を与えています。
他にも、三村次郎左衛門、矢頭右衛門七に金3両ずつ・・・
こうして、困窮する浪士たちを援助するため軍資金はさらに減っていきました。
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1702年2月15日、山科の大石内蔵助の家で会合が開かれました。
この話し合いののち、内蔵助は嫡男・大学を残し、17年間連れ添った10歳年下の妻・理玖と子供たちを妻の実家に帰します。
この時理玖は、7カ月になる子を身ごもっていました。
討ち入り後、理玖たちに類が及ばぬように・・・苦渋の決断でした。
この会合の頃から、内蔵助は京都祇園の一力茶屋などで遊興にふけるようになります。
そうした費用は・・・??
金銀請払帳には、内蔵助の遊興費が記されていません。
それは自腹だったと考えられます。
吉良邸討ち入りの6か月前のことでした。
1702年7月18日・・・吉良邸討ち入りまで5か月。
浅野内匠頭の罪に連座し、閉門を命じられていた弟・浅野大学に対する幕府の処分が決定・・・”松平安芸守へのお預け”でした。
屋敷や領地を取り上げられ、妻子ともども浅野家の本家である広島藩に引き取られたのです。
実質的な改易処分でした。
これで、大学が当主として赤穂浅野家を継ぐことができなくなりました。
大石内蔵助が奔走していたお家再興の夢は砕け散りました。
内蔵助はついに、腹をくくります。
浅野大学の処分から10日後、京都丸山で会議を開き、吉良邸討ち入りを宣言するのです。
ちなみに19人が集まったこの会議の費用は、金1両・・・およそ12万円。
こののち内蔵助は、赤穂他、各地に住んでいる同志に連絡を取るよう大高源五と貝賀弥左衛門に命じます。
金銀請払帳によると、2人を赤穂へ遣わす旅費と滞在中の雑費が金2両1分と銀五匁五分。
大高は、2度赤穂に遣わせたようで、さらに金1両1分と銀4匁2分が・・・それでも滞在にが足りなくなったのか、金10両の援助までしています。
また・・・討ち入りのために江戸に下ることになったため、原惣右衛門が手紙を書いて同志たちに送った飛脚代・銀136匁5分4厘。
内蔵助はこの時、連絡係を任せた大高源五と貝賀弥左衛門にある重要な封書を預けました。
実は、以前、吉良上野介を討つと誓った120人に、誓約書である神文を出させていました。
内蔵助は、その神文の署名部分だけを切り取ってそれを封にい入れ託しました。
そして、大高源五らは、内蔵助に命じられた通り、神文を出した者たちにこう告げました。
「内蔵助殿は、当初の計画を取りやめて、妻子を養うために仕官することにしました
皆様も、勝手次第にしてください
ですから、この神文はお返しします」
内蔵助は、この言葉に腹を立ててそれでも仇討がしたいといった者にだけ真実を告げ、味方に引き入れました。
意思の固いものを選ぶということと・・・もうひとつは、大勢で江戸に下ると目立つので、それを避けたいという気持ちもありました。
結果、残った赤穂浪士たちはおよそ50人。
その者たちに、江戸に来る費用として支度金一人につき3両が与えられたのです。
こうして、内蔵助の手元に残ったお金は、わずか720万円ほどとなりました。
そして・・・吉良邸討ち入りまで1カ月となった11月5日。
討ち入りを決意した大石内蔵助は、自宅があった京都山科からおよそ1カ月かけて江戸に到着。
日本橋石町のアジトに・・・。
この時、60両ほどとなっていた軍資金から、借家住まいの同志の家賃を補助し、さらに一人当たり1k月につき金2分(6万円)の食費を支給。
軍資金の残りは、数両となってしまいました。
これで、弓矢、槍、長刀・・・討ち入りに必要な装備のすべてを購入しなければなりません。
装備の総額は12両・・・軍資金はマイナスとなってしまいました。
金銀請払帳の末尾には、
”金7両1分(78万円)不足、自分より払”
最後は、内蔵助は自分の起こ値を使ったのでした。
吉良邸討ち入りの15日前・・・11月29日までに、内蔵助は金銀請払帳を閉めます。
今のお金で8292万円あった軍資金の使い道は、最終的に・・・
仏事費・・・・・・・・1533万円
お家再興工作費・・・・・783万円
江戸屋敷購入費・・・・・840万円
旅費・江戸滞在費・・・2976万円
会議通信費・・・・・・・132万円
生活援助金・・・・・・1587万円
討ち入り装備費・・・・・144万円
その他・・・・・・・・・379万円
赤字の8369万円・・・
こうして、赤穂浪士四十七士は、12月14日に吉良邸に討ち入ることになりました。
討ち入りにあたって身辺を整理し、綺麗にしておけ・・・
店賃などを支払った同志たちは、12月13日の夜・・・わずかに残った金を持ち寄り、今生の暇乞い・・・と、酒を酌み交わしました。
いよいよ、討ち入りです。
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江戸城松の廊下の刃傷事件からおよそ1年9か月後の1702年12月14日夜。
赤穂浪士四十七士は、吉良上野介の屋敷へと向かいました。
そして日が変わった12月15日午前4時半ごろ、討ち入り!!
浪士たちは、次々と吉良の家臣たちを討ち取り、遂には隠れていた吉良上野介を見つけ、見事主君の仇討ちを果たしたのです。
大石内蔵助は、12月14日討ち入りの夜・・・瑤泉院のもとに金銀請払帳を届けさせています。
討ち入りの計画が露見してしまうのを恐れ、ギリギリまで手元に置いていました。
主君の仇を討つとはいえ、瑤泉院の私財に手を付けてしまったため、使い道の報告と償いの意味もあったのでしょう。
もともと、瑤泉院の化粧料は金1000両ありました。
そのうちの300両を拝領して討ち入り資金に当てています。
お金を適切に判断し使い、様々な浪士たちを生活させ、宥め、最もいい時期に討ち入りを成功させた大石内蔵助の力量は、改めて高く評価すべきです。
藩士たちの忠誠心はもちろん、内蔵助が管理していた軍資金があったからこそ、討ち入りが成功したのです。
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