日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:明治維新

長い日本の歴史では、それまでの世の中をひっくり返す大変革がいくつかありました。

天皇中心の体制を固めた大化の改新
武士が政権を作った鎌倉幕府
武士の世を終わらせ近代国家へと生まれ変わった明治維新・・・。

明治維新は、世界でもまれにみる犠牲者の少ない革命と言われています。
戊辰戦争の戦死者数は約8500人・・・明治10年の西南戦争を含めても約3万人です。
18世紀にはじまるフランス革命の犠牲者はおよそ40万人、アメリカ南北戦争は60万人と言われています。
どうして、日本では犠牲を抑えることができたのでしょうか?

そのヒントは、敗者とされた者たちです。
激動の中、敢えて困難な道を選んだ侍たちの歴史です。

ペリー来航に始まった幕末の動乱・・・
1868年、動乱はついに日本の運命をかけた武力衝突に・・・!!
鳥羽伏見の戦いです。
徳川の世か、新政府の世か、その争いは1年5カ月に及び、戊辰戦争と呼ばれました。
旧幕府軍を率いたのは、徳川慶喜・・・西郷隆盛らの新政府軍の前に敗走。
大坂城に退却し、そこに温存していた巨大な兵力で反撃に出るはずでした。
しかし、その直前・・・慶喜が密かに逃亡・・・旧幕府は総崩れとなりました。

①もしも徳川慶喜が大坂城で戦っていたら??

幕末、幕府は諸外国の圧力に屈して国を開きました。
それまで絶大だった幕府の権威は揺らぎ、乱世となりました。
その中で、天皇を中心とした新たな国家体制を望む声が日増しに高まっていました。
西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允など薩摩・長州の一部は公家の岩倉具視と連携し、密かに倒幕に動き出します。
この動きにいち早く反応したのが、将軍・慶喜でした。
1867年慶喜は討幕派に対して先手を打ちます。
政権を朝廷に返上・・・大政奉還です。

慶喜は幕府がだんだん斜陽化していくのを見ていて、このままの体制では駄目かもしれないと考えていました。
それならば、自分が将軍になった後に、即幕府を廃止してしまえば討幕派の目標は失われる・・・
そこで、新しい政府を作れば、自分が中心に改めてなり、そして日本をリードする考えでした。

大政奉還によって倒すべき幕府を失った西郷と大久保・・・
しかし、徳川を排除した政権実現のためにある計画を実行します。
12月9日、早朝・・・
薩摩兵らが天皇の住む御所を封鎖、王政復古のクーデターです。
慶喜らを中枢から排除し、天皇のもとで新たなメンバーが政治を行う新政府樹立を宣言。
当然ながら、旧幕府側は激怒!!
慶喜は、大坂城に移動・・・1万5000の旧幕府軍を従え、情勢を見守ることにしました。

1868年1月2日、旧幕府軍1万が大坂城から京へ出発!!
目的は、天皇に薩摩の討伐を願い出るためです。
旧幕府軍は、鳥羽街道と伏見、二手に分かれて北上。
京の御所を目指しました。

1月3日、旧幕府軍はその途中で、新政府軍に行く手を阻まれます。
新政府軍の兵は5000!!旧幕府軍は1万!!
そこには倍の兵力がありました。

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しかし敗北・・・
敗北の原因①突然の戦闘開始
1月3日、午後5時・・・新政府軍が鳥羽伏見の戦いの火蓋を切ったとき、旧幕府軍は大混乱に陥りました。
何故なら、旧幕府軍の目的は、あくまでも天皇に薩摩討伐を願い出る為だったからです。
その為、京への登城への途中で戦いになることを想定せず、銃に弾を込めていませんでした。
そして、伏見でも・・・賭場で鳴り響いた銃声が呼び水になって戦闘が始まりました。
伏見には、土方歳三率いる新撰組もいましたが、猛烈な火力に晒されました。
虚を突かれた旧幕府軍は、じりじりと後退します。

敗北の原因②錦の御旗
1月5日早朝・・・戦場に錦の御旗が翻りました。
これで、新政府軍が官軍で、旧幕府軍が賊軍であることが示されました。
士気をくじかれた旧幕府軍は、敗走をかさね、大坂へ撤退していきます。
鳥羽伏見の戦いを決定づけた錦の御旗・・・
仁和寺には、実際に戦場で掲げられたといわれる旗が大切に保管されています。

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御所にあった布をもらう・・・下賜されるのがこの御旗の価値です。

錦の御旗を最初に掲げたとき、旗を知る者はほとんどいませんでした。
幕府の兵隊が、「この旗はどこの藩のものか?」と、敵に聞きました。
新政府軍「これは錦の御旗だ、我々は皇軍だ」
旧幕府軍「わしらは賊か?」
噂が噂を呼んで、じわじわと賊軍となっていきました。
旗ひとつで戦局が変わる・・・如何なる軍事力でもこれには抗えなかったのです。

新政府側に錦の御旗が翻ったという知らせは、大坂城の徳川慶喜のもとにも届いていました。

「朝廷に対して刃向かう意思はつゆばかりもないのに、何かの誤りで賊名を背負うことになってしまった」by慶喜

朝敵とされたことにショックを受けた慶喜・・・そこには彼の生い立ちが深く関係していました。

1837年、慶喜は、水戸藩主・徳川斉昭と皇族での母との間に・・・水戸藩に生れます。
水戸藩は、天皇を尊ぶ尊王思想の筆頭格でした。
そこで育てられた慶喜は、幼いころから聡明で知られ、徳川の御三卿・一橋家の跡取りになります(1847年11歳)。
1864年、28歳の時、御所の治安維持を任されます。
29歳の時、14代将軍家茂が病死・・・慶喜は、15代将軍となりました。
しかし、家臣たちには慶喜の考えが日によって変わることを揶揄され、”二心殿”と呼ばれました。
1868年1月5日、錦の御旗が翻った日・・・旧幕府軍は大坂方面へ後退・・・
大坂城にいた慶喜のもとで立て直しを図る・・・!!
慶喜は家臣たちを前に檄を飛ばしました。

「この大坂城が、たとえ焦土になろうとも、断固死守しようではないか!!
 予がここで死んでも、忠義の家臣たちが志を継いでくれるだろう」by慶喜

慶喜の言葉に家臣たちは再び奮い立ちました。
大坂湾では、最新鋭の軍監・開陽丸をはじめとする旧幕府軍が、薩摩藩の艦隊を撃退!!
いよいよ反撃開始!!と誰もが確信しました。

ところが・・・1月6日夜・・・慶喜は、密かに開陽丸で江戸へ・・・!!
大坂城に残る家臣のほとんどには、何も告げずに・・・
慶喜の側近は、「なぜですか」と尋ねました。

「あの調子でやらなければ、兵が奮い立たないからだ 方便だよ」by慶喜

その後、大坂城は陥落。
旧幕府軍も瓦解しました。
こうして、戊辰戦争の初戦・・・鳥羽・伏見の戦いは集結しました。

もしも、慶喜が大坂城で戦っていたら??

鳥羽伏見の戦いは勝てたかもしれない。
でも、外国勢力の介入や、内戦の長期化を避けるため、慶喜は大坂城から逃げたのでは・・・??
悪評を背負っても、混乱が起きない道を選んだのです。

鳥羽伏見の戦いを放棄し、江戸に戻った徳川慶喜は、新政府に恭順するとしました。
しかし、新政府には西郷隆盛はじめ、なにがなんでも徳川家を攻撃し、慶喜の命を奪うべし!という人がたくさんいました。
果たして・・・慶喜の運命は・・・??
1868年1月18日、鳥羽・伏見の戦いに勝利した新政府軍は、錦の御旗を掲げ、京を出発。
東海道、東山道、北陸道の三方向から進軍し、途中にある藩を次々新政府軍に加えて江戸へ向かいました。
一方、江戸では、旧幕臣の多くが徹底抗戦を訴えていました。

”新政府軍の進軍に、江戸は殺気立ち、鎮撫するのは非常に困難である”

新政府軍と旧幕府軍との全面戦争・・・そうなれば、100万都市・江戸が火の海になる!!

江戸城に戻った徳川慶喜は、上野・寛永寺に蟄居・・・新政府に恭順の意を示しました。

「追討使を差し向けられる事態に至ったのは、全く慶喜一身の不束より生じたことである」by慶喜

しかし、
「慶喜の首を引き抜かねばおかれぬ」by西郷隆盛

西郷隆盛率いる新政府軍は、進軍を続行。
慶喜はこの時、徳川の命運を陸軍総裁の勝海舟に一任しました。
西郷は、江戸総攻撃を3月15日に行うことに決定。
両軍の武力衝突は、何としても回避したい・・・そう考えた勝は、西郷に書状を送ります。
3月6日・・・総攻撃の9日前でした。

「我が徳川が恭順を守るのは、徳川とて国家の一員であるゆえ
 今は、兄弟相争う時ではない」

それに対し西郷は、旧幕府側に降伏の条件を示しました。

・徳川慶喜の備前藩へのお預け
・江戸城明け渡し
・軍艦・軍器全ての引き渡し
・徳川家臣の処罰

慶喜の命こそは奪われないが、徳川宗家の存続は危ぶまれる・・・
勝には、到底飲めないものでした。
最悪の事態も想定していた勝・・・恐るべき戦略を練っていました。
その内容は日記に残されています。
島津家が書き残した”勝海舟日記”・・・
江戸総攻撃5日前の3月10日の日記に、勝はこう記しています。

”我も先に市街を焼いて、一戦焦土と化す!!”

新政府軍が来る前に、水から江戸に火を放つという江戸焦土作戦です。
はったり・・・??交渉材料だったようです。
勝海舟は、交渉能力に長けていました。

3月13に理、勝、西郷と直談判!!
西郷が提示した条件に対し、勝はこう訴えました。

・徳川慶喜は水戸で謹慎
・江戸城は明け渡す
・軍艦・軍器の必要数を残して引き渡す
・徳川家臣の寛大な処罰(処刑なし)

もしこの交渉が決裂すれば、江戸がし焦土になる作戦があると伝えていたのかもしれません。
勝と話し合った西郷は、態度を一変させます。

”色々難しい議論もありましょうが、私が一身にかけてお引き受けします”by西郷隆盛

江戸剃ぷ攻撃は中止、予定日である3月15日の1日前の出来事でした。

その1か月後、勝は江戸城を新政府軍に明け渡しました。
無血開城でした。

江戸総攻撃が起きていたら・・・??
新政府軍の江戸決戦は失敗したのではないか??
結局、明治維新後の日本の近代化が出来たのは、江戸時代の蓄積、土台があったからです。
一切なくなってしまっていたら・・・近代化は50年ぐらい遅れていただろうと思われます。
軍事的に負けても、江戸城攻撃を回避できた・・・それは勝海舟の勝利だったのかもしれません。

「西郷と最後まで闘った男」



江戸城無血開城の後も、新政府軍と旧幕府軍との戦いは終わりません。
会津をはじめ、北陸や東北で多くの犠牲者を出しながら、戦線は北上・・・
戊辰戦争最後の舞台は、北の大地・箱館でした。

旧幕府軍のリーダーとして新政府軍と戦った榎本武揚と土方歳三・・・二人の侍は、戦いの先に何を見たのでしょうか?
1868年4月以降・・・戦いは北へうつっていきました。
東北や越後では、最新の武器を備えた新政府軍が旧幕府に味方する諸藩を圧倒・・・
劣勢に立たされた旧幕府軍の頼みの綱は、世界有数の強さを誇った軍艦・開陽丸を中心とする海軍でした。
開陽丸を指揮するのは、海軍副総裁・榎本武揚です。

やがて、仙台と、土方歳三率いる新撰組も合流。
総勢3000人となった榎本の艦隊は、蝦夷地と呼ばれた北海道へと向かいます。
そこには、榎本の大きな野望がありました。

1836年、榎本武揚は江戸に旗本の子として生まれました。
幼いころから学問好きで、昌平坂学問所に・・・若くしてオランダ語、英語、フランス語を習得。
19歳の頃には、蝦夷地の海洋調査に随行。
箱館にも足を踏み入れていました。
1862年、27歳の時、オランダに留学。
5年の間、西洋の知識を吸収します。
中でも力を注いだのが、海の国際法でした。
その詳細な解説書「万国海律全書」は、生涯、榎本の座右の書となりました。
1867年、幕府がオランダに発注した軍艦・開陽丸を発注すると、それに乗って帰国・・・この時、32歳、幕府の若きエリートでした。

一方、土方歳三は、1835年、武蔵国の多摩の農家に生れます。
武士に憧れ、剣術の修行に励む中で、生涯の盟友・近藤勇と出会います。
1863年、29歳の時、近藤と共に上京。
新撰組を結成、藤方は副長となります。
寄せ集めの新撰組を、武士以上に武士を目指すと考えた土方は・・・
武士道に叛いたもの、組を抜けようとしたものは、切腹など、隊士らに鉄の掟を課しました。
ついた異名は、鬼の副長!!

1868年、34歳の時に戊辰戦争勃発。
旧幕府軍は劣勢になり、配送をかさねる中・・・盟友・近藤勇が新政府軍に処刑されてしまいます。
もはやこれまでか・・・

「このまま終わっては、地下の近藤とまみえることができようか!!」by土方歳三

土方は、あくまで新政府軍の戦う道を模索していました。

同じく幕臣だった榎本武揚・・・しかし、土方とは違い、この戦いの先を見据えていました。

「薩摩長州など強い藩が好き勝手に徳川の領地を没収したのは、真の王政ではない
 家臣は路頭に迷っている
 その救済を願い出たが許されなかったので、一戦を辞さぬ覚悟で江戸を退去する」by榎本武揚

1868年9月、榎本と土方は仙台で合流。
仙台城で旧幕府軍会議が行われます。 
榎本は、土方ら旧幕府軍に自分の最終目的を伝えました。

「蝦夷地に赴き、そこで朝廷に嘆願し、脱走した者たちで蝦夷を開拓したい」by榎本武揚

徳川家に仕える家臣やその家族は、30万人・・・!!
しかし、新政府は、徳川家の収入を400万石から70万石に削減してしまいます。
収入が1/6以下では、彼等を養いきれない・・・!!
路頭に迷う家臣たちを集め、蝦夷を開拓しながら北方警備にもあたる・・・
それが榎本の戦いの後の野望でした。

10月12日、総勢3000人を乗せた榎本艦隊は、仙台から函館へ出航!!
土方はその時の心境を友人への手紙に記しています。

”到底勝算があるにあらず
 我ら闘こうて快く死せんのみなり”

10月20日、蝦夷・鷲の木に上陸
1週間足らずで現地の新政府軍を破り、函館を制圧!!
榎本たちは、五稜郭を拠点としました。

新政府軍と戦ううえで、榎本が最も大切にしたのは外交でした。
箱館に在留する諸外国の領事に榎本はこう説明しています。

”我々は、反逆者でも逆賊でもない
 祖国の地で誇り高く生きる権利を持ち、武器を手にその権利を守ろうと戦う者たちである”

榎本たちが暴徒と見なされ、諸外国が新政府軍に味方をしたら・・・勝ち目はない!!
そこで榎本は、中立を守るように諸外国と交渉をかさねます。
そして、遂に、
「榎本たちは略奪者ではない
 しっかりと組織された軍隊を備えた政府である」
榎本は、自分たちを事実上の政権と認めさせることができたのです。
諸外国は、中立の立場を表明しました。

諸外国としては、勝ち馬に乗るつもりでした。
しかし、なかなか見極めきれなかったのです。
旧幕府側の圧倒的に近代化された海軍力が、ミリタリーバランスを保っていたのです。
そのミリタリーバランスが、諸外国を揃って中立で見守る立場に置いたのです。
榎本の外交を成功させた強大な海軍力・・・これが、旧幕府軍の生命線でした。

榎本海軍の切り札・開陽丸・・・!!
飛距離4キロのクルップ砲!!
開陽丸には、操船に長けた船員がたくさんいました。
それが、開陽丸の強さの源でした。
最大500人の兵を乗せることができました。

榎本艦隊は開陽丸を持っている・・・それが抑止力にもなっていました。
簡単に新政府軍も攻撃できなかったのです。

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1868年11月、旧幕府軍松前城を攻撃!!
土方を隊長とする旧幕府陸軍は、蝦夷地の南部を治めていた松前藩を攻略・・・北へ逃げる敵を追って江差へ・・・!!
榎本は、土方たちを海から援護しようと開陽丸の出撃を決断します。
ただ・・・それは・・・

「江差までつれて行って、大砲の2,3発でも撃たせてやろう」by榎本武揚

土方率いる義陸軍ばかりが活躍していたため、海軍にも功績を与えようという榎本の海運への計らいだったのです。
しかし、この判断が悲劇を生みます。
11月15日夜・・・江差沖に停泊中の開陽丸は、暴風雨に襲われました。
激しい波で、岸へ押し流され座礁・・・!!
大砲を撃ち、その反動で岸から離れようとするも沈没してしまいました。
榎本は、土方たちと共に沈みゆく開陽丸を見つめていました。

”暗夜に灯火を失ったようだ”

土方歳三嘆きの末・・・この松の下で、榎本と共に開陽丸を見ていた土方があることをしました。
真偽は定かではありません・・・が・・・
土方が何度もたたいたのでこぶが出来て曲がった・・・と。

1868年12月15日、榎本たち旧幕府軍は、蝦夷地の全域を制圧、各国の領事にその領有を宣言します。
さらに、日本初の選挙を実施、榎本が総裁に、土方が陸軍奉行並に選ばれました。
ところが、それから2週間もたたない12月28日・・・
榎本に衝撃的な知らせが舞い込みます。
諸外国が中立の撤回を布告したのです。
開陽丸が沈んでしまったことで、局外中立を保っていた諸外国からすれば軍事力に大きな違いが出てくる・・・榎本政権の行き先を見切ったのです。

このすぐ後、アメリカは新政府軍に細心の軍監を譲渡しました。
甲鉄と命名された協力な軍監です。
これで、旧幕府軍と新政府軍の海軍力は逆転してしまいました。

1869年4月9日・・・新政府軍が総勢7000人で攻撃開始。
上陸後、三方向に分かれて箱館に進軍しました。
迎え撃つ旧幕府軍にとって、開陽丸の不在はあまりにも大きかった・・・
甲鉄で、新政府軍が制海権を握ります。
旧幕府軍は、陸軍の攻撃に加えて、海からの艦砲射撃に晒されます。
しかし、海から遠い山の中に陣取る土方の部隊は違いました。
狭い一本道を見下ろす場所に銃を置き、登ってくる敵を待ち受けます。
やがて、新政府軍の兵が・・・1日に3万5000発もの銃弾を浴びせ、新政府軍を撃退したのです。
その夜、土方は、兵士に酒をついで回り、労をねぎらいました。

「少ない兵力で、大軍相手に良く守っていてくれている
 たくさん褒美を与えたいが、酔って軍規を乱すと困るので、今日はいっぱいで我慢してくれ」by土方歳三

しかし・・・その他の地域では、旧幕府軍は敗北続き・・・遂には、土方を含む全員が箱館へと撤退していました。

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5月11日・・・新政府軍は、函館へ大攻勢をかけます。
その結果、台場を守る新撰組が孤立してしまいます。
土方は、周りが止めるのも振り切って救援に向かいます。
一本木関門に到着すると、逃げようとする見方に檄を飛ばしました。

「俺はここで指揮を執る!!
 突撃せよ!!」by土方歳三

しかし、その直後・・・一発の銃声と共に崩れ落ちました。
銃弾は、腹部に命中・・・土方歳三35年の生涯でした。

武士を貫いて死んだ土方の死は、近世から近代への転換とも受け取れます。

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榎本武揚もまた、死を覚悟していました。
妻に手紙を送っています。

”もはやこの世でお目にかかれるかどうかわからない
 自分への評価は、死後、棺のふたをしめた後にわかる”

新政府軍の軍監甲鉄は、五稜郭へ繰返し砲撃!!
五稜郭が作られた時代、
海から2キロ以上離れた五稜郭には大砲の玉は届かないはずでした。
しかし、甲鉄の玉の飛距離は4キロ・・・
海から球が届くほど進化していました。

5月13日、新政府軍は榎本に投降を求めます。
榎本はこれを拒否!!
死を覚悟し、新政府軍の大将に宛ててある書物を送りました。
オランダ留学以来、榎本が肌身離さず持っていた「万国海律全書」です。

「この万国海律全書は、皇国無二の書である
 もし、戦火によってこれを失えば、痛惜の極みである」by榎本武揚

将来、日本が外国と交渉する際に、この本を役立ててほしい・・・そう願いました。
そして、武士らしく、自決のために短刀を手にしました。
しかし・・・刀を素手で掴んだ部下が、懸命に説得します。

5月18日、榎本は降伏・・・その日のうちに五稜郭を手放しました。
1年5カ月にも及ぶ戊辰戦争は、こうして終わりました。

しかし・・・戦いの行方を決定づけた開陽丸の沈没・・・。
②もしも開陽丸が沈まなかったら??
新政府軍に甲鉄が与えられなかったかもしれません。
そして、旧幕府軍は、開陽丸などの軍監がある!!
開陽丸には絶大な威力がありました。
しかし、榎本は、勝っても喜べませんでした。
何故なら、豊富な物量を誇る新政府軍にいずれは屈することになると読んでいたからです。

すると道は一つ・・・どこで負けるのか・・・??
北方警備、蝦夷地の開拓などを任されるような形で新政府と交渉したかったのでは??
旧幕臣たちの居場所を作りたかったのです。

彼等はどうして敗北を自ら受け入れたのでしょうか?
いかにどう負けるのか・・・??
家族や知人を救うため、負け方を探ってきた戦いでした。
今の時代をどう未来につなぐのか??最善の選択をしたのです。
そこには、日本ならではの負け方の美意識がありました。
その美意識が、犠牲の少ない革命につながったのです。

徳川幕府最後の将軍となった慶喜は、政治の表舞台から去り、77歳で人生の幕を閉じました。

「家康公は日本を統治するために幕府を開かれた
 私はその幕府を葬り去るために将軍となったのだ」by慶喜

榎本武揚は、北海道開拓を進める新政府軍に重用され、後に外交でも活躍します。
明治政府が作った北海道開拓使には、榎本と共に戦った旧幕府軍の幹部が登用されていきました。
北海道開拓に尽力したのは旧幕臣のエリートだけではありません。
北の大地に移住し、開拓に汗を流した者の多くは、旧幕臣や戊辰戦争で負けた藩の貧しい侍たちでした。
仙台藩の伊達家は、朝敵の汚名をすすごうと積極的に開拓に参加。
有珠に赴いた彼等は、現在の伊達市の礎を築きました。

そして、1874年、屯田兵制度が始まります。
兵員として北海道の開拓と警備にあたったのは東北の侍たちが中心でした。

箱館山には榎本が仲間と建てた石碑が残っています。
”碧血碑”・・・箱館戦争で戦った旧幕府の戦友たち800人を弔うものです。

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埼玉県秩父市・椋神社・・・明治17年11月1日・・・ここで3000人の農民が武装蜂起しました。
明治政府を揺るがした秩父事件です。
貧民の救済を求め、郡役所や高利貸しを襲撃した農民は、こんな言葉を叫んでいたといいます。

「板垣さまの世ならしに参加すれば、俺たちの負債もなくなる!!」

板垣さまの世ならし・・・
板垣さまとは、明治維新の立役者の一人・板垣退助の事です。
当時、板垣は、民衆が政治に参加する自由と権利を求める自由民権運動のリーダーとして知られていました。
板垣の考えは、民権派と呼ばれる人々を生み出し、自分たちの手で国会を開設しようという大きな運動にまで発展します。
板垣は、日本初の正当・自由党を結成し、全国を遊説・・・
政府の専制を批判し、草の根に自由民権思想を広げていきました。
しかし、板垣の前に壁が立ちはだかります。

「板垣死すとも自由は死せず」

この名言を生んだとされる暗殺未遂事件が発生・・・
さらに、板垣の動きを警戒した政府は、自由党の弾圧を開始、各地で自由党員たちが次々と検挙されていきました。
こうした中、民衆を突き動かした自由民権運動は、次第に力をそがれていきます。
自由民権運動は何を目指したのか・・・??

慶応4年に始まった戊辰戦争・・・
土佐藩兵を率いた板垣退助は、会津戦などで勝利に導き明治維新の立役者となりました。
戊辰戦争に参加した迅衝隊・・・土佐藩の精鋭部隊です。
31歳の板垣退助・・・600人の隊員のほとんどが下級武士で、普段は農作業をして暮らしていた彼らに、板垣は銃剣を授け、フランス式の軍隊に編成しました。
上級武士の軍をはるかに凌ぐ活躍を見せました。
板垣は、兵士の力量に身分の差は関係ないことを痛感しました。

2年後・・・明治3年、戊辰戦争の功績を認められた板垣は、高知藩大参事に就任しました。
すぐさま大改革を行います。
それは、身分制の撤廃でした。
日本の近代化に必要なのは人民平均・・・!!
人間を士農工商の隔てなく登用する社会の実現だと唱え、上級氏族による藩の役職の独占を禁じました。
板垣は、明治新政府が行おうとしていた身分制の改革をいち早く藩で行っていたのです。
その手腕を評価された板垣は、明治4年、新政府に招かれ、中枢を担う参議の一員に就任します。
そして、国に徴兵制を導入し、四民平等の軍隊を作ることを目指しました。

しかし、思わぬ外交問題が板垣を巻き込んでいきます。
征韓論争です。
当時政府内は、国交のない朝鮮に居留する日本人を保護するために兵を送るかどうかで意見が分かれていました。
この対立で政府は真っ二つに分裂・・・
征韓派筆頭の西郷隆盛と共に参議を辞職
明治6年のことでした。
しかし、翌年、板垣はすぐさま同志たちと行動に移ります。
議会を作り、選挙で選ばれた議員たちが国政を担うべきだと、政府に建白書を送ります。
明治7年、民選議院設立の建白書を政府に提出・・・!!

「現在、権力を握っているのは天皇でも人民でもなく、一握りの官僚である
 政府に税を払っている人民には、政府が行う政治に関与する権利がある」by板垣退助

その内容は、新聞にも掲載され、多くの知識人たちの間で議会の早期開設を求める動きが高まりました。
しかし、政府はこの建白書を却下・・・
板垣は、故郷・高知に戻り、新たな行動を開始します。
政治結社・立志社の創設です。

”自由は土佐の山間より出づ”

自由という言葉を合言葉に、高知から議会開設運動を巻き起こそうとしました。
立志社は、戊辰戦争を戦った士族が中心となり、東京の慶應義塾から教師を招聘し、西洋の民権思想を学びながら、議会開設運動を着々と進めました。
ところが、結成から3年・・・立志社を大きく動揺させる事件が起こります。
それは・・・明治10年、西南戦争勃発!!
明治6年の政変後、新政府との緊張関係が続いていた西郷隆盛と旧薩摩藩士たちが武装蜂起!!
実はこの時、立志社内部では西郷軍と共に挙兵し、政府を転覆、一気に議会開設を実現させようという動きがありました。
しかし、板垣は、この挙兵論を押さえます。
そして、戦争が政府軍有利になったことを見計らい、ブレーンである植木枝盛に新たな建白を作成させ、政府に提出しました。
ここでも板垣は、言論の力で議会開設を実現することを宣言・・・
専制政治を批判し、抗議という言葉で人民の政治参加を呼びかけました。

西南戦争の翌年、全国各地で議会開設を求める政治結社の結成が相次ぎました。
その動きは士族だけでなく、農民たちにも波及します。
明治11年、東北福島県三春で河野広中が三師社を結成・・・
以後わずか2年間で結成された農民結社36社。
板垣と立志社が始めた新たな社会を目指す運動は、身分や地域を越え、広がろうとしていました。

西南戦争から3年、高知から広がった自由民権運動は新たな局面を迎えていました。
各地の政治結社は、板垣をリーダーに国会開設を胸に手を組み、明治13年国会期成同盟を結成します。
当時の資料に彼らが目論んだ大胆な構想が書かれています。

それが、私立国会・・・
国民の過半数が求めても政府が国会を開設しない場合、国会期成同盟が国会を作りそれを天皇に認めさせるというものです。
そこで各地の結社は、それぞれの地で半数以上の賛同者を集めようと演説や勉強会を盛んに開き、政治への参加を促しました。
しかし、中には運動の理念とはかけ離れた方法で勧誘をする結社も現れました。
その一つが、撃剣会という剣術興行を見世物にして人を集めるという愛国更親社です。
最盛期には参加者2万8000人、愛知・岐阜の農村部で組織を拡大しました。
巧みな宣伝文句が勧誘に使われました。

入社すれば兵役免除、武士になり永世禄支給、税金免除・・・

そして、講談師・川上音二郎をまねて、舞台で政府批判を歌い、結社への参加を促すもの

民衆の心をつかむあらゆる方法で、結社拡大の動きがみられました。
しかし、板垣はこうした熱気の高まりに不安を抱いていました。
自分達で勝手に国会を作ってしまおうというのが私立国会論・・・
完全に政府と話し合いをやめてしまって・・・国政は分断してしまう・・・!!
分断されることを、板垣は望んでいませんでした。
政府と決定的な対立を起こしかねない・・・!!
板垣の不安は的中します。
明治13年4月、政府は集会条例発布。
政治集会や演説は規制され、結社同士の連合が禁止されました。
これにより、政治活動は大きく制限され、ほとんどの結社が半数以上の参加者を得るには至りませんでした。
結果、私立国会の構想は、いったん頓挫してしまいます。
その打開策として板垣が作ろうとしたのは、日本初の政党・自由党です。
結社を一つの団体としてまとめ上げてしまえば、条例違反を問われることはない・・・!!
しかも、これまでばらばらだった結社の主張が一つにまとまり私立国家の実現にも拍車がかかるはずだ・・・!!
ところが、明治14年10月・・・
結党準備のさ中に政府が下した新たな決断に、民権派は激しく動揺します。

国会開設の勅諭です。

明治23年を目標に、政府主導で国会開設と憲法制定を行うと、天皇の名のもとに告知したのです。
自分達の手で国会をと意気込んでいた民権派に対して、機先を制したのです。
自由党総理に選出された板垣は、新たな情勢の中で、今後の運動の指針を示しました。
それは、各地に自由党の地方支部を組織して、当の基盤を固め、将来の国会開設に備えるというものでした。
板垣は、6か月にわたる全国遊説の旅に出て、民衆の政治参加を熱く訴えました。

「我が国の人民は、社会一般の自由を伸ばそうとする精神に欠けているが、これは積み重なった専制政治の慣習によるものである
 ゆえに、この弊害をただすためには、人民に政治に参加させ、国家公共のことに関与させるしかない」by板垣退助

板垣は、行く先々で熱狂的な支持を受けます。
そんな中、遊説先の岐阜で事件が起こります。
演説後に、板垣が暴漢に襲われたのです。
この時発したとされる言葉が、

「板垣死すとも 自由は死せず」

板垣の不屈の闘志に、自由民権運動はさらに勢いを増していくことになります。

明治15年10月9日・・・板垣を揶揄した風刺画が雑誌に掲載されました。
自由号という船の上に、洋行費と記された大きな星が飛んでいます。
屋根の上では多くの人がその星の行方を見ています。
この洋行費こそが、板垣に降りかかったスキャンダルでした。
当時、板垣が予定していたヨーロッパへの視察旅行の費用を、政府が用意していると新聞各紙が報じていました。
板垣に洋行の話を持ち掛けたのは、共に政府の参議を務めた盟友で自由党幹部でもあった後藤象二郎です。
政党活動に興味を失っていた後藤は、政府への復帰を目論んでいました。
そこで、板垣を洋行させる代わりに政府に復帰することを、参議の伊藤博文と井上馨に相談していました。
後藤の提案は、政府にとっても自由党を切り崩す絶好のチャンスでした。
こうして政府が板垣の洋行費を用意することとなり、その情報が外部に漏れたのです。
板垣の洋行に反対した自由党の幹部は、次々と党を去りました。
これまで組織を支えてきた精鋭を失い、党本部は大きな打撃を受けることとなります。

さらに、地方では自由党への弾圧が始まっていました。
すでに明治12年から地主や豪農たちの要望を受け、府県会という地方議会が開かれていました。
この府県会で地方政府と自由党の衝突が起きていたのです。
舞台は福島・・・当時、自由党幹部だった福島県会議長・河野広中・・・福島では自由党が大きな勢力を占めていました。
そこで議題となっていたのは、地方税の問題です。
それまでの2倍以上の重税を課そうとする県に対し、自由党は議会で反対の議決を繰り返していました。
これに対し、副島県令・三島通庸は、副島の自由党員に民衆デモを先導したことをきっかけに党員全員を一斉検挙!!
さらに、裁判では自由党員が政府の転覆を図ったとみなし、河野たちを断罪します。
この事件で、東北での民権運動の拠点だった福島自由党は壊滅・・・
さらに、秋田・群馬など各地で弾圧が増していきました。

自由党が危機に瀕する中、明治15年、板垣退助、7か月にわたる洋行に出発・・・!!
板垣の中では、今、政党が一番順調だと思っていました。
自分が一人抜けても、全然問題はないだろうと考えていたのです。
さらに、自由党を苦しめたのが経済の冷え込みです。
政府のデフレ政策によって、深刻な不況は全国に及びました。
党員たちは思うように活動資金を調達できずに、遂には詐欺や強盗で資金を調達するようになります。

明治16年6月・・・板垣は帰国・・・。
しかし、待っていたのは政府の弾圧と資金不足で窮地に陥った自由党の弱体化した姿でした。
政党の活動を続けることが出来るのか??

党を存続させるべきか??
解党するべきか・・・??

板垣は選択を迫られていました。

自由党を解党するべきか否か??
明治16年6月、帰国した板垣は、党員たちにある提案を行います。
党の運営資金として必要な10万円を、募金で集めることを宣言したのです。
当時の10万円は、今の数億円に相当する金額です。
10万円を集められなければ解党止む無し!!
住民のために政治を志すならば奮起せよと、党員たちを鼓舞しました。
翌年の党大会で、集まった募金額が発表されました。
合計1万円余り・・・目標とした額にはとても及びませんでした。
その結果、板垣は宣言通り、明治17年10月29日、自由党の解党を決断します。
3年に渡り自由民権運動をリードしてきた日本最初の政党は、ここに幕を閉じたのです。

埼玉県秩父・・・自由党が解党された3日後の11月1日、ここで政府を揺るがす民衆蜂起が起きました。
秩父事件です。
当時、養蚕で生計を立てていた農家は、生糸価格の大暴落によって困窮を極めていました。
負債に苦しむ農民たちを、解党の事実を知らない自由党員が組織化し、武力蜂起へと導いたのです。
決起の地・・・椋神社・・・
農民3000人が集まって掲げた要求を、当時の神官が記録しています。

負債の据え置き、村費軽減や、減税など・・・

そこには、国会や憲法といった言葉はありませんでした。
当時蜂起勢が口ずさんでいた歌があります。

”金のないのも苦にしやさんすな 今にお金が自由党”

自由党に入って、板垣さまの世ならしに参加すれば、俺たちの負債もなくなる・・・
自由党というものに対して大きな期待と夢を託していたのです。
農民たちは、山村から町へ向かい、借金の証文を焼き払いました。
ゆく先々で勢力を増し、秩父府を占拠した時、その数は1万を超えていました。
2日後、郡役所に革命本部を構えます。
関東一円の志を同じくする自由党員に決起を呼びかけようとしました。
しかし・・・政府は軍隊を投入し、放棄から9日後に鎮圧・・・蜂起勢は強盗として裁かれることになりました。
この事件を境に、自由民権運動は、民衆運動としての力を失っていきます。
その後、日本は憲法制定、国会開設と、急ピッチで近代化の道を駆け上っていきました。
板垣自身も、政党政治への情熱を失うことはありませんでした。

板垣は、帝国議会が開かれると、旧自由党員が組織したいくつかの政党をまとめ上げ、自由党を復活させました。
そして、帝国議会の第1党党首として活躍し続けました。
国会議事堂・・・中央広間・・・国会開設の功労者として板垣の像が立てられています。
板垣は、晩年の回想録の中で、自由民権運動をけん引した時代を振り返り、次のように述べています。

「自由党の特色は、破壊的な働きにこそあった
 先生を打破し、国会開設への道を切り開くためには、古いものを破壊するほかなかった
 彼らが政府に抵抗し、血を流しても屈しなかったのはこのためである」by板垣退助

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大型船が頻繁に行きかう東京湾の玄関口・浦賀水道・・・
幕末、ここで日本を揺るがす大事件が起こります。
1853年6月3日、突然4隻の大きな船が現れたのです。
黒船来航です。
当時、和船の総トン数が100tだったのに対し、黒船(蒸気船)の総トン数は2500t・・・25倍の大きさです。
この黒船の来航をきっかけに、およそ260年続いた江戸幕府が崩壊へと進むこととなります。
日本の歴史を大きく変えた出来事でした。
どうしてアメリカは極東の小さな島にやってきたのでしょうか?
幕末の日本はどう映ったのでしょうか?

太平の 眠りをさます 上喜撰
       たった四杯で 夜も眠れず

”上喜撰”という緑茶と、蒸気船をかけています。
そしてたった四隻で幕府は不安で眠れない様子を揶揄した歌です。

アメリカ側でもそんな記録が残されています。
マシュー・ペリーは、アメリカから4隻の船で浦賀にやってきました。
蒸気船のサスケハナ号とミシシッピー号、そして2隻の帆船です。
艦隊は全部で63門の大砲を装備、臨戦態勢を布きながらを進め、午後5時ごろ浦賀沖に錨を下ろしました。
初めてみる日本・・・ペリーの第一印象は・・・

「投錨の直前に天候は晴れ上がり、富士山の高い頂がますますくっきりと見え、内陸部に広がる群峰よりはるかに高くそびえていた」

ペリーにとっても霊峰富士は強烈な印象だったのです。
ペリーが遠路はるばるやってきた目的は二つありました。
①アジア諸国と貿易をする拠点を作る
②捕鯨船の補給基地を作る
この時ペリーにはもう一つ重要な任務がありました。
アメリカ大統領の親書(国書)を日本に渡す任務です。
鎖国を続けてきた日本に、どうやってアメリカの要求をのませるのか?
ペリーは事前の日本の情報から日本人の特性を掴み、幕府との交渉方針を決めていました。

「排他的に振る舞い、気難しい人物を演じれば演じるほど、形式と礼儀を重んじる日本の人々は、こちらの目的を尊重するようになるだろう」

ペリーが浦賀に停泊すると、すぐに浦賀奉行所の船が近づいてきました。
そして役人のひとりがいきなり横断幕を広げたのです。
そこには当時ヨーロッパの公用語だったフランス語で「艦隊は撤退すべし!」と書かれていました。
もちろんアメリカ側も意味は理解していましたが、毅然とした態度をとっていたいペリーはこれを無視!!
しかし、幕府役人はなかなか引き下がりません。
ひとまず役人を乗船させ、部下のコンティ大尉を通してこう告げます。

「われわれはアメリカ合衆国大統領から、幕府将軍に宛てた親書をしかるべき役職の人物に受け取ってもらいたい」

ペリーは幕府の役職にある人物と会うことが交渉の近道だと考えたのです。
しかし幕府役人は・・・

「異国との交渉は、長崎でしか行えない
 親書は長崎で渡してもらいたい」

別の異国船が来航した際、この言葉で体よく追い返した例がありました。
今回も、帰ってもらおうとしたのですが・・・それを聞いたペリーは激怒!!
幕府役人を追い払ってしまったのです。
そしてここから全く開国する気のない幕府と、何としても国交を結びたいアメリカとの長い戦いが始まるのです。

黒船を見ようとたくさんの人々が浦賀に詰めかけます。
中には見物人相手に商売をする人も・・・
望遠鏡の貸し出し、船での黒船見学ツアーなどです。
ペリーの似顔絵も販売されました。

この時繁盛したのが武具師・・・
江戸幕府始まって以来、武具を使うことがなかったので、多くの旗本、御家人たちは持っていなかったのです。一斉に武具を買いに走りました。

ペリーはいきなりやってきたのではなく・・・幕府は事前にペリーが来航することを知っていました。
諸外国との交易・交流を制限する鎖国政策をとっていた幕府は、取引場所を長崎の出島に限定し、相手はオランダと清国とのみ交易をおこなっていました。
そして、その見返りとして彼等から欧米列強に関する情報を得ていたのです。
当初は開国を求めてやってくる他の欧米列強に対し武力での排除を行っていましたが・・・
1842年清国がアヘン戦争でイギリスに敗れ、不平等条約の締結を強要されたという情報を得ると、大きく方針を変換・・・
1842年薪水給与令を出し、外国船に燃料や水を与え、穏便に帰ってもらうように指示を出していました。
アヘン戦争のころから、欧米列強の武力に脅威を感じ始めています。
”ペリー来航”の情報も、お蘭だから事前に知らされていました。

「アメリカ合衆国が艦隊を派遣し、交易をおこなうために日本へ渡来するとの事、司令官は当初オーリックというものであったが、ペリーなる人物に交代したようだ」

この風説書がオランダより幕府の手に渡ったのが1852年7月でした。
ペリーがアメリカを出発したのが10月でした。
ペリーがアメリカを発つ3か月も前に、オランダを通じてアメリカが通商を求めてやってくることを掴んでいたのです。
しかし、幕府は何ら手を打つことができませんでした。
当時の将軍は12代将軍徳川家慶・・・病気がちだったために老中首座・阿部正弘が政務を行っていました。
当然阿部は、オランダからの報告を聞いていましたが、この年・・・1852年5月22日江戸城西ノ丸御殿が焼失・・・。
再建工事に莫大な費用が掛かるために、軍費にお金を割くことが難しかったのです。
この頃、外国の情勢に詳しい薩摩の島津斉彬と会談した阿部は、こんな事を漏らしています。

「もしアメリカが来ても、なるだけ穏便に済ませ、長崎へ行ってもらうしかない」

そしてペリーが実際にやってきました。
阿部の指示通り、長崎へ行ってもらうようにしますが・・・拒否されてしまいます。
さらにコンティ大尉はこう脅してきました。

「浦賀でしかるべき役人が大統領の親書を受け取らなければ、我々は武装して江戸城へ向かう」

対応した浦賀奉行所・香山栄左衛門は・・・
「船の中は、緊迫した状況であり、アメリカ側は皆殺気立っていた」

幕府はようやくアメリカが本気だということに気付いたのかもしれません。
戦争は避けなければ・・・ようやく幕府は親書を受け取ることに・・・。

1853年6月8日・久里浜・・・6日目・・・アメリカ大統領の親書の受け渡しが行われました。
幕府は江戸湾の警備を行っていた彦根藩・川越藩などの藩兵を5000人配置!!
対してアメリカ側は武装した水兵300人!!
幕府の代表としてペリーを出迎えたのは、浦賀奉行の戸田氏栄と井戸弘道・・・
この時の様子をペリーは・・・
「戸田、井戸の両候は、初めから最後まで銅像のように動かず、一切言葉を発しなかった」
この日はあくまで親書を受け取るだけ・・・
余計なことを言わないように釘を刺されていたのかもしれません。
双方無言の中、13代アメリカ大統領ミラード・フィルモアの親書が日本側に渡されました。
そこには・・・
①友好的な国交を樹立し、通商条約を定める
②難破船やアメリカ船の船員の救助と保護
③蒸気船の燃料と水・食料の補給
それを渡したペリーは・・・
「来年の4月か5月にふたたび来日するので、その時に親書に対する返答を聞かせてもらいたい」
そう言い残し、アメリカがアジアの拠点としていた清国の広東へと向かったのです。
どうしてペリーはその場で交渉しなかったのでしょうか?

幕府はなるべく時間稼ぎをし、はぐらかし、アメリカを諦めさせようと考えていました。
幕府のペースに巻き込まれることを避け、効率よく時間をおいての交渉で決着しようとしたのです。

あっけなくペリーは去りましたが、阿部正弘は再びやってくるペリーにどう対応するのか?頭を悩ませていました。
すると阿部は、驚きの行動に出ます。
親書を一般に公開し、大名から庶民に至るまで広く意見を募ったのです。
時代が大きく動いていました。
全国から約800通の建白書が寄せられました。
一番多かった意見は、「アメリカの要求を拒絶し打ち払う」という案でした。
200年以上守ってきた伝統を崩したくない・・・
しかし、積極的に開国し、アメリカとの貿易で得た利益で軍備を強化するという意見もありました。

1635年、3代将軍家光の時に、「大船建造の禁」によって幕府も軍艦を所有できていませんでした。
阿部は、諸大名に対し大型船の建造を許可し、オランダへ軍艦を発注しています。
しかし、ペリーがやってくるまで9か月!!
ペリーが再来航するまでに強化できた軍備は、品川沖に台場を建設するぐらいでした。

幕府はアメリカン関する情報収集にも乗り出します。
土佐藩士の中浜万次郎を江戸に呼び、旗本格として登用しました。
ジョン万次郎で知られる中浜は、漁船で漂流後、アメリカで10年間暮らし、ようやく帰国したばかりでした。
万次郎は・・・
「アメリカはかなり前から日本と親睦を持ちたがっていました。
 メキシコとの海上戦でわずか4時間ほどでアメリカ側が勝利をおさめた」
などと、開国を進言!!
更に幕府は長崎奉行を通じてオランダ商館の館長クルティウスにも助言を求めます。
「アメリカの要望を一切無視したならば、戦争に発展しかねない
 試しに一港だけ開いてみたらどうか」
多方面から様々な意見を聴取した幕府老中・阿部正弘でしたが、いかにアメリカの要求をはねのけることが難しいか・・・痛感するばかりでした。

1854年1月16日・・・ペリーが再び来航!!
幕府は焦ります。
ペリーの予告では、4月か5月との事だったからです。
そこにはペリーの思惑がありました。
前回の来航直後、12代将軍徳川家慶が亡くなっていました。
そこで、その混乱に乗じれば、用意に条約締結に持ち込めるのでは?と考えたからです。
前回の来航後、ロシアも日本に開国を迫っていたので、他の列強国を出し抜いて、有利な条約を締結したいとも考えていました。
アメリカが要求したのは三つ・・・。
①友好的な国交を樹立し、通商条約を定める
②難破船やアメリカ船の船員の救助と保護
③蒸気船の燃料と水・食料の補給

日米両国の国益をかけた戦いの前に、水面下で駆け引きが始まりました。
この時ペリーは、長い航海で持病のリウマチが悪化・・・体調を崩していました。
それを聞き付けた幕府は、お見舞い品として大根800本、人参1500本、鶏卵1000個などを届けています。
対してアメリカ側も、幕府役人らを船に招待・・・
西欧料理や酒を出してもてなしました。
アメリカは船に生きた鶏、羊、イタリア人シェフまで乗せていました。
万端の準備をしていたペリー・・・。
食事でもてなすことで、友好的なムードを作り出そうとしたのです。

こうして当日を迎えましたが・・・両者が激突します!!
アメリカ代表のペリーに対峙したのは江戸幕府応接掛筆頭・林大学頭!!
冒頭、林は3つの条件のうち、難破した船員の救助と保護は承諾します。
そして石炭、水、食料の補給も承諾!!
しかし、両国間で通商を結ぶのは、国の決まりで出来ないと断固拒否!!
この時幕府側は、全てを拒否するのは難しいと考え、受け入れを最小限に止めるという方針に転換していたのです。
しかし、それを聞いたペリーは態度を豹変!!

「貴国は難破船の救助を行わないうえ、海岸に近づこうとしただけで発砲してくる
 さらに、漂着した外国人を罪人同様に投獄している
 貴国が国政を改めないならば、我々は戦争も辞さない覚悟である」

林を揺さぶろうと過去の非人道的な行為をあげて責めます。
しかし、林は動じません。

「外国船に発砲していたのは一昔前の話であり、漂着民に対してもオランダを通して長崎の出島から返還している」と、理路整然と反論!!
さらに通商に関しては・・・
「自国の産物で十分に事足りている」
と、きっぱり拒否したのです。
すると驚いたことに、ペリーは通商の要求をあっさりと取り下げてしまいました。
どうして・・・??
自分達の要求をすべて飲ませようとしたものの林大学頭らが手ごわいのを見て、方針を転換したのです。
全部を処理しなくても、国交樹立を最優先して段階的に通商を認めさせようとしたのです。
こうして日米の間で、ひとまず合意に至りました。
大筋では合意したものの、交渉はまだ終わりません。

日本にやってきたペリー・・・
日本のはじめて目にする日本の風俗や文化に驚きます。
ある時町の銭湯へ・・・驚愕!!
男女とも入り乱れて混浴!!
「日本人は道徳心に優れているのに、その道徳心に疑いを感じざるを得ない」

さらに既婚女性のお歯黒にびっくり仰天!!
「妻がこんな歯をしていたら、夫はものも言わず逃げ出してしまうだろう」

一方で日本人に器用さに感心します。
町で売られていた浮世絵のち密さとユーモアに感嘆!!
焼き物の磁器や漆器の優美な形と洗練されたデザインに魅せられます。

日本人がひとたび欧米諸国の技能を知ったならば、近い将来強力なライバルとなるだろう

日米の交渉は大詰めを迎えていました。
アメリカの蒸気船の燃料である石炭と水、食料の補給などをどの港で行うのか??
幕府は、当面は長崎で行い5年後に別の港を追加することを提案します。
それに対しペリーは・・・

「本来の趣旨を理解されていないようだ」

アメリカが日本に目をつけた主な理由は、太平洋航路の中継地点としたいからです。
太平洋に面していない長崎は、その狙いから外れているので、納得できるものではありませんでした。
ペリーはここでこんな申し出をします。
「大統領の命により運んできた土産の品々を贈呈したい」
献上品は、全部で140種類に及びました。
なかでも幕府の一港が目を見張ったのが、1/4モデルの蒸気機関車と、モールス電信機でした。
アメリカ側はそれらを実演してみせ、日本側を大いに驚かせます。

「日本人はいつでも異常な好奇心を示し、それを満足させるのに、画集国からもたらされた発明品の数々は恰好の機会を得た」

幕府も負けじと贈り物をします。
米と酒・・・ここで50人もの力士を導入し、1俵60キロもある米俵を片手に二俵づつ、計4俵担いで運ばせて・・・力士の怪力ぶりを見せつけます。
力士たちの巨体と怪力に、ペリーたちは圧倒されます。

「偉大な筋肉は、ヘラクレスのよう彫像のごとく、隆々と盛り上がっていた」

すると予期せぬ事態が・・・傍らでこのパフォーマンスを見ていた水兵が、力士に勝負を挑んだのです。
この思わぬ日米対決に、周囲は大興奮!!
しかし、勝負は一瞬でつきました。
そして力士は水兵に向かってこう言い放ったのです。

「強さの秘密は、日本の美味い米と美味い酒じゃ」

日本が大いに面目を施した瞬間でした。

北太平洋で操業を行う捕鯨船の補給基地に数カ所、清国と結ぶ太平洋航路の補給地として会談を行っていた横浜周辺を含め他に数カ所開港することを要求します。
幕府は、当面は長崎で、5年後にもう一つ追加することで押し切りたいと考えていました。
アメリカの要求を飲めば、長崎で取引をしているオランダも同じ要求をしてくるに違いない・・・!!

しかし、ペリーは執拗に林に食い下がります。
音を上げた林は、「もはや自分の裁量では決められない」と江戸へ戻り、幕閣たちに伝えたのです。
すでにペリーが再来して1か月がたっていました。
長期にわたる交渉に疲れたのか、これ以上拒むことは不可能と感じたのか、結局幕府が折れ、「箱館・下田」を開港すると通知。
ペリーもそれを承諾し、ようやく合意に達したのです。

「この湾にきてわずか5週間・・・
 この国と、この国の人々から大きな信頼を勝ちうることができた」

そしてペリーは日本側に感謝の意を示すためにおよそ70人の幕府役人を招待し、豪華な料理、バンドの演奏にダンス・・・役人の中には酔っぱらってペリーと肩を組む者もいたほど和やかでした。
こうして締結された日米和親条約(1854年3月3日)でしたが、その中には今後日本が他国とこれ以上好条件で条約を締結した場合、その内容が自動的にもアメリカにも適用されるという・・・アメリカに最恵国待遇を与えたのです。

そして黒船の来航は、およそ260年続いた太平の世を揺り起こします。
尊王上運動を誘発し、明治維新へと繋がりました。
ペリー来航から14年後、江戸幕府はついに大政を奉還します。
もしペリーがやって来なかったら・・・??
明治になるのはもっと時間がかかったかもしれません。

日米交流の扉を開いたマシュー・ペリー・・・日米和親条約締結からわずか4年後、アメリカで63歳で死去・・・。
ペリーが日本から持ち帰ったものが、今もアメリカに残されています。
初代大統領ジョージ・ワシントンの功績をたたえるために建てられたワシントン記念塔・・・この一部に幕府からアメリカに送られた伊豆下田の石が使われています。
日本とアメリカの友好の証として・・・!!

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明治10年2月・・・九州の地でその後の日本の行く末を決める戦いが始まりました。
西南戦争です。
立ち上がったのは、明治維新最大の英雄・西郷隆盛です。
そのもとには、政府に不満を抱く士族が3万集まりました。
迎え討つのは、最新の装備をした平民の新政府軍!!
一進一退の戦闘が繰り広げられます。
死者1万3000!!どうして日本人同士が戦い、殺し合わなければならなかったのでしょうか?

すべての始まりは、西郷と共に幕末を戦い抜いた男たちの因縁でした。
新政府軍を率いたのは山縣有朋、不平士族の急先鋒・桐野利秋、男たちは、明治政府の大改革・徴兵制を巡って衝突します。
日本の未来をめぐる男たちの戦いのドラマとは・・・??
西南戦争最大の謎・・・反対していた西郷がどうして挙兵したのか??
西南戦争の真実とは・・・??

明治10年1月29日、西南戦争の引き金となった事件が起こります。
鹿児島にある新政府軍の火薬庫を20人の士族が襲撃します。
襲撃の目的は・・・新政府軍の武器弾薬を強奪することでした。
その知らせを聞いた西郷は「しまった」と、ただ一言つぶやいたという・・・。
どうして、薩摩士族は暴発したのでしょうか??
そして、西郷がしまったとつぶやいた真意とは・・・??
西南戦争はなぜ起こったのか・・・??

襲撃事件以前、日本は異様な雰囲気に包まれていました。
明治9年10月24日、熊本で「神風連」を名乗る士族200人が挙兵!!
今の知事に当たる熊本県令が殺害されます。
その3日後、福岡県・秋月で士族230人が蜂起!!
さらに翌日、明治維新の中心となった長州の萩で300人の士族が挙兵!!
いずれも短期間で鎮圧されたものの、日本中で士族の不満が爆発していました。
原因は、政府が急速に進める近代化政策です。
そこでやり玉に挙がったのは、かつて武士と呼ばれていた士族でした。

明治6年、政府は徴兵制を導入し、士族が独占していた「軍事」を平民に開放します。
真の近代国家になるためには、身分に寄らない国民軍を作らねばならない・・・そう、政府は判断したのです。
自分達の誇りを奪われ、燻る士族たち・・・そんな中、士族たちの視線は鹿児島にいる一人の男に注がれていました。明治維新最大の功労者・西郷隆盛です。
薩長同盟を成立させ、幕末の勢力図を塗り替えた抜群のリーダーシップ・・・
戊辰戦争を勝利に導いた軍事指導者としての才能。
新政府に比類のない存在だった西郷は、明治6年、急速な近代化に異論を唱え、下野していました。
故郷鹿児島に戻って隠遁生活を送っていましたが、影響力は健在でした。
西郷が立てば全国の不平士族が呼応する!!明治政府を危機に追いやることも不可能ではないとみられていました。
西郷は、鹿児島で設立した私学校には、西郷を慕う薩摩士族が集まっていました。
薩摩士族は、維新の立役者だった自分たちが政府にないがしろにされていると憤りを感じていました。
中でも反政府の急先鋒だったのが、桐野利秋。
もともと貧しい下級武士だった桐野は、西郷に認められ、明治新政府の陸軍少将となります。
士族としての誇りを人一倍持っていました。

桐野が政府に不満を募らせる・・・それは、日本の国防に対する強い危機感でした。
この頃日本は、諸外国との間に多くの問題を抱えていました。
北の大国ロシアと樺太・千島の領土問題、朝鮮との武力衝突、清国との間には台湾出兵問題、琉球の帰属問題・・・。日本は、いつ戦争になってもおかしくない緊張状態でした。
外交軍事に精通していた桐野は、徴兵制に基づく平民の軍隊では日本を守れないと考えたのです。
日本の南と北の防衛を確かなものにするまで、徴兵制に依存するのは桐野は反対だったのです。

桐野と志を同じくする士族が、続々と西郷のもとへ・・・!!
その数、1万3000人にのぼりました。
この動きを最も恐れていたのは、新政府の陸軍TOP・山縣有朋でした。
山縣と西郷・桐野は、戊辰戦争を共に戦った盟友でした。
明治政府の大改革・徴兵制を巡っては、浅からぬ因縁がありました。
明治5年、山縣は徴兵制の導入を強く主張し、政財界の説得を行っていました。
そんな時、山縣にスキャンダルが・・・。山縣が陸軍に出入りする商人・山城屋に無担保で公金を貸し付けていたことが発覚します。
徴兵制に反対していた陸軍少将・桐野は山縣を激しく糾弾します。
追いつめられた山縣・・・この時、救いの手を差し伸べたのが西郷でした。

西郷は、日本だけが士族・サムライたちだけで軍事力を持つのは世界の流れからしてだめだと思っていたのでしょう。
徴兵制は望ましくないかもしれないが、承諾を与えたのです。
日本のために徴兵制を容認した西郷・・・しかし、その後の政府は西郷の想いを大きく裏切るものでした。
明治9年廃刀令公布・・・士族たちはサムライの証である刀を奪われます。
さらに・・・秩禄処分・・・士族への給料の廃止を決定しました。
士族たちは、誇りだけでなく、生活の安定をも失うのです。
不満を募らせる士族たち・・・その反乱を恐れ、先手をとろうとしたのが新政府の陸軍TOPの山縣でした。

明治10年1月下旬・・・新政府は汽船・赤留丸を九州に送ります。
狙いは鹿児島にあった陸海軍の兵器工場・・・その中核施設は集成館。
薩摩藩の時代から、製鉄や造船に取り組んだ日本の産業革命の遺産です。
西南戦争当時は、近代兵器の製造拠点となっていました。
記録には、最新式の銃の弾薬を1日に3000発作ることができたとあります。
山縣は、こうした兵器工場が反政府勢力のある鹿児島にあることを危険視し、武器弾薬を運び去ろうとします。
この行動が、薩摩士族の激しい怒りを誘うこととなります。
武器の機械・設備の購入資金は薩摩の士族たちの拠出金から賄われていました。
武器製造機械は自分たちのものだという意識が強かったのです。
それを政府が持ち出すのは泥棒だ・・・という怒りです。
薩摩士族は新政府軍の火薬庫を次々と襲撃!!
士族の反乱を恐れた政府の行動が、かえって彼らを暴発させることに・・・。
火薬庫襲撃事件の知らせを受けて桐野はこうつぶやきました。
「 いまや 皆の激しい怒りは、 矢の弦をはなれ 、剣の鞘を脱した。抑えようにも抑えられぬ・・・」と。

不平士族の期待を一身に集めていた西郷は・・・「しまった・・・」とつぶやいたといいます。
西郷は・・・挙兵に賛成していたのか否か??
「しまった・・・」とは・・・??

西郷は、政府の打倒という気持ちはなかったとは言えません。
その根拠は・・・相次ぐ士族反乱に当たって親友に宛てた手紙・・・
その中で西郷はこう書き記しています。
”一度相動き候わば 天下驚くべきの事をなし”と。
この一文に、政権打倒の意志が込められている??
西郷が「しまった」というのは、明治10年2月の段階で立ち上がらざるを得なくなったことが「しまった」という解釈です。
西郷は、もう少し時間をかけて自分に有利な状況が到来するのを待っていたのです。

いずれ新政府と対決するが、今は時期ではない・・・

それが西郷の真意だったとしても、士族たちを見捨てることはできませんでした。
2月3日、事態はさらに悪化します。
新政府の密命を受けた警察官が士族たちに捕まったのです。
目的は何か??厳しい尋問が行われました。

「西郷の刺殺・・・」

警察官は、激しい拷問の末に西郷暗殺計画を自白します。
2日後の2月5日、西郷以下私学校の面々が、今後の方針を決める大会議が行われました。
以外にも士族たちの検討策は穏健なものでした。
①西郷ら幹部のみが上京し、問いただす
②西郷を認める明治天皇の力を借り、西郷の安全を確保したうえで政府と交渉
いずれも実現すれば、戦争を回避することができたはず・・・。
冷静な意見が検討されていたのです。
その流れを変えたのが、桐野利秋でした。

慎重論は一掃され・・・
1万人を超す若者が、今の政府は悪い・・・変えなければいけないという思いを持っていたら、西郷は英雄を通り越して絶対的な神様となります。
その中では、”敗ける”ということを思いつかないのです。
桐野が檄を飛ばした後、士族たちは熱狂の渦に巻き込まれます。

「何も言うことはなか・・・
 おいの体、おはんらに預けもんそ・・・!!」by西郷隆盛

西郷は最後、自分の体をお前たちに預けるとだけ言ったといいます。
西郷は、何を考えているのかわからないところがあります。
100%説明しないのです。
そして、明治10年2月15日、西郷率いる13,000人の士族が出陣しました。
最初の目標は、新政府軍の拠点・熊本城・・・。
西郷たちは、後戻りのできない戦いに進んでいくのです。

戦場となった熊本城は、九州の新政府軍を統括する熊本鎮台司令部がありました。
2月22日早朝、薩摩軍が一斉攻撃をかけます。
この時、桐野達は新政府軍を打ち破るのは時間の問題だと思っていました。
しかし・・・予想外の反撃をうけ、突破することができません。
西南戦争の初戦・・・熊本城の戦いは、薩摩軍の手痛い敗北に終わりました。
何が勝敗を分けたのでしょうか??

攻撃の3日前・・・薩摩側から熊本鎮台に送られた文章には・・・

「熊本鎮台の兵隊は、西郷大将の前に整列し、その指揮を受けるように。」

西郷はいまだ陸軍大将の地位にあり、鎮台の兵士に命令できる立場にありました。
しかも、熊本鎮台のNo,2樺山資紀中佐は、西郷と同じ町内で生まれ、戊辰戦争を共に戦った男でした。
樺山が寝返れば、戦わずして熊本城下を進軍できる・・・
そう薩摩軍は踏んでいました。
しかし・・・樺山は西郷が私的な理由で挙兵したとして厳しく非難、徹底抗戦の構えを・・・!!
薩摩軍にとっては予定外のことでした。
指揮官の桐野利秋は事態を楽観視していました。
桐野が熊本城を簡単に落とせると思っていたのには理由がありました。
そもそも薩摩は派戊辰戦争を勝利に導いたつわものばかり・・・
伝統の白兵戦術に加え、銃などの近代兵器・・・
さらに、長期戦の準備も万端でした。
兵器工場だった鹿児島の集成館は、薩摩軍の武器弾薬の製造拠点に・・・
士族の戦闘能力に加え、武器弾薬にも不安のない薩摩軍。
対する熊本鎮台の兵士は、徴兵制によって集められた平民たちでした。
樺山もその戦闘経験の乏しさを嘆いていました。
しかも、熊本鎮台の兵力は2500!!
桐野達は自分たちの敵ではないと考えていました。

しかし、戦いは薩摩軍の目論見通りには進みませんでした。
山縣は薩摩軍の動きを察知し援軍を送っていました。
戦闘が始まった2月22日には、すでに東京からの援軍が熊本城に到着していました。

どうして山縣は先手を打つことができたのでしょうか??
それは当時の先端技術・・・モールス電信機でした。
明治2年に東京横浜間で開通し、全国に電信網を・・・!!
九州の情報をすぐに手に入るように体制を整えていたのです。
電柱を立てる手間を短縮する為に、街道の松の木に電線を引きました。
電信を使い、熊本から東京まで僅か1時間足らず・・・
政府軍は薩摩軍の動きをリアルタイムで掴むことができていました。
更に政府は・・・大量の兵士を戦地に送る輸送インフラの整備にも取り組んでいました。
東京から熊本に援軍に向かった者たち・・・
西郷が兵をあげる4日前の2月10日に東京の千代田区を出発。
新橋横浜間を汽車で53分、横浜から海路・・・
2月14日、西郷たちが挙兵した時には、瀬戸内海の広島沖にいました。
この回路の輸送を担当したのは、岩崎弥太郎率いる三菱でした。
三菱は7万人に及ぶ兵士、大量の弾薬・食料の輸送を引き受けました。
西南戦争の戦費・4156万円のうち三菱の輸送船に支払ったのは299万円!!
実に7%の戦費を輸送にあてました。
2月17日午後4時・・・長崎に到着!!
そして、20日正午過ぎに熊本城に入城します。
この時、まだ薩摩軍は熊本城から10キロ離れたところにいました。
熊本城は当初の2500人に援軍900人が加わり、総勢3400人で薩摩軍を迎えることとなりました。

新政府軍は、薩摩軍を迎えるにあたり、綿密な改造を施していました。新政府軍の将校のひとり・・・乃木希典・・・後の日露戦争・旅順攻略の司令官・・・若き日の乃木が作成した熊本城攻防戦の地図には・・・
砲台が四方ににらみを利かせ、策で囲まれた防御陣地・・・銃を持った歩兵が待ち構えていました。
近代的な要塞として造りり替えられていた熊本城・・・改造は細部にまで及んでいました。
防御陣地の石垣の一部が取り壊され斜めにしていました。
地形を利用して歩兵の狙撃場所を作ったのです。

戦争の始まる3日前に新政府軍が自ら火を放ったとされています。
幕末から高い建物は大砲の目標になるので、邪魔だという判断です。
目立つ天守はない方がいいということで焼いたというのが有力です。
薩摩軍を迎え討つためならどんな犠牲をもいとわない覚悟の新政府軍・・・
2月19日には城下町に火を放ちます。
射界の清掃・・・薩摩軍を攻撃する為に邪魔な建物を焼き払い一掃したのです。
戦後、家を焼かれた人々が熊本県に訴訟を求めて書類を提出しています。
焼かれた家の数は9000軒。
新政府軍は、民衆に犠牲を強いても万全の態勢をとったのです。
なりふり構わぬの防御計画に寄って難攻不落の熊本城。
桐野が甘く見ていた新政府軍の兵士たちは、熊本城に立てこもり、粘り強く抵抗します。
薩摩軍は戦闘の始まった22日の夜に早くも方針の転換を迫られます。

政府軍の援軍が北から接近中との情報を得た薩摩軍は、3000の兵を熊本城に残し、主力は北上することを決定します。
熊本鎮台は自分たちに従う筈だという見通しの甘さ・・・たとえ戦闘になっても勝てるという奢り・・・
西南戦争の初戦・・・熊本城の攻防は、薩摩軍の手痛い敗北に終わりました。
熊本城で大敗を喫した薩摩軍、その後の戦局はさらに混迷を極めていくこととなります。
負けたことで、東京へ北上するという本来の目的が達成できなくなってしまいました。
挙兵の在り方、それ自体がここで打ち止めになってしまうのです。
この戦争は、薩摩軍が守りに回ってしまうと、何のための戦いになるのか・・・??
本来の目的と、戦争そのものが乖離する・・・その転機となったのです。

度重なる敗北で、東京に至る道を絶たれた薩摩軍・・・根本的な戦略転換を迫られていました。
薩摩軍が目をつけたのは、熊本城の北にある田原坂・・・
西南戦争で最大の激戦が行われた場所です。
小高い丘が連なる田原坂は戦略の要所で、大地の中央を全長1.6kmの道が熊本城へと続いています。
戦うこと17日間・・・両軍の死者3500人!!
どうしてこれほどまでの犠牲を出すこととなったのでしょうか?
それは、政府軍の指揮官・山縣有朋の誤算から始まりました。
2月25日、新政府軍を率いる山縣が九州に上陸します。
薩摩軍が田原坂に陣を張ったと知った山縣は、更なる援軍を待ってから攻めるという慎重策をとります。
その脳裏にあったのは、全国の不平士族の動向でした。
新政府軍が万にひとつも敗れれば、全国各地で反乱がおこる・・・!!そう考えたのです。
しかし、この慎重策が裏目に出ます。
3月4日、援軍を得た山縣は13,000の大兵力で田原坂の攻撃を命じます。
しかし、そこに待ち受けていたのは薩摩軍の激烈な反撃でした。
新政府軍の兵士が次々と倒れていきます。
薩摩軍は新政府軍が援軍を待っている間に、堅牢な陣地を築いていたのです。
熊本城を救援する為に兵隊・物資・大砲を熊本城まで運ぶ場合、通す道が田原坂しかなく、政府軍にとっては生命線の道を薩摩は寸断していたのです。

今までは、この田原坂の戦いは一本道をめぐる攻防戦だと思われてきました。
しかし、最新の調査から違った実像が見えてきました。
従来戦場とは思われなかった場所からたくさんの薬きょうと小銃弾が発見されています。
全部で3000点も・・・。
調査の結果、薩摩軍の陣地は田原坂全体に広がっていました。
田原坂の戦いは、一本道ではなく、大地全体をめぐる壮絶な攻防戦だったのです。
巨大な要塞と化した田原坂・・・新政府軍は一本道を避け、大地の斜面を登って攻撃しようとします。
しかし、いかなる攻撃もききません・・・

”賊は、天然の要地に土塁を築き、我が軍の死傷者は非常に多い
 生還する者はまれである”

この不利な状況を覆すために策は・・・??
新政府軍は、別動隊を編成し海路で吸収沿岸を南下、薩摩軍の本拠地・鹿児島を襲撃したのです。
九州沿岸の制海権は、新政府軍・海軍のTOP・川村純義中将が握っていました。
船で自由自在に軍を動かすことができた新政府軍・・・
攻撃目標は、薩摩軍の武器弾薬製造拠点の集成館でした。
政府軍はここから主力兵器であるスナイドル銃の弾薬製造機械を強奪します。
スナイドル銃は元込め銃で、その弾薬は精密な製造機械がなければ作ることが困難でした。
弾薬の製造機械を奪われた薩摩軍は、止む無く旧式のエンフィールド銃を使うこととなります。
その弾丸は、戦場で拾った弾を溶かして作ることができました。
問題は銃の砲身から火薬を入れ、弾を押し込む前込め銃だったのです。
スナイドル銃に比べ、はるかに手間がかかりスピードが低下しました。
新政府軍は、輸送インフラで国内外からスナイドル銃の弾薬を集め、九州に送り込みます。
物流について圧倒的に優位に立った新政府軍!!
田原坂の戦いで使った銃弾は1日30万発にのぼりました。
しかし、その後も薩摩軍の堅固な陣地を攻略することはできませんでした。

新政府軍の苦戦の理由・・・それは、標高100メートルの田原坂の高さでした。
薩摩軍の陣地のすべてが見通せないので、正確な砲撃ができません。
さらに、戦いの最中の天気は殆どが雨・・・
近代戦のやり方として・・・大砲を打ち込んで相手を怯ませ、兵対が突撃していく・・・。
しかし、どこに敵の陣地があるかわからないので、むやみやたらに撃ってしまう・・・
結局、肝心なところに当たっていないので、兵隊が攻め込んで行ってもすぐに逆襲されるのです。

泥沼の様相を呈する田原坂の戦い・・・新政府軍は戦局打開のために田原坂を見下ろせる場所を必死に探します。
それが、田原坂の南西にある横平山です。
横平山の標高は、田原坂より40m高い144m!!
薩摩軍の陣地も一望することができます。
新政府軍は横平山を攻略しようとします。
どこに兵を配備して、どこから攻めれば効率的か・・・??

3月9日、物量に任せ力推しで、横平山にいる薩摩の陣地にとりつこうとする新政府軍・・・
迎え討つ薩摩軍はサムライの本領を発揮!!
両軍が入り乱れる白兵戦!!
士族の猛攻の前に平民の新政府軍は成す術もありません。
苦戦を強いられた新政府軍・・・政府の脳裏に浮かんだのは、戊辰戦争を勝利に導いた英雄・西郷隆盛の影でした。
新政府軍の密偵の報告書には・・・
「賊軍の様子が整然としているのは、西郷自身が指揮を執っているからだ」と。

実は西南戦争を通じて、西郷が最前線で指揮を執ることは殆どありませんでした。
カリスマ西郷に身に何かあれば、寄せ集めの薩摩軍は求心力を失い瓦解する・・・それを恐れ、遠く離れた本陣にいました。
戦場に出てもいない西郷に怯え、足並みがそろわなくなってきた新政府軍・・・士気の低下は顕著でした。

3月11日、手詰まりとなった山縣に、提案が持ち込まれます。
西南戦争には、正規軍とは別に6,700人の警察官が動員されていました。
山縣に持ち込まれた提案は・・・士族出身の警察官で薩摩軍の白兵戦術に対抗しようとするものでした。
この頃、警察官の多くは物資の輸送や警備など、軍の後方支援に充てられていました。
戦いに参加できずに忸怩たる思いの警察官には、特別部隊の結成は、渡りに船の提案でした。
しかしその一方、平民主力の軍隊を目指して来た山縣には受け入れがたいものでした。
封建身分を前提とした武士を新たに組み込むのは、どうしても慎重にならざるを得ない・・・!!

3月11日に行われた総攻撃も失敗・・・ことここに至り、山縣は決断します。
集められたのは100人の士族出身の警察官でした。
その武器は、現地で急遽集められた日本刀ただ一振り・・・。
抜刀隊の誕生です。
そして、3月14日、抜刀隊が戦線に導入されます。
驚くことに、抜刀隊の多くは薩摩出身の士族でした。
彼等は、西郷というカリスマに命を預けるのではなく、警察官として政府に忠誠を誓う道を選んだのです。
薩摩士族同士が殺し合う死闘・・・政府の記録は戦いのすさまじさをこう記しています、

”抜刀隊は、一斉に突撃して勢いよく賊の陣地に入り、たちどころに8、9人を倒した”

抜刀隊は薩摩軍と互角以上に渡りあい、新政府軍は息を吹き返します。

3月15日、新政府軍は横平山の攻略に成功!!
しかし、抜刀隊の被害も甚大でした。
死者33人、重傷者50人・・・傷を負わないものはいないという惨状でした。
武士として、身を捨てて忠義に生きる・・・死に場所を常に意識する武士でした。
維新から約10年経って、再び日本刀で戦いの場所に行くことを、身の誉と考えた人々も、決して少なくなかったのです。

3月20日、降りしきる雨の中、田原坂の最後の決戦が・・・!!
午前6時、新政府軍の猛攻撃が始まりました。
見晴らしのいい横平山を占拠することで、薩摩軍の全体像を把握した新政府軍は、田原坂の南から回り込みます。
居を突かれた薩摩軍の防衛ラインは、一気に崩れます。
17日間の激闘の末、新政府軍は田原坂を征したのです。
両軍の死者は併せて3500人、山縣の誤算から始まった西南戦争最大の激戦・・・田原坂の戦い・・・。
新政府軍にとって、多大な犠牲と引き換えとなった苦すぎる勝利でした。

抜刀隊を組織する時に大切なこと・・・
ひとつは薩摩藩内のことがあります。
薩摩藩の士族は、鹿児島城下に住む城下士と、地方の郷村に住む外城士がありました。
伝統的に対立をしていました。抜刀隊に参加した警察官には外城士が多く含まれていました。
結果的に、私学校に行ったのは城下士・・・西郷の周りにいるのは城下士。
外城士は、東京に行って警察に入る・・・外城士は、城下士憎しということもあり外城士の中から抜刀隊を編制すると、西郷軍の主力をなす城下士に対する日ごろの怒り・・・
もう一つは、戊辰戦争の負け組の東北諸藩の兵隊たち・・・
そういった人々が、抜刀隊に志願していきました。
いろんなものがないまぜとなっていたのです。

敗北が続き、もはや勝利を見通せなくなった薩摩軍・・・
田原坂の死闘から3週間後の4月14日、熊本城に新政府の援軍が入り、54日ぶりに包囲網が解かれました。
しかし、九州各地で拡大する戦火・・・。
どうしたら戦いをやめられるのか・・・??

西南戦争の最終局面・・・山縣の目的は、薩摩軍の総大将・西郷を捕らえることにありました。
新政府軍は、薩摩軍を追いつめるため、九州全土に通信網をはっていました。
後れを取った薩摩軍は、新政府軍の追撃を受けながらも転戦し、延岡に・・・!!
遂に西郷を捕捉した新政府軍・・・!!

薩摩軍の兵力は3500!!全盛期の1/10でした。

”官軍に降参する者は殺さず”というビラが・・・!!
薩摩軍は、兵士の逃亡、降伏が相次ぎ、軍としての体裁が整わなくなってきていました。
8月15日、延岡の和田越で新政府軍の総攻撃が始まります。
薩摩軍の陣頭に立っていた西郷・・・。
そこで目にしたのは、徴兵制によって動員された平民たちの戦いぶりでした。
半年間にわたる実戦で鍛えられた新政府軍。
薩摩士族を前にしても怯まない、精強な兵へと変わっていたのです。

「こいでもう・・・日本も大丈夫じゃ・・・」

西郷はそうつぶやいたといいます。
8月16日、西郷はついに薩摩軍の解散を宣言します。
戦争中、常に傍らに置いていた犬を山に放つと、少数の味方と共に、新政府軍の包囲網をかいくぐり、山中へと行方をくらませます。
当時の西郷の声望、人気の高さを考えたら、逆転があり得るかわからないという恐怖が新政府軍にはありました。
あまりにも西郷の存在が大きすぎる・・・。
西郷の死を本当に確認するまでは、逆転されるという不安は、政府関係者にはあったのです。
西郷の居場所を掴めない新政府軍は、九州全土を捜索します。

しかし、西郷の行方は一向にわかりません。

消息を絶ってから2週間後の9月1日、情勢は大きく動きます。
すでに政府軍の占領下にあった鹿児島に西郷があらわれたというのです。
西郷は、300の手勢を率いて、新政府軍の陣地を突破、町の中心部にある城山に立てこもりました。
鹿児島で終止符を打つことが、西南戦争の締めくくりの場・・・。
今度こそ、西郷を取り逃がすまいと、4万の大軍勢で包囲網を敷く山縣。
西郷たちが潜伏していた城山の洞窟・・・すでに死を覚悟していた西郷と、その命を何としても救いたい部下たち・・・
決断の時は迫っていました。

9月23日、薩摩軍の幹部2人が西郷の助命嘆願のため、新政府軍を訪れます。
二人に対応したのは、海軍トップの川村純義。
川村は薩摩出身で西郷の親戚にあたりました。

しかし・・・
「賊名をもって征討なす!!」と述べ・・・こう漏らしました。
「西郷とは兄弟のごとくし
 家族はこちらにあり 
 心を残さず、潔く降伏してほしい」と。

潔く降伏してほしい・・・家族の面倒を見る・・・それが川村のメッセージでした。
川村の言葉を聞いた西郷は一言こうつぶやきました。
「回答はいりもはん。」
川村の降伏勧告を断った西郷・・・その西郷にもう一通の手紙が届けられました。
送り主は山縣有朋・・・かつて戊辰戦争を戦った盟友・・・。
西郷に宛てこう書き記しました。

「願わくば、あなた自身の手で命に決着をつけ、両軍の死傷者を救ってほしい」

山縣が西郷に求めたのは自決でした。

無益な戦いを回避してほしいと・・・!!

自決というのは、当時の軍人にとって名誉のある死でした。
西郷を思う気持ちは山縣にはありました。
手紙の最後をこう結んでいます。

「何卒、私の心中の苦悩を察してほしい
 涙をふるって これを記す」

西郷は、山縣の手紙を読み終わると、それを大事に懐にしまったといいます。

そして9月24日早朝、新政府軍による城山への最後の攻撃が始まりました。
西郷の選んだ道、それは部下たちと突撃することでした。
そして・・・被弾!!
倒れた西郷を桐野が介錯しました。
その後、桐野も西郷の後を追うように戦死しました。

西郷隆盛の死によって、7か月にも及んだ西南戦争は幕を下ろしました。

西南戦争は何をもたらしたのか??
いくら士族集団が精鋭を揃えていても、武器を持っていても、最終的に近代戦では勝てない・・・。
士族の退場がどんどん促されていきます。
国民軍に転換していく大きなきっかけとなりました。

西郷の死は・・・??
西郷は、西南戦争で悲劇的な死に方をします。
元々西郷は国民的人気があった上に、レジェンド・・・伝説になっていく。
昔から国民に愛される条件がそろっていました。
西南戦争が終わると、西郷はなぜか反政府の英雄となっていました。
虚像を庶民が作り上げて、「西郷さん」という親しみを込めて呼び始めることで、だんだんと国民的な英雄になっていくのです。

西郷隆盛はすべての期待の星・・・
政府に対して物申したい人にはそのことに対する象徴。
自由を言いたい人も、西郷さんを担ぐ。
多くの立場の人が、西郷隆盛こそ英雄というのは、未完であるための一つの結果です。
いろんな人が、西郷に自分の思いをかき込むことができる・・・。

サムライが大きな顔をしていた封建体制が、西郷軍の敗北で終わり、それに伴い中央集権国家が成立しました。
そして・・・仁義に忠実な武士道精神が滅んでいくようになるのです。
日本人の在り方が、この戦争による西郷軍の敗北で消えていく・・・合理的なものの見方が幅を利かせていく時代になっていくのです。

南洲墓地・・・西南戦争で命を落とした薩摩軍の将兵2023人が葬られました。
サムライたちの魂を導くようにそびえる西郷の墓・・・
その傍らに、寄り添うように桐野利秋が眠っています。

西南戦争のあと、政府内で確固たる地位を築いた山縣有朋は、軍の強化に邁進します。
「軍人勅諭」には・・・
軍人が絶対な忠誠を誓うのは天皇ただ一人。
国家の危機に際しては、進んで命を投げ出し犠牲となることが理想とされました。
徴兵制による国民軍の成立によって、諸外国と戦う準備を整えた日本・・・
この後、山縣ら軍の首脳部は、日清、日露の戦争を主導していくこととなります。

ラストサムライ・・・西郷隆盛の死を超えて、富国強兵への道をひた走った日本・・・
近代国家となるために何を得、何を失ったのか?
その問いは、今の私たちに突き付けられています。

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明治4年(1871年)7月14日、日本史上屈指の大改革が断行されました。
およそ、270年にわたり地方の領主だった藩が姿を消し、中央政府が治める県が置かれました。
廃藩置県です。
これにより、日本の政府権力は中央政府に一極集中することになりました。
この廃藩置県は、藩主への事前通達はなく、僅か6日の間に実行された電撃作戦でした。
実行の最後の決断をしたのが、維新三傑のひとり・大久保利通でした。
しかし、大久保は廃藩置県をするかどうか、最後まで悩み続けていました。
出来たばかりの明治政府は、経済力、軍事力ともに決定的に不足し、成功させる実力がなかったのです。
無理矢理断行すれば、諸藩は反発・・・日本は再び血みどろの内戦状態になるかもしれない・・・
躊躇すれば・・・海外からの脅威に立ち向かえないかも・・・??
どちらをとってもいばらの道でした。

薩摩藩、長州藩を中心とする新政府軍と旧幕府軍が戦った戊辰戦争・・・。
およそ1年半の激戦の末、新政府軍が勝利を治めました。
幕府に代わって新しい国づくりを担うこととなった新政府軍の中心となったのが薩摩藩だった大久保利通でした。
その真っ先の課題は・・・中央政権でした。
アジアでの西洋列強の植民地化から日本を守るために、天皇のもと、国を一つにまとめる必要があったのです。
しかし、大久保の前には大きな壁が。。。全国に270あまりある藩でした。
それぞれの藩は、財力や兵力をそれぞれ保有し、それらはすべて藩主のものでした。
中央集権を推し進めるためには、財力や兵力を新政府に集めなければなりませんでした。
長州藩出身の木戸孝允と共に出した案は・・・
版籍奉還(版・・・土地、籍・・・人民)・・・まずは、土地と人民を天皇に返上させようと考えました。
しかし、版籍奉還は、藩主にとっては、既得権を喪失すること・・・諸藩が素直に応じる保証はない・・・。
大久保出身の薩摩藩の反応次第では、血みどろの戦いになるかもしれない・・・。

薩摩藩は、集成館事業を行っていました。
当時の日本の最先端の軍事工場で、大量の木炭を燃料に、大砲づくりを行っていました。
西洋式の産業技術を研究し、大砲や火薬の製造、軍艦の整備なども行っていました。
その結果、薩摩は明治に入っても、強大な軍事力を持っていたのです。
もし明治政府の強引な政策に薩摩が反発すれば・・・またもや戦乱に??
たくさん残る氏族の不平が反乱の元になる事を新政府は恐れていたのです。
薩摩をはじめとする諸藩を刺激せずに穏便に改革を進めるためにはどうすれば・・・??
土地と人民を返上させ、再交付をにおわせることにします。
さらに土地と人民の返上を迫られる藩主には、魅力的な役職を・・・知藩事です。
天皇が任命する地方長官のことで、地方を支配する権限はこれまでと変わらない上に、天皇のお墨付きが就くので、大きな名誉なことでした。
大久保たちの狙いは見事に当たり、版籍奉還に魅力を感じた藩主たちはこれに応じるのでした。
その結果、大きな反発もなく、土地と人民は天皇が所有するものに。。。
大久保たちは、少しずつ江戸時代からの地方のあり方を変更し、中央集権の第一歩に成功したのでした。

政府の発言力を強め、影響を全国に及ぼすためには、強力な後ろ盾が必要・・・!!
大久保は、薩摩藩の力に目をつけます。
カリスマ的な西郷隆盛、藩に絶大な影響力を持つ島津久光。。。
二人を新政府に参画させようと試みました。

1870年1月、大久保は、自ら説得のために鹿児島へ・・・
逆風は覚悟していたものの、新政府への風当たりは予想以上のものだったのです。
久光の説得は難航・・・政府の中央集権に協力すれば、県独自の力が失われてしまう・・・。
久光は、大久保の意見に全く耳を貸しませんでした。
親友・西郷隆盛に至っては、大久保たち新政府を痛烈に批判!!
西郷は、政府の腐敗ぶりに不信感を抱いていたのです。
高額な月収を取り、かつての大名屋敷に我が物顔で住んでいるが、何の成果も揚げていない・・・これでは、泥棒と同じである・・・と。。。

地方のやり方を重視する側からみると、政府のやり方は間違っているのではないのか・・・??
天候不順の上に、政府は財源確保のために、容赦のない取り立てを行っていました。
ふるさと薩摩の痛烈な拒絶・・・
そこで、強制的に藩制を制定。。。
財政のうち・・・10%=知藩事の給料
         18%=軍事費(うち9%は政府に上納)
         72%=藩の運営経費
政府の統制を強化しようとしたのです。

ところが・・・激しく拒絶したのは薩摩藩でした。
薩摩の代表は、鹿児島へ帰ってしまいます。
更に大事件が・・・薩摩藩士の横山安武が、政府の批判を書状に認めて自害!!
これが世間を騒がせ、さらに政府への風当たりがきつくなります。
そして、国外にも衝撃を与えます。

大久保は、再度薩摩藩を説得しようと試みます。
1870年12月、再び鹿児島を訪れます。
さらに関係は悪化していました。
ところが・・・薩摩藩は意外な・・・政府への協力を約束したのです。
西郷隆盛の新政府への参画、3000人の薩摩藩士族たちが御親兵として供出されることが決まりました。
どうして薩摩藩は態度を変えたのでしょうか??
御親兵・・・御親兵の生活費は、政府が保証することで、薩摩藩の財政負担が軽くなったのです。
戊辰戦争から帰ってきた士族たちは、やることもなくくすぶっていました。
彼らに新しい役割を与えると・・・沈静化もされる・・・一石二鳥のことでした。
大久保は、政府と薩摩藩双方に、メリットのある方法を見つけ出したのです。
薩摩藩の協力を得た新政府は、中央集権化に向けて大きな力を得ることに成功したのです。

強力な後ろ盾を得たにもかかわらず、なかなか先に進めません。
中央集権に向けての改革と関係のないところで、大久保と木戸が激しく対立。
大久保は、政府の組織改革を提案・・・しかし、木戸は大久保の案を激しく批判していたのです。
その上、政府の人事案においても二人は対立!!
度重なる対立に、大久保は爆発寸前・・・!!

「動かすべきを動かさずして、動かすべからざるを御動かし、ムチャクチャの御裁断
 なにぶん今日の姿にては、奮発する気も全く失せ果て申し候」

両者の対立はひと月ほど続き、政府は分裂の危機を迎えていました。
その結果、中央集権に向けた改革は置き去りにされてしまいました。

そのことで、大久保が追いつめられる悪循環が発生します。
軍事運営の現場に近い中級官僚による突き上げが始まったのです。
彼らは、政府内の混迷で中央集権が棚上げされることで、軍事・経済の改革が止まることに危機感を強めていました。
今すぐに廃藩置県を断行しなければ・・・!!
そうすれば、廃藩置県を行えば、中央集権が一気に進む??
もし、廃藩置県が断行されれば、藩は無くなりその兵力と財源は国のものとなる・・・これを天皇の命令の元に一気に・・・!!
木戸孝允、井上馨がこれに共鳴!!
そして、まさかの西郷隆盛までもが廃藩断行に同意したのです。
中央集権が足踏みのまま、現状でいる事には西郷も限界を感じていたのです。

「私情においては忍びがたいが、廃藩は天下の世運であり、この流れは最早、人の力では止めることができない」

木戸と西郷、廃藩断行に同意し、残るは大久保のみ・・・
西郷は意見を求めますが・・・ゆっくりと慎重に進めるべきだと考えて来た大久保にとっては、青天の霹靂でした。
どうする・・・??

中央集権が進まぬ今、無策でいては、国の存続すら危うくなってしまう・・・!!
大久保はついに決断します。
「篤と熟考 
 今日のままにして瓦解せんよりは、寧ろ大英断に出て瓦解いたしたらん」
大久保は廃藩置県断行に同意する決意を固めたのです。
7月9日・・・早速断行に向けた密議が・・・出席者は、大久保をはじめとする薩長出身の一部の官僚たちでした。
この計画は、明治維新に貢献のあった諸藩や岩倉具視にさえ知らされることはありませんでした。
実行に当たっての懸案事項は・・・諸藩からの反発!!
井上馨は・・・
「多少の動揺はあると覚悟せねばならぬ
 その時は、兵を用いる必要が生じるかもしれない
 その覚悟はよろしいか」
西郷は・・・
「兵は、我々が引き受ける」
場合によっては血が流れても仕方がない・・・軍事力の行使もやむ負えない・・・。
大久保も不退転の決意で大改革に臨むことになりました。

1871年7月14日、諸藩の知藩事に対し、廃藩置県の勅令が下ります。
天皇の命令という強制力を伴った通達でした。
その結果、全国に260余りあった藩はすべて廃止・・・。
県が置かれることになりました。
密議からわずか6日・・・疾風迅雷のごとくの電撃作戦でした。
急転直下の改革劇に諸藩は・・・??

大久保たちの心配をよそに・・・反発は起きませんでした。
どうして廃藩置県を素直に受け入れたのでしょうか??
廃藩を積極的に受け入れた藩もあったのです。
七戸藩は・・・東京からはるか遠方にあり、不毛の土地がおおく、年貢もあまり集まらない・・・。
このうえは七戸藩を排し、他藩の管轄下に入れて欲しかった。。。
廃藩置県になると、借金は国が肩代わりしてくれました。
抵抗があったものの・・・名より実をとった藩が多かったのです。
廃藩置県を受け入れると・・・知藩事は収入が保障され、安定した生活が得られます。
華族の称号が与えられる・・・武士から見たら、憧れの公家と同じ称号がもらえる。。。
反対する理由はありませんでした。
渡りに船だった可能性も・・・??
多くの知藩事たちが、廃藩置県を厳粛に受け止めるように藩士たちに説いています。

私情を捨て、日本という国に報いる・・・
明治の人は流血を避け、中央集権を成し遂げる重要性を一人ひとり深く理解していたのです。
大久保は、この時の心境について何も残していません。
この反応をどのように受け止めたのでしょうか??
明治政府は悲願だった中央集権の実現に成功し、これを足掛かりに地租改正、徴兵令と、改革が進み、日本の近代化が一気に幕をあけます。



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