日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:明治維新

レンズが撮らえた幕末明治の女たち

新品価格
¥1,728から
(2017/2/18 06:03時点)



かつてアメリカでBrilliant Womanと呼ばれた女性がいました。
彼女の生きた時代は文明開化に沸く明治初期。
陸蒸気にガス灯・・・急速に進む西洋化。
その象徴として作られたのが鹿鳴館でした。
毎夜行われる舞踏会・・・そこで鹿鳴館の華と言われたのが陸奥亮子でした。
夫は剃刀大臣と言われた陸奥宗光。
日本政府の悲願、不平等条約改正を成し遂げた第8代外務大臣です。

東京銀座七丁目・・・金春通り。
かつてこのあたりは弁柄格子の芸者屋が軒を連ねる花街でした。
幕末には武士達、明治維新後は新政府高官が御贔屓。
深川・柳橋をしのぐ勢いだったとか・・・
そんな花街の売れっ子芸者が亮子でした。
彼女が芸者となったのは貧しさゆえでした。

亮子は幕末の1856年11月、江戸に生まれました。
父は播磨国龍野藩の200石取りの藩士・金田蔀、母・添機。
しかし、母が金田の正妻でなかったために、亮子たちは父と暮らせず、母、姉の三人で貧乏に暮らしていました。
昼は町家の娘に踊りを教え、夜は裁縫・・・
生活のために、母は必死で働きましたが、ついに倒れてしまいました。
亮子は江戸藩邸に住む父に懇願します。
しかし、亮子たちが父からの援助を受けることはありませんでした。
母の病は一向に回復せず・・・困窮していく一家三人・・・。
見かねた近所の人が亮子の勧めたのが、芸者屋への年季奉公でした。
9歳と幼い亮子でしたが、来る日も来る日も、掃除洗濯、炊事とこき使われ・・・その合間に、踊り、三味線、江戸小唄などを叩き込まれます。
芸事の師匠たちは気が荒く、怒られたり竹の棒でたたかれたり・・・
それでも母と姉のために、亮子は耐えました。
そして時代は明治に・・・1871年(明治4年)。。。
16歳となった亮子は芸者・小鈴としてお座敷デビューします。
小鈴の名は、その美貌と共に知れ渡り、瞬く間に銀座一の芸者に・・・。
しかし、花街に染まることはなく、身持ちが固く、男嫌いの意地を通しました。
そんな彼女がただ一人心を許した相手は・・・後に外務大臣となる陸奥宗光でした。
陸奥は、1844年、紀州藩士の六男として生まれますが、15歳で脱藩。
江戸に出ると幕臣・勝海舟の知遇を得て、坂本龍馬の海援隊に加わります。
貿易で手腕を発揮する陸奥を龍馬は高く買っていました。
「(刀を)二本差さなくても食っていけるのは、俺と陸奥だけぜよ」by龍馬

明治になると・・・陸奥は、新政府の重鎮・岩倉具視の推挙の世って、外国事務局御用掛となります。
当時、日本は大きな外交問題を抱えていました。
幕末に結んだ欧米との不平等条約の改正に苦心していました。
治外法権の撤廃、関税自主権の獲得・・・それが、明治政府の悲願でした。
海援隊時代に貿易を担当して交渉になれていた陸奥は、政府の期待の星だったのです。
亮子と出会った頃、陸奥は神奈川県令となっていました。
上客のひとりとなった陸奥・・・男嫌いで身持ちの堅い亮子・・・
1872年5月二人は結婚。
この時、陸奥29歳、亮子17歳でした。

陸奥は亮子と出会う3か月前に前妻を亡くしていました。
3歳の広吉、2歳の潤吉という二人の子供がいました。
結婚の翌年、亮子は長女・清子を出産。
18歳にして3人の子供の母となったのです。
さらに陸奥の両親とも同居。
姑は気難しく、元芸者の亮子を気に入りません。
特に食事の作法、味付けにはうるさかったとか・・・。
ひたむきに尽くす亮子ですが・・・順調に出世していた陸奥が投獄されてしまいます。
1874年1月、新政府の状況に不満を抱いていた陸奥は、辞職し野に下ります。
薩長が幅を利かせている新政府では、紀州藩の陸奥は肩身の狭い思いをしていました。
日本人という観念だった陸奥・・・薩長が政治を独占しているので、政治が滞っていたのを厳しく批判しています。
1875年政府に戻りますが・・・元老院議官という有名無実なポストでした。
そんな中、西南戦争が勃発!!
鹿児島の私学校の生徒が、西郷隆盛を擁して挙兵!!
薩摩対官軍の1万人以上の死傷者を出す大激戦となりました。
この西南戦争に乗じて土佐の立志社も挙兵を企てているという噂が・・・立志社は、板垣退助を中心とする自由民権運動の政治結社です。
そこに、陸奥も通じていたのです。
立志社社員たちが次々と逮捕されている中、捜査の手は陸奥にも・・・!!
今日か、明日か・・・??ついに・・・
1878年6月10日、立志社の政府転覆計画に加担している疑いで逮捕されてしまいました。

夜を徹して厳しい尋問が行われていると・・・
陸奥は、結核を患っていたので、いつ、再発してもおかしくありませんでした。
尋問は夏になっても続きます。
陸奥が禁固5年の計を受け、山形監獄に送られた後も、亮子の心労は尽きません。
食事に毒を盛られるのではないか・・・??

そのため、陸奥は、監獄の食事にはほとんど手をつけませんでした。
山形の知人が差し入れるものを食べていたのです。
収監された翌年、もちと黒砂糖が振る舞われたときも、周りの囚人たちが食べて、毒がないのを確認してからようやく手を付けたと言います。
この時、亮子は子供三人と姑を抱え、東京で陸奥の友人宅に世話になっていました。
女子供では危ないということで、あらかじめ、陸奥が手配していたのです。
姑と子供たちの面倒を見ながら、日用品を送る日々・・・
しかし、山形は遠く、面会に行くことはできません。
結婚して6年・・・夫のいない生活をどう生きていくのか・・・??
それを支えたのは、夫からの獄中からの手紙でした。

亮子は知人の紹介で出会った後藤又兵衛に陸奥の世話を頼みます。
山形監獄の近くで旅館をしていた後藤は、食事や日用品の差し入れなど、陸奥の世話をしてくれました。

そんな中、監獄で火災が発生!!
亮子のもとに、陸奥が焼死したとの知らせが・・・!!
しかし、これはデマで・・・1879年11月、伊藤博文によって、安全な宮城監獄に移送されました。

1883年1月4日、特赦で放免される陸奥。8か月の刑期を残してのことでした。
帰ってきたとき・・・ひどくやつれ・・・しかし、僅か1年で亮子に家族を託し外遊に・・・!!
その理由は・・・
①自由民権運動に巻き込まれるのを避けるため
②欧米諸国の憲法や行政を学ぶため
2年5か月もの外遊・・・その間陸奥は、亮子に50通以上の手紙を認めています。
ついに夫が帰国!!
初代内閣総理大臣に就任していた伊藤博文の知遇を得て外務省に出仕。
それに伴い、亮子は華々しく社交界にデビューします。

その3年前に1883年、国賓や外交官を接待するために、日本初の迎賓館・鹿鳴館が完成。
外務卿である井上馨が日本政府の悲願である不平等条約改正に向けて国の威信をかけて作りました。

鹿鳴館で夜ごと開かれる舞踏会で、主役はきらびやかに着飾った女性たちでした。
当時のドレスは・・・バッスルスタイル。
見た目は優雅ですが、コルセットなどつけたことのない日本人にはとても窮屈なもので、動くたびに苦痛が伴いました。

欧米人に嘲笑されながらも、鹿鳴館の華と言われた女性たちもいました。
井上武子、戸田極子、陸奥亮子もその一人でした。
イギリスの外交官アーネスト・サトウは・・・
「陸奥の二度目の夫人は、若くて大変な美人。
 涼しい目と素晴らしい眉だ。」
サトウは25年間、日本にいましたが、容姿を褒めた女性は亮子だけです。
しかし、舞踏会が条約改正につながることなどなく・・・鹿鳴館を舞台にした井上の外交は、西欧諸国の顔色を窺うだけの媚態外交と言われるまでに・・・
1887年井上馨外務大臣を辞任。
鹿鳴館も、国辱的建物として歴史の表舞台から消えていきました。

鹿鳴館外交失敗の代わりに、条約改正の大役を任せたのが陸奥宗光でした。
1888年5月20日、陸奥宗光は特命全権公使としてアメリカ・ワシントンに赴任することに・・・。
その使命は、日本の悲願である不平等条約の改正でした。
治外法権の撤廃と関税自主権の獲得でした。
亮子は長女の清子を伴い宗光について渡米!!
ワシントンに着くや否や、当時のクリーブランド大統領に謁見。
特命全権公使妻としての生活が否応なしに始まりました。
公使館では夜ごとパーティー。要人の訪問は、数か月で1200回!!
精力的に社交活動を行う亮子。
ドレスを着こなし、その気品ある姿は若々しく・・・娘とは姉妹のようだったと言います。
現地の新聞にも・・・陸奥夫人は、最も美しい日本人女性と書かれました。
亮子は人気者となり、国務長官や政財界の名だたる家々に招かれます。
しかし、亮子がアメリカでもてはやされたのは美しかっただけではなく・・・その教養からでした。
新聞を隅々まで読み、読書を欠かさず・・・
陸奥は、近いうちに自分が政治の要職に就くであろうと思っていました。
なので、亮子に社交界に出ても引けを取らないように、多くの教養を身に着けさせようと思っていたのです。
宗光の期待に応えようと、一生懸命勉強の日々を送っていたのです。
①完璧な英語を習得していた。
②日本の文化の奥深さを紹介した。
琴を披露し日本の魅力をアピール、日本の文学も英訳。。。
毎日2時間英訳をしていたそうです。
日本が文明後進国でない事・・・日本が外国と対等に渡り合えるということを証明しようとしていました。
日本公使館の内装も、和装にし、日本をアピールしていました。

まさにbrilliant!!
当時のアメリカの新聞でも絶賛され、社交界の華となっていきます。
陸奥は、条約改正に向けて、盛んに駆引きをしていました。
1888年、メキシコと対等な修好通商条約を締結。
日本にとって初めての対等の通商条約となりました。
帰国後・・・第二次伊藤博文内閣外務大臣となった陸奥は・・・
1894年イギリスとの条約改正に成功!!
これを突破口に、アメリカ、ロシア、ドイツ、フランス・・・と、条約改正を実現!!
不平等条約を結んでいた15か国すべてと条約改正を成し遂げることとなります。

夫婦は道連れの旅人・・・亮子は夫を支え続けたのでした。
1895年6月、亮子38歳・・・
高熱を出して倒れた宗光の療養のために、大磯の別荘に移り住みます。
陸奥は、その翌年に外務大臣を辞任。
波乱にとんだ亮子の人生で初めての穏やかな時間でした。
夫と二人、ハワイでも療養・・・しかし、陸奥の体調が回復することはなく・・・
1897年8月24日、54歳で亡くなります。
そして陸奥の死からわずか3年、亮子は後を追うように亡くなります。
1900年8月15日、45歳という若さで下。

陸奥は遺書を残しています。
「お国のために尽くすことだけを考えていたので、財産というものを残してやれなかったが、 多少の遺産を残すことができたのは、内助の功によるものが少なからず。」

そこには亮子に対する深い感謝と愛情があるように思います。
強く美しく前を向いて・・・愛する夫を支えたいという純粋な気持ちだったのでしょう。


↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

幕末明治 時代を変えた女たち

女たちの明治維新 (NHKブックス)

新品価格
¥1,026から
(2017/2/18 06:04時点)

警察手眼 (NDL所蔵古書POD)

新品価格
¥1,296から
(2016/7/7 05:28時点)




全国に26万人いる警察官。
警視庁は、東京都を管轄する警察組織です。
警察は、我々の安全と秩序を守ってくれます。
が・・・現在の組織になったのは、今から150年前!!
しかし、警察官として最初に採用されたのは、博徒などのならず者や浪人たちでした。
悪化していく東京の治安に西郷隆盛が採った策とは・・・??
西郷から治安維持を任せられたのは、川路利良でした。

江戸時代の治安は、町奉行・与力・同心・岡っ引きなどによって守られていました。
しかし、江戸幕府が崩壊し、明治となると・・・
江戸は東京となり、近代化を推し進める新政府は、旧幕府の制度を廃止していきます。
そんな中、町奉行所までもが消滅し、東京の治安は悪化の一途をたどっていました。

1870年イギリス人暗殺事件が起きて・・・町奉行所に代わるものの必要性を感じた政府。
この時、首都の治安を任されたのが、新政府の重鎮・西郷隆盛でした。
西郷はどのようにして治安回復を行ったのでしょうか?

まず、薩摩藩などから兵を出させ、市中の取り締まりをする”取締”という役職を作ります。
しかし、つきたがる者もなく・・・人数合わせのための博徒や浪人などが含まれていました。
治安を守るどころか、権力を振りかざすようになる取締・・・益々治安が悪くなっていきます。

ヨーロッパ留学から帰国した弟・従道。。。
「フランスにはポリスっちゅうもんがありもうしてな
 こいはほんに便利なもんでごわした」
そして、ポリスは、市民の保護や町の警備、犯罪の摘発を行う仕事だと教えました。
西郷は、早急にポリス制度を導入しなければ・・・!!
1871年取締→邏卒とし・・・かつて武士で、のちに士族となった身元の確かな者たちを中心に採用することにしました。
この士族の起用には、首都を守る以外に、失業した武士の補償ということもありました。
この人事を任されたのが、役人だった川路利良でした。
1834年薩摩国にうまれた川路は、藩の与力として江戸勤番となりました。
様式の銃と出会い、西洋の兵器を学ぶようになります。
1864年禁門の変で功績をあげた川路・・・その後も西郷に引き立てられ、1871年には東京府典事に就任・・・西郷は恩人でした。

そんな西郷から川路は、邏卒候補を探してくるように命じられます。
「身体強健にて 品行方正な薩摩郷士1000人を鹿児島より徴集してくるように。。。」
そして、川路1000人、西郷が1000人の薩摩の下級武士を探し、他の藩の士族1000人と合わせて3000人が邏卒として集められました。
この時、江戸を守っていた与力や同心たちも採用されています。
1872年8月23日、邏卒は国の司法省管轄となります。
地方警察が、国家警察となりました。

「警察手眼」で川路は・・・
「警察とは、国家の治療薬であり良民を保護し、内国の気力を養うもの」としています。
そんな信念のもと、川路は、近代警察づくりに邁進していきます。

しかし、問題は山積み・・・

①邏卒内のいじめ
特に深刻だったのが、薩摩藩内での間でした。
邏卒の中には、薩摩藩時代の上級武士で、天皇の護衛だった近衛兵となっていた陸軍省のエリートも含まれていました。
しかし、その扱いは、下級武士出身の邏卒と同じものでした。
エリートだった邏卒は不満を解消するように、同じ薩摩藩の邏卒にいやがらせを繰り返します。
近衛兵に絡まれてもただただ我慢!!そうなると、近衛兵出身の邏卒たちは刀を振り回し始める始末・・・。
下級武士出身の邏卒たちはいつも泣き寝入り・・・
職を辞し、国に帰るものもいました。

川路は、再三陸軍省に掛け合いますが・・・埒があきません。
結局、非番の邏卒を見張りに回らせます。

②組織の改革
江戸時代は、警察機能と司法機能が同じ奉行所管轄でした。
そのため、警保寮も司法省のもとに置かれていましたが、それでは公平さが失われるということで、西洋と同じように、警察と司法の分離を主張!!
1874年警保寮は、内務省管轄の東京警視庁となりました。
これが本格的な日本の近代警察の誕生でした。

しかし、再び問題が・・・邏卒たちが次々と辞めていきます。
政府内で起きた征韓論が原因でした。

鎖国していた朝鮮に門戸を開かせようとする征韓派(西郷隆盛・板垣退輔・江藤新平)と反征韓派(大久保利通・木戸孝允・岩倉具視)らが対立!!
その結果・・・論争に敗れた西郷らが下野してしまいました。
これに伴い、西郷を慕う邏卒たちが次々と辞表を出していきました。

警察官のうちの1/6が辞職してしまいました。
この時、川路もまた下野するのではないのか??と言われていましたが、この後始末に奔走!!
すると、川路は西郷に世話になっておきながら、信義を知らぬ薩摩の面汚し!!と、たたかれることとなります。
しかし、川路は・・・
「ポリスは、人民を守るのが役目でごわす。
 政争の道具ではありもはん。」
強い意志で、理想を貫き警視長に就任!!

組織改革に全人生をかけるのです。
しかし、260年続いた江戸幕府の警察機能を、短期間で近代警察にかえることは並大抵のことではありませんでした。

東京警視庁は、新たに10の階級制度を設けます。
邏卒は巡査、4階級に分けられました。
当時の給料は、大警視の川路が350円。
一番下の四島巡査で4円でした。
川路はこの巡査に対する決まりを作っていきます。

警察手帳
日本最初の警察手帳は「手帳取扱心得」
明治7年8月巡査全員に配布され、常時携帯されることとなります。
その中には、所属と階級、氏名・・・紛失した場合は、厳しい処分が待っていました。
十手に変わって棍棒を採用!!
警部以上は刀を携帯できたのですが・・・これを、サーベルに替えます。
日本の近代警察を作っていきます。

町の治安を守る巡査は過酷・・・12時間勤務で、
昼番・午前8時~午後8時
夜番・午後8時~午前8時の二交代制。
警察署に当たる屯所と交番が勤務地でした。

その仕事内容は・・・
巡行・立ち番・待機でした。
巡行・・・屯所から出て交番までを30分間警邏する
立ち番・・・交番の前後左右100歩を1時間歩きながら警邏する
別の道を30分帰って・・・巡行後に1時間待機。
これを3人でローテーションでやるのです。
しかし、勤務が明けてもゆっくりと休みことが出来ず・・・1時間ごとに起こされます。
巡査たちは極度の睡眠不足に・・・!!
さぼるものも出てきました。
不正を最も嫌う川路は・・・
「夜も昼も眠ることなく、職務に専念せよ!!」
そして、巡査の不正を取り締まる見廻り役警部を作ります。・・・彼らはオバケと呼ばれ恐れられました。
「警察官は臨戦態勢を維持せよ
 寝ても覚めても警察官であれ!!」by川路

巡査の中には、昔の岡っ引きのような人もいました。
彼らは素行も悪く・・・同じように教育し、市民の信頼を得るために・・・!!
西洋との差を縮めるために・・・!!


文明開化は町に混乱をきたしていました。
明治になり郵便制度が出来、郵便箱が設置されます。
しかし、人々はこれをゴミ箱と勘違いし、ゴミを入れていきます。
これに対処するのが巡査でした。
裸同然で歩いている人、川にごみを捨てている人、家のカギを閉めていない人・・・注意しなければなりません。
新しい時代に翻弄される人々を指導しました。


川路率いる東京警視庁が、本格的に活動しだしたころ・・・不平士族の反乱がおきます。
江藤新平の佐賀の乱を皮切りに、不平士族の反乱がおきたのです。
どうしてこのような反乱が・・・??
江戸時代の武士は、藩から俸禄を得て暮らしていました。
しかし、明治となると、大名や武士階級が廃止され、大名を華族に、家臣を士族としました。
1187年3月、節の魂である刀を取り上げる廃刀令を発布。
8月にはそれまで保証されていた俸禄まで無くしてしまいました。

当時、明治政府は、公家、大名、武士たちに旧来通りの家禄、維新の時の賞俸禄を支給していました。
しかし、国家財政への負担が多く・・・秩禄処分にし、一定の額のみの支給としたのです。
収入が急になくなる・・・多くは警察官となりますが、あぶれていきます。
商売は全く上手くいきません。
武士としてのプライド、特権を失った人々・・・明治維新のために戦ったのに・・・どうして!!
旧官軍の間で反乱が各地で起こります。

各地で起きた不平士族の乱に立ち向かったのが、川路率いる警察官たちでした。

西郷は鹿児島に戻り、私学校を開いていました。
そんな西郷もまた・・・1877年2月15日教え子たちに担がれて蜂起!!
西南戦争勃発!!
この時内務卿の大久保利通は、すぐさま川路に鎮圧にあたらせます。
警察のトップだった川路は、陸軍少将も兼任し、陣頭指揮を執ることとなります。
しかし・・・大きな恩のある西郷との戦い・・・!!
川路は故郷に帰るのでは・・・??
「私情においては、まことに忍びない事であるが、国家行政の活動は1日として休むことは許されない。
 大義の前に、私情を捨てて、あくまで警察に献身する。」by川路
警察官として西郷とたたかう道を選ぶのでした。

そんな川路の懸念は・・・??
反乱軍は、示現流の使い手が多く、戦いにも慣れている・・・
刀を抜いて襲い掛かってくるはず・・・
武士出身の警察官はともかく、陸軍は農民出身者が多く・・・刀の使い方には不慣れでした。
戦いが始まると、川路の不安は的中!!
反乱軍に圧倒され、陸軍は次々と敗走!!
このままでは負ける!!
指揮官・川路は危機!!
そこで新兵力・警察抜刀隊の編成でした。
目を付けたのが、東北の士族たちでした。
旧会津藩士などを警察抜刀隊に採用し、復しゅう心を利用しました。
命を懸けて西南戦争に立ち向かっていく警察抜刀隊!!

川路も別動隊を率いて戦います。
3月20日、追い込まれた反乱軍は総崩れ・・・
9月24日、西郷隆盛が自刃するのです。
西南戦争は、政府軍の勝利に終わりました。
川路は、勲二等日重光章を授与されます。
しかし、同じ薩摩藩士を死に追いやった大久保と川路に対する非難の声は、世間はもとより政府内にあっても厳しいものでした。
しかし、誰よりも悲しんでいたのは自らの手で朋友・西郷を葬ってしまった大久保利通と恩をあだで返した川路達自身でした。

川路の生家が暴徒化した民衆によって打ち壊され、川路の親族というだけで親類たちが7人も殺され、首を晒され・・・川路は人知れず泣いたと言います。
1878年5月14日大久保暗殺!!
政府のトップが殺されたという非難は、あらかじめ暗殺に対する備えがなかったということで川路に・・・!!
すり減る川路の神経・・・
大久保の葬儀が終わると、新しい内務卿・伊藤博文に辞表を提出するものの・・・却下されてしまいました。

大警視となって5年目の1879年、川路は再びフランスへ・・・
西南戦争後の警察制度の再警備に向けて・・・!!警察官僚の育成方法を学ぶために・・・!!
しかし、心身ともに疲弊しきっていた川路は、病にむしばまれていました。
わずか4か月で無念の帰国・・・。
その5日後、川路は46歳という若さでこの世を去るのです。

人民の秩序と安全を守る優秀な近代警察を作る・・・
命がけで全うしようとした川路・・・その警察人生はわずかに8年間でしたが、その情熱と功績は計り知れないものがあります。

警察手眼に書かれています。
「警察官の精神は全て、人々を慈しみ援助すること以外にないであろう。」
「人民と接するときは、まるで子供に接するように懇切に徹しなさい。」
それは、川路がパリで観た理想の警察官の姿でした。



↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

大警視・川路利良―日本の警察を創った男

中古価格
¥980から
(2016/7/7 05:28時点)


警察を読む、警察を観る この警察モノが面白い!【文春e-Books】






大政事家 大久保利通 近代日本の設計者 (角川ソフィア文庫)

新品価格
¥950から
(2015/5/24 11:27時点)




1877年、東京・上野公園で・・・日本の近代化を象徴する大イベントは行われました。
「第一回内国勧業博覧会」です。
1万4千点が出品され、入場者数は45万人・・・明治日本の殖産興業を内外に示しました。
この博覧会を成功に導いたのは、維新の三傑・大久保利通でした。

1868年1月鳥羽伏見の戦いで幕府軍を倒した薩長・・・その薩摩藩士だったのが大久保でした。
大久保が抱いていたのは、万国対峙。。。迫りくる西欧列強に対し、日本を新たな国にしなければ・・・!!
そして、明治新政府を樹立しましたが、国造りは混乱します。

そして・・・盟友・木戸孝允との確執、各地で起こった農民一揆、薩摩との内乱・・・
そんな大久保の一大転機は・・・欧米視察でした。
日本の進むべき道は、殖産興業による富国策を考えます。
明治維新の大義とは一体なんだったのでしょうか?


1868年3月・・・討幕を果たし、新政府を誕生させた大久保たちは、新しい国造りの理念を宣言します。
「五箇条の誓文」です。
天皇を頂点とし・・・
”広く会議を興し、万機公論に決すべし!
議論を重視した国家を目指しています。

しかし、高い理想を掲げたものの・・・実際に新政府を支えていたのは藩や藩主、旧勢力が残っていました。
総裁は有栖川宮熾仁親王、議定は・・・藩主・島津忠義(薩摩)、山内豊信(土佐)、浅野長勲(安芸)、松平慶永(越前)、徳川慶勝(尾張)・・・と、参与として藩士・大久保利通、西郷隆盛、後藤象二郎・・・だったのです。


財源と軍事力をどうする??
財源は・・・全国の総石高は3000万石で、そのうち新政府の財源は徳川家の直轄地だった800万石でした。
軍事力は・・・薩摩、長州などの雄藩からの軍隊のみ。
統一した軍事行動などできませんでした。
どうやって西欧列強に立ち向かう・・・??

木戸孝允が抜本的な改革案を打ち出します。大名から土地と人民を天皇に帰し中央集権化をはかる”版籍奉還”です。

1869年6月版籍奉還を布告。
ところが・・・藩主は知藩事として藩の統治を認められ、版籍奉還は骨抜きに・・・
そこには・・・大久保の逡巡がありました。

「領土領民は”奉還”することが”至当”
 しかし、”時勢”がまだ熟していないので、”一部返上”にとどめるべき」by利通

いきなり既得権益を奪ったら、反乱になるかも知れなかったからです。
薩摩のことを危惧していたのかもしれません。

政府を維持していくためには、藩主たちの協力が必要だったのです。
改革は少しずつ進めなければ・・・
しかし、財政はひっ迫・・・1869年7月直轄地で農民一揆が起こります。
版籍奉還が骨抜きになったので、直轄地に重税をかけたせいでした。

さらに大凶作・・・一揆は全国各地に拡大します。その数11件!!

「民衆の多くが、新政府に不審を抱き、うらみの声をあげている」by利通

状況を打開しなければ・・・!!
助けを求めたのは、島津久光でした。
説得するために、1870年大久保利通鹿児島に帰郷。
ところが・・・結果は燦々たるものでした。
藩の解体に関わることをしていると大久保を痛烈に批判します。

説得にも耳を貸さず・・・皇居の護衛をしていた薩摩兵1000名を撤退させると対決姿勢を鮮明にします。
一触即発でした。
薩摩藩のクーデター・・・??内乱の危機・・・??
1871年7月・・・秘密裏に解決策が・・・??
山県有朋と野村靖が作成した方策は・・・藩そのものを解体するほか道はないのでは・・・??
大久保も同意せざるを得なく・・・廃藩クーデターを画策します。

西郷と山県は、新兵の協力を取り付け、藩への抑止力とします。
そして・・・この命令を出来る唯一の人は・・・明治天皇でした。

「篤と熟考 今日のままにして瓦解せんよりは寧ろ、大英断に出て瓦解いたしたらん」by利通

1871年7月14日天皇が廃藩置県を命じます。
各藩からの抵抗は思ったほどではなく・・・戊辰戦争の戦費拠出、藩財政が破たんしていたのです。
大久保たちが藩主に出した提案は・・・借金について、政府がそれを保証するというものでした。
士族に家禄(給料)を給付することにしたのです。
こうして、旧藩主・知藩事たちは、東京に集められます。
全国に261藩ありましたが、3府72藩と再編され、各地へ府知事・県令が派遣されたのです。
新政府の支配は地方にまでおよび、中央集権化が成されます。
地租改正・国民皆兵制とつながります。

1871年11月岩倉使節団として派遣されます。
不平等条約の改正と近代化の調査を目的としたものでした。

産業革命で経済発展をし、超大国となって繁栄していたイギリス。。。
4か月で10都市を訪問し、産業の仕組みを視察します。
徹底的な機械化に・・・鉄鋼・紡績に・・・鉄道網に・・・世界の工場として発展していたイギリス。。。
西欧列強に勝つためには、殖産興業で国力を高めなければ・・・!!と思うようになります。

国家主導で産業を保護育成しようとします。
1873年5月26日帰国・・・しかし、新政府が内部分裂・・・。
事の発端は、西郷隆盛ら留守政府が進めていた征韓論でした。
大久保たちが不在の間、朝鮮との国交樹立を要求していたのです。
受け入れられなければ戦争も辞さない・・・!!

そんな西郷に、大久保は異を唱えます。
経済発展をすすめる・・・内地優先だ!!と、
閣議決定されたのは、西郷の挑戦派遣が閣議決定??
しかし、岩倉具視と画策し、水面下で説得します。
1873年10月24日、明治天皇の裁断によって西郷の朝鮮派遣が延期となります。
破れた西郷は辞職し・・・下野しました。
板垣退助、江藤新平も新政府を去っていきました。

1873年11月大久保は巨大組織・内務省を作ります。
大久保利通は、初代内務卿に就任し、権力を手にしました。
大蔵卿には大隈重信、工部卿には伊藤博文。。。
大久保に賛同する面々・・・大久保専制体制を樹立させます。
それは、強烈は批判の的となっていきます。
1874年1月17日板垣退助らが意見書を提出しました。
厳しい批判にさらされる大久保。。。

絶対的な内務省の力で殖産興業する??
国民の意識も変えなければ・・・!!

”産業力とは、人民の工業を政治が育成し、怠惰な者は一人も生まず、
 国家の富強に邁進させることである。 
 列強と肩を並べることは可能なのだ”


板垣や江藤は、議会創設を求めます。
「今、政府の実態は”天皇”にも”人民”にもない
 ただ”有司”すなわち官僚の手中にあるのみだ
 言論は抑圧され、国家はまさに崩壊必至のただ中にある
 これを救うには、民撰議員”議会”を創設し、天下の公議を広く起こし、官僚の手から政治を奪い返すほかない」

木戸孝允も、明治維新の理念「万機公論」を唱え、議論と議会による国政を!!と、大久保に対抗してきました。
その声に応えるべきなのだろうか・・・??

殖産興業か・・・?議会創設か・・・??
大久保利通は、日本の未来の大きな分岐点に立たされていました。
新政府の分裂の危機にどう対峙するのでしょうか??

内務省による殖産興業に舵を切った大久保は、国際競争力のある生糸に・・・
内務省の管轄となった富岡製糸工場を拠点とし、イギリスのような貿易立国を目指します。
貿易のために海運業を発達させます。
国家予算の6%を、岩崎弥太郎の三菱汽船会社に投資、岩崎は外国の汽船会社を一蹴しました。
貿易商・三井物産の開業を支援、生糸の製造、運搬、販売・・・と、ルートを作っていきます。
その結果、1909年には、生糸の輸出量が世界一となります。

しかし・・・大久保の内務省による殖産興業には、問題もありました。
民が育ってきたなら払い下げる・・・つまり、政と民の癒着問題です。
さらに大久保は、銀行の設立!!
しかし、銀行設立には莫大な資本が・・・!!
そこで目を付けたのは、士族や華族の給料・家禄でした。
当時、家禄は政府歳出の26%を占めていました。

そこで、大久保と当時の大蔵卿・大隈重信は、現金での家禄の支払いをやめ、金禄公債による5年据え置き30年償還の債権での支払いとし、その資本が銀行設立の資本となったのです。
明治11年には、銀行は153行を数えるまでになりました。

しかし、この公債での支払いは、華士族の家計を直撃します。
元本がいつ支払われるかはわからない・・・
大部分の士族が困窮していったのです。
たとえ維新の功績のあった士族であったとしても・・・!!

1876年3月廃刀令施行。。。
財産も誇りも失った士族たちの不満はピークに達していました。
1876年10月、神風連の乱を皮切りに、秋月の乱、萩の乱・・・
そして・・・1877年2月・・・大事件・・・西南戦争勃発です。
共に幕末に命を懸けた盟友・西郷隆盛率いる薩摩士族たちの一斉武装蜂起・・・。
戊辰戦争にも匹敵する内乱となってしまいました。

しかし、その最中でも、殖産興業の手は緩めませんでした。
8月第一回内国勧業博覧会開催。
会場となった上野には、6つのパビリオンが・・・
その成果が発表されました。

ここで発表された臥雲辰致が発明した”紡績機・ガラ棒”は、この展示をきっかけに各地に普及することになります。
博覧会には、各地の産業を競わせるという意味もありました。
出品された作品は、1万4000点、入場者数45万人・・・。
大成功を博したのです。

9月24日・・・西郷の自刃によって西南戦争終結。。。
それは、この博覧会の会期中の事でした。

そして・・・突然の悲劇が・・・!!
1878年5月14日紀尾井町の清水谷で大久保利通は不平士族に襲われ暗殺・・・志半ばの死でした。
翌年・・・満20歳以上の男子に選挙権を与える地方会議が・・・。
これは、大久保の死の2か月前に提出された上申書に基づいていました。
殖産興業のためにも、民の自治を考えていた大久保。。。
地域の代表者が政治に参加できるように・・・。

明治維新の理念「万機公論」・・・大久保は、地方から実現させようとしていたのかもしれません。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

幕末・明治時代(日本史) ブログランキングへ

大久保利通の肖像―その生と死をめぐって

新品価格
¥2,376から
(2015/5/24 11:28時点)

大久保利通―明治維新と志の政治家 (日本史リブレット 人)

新品価格
¥864から
(2015/5/24 11:28時点)

サムライ移民風土記―北海道開拓士族の群像

中古価格
¥1,629から
(2015/1/31 13:14時点)



明治十二傑・・・伊藤博文・福沢諭吉・・・そうそうたるメンバーの中に・・・男爵・伊達邦成(農業家)の名前がありました。
date仙台藩亘理伊達家当主・伊達邦成です。

北海道の開拓に従事した多くのものが、志半ばで挫折する中、伊達邦成の開拓地は、小さなアメリカと言えるほどの偉業である。
北海道開拓の先駆者として健勝された伊達邦成・・・家臣たちを率いて、現在の伊達市に移住して、一大農業生産地に仕上げました。
これは、北海道発展の礎となりました。

事の起こりは・・・邦成28歳・・・幕末の動乱でした。
1868年戊辰戦争の敗北・・・新政府の処罰を受けた仙台藩は、2万人と言われた家臣の大量解雇を余儀なくされます。
邦成は・・・家臣を救い、朝敵の汚名をはらすため、北海道開拓に活路を見出しました。
しかし・・・新政府の方針に翻弄される毎日でした。

開拓地の返上、武士の身分の剥奪・・・

「圧政も甚だし
 人心大いに沮喪し 慨嘆に堪へざるなり」

どうしてこの困難を乗り越え、開拓に成功したのか?

江戸時代、北海道は蝦夷地でした。
アイヌの人々が暮らす北の大地。。。
人々が入植するようになったのは、明治維新。

1868年戊辰戦争勃発!!
新政府軍と旧幕府軍が衝突した戦いです。
新政府軍が勝利し、本州の制圧に成功します。
そして・・・新政府の目は、北海道へと向けられたのです。

主な理由は、ロシアに対する危機感でした。
樺太に軍を派遣し、さらに南下しようとするロシア。。。
北海道へ移民を送って開拓させ、日本の領土であるという既成事実を作ろうとします。

新政府の中心人物は、岩倉具視。
その構想は・・・戊辰戦争時、同盟して新政府軍に対抗し奥羽の人たちでした。
自由に土地を離れることのない時代、移民を送る・・・それは困難で不可能に近かったのですが・・・
反逆者を処罰するという意味でも北海道に移し、開拓させようとしたのです。

62万石だった仙台藩は、その盟主だったために、28万石に減らされ。。。
さらに・・・南側は、南部藩の領地とされてしまいました。
宮城県の南部にある亘理町・・・幕末まで亘理伊達家が治めていました。
当時の藩主は、伊達邦成。。。その支配地は、2万4000石でした。
しかし・・・敗戦によって支配地をなくし、わずか米130俵の俸禄の身分に転落してしまいました。
これでは・・・一人の家臣も養えない・・・
直属の家臣1300人の身の振り方を考えます。
人々は・・・伊達家家臣の身分を・・・武士の身分を捨て南部家の農民となるか、他を頼って亘理を出ていくか・・・二つの選択肢でした。

東北が制圧された後も、旧幕府勢力の戦いは北海道で続いていました。
1868年10月榎本武揚が函館を占拠、新政府軍相手の箱館戦争が始まりました。

ある日・・・家老だった田村顕允(常盤新九郎)が・・・

「新政府は、必ず北海道開拓に着手します。
 邦成公自ら家臣を率いて移住し、開拓の先駆けになれば、朝敵の汚名を受けた仙台藩人の冥加にかなうでしょう。」と進言しました。

箱館戦争が終結していないのに・・・この提案を受け入れる??
10年ほど前、江戸幕府は東北諸藩に蝦夷地の支配を任せていました。
仙台藩は、白老を拠点とし、300人の藩士を派遣していましたが・・・
成果をあげることができずに、蝦夷地開拓を放棄していたのです。

この頃・・・新政府の処罰に不満を持つ藩士たち600人が蜂起し、榎本たちと戦おうと箱館への逃亡をし・・・
邦成自ら兵を挙げ、鎮圧にまわっていました。
新政府に不満を募らせる家臣たちに危機を覚えるようになってきていた邦成・・・
家臣たちを連れて北海道を開拓する?それとも帰農させる???

田村は進言します。
「我らには、1,362戸、男女7,854人の恩顧譜代の家臣がいます。
 この人材こそが資本となるでしょう。」

邦成は、北海道開拓を決断・・・明治2年5月、新政府の許可を得ようとしました。
箱館戦争が新政府軍の勝利に終わった2か月後・・・邦成に北海道支配の命が下ります。

支配を認められたのは・・・胆振国有珠郡・・・現在の伊達市です。
有珠山の火山灰に覆われ・・・農業には不向きとされてきました。

ezoこの時・・・諸藩や士族たちに北海道開拓の統治が下りていました。
財政がひっ迫していた新政府は、分割統治させて自費で開拓させたのでした。

「君臣心を合わせ
 勤王の実効を奏し
 伊達家の汚名を濯ん」by邦成

先祖伝来の家宝から着物までを売り払い、資金を調達し・・・

家族を伴って移住しました。


明治3年3月・・・
第1回移住団250人が新天地北海道へ向かいました。

アイヌの人に協力を求め、年内の収穫に向けて・・・雪深い地を開拓し始めました。

刀を使って木を切り・・・食料としての蕗を集め・・・
困難は、他の開拓地でも当然でした。
皆が脱落していく中・・・有珠に止まり開拓していく伊達家の人々。。。
明治4年には開拓者の数は1000人を突破、開拓の成果も上がっていきます。
退路を断ち、既にあるアイヌ社会を尊重しながら、新しい共同体を作ろうとした邦成。
それが開拓成功の秘訣でしたが。。。

しかし・・・その努力を打ち砕くかのように・・・明治4年7月廃藩置県断行!!
これに伴って・・・開拓地は返上となってしまいました。
さらに・・・家臣たちの誇りだった士族・・・士族から平民へ・・・。

「圧政も甚だし
 人心大いに沮喪し 慨嘆に堪へざるなり」

伊達武士団・・・彼らの夢は潰えた・・・??

明治4年8月・・・薩摩出身の黒田清隆が「開拓使10年計画」を打ち出します。
この計画は、10年間で1000万(現在の800億)を投入し・・・
外国から学者、技術者を招き、欧米の技術を取り入れて開拓を進めました。
黒田は、日本の国力増強のために、本格的に北海道開拓を始めたのです。

その頃邦成は・・・??
北海道を去ろうとしていました。
新政府に対するせめてもの抵抗だったのです。
しかし・・・開拓使は伊達武士団の成果を評価して、北海道に残るように説得します。
遂に邦成も折れ・・・
有珠の移民取締役として再び家臣たちと歩き始めたのでした。

戦略① 新技術を積極的に導入せよ
新しい農機具を調達し、抜本的な農業改革に取り組みます。
馬を使い効率よく畑を耕します。
有珠郡の特産物となったのは、砂糖の原料となった甜菜です。
当時は砂糖のほとんどを輸入に頼っており、国産化が求められていました。
有珠郡には官営の天才製糖所が作られます。
国力増強に大きな役割を果たします。

戦略② 力を合わせ新規事業を起こせ
明治9年・・・当時としては革新的な組織・・・永年社を作ります。
今でいう組合のようなものです。
移住者の出資と開拓使の補助金を積み立てし、見舞い金や新規事業の推進に充てられたのです。
菜種油・・・大豆・小豆を大都市で販売、硫黄の採掘・・・
新規事業への取り組みは、自給自足の生活からの脱却を助けました。

戦略③ 開拓の精神を次世代に伝えよ
邦成たちは移住の際から学校を設立・・・
初等教育を行ったのは、有珠郡にある紋鼈(もんべつ)学校。
自分達の開拓使・・・武士の在り方も教えます。
教育を通して武士を再生産し、結束力を高めようとしたのです。
有珠郡は人口3000人を突破し、開墾もよそとはけた違いの成果を出しました。
明治政府もこれを称え、移民の手本となりました。

明治18年・・・亘理伊達家臣団は士族に復籍。

彼等の開拓が無かったら・・・北海道の開拓は全く変わっていたかもしれません。
農業改革に大きな貢献を果たしたのは間違いありません。
明治25年・・・邦成は功績を認められ、民間人として初めて明治天皇から勲章を受けます。
難事業を不屈の精神で生き抜いたことを認められた瞬間でした。

同心協力・不屈の精神を以って。。。
負けを転じて福とした人々でした。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。


にほんブログ村

幕末・明治時代(日本史) ブログランキングへ

北海道の歴史がわかる本

新品価格
¥1,620から
(2015/1/31 13:15時点)



あなたの知らない北海道の歴史 (歴史新書)

新品価格
¥842から
(2015/1/31 13:15時点)




「花燃ゆ」が100倍楽しくなる杉文と楫取素彦の生涯

価格:1,382円
(2014/12/29 18:13時点)
感想(0件)



う~ん・・・嫌だ。。。

hana

こちらが次の大河「花燃ゆ」です。

井上真央ちゃんが、主人公・杉文(すぎ ふみ・あや)を演じるので、すでに「花より幕末男子」と揶揄られております。

イケメンを意識しているそうで・・・

ちなみに副題は・・・”幕末男子の育て方”だそうで・・・
文がイケメンのやる気スイッチを見つけて押すのだそうです。

う~ん・・・この時点でテンションはダダ下がり・・・



この時代の男子は、女子に尻を叩いてもらわなければいけないほど草食男子ではなかったと思うのです。

松陰は密航を試みたり、弟子たちに止められるほど無鉄砲な男。

ちなみに辞世の句は・・・

「身はたとひ
  武蔵野野辺に朽ぬとも
     留め置きまし 大和魂」


高杉晋作は欧米列強相手にひとりで条約締結に臨み、
「この長州には主君のために命を捨てることなどなんとも思わない者が大勢いる。
 もし戦争を続けると言うのなら、長州は最後のひとりになるまで戦うつもりだ。」
などと言っています。

ちなみに杉文の最初の旦那さんの久坂玄瑞は・・・??
お医者さんの息子で・・・お坊ちゃんなエリートであることは彼のコンプレックスでした。
討幕の急先鋒として活躍します。

ちなみに高杉晋作&久坂玄瑞は村塾の双璧と呼ばれ・・・
松陰曰く、「暢夫(晋作)の識を以って、玄瑞の才を行ふ、気は皆其れ素より有するところ、何おか為して成らざらん。暢夫よ暢夫、天下固より才多し、然れども唯一の玄瑞失うべからず」なのだそうです。

とりあえず、志の高い人ばっかりなので、やる気スイッチ押してもらわなくっても命を賭けると思うんです。

男が命を懸けて刀を抜く世界に果たして文は必要なんでしょうか・・・??

hana2













”八重の桜”(会津)をやったから、次は長州をやんないといけないんだろうか・・・。
それにしても、会津なら賊軍として扱われているので、あんまり有名な男の人が少ないというのもわかります。
八重の波乱万丈な生き方に共感できるかもしれません。
個人的には、あれだけ戦っておいて、どうしてキリスト教に改宗したのか・・・??あのドラマでは理解できませんでしたが。。。

でも・・・長州には、ほんと沢山の人が生き残って、明治維新を作り上げました。
ほんと、吉田松陰や高杉晋作、久坂玄瑞が主人公でも良かったのです。
ただ・・・彼らは早くに亡くなってしまうので・・・。
明治を作り上げた人なら・・・木戸孝允や伊藤博文とか、井上勝でもいいんじゃないの??
乃木希典や児玉源太郎はやっぱりNGなんだろうか・・・。

とりあえず、私はいつも言っていますが・・・小さな川×αは要らないの・・・。
大河を見たいのよ、大河を・・・!!

カチコチの頭では、朝ドラは女性、大河は男性でないと嫌なのです。
でも・・・頑張ってみるぞ~~~!!

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。


にほんブログ村

幕末・明治時代(日本史) ブログランキングへ

杉文と幕末の志士たち 倒幕への道10大事件/かみゆ歴史編集部【後払いOK】【2500円以上送料無料】

価格:779円
(2014/12/29 18:14時点)
感想(0件)

このページのトップヘ