そのうえには、江戸城のシンボルとして天守が聳え立つはずでした。
五層六階、高さ58m・・・建てられていれば、日本で一番大きい天守となっていたことでしょう。
しかし、どうして石垣だけが残されたのでしょうか??
そこには、江戸を襲った未曽有の災害が関係しています。
4代将軍・家綱の治世・・・明暦3年1月、江戸で大火災が発生しました。
火は江戸の6割を焼き尽くし、10万人以上の犠牲を出しました。
明暦の大火です。
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猛火からなす術なく逃げるしかなかった人々は、江戸という町が火災に対して全くの無防備であることを思い知らされました。
この危機の中、事態の収拾に当たったのが、幕閣・保科正之・・・
幕府への不満が高まる中、保科は武士も町人も驚く策を講じました。
過去を覆すその決断は、政治そのものを根底から変えていくことになります。
1657年1月18日、江戸は幕府が開かれてから54回目となる正月を迎えていました。
「むさしあぶみ」と呼ばれる書物・・・著者は、浅井了意・・・当時の世相や風俗を書き記しています。
1月18日の記録は、江戸の天気から始まります。
”乾のかたより風吹出ししきりに大風となり”
乾・・・北西からの風が次第に強くなってきた
この時、江戸ではほとんど雨が降らず、乾燥した日々が続いていました。
午後2時過ぎ・・・江戸城の北・本郷で異変が起きます。
日蓮宗寺院・本妙寺で火災が発生!!
炎はあっという間に寺を焼き尽くし、さらに周囲に燃え広がっていきました。
明暦の大火の始まりです。
北西の風にあおられた火は、湯島天神はじめ多くの寺社を焼き払って南東へ!!
神田川などで水場にぶつかります。
しかし、日は船を伝って軽々と川を飛び越え対岸へ!!
大名屋敷を焼き、町人が暮らす人口密集地へ迫りました。
当時、江戸の消防を担っていたのは大名火消しでした。
幕府から指名された10の大名が、十日交代で担いました。
しかし、この大名火消し、火災が町人地で発生した場合、出動しないことも多かったのです。
町人たちは、そんな大名火消しを皮肉って、”消さぬ役”と呼んでいました。
この時も、日は消し止められることなく、江戸きっての町人密集地を襲いました。
日本橋には、川向うに避難しようとする町人が殺到。
身動きが取れないようになっていました。
避難が滞った原因の一つが、「むさしあぶみ」に描かれています。
路上に、車輪のついた箱があふれていました。
車長持です。
人々はこの中に貴重品を入れて逃げようとしました。
しかし、その結果、車長持が道に溢れ、避難経路を塞いでしまったのです。
”親は子を失い、子はまた親に遅れて、あるひは人に踏み殺され、あるひは車にしかれ、おめきさけぶものまたその数をしらず”
さらに、江戸の人々は、空に驚きの光景を目にします。
”はげしき風に吹きたてられて、車輪の如くなる猛火、地にほとばしり”
これは、炎が竜巻のように回転する火災旋風だったと考えられています。
命からがら避難した人々は、墨田川に行き当たります。
しかし、江戸城を守るため、墨田川には橋がかけられていませんでした。
焼け死ぬもの、冷たい川で溺れ死ぬもの、大火災への備えのない町の中で、多くの命が失われました。
”親は子を尋ね、夫は妻をうしなうて涕とともに声うちあげ
死に失せてめぐり合うことなく、力を落して歎くもありてものゝわけも聞えず”
こうして、大火の1日目は終わりました。
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しかし、それはまだ、序章にすぎませんでした。
大火発生件数(1603~1867)
江戸・・・49回
京・・・・10回
大坂・・・3回
金沢・・・3回
その他・・16回
江戸の町が急速に大きくなったことで、自然災害に弱くありました。
明暦の大火2日目の1月19日・・・
本妙寺を火元とした火災は、未明には収まりました。
しかし、別の火災が・・・!!
午前11時過ぎ、小石川に合った大番衆の与力の宿舎から出火。
火災は、水戸藩の下屋敷をはじめ、多くの大名屋敷を焼きながら、ついに江戸城本丸まで迫りました。
江戸城で最初に燃え移ったのは、予想外の江戸城天守!!
天守は、黒く塗られた銅板で壁を覆い、同じく銅の瓦を吹くことで防火対策を施した建物のはずでした。
その隙をついたのは火の粉・・・
開いていた天守の窓から火の粉が飛び込み、室内から炎上させたのです。
火の粉は、火災の熱による上昇気流で舞い上がり、離れた場所に落下・・・新たな火災を発生させます。
火の粉は1㎞以上離れて落ちることもあり、堀も川も飛び越えて広がるのです。
天下一の天守は、小粒な火の粉に襲われ、あえなく落ちました。
その後、火は本丸御殿、二の丸へと燃え広がっていきました。
燃える江戸城の主・・・時の将軍は、4代藩主・徳川家綱(17歳)でした。
若い将軍を補佐する幕府首脳には、歴戦を生き抜いた強者が・・・!!
元老格の井伊直孝(68)、大坂の陣では、井伊家の大将を務めました。
元大老の酒井忠勝(71)、関ケ原の戦いでは、徳川秀忠と共に信州上田で真田氏と戦っています。
そして、島原の乱鎮圧の総大将を務めた知恵伊豆こと老中・松平信綱(62)!!
これら古参の幕閣の中に、ひと世代若いものがいました。
会津23万石の藩主・保科正之です。
保科は、腹違いの兄・三代将軍・家光から、幼い家綱の後見を託されていました。
大火の最中、彼ら幕閣は、江戸城内に詰め、家綱の傍らで策を練っていました。
迫りくる炎から家綱をどう守るのか・・・??
保科と重鎮たちとの間で意見が分かれました。
酒井忠勝や、井伊直孝は、城の外へ避難するように提案。
松平信綱は、上野・寛永寺への避難を提案。
しかし、こうした元老たちの案に、保科や老中・安倍忠明は反対しました。
「幸い、西の丸が残っています
まずはここに上様をお移しすべきでしょう
もし、西の丸が焼けてしまうようであれば、焼け跡に陣屋を立てればよい
城の外へと動くことなど、あってはなりませぬ」by保科正之
保科が将軍の権威にこだわったのは、この機の乗じて幕府をなきものにしようとする勢力を警戒していたからでした。
大火の6年前の1651年。
幕府転覆未遂事件が起こっていました。
由比正雪の乱です。
軍学者の由比正雪は、幕府に不満を持つ浪人たちを扇動。
江戸城火薬庫に放火し、混乱に乗じて城を占拠、それを京や大坂など複数の都市で行う計画でした。
計画は未然に防がれたものの、幕府は大きな衝撃を受けました。
幕府への反発は、全国の大名に対する厳しい統制から生じていました。
家康、秀忠、家光、三代の間に、改易された大名は129!!
結果、主家を失う浪人となった者が町に溢れました。
将軍や幕府に対する恨みがこれ以上募れば、将軍の権威も地に落ちると保科は感じていました。
議論の末、保科の意見は取り入れられ、午後3時過ぎに家綱は西の丸に移動。
江戸城に留まることになりました。
その直後、火事は治まることなく新たに3カ所から出火。
場所は麹町でした。
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2日目に小石川と麹町で相次いで発生した火災は、初日に被災を免れた場所を容赦なく焼き尽くしました。
1月20日朝、全ての日がおさまりました。
3日に渡った火災で、大名屋敷160軒、旗本屋敷約810軒、町人地800町以上が消失、実に江戸の町の60%が灰になりました。
むさしあぶみは、死者の数を10万2100余人と伝えています。
”一るいけんぞくのある者は、尋ねもとめて寺にをくりしもあり
大かたはいかなる人、いづくの者とも確かならず
かはり果てたるありさま それとさだかにしる事なし”
江戸開府からおよそ50年、将軍のおひざ元は壊滅状態となりました。
3日に渡って燃え続けた大火は、江戸の町の6割を灰にしてようやく鎮火しました。
むさしあぶみは、火がおさまった様子も詳しく書いています。
飢えと寒さにあえぐ人々に、幕府は温かいかゆを与えました。
3週間にわたって行われた粥施行。
用いた1万7000俵の米は、幕府の米蔵から出されたものでした。
むさしあぶみでは、”まことに治世安眠の政道ただしきこと”と、高く評価しています。
焼けた家屋の再建のために、幕府から被災者へ資金が渡される様子もかかれています。
保科は、援助のために家康以来御金蔵にためてきた金銀を使おうとしました。
しかし、幕閣から猛反対の声が上がりました。
当時、民間にそれだけの大金を国家が拠出したケースは全くありませんでした。
お金は軍資金で、軍資金をためておくのが江戸城の御金蔵だという認識の人たちが、軍資金以外に消費してしまうことは考えられませんでした。
保科は反対する老中たちにこう説きました。
「官庫の貯蓄と云ふは斯様の時に下々へ施し、士民安堵せしむる爲にして、むざと積置きしのみにては一向蓄えなきと同然なり」by保科
議論の末、被災者への資金援助は・・・
大名(10万石未満)・・・銀300貫~100貫 貸与
幕臣・・・・・・・・・・金725両~3両 給付
町人・・・・・・・・・・銀1万貫(総額) 給付
墨田区両国にある回向院・・・
ここは火災の後、保科の働きかけで建立されたお寺・・・境内に供養塔があります。
江戸の町中に遺体が放置されているのを見た保科は、無縁仏としてここで供養させました。
本尊の阿弥陀如来・・・その台座には、供養のために、身分の差別なく人々の名がびっしりと書かれています。
町の復興が進む中、江戸城の再建も始まりました。
江戸城は半分以上が消失しており、工事は大掛かりなものとなりました。
そして、大火の翌年、城のシンボルとなる天守の再建が始まりました。
消失前、高さ60mの日本一大きい天守がそびえていました。
工事は土台の天守作りから始まりました。
普請を命じられたのは、加賀・前田家でした。
皇居・東御苑に残っているのは、その時の石垣です。
この石垣は、前田家の威信をかけたものでした。
真っ白な御影石は、瀬戸内海でないと取れません。
前田家は、瀬戸内海の島から石材を運んできて天守を建てたのです。
今までにない真っ白な意思を使うことで、前田家の力量を見せつけようとしたのです。
前田家はわざと四角形をずらして作っています。
五角形、六角形・・・前田家の石積みの技術の確かさ、高度さを見せつけようとしたのです。
着々と積みあがっていく天守台・・・
しかし、保科には迷いがありました。
天守再建を停止する??
江戸城の天守を作るのに、どれだけの労働力を必要つするのか??
資料によると・・・建築期間はおよそ4カ月、その間にのべ34万人以上の大工が必要でした。
江戸中で家屋敷の再建ラッシュとなる中で、職人の手間賃も高騰しています。
大火前、大工の日当は銀1匁5分+米1升5合でした。
それが大火後、1.7倍の銀2匁5分+米1升5合となっていました。
莫大なコストを集中させてまで、天守の再建は優先すべき事なのか??
その思いが、保科の脳裏に去来します。
それとも天守は必要??
天守は権現様がこの地にお建てになって以来のもの・・・軽々しくなき物にはできない・・・!?
天守は当時の人々にとっては・・・??
西国大名には、天守も建てられないのか!!と、思われる危険性がありました。
豊臣家の大名にとっては、天守は大切なものでした。
島原の一揆や由比正雪の乱らの農民らの謀反は、遠い昔のことではない・・・
この混乱に乗じて、幕府に不満を持つ者たちが再び騒ぎを起こすかもしれない・・・
ましてや上様もまだお若い・・・
今こそ、しかと徳川の権威を見せつけなければ・・・??
治世のためにはやはり聳え立つ天守が必要??
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保科は幕府の重臣たちを前に、自らの意見をこう述べました。
「天守は近代織田右府以来のことにて、さのみ城の要害に利あると申すにも非ず
ただ遠く観望致す迄の事なり
武家町家大小の輩家作致す砌に公儀の作事永引たらば、下々の障にも成るべし
斯様の儀に国財を費やすべき時節に非ざるべし
当分延引可然」by保科
天守の再建は、保科によって無期限の”待った”がかけられました。
そして、その資力、労力は、江戸の町全体の復興に充てられることになりました。
幕府が目指したのは、単に大火の前に戻すのではなく、火災に強い都市へと改造することでした。
その内容の資料が残されています。
幕府がつくった江戸の復興計画図・・・
この地図には、大火前の地図にはなかったものが書き込まれています。
空き地、広小路・・・幕府は、町中に空き地を作り、火事の延焼を防ぐための防火帯としました。
空き地を作るため、武士も町人もすべて巻き込んで住民の大移動が行われました。
現在の吹上御苑にあった水戸藩・尾張藩・紀州藩の御三家の上屋敷を、外堀の近辺へ移転。
跡地を広大な空き地としました。
江戸城の周囲で被災した大名たちには、まだ野原の広がる麻布などの郊外に新たな屋敷が与えられました。
本郷や湯島にあった寺は、当時まだ発展途上だった浅草などに移転しました。
江戸城防御のため、下流域に橋がかけられていなかった墨田川・・・
橋がなかったため、多くの犠牲者が出たことを重く受け止めた幕府は、建設を決断します。
大火の2年後、1659年に両国橋完成。
そして、この橋を渡った先にある本所地区をニュータウンとして開発しました。
ここには町人だけでなく、武家屋敷や寺社仏閣も移転しました。
幕府は、町の構造を変えるだけでなく、消防制度も整えます。
従来の大名火消しに加え、上火消を創設。
上火消には、10名の旗本が任命され、それぞれが与力6人と同心30人を率いました。
大名火消しとの最も大きな違いは、火の見櫓をもった火消屋敷に常駐したことです。
初めて火消専門の役人が誕生しました。
明暦の大火は幕府にとって、これまでの大名統制の在り方を見直す契機となりました。
大火の直後に作られた江戸の地図・・・
江戸の改造に際して、幕府はまず、大名側に移転先の希望を聞き、それを調整して割り当てを行っています。
これまでのように幕府の計画を一方的に押しつけるのとは違いました。
幕府は武力を背景に、強い権力で大名たちを屈服させる武断政治を見直し、高野制度に基づいて穏やかに統治する文治政治へと舵を切っていきます。
大火後の都市改造により、江戸の町の範囲は拡大・・・
それは後に、100万都市へと成長する布石となりました。
保科が中止させた江戸城天守の再建・・・
その後、江戸幕府が終わるまで行われることはありませんでした。
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