日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:松平信綱

皇居東御苑・・・かつて江戸城本丸だった場所に、巨大な石積みが残されています。
そのうえには、江戸城のシンボルとして天守が聳え立つはずでした。
五層六階、高さ58m・・・建てられていれば、日本で一番大きい天守となっていたことでしょう。
しかし、どうして石垣だけが残されたのでしょうか??
そこには、江戸を襲った未曽有の災害が関係しています。
4代将軍・家綱の治世・・・明暦3年1月、江戸で大火災が発生しました。
火は江戸の6割を焼き尽くし、10万人以上の犠牲を出しました。
明暦の大火です。

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猛火からなす術なく逃げるしかなかった人々は、江戸という町が火災に対して全くの無防備であることを思い知らされました。
この危機の中、事態の収拾に当たったのが、幕閣・保科正之・・・
幕府への不満が高まる中、保科は武士も町人も驚く策を講じました。
過去を覆すその決断は、政治そのものを根底から変えていくことになります。

1657年1月18日、江戸は幕府が開かれてから54回目となる正月を迎えていました。
「むさしあぶみ」と呼ばれる書物・・・著者は、浅井了意・・・当時の世相や風俗を書き記しています。
1月18日の記録は、江戸の天気から始まります。
”乾のかたより風吹出ししきりに大風となり”
乾・・・北西からの風が次第に強くなってきた

この時、江戸ではほとんど雨が降らず、乾燥した日々が続いていました。
午後2時過ぎ・・・江戸城の北・本郷で異変が起きます。
日蓮宗寺院・本妙寺で火災が発生!!
炎はあっという間に寺を焼き尽くし、さらに周囲に燃え広がっていきました。
明暦の大火の始まりです。
北西の風にあおられた火は、湯島天神はじめ多くの寺社を焼き払って南東へ!!
神田川などで水場にぶつかります。
しかし、日は船を伝って軽々と川を飛び越え対岸へ!!
大名屋敷を焼き、町人が暮らす人口密集地へ迫りました。
当時、江戸の消防を担っていたのは大名火消しでした。
幕府から指名された10の大名が、十日交代で担いました。
しかし、この大名火消し、火災が町人地で発生した場合、出動しないことも多かったのです。
町人たちは、そんな大名火消しを皮肉って、”消さぬ役”と呼んでいました。

この時も、日は消し止められることなく、江戸きっての町人密集地を襲いました。
日本橋には、川向うに避難しようとする町人が殺到。
身動きが取れないようになっていました。
避難が滞った原因の一つが、「むさしあぶみ」に描かれています。
路上に、車輪のついた箱があふれていました。
車長持です。
人々はこの中に貴重品を入れて逃げようとしました。
しかし、その結果、車長持が道に溢れ、避難経路を塞いでしまったのです。

”親は子を失い、子はまた親に遅れて、あるひは人に踏み殺され、あるひは車にしかれ、おめきさけぶものまたその数をしらず”

さらに、江戸の人々は、空に驚きの光景を目にします。

”はげしき風に吹きたてられて、車輪の如くなる猛火、地にほとばしり”

これは、炎が竜巻のように回転する火災旋風だったと考えられています。
命からがら避難した人々は、墨田川に行き当たります。
しかし、江戸城を守るため、墨田川には橋がかけられていませんでした。
焼け死ぬもの、冷たい川で溺れ死ぬもの、大火災への備えのない町の中で、多くの命が失われました。

”親は子を尋ね、夫は妻をうしなうて涕とともに声うちあげ
 死に失せてめぐり合うことなく、力を落して歎くもありてものゝわけも聞えず”

こうして、大火の1日目は終わりました。

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しかし、それはまだ、序章にすぎませんでした。

大火発生件数(1603~1867)
江戸・・・49回
京・・・・10回
大坂・・・3回
金沢・・・3回
その他・・16回

江戸の町が急速に大きくなったことで、自然災害に弱くありました。

明暦の大火2日目の1月19日・・・
本妙寺を火元とした火災は、未明には収まりました。
しかし、別の火災が・・・!!
午前11時過ぎ、小石川に合った大番衆の与力の宿舎から出火。
火災は、水戸藩の下屋敷をはじめ、多くの大名屋敷を焼きながら、ついに江戸城本丸まで迫りました。
江戸城で最初に燃え移ったのは、予想外の江戸城天守!!

天守は、黒く塗られた銅板で壁を覆い、同じく銅の瓦を吹くことで防火対策を施した建物のはずでした。
その隙をついたのは火の粉・・・
開いていた天守の窓から火の粉が飛び込み、室内から炎上させたのです。
火の粉は、火災の熱による上昇気流で舞い上がり、離れた場所に落下・・・新たな火災を発生させます。
火の粉は1㎞以上離れて落ちることもあり、堀も川も飛び越えて広がるのです。
天下一の天守は、小粒な火の粉に襲われ、あえなく落ちました。
その後、火は本丸御殿、二の丸へと燃え広がっていきました。
燃える江戸城の主・・・時の将軍は、4代藩主・徳川家綱(17歳)でした。
若い将軍を補佐する幕府首脳には、歴戦を生き抜いた強者が・・・!!
元老格の井伊直孝(68)、大坂の陣では、井伊家の大将を務めました。
元大老の酒井忠勝(71)、関ケ原の戦いでは、徳川秀忠と共に信州上田で真田氏と戦っています。
そして、島原の乱鎮圧の総大将を務めた知恵伊豆こと老中・松平信綱(62)!!
これら古参の幕閣の中に、ひと世代若いものがいました。
会津23万石の藩主・保科正之です。
保科は、腹違いの兄・三代将軍・家光から、幼い家綱の後見を託されていました。

大火の最中、彼ら幕閣は、江戸城内に詰め、家綱の傍らで策を練っていました。
迫りくる炎から家綱をどう守るのか・・・??
保科と重鎮たちとの間で意見が分かれました。

酒井忠勝や、井伊直孝は、城の外へ避難するように提案。
松平信綱は、上野・寛永寺への避難を提案。
しかし、こうした元老たちの案に、保科や老中・安倍忠明は反対しました。

「幸い、西の丸が残っています
 まずはここに上様をお移しすべきでしょう
 もし、西の丸が焼けてしまうようであれば、焼け跡に陣屋を立てればよい
 城の外へと動くことなど、あってはなりませぬ」by保科正之

保科が将軍の権威にこだわったのは、この機の乗じて幕府をなきものにしようとする勢力を警戒していたからでした。

大火の6年前の1651年。
幕府転覆未遂事件が起こっていました。
由比正雪の乱です。
軍学者の由比正雪は、幕府に不満を持つ浪人たちを扇動。
江戸城火薬庫に放火し、混乱に乗じて城を占拠、それを京や大坂など複数の都市で行う計画でした。
計画は未然に防がれたものの、幕府は大きな衝撃を受けました。
幕府への反発は、全国の大名に対する厳しい統制から生じていました。
家康、秀忠、家光、三代の間に、改易された大名は129!!
結果、主家を失う浪人となった者が町に溢れました。
将軍や幕府に対する恨みがこれ以上募れば、将軍の権威も地に落ちると保科は感じていました。

議論の末、保科の意見は取り入れられ、午後3時過ぎに家綱は西の丸に移動。
江戸城に留まることになりました。

その直後、火事は治まることなく新たに3カ所から出火。
場所は麹町でした。

ドキュメント明暦の大火 幕府を変えた江戸の危機



2日目に小石川と麹町で相次いで発生した火災は、初日に被災を免れた場所を容赦なく焼き尽くしました。

1月20日朝、全ての日がおさまりました。
3日に渡った火災で、大名屋敷160軒、旗本屋敷約810軒、町人地800町以上が消失、実に江戸の町の60%が灰になりました。

むさしあぶみは、死者の数を10万2100余人と伝えています。

”一るいけんぞくのある者は、尋ねもとめて寺にをくりしもあり
 大かたはいかなる人、いづくの者とも確かならず
 かはり果てたるありさま それとさだかにしる事なし”

江戸開府からおよそ50年、将軍のおひざ元は壊滅状態となりました。

3日に渡って燃え続けた大火は、江戸の町の6割を灰にしてようやく鎮火しました。
むさしあぶみは、火がおさまった様子も詳しく書いています。
飢えと寒さにあえぐ人々に、幕府は温かいかゆを与えました。
3週間にわたって行われた粥施行。
用いた1万7000俵の米は、幕府の米蔵から出されたものでした。

むさしあぶみでは、”まことに治世安眠の政道ただしきこと”と、高く評価しています。
焼けた家屋の再建のために、幕府から被災者へ資金が渡される様子もかかれています。

保科は、援助のために家康以来御金蔵にためてきた金銀を使おうとしました。
しかし、幕閣から猛反対の声が上がりました。
当時、民間にそれだけの大金を国家が拠出したケースは全くありませんでした。
お金は軍資金で、軍資金をためておくのが江戸城の御金蔵だという認識の人たちが、軍資金以外に消費してしまうことは考えられませんでした。

保科は反対する老中たちにこう説きました。

「官庫の貯蓄と云ふは斯様の時に下々へ施し、士民安堵せしむる爲にして、むざと積置きしのみにては一向蓄えなきと同然なり」by保科

議論の末、被災者への資金援助は・・・
大名(10万石未満)・・・銀300貫~100貫 貸与
幕臣・・・・・・・・・・金725両~3両   給付
町人・・・・・・・・・・銀1万貫(総額) 給付

墨田区両国にある回向院・・・
ここは火災の後、保科の働きかけで建立されたお寺・・・境内に供養塔があります。
江戸の町中に遺体が放置されているのを見た保科は、無縁仏としてここで供養させました。
本尊の阿弥陀如来・・・その台座には、供養のために、身分の差別なく人々の名がびっしりと書かれています。

町の復興が進む中、江戸城の再建も始まりました。
江戸城は半分以上が消失しており、工事は大掛かりなものとなりました。
そして、大火の翌年、城のシンボルとなる天守の再建が始まりました。
消失前、高さ60mの日本一大きい天守がそびえていました。
工事は土台の天守作りから始まりました。
普請を命じられたのは、加賀・前田家でした。
皇居・東御苑に残っているのは、その時の石垣です。
この石垣は、前田家の威信をかけたものでした。
真っ白な御影石は、瀬戸内海でないと取れません。
前田家は、瀬戸内海の島から石材を運んできて天守を建てたのです。
今までにない真っ白な意思を使うことで、前田家の力量を見せつけようとしたのです。
前田家はわざと四角形をずらして作っています。
五角形、六角形・・・前田家の石積みの技術の確かさ、高度さを見せつけようとしたのです。

着々と積みあがっていく天守台・・・
しかし、保科には迷いがありました。
天守再建を停止する??
江戸城の天守を作るのに、どれだけの労働力を必要つするのか??
資料によると・・・建築期間はおよそ4カ月、その間にのべ34万人以上の大工が必要でした。
江戸中で家屋敷の再建ラッシュとなる中で、職人の手間賃も高騰しています。
大火前、大工の日当は銀1匁5分+米1升5合でした。
それが大火後、1.7倍の銀2匁5分+米1升5合となっていました。
莫大なコストを集中させてまで、天守の再建は優先すべき事なのか??
その思いが、保科の脳裏に去来します。
それとも天守は必要??
天守は権現様がこの地にお建てになって以来のもの・・・軽々しくなき物にはできない・・・!?
天守は当時の人々にとっては・・・??
西国大名には、天守も建てられないのか!!と、思われる危険性がありました。
豊臣家の大名にとっては、天守は大切なものでした。
島原の一揆や由比正雪の乱らの農民らの謀反は、遠い昔のことではない・・・
この混乱に乗じて、幕府に不満を持つ者たちが再び騒ぎを起こすかもしれない・・・
ましてや上様もまだお若い・・・
今こそ、しかと徳川の権威を見せつけなければ・・・??
治世のためにはやはり聳え立つ天守が必要??

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保科は幕府の重臣たちを前に、自らの意見をこう述べました。

「天守は近代織田右府以来のことにて、さのみ城の要害に利あると申すにも非ず
 ただ遠く観望致す迄の事なり
 武家町家大小の輩家作致す砌に公儀の作事永引たらば、下々の障にも成るべし
 斯様の儀に国財を費やすべき時節に非ざるべし
 当分延引可然」by保科

天守の再建は、保科によって無期限の”待った”がかけられました。
そして、その資力、労力は、江戸の町全体の復興に充てられることになりました。
幕府が目指したのは、単に大火の前に戻すのではなく、火災に強い都市へと改造することでした。

その内容の資料が残されています。
幕府がつくった江戸の復興計画図・・・
この地図には、大火前の地図にはなかったものが書き込まれています。
空き地、広小路・・・幕府は、町中に空き地を作り、火事の延焼を防ぐための防火帯としました。
空き地を作るため、武士も町人もすべて巻き込んで住民の大移動が行われました。
現在の吹上御苑にあった水戸藩・尾張藩・紀州藩の御三家の上屋敷を、外堀の近辺へ移転。
跡地を広大な空き地としました。
江戸城の周囲で被災した大名たちには、まだ野原の広がる麻布などの郊外に新たな屋敷が与えられました。
本郷や湯島にあった寺は、当時まだ発展途上だった浅草などに移転しました。
江戸城防御のため、下流域に橋がかけられていなかった墨田川・・・
橋がなかったため、多くの犠牲者が出たことを重く受け止めた幕府は、建設を決断します。
大火の2年後、1659年に両国橋完成。
そして、この橋を渡った先にある本所地区をニュータウンとして開発しました。
ここには町人だけでなく、武家屋敷や寺社仏閣も移転しました。

幕府は、町の構造を変えるだけでなく、消防制度も整えます。
従来の大名火消しに加え、上火消を創設。
上火消には、10名の旗本が任命され、それぞれが与力6人と同心30人を率いました。
大名火消しとの最も大きな違いは、火の見櫓をもった火消屋敷に常駐したことです。
初めて火消専門の役人が誕生しました。

明暦の大火は幕府にとって、これまでの大名統制の在り方を見直す契機となりました。
大火の直後に作られた江戸の地図・・・
江戸の改造に際して、幕府はまず、大名側に移転先の希望を聞き、それを調整して割り当てを行っています。
これまでのように幕府の計画を一方的に押しつけるのとは違いました。
幕府は武力を背景に、強い権力で大名たちを屈服させる武断政治を見直し、高野制度に基づいて穏やかに統治する文治政治へと舵を切っていきます。
大火後の都市改造により、江戸の町の範囲は拡大・・・
それは後に、100万都市へと成長する布石となりました。

保科が中止させた江戸城天守の再建・・・
その後、江戸幕府が終わるまで行われることはありませんでした。

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およそ260年続いた江戸幕府・・・世界でも類を見ない長期安定政権が実現したのは、その礎を三代将軍・家光と会津藩主・保科正之が築いたからです。
二人は異母兄弟・・・ともに持つ、政治家としてのぶれない意志・・・その支えとなったのが、兄弟の絆でした。

徳川家康が関ケ原の戦いに勝利し、江戸に幕府をひらいた翌年・・・1604年。
二代将軍秀忠と正室お江の間に世継ぎが生れました。
竹千代・・・後の三代将軍家光です。
それから7年後の1611年、江戸神田の牢人の家で、幸松・・・後の保科正之が生れました。
父は、竹千代と同じ二代将軍秀忠でしたが、幸松の母・静は、江戸城に奉公に上がっていた奥女中でした。
美しかった静は、すぐに秀忠の子を身籠ります。
将軍の子・・・本来ならば、喜ばしいことですが・・・秀忠の正室お江は、とても気位が高く、嫉妬深かったのです。
夫が側室を持つことを許しませんでした。
子ができたとなると、何をするかわからない・・・
そこで、実家へ帰された静は、お江から恨みを買わないように子をおろします。
しかし、静は、秀忠によって大奥に戻され、またもや子を身籠ってしまうのです。
そんな静に家族は・・・
「上様の子を二度も堕ろしては天罰を受ける」
とし、静はお江に見つからないように、親類の浪人宅で出産しました。
秀忠は、この事実を伝え聞きますが、お江に気を遣い、幸松を実子とは認めませんでした。

将軍の子であることを隠して生きることとなった幸松は、母・静が慕っていた武田家の侍女・見性院に預け育てられます。
そして、幸松7歳の時、見性院は然るべき武家に幸松を預けようと考え、ある大名に白羽の矢を立てます。
高遠藩藩主・保科正光です。
保科家は、もともと武田信玄の家臣で、さらに、正光の父・正直の後妻は家康の妹で、武田家は徳川家と姻戚関係にあったからだと言われますが・・・この養子縁組の裏には秀忠の存在があったといいます。
幸松の養育を、見性院に依頼したのは秀頼側だったともいわれています。
さらに、保科家に養子に行った時に、高遠藩に5000石の加増をしています。
幸松の養育費であると考えられます。
父・秀忠の計らいで、保科家の養子となった幸松は、大切に育てられます。

二代将軍秀忠には、この時3人の息子がいました。
竹千代・国松は、共に母親が正室のお江・・・そしてお静の子・幸松です。
そして、幸松の存在を知らずに幼少期を過ごす竹千代・・・。
その出会いとは・・・??

1632年秀忠死去・・・。
家康が、長子相続を説き、竹千代が家光として20歳で三代将軍となります。
家康が、理想とした幕府を実現していきます。
大名たちを江戸城に呼びつけます。
居並ぶのは伊達政宗ら、歴戦のつわものたち・・・
彼らを前に、家光は、こう宣言します。

「余は生まれながらの将軍である
 貴殿らに対し、遠慮するものはない
 今後みな、家臣同様として扱う・・・そのように心得よ
 もし不承知ものがいるならば、戦の準備を致せ」と。

家光が、挑発的な態度に出たのは理由がありました。
戦争を知らない家光・・・下剋上の思想を断ち切るために、強気に出たのです。
家光は徳川政権を盤石にするために、様々な政策を打ち出していきます。

①幕府の組織づくり
大名たちの謀反を防ぐために、監察官として柳生宗矩ら4人を「そう目付」に任命します。
そして、将軍を補佐する大老、老中の設置。
将軍を頂点とする幕府のシステムを確立、政治の安定化を図ります。


②諸制度の確立
1635年、武家諸法度を改定
参勤交代を制度化します。
江戸での滞在期間、交代の時期を明確に定めました。
これによって大名たちは、旅費などの莫大な出費を余儀なくされ、財力が低下。
その結果、戦を構えることもできなくなり、幕府は優位に立つことになりました。

③大名の改易
家光は、反旗を翻しそうな危険分子を取り除くなど、政権の安定を図ろうと、改易にも取り掛かります。
その数は、歴代の将軍が行った改易の中で最も多い数でした。
武断政治(武力や厳しい刑罰で統治する政治手法)です。

その頃の幸松・・・後の保科正之は、養父である保科正光が選んだ優秀な家臣から英才教育を受け、幕府に奉公するための心得を徹底させられていました。
保科正光は、もしかすると幸松が将軍となる可能性があると考えていました。
もしそうなった場合、保科家も発展していくだろう・・・と、教育したのです。
幸松もまた、自分が将軍の子だと知るようになっていきます。
そして養子となって14年目・・・養父・正光がこの世を去ります。
家督をついだ幸松は、正之となり、高遠藩を継ぐのでした。
この時、21歳!!

家光が保科正之の存在を知ったのは、目黒に鷹狩りに行った時のこと・・・
鷹狩りの中、家光は、身分を隠し、ある寺で休息することに・・・。
そのお寺は、正之の母・静が、正之の無事な成長を祈願していた寺でした。
そこの住職がこんな話をしてきました。

「高遠藩の保科殿を知っていますかね?
 保科殿は、将軍様の弟君であるのに、それに相応しい扱いを受けていないんですよ
 それが、不憫でしてねエ・・・」

家光は、自分に会ったことのない弟がいて、高遠藩主になっていることを知ったのです。

「余に・・・顔も知らぬ弟・・・それは一体どんな男なのだ・・・??」

異母兄弟・・・弟の存在を知った家光は、ある儀式のために江戸城にやってきた正之を一目見ようと大広間のふすまの陰に潜みました。
すると・・・部屋に入ってきた正之は、末席に座ったのです。
保科正之は、3万石の小大名のため、末席だったのです。
礼儀をわきまえる正之・・・

「自分は将軍の弟だという横柄な態度を見せず、謙虚に末席に控えるとは・・・なんと殊勝な男よ」

この一件以来、家光は正之を取り立てるようになります。
正幸は、高遠藩3万石から山形藩20万石の大名に抜擢されます。
片腕として重用するようになった正之に・・・「忌諱を憚ること勿れ」と言いました。
更に家光は、苗字を松平に改め、葵の紋を使うことを勧めましたが、正之は・・・

「今の自分があるのは、養父・保科正光のおかげです。」

保科家への恩義から辞退したと言われています。
その控えめな態度に感心した家光は、その信頼を厚くするのです。

しかし、家光が、正之を取り立てたのにはもう一つ理由がありました。
それは、もう一人の弟・忠長の存在です。
同じ母・お江から生まれた忠長は、兄弟というより同じ将軍の座を争うライバルでした。
家光は生まれつき体が弱く、言葉に不自由なところがあったため、両親の愛情はいつからか弟・忠長に注がれるようになります。
すると家臣たちも、
「次期将軍は兄気味ではなく弟君がふさわしい」と・・・。
両親ノア異名を受けずに将軍の器でないとささやかれた家光は、12歳の時悲しみのあまり自殺しようとしたともいわれています。
父・秀忠の愛情を受けずに育った正之に、共感を抱いたのです。
家光の弟・忠長は・・・駿府藩55万石の大名となり・・・しかし、それでも満足せずに加増しろとか、大坂城の城主になりたいとか・・・。
甘やかされて育てられていた忠長は、将軍への夢が忘れられず、兄・家光に憎悪を抱いていました。
その後、忠長は精神的に追い詰められ、奇行が目立つようになり、理不尽に家臣を手打ちにしたりしています。
怒った家光は、忠長を幽閉し、最後は自害に追い込んでいます。
正之は弟として兄を支えるというよりも、それは家臣として将軍を支える・・・自分をわきまえた人でした。

保科正之が山形藩の藩主となった翌年の1637年、九州で大事件が・・・!!
島原の乱です。
キリスト教勢力の拡大を恐れた家光が、キリシタン改めを全国の大名に命じたことに始まる厳しい弾圧が原因でした。
この江戸幕府始まって以来の一揆の鎮圧には、家光の最も信頼する正之が当たるものだと誰もが思っていました。
しかし、その大役に選ばれたのは、老中・松平信綱でした。
正之は家光から領地である山形藩に戻るように命じられたのです。
家臣たちは皆首をかしげましたが、正之には、家光の意図がわかっていました。

「西国に異変ある時は、東国に注意せよということであるな」

家康の遺訓に従って、東国の反乱に備えたのです。

1638年山形藩の隣にある幕府直轄地の白岩郷で・・・
百姓一揆が起こります。
その鎮圧を任された正之は、一揆の首謀者36人全員を処刑します。
控えめで優しい性格の正之の非情な決断でした。
無秩序状態にさせないため、厳しい処罰を下したのです。
しかも、幕府の直轄地での出来事・・・
家光の威光が低下する可能性があったのです。
正之は、兄であり将軍である家光の名を汚さないために、鬼となったのです。

「一揆が起きてからでは遅い
 一揆が起きないような政をすることが大切なんだ」

1643年、保科正之が33歳の時に、山形藩20万石から会津藩23万石への転封を命じられます。
これは、水戸藩25万石と肩を並べるほどの厚遇でした。
ところが、その会津藩は大きな問題を抱えていました。
前の藩主の悪政と飢饉で領民は疲弊・・・よその藩へ逃げ出す者が続出していました。
領民のための改革を行うこととなった正之

①社倉制
藩の資金で米を買い上げて備蓄しておき、凶作になったら領民に米を貸し出し救済する制度のことです。
2割という当時安い利息で米を借りることができました。
しかし、正之は利息で得た資金で、新しく米を買って社倉の備蓄を増やしていきます。
これ以降、会津藩では飢饉での死者は出なかったと言われています。

②人命尊重
正之の母・静は一度は堕胎し、正之も命が危ぶまれていました。
「宿った命は生きることを辞めさせるべきではない」そう命の大切さを説き、間引きを禁止。
さらに、領内で行き倒れになった人は医者に連れて行くという政令を出し、その人がお金を持っていない場合は、藩が支払いました。

③老養扶持
高齢者の保護です。
90歳以上の者、全てに1日5合分の米を毎年支給しました。
ある年は該当者が150人にも及びましたが、分け隔てなく支給され、大いに喜ばれました。

農民を豊かにすることは政治を安定させる
政治の安定は農民の豊かさにつながる・・・正之は、勧農意識・・・主として農業振興奨励し、実行しようとする考えがありました。
それをすることが一揆の撲滅につながると・・・

そのさなか、家光が病に倒れます。
死を悟った家光・・・1651年のこと。
愛用の萌黄色の直垂と烏帽子を与え、こう言い渡します。
「今後、保科家は代々、萌黄色の直垂を使ってよい」
それは、正之が将軍と同格であるという意味でした。
さらに・・・家光の嫡男・家綱はまだ11歳でした。
正之に、幼い家綱の後見人を任せるつもりだったのです。
幕閣たちから一段上げて、補佐にしよう・・・と!!

それから間もなくして家光の病状は悪化・・・
有力大名が次々と寝所に呼ばれる中、最後に呼ばれたのは家光が最も信頼する保科正之でした。

「跡を継ぐ家綱はまだ幼い・・・
 汝に家綱の補佐を託す」

「身命を投げ打って御奉公いたします故、ご心配あそばされますな」

これが、兄・家光との最後の別れとなりました。
1652年4月20日、徳川家光48歳で死去・・・。

正之は、この後、ほとんど会津に帰ることなく、身命を投げ打って幕府に・・・!!
しかし、この時、幕府は大きな問題を抱えていました。

正之は、武断政治の否定・脱却をはじめました。

①大名証人制度の廃止
大名証人制度とは、大名の妻子などを人質として江戸に住まわせることです。
これは、戦国時代、大名同士が同盟を結んだ場合に裏切らないように行っていたことを踏襲したものです。
しかし、幕藩体制が整ったこの時代においては無用と、廃止。

②殉死の禁止
江戸時代初期、主君の死を受けての殉死は美徳とされていました。
実際、家光が亡くなった際も、家臣が後を追い自害しています。
しかし、これでは有能な人材が失われてしまうと、殉死を禁止したのです。

③末期養子の禁 緩和
大名は生前に跡取りを決め、幕府に届ける必要がありました。
死の間際に養子をもらって跡取りにする末期養子は禁じられていました。
そのため、跡取りのいない藩主が急死すると、その藩は取り潰しになっていたのです。
正之はこの禁を緩和・・・50歳以下の大名の末期養子を認め、藩の取り潰しをへらします。

正之は、家光の行った武断政治を次々と否定するかのように、それまでの制度を廃止していきました。
家光時代の幕府は、敵対しそうな大名を改易していたので、巷では浪人が溢れ、幕府に不満を抱くものが急増していました。
正之は、彼らの暴発を危惧し、これ以上浪人を増やさない政治・・・文治政治へと変換していったのです。
戦の絶えた時代を生き抜くための政治だったのです。
大名を上手に取り込むことは、国家統合につながる・・・徳川の平和につながる・・・徳川ファーストを関bが得ていました。

1657年1月18日、江戸を未曽有の火災が襲います。
明暦の大火です。
江戸の町の6割が焼き尽くされ、死者は10万人を超えたともいわれています。
火の手は風にあおられて、江戸城へも・・・!!
天守をはじめ、本丸、二の丸、三の丸まで焼け落ち・・・この時正之は、家綱を守り西ノ丸へ避難するも、火の手はそこまで迫っていました。
すると幕閣たちは・・・
「上様を場外に避難させましょう!!」
「上様が逃げるなど言語道断!!
 西ノ丸が焼けたら、本丸の焼け跡に陣屋を立てればよい!!」by正之
幕府の長たる将軍が、火事ごときで城を逃げ出すなど・・・!!
非常時だからこそ、将軍が中心となって強い態度で対処すべきだと説いたのです。
火事発生から2日後やっと鎮火・・・
正之は民のために動き出しました。
被災者のためのおかゆの炊き出し。
二種類の炊き出しを用意させ、老人や体の弱ったものには塩分の少ないものを・・・それ以外の人には濃いものを配るという配所を怠りません。
幕府の16万両と言われる幕府の貯蔵金を町の復興に宛てようとします。
「そのようなことをすれば、金蔵が空になってしまいます!!」
「なにより、このような時のために、金を蓄えておるのに、今使わずしていつ使うのだ・・・!!」
この正之の判断と采配によって、焦土と化した江戸の町は復興していくのです。

現場の最前線で陣頭指揮を執った正之でしたが、この時、嫡男・政頼が、避難先で病に侵され亡くなっていました。
しかし、正之は深い悲しみの中にあって、私情を廃し、我が子を弔うことより街の復興を優先させたのです。
その後、江戸城の本丸、二の丸、三の丸は再建されましたが、天守は再建されませんでした。
保科正之が天守の再建に反対したからです。

「天守は戦乱の世が終わった今、ただ遠くを見るだけのもの。
 無用の長物をこのような時にお金をかけてまで再建すべきではない・・・!!」

兄・家光に誓った将軍への忠誠を守り続ける保科正之・・・その正之が最期に徳川家のために下した決断とは・・・??
正之が、常に大事にしていたのは「仁」
慈しみ思いやることです。
そんな正之が自らの政治理念を後世に伝えるべく定めたのが「会津家訓十五か条」です。
人としての心得を説く中で、最初に伝えたかったのは・・・

大君の儀一心大切に忠勤に存ずべし
若し二心を懐かば 即ち我が子孫に非ず
面々決して従うべからず

「将軍に対しては一心に忠義に励むべきである
 もし、将軍に反く藩主が会津に現れたなら、私の子孫ではないから、決して従ってはならない」

兄に誓った将軍への忠誠を、子々孫々に守らせようとしたのです。
そんな正之も、晩年は病に倒れ、病状が悪化すると幕府に隠居を申し入れます。
そして息子の正経に家督を譲ると、驚きの行動に出ます。

なんと、屋敷の裏庭で書類を焼き始めたのです。
それは、幕政への意見書、様々な政策の記録などの重要書類でした。
正之の政策が残ってしまえば、自分がしたことがわかってしまう・・・。
政を将軍・家綱の功績にするために、書類を燃やしたのではないか?と言われています。
正之は、最期まで幕府と将軍のことを想い動いた私利私欲のない男でした。
1659年12月18日、保科正之は三田に会った会津藩邸で息を引き取ります。
62歳の生涯でした。
磐梯山を望む福島県猪苗代町・・・将軍の子として産まれながら、一家臣の子として生きることを選んだ信念の男は、ここで眠っています。

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今から380年前、長崎県島原半島で、江戸時代最大の内乱がありました。
1637~38年、島原の乱です。
3万7000の住民が武装蜂起!!
12万の幕府軍と戦いました。
一揆の原因は、切支丹弾圧の反発とされていますが・・・??

日本におけるキリスト教伝来は戦国時代の1549年。
カトリックの修道会が熱心に布教を行った結果、キリシタン大名も出てきました。
とりわけ九州に多く、肥前日野江城主・有馬晴信、肥後宇土城主・小西行長などがいました。
江戸幕府開府以後も、莫大な貿易での利益を得るために、家康はキリスト教の布教を許していました。
ポルトガルとの貿易が中心でしたが、1609年オランダ、1613年イギリスが参入しました。
しかし、1613年幕府は禁教令を発布。
教会を破壊し、宣教師たちをマカオなどに国外追放しました。

どうしてキリスト教は禁止されたのでしょうか??
原因の一つは、プロテスタントの国・オランダから届いた国書にありました。

「カトリック宣教師は日本人を改宗させて、他の宗教を排斥しようと考えている
 そして、宗教の争いを起こさせ、内乱に導こうとしているのだ。」

宗教勢の一揆を恐れる幕府・・・キリスト教の教えにも危機感を抱くようになります。
キリスト教自体が、「何人も神の許に平等」としています。
封建社会を目指す幕府にとっては、都合が悪かったのです。

2代将軍徳川秀忠は、将軍を頂点とする幕藩体制を揺るがすとして、キリスト教への弾圧を強化!!
信仰を捨てない者は、厳しく罰するように大名達にも圧力をかけます。
そんな中、キリシタン大名の有馬信治の代わりに島原藩主となったのが、松倉重昌でした。
重政は、幕府の命に従い、キリシタンを厳しく弾圧!!
凄惨な処刑を断行し、人々への見せしめとします。
こうした過酷な弾圧は、息子・勝家の代まで20年も続きました。
苦しみから逃れるために、人々は信仰を捨てるしかありませんでした。

ついに我慢の限界が・・・きっかけは・・・
1637年10月25日、事件は島原有馬村で起こりました。
信仰を捨てずにいたキリシタンたちが隠れて礼拝をおこなっていたところ、藩の役人に見つかってしまいました。
捕まれば厳しい拷問は必至!!
とっさに抵抗し、役人を殺してしまいました。

役人を殺したのだから死罪・・・ならば、戦うしかない!!

と、有馬村のキリシタンたちが蜂起、近隣の村にも飛び火し、10月26日島原で一揆が勃発!!
一揆勢は、島原藩士たちを殺害し、寺社を焼いていきます。
10月28日、唐津藩天草でもキリシタンが蜂起。
この地を治めていたキリシタン大名・小西行長は、関ケ原の戦いで西軍につき斬首、やってきた唐津藩主・寺沢堅高による厳しいキリシタン弾圧に耐えかねてのことでした。
この天草の一揆勢を率いていたのは天草四郎でした。
天草四郎・・・出身は上天草とも宇土ともいわれ・・・本名は、益田四郎時貞。
父はキリシタン大名・小西行長の元家臣で、関ケ原の戦いで主君を亡くしたので牢人に・・・
母は、マルタという洗礼名を持つキリシタンでした。
四郎もカトリックの洗礼を受けており、洗礼名はフランシスコあるいはジェロニモでした。
幼少から勉学に励み、長崎に遊学し、天草にある上天草市に落ち着きます。
一揆が始まった時、四郎は15歳だったともいわれています。
やがて四郎たちは、唐津藩の兵が籠る富岡城を包囲し、落城寸前まで追い込みます。
その後、島原の一揆勢と合流し、四郎は3万7000を率い、島原藩の蔵を襲って鉄砲530挺と、年貢米5000石を略奪!!
廃城となっていた島原の原城に立て籠ります。

近年の発掘から、一揆勢は石垣に沿って穴を掘り、家族単位で籠城生活を送っていたようです。
12月1日、90日に及ぶ籠城戦が始まりました。
原城本丸の礼拝堂で祈りを捧げる四郎・・・。
四郎の持つカリスマ性に惹かれ、団結する一揆勢!!

一方、幕府は事件の知らせを受けたのは数日後・・・
3代将軍家光は、すぐさま京都の治安維持を担う京都所司代・板倉重昌を指揮官に任命。
京都所司代を動かすのは異例のことでした。
そして、江戸にいた藩主には国元に帰るように指示しています。
幕府にとって一番恐ろしかったのは、原城のような状況が全国で起こることでした。
そして、江戸にいた九州の諸大名に、帰国して一揆鎮圧に加勢するように命じます。

12月10日
籠城する一揆勢3万7000に対し、諸大名の大軍勢が・・・!!
しかし、一揆勢の反撃を受け、思わぬ苦戦を強いられます。
幕府軍、まさかの苦戦の理由は・・・?
原城は三方が海に囲まれ、一方は崖という要害の地にありました。
有明海の潮の流れはあまりにも早く、船をつけるのは非常に困難でした。
そのため、幕府軍が城を攻めることができるのは、一日2回の潮どまりの時だけでした。
陸側は・・・あたり一面湿地帯で、ぬかるみで城にたどり着くのもままなりません。
しかも、一揆勢は崖の上に板塀を張り巡らし、準備をしていました。
板塀の裏に隠れ、幕府軍を狙い撃ち!!
地の利を生かし、大軍を相手に激しく抵抗する一揆勢!!
海の事情をよく知る彼らは、夜の間にこっそり船をだし、籠城のための武器や食料の調達をすることもできました。
幕府軍は3度の総攻撃をするも完敗・・・
指揮官の板倉重昌が戦死・・・3,800人の死傷者を出してしまいました。

1638年1月4日、板倉重昌に代わり、家光の側近、知恵伊豆こと老中松平信綱がやってきました。
兵糧攻めに戦略を変更!!
立て籠もっている人々に投降を呼びかけます。
矢文でやり取りをします。
そこに書かれていたのはもちろんキリシタンへの弾圧と・・・藩主松倉氏の悪政でした。
平地のない・・・凶作な大飢饉にもかかわらず、重税が課されていました。
重税の理由の一つは、島原城の建設・・・
外様大名だった松倉氏は、国内外に威厳を見せつけるべく、四層五階の分不相応の城を築城し、重い税をかけていました。
その取り立ては、息子・勝家の代になるとさらにひどくなり・・・
いろり銭、窓銭、戸口銭・・・と、税をかけ、子供が産まれると頭銭、亡くなると穴銭・・・何かと税を取り立てていきます。
納められない者には、恐ろしい罰を与えるのでした。
領民たちは、木の根や草を食べて凌ぐものの餓死者は増える一方・・・。
もう、我慢の限界でした。
キリシタン弾圧だけでなく、重税も一揆の原因だったのです。

どうして15歳の四郎が一揆の指導者となったのでしょうか?
一揆の数か月前の噂に・・・
ポルトガル宣教師の預言でもうすぐ神童が天草に現れて、キリスト教を再興するというものでした。
その時こそが決起の時!!
その神童こそが天草四郎・・・予言通りに現れた少年を、救世主とし、神の子と崇めたのです。
四郎は長崎に遊学していた際に、医学を学んでいました。
チョットした病気を治すこともできました。それが奇跡のように見えたのかもしれません。
四郎を神格化していく人々・・・。

四郎の陰で一揆を先導していた真の首謀者とは・・・??
小西行長の家臣・益田甚兵衛・・・四郎の父でした。
有馬晴信の家臣・有家堅物・・・
指導していた人たちは、関ケ原の戦いの後、武士から農民に身を落としていた庄屋となっていた人たちだったのです。
徳川への恨みを晴らすべく、その機会を虎視眈々と狙っていたのです。
原城の沖合6キロに浮かぶ湯島・・・別名談合島・・・庄屋たちはこの島の山頂に隠れ家を設け、一揆の機会をうかがっていました。
槍や刀などを密造しながら、作戦を立てていたのです。
しかし、問題が・・・
蜂起するにはキリシタンだけでは人数が足りなかったのです。
「キリシタンにならなければ討ち果たす!!」と、農民たちを脅し、無理やり引き込みました。
彼らは”無理なりキリシタン”と呼ばれました。

一揆勢はキリシタンだけではない・・・それを知った信綱は、一計を案じます。
知恵伊豆の起死回生の一手とは・・・??

2月1日、兵糧攻めを続ける中、一揆勢にキリシタンでない者がいると知った信綱は、これを利用します。
内部の結束を崩しにかかったのです。

手紙・・・
熊本藩に捕らえられていた四郎の甥・小平に手紙を持たせ・・・一揆勢に手紙を届けさせます。
 家光公はキリシタンを処刑する一方、無理やりキリシタンにされているものに至っては助命する!!
 キリシタンの中に後悔し、改宗する者がいれば助命する!!
しかし、一揆勢の指導者たちは、この交渉に応じず・・・。

籠城戦で勝つためには、援軍が肝要です。
一揆勢はどこからの援軍を待っていたのでしょうか??
発掘から、彼らはイエズス会の影響下にありました。
幕府は、一揆の後ろにポルトガルがいることをかなり警戒していました。
当時ポルトガルは、スペインと共に強大な権力を持っていました。
しかも世界進出を目論んでおり、アジアにも植民地を拡大・・・その触手の及ぶことを、幕府は恐れていたのです。
そこで、ポルトガルと戦っていたオランダと手を組んだのです。
そして、長崎平戸のオランダ商館に、海と陸から原城を砲撃するように依頼します。
しかし、幕府内部で強固な反対に・・・
熊本藩主・細川忠利は、外国船の力を借りるのはいかがなものか・・・恥辱である!!と反対!!

オランダ船から砲撃!!
おまけに待てど暮らせどポルトガル船は来ず・・・。
ポルトガルは本当に来ることになっていたのでしょうか?
日本全土となり、勝ち目があれば来る、勝ち目がなければ来なかった??

当時のポルトガルの拠点はマカオでした。
マカオから日本までは帆船・・・季節風は北風を受けて、この季節は日本へ針路をとることができません。
ポルトガルが指示しても、中尾から援軍を送ることは無理だったのです。

2月10日・・・籠城を始めてから2か月・・・一揆勢の兵糧と弾薬は底をつき、飢えによって動けない人々も・・・
そんな中、碁を打っていた天草四郎の左袖を鍋島軍の弾丸が撃ちぬいたのです。
神に守られて不死身と思ってた四郎が撃たれた・・・
神の子ではなかった・・・一揆勢は不吉と動揺し、四郎の求心力は瞬く間に低下・・・
原城を抜け出す者も出てきました。

一揆勢の投降者は1万人に・・・!!
窮地に陥った一揆勢・・・幕府軍から兵糧と弾薬を奪い取ろうと闇討ちをかけるも失敗・・・
多くの死傷者を出してしまいました。
信綱は生け捕りにしたものを尋問すると・・・城内の米が尽きていることが判明。

一揆勢が弱っている・・・!!と、信綱は総攻撃をかけることに・・・!!
2月28日、12万の幕府軍による一斉攻撃が始まりました。
数百本の火矢が放たれ、本丸は炎上!!
息もできないほどの黒鉛の中・・・一揆勢は小石から鍋、釜をも投げつけて抵抗!!
壮絶な決戦となりました。
幕府軍の記録には、老人、女性、子供までも皆殺しにしたとあります。
この時信綱は、四郎を生け捕りにするように命じていましたが・・・討ち取られてしまいました。
武装蜂起からおよそ4か月・・・江戸時代最大の内乱は、壮絶な結末に終わりました。

その2か月後、幕府は島原、天草の領主に対しても厳しい沙汰を・・・。
天草を治めていた唐津藩主・多羅沢堅高は領地を没収され自刃、お家断絶。
島原藩主・松倉勝家は流罪となり処刑。
領民たちが蜂起するほどの悪政に対する沙汰でした。

島原の乱における幕府の死傷者は、全国の武士の1%に当たるおよそ1万2000人。
さらにかかった費用も莫大で、悪性の代償はあまりにも大きなもの(40万両=400億円)でした。

蘭の終結後、幕府は原城を徹底的に壊し、石垣の外に一揆勢の遺体を埋めました。
平成になって発掘調査が行われるまで封印されていた原城からは、たくさんの遺骨が見つかっています。
幕府の処罰は厳しく、島原、天草のキリシタンをほぼ根絶やしにし、禁教令を強化。
ポルトガルとの国交を断絶し、鎖国体制に入っていきます。

学んだことは・・・武断政治の限界で、文治政治への変換の必要でした。
一揆勢の尊い命は、江戸時代の日本をながい泰平の世へ導いてくれたのです。



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1657年1月18日、江戸の町で起きた火災は3日間燃え続け、町を、人を、江戸城天守をも炎に包んでいきました。
江戸の2/3を焼き、10万人を死に追いやった・・・明暦の大火。
後の関東大震災や東京大空襲などと並ぶ、日本史上最大級の災害となりました。


明暦3年1月18日、午後1時ごろ・・・
江戸城の北、本郷にあった本妙寺から出火。
現在の文京区本郷5丁目にある本妙寺坂付近です。
火は、北よりの風にあおられて南東へ・・・。
湯島、駿河台の大名屋敷を次々と焼いていきます。
信仰の場であった湯島天神や神田明神にも延焼。
日本橋にあった吉原や劇場のあった地域までも壊滅状態!!

午後5時ごろになっても日はおさまりません。
西からの風に代わり・・・火は東方向へ・・・
八丁堀の通りは、鍋や布団など家財道具を手に逃げまどう人たちでごった返しました。
車長持ちに荷物を乗せて逃げる人も・・・それが道を塞いでしまったので、さらなる混乱をきたしました。
火の勢いはとどまることを知らず、停泊中の船にまで飛び火!!
隅田川を飛び越して、霊岸島へと広がっていきました。島に祀られていた寺は炎上・・・
さらにその先にあった佃島、石川島も焼き尽くしたのです。

どうして被害が広まったのでしょうか??
火事が起こった1月18日は・・・現在の3月初旬・・・。
この時の江戸では80日以上雨が降っておらず、井戸は枯れ、空気はひどく乾燥していました。
小型台風並みの季節風が吹いて砂煙を巻き上げていました。

過密都市・・・
江戸開府から50年余り・・・その間に町は急激に拡大し、人口は50万人。
どうして人口が急増したのでしょうか??
1635年、幕府の政策として参勤交代制度化。
大名達は、上屋敷、中屋敷、下屋敷を構え、家臣を常駐させます。
大大名ではこれに加えて抱屋敷もありました。
これによって武家地は密集化が進み、さらに新しい町に全国から一旗揚げようと商人たちも町人地に集まってきました。
密集していたので、延焼が激しくなったのです。


さらに情報の錯綜。
火の手が迫った伝馬町の牢獄では・・・
牢屋奉行の石出帯刀は独断で、牢に戻ると約束させ、囚人たちを解き放ちました。
囚人たちは石出の措置に感激!!
全員戻ってきたと言います。
しかし、この人道的措置が2万3000人もの死者を出した浅草橋門での悲劇を生んでしまいました。
浅草橋門にはこの時火災から逃れようと多くの人々が押し寄せていました。
しかし、門が閉じられていたのです。
浅草橋門の門番たちが、小伝馬町の囚人たちが脱獄したと誤報を信じ、囚人たちを外に出すまいと門を閉ざしてしまったのです。
背後から迫ってくる火に人々は焼かれ、門をよじ登った者は堀に落ちて溺れてしまいました。

防火体制の甘さ・・・。
人口が急増し、火事が多発しても、町にはまだ火の見櫓も、半鐘もほとんどありませんでした。
消火活動は、破壊消防でした。
当時は大名火消しのみで、町火消はこの63年後に設けられます。当時は町人たちの自助努力でした。

甚大な被害をもたらした明暦の大火・・・
その日がおさまったのは、1月19日午前2時ごろでした。
半日燃え続け・・・四十八町、5.3平方キロメートルを焼き尽くしていました。
大勢の人が行方不明者を探して彷徨っていたと言います。

それでは本妙寺の出火原因とは??
振袖火事??新都市計画のための幕府放火説??
出火原因がわからなかったので、様々なうわさが飛び交います。

江戸時代に火事を出してしまうと江戸追放などの処分がなされますが、本妙寺は火元であるにもかかわらず処分なし。
出火元である本妙寺になんの処分もなかったので、もう一つの説が出てきます。
本妙寺に隣接した老中・阿部忠秋邸が出火元という説です。
おまけに本妙寺は大火後、寺の格が上がる厚遇を受けています。
また阿部家から供養料が、関東大震災まで納められています。

実際には確証がなく、断定はできませんが・・・。

48もの町を焼き、半日ほどで自然鎮火した火災。
ところが再び火の手が上がります。
9時間後・・・19日の午前11時ごろ。
火元となったのは、小石川にあった大番衆与力の宿所。
出火原因は不明。
北西の風にあおられて、火は南下。
水戸藩屋敷を焼き外堀を越えていきます。
麹町・・・大名屋敷を次々と焼いていきました。
大名屋敷から逃げた馬が、通りを人々を蹴散らして走ったので、多くの犠牲者が出ました。

そして火の手はついに江戸城へ!!
北の丸が炎上!!
火は天守へ・・・!!
江戸城天守は、壁に合板を用いて耐火建築だったことから燃えることはないと誰もが安心していましたが・・・
正午過ぎ、高さ60メートルを誇る日本一の天守は火柱となってしまいました。
猛烈な火災旋風が発生。これによって、天守の窓が開き、そこから炎が入って内側から燃え広がったのです。
弾薬庫が爆発!!
火は、本丸御殿へと迫ります。
幕閣たちは時の第4代将軍・家綱をどこへ避難させるかで議論!!
しかし、先代の将軍の異母兄弟であり幕閣であった保科正之は・・・

「本丸に火が回ったら西の丸に移ればよい。
 西の丸が焼けたら本丸の焼け跡に陣を建てればよい。
 将軍を動かすなどもってのほかだ!!」

一同、返す言葉もありませんでした。
保科は、リーダーである将軍が軽々しく動けば、人々が動揺すると考えたのです。
将軍は保科の提案通り、西の丸に避難しました。

ところがその時大奥では女性たちがパニックに・・・。
その女性たちを救ったのが、老中・松平信綱でした。
女中たちは大奥以外の部屋に入ったことがないので、どうやって西の丸に行けばいいのかわかりませんでした。
そこで、畳を裏返し、それを道しるべとしたのです。
午後4時ごろ・・・風は西風に・・・火は西の丸をそれて東へ向かいました。
京橋付近では次々と橋が焼け落ち、2万6000人が亡くなりました。


1月19日午後4時ごろ・・・麹町5丁目の町屋から第三の出火が・・・。
西風にあおられて、火は西の丸、桜田門、日比谷、増上寺・・・
1月20日午前8時ごろ自然鎮火。。。
海岸べりで止まりました。

この3つの火元から出た火事の3日間で、江戸の6割を焼き尽くしました。
明暦の大火による被害は・・・
大名屋敷・・・・・・・・160軒
旗本屋敷・・・・・・・・770軒
   町家・・・・・・・・800町
   寺社・・・・・・・・350か所
     橋・・・・・・・・60基
   倉庫・・・・・・・9000か所

焼失面積は、およそ25平方キロメートル、千代田区と中央区のほぼ全域、文京区の60%が焼けてしまいました。
死者の数はおよそ10万人、その夜から大雪が降ったので、焼け出された人が凍死したことも原因の一つです。

町を襲った明暦の大火・・・その救済措置とは・・・??
余りにも甚大な被害に・・・すぐさま救済措置をとったのが、保科正之をはじめとする幕閣でした。

①情報統制
鎮火した1月20日、保科は老中・松平信綱の名で関東一円に将軍の無事を伝えるお触書を出しました。
人々を安心させるためです。

②食糧配給
翌日には江戸市中に6カ所の仮小屋を設置し、かゆの配給を始めました。
その量、一日1000俵。
配給は、2月12日までのおよそ20日間行われました。
さらに、焼けてしまった幕府の米蔵の米も放出。
焦げているとはいえ、貴重な食料となりました。

③金銭援助
保科は大名から下級武士まで、階級に関わらずに援助をしました。
さらに、町人たちにも16万両の資金援助をしようとしたところ・・・幕閣たちは反対!!
しかし、
「幕府の金蔵に蓄えがあるのは、このような時に使って民を安堵させるため、救済しないのであれば、たくわえなどしない方がましである!!」
と、庶民への援助を断行!!

保科はこれらの救済措置を矢継ぎ早に行いますが・・・
しかし、自身もこの時、大火で大きな痛手を負っていました。
跡継ぎである正頼が火災により死去したのです。
数日間喪に服しただけで政務に戻る保科正之。

焼き尽くされた江戸の復興プロジェクトを始める保科。
しかし、幕閣の人々は・・・焼け落ちた天守を建てようとします。
保科は、この天守建設のお金を、町の復興に使おうとします。
軍備の象徴だった天守など、もはや無用の長物!!
太平の世にこの判断は正しい事でした。
以後、江戸城天守が再建されることはありませんでした。

保科は復興のための木材は買わない、と、うわさを流すことで、材木商たちが材木の値段をつり上げようとするのを阻止します。
在庫を一挙に放出する材木商たち・・・価格は安定し、材木を手に入れやすくなりました。
さらに参勤交代の停止や、期間短縮を決行!!
深刻な食糧不足のために、国元に人々を帰すことで口減らしをしたのです。

そんな江戸復興プロジェクトとは??

①過密化の改善
被害拡大の原因であった過密化の改善を試みます。
大名屋敷を移転します。
例えば江戸城内にあった尾張、水戸、紀州の上屋敷をそれぞれ外堀の外へ・・・
その跡地は、建物を造らず、馬場や菜園にし、火除け地としました。
今の皇居・吹上御苑のところです。
これによって大名屋敷は玉つきに郊外に押しやられます。
青山、赤坂、麻布はこの時に整地されました。
また、移転によって次からは、びっしりと建物を建てないようにしました。
日本橋にあった吉原遊郭も、浅草の北に移転、新吉原として200年賑わうこととなります。

②道の拡張
火事の際、逃げ惑う人々でごった返した道も拡張します。
日本橋通りなどのメインストリートは、およそ2倍に広げられ、万が一に備えて真っすぐに道を通します。
通りに面した商家には、それまで柱がついた2メートル近いひさしがありましたが、これを三尺に規制。
居住用の町屋はひさしを一間つけることが義務付けられ、三階建ては禁止。
火災が起きたときにひさしから屋根に上り、破壊消防をしやすいようにしました。

③耐火建築の奨励
新しく建物を建てるときは、藁葺や茅葺でなく牡蠣殻葺に・・・
外壁は土や漆喰で塗って、木造部分を見えないようにしました。

迅速に推し進められた江戸の復興、その最後の一手は・・・橋の増設。
明暦の大火が大きな被害となったのは、人々が隅田川を渡れなかったことでした。
というのも、幕府は隅田川を天然の堀としていたので防犯上、千住大橋より下流に橋をかけることを禁じていたのです。
両国橋・・・後に、見世物小屋の営業が許され、江戸一番の賑わいを見せることとなります。
さらに新大橋、永代橋がかけられ、隅田川の東側は大きな発展を遂げていきます。
この復興事業によって、一気に拡大した江戸。
およそ1.5倍にまで広がります。
もはや戦国にあらず・・・軍事的要素を捨て去った江戸は、この時、平和都市へと生まれ変わります。

上方文化を受け入れるだけだった人々は、新しくなった江戸で結束し、独自の文化をはぐくんでいきます。
明暦の大火後に建てられた寺・・・墨田区両国にある回向院。
道端に放置されていた犠牲者の人々を見て心を痛めた保科正之が、創建させました。
彼らを供養するために・・・。



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戦国乱世を告げた大坂夏の陣・・・
徳川家による天下泰平の時代が到来・・・?
そのわずか22年後・・・江戸幕府の屋台骨を揺るがす大事件が九州で起こります。

領主の過酷な圧政と、キリシタン迫害に人々が立ち上がった島原の乱です。
日本最後の宗教戦争です。
およそ3万7000と言われるその一揆勢を率いたのは、神の子・天草四郎でした。
それを鎮圧する幕府軍12万の総大将は老中・松平信綱・・・”知恵伊豆”と呼ばれた男です。
戦乱の舞台となったのが原城・・・歴史的に稀な大激戦・・・凄惨な戦いとなりました。

江戸時代の初め・・・
幕府によるキリシタン禁止令・・・禁教令によって、全国のキリシタン信者たちは、過酷な迫害を受けていました。
その頃・・・追放された外国人宣教師の予言が、天草に残っていました。
今から25年後・・・天より神の子が現れ、キリスト教をこの地に再興するであろう・・・と。。。
予言通り、その25年後に現れたのが天草四郎でした。

様々な奇跡によって神の子と呼ばれました。
武士の子として生まれた天草四郎、家族はみなキリシタンでした。
17世紀・・・世界規模のな異常気象が起こっていました。
島原、天草地方も、深刻な飢饉に陥りました。
しかし・・・藩主がとった政策は・・・過酷なものでした。
重税を課し、未納のものには拷問が・・・!!
人々は、四郎の登場を待ち望んでいたのです。

1637年10月25日、島原の民が代官を殺害・・・
2日後、有明を挟んで天草に飛び火し。。。
一揆勢は、原城で合流し、3万7000の兵に膨れ上がりました。
四郎たち一揆勢は、幕府に反旗を翻したのです。

その報告は2週間後に江戸に・・・
一揆鎮圧のために、家光の信頼が篤かった板倉重昌が総大将に選ばれ出陣しましたが・・・
幕府はこの時、いくつかのことを読み違えていました。

1638年正月・・・原城総攻め。
ところが・・・幕府軍の死傷者が多数・・・!!板倉重昌も銃弾に斃れます。
初戦は、一揆勢の大勝利となったのです。

幕府の誤算はまず、原城にありました。
断崖の上にある本丸跡・・・原城はその20年以上前に廃城となっていたようですが・・・
巨大なやぐら門・・・迷路のような虎口・・・
高い防御力を誇る堅固な城だったのです。

発掘された住居跡では・・・
個々のかまどなどの後が見つかりません。
つまり、寄せ集め集団ではなく、組織的な軍団だったのです。
その中には、四郎の父や主君を失った牢人たちもいました。
彼等が統率したと思われます。

各地に使者を派遣して、キリシタンたちに決起を呼びかけます。

「四郎法度書」を出します。
・まきとりや水汲みを口実に、城外へ出るものが多いと言う、厳しく取り締まるように。
・互いを大切に思って、意見を交わすべきである。
 城内の者は、後世までの友達であるのだから。

外国に援軍を要請する???
当時日本と密接な関係にあったのが、オランダとポルトガルです。
ポルトガルはカトリックで・・・日本での貿易や布教を独占していたものの・・・度重なる禁教令で、その立場を追われていました。
一方、貿易を軸に幕府と関係を持っていたのが、プロテスタントのオランダです。
宗教的な対立と、アジアを巡ってオランダとポルトガル・・・二つの国も対立していたのです。
島原の乱の頃、インドのゴア沖で、オランダ船とポルトガル船が武力衝突していました。

救いを求めるのは、国内のキリシタンたちの援軍か、外国の援軍か??
そんな中、12万の軍勢を率いてきたのが老中・松平信綱。。。決戦のときが迫っていました。
二人の頭脳戦が始まりました。
信綱にとっても計算外に強かった天草軍、どう対応していくのでしょう?
一揆勢の力に侮ることなく、防備に力を入れます。
陸地に柵を作り、原城を厳重に取り囲みました。
作戦①
地下道を掘り、城内への侵入を試みます。
そこに天草軍も穴を掘り、糞尿を投げ込み対抗します。
作戦②
忍者を送り込みます。
が、九州の方言&キリシタン用語で理解できず失敗。

なかなか作戦が成功しません。。。

しかし、キリシタン信仰は許せない・・・
早くしなければ、各地のキリシタンが蜂起するかもしれないし、外国が加勢してくるかもしれない・・・!!

信綱が着陣して一週間後・・・
有明海に外国船がやって来ました。
それは、信綱が依頼したオランダ船だったのです。
オランダ船は、原城に砲撃します。
しかし、被害は驚くほど少なかったのです。

そこには、信綱の驚くべき策がありました。
オランダ船を頼ったのは、一揆勢の幹部が”南蛮から援軍が来る”と籠城している他のものを騙しているから・・・。
だから、異国人に攻撃させれば他の者も”援軍など来ない”としり、キリシタンどものウソに気付くのではないか??
オランダ船による砲撃は、信綱が四郎たちに向けた心理戦だったのです。

城内にはキリシタン以外の農民たちもたくさんいるのに強硬策は必要なのか??
矢文で、好条件による和解案を提示していきます。

「投降した者は家に帰らせ耕作を許す。
 米2000石を支給した上、今年の年貢は免除する。」

しかし、城内では強硬策が・・・!!

信仰心の篤い四郎たちは強気です。
が・・・場内からの文に・・・

「城内の大将3名の者は、成敗していただいて結構。
 そのかわり、残りの籠城者の命は助けていただきたい。」

それは明らかに四郎とは違う意見でした。
一枚岩ではないのか・・・??
探りを入れ出しました。
四郎に書状を手渡します。
キリシタンは許さないが、無理にキリシタンにされている者は、これを除名する・・・と。
しかし・・・降参はしない・・・!!

信綱と四郎・・・どうする???

かつて島原を治めていた有馬勢が放った矢文で・・・
信綱の命によって山田右衛門作との会談が持たれることになりました。
密約が交わされます。
内容は、幕府軍を城に導き、生け捕りにして四郎を誘拐しようとしたのです。

どうして生け捕り???

宗教的なカリスマ的指導者となると、殉教者になって美化されてしまう・・・!!
それだけは避けたい!!
そして、カリスマ四郎の無様な姿を見せつけることの生け捕りだったのです。

しかし、右衛門作の裏切りはすぐに露見し、捕えられてしまいました。
信綱の交渉も八方ふさがりに・・・
と思っていたら・・・籠城した者の胃の中からは・・・青草状のものや、麦の葉しかなくなっていました。
食料が尽きかけている???

総攻めか、懐柔策か??
決断は総大将の信綱に・・・!!
長期にわたっての戦いになってしまったので、幕府軍の統率も???になってきていました。
苦渋の決断の末、総攻めを決断したのでした。

1638年2月27日、総攻撃が始まりました。
死力を尽くした戦いで、幕府軍は12万のうち死傷者は1万にも上り。。。

四郎は・・・信綱の”生け捕りにしたい”意に反して討ち取られてしまったのでした。
かくして・・・2か月に及んだ一揆は終焉を迎えたのでした。
籠城した者はほとんどが殺害された島原の乱・・・。
今でもたくさんの骨が発見されます。
そこには、上半身と下半身を人為的に切断したものも多く・・・
籠城した一揆勢が死んだ後も・・・幕府はキリシタンを怖れていたようです。
「キリスト教の人は復活する・・・!!」
と思われていたので、意図的に行われたようです。

戦乱ののち、天草では農民が激減・・・
田畑は荒廃したと言います。
天草四郎・・・1638年享年16歳でした。

島原の乱集結の翌日・・・信綱は「もはやこの地は敵地に非ず・・・!!」と宣言します。

戦で荒廃したこの土地の復興を視野に入れていました。
信綱は、一揆勢を処分しただけではなく・・・領主も罰します。
島原藩主・松倉勝家死罪。
乱ののち、天草地方は幕府の直轄地となり、鈴木重成を天草に派遣し石高を半減するなど復興に力を注ぎました。

島原の乱以降、幕府は大々的なキリシタン迫害をやめ、キリシタンもまた武力蜂起を選ばなくなりました。
隠れキリシタンは、幕府の目をかいくぐり・・・信仰されてきました。

1年後・・・ポルトガル船の来航を禁止し・・・
鎖国体制が整っていくのでした。

鎖国の中で200年余り、戦いのない時代が続くのです。
それは、世界史上まれにみる長期間の平和な時代の実現でした。
島原の乱は、見えない平和憲法が領主と百姓の間に横たわっている事件でした。

島原の乱ののち・・・松平信綱は明暦の大火の復興に尽力します。
そして・・・島原の乱から24年後・・・67年の天寿を全うしたのです。
幕府の屋台骨を支え続けた人生でした。

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