日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:板垣退助

明治20年、政府内で検討された一通の文書・・・

”右の者、満三年皇居を距てる 三里以外の地、退去” 

名指しされたのは、福沢諭吉!!
明治最大の啓蒙思想家にして教育者・・・
”天は人の上に人を作らず”で始まる学問ノススメは、あまりにも有名です。
ところが・・・明治政府は福沢を、危険人物とみなし、周辺に密偵を張りつけ、誰と会い、何をしゃべったかまで逐一報告をさせていました。
その訳は・・・”福沢は見え過ぎていた!!”

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幕末、三度にわたって洋行した福沢は、理想的な政治体制を見出します。
イギリス議会政治です。
血を流すことなく政権交代ができる・・・福沢は、次々と啓蒙書を出版、イギリス流議会政治の導入を解き続けます。
その前に立ちはだかったのが、薩長藩閥政府でした。
福沢の国民への影響力を削ぐために、政府内で密かに進められた工作・・・そして引き起こされたのが、政府から福沢シンパを追い出す明治十四年政変でした。

時の権力者が恐れた福沢のすごみとは・・・??

東京・三田の慶應義塾大学・・・明治の末に建てられた図書館旧館に、福沢が生涯で目指したステンドグラスがあります。

”ペンは剣よりも強し”というラテン語の上に描かれているのは、鎧兜をつけた武士が馬から降り、西洋文明の象徴である女神を迎える様子です。
封建時代の旧制度を改め、文明の世を切り開くという福沢の理想が描かれています。
剣の時代からペンの時代へ・・・
福沢の思想は、いかに形作られたのでしょうか??

福沢と西洋の出会いは蘭学でした。
緒方洪庵が大坂で開いた蘭学塾・適塾に、郷里・中津から留学、修行に励んでいました。
下級藩士の次男坊だった福沢は、最新の西洋知識を身につけることで、人生を切り開こうとしたのです。
福沢の修行の様子を伝える資料が残されています。
福沢諭吉が初めて本格的に翻訳した原稿・・・ペルの「築城書」
西洋式の城の作り方の本で・・・それを通してオランダ語を翻訳する力を身につけ、西洋のことを知りたいという意欲が感じられます。
福沢は、オランダ語の原書を写し、独力で翻訳、精密な図も添えた力作にしました。
福沢諭吉なる蘭学に秀でたものがいる・・・評判は、中津藩で一気に広まりました。

1585年、福沢は、蘭学塾を開く藩命によって江戸へ・・・!!
しかし、待っていたのは驚くべき現実でした。
開港したばかりの横浜へ行ってみたところ・・・苦心して学んだオランダ語が全く通じない・・・!!
英語が世界の共通語となっていました。
一念発起して、英語を学び始めます。
その決断が人生を大きく開くことになります。
1860年、幕府に英会話能力を買われ、従者としてアメリカへ・・・
さらに1862年、ヨーロッパ諸国を歴訪した福沢は、旅の途中、国家のありようを大きく揺るがされる経験をしました。
あるオランダ人医師から、イギリスの政治について講義を受けたのです。

”イギリスの政治は、国王、上院、下院、3つの要素から成り立っており、政党は、自由・保守の2つがある”

福沢が一番理解に苦しんだのは、イギリスの二大政党制でした。
江戸時代、日本国内では徒党を組むことは禁止されていました。
イギリスの議会には、野党が存在して、野党を含めて議会が円満に運営されていました。
後に、福沢は日本にイギリス流の二大政党制を導入し、野党の役割が重要だということを強調していくことになります。

欧米諸国に追いつくためには、政治体制の大変革が必要・・・そう、福沢は悟りました。
ところが、帰国した福沢を待っていたのは・・・

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1864年、禁門の変が勃発。
過激な攘夷論を唱える長州藩が幕府に公然と反抗、武力衝突を起こします。
その後、禁門の変で幕府側についた外様の大藩・薩摩も、長州と同盟を締結し、倒幕に向けた動きが加速していきます。

1866年7月、幕府に「長州再征に関する建白書」を執筆。
幕府に提出しました。

”長州へ軍事行動を起こし、一挙に征服、その勢いで諸大名も制圧し、朝廷の動きも取り鎮める
 前日本国封建の制度を一変させるべきだ”

将軍が一元的に権力を掌握して、外交を積極的に展開して、産業、文化を積極的に西洋から取り入れて変えていく・・・近代化、文明化を成し遂げて、西洋に追いついていく・・・!!

しかし、その提言が実を結ぶことはありませんでした。

1866年、第二次長州征討・・・幕府は惨敗・・・
翌年、将軍・慶喜は、大政奉還を行って、朝廷に政権を返上してしまいます。
福沢が期待をかけた幕府は消滅してしまったのです。

そして始まった明治という新時代・・・
薩長を中心とする新政府は、文明開化路線を採用。
職を失った幕府の通訳経験者も数多く採用されました。
福沢にも、役人にならないかという誘いが幾度となく届きます。
しかし、福沢は固辞し続けました。

”もはや武家奉公もたくさんに御座候
 この後は双刀を投棄し、読書渡世の一小民と相成り候積”

新時代に福沢がどう向き合ったのか??
上野戦争・・・大砲の音がとどろく中、いつもと変わることなく経済の講義をする福沢がいました。
福沢が力を注いだのは若い世代の教育でした。

1872年に発表された「学問ノスゝメ」
天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らずといへり・・・
封建的身分制から脱した明治の代を、学問を身につけ社会に貢献し、身を立てよという福沢の考えを表したものです。
政治と一線を画し、在野の言論人として生きる・・・
福沢は、新時代に新たな一歩を踏み出しました。

幕府が倒れて数年・・・明治維新は新たな局面を迎えます。
佐賀の乱をはじめとする士族の反乱です。
従来の特権を取り上げられたことに対して各地で武装蜂起、西南戦争まで続きました。

武力ではなく言論で戦おうとする一派も現れます。
1874年、板垣退助・立志社を設立。
薩長藩閥の専横を押さえるには、国会開設以外にないと主張し、自由民権運動は大きなうねりとなります。
当時の心境を福沢は・・・

”うかうかしていては、次第にノーレジを狭くするようあいなるべく、1年ばかり学問する積なり”

激変する時代に対応するには、確固たる政治理論が必要だ!!
そう痛感した福沢は、西洋の最新の政治思想書を大量に買いこみ、1年かけて読み込みます。
1875年「文明論之概略」・・・満を持して発表します。
西洋と日本の文明を比較し、今後日本がどのような道を進むべきかを説いた渾身の論説です。
この本の草稿には、出版の際に削除された部分があります。
それは、議会開設についての福沢の提言です。

”民会の体裁は、速に作らざるべからず”

国会開設の前に、まず地方議会という民会優先論です。
あくまで地方の議会をまず作って、自分の地域のことを自分で決められるようになったうえで、その次の段階として国会を作るべきだと考えていました。
下から変えて、基礎が固まっていないと国家としての基盤が脆弱になってしまう・・・!!
もう一度政治と向き合うことを決めた福沢が、慶應義塾に建設したのが、日本初の演説会堂・三田演説館です。
演説や討論という、当時日本の存在しなかった概念は、この時福沢が導入したものです。
門下生たちは、日夜福沢の前で意見をぶつけ合い、弁舌家としての腕を磨きました。
その後彼等は、全国で演説会や講演を開き、地方議会開設を訴えていきます。
政府は、選挙による地方議会導入に踏み切ります。
理想の政治体制に、その第一歩が記されました。

1879年、新たな論説を発表します。
国民に新時代への心構えを説いたものです。
「民情一新」です。
そこには、注目すべき一説が・・・

”英政を美なりとしてこれを称賛する”

日本が目指すべきは、イギリス型の議会政治だと高らかに宣言したのです。
福沢が評価したのは、イギリスの議院内閣制の仕組みです。
2つの対立する政党のうち、議会で多数を占めた政党の党首が首相となり政治を行う・・・
しかし、次の選挙で野党が多数派となると首相は一議員に戻る・・・
政権交代は、平均して3~4年に一度おこるので、議員は権力にしがみつくことがなく、建設的な議論が行われる!!
はじめて知ったときには、呆然と眺めるだけだったイギリスの議会政治が、福沢にとって明確な目標となったのです。

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一方、その頃、政府の中でも国会開設の議論が進んでいました。
どのような政治体制を目指すのか、国民に示す必要が・・・目をつけたのが、民間に影響力のある福沢でした。
1880年12月、福沢は、政権中枢の参議・伊藤博文・井上馨・大隈重信に呼び出され、次のような申し出を受けました。

”政府はこの度、新聞を発行することとなった
 巷の新聞は、国民を扇動して社会の安寧を妨げてばかりだ
 政府の主張を書いた新聞が必要だ
 ぜひ引き受けてほしい”

在野の言論人を標榜する福沢にとって、政府の御用新聞など問題外・・・
1か月後の1881年1月、申し出を断ろうと井上馨を訪ねた福沢・・・
そこで予期せぬ一言を聞かされます。

「しからば打ち明けよう
 政府は国会を開くつもりだ
 吾輩も国会開設に向け意を決した以上、一身の地位を惜しむものではない
 いかなる政党が進出しようとも、多数を得たものならば政府を譲り渡そうと覚悟を定めた」

伊藤と大隈も、議院内閣制導入に同意しているという井上の言葉に、福沢は大いに感激しました。

「この諭吉、もちろん国のために全力を尽くします」

悲願のイギリス型議会制度がついに実現する・・・!!
福沢にとって、生涯最良の日でした。

1881年10月、福沢にとって青天の霹靂ともいうべき事態が起きます。
新聞発行を頼んできた参議のひとり・大隈重信が政府から追放されたのです。
明治十四年の政権です。
発端は、この年の3月、大隈が政府に提出した意見書でした。

”立憲の政は政党の政なり”

大隈は、この意見書でイギリス型の議員内閣制を主張していました。
この大隈の動きに、伊藤博文が激しく反発したのです。
福沢との会談の時には、志を同じくしていた伊藤にどんな心境の変化があったのでしょうか??

その謎のカギを握るのは・・・井上毅!!
後に、憲法制定にも関わることになる法制官僚です。
7月12日、伊藤博文宛に井上毅の「内陳」が・・・

”現在巷で発表されている憲法案は、全て福澤の私擬憲法が案に基づいている
 福澤の勢力は、知らないうちに人々の脳内を泡立たせ、発酵させている”

井上は、伊藤に大隈の意見書の背後には福沢がいるとにおわせました。
さらに、福沢の思想の危険性を再三にわたって吹き込み、伊藤の考えを一変させたのです。
井上毅は、民衆が力を持つ国家感に対しては批判的でした。
人心が福沢に行ってしまえば、政治制度が議院内閣制になる可能性がありました。
実際に、選挙をやった時に、福沢派に負ける可能性が高い・・・!!
そうなると、立法権も、行政権も失い、明治政府にとって危険極まりないこととなります。
井上の説得に動かされた伊藤は、大隈を呼びつけ詰問します。

「大隈さんの主張は、天皇の大権を人民に投げ捨てる様なものだ
 参議の住職にある君が、福沢如きものの代理を務めるとは、笑うべきではないか」

大隈の政府からの追放が決定します。
その下で官僚として働いていた福沢門下生・・・矢野文雄・尾崎幸雄・犬養毅らも一斉に官職を去りました。
イギリス型議会政治への道は、閉ざされるかに見えました。

福沢諭吉“学問のすゝめ”第1回「学問で人生を切りひらけ」



1882年4月、福沢のもとに来訪者が・・・大隈重信です。
自らの政党・立憲改進党を結成したばかりでした。

「ぜひ福沢先生も、改進党に入り、ともに尽力していただきたい」

政治家となり、現実を変革する道を提示されます。
選択を迫られた福沢は・・・どうする・・・??
政治家に転身する??それとも、在野の言論人??

福沢の発言の文書が残っています。

”余は諸種の人を育成するのを任とすれば、一派の政党に与するを欲せず”

大隈の誘いを断り、あくまで言論で立つ道を選んだのです。

その後、福沢は自ら創刊した「時事新報」誌上で、政府にも特定政党にも偏ることなく、持論を発表し続けます。

”国会開設の準備として、最も肝要なのは官民調和である
 政府は真正面から人民の議論を圧迫すべきではないし、民権家が一身の不平を漏らすために、民権の名を借りるのもいただけない
 官民が調和した上で、藩閥の寡人政府を改め、多人政府となすことが必要だ”

1882年4月から5月にかけて連載されたのが皇室の在り方を書いた「帝室論」です。

”帝室は直接に万機に当たらずして万機を統べ給ふものなり”

帝室の役割は、学術、芸術の奨励や、叙勲などに留めるべきで、政治とは離れ、国民精神の統合であるべきだ・・・
福沢は、あくまでイギリス型の立憲君主国家を目指していました。
しかし・・・発布された「大日本帝国憲法」・・・天皇大権が規定され、議会の権限が弱い、プロイセン型国家とすることが定められました。
政府と正反対の立場をとる福沢の周りには、密偵が張り付き、発言は逐一報告されました。

過激派に同情とも思える福沢は、政府にとって見過ごすことのできないものでした。
福沢は最大級の危険人物とみなされ、一時は首都東京からの追放すら検討されました。

生涯を在野の言論人として通した福沢は、1901年、病により死去・・・66歳でした。
あくまで官と対峙した思想家らしく、死後も国家からの叙勲を受けることはありませんでした。
福沢の死から40年・・・日本は英米を相手とする太平洋戦争に突入しました。
そして敗戦・・・明治国家体制は終わりをつげ、大日本帝国憲法は現在の日本国憲法に改正されました。
国民統合の象徴となった昭和天皇は、福沢諭吉の帝室論を知り、次のように感想を残しています。

「この書の中に説かれておるところは、すこぶるもっともである
 わが意を得た」

象徴である天皇のもと、議院内閣制の政府が国政に当たる・・・
福沢の理想は、戦後ようやく制度化されたのです。

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昭和の選択です~~!!
昭和7年5月15日、海軍青年将校ら9人が首相官邸を襲撃しました。
世にいう五・一五事件です。
殺害されたのは、首相・犬養毅。
憲政の神様と称された政治家の死によって、戦前の政党政治は終わりをつげ、日本は軍国主義を突き進んでいきます。
どうして犬養は、軍によって殺害されなければならなかったのか・・・??

「侵略主義というようなことは、よほど今では遅ればせのことであるから、どこまでも私は平和ということをもって進んでいきたい」by犬養毅

満州事変を起こし、大陸侵略を謀る軍を真っ向から批判した犬養・・・
軍の暴走に歯止めをかけること・・・それは、政治家犬養の生涯の課題でした。
大正元年には憲政擁護運動を掲げ、政党勢力を結集して立ち向かいます。
軍の目論見を打ち砕いたその秘策とは・・・??

そして、首相として直面した満州事変。
犬養は密かに中国に使者を送り、和平交渉を行わせて事態を打開しようとしました。
和平まであと一歩だったと言われる密使外交・・・その真相とは・・・??

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東京・・・慶應義塾大学・・・政治家・犬養毅の原点ともいうべき場所が残されています。
日本初の演説会堂・三田演説館です。
郷里・岡山から上京した犬養は、明治9年慶応義塾に入学しました。
ここで、明治の言論界のリーダー・福沢諭吉と出会い、生涯をかける目標を見出しました。
言論で国を動かす政治家への道・・・!!
福沢は、日本にも西洋流の議会政治が必要だと考え、明治13年慶応義塾で模擬国会を開いています。
26歳の犬養も、弁士としてその演壇に立ちました。
反対論者の発言をことごとく論破していく犬養の姿を同級生は・・・

”颯爽たる風貌は満場を圧し、警句は口をついて出る有様で、既に将来の大宰相となる貫禄があった”

当時、日本はまさに言論の時代へと舵を切ろうとしていました。
自由民権運動の勃興です。
明治14年には板垣退助が自由党を、翌年には、大隈重信が立憲改進党を結成。
議会政治を求める機運が高まっていました。
明治22年・大日本帝国憲法が発布、明治23年・帝国議会開設されました。
選挙権を持つ者は、全人口の1%強と限られていましたが、立憲政治はようやくその端緒につきました。

この頃、犬養は福沢のつてで大隈重信の立憲改進党に参加、政治家として歩み始めていました。
議会開設に先立つ第1かい衆議院議員選挙で犬養は36歳で初当選を果たします。
待ちに待った議会政治の始まり・・・しかし、その前に立ちはだかったのが藩閥政治でした。

当時の政府は、明治維新を主導した長州藩や薩摩藩出身のものが要職を占め、議会の意向に左右されない独断的な政治を行っていました。
政党側が、政費節減・地租軽減を主張する民間政党を政府が弾圧!!
暴力や買収、選挙妨害が横行します。
こうした圧力に、自由党・改進党の二大政党の中にも次第に藩閥政府との接近を図る勢力が表れます。
それに、政党間の対立も加わり、議会政治は混迷を深めるばかりでした。
このままでは理想の政治は実現できない・・・やがて、犬養と藩閥との対立は、ある問題で決定的となります。

発端は、明治37年の日露戦争勃発です。
ロシアに勝利した日本は、満州南部に鉄道敷設などの権益を獲得しました。
当時、陸軍を掌握していた長州閥の山県有朋・・・。
山県は、ロシアとの再戦を見据え、戦時兵力を従来の2倍以上に増強することや、大陸利権の更なる拡大を主張しました。
犬養は、これを真っ向から批判しました。

”日露戦争後の戦後経営は大失敗だ
 原因は、国力に見合わぬ国防計画と、軍事計画にある”

犬養は、国家は経済を主として、軍備は従にしなければならないと思っていました。
日露戦争後、ロシアを敵とすべきではないと考えていました。
満州はマーケット・・・経済的に結合して、外交で平和的にやっていこうと考えていたのです。
しかし、その主張は、長州閥の認めるところではありませんでした。

大正元年、陸軍は政府に2個師団増設を要求。
時の首相は、西園寺公望・・・立憲政友会の総裁でした。
政友会は、明治33年に伊藤博文によって創設されました。
それを引き継いだ西園寺は、藩閥勢力となれ合い、長州閥の桂太郎と交互に政権を担当してきました。
しかし、財政難の中、軍への更なる支出はあまりにも負担が大きかったのです。
西園寺が要求を拒むと、犬養は陸軍大臣を辞職させ・・・
大正元年、西園寺内閣総辞職に追い込むという策に出ました。
後任の首相には、桂太郎が就任。
軍の要求は実現するかに見えました。
この時、犬養は58歳・・・立憲主義を掲げ、自らの政党立憲国民党を旗揚げしていました。
藩閥の横暴に対し、犬養は決然と立ち上がります。

”この度の一戦は、小生の最後の一戦になるかもしれない
 万一敗れれば、全く政界を去る覚悟だ”

大正元年12月19日、歌舞伎座・・・犬養は、演壇に立ちました。
大正政変の幕開けです。

”今、政党人に一点の私心がなければ藩閥打破などたやすいことである!”

犬養には秘策がありました。
これまで藩閥との妥協を繰り返してきた政友会を倒閣運動に引き入れることです。
政友会もこれに応じ、党の論客・尾崎幸雄は犬養と共に憲政擁護運動を推進しました。
新聞には、連日2人の主張が掲載され、日露戦争後の重税に苦しむ民衆に藩閥の横暴をアピールしました。
そして迎えた大正2年2月5日・・・熱狂した民衆が議会を取り囲む中、犬養たちは桂内閣不信任案を提出!!
ところが、桂も反撃!!
宮中に働きかけ、政友会総裁・西園寺への勅語を引き出したのです。

「朕の意を体して争いは無事に収めよ!」

天皇の言葉を前に妥協に転じようとした西園寺・・・
しかし、犬養は、あくまで徹底抗戦を主張・・・政友会幹部にこう進言しました。

「西園寺公は、大命を奉ぜられるとともに、総裁を辞職なさるが良い
 政友会としては、最後まで憲政のために戦うべきが本筋である」by犬養毅

再開した議会で政友会は、不信任案を撤回せずと宣言、その断固たる態度と民衆の怒号を前に桂はついに内閣総辞職に追い込まれました。
藩閥の政治介入から、立憲政治を守り抜いた犬養は、尾崎と共に憲政の神様とたたえられました。
しかし、藩閥や軍との戦いは、まだ始まったばかりでした。

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大正3年、ヨーロッパを主な舞台に第1次世界大戦勃発。
直接戦場とならなかった日本では、軍需物資などの輸出が大幅に伸び、空前の好景気となりました。
資本家や財閥が潤う一方で、民衆は物価の高騰により厳しい生活を強いられました。
大正7年、富山を起点に米騒動が始まると、炭坑や都市の労働者の間でも社会的不満が爆発します。
各地で相次いで暴動が起こりました。
この状況を打開するために、犬養は政治をもっと民衆に開かれたものにすることが急務だと考えました。

”政治は、一部階級の独占たる迷夢より覚醒し、選挙権拡張を以て国民全体に国家維持の責任を負わすべし”

特権階級が政治をすると、それ以外の人の意見は反映されません。
社会的不満、社会的格差・・・第1次大戦後は、危機の時代でした。
国民みんながいろんな階層も協力して新たな日本を作っていかなければならない・・・!!

大正8年、選挙権拡大案を提出。
有権者の納税額と年齢を引き下げ、来るべき普通選挙への布石を打ったのです。
ところが、この案は時の首相だった政友会の原敬によって棚上げにされてしまいます。
政友会の支持基盤は、既に選挙権を持つ地方の財産家が多く、普通選挙の実現には後ろ向きだったのです。
その原が、大正10年、政治腐敗に憤る一青年にちょって暗殺されました。
その死は普通選挙ばかりか政党政治の流れをも停滞させてしまいます。
続く政権の座には・・・
大正11年加藤友三郎(海軍大将)、大正12年山本権兵衛(退役海軍大将)、大正13年清浦奎吾(枢密院議長)・・・軍人や、藩閥政治の息のかかった官僚の政治家が就き、やがて政党人はすべて閣僚から排除されるようになったのです。

犬養自身も逆境にありました。
大正11年、立憲国民党を内部分裂で解党し、革新俱楽部を結成。
そんな中、犬養は驚くべき一手を打ちます。
普通選挙をめぐって対立していた政友会・・・国民党から離脱した幹部の要る憲政会と敢えて手を結んだのです。
護憲三派の結成でした。
迎えた大正13年の総選挙・・・犬養たちは普通選挙を争点に戦い、民衆の支持を得ました。
284議席獲得という大勝の結果、憲政会の加藤高明を首班とする護憲三派内閣成立。
そして、大正14年、犬養悲願の普通選挙法成立。
納税額の制限は撤廃され、25歳以上の全ての男子に選挙権が与えられることになりました。
法案の成立を見届けた犬養は、政界からの引退を宣言します。
残された革新倶楽部の党員は、政友会に合流させました。
犬養も71歳となっていました。

長野県富士見町・・・白林荘・・・政界を退くにあたり、犬養が終の棲家として建てた別荘です。
犬養は、夜な夜な青年たちと囲炉裏を囲んで酒を酌み交わし、彼等に普通選挙の意義を説いたといいます。
モンペに身を包み、気さくに村の人々と接した犬養・・・
その思い出は今もこの地に語り継がれています。
激しい政治闘争から離れ、犬養はこれまでにない穏やかな日々を送っていました。

昭和3年6月、中国東北部の満州で、一大事件が起きました。
現地の部隊・関東軍が独断で、満州の実力者・張作霖が乗った電車を爆破、殺害したのです。
大陸における軍の暴走は、日本の政局を大きく揺るがしました。
昭和4年7月、政友会・田中義一内閣が事件の処理を巡って天皇の不興を買い総辞職に追い込まれました。
当時の議会は、政友会・民政党の二大政党制が交互に政権を担いました。
失政によって内閣が倒れた場合、野党第一党の当主に組閣命令が下るのが慣例でした。
7月・・・民政党内閣成立・・・
そこに、アメリカに端を発する世界恐慌の嵐が襲い掛かります。
民政党内閣の緊縮財政が民衆の暮らしを直撃・・・米や繭の暴落を引き起こしてしまいます。
農村の生活は窮乏を極めました。
一方、野党の政友会が新たな総裁として迎えたのは、既に政界を引退していた犬養でした。
この時、75歳・・・少数政党出身で、党内基盤は弱い・・・しかも、政友会には軍に同調して大陸権益の拡張を図り勢力も多かったのです。
しかし・・・昭和4年、犬養、75歳で政界に復帰。

”惨烈深刻の不景気に対する救済に、余命を捧げたい”

犬養が直面したのは、止まらない軍の暴走でした。
昭和6年9月、満州事変が勃発・・・政府の不拡大方針にも関わらず、現地・関東軍は矢継ぎ早に戦線を拡大します。
これに呼応して、10月・・・国内で陸軍のクーデター計画が発覚(十月事件)・・・首相を暗殺し、軍事政権を樹立するという目論見は未遂に終わりました。
この危機に、犬養はいち早く反応しました。
事件発覚直後、当時天皇の重臣・元老となっていた西園寺公望に使者を送ってこう告げます。

”陸軍の根本組織から変えてかからなければならないが、そうなると政友会一手ではできない
 どうしても、連立していかなければ駄目だ”

議会で多数を占める民政党の若槻内閣と連立を組み、軍を押さえる・・・協力内閣案です。

しかし、経済政策をはじめ、両者の隔たりはあまりにも大きかったのです。
11月に入ると犬養は、協力内閣案を撤回。
一方、与党・民政党でも、独自に協力内閣案が議論されていました。
しかし、推進派と慎重派の間で内紛が勃発・・・閣内不一致の末に、総辞職してしまいました。
慣例に従えば、次の首相は野党第一党政友会の犬養でした。
12月12日、首相指名の権限を持つ元老の西園寺から呼び出しが・・・
西園寺はこう切り出します。

”先ほど次の首相は犬養しかないと陛下にお伝えした
 陛下は軍が国政や外交に立ち入ることを深く憂いておられ、強力な内閣を作ってほしいと切望しておられる”

しかし、ここで西園寺は犬養に選択を突き付けます。

”協力内閣の事が話題となっているようだが、どうお考えか?”

すでに、与野党ともに手を引いた協力内閣案が、再度蒸し返されたのです。

単独内閣か?それとも協力内閣か??

犬養毅・・・第29代内閣総理大臣に就任。
選んだのは政友会単独内閣でした。

その頃、大陸では関東軍は更なる戦線拡大を目指し、各地で中国軍との衝突を繰り返していました。
難局のさ中、首相の大役を引き受けた犬養・・・しかし、そこには確かな成算がありました。
犬養の別荘に一本の白松が・・・中国の革命家・孫文から贈られたものです。
かつて犬養は、孫文の革命運動を援助したことがありました。
当時の中国国民政府のTOPは、その息子・孫科でした。
この人脈で、事変を収拾し様としたのです。
組閣の3日後、犬養は共に孫文を支援した萱野長知を呼び出しこう告げます。

”君ひとつご苦労だが現在の中国内情を探り、深刻な状態にある時局打開の方途を見出してくれないだろうか?”

現地に親日的、日本と交渉できるような政権を仕立てる・・・あくまでも、中国という枠組みを崩さない形で解決するのが犬養の意図でした。
同じような考え方で中国側も最低gんギリギリ譲歩できるラインとして持っていたのです。
犬養との間で、うまく日中関係を持っていきたい・・・

12月下旬、中国に渡った萱野は、早速交渉を開始・・・
事態の進展を電報で伝えます。

”中国政府は、満州問題解決のため、東北政務委員会を組織
 日本と直接交渉に入り、撤兵について話し合う準備がある”

ところが、犬養からの返答は一向に届きませんでした。
ある人物が萱野からの電報を握りつぶしていたのです。
内閣書記官長の森恪・・・軍と同様、満州の直接支配を考えていた森が動いていたのです。

昭和7年1月28日、上海事変勃発
海軍陸戦隊と中国軍が交戦状態に入ると、中国側の態度が一気に硬化・・・交渉による解決の道は、閉ざされました。
しかし、78歳の老宰相は不屈でした。
5月1日、犬養はNHKのマイクの前に立ち、国民に語り掛けます。

”侵略主義というようなことはよほど今では遅ればせの事であるから、どこまでも私は平和ということをもって進んでいきたい
 政友会の内閣である以上は、決して外国に向かってことを起こして侵略しようというような考えは、毛頭持っていないのである”

軍の侵略主義を、断固として否定した犬養・・・
それから2週間後、事件は起きました。
昭和7年5月15日午後5時・・・海軍の青年将校ら9人が首相官邸を襲撃しました。

”まてまて、騒がぬでも話をすればわかる”

”撃て撃て、問答はいらぬ!!”

即死は免れましたが、弾丸は脳にまで届いていました。その日の午後11時26分・・・犬養毅死去。

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犬養の死は、時代の大きな転換点となりました。
政友会は、後継内閣の樹立に動きましたが、組閣の大命は海軍の長老・斎藤実に下りました。
以後、政党内閣は生まれることなく、日本は軍主導のもと、戦争への道を突き進んでいきます。
青年将校の放った銃弾は、犬養の命を奪っただけでなく、戦前の政党政治の命脈をも断ち切ったのです。

近年、亡くなった直後の犬養の顔をかたどったデスマスクが公開されました。
まるで眠っているかのような静謐な表情・・・
犬養ならその後の日本が歩んだ道をどのように思い、どんな言葉を投げかけただろうか??

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埼玉県秩父市・椋神社・・・明治17年11月1日・・・ここで3000人の農民が武装蜂起しました。
明治政府を揺るがした秩父事件です。
貧民の救済を求め、郡役所や高利貸しを襲撃した農民は、こんな言葉を叫んでいたといいます。

「板垣さまの世ならしに参加すれば、俺たちの負債もなくなる!!」

板垣さまの世ならし・・・
板垣さまとは、明治維新の立役者の一人・板垣退助の事です。
当時、板垣は、民衆が政治に参加する自由と権利を求める自由民権運動のリーダーとして知られていました。
板垣の考えは、民権派と呼ばれる人々を生み出し、自分たちの手で国会を開設しようという大きな運動にまで発展します。
板垣は、日本初の正当・自由党を結成し、全国を遊説・・・
政府の専制を批判し、草の根に自由民権思想を広げていきました。
しかし、板垣の前に壁が立ちはだかります。

「板垣死すとも自由は死せず」

この名言を生んだとされる暗殺未遂事件が発生・・・
さらに、板垣の動きを警戒した政府は、自由党の弾圧を開始、各地で自由党員たちが次々と検挙されていきました。
こうした中、民衆を突き動かした自由民権運動は、次第に力をそがれていきます。
自由民権運動は何を目指したのか・・・??

慶応4年に始まった戊辰戦争・・・
土佐藩兵を率いた板垣退助は、会津戦などで勝利に導き明治維新の立役者となりました。
戊辰戦争に参加した迅衝隊・・・土佐藩の精鋭部隊です。
31歳の板垣退助・・・600人の隊員のほとんどが下級武士で、普段は農作業をして暮らしていた彼らに、板垣は銃剣を授け、フランス式の軍隊に編成しました。
上級武士の軍をはるかに凌ぐ活躍を見せました。
板垣は、兵士の力量に身分の差は関係ないことを痛感しました。

2年後・・・明治3年、戊辰戦争の功績を認められた板垣は、高知藩大参事に就任しました。
すぐさま大改革を行います。
それは、身分制の撤廃でした。
日本の近代化に必要なのは人民平均・・・!!
人間を士農工商の隔てなく登用する社会の実現だと唱え、上級氏族による藩の役職の独占を禁じました。
板垣は、明治新政府が行おうとしていた身分制の改革をいち早く藩で行っていたのです。
その手腕を評価された板垣は、明治4年、新政府に招かれ、中枢を担う参議の一員に就任します。
そして、国に徴兵制を導入し、四民平等の軍隊を作ることを目指しました。

しかし、思わぬ外交問題が板垣を巻き込んでいきます。
征韓論争です。
当時政府内は、国交のない朝鮮に居留する日本人を保護するために兵を送るかどうかで意見が分かれていました。
この対立で政府は真っ二つに分裂・・・
征韓派筆頭の西郷隆盛と共に参議を辞職
明治6年のことでした。
しかし、翌年、板垣はすぐさま同志たちと行動に移ります。
議会を作り、選挙で選ばれた議員たちが国政を担うべきだと、政府に建白書を送ります。
明治7年、民選議院設立の建白書を政府に提出・・・!!

「現在、権力を握っているのは天皇でも人民でもなく、一握りの官僚である
 政府に税を払っている人民には、政府が行う政治に関与する権利がある」by板垣退助

その内容は、新聞にも掲載され、多くの知識人たちの間で議会の早期開設を求める動きが高まりました。
しかし、政府はこの建白書を却下・・・
板垣は、故郷・高知に戻り、新たな行動を開始します。
政治結社・立志社の創設です。

”自由は土佐の山間より出づ”

自由という言葉を合言葉に、高知から議会開設運動を巻き起こそうとしました。
立志社は、戊辰戦争を戦った士族が中心となり、東京の慶應義塾から教師を招聘し、西洋の民権思想を学びながら、議会開設運動を着々と進めました。
ところが、結成から3年・・・立志社を大きく動揺させる事件が起こります。
それは・・・明治10年、西南戦争勃発!!
明治6年の政変後、新政府との緊張関係が続いていた西郷隆盛と旧薩摩藩士たちが武装蜂起!!
実はこの時、立志社内部では西郷軍と共に挙兵し、政府を転覆、一気に議会開設を実現させようという動きがありました。
しかし、板垣は、この挙兵論を押さえます。
そして、戦争が政府軍有利になったことを見計らい、ブレーンである植木枝盛に新たな建白を作成させ、政府に提出しました。
ここでも板垣は、言論の力で議会開設を実現することを宣言・・・
専制政治を批判し、抗議という言葉で人民の政治参加を呼びかけました。

西南戦争の翌年、全国各地で議会開設を求める政治結社の結成が相次ぎました。
その動きは士族だけでなく、農民たちにも波及します。
明治11年、東北福島県三春で河野広中が三師社を結成・・・
以後わずか2年間で結成された農民結社36社。
板垣と立志社が始めた新たな社会を目指す運動は、身分や地域を越え、広がろうとしていました。

西南戦争から3年、高知から広がった自由民権運動は新たな局面を迎えていました。
各地の政治結社は、板垣をリーダーに国会開設を胸に手を組み、明治13年国会期成同盟を結成します。
当時の資料に彼らが目論んだ大胆な構想が書かれています。

それが、私立国会・・・
国民の過半数が求めても政府が国会を開設しない場合、国会期成同盟が国会を作りそれを天皇に認めさせるというものです。
そこで各地の結社は、それぞれの地で半数以上の賛同者を集めようと演説や勉強会を盛んに開き、政治への参加を促しました。
しかし、中には運動の理念とはかけ離れた方法で勧誘をする結社も現れました。
その一つが、撃剣会という剣術興行を見世物にして人を集めるという愛国更親社です。
最盛期には参加者2万8000人、愛知・岐阜の農村部で組織を拡大しました。
巧みな宣伝文句が勧誘に使われました。

入社すれば兵役免除、武士になり永世禄支給、税金免除・・・

そして、講談師・川上音二郎をまねて、舞台で政府批判を歌い、結社への参加を促すもの

民衆の心をつかむあらゆる方法で、結社拡大の動きがみられました。
しかし、板垣はこうした熱気の高まりに不安を抱いていました。
自分達で勝手に国会を作ってしまおうというのが私立国会論・・・
完全に政府と話し合いをやめてしまって・・・国政は分断してしまう・・・!!
分断されることを、板垣は望んでいませんでした。
政府と決定的な対立を起こしかねない・・・!!
板垣の不安は的中します。
明治13年4月、政府は集会条例発布。
政治集会や演説は規制され、結社同士の連合が禁止されました。
これにより、政治活動は大きく制限され、ほとんどの結社が半数以上の参加者を得るには至りませんでした。
結果、私立国会の構想は、いったん頓挫してしまいます。
その打開策として板垣が作ろうとしたのは、日本初の政党・自由党です。
結社を一つの団体としてまとめ上げてしまえば、条例違反を問われることはない・・・!!
しかも、これまでばらばらだった結社の主張が一つにまとまり私立国家の実現にも拍車がかかるはずだ・・・!!
ところが、明治14年10月・・・
結党準備のさ中に政府が下した新たな決断に、民権派は激しく動揺します。

国会開設の勅諭です。

明治23年を目標に、政府主導で国会開設と憲法制定を行うと、天皇の名のもとに告知したのです。
自分達の手で国会をと意気込んでいた民権派に対して、機先を制したのです。
自由党総理に選出された板垣は、新たな情勢の中で、今後の運動の指針を示しました。
それは、各地に自由党の地方支部を組織して、当の基盤を固め、将来の国会開設に備えるというものでした。
板垣は、6か月にわたる全国遊説の旅に出て、民衆の政治参加を熱く訴えました。

「我が国の人民は、社会一般の自由を伸ばそうとする精神に欠けているが、これは積み重なった専制政治の慣習によるものである
 ゆえに、この弊害をただすためには、人民に政治に参加させ、国家公共のことに関与させるしかない」by板垣退助

板垣は、行く先々で熱狂的な支持を受けます。
そんな中、遊説先の岐阜で事件が起こります。
演説後に、板垣が暴漢に襲われたのです。
この時発したとされる言葉が、

「板垣死すとも 自由は死せず」

板垣の不屈の闘志に、自由民権運動はさらに勢いを増していくことになります。

明治15年10月9日・・・板垣を揶揄した風刺画が雑誌に掲載されました。
自由号という船の上に、洋行費と記された大きな星が飛んでいます。
屋根の上では多くの人がその星の行方を見ています。
この洋行費こそが、板垣に降りかかったスキャンダルでした。
当時、板垣が予定していたヨーロッパへの視察旅行の費用を、政府が用意していると新聞各紙が報じていました。
板垣に洋行の話を持ち掛けたのは、共に政府の参議を務めた盟友で自由党幹部でもあった後藤象二郎です。
政党活動に興味を失っていた後藤は、政府への復帰を目論んでいました。
そこで、板垣を洋行させる代わりに政府に復帰することを、参議の伊藤博文と井上馨に相談していました。
後藤の提案は、政府にとっても自由党を切り崩す絶好のチャンスでした。
こうして政府が板垣の洋行費を用意することとなり、その情報が外部に漏れたのです。
板垣の洋行に反対した自由党の幹部は、次々と党を去りました。
これまで組織を支えてきた精鋭を失い、党本部は大きな打撃を受けることとなります。

さらに、地方では自由党への弾圧が始まっていました。
すでに明治12年から地主や豪農たちの要望を受け、府県会という地方議会が開かれていました。
この府県会で地方政府と自由党の衝突が起きていたのです。
舞台は福島・・・当時、自由党幹部だった福島県会議長・河野広中・・・福島では自由党が大きな勢力を占めていました。
そこで議題となっていたのは、地方税の問題です。
それまでの2倍以上の重税を課そうとする県に対し、自由党は議会で反対の議決を繰り返していました。
これに対し、副島県令・三島通庸は、副島の自由党員に民衆デモを先導したことをきっかけに党員全員を一斉検挙!!
さらに、裁判では自由党員が政府の転覆を図ったとみなし、河野たちを断罪します。
この事件で、東北での民権運動の拠点だった福島自由党は壊滅・・・
さらに、秋田・群馬など各地で弾圧が増していきました。

自由党が危機に瀕する中、明治15年、板垣退助、7か月にわたる洋行に出発・・・!!
板垣の中では、今、政党が一番順調だと思っていました。
自分が一人抜けても、全然問題はないだろうと考えていたのです。
さらに、自由党を苦しめたのが経済の冷え込みです。
政府のデフレ政策によって、深刻な不況は全国に及びました。
党員たちは思うように活動資金を調達できずに、遂には詐欺や強盗で資金を調達するようになります。

明治16年6月・・・板垣は帰国・・・。
しかし、待っていたのは政府の弾圧と資金不足で窮地に陥った自由党の弱体化した姿でした。
政党の活動を続けることが出来るのか??

党を存続させるべきか??
解党するべきか・・・??

板垣は選択を迫られていました。

自由党を解党するべきか否か??
明治16年6月、帰国した板垣は、党員たちにある提案を行います。
党の運営資金として必要な10万円を、募金で集めることを宣言したのです。
当時の10万円は、今の数億円に相当する金額です。
10万円を集められなければ解党止む無し!!
住民のために政治を志すならば奮起せよと、党員たちを鼓舞しました。
翌年の党大会で、集まった募金額が発表されました。
合計1万円余り・・・目標とした額にはとても及びませんでした。
その結果、板垣は宣言通り、明治17年10月29日、自由党の解党を決断します。
3年に渡り自由民権運動をリードしてきた日本最初の政党は、ここに幕を閉じたのです。

埼玉県秩父・・・自由党が解党された3日後の11月1日、ここで政府を揺るがす民衆蜂起が起きました。
秩父事件です。
当時、養蚕で生計を立てていた農家は、生糸価格の大暴落によって困窮を極めていました。
負債に苦しむ農民たちを、解党の事実を知らない自由党員が組織化し、武力蜂起へと導いたのです。
決起の地・・・椋神社・・・
農民3000人が集まって掲げた要求を、当時の神官が記録しています。

負債の据え置き、村費軽減や、減税など・・・

そこには、国会や憲法といった言葉はありませんでした。
当時蜂起勢が口ずさんでいた歌があります。

”金のないのも苦にしやさんすな 今にお金が自由党”

自由党に入って、板垣さまの世ならしに参加すれば、俺たちの負債もなくなる・・・
自由党というものに対して大きな期待と夢を託していたのです。
農民たちは、山村から町へ向かい、借金の証文を焼き払いました。
ゆく先々で勢力を増し、秩父府を占拠した時、その数は1万を超えていました。
2日後、郡役所に革命本部を構えます。
関東一円の志を同じくする自由党員に決起を呼びかけようとしました。
しかし・・・政府は軍隊を投入し、放棄から9日後に鎮圧・・・蜂起勢は強盗として裁かれることになりました。
この事件を境に、自由民権運動は、民衆運動としての力を失っていきます。
その後、日本は憲法制定、国会開設と、急ピッチで近代化の道を駆け上っていきました。
板垣自身も、政党政治への情熱を失うことはありませんでした。

板垣は、帝国議会が開かれると、旧自由党員が組織したいくつかの政党をまとめ上げ、自由党を復活させました。
そして、帝国議会の第1党党首として活躍し続けました。
国会議事堂・・・中央広間・・・国会開設の功労者として板垣の像が立てられています。
板垣は、晩年の回想録の中で、自由民権運動をけん引した時代を振り返り、次のように述べています。

「自由党の特色は、破壊的な働きにこそあった
 先生を打破し、国会開設への道を切り開くためには、古いものを破壊するほかなかった
 彼らが政府に抵抗し、血を流しても屈しなかったのはこのためである」by板垣退助

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1873年、明治政府は崩壊の危機にありました。
際ぢの実力者・西郷隆盛が対外戦争につながりかねない朝鮮への使節派遣を主張・・・
これに対し、盟友大久保利通は内治優先を主張して激しく対立!!
政府は真っ二つに割れました。
いわゆる征韓論危機です。
従来この問題は、西郷・大久保の対立を軸に行われてきました。
しかし、事はそう単純ではありませんでした。
近代化をめぐる岩倉使節団と留守政府の対立、薩摩・長州と土佐・肥前の主導権争い・・・
様々な要因が危機の背後にありました。
そして近年の研究によってキーパーソンとしてクローズアップされてきたのが・・・伊藤博文です。
当時伊藤は、一官僚に過ぎない・・・その彼が、明治日本を左右する政変のキーパーソン??

1857年、足軽の子・伊藤博文は17歳で松下村塾に入門しました。
吉田松陰のもと、幕末に活躍する多くの若者と共に学んだことで、長州藩の若手で注目の存在となります。
この頃の伊藤を評して松陰はこう書いています。

「才能は劣り、学問も未熟、だが性格は素直で、私はとても伊藤のことを愛している
 かなりの周旋家になりそうな」

1863年、23歳の伊藤は、その後の人生を大きく変える決断・・・仲間四人とイギリスに留学をします。
髷を切り、洋装に身を固めた一行の写真が残されています。
伊藤たちは英語を学ぶ傍ら、海軍の使節や造船所などを精力的に見学しました。
巨大な機械が稼働する工場や、煙を吐いて走る蒸気機関車を目の当たりにした伊藤は、西洋文明を導入しなければ日本は生き残れないと悟ります。

しかし、留学はわずか半年で終わりを告げました。
長州が窮地に陥っていたのです。
当時、長州藩は外国勢力の打ち払いいを掲げ、列強の船を次々と攻撃していました。
1864年英米仏蘭4か国艦隊を下関で砲撃、その報復のために4艦隊が下関に襲来・・・
圧倒的な軍事力を前に、長州の砲台は次々と占拠され、破壊されてしまいます。
この危機を前に、帰国した伊藤は通訳としてイギリスとの和平交渉に臨み、賠償金を幕府に肩代わりさせることに成功します。

そんな伊藤の交渉力に目をつけた桂小五郎・・・後の木戸孝允・・・
その頃、長州は幕府との対立を深めており、武器の補給が急務でした。
しかし、幕府は長崎の取引を厳しく監視しており、表立って海外から武器を購入することは困難でした。
木戸は伊藤に、それまで対立関係にあった薩摩藩名義での武器購入を命じます。
この困難な任務を伊藤はやってのけます。
こうして長州の外交を担う存在となった伊藤は、イギリスの外交官アーネスト・サトウたちとの交流を通じ、将来の日本の在り方について交流を深めていきました。
公儀公論の政治体制を目指し、幕府との対決姿勢を深めていきます。

1868年1月、薩摩や徴収を中心とする新政府軍と旧幕府軍とが京都郊外の鳥羽・伏見で激突!!鳥羽・伏見の戦いです。
新政府軍の勝利によって、明治という新時代が始まりました。
薩摩の西郷隆盛や、大久保利通、長州の木戸孝允といった倒幕の中心人物が新政府の政治を実質的に動かすこととなります。

1869年、伊藤は木戸の引き立てで大蔵少輔に就任します。
この時伊藤が立案したのが、大蔵省が中心となって産業を興すというプランです。
伊藤は、中央集権制の下で、強力に近代化を推進することを目指しました。
ところが、その前に立ちはだかったのが、大蔵卿・・・大久保利通でした。
旧薩摩藩との関係の深い大久保にとって、伊藤の改革案は保守的なをはじめ諸藩には到底受け入れられない過激なものに映ったのです。

この年の9月、伊藤は大蔵省から工部省へ・・・
伊藤はいつしか、大久保に西洋文明を理解させなくては日本の近代化は難しいと考えるようになっていきます。
絶好の機会がやってきました。

1871年、不平等条約改正のための使節団派遣が決定します。
使節団の中心は、外務卿・岩倉具視。
そこで伊藤は、政府の中からも・・・と、木戸・大久保の参加を推薦します。
そして実現したのが、薩摩と長州の主導者が共に洋行するという岩倉使節団です。
欧米を見れば、彼等も近代化の必要性を理解するはず・・・果たして伊藤の思惑は的中しました。
舗装された道路沿いに立ち並ぶ石造りの近代建築、電信や鉄道などの最新技術・・・
木戸はその衝撃を次のように書き残しています。
「今の日本が目指す開化と称する者の多くは、皮膚上のものに過ぎない」

大久保も・・・
「英米仏などの開化は、日本とは段違いではるかに及ばない」

帰国後にまとめられた使節団の報告書・「米欧回覧実記」によると、

「議会は必ず上下両院を分かつこと、一つの議会のみで一方局としている国はない」

大久保がたどり着いた結論・・・それは議会制でした。
西洋の進歩の源は、国民の力の結集にあると悟ったのです。
伊藤と大久保は、使節団を通じて急速に接近します。
2人は近代化に向け、方向性を共有したのです。

1873年9月、伊藤は2年近い視察を終え欧米より帰国しました。
待ち受けていたのは思わぬ事態でした。
長州の政治力が、大きく後退していたのです。
使節団不在の中、政権を握ったのが留守政府・・・
太政大臣・三条実美
参議・・・・・西郷隆盛(薩摩)
       板垣退助(土佐)
       後藤象二郎
       大隈重信(肥前)
       江藤新平
       大木喬任
でした。
しかも後藤象二郎・江藤新平・大木喬任の三人は、使節団外遊中に無断で参議に登用されていました。
使節団は、留守政府との間で約定書を交わしていました。

”内地の事務は大使帰国の上 
 大いに改正する目的なれば
 なるたけ新規の改正を要すべからず”

ところが、留守政府はその約束に反して、徴兵令の施行、学制の制定、全国への裁判所設置など大規模な改革を次々と打ち出していきます。
これらをすべて実行すれば、国の財政は破綻する・・・
長州出身の大蔵卿・井上馨は、江藤らの政争に敗れて辞任していました。
さらに、陸軍太輔・山形有朋は汚職事件に巻き込まれてしまい失脚・・・
長州の政治力は一気に低下してしまいました。
そのタイミングで勃発したのが”征韓論問題”です。
きっかけは国交を求める日本の現地高官に朝鮮側が張り出した掲示でした。

”近年日本人は、制度や衣服、風俗を西洋風に改め、昔からの法を変えようとしている
 さながら無法の国というべきである”

1873年8月、この問題を巡って、留守政府で閣議が開かれます。
閣議を主導したのは、参議・西郷隆盛でした。

「まず朝鮮に使節を派遣して談判すべきだ
 その任には、自ら当たる所存である」

これに、板垣、江藤ら土佐・肥前出身の参議が賛同・・・
閣議は西郷に大きく傾いて行きます

8月17日、三条実美は、岩倉達帰国後に再び評議することを条件に、西郷の朝鮮派遣を閣議決定。

一見、平和的に見える使節派遣・・・
しかし、後に西郷が提出した文書から、極めて危険な計画だったことが読み取れます。

”朝鮮側が暴挙に出た場合、初めてその罪を問うべきである”

緊張状態にある朝鮮に乗り込んだ西郷が殺されれば、開戦の絶好の口実になる・・・
使節派遣は対外戦争をも視野に入れた計画だったのです。
ひとたび開戦となれば、膨大な戦費がかさみ、国内の近代化どころではなくなってしまう・・・!!
伊藤は状況を打開する為に、密かに動き出しました。

”明治六年征韓論一件”にはこう書かれています。
明治6年9月27日の岩倉具視宛の手紙には・・・

「朝鮮問題の解決は、大久保さんでなければ成功は難しい・・・
 参議就任のこと、今一度ぐらいではなく百度でも御説諭すべきです」

征韓論阻止のためには、大久保を参議にして戦ってもらうしかない・・・伊藤はそのために岩倉を動かそうとしました。
2日後、岩倉は伊藤にこう返信しています。

「今朝、大久保のところに出向き、百方懇願した」

2人の策は功を奏し、岩倉に対し大久保はついにこう表明します。

「命がけで参議就任をお引き受けする」

岩倉、大久保、そして伊藤・・・西郷の派遣阻止に向け、三人の戦いが始まりました。

1873年10月14日・・・
岩倉使節団帰国後、初めての閣議が開かれました。
メンバーは、太政大臣・三条と右大臣・岩倉、留守政府側の参議には西郷を筆頭に土佐の板垣、後藤、肥前の江藤、大隈らが顔を連ねます。
使節団側の参議は大久保一人・・・木戸は帰国後体調がすぐれず欠席していました。
閣議の様子は・・・

岩倉と三条が、朝鮮の西郷を派遣するのは延期すべきだと主張。
ほとんどの参議は、これに同意しました。
8月の閣議で、西郷を派遣を決めた三条でしたが、岩倉に説得され考えを変えていました。
三条が意見を翻したことで、留守政府の参議も派遣延期で妥協しようとしましたが・・・
西郷が納得しません。
決まったことだとあくまで即時派遣に固執し、強硬に反論しました。
先の閣議で派遣を認めた手前、留守政府の参議も延期論を捨てざるを得ない・・・

10月15日、閣議が再び開かれ、そこで決着がつきます。
三条実美が、またもや考えを変え、西郷の即時派遣を決定。
この決定を受け、岩倉と大久保、木戸は辞意を表明。
慌てた三条は、西郷に派遣の撤回を求めるものの、西郷は、頑として受け入れませんでした。
板挟みとなって追いつめられた三条は、極度のストレスで卒倒し、一時意識不明に・・・!!

この間、閣議に参加できない伊藤は、この政局を不安と共に見守っていました。
留守政府と共に近代化??それとも岩倉と大久保を支える・・・??
このまま留守政府側が進める西郷の朝鮮の派遣を認めるのか?
それとも岩倉・大久保と共に、逆転への賭けに打って出るのか??

伊藤の選択は、あくまで岩倉と大久保を支えることでした。
しかし、そのためには既に、使節派遣の閣議決定を覆さなければなりません。
果たして、伊藤はどうする・・・??

「大久保利通日記」によると・・・
三条が倒れた2日後の10月19日には、
”他に挽回の策なしと言えど、ただ一の秘策あり”と書かれています。

ただ一の秘策とは・・・??
三条の倒れた今、岩倉が太政大臣の正式な代理となって太政大臣としての実権を握り、その権限で使節派遣をやめさせるというのです。

10月20日、明治天皇が岩倉邸を訪れ、岩倉に直々にこう伝えます。

”太政大臣に代わり朕が天職を輔けよ”

岩倉を太政大臣内裏にするという秘策・・・伊藤博文が動いていた・・・??
その根拠の一つが大久保の”一の秘策”の前日の日記です。
この日、大久保宅を訪問した伊藤は、さらにその後、岩倉邸にも回っています。
両者の間で秘策の根回しを行っていたのです。

10月23日、岩倉は、使節派遣、派遣延期、二案を上奏します。
天皇の答えは、既に決まっていました。

「国政を整え、民力を養い、つとめて成功を永遠に期すべし
 汝 具視が奏上 朕 これを嘉納す」

西郷の派遣は中止され、それを受けて征韓派の参議5人は辞職しました。
征韓論をめぐる対立は、使節団側の勝利に終わったのです。

政変後・・・
1873年10月25日、伊藤は工部卿に就任します。
産業を興し、民力を育てることに手腕を発揮します。
その一つが生野銀山です。
当時、生野銀山は、採掘技術の限界から産出量が激減していましたが、伊藤率いる工部省は、静養の技術を導入することで増産を図りました。
ここで、日本初の産業道路ができています。

政変から12年後の1885年、伊藤博文は初代内閣総理大臣に就任。
1890年には第1回帝国議会開会。
そこでは貴族院と衆議院という二院制が取られ、近代国家の枠組みが整えられました。

1900年には立憲政友会を結成。
国民の声を政治に反映させることに力を注ぎます。
岩倉使節団で育んだ夢を、伊藤は終生追い続けたのです。

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日本の政治の中枢・国会議事堂・・・現在の建物は、1936年帝国議会議事堂として完成しました。
参議院本会議場・・・戦前は、皇族や華族で形成された貴族院として使用されていました。
現在参議院の定数は245ですが、460席あるのは貴族院の議場だった名残です。
天井は唐草模様を配したステンドグラスがはめ込まれ、当時の面影を残しています。
この参議院議場の最大の特徴とされるのが、議長席の後ろにもうけられた・・・開会式の際の天皇陛下の席です。
日本で初めて議会が開かれたのは1890年の第1回帝国議会です。
それに先立って作られたのが、大日本帝国憲法でした。

明治維新から22年の1889年・・・
近代国家を目指して制定された日本初の憲法が、大日本帝国憲法です。
その憲法制定に16年を費やし、中心的な役割を担ったのが伊藤博文でした。
伊藤は1841年、長州藩の貧しい農家に生れました。
その後、下級藩士の養子となり、吉田松陰が開いた松下村塾で学んだことで、運命が大きく変わることになります。
20代の始めに藩の留学生としてイギリスに渡り、西洋文明と英語を学びます。
そして明治維新後、その英語力を買われ、新政府に仕えることとなったのですが、士族出身者が多い政府の中で、伊藤は立場が弱い農民出身。。。
どうしてそんな伊藤が、後に憲法制定の中心人物となったのでしょうか?

1871年、岩倉具視を全権大使とする岩倉使節団でした。
30歳になっていた伊藤は、明治維新の英傑・大久保利通や木戸孝允たちと共に海を渡ります。
この時の使節団の目的は、幕末、日本が西洋列強に言われるがまま結んでしまった不平等条約改正の予備交渉と、西洋文明の視察でした。
一行は、アメリカに到着後、サンフランシスコ、ワシントン等に滞在、その後ヨーロッパに渡り、ロンドン、パリ、ベルリンなどの都市を視察、そこで西洋列強の工業力や軍事力のすごさをまざまざと見せつけられ、強い衝撃を受けます。
そして、その中で、その国力の背後にある「あるもの」が日本の近代化には必要だと気付きます。

「あるもの」とは・・・??
国力を高めないと西洋諸国から認められない・・・
そのうちの一つとして憲法に注目します。
ヨーロッパの多くの国は憲法を持っており、指導者と国民が一つに繋がっている・・・そのような国の形を支えている憲法というものが重要だと・・・!!
この時の日本は、廃藩置県で「藩」が廃止、日本という国を一つにまとめるための憲法はありませんでした。
そうした中で、使節団一行は、欧米諸国と肩を並べるには憲法成立が不可欠だと知ったのです。
中でもそれを強く感じたのが、大久保利通と木戸孝允で、しかし、自分たちの生きている間には実現しないだろうと考えていました。
そこで、2人はイギリス留学を経験し、西洋列強のことをよく知る若き伊藤にこの大事業を託すことにしました。
こうして伊藤は、明治政府の重鎮・木戸孝允と大久保利通の後押しがあったから憲法制定の大事業を担うことになったのです。
しかし、そんな伊藤の前に、いくつもの壁が立ちふさがることに・・・!!

憲法制定の壁①板垣退助の自由民権運動
帰国した伊藤は、1873年11月、政府から憲法制定に向けての調査を正式に命じられます。
しかし、日本の国内事情はそれどころではありませんでした。
政府内では、朝鮮への派兵をめぐる征韓論争が起き、その結果、西郷隆盛、板垣退助、江藤新平らが辞職・・・
さらに、士族の反乱が勃発、緊迫した情勢にありました。
そうした中、下野した板垣退助が1874年、日本初の政党・愛国公党を設立。
自由民権運動の口火となる建白書を政府に提出しました。

「今の政府は一部の藩閥政治家が支配している
 これを改めるには、選挙で選ばれた民撰議員を設置すべきである」by板垣

これにより、不平士族を中心に、自由民権運動が盛り上がりを見せます。
藩閥政治を批判し、早期国会開設とそれに伴う憲法制定を政府に要求、五日市憲法草案(自由民権運動家・千葉卓三郎によって起草された私擬憲法)など、自分達で憲法草案を起草する者も出てきました。
憲法制定を急ぐ急進派を前に、伊藤は困惑します。

「憲法は時間をかけなくてはいいものは出来ない」

選挙による議会開設は時期尚早・・・ましてやそれに伴う憲法制定については時間をかけるべきだと考えていました。

しかし、自由民権運動は、農民層にまで広がりを見せ、過激さを増していきます。
これに対して明治政府が動きます。
次々と条例を出すなどの徹底的な言論弾圧を行っていきます。
憲法改正、議会開設を急ぐ動きは、一時収束・・・
伊藤はようやく腰を落ち着けて憲法を制定していくことができる・・・
そう思っていたのです。

1873年、伊藤博文が32歳で明治政府の住職である参議・工部卿に就任。
しかし、その4年後・・・1877年、後ろ盾だった木戸孝允病死・・・
翌年には、大久保利通が暗殺されます。
伊藤は、木戸と大久保から託された憲法制定への想いを強くします。
2人の遺志を受け継ぎ、自ら政府をを先導していくと決意を新たにするのです。
ところが・・・

憲法制定の壁②大隈重信の裏切り
1881年3月、憲法制定に関する一通の意見書が、明治天皇に近い有栖川宮熾仁親王に秘密裏に提出されます。
意見書を出したのは、伊藤と同じ参議の大隈重信です。
そこにはこうありました。

「議会で多数派となった政党が、行政の重責を担うイギリス型の議院内閣制度を採用すべし
 できるだけ早急に憲法を発布し、二年後の明治十六年初めには議会を開くこと」

大隈は、時間をかけて憲法を制定するという政府の方針に真っ向から反対する意見書を出したのです。
それは、政府がいち早く憲法を制定することで、根強い自由民権派の政府批判を打ち消そうと考えてのことでした。
しかし、伊藤にとっては寝耳に水の話・・・
盟友・大隈の裏切りとも取れる行動に、腹を立てた伊藤は、政府の重鎮だった岩倉具視に宛ててこんな手紙を書きます。

「大隈さんの意見書を読んだところ、実に意外な急進論であり到底従うことはできません
 このような方針が取られるのであれば、自分は辞職させていただきたい」

その怒りの裏には、大隈の意見書が具体的な内容だったことへの恐れもありました。

”このままでは大隈重信に憲法制定の主導権を握られる・・・!!”

先を越された焦り・・・大隈という新たな壁を前に、伊藤はただ悶々としていました。
すると、ある事件が起こります。
北海道の開発を担う開拓使の廃止に伴い、鉱山や工場などの官有物を旧薩摩藩関係の民間企業などに格安で払い下げることが検討されていたのですが・・・
その払い下げ計画が、新聞にすっぱ抜かれ、政府と薩摩閥の癒着だと叩かれたのです。
さらに、新聞社に情報をもらした人物が、払い下げに反対していた大隈では??と疑われたため、大騒動に・・・!!

世に言う”開拓使官有物払い下げ事件”です。

明治政府は、騒動の責任を取らせ大隈を政府から追放。
これにより、伊藤が懸念していた大隈による早急な憲法制定と、議会開設は阻止されたのです。
ただし、一件落着とはいきませんでした。
こうした問題が起きるのは、薩摩・長州藩出身の政治家たちがいまだ権力を握っているからだと、自由民権派が「藩閥政治」を批判。
選挙で選ばれた人たちで健全な政治が行えるよう議会の早急な開設を求める声が、再び起こったのです。
政府は止む無く”国会開設の勅諭”を出し、9年後の1890年に国会開設をすることを表明。
これに先立つ憲法制定も急ぐこととなってしまったのです。

1881年10月12日、勅諭が下されたことで、9年後の国会開設が約束されました。
そして、これに伴い急ぐこととなった憲法の起草作業・・・
40歳になっていた伊藤博文は、その中心で奔走していました。
ところが、またもその立場を脅かす人物が現れます。
岩倉具視のブレーン・・・井上毅です。
伊藤は一体、井上の何を恐れたのでしょうか?
司法省の官僚として海外視察を経験していた井上毅は、西洋諸国の法律に精通した政府随一の法制度の専門家でした。
岩倉のために、すでに憲法意見書を作成していました。

・天皇が制定する憲法であること
・急激ではなく段階的に行うこと

「ヨーロッパの憲法を参考にする際は、君主の権限が強いドイツの憲法が適している」by井上毅

当時ドイツでは、ドイツ皇帝・ヴィルヘルム1世が強い権限を持つ憲法が用いられていました。
かねてから井上は、議会を重んじるイギリス型の議院内閣制度では安定した政府運営ができないと反対していました。
ドイツ型の憲法こそ、天皇を尊ぶ日本の国情に合う憲法だと考えていたのです。
井上の意見書を目にした伊藤は、自分には明確な憲法のビジョンがなかったことに気付き、大きな危機感を覚えます。

”井上毅に憲法制定の主導権を握られる・・・!!”

法制度に精通する井上毅に憲法制定の主導権を奪われることを恐れたのです。
木戸や大久保から託されたという伊藤のプライドが、傷つけられたのでした。

伊藤の親友で外務卿だった井上馨は、この頃の伊藤についてこう語っています。

「近頃、伊藤も大いに心痛の極みにて、神経症が起こり毎夜眠れず
 酒一升を飲んで ようやく寝ることができるという状態である」

完全に自信を喪失し、苦悩する伊藤・・・すると政府内から声が・・・

「よかったら、静養もかねて欧州へ憲法調査に行かれたら如何でしょうか」

渡りに船とばかりに、伊藤はこの提案を受け入れ、1882年3月、伊藤博文ヨーロッパへ旅立ちます。
その伊藤に、井上毅はこんな手紙を送りました。

「立憲作業はもう最終段階、海の向こうで静養でもしながら私が研究した成果を参考にして、草案を仕上げてきてください」

それは、伊藤は無用、立憲作業のお飾りに過ぎないとでもいわんばかりの屈辱的な内容でした。
しかし、伊藤はこれを、巻き返すチャンスだと信じて疑いませんでした。

1882年5月、ドイツ・ベルリンに到着。
議会開設まであと8年・・・ドイツのような立憲君主国の憲法とは??
議会と内閣の関係とは?選挙は・・・??
具体的な仕組みの調査を目的としていた伊藤・・・
しかし、かの地で漢方調査は思うようにうまくいきませんでした。

ドイツに到着した伊藤がまず頼ったのが、ベルリン大学の憲法学者のルドルフ・フォン・グナイストでした。
ところが、こう言われてしまいます。

「遠方からドイツを目標においで下さったのは感謝の至りだが、憲法は法文でない
 精神である
 日本の事情に無知な自分がお役に立てるかは自信がない」

グナイストは、憲法や法律は国家が勝手に決めるものではなくて、その国の歴史に根ざして作られて行く物という考え方を持っていました。
=「日本の歴史を知らないから助言する立場にない」となるのです。
伊藤の憲法調査は、頓挫してしまいました。
さらに、議会の開設についても、謁見したドイツ皇帝ヴィルヘルム1世から日本では到底無理だろうといわれてしまうのです。

行き詰まり、苦悶する伊藤でしたが、救いの手を差し伸べる人物が現れます。
オーストリア・ウィーン大学教授のローレンツ・フォン・シュタインです。
以前から日本に関心を持っていたシュタインは、懇切丁寧に国家の全体像についての講義をしてくれました。

国家というものは、独立したひとつの人格に例えられる
そして、それぞれ自立した3つの要素を備えている
国家の自己意識を具現化する機関としての君主
国家の意思を形成する議会(立法)
国家の好意を司る内閣(行政)
そして、最も重要なのは、憲法そのものではなく、それを支える制度や組織です

伊藤は、国家の全体像について理解するようになっていきます。
そのことが、自分こそが憲法を作るのだという自信を回復することに繋がっていきます。
そして、「立憲カリスマ」として日本に帰ってくることになるのです。

伊藤は、岩倉に宛てた手紙にこう書いています。

「私はドイツにて国家組織の大体を理解した」

およそ1年半に及ぶヨーロッパでの憲法調査で、自身を回復した伊藤は、立憲政治において誰からも一目置かれるカリスマへと生まれ変わったのです。
そして、1883年8月・・・井上毅と対等に議論できる知識を得、帰国した伊藤は、憲法制定へのリーダーシップをとっていきます。
まず着手したのが憲法を制定し、議会を開くための受け皿となる国家組織の改革です。
自立した行政を行うため、近代的な内閣制度を作りました。
そして、44歳になった伊藤は・・・1885年12月、初代内閣総理大臣に就任。

1887年、伊藤博文は、横浜・東屋旅館で参事院議官の井上毅、伊藤の秘書官の伊藤巳代治、同じく秘書官の金子堅太郎と共に、憲法の起草作業を始めました。
順調に事は運んでいました。
ところが・・・東屋旅館に宿泊していた伊藤巳代治と金子堅太郎が、ことのほか起草作業が進んでいることに木を良くし、ある晩宴会を開き、酔いつぶれてしまいました。
すると運悪くそこに怪しい侵入者が・・・目覚めた二人は青ざめます。
憲法草案の入った大事なカバンを盗まれてしまいました。
もしかして、妨害しようとした自由民権派の仕業では・・・??
しかし、幸いカバンは近所の畑に捨てられていて、草案は無事でした。
金品目当ての泥棒だったのです。

草案は無事だったものの、慎重を期し、伊藤は横須賀・夏島にあった自身の別荘に作業場を移します。
そして、密かに作業を続ける中で、三人に言いました。

「私の言うことが間違っていたら、それは間違いだと徹底的に追及してくれ
 君らの言うことが分からなければ、私も君らを徹底的に攻撃する互いに攻撃し、議論するのは憲法を完全なものにするためである
 長官だの秘書官だのという意識は一切かなぐり捨てて、討論議論を極めて、完全なる憲法を作ろうではないか」

こうして、数か月にわたる激しい議論を交わしながら作り上げていったのが、大日本帝国憲法の原案となる”夏島草案”です。

第一条には・・・
大日本帝国ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス
この天皇の権限こそ、草案作成の中で最も論争となった点でした。
伊藤たちは、天皇は国を一つにまとめる重要な存在と認めながらも、独裁になってはならないと考えます。
そこで盛り込んだのが

第四条
天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ 此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ

実際には、天皇の主権は憲法の規定に従って行うということも明記されています。
完全な意味での独裁ではなく、君主(天皇)の権限は制限されていました。
草案はその後も検討され、徐々に完成へと近づいていきました。
そんな中、最後の壁となったのが明治天皇でした。

憲法制定の壁③明治天皇の反発
明治天皇は、政治的実権はすべて自分にあると考えていました。
そのため、伊藤は憲法で主権を制限されることに天皇が難色を示すのではないかと危惧したのです。

「何としても陛下を説得しなければ・・・!!」

伊藤はいかにして明治天皇を説得したのでしょうか??

陛下には、シュタイン博士の憲法の根幹を学んでいただき、君主の役割を理解していただく必要がある・・・
伊藤は、まずは天皇が厚い信頼を寄せる人物に憲法を学ばせ、その人物に天皇に講義をしてもらおうと考えます。
伊藤がその大役に選んだのが、侍従の藤波言忠です。
藤波は、シュタインの教えを学ぶため、ウィーンへと旅立ちます。
そして、シュタインから憲法だけでなく、教育、宗教、産業など立憲国家の君主が心得るべきことの全てを学びます。

こうして1887年11月・・・
帰国した藤波は、明治天皇に講義を行いました。
その時間は、合計33時間に及んだといいます。
これにより、新しい憲法における自らの立場を理解した天皇は、その制定を見守ることに・・・
天皇が全幅の信頼を寄せる侍従に、憲法を学ばせて、天皇に講義を行うことで説得しました。

そして、その翌年の4月・・・46歳の伊藤は、天皇に意見を求める機関として新設された枢密院の議長に就任。
そこで、天皇列席のもと、2か月に及ぶ憲法の審議を行うのです。
これを受けて伊藤たちは、さらに議論を重ね、およそ半年後、全ての条文を作り上げるのです。
言論の自由、臣民の権利が、法律の範囲で保証されることが約束され、帝国議会については貴族院は皇族・華族からなり、衆議院は当選された議員から定められることとなりました。

1889年2月11日、ついに伊藤にとって念願の日を向かえます。
憲法発布の日です。
式典が、この年新しくなった皇居・明治宮殿で行われました。
伊藤が起草を手掛けた大日本帝国憲法は、天皇が黒田清隆首相に手渡しする形で、無事に発布されました。
これにより、日本は東アジアで初めて近代憲法を持つ立憲君主国となったのです。
各地でちょうちん行列が催され、民衆は憲法発布に沸き立ち、万歳三唱を繰り返しました。
その様子を、当時お雇い外国人として日本に来ていた医師のエルヴィン・フォン・ベルツは、こう記しています。

「東京全市は十一日の憲法発布に対し 言語に絶した騒ぎを演じている
 だが滑稽なことに だれも憲法の内容をご存知ないのだ」

ベルツが言うように、民衆の殆どが大日本帝国憲法の中身を知りませんでした。
憲法発布によって、日本が文明国の仲間入りをしたことにただただ喜んだのです。
そんな状況もあってか、憲法発布後、伊藤は各地で公演を行い、憲法の理解を求めて生きました。

この後、三度にわたり内閣総理大臣を務める伊藤は、大日本帝国憲法の精神と立憲政治の定着に邁進・・・
それこそが、自らの使命と信じて。。。

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