日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:柳沢吉保

犬と鷹の江戸時代 〈犬公方〉綱吉と〈鷹将軍〉吉宗 (歴史文化ライブラリー) [ 根崎光男 ]

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悪法・・・生類憐みの令を思い出す人も沢山いるでしょう。
この生類憐みの令を出した徳川綱吉・・・
江戸時代の黄金期”元禄時代”は、大衆文化が花開き、人々は太平の世を謳歌していました。
一方、地震や富士山の噴火など天変地異や、忠臣蔵で知られる討ち入りがありました。
そんな時代を治めていたのが、江戸幕府5代将軍・綱吉でした。
戌年生まれで、犬を保護したところから犬公方と呼ばれています。
15代に渡った徳川幕府史上最悪の将軍のイメージが・・・。
無能??恐怖政治??
しかし、実際の綱吉は、庶民の生活を一番に考え、福祉政策に力を入れていました。
当時、来日し、綱吉と対面したドイツ人医師・ケンペルは・・・
「綱吉は優れた君主である。
 法に厳格という点を除けば、憐れみ深い人物で、国民の気風にふさわしい方法で国のかじ取りをしている。」
そんな綱吉が、どうして悪名を残すことになったのでしょうか??

子供の健やかな成長を願う七五三は、もともと貴族の行事でした。
それが庶民の間に広まったのは、綱吉が子供のために行ったのがきっかけだったといいます。
綱吉の治世初期は天和の治と称賛されるほど優れていました。
どうして庶民に目を向けるようになったのでしょうか?
関ケ原から半世紀たった1646年、綱吉は3代将軍家光の4男として生まれました。
普通に考えれば、将軍になる立場ではありませんでした。
綱吉は、兄弟の中でも抜きんでて利発な子・・・しかし、家光は若干の懸念を持っていました。

「才能に任せて、心のままに行動すれば、思いのほか災いを引き起こすかもしれない。」by家光

当時、武士が学ぶべきは武道でしたが、家光はあえて学問を命じます。

「私は幼いころから武芸ばかりしていて、学問を修めなかったことが悔やまれる。
 この子は非常に賢いから、第一に学問にはげむように。」by家光

綱吉は、将軍になるべくして育ったわけではありません。
なので、長男・家綱は帝王学を学ばなくてはいけませんが・・・綱吉は学問をベースにしておけば将来的に役に立つだろうと・・・。

1651年、綱吉5歳の時に、父・家光が46歳で死去。
そして、長男・家綱が僅か11歳で4代将軍に就任。
この時、3男と5男はすでに亡く、次男・綱重と4男・綱吉はそれぞれ15万の大名に・・・。
綱吉は、母の影響を強く受け・・・母の桂昌院は家光の側室のひとりでした。
元々は京都の青果店の娘・玉で、庶民が将軍に見初められたことから、玉の輿の言葉の由来にもなっています。
当時、将軍家の人々は、庶民の生活の実情には疎く・・・しかし、綱吉は、母からいかに武家が優遇され、庶民が貧しいかを教えられながら育ちました。
通常、乳母に面倒を見てもらい、母親は直接関与しないことが多かった中、母として我が子に接するという庶民感覚があったのです。
教育ママ的要素もあって、綱吉は大きな影響を受けることとなります。
更に綱吉は、母の影響で、仏教を大切にし、能をたしなむなど文化にも強い関心を示しました。
武芸には一切興味なし!!でした。
将軍・家綱が、綱重と綱吉に馬を贈るものの・・・乗馬の練習に励む綱重に対し、綱吉は馬の絵ばかり描いていたといいます。

1664年、18歳で公家の娘と結婚。
しかし、子宝には恵まれませんでした。
1677年、31歳の時に側室・お伝が長女・鶴姫を、その2年後、33歳にはお伝が長男を産みます。
綱吉は、自分の幼名である徳松と命名。
この頃、綱吉を取り巻く状況は大きく変わりつつありました。
1678年兄・綱重が急死、家綱には子供がいなかったので、綱吉が次期将軍の最有力候補となったのです。
しかし、それに異を唱えたものが・・・大老・酒井忠清です。
病気がちだった将軍・家綱の元で、実質的な権力を握っていました。
家綱の死後も、権力を握りたいと考えていた忠清は、次期将軍に皇族の擁立を画策!!
学問にばかり打ち込む綱吉を・・・「天下を治めさせたもうべき御器量なし」と、言いました。
しかし、老中の堀田正俊が異議を唱えます。
「正しき血縁者である綱吉さまがいらっしゃるではないか」
結局、綱吉は後継者として認められることに・・・
1680年、34歳の時に兄・家綱が死去、綱吉は五代将軍になります。
綱吉は、自分の就任に反対した大老・酒井忠清を病気を理由に引退させます。
そして、自分の味方をした堀田正敏を大老に・・・。

1680年、34歳で思いもよらない将軍の地位に上り詰めた綱吉は・・・母から聞いていた厳しい庶民の生活に耳を傾けていきます。
そして、天和の治を実現させます。
幼いころから学民を学んでいた綱吉・・・当時、中心となったのが儒学でした。
そして、綱吉は儒学の古典の中に自分の理想を見出します。
それは、各藩の大名が領民を統治している当時の幕藩体制ではなく、慈悲深い絶対君主が統治し、その幸せに責任を持つというものです。
この実現のために・・・
悪代官を根絶・・・当時、年貢の横領などをする代官が少なくありませんでした。
そこで綱吉は大老・堀田正敏の名で”七か条の訓示”を出します。

 民は国の基本である
 代官たちは常に、民の辛さや苦しさを知り、決して民が飢えることのないようにせよ
 
綱吉は、不正をする代官を次々と免職・・・切腹させることもありました。
この頃から、民は年貢負担者から国の礎という考えに代わります。
これは、成人君主が民にも優しく接するという儒教の影響が大きく出ています。
大名にも厳しい姿勢で臨みます。
綱吉がとり潰した大名は、46件・・・他の将軍の時代をはるかに上回っています。
身内であっても見逃さない姿勢を、他の大名たちにも見せつけたのです。
恐怖政治的な側面も・・・恐れおののかせることで、将軍の権威を示し、将軍専制政治・・・将軍自身が前面に立って、政治の陣頭指揮に当たったのです。

一方、綱吉は、庶民の負担を軽減することに力を入れます。
父・家光が作った巨大船・安宅丸・・・維持費に莫大な費用が掛かると知ると廃棄。
初代家康を祀る日光東照宮への参拝は、取りやめに・・・。
そして、鷹狩りの廃止・・・鷹狩りは、支配者だけに認められた権力の象徴の重要な儀式でしたが、準備のために周辺住民は多大な負担を強いられていました。
次々と前例を無視する綱吉に、周りから不満の声が・・・。
綱吉は、
「自分は普通ではない状況の中で将軍職を継承した。
 よって、徳川の前例に従う必要などは感じていない。」
綱吉はさらに、特権階級となっていた武士の考えを変えようと試みます。
正月の恒例行事を、武芸の腕前を披露する「兵馬初め」から、儒学の書物を読む「読書初め」に変更。
家臣への褒美も、自ら儒学の講義をすることに変えました。

1683年、37歳の時、改革を進める綱吉に不幸が・・・
長男・徳松が僅か4歳で亡くなります。
さらによく年には、右腕の大老・堀田正敏が江戸城で若年寄に刺殺されてしまいます。
従来、老中・若年寄の部屋は、御座所の隣にありました。
ところが、この部屋で堀田が刺殺されたことで、御座所から離れた場所に置かれることとなります。
そこで、双方を繋ぐ連絡係として側用人が誕生します。
綱吉は、側用人を介することで、独裁的な政治を行うことに・・・。
更に綱吉は、側用人に、身分にかかわらず優秀な人物を登用。
従来、重要な役職は世襲となっていましたが、能力主義を導入したのです。
生まれより学識を重んじる儒教の考えがありました。

しかし、側用人の仕事は過酷で・・・
綱吉は朝早くから夜遅くまで仕事に打ち込むために、側用人のずっと仕事・・・。

「やるべき仕事があるときには、夜遅くても城に留まること。」by綱吉

結局、多くの者が体を壊してやめていきます。
そんな中、綱吉の期待に応えた側用人が柳沢吉保です。
僅か500石の武士でしたが、後に15万石の大名へと出世します。

「人はただ、まこと(誠・実)の二文字を忘れずば、幾千代までも栄ゆるなりけり」

綱吉は、よりよい社会実現のために、自分自身にも、家臣にも過酷な日々を課したのでした。

綱吉が将軍となった時、関ケ原の戦いからすでに80年経っていました。
しかし、当時にはまだ戦国時代の殺伐さが色濃く残っていました。
武家には”切り捨て御免”が認められ、刀の試し切りに何の罪もない庶民が殺されていました。
火事と喧嘩は江戸の華の通り、人の気性も激しく、生活苦から子供や病人、年寄りを捨てるケースも少なくありませんでした。
庶民の幸せを実現させるために、殺伐とした社会の変革を考え始めます。

「残酷さや心意気を良しとする戦国時代の古い生き方には、無慈悲な行いが多く、人の本来の道に背く」

戦国時代の遺風では、彩絵画成り立たない段階に来ていたのです。
綱吉は、その社会構造から脱却しなければいけないと思っていました。
多くの人々に意識改革をしてもらい、新しい社会を作っていこうとしたのです。

しかし、理想の社会の実現には、庶民の日常を統制することとなりました。

①華美な服装の禁止
綱吉自身も古く汚れた衣装を着続けます。

②肉食の禁止
戦国時代の武将たちが好んでいた肉食を綱吉は嫌っていました。

③飲酒の抑制
庶民でも酒が手に入るようになり、酔っ払いによる犯罪が増えていました。

いつしか、庶民のための政策が、庶民のささやかな楽しみを奪う政策となっていっていました。
綱吉が将軍となってから、抑圧した政治を行っています。
道徳を植え付けたいと意識改革を、一般庶民に求めたのです。
将軍が権威的で恐ろしいという側面を持つようになっていました。

1685年・・・39歳の時に打ち出したのが、”生類憐みの令”です。
生類憐みの令は、24年にわたる130を超える法令の総称です。
その対象も、犬、猫、馬、牛、取り、魚、虫・・・あらゆるものに及びます。
犬に関する法令が多いのは、当時の江戸の状況によります。
至る所で野良犬がうろつき、捨て子を食べたり、通行人を襲ったりしていました。
殺伐とした世の中を変えていくためには、野良犬対策は真っ先に取り組むべき課題でした。

しかし、ここでも綱吉はやり方を失敗します。
生類憐みの令の最大の狙いは、人々に慈悲の心を植え付けることです。
しかし、成果が上がらないことにいら立つ綱吉は、違反者に厳しい罰則を行っていきます。

馬に重い荷物を積んだりしないこと。
金魚は飼ってもよいが、飼育数を正確に報告すること。
子供、老人、病人を捨てることは禁止、そして捨てられた子供、老人、病人を見つけたら役人が保護すること。etc.

飼い犬はすべて毛色を記載し、飼い主を登録すること。
ケンカをしている犬を見つけたら、仲裁すること。etc.

遂には犬を殺したことで、切腹させらるる者も・・・
その結果、人々は犬に関わることを嫌がり、逆に野良犬が急増してしまいます。
止む無く綱吉は、東京・中野に「犬屋敷」を建設。
東京ドーム20個分の敷地に、10万匹の野良犬が運び込まれました。
犬たちには、1日米3合・みそ・魚が与えられ、費用は幕府の年間予算の1/8に及び、その負担は庶民にのしかかるようになります。
綱吉に対する不満が高まっていきます。

生類憐みの令で、人々の反感を買った綱吉・・・それでも30年近くに及んだ治世で、殺伐とした空気を変えていきます。
綱吉の時代に花開いた元禄文化・・・日本史上初めての町人文化です。
歌舞伎、浄瑠璃、浮世絵、俳句、天文学、古典研究・・・
その中に、綱吉がいかに空気を変えたのか・・・
浮世草子・伊原西鶴の作品にあります。
綱吉が将軍になりたての頃に書かれた”好色一代男”では・・・恋人との間の子を捨てることに罪を感じていません。
しかし、10年後の「世間胸算用」では、子供を捨てることは罪だということが色濃く浸透しています。
殺伐とした時代の空気を変えた綱吉・・・しかし、江戸幕府の公式記録「徳川実記」には、綱吉の政治は決して仰ぎ慕うようなものではないと書いています。
綱吉は無用な君主として語り継がれるようになるのです。
どうして酷評されることに・・・??
1701年、55歳の時に・・・人々の反感を買うことになることに直面します。
忠臣蔵一連の騒動です。
江戸城中で、赤穂藩主・浅野内匠頭が吉良上野介に斬りつけた・・・
浅野は切腹、赤穂藩はおとり潰しに・・・2年後・・・赤穂藩の47人の浪士が吉良邸に討ち入り!!
浅野の仇を討ったのです。
問題となったのは、47人の浪士をどう処分するのか??です。
綱吉自身も相当悩み・・・下した判断は全員の切腹でした。
藩主のために命を投げ出した武士の美学よりも、法に基づき命の大切さをとったのです。
しかし、世間の人々は、仇討を果たした赤穂浪士たちに同情します。
そして、綱吉への不満を募らせていったのです。
綱吉は、儒教の精神にのっとり「忠孝に励むように」と説いていましたが、忠孝に励んだ赤穂浪士たちが切腹を命じられるという状況・・・それは、一般の人たちの憂さ晴らしの格好の材料となりえたのです。

さらに、綱吉の評価を下げたのは、相次いだ天変地異でした。
1703年、57歳の時に関東で元禄地震発生。
1707年、61歳の時に東海で宝永地震発生。
その2か月後、富士山が噴火!!
江戸にも大量の火山灰が降り積もりました。
1708年、62歳の時に、京都で「宝永の大火」が発生。
町の中心地が焼け野原となり、皇居も消失しました。
こうした災害に対し、綱吉は被災者救済に全力を注ぎます。
しかし、世間の受け止め方は違いました。
度重なる天変地異は、綱吉が悪い政治をしたゆえの天罰だと考えたのです。
町には、綱吉を批判する落書きが溢れ、綱吉が地震で死んだというデマまで・・・。
綱吉自身の身の回りでも不幸が相次ぎます。
天変地異が続くさ中・・・1704年58歳の時に、長女・鶴姫が27歳で死去。
翌年には、母・桂昌院もこの世を去ってしまいます。
気難しくなっていく綱吉・・・。

晩年、はしかにかかった時に綱吉は、かかりつけの医師さえ寄せ付けず、自らの医学知識に基づいて薬を処方させていました。
一時的に回復の兆しが・・・しかし、このはしかが原因で命を落とすこととなります。
1709年1月9日、5代将軍徳川綱吉死去・・・享年63歳でした。

綱吉の死後、6代将軍となったのは、兄・綱重の息子・家宣でした。
そして、その政治を支えたのは、儒学者・新井白石でした。
白石は、新将軍・家宣に対する人々への期待を高めるために、晩年評判の悪くなっていた綱吉を徹底的に批判!!
生類憐みの令も、綱吉の死後僅か10日で、そのほとんどが撤廃されました。
しかし、捨て子の禁止や病人の保護など、福祉政策は引き継がれました。
その後、名君と名高い8代将軍吉宗も、綱吉の政治を参考にしたといいます。
晩年、綱吉の残した書が残っています。

tunayosi
「おもい よこしま なし」

政を司る人間はどう考えるべきか、
考えによこしまなもの・・・邪念が入ってはいけない、
将軍の務めを果たしていく上での心構えを書いたものです。

理想の社会を実現しようと奮闘した徳川綱吉・・・しかし、その名は、最悪の統治者として伝わることとなったのです。

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儒学殺人事件 堀田正俊と徳川綱吉

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江戸幕府開府からおよそ80年・・・人々を翻弄し苦しめた将軍が誕生します。
第五代将軍徳川綱吉です。

綱吉は、1646年三代将軍・徳川家光の四男として江戸城に生まれました。
母は側室の桂昌院、兄の家綱がわずか11歳で四代将軍となり、綱吉は16歳で舘林藩藩主となりました。
家綱は病弱で・・・ほかの兄弟たちも亡くなっていたので、幕閣の重臣たちは次の将軍候補に頭を悩ませていました。
1680年5月、家綱の病状が悪化・・・後継者は・・・??
時期将軍候補と上がったのは・・・唯一残っていた家光の実子・綱吉でした。
しかし・・・異議を唱えるものが・・・大老・酒井忠清です。

酒井は、「鎌倉時代にならい朝廷から宮将軍をもらうべきだ」と強硬に反対!!
そこには綱吉に対する厳しい評価がありました。
忠清は、「綱吉様は天下を治める器量なし!!」と、思っていたのです。
人々は困窮し、天下の騒動になるのでは??と思っていたのです。

当時強大な力を持っていた酒井に、多くの幕閣たちが意見できない中、老中に就任したばかりの堀田正俊が・・・
「鎌倉の先例に学ぶ意味などありませぬ。
 家康公の血を引く綱吉様が・・・将軍は綱吉様にすべきです。」
正俊は、病床の家綱に綱吉将軍継承を認める書を与えていました。
晴れて将軍となったのは35歳でした。

綱吉が将軍となって5年・・・1685年2月・・・
江戸の町に高札が・・・
「将軍御成の際に道筋に犬猫が出ても苦しからず」
それまでは将軍が出掛ける際は、必ず犬猫を繋いでいなければなえいませんでした。
しかし今後は、放しておいても構わないということです。
これが最初の生類憐みの令とされています。
その後24年間に生き物を保護する法令が130余り出され、その総称が生類憐みの令です。
最も多かったのは犬!!
「飼い主のいない犬を見つけたら餌を与えること」
「犬がケンカしているのを見たら水をかけて離すこと」
「うろつく子犬を見たら母親を見つけること」
やがて・・・
「犬を捨ててはならない」
「捨て犬を見つけた者は養育すること」
「傷ついた犬がいるときは、その町全体の過失とする」
その内容は、徐々に厳しくなっていきました。
人々は綱吉を犬公方と揶揄するようになります。

違反した者には厳罰が・・・!!
犬を切り殺したものは・・・市中引き回しの上斬首!!
告発した者には50両!?
新井白石の書「折りたく柴の記」には・・・
「このことにより罪かうぶれるもの何十万人という数を知らず」
そのため、人々は犬と関わることを恐れ、こっそり犬を放したり・・・町が野犬だらけになっていきます。

困った幕府は野犬の保護を名目に”犬屋敷”を作ります。
現在の東京・中野にあった犬屋敷は最大で、30万坪という広大なものでした。
総ヒノキの小屋が290棟・・・犬部屋・餌場・日よけ所・子犬養育所・犬医者の家・役人の家・・・10万頭も飼育され、犬一食は米二合に味噌、干物・・・年間にすると10万両・・・100億円にも上りました。
その費用は、江戸、江戸周辺の農家が負担、町ごとに野犬用の駕籠まで・・・!!

観賞用のコオロギや鈴虫の飼育も禁止、遊びとしての魚釣りや鳥の捕獲も禁止・・・
許されていたのは金魚だけだったようです。

どうして”生類憐みの令”を出したのでしょうか?
1638年、徳松という唯一の跡継ぎを失った綱吉は、世継ぎに恵まれませんでした。
その状況を綱吉以上に心配したのが母・桂昌院!!
仏教に深く帰依していた桂昌院は、真義真言宗僧侶・隆光に相談。
すると隆光は・・・
「世継ぎができないのは、綱吉様が前世に多くの殺生を行っていた報いであり、世継ぎを授かるには殺生を禁じるのがよいでしょう。
綱吉様は、戌年生まれだから特に犬を大事にするように・・・!!」と、進言したのです。
これによって桂昌院は、生類憐みの令を出させたと言われていますが・・・
これはでっち上げによるものと思われます。




江戸幕府誕生から80年余り・・・
未だに刀の試し切りで辻斬りがされるなど、戦国の気風が残っていました。
戦で名を上げることが出来なくなった旗本や御家人たちは、派手な格好をして町に出ては乱暴・狼藉を行い治安を悪化させていました。傾奇者です。
この傾奇者たちが好んで食べていたのが犬でした。
犬の保護を名目に、傾奇者の取り締まりを!!

最初の生類憐みの令が出たときに・・・
「鉄砲打を捕まえたものに銀500枚」というものも出ています。
全国に普及していた鉄砲は、当時でも鳥獣駆除に使われていました。
庶民たちが武装し、簡単に蜂起できる状況に鉄砲の取り締まりを行い・・・自衛のための各藩の武器も取り上げました。
民衆を守ることで幕府の権威を高める側面もありました。
鉄砲の抑制・・・武装しなくてもいい社会づくりの一環です。

湯島聖堂は、綱吉が学問所として整備・拡充しました。
儒学の奨励をし、自ら講義をし、幕臣のみならず町民にも開放しました。
これからの武士にふさわしい哲学、生き方のために・・・!!
儒教では、人や動物に対するやさしさ”仁”を最も尊ぶからです。
武家諸法度第一条を・・・
「文武弓馬の道 専ら相嗜むべきこと」→「文武忠孝を励まし 礼儀を正すべきこと」と、替えています。
生類憐みの令も、その一環だったのです。
人間もその対象でしたが・・・
当時は捨て子が多く、里親になれば養育費として3両もらえるという制度ができました。
これを悪用する人が出てきて詐欺が孝行します。
その状況を変えようと・・・捨て子禁止令を出し続けます。
出産したときは、大家・地主に届け、人別帳に記載する・・・ということも始めます。

とことん生きるものを大事にした・・・
生類憐みの令は、弱者に対する福祉政策の側面も持っていたのです。
世界に先駆けた先進的なものでした。
戦国時代から続く殺伐とした時代の気風を一掃し、人命を尊重する世の中を作ろうとしたのです。
24年間で処罰されたのは69件で、ほとんどが武士だったといいます。
白石は、六代将軍の家庭教師なので、綱吉時代の政策を否定しているのです。


命をいつくしむ心を大切にした綱吉・・・
服忌令・・・近親者の不幸に対しての服喪や忌引の期間を定めた法令を出しています。
もともとは朝廷や公家の習慣でしたが、武士や庶民にも強制し、新しい社会規範として死や殺生を忌み嫌う世界を作ろうとしたのです。
父母・・・忌引50日、服喪・・・13か月、続き柄によって詳細に決められていました。
しかし・・・仕事を休むわけにはいかないので人々はこっそり働いていたとか・・・。

酒運上・・・酒の値段を上げて飲みすぎを防ぐこともしました。
江戸時代になるとお酒が広く出回るようになって、アルコール中毒や酒の上での犯罪が増えてきました。
そのための対処なのです。
酒癖の悪いものへ飲ませた場合も処罰されました。

積極的に人事改革も行いました。
その一つが将軍と老中の間に側用人を創設しました。
綱吉は生まれながらの将軍ではなかったので、江戸城内に側近はおらず、将軍になる前からついていた信用できる人物を側用人としました。

なので、老中たちは、側用人を通してでしか・・・直に将軍と話せないようになってしまいました。
将軍の意志は側用人から老中へ・・・のトップダウンとなり、綱吉は煙たい幕閣の実力者を遠ざけて独裁体制を作り、将軍への権力集中を見せたのですが・・・
本当に綱吉はトップダウンだったのでしょうか?
それまで老中となるには、2万5000石以上の譜代大名でなければなりませんでした。
しかし、側用人に家柄は必要なく、将軍が認めてくれさえすれば能力に応じて出世をすることができました。
幕政の中心を担うことができるのです。
綱吉に最も重用された柳沢吉保も、530石の舘林藩士にすぎませんでした。
最終的には、22万石の甲府藩主となった柳沢吉保です。
武断政治から文治政治への転換期で・・・
有能な人材を側用人に登用し、従来の老中制度も生かした政治だったのです。


綱吉は、寺社の造営・修築に力を入れます。
その普請料は、就任から10年後には4倍以上となり、幕府財政は赤字に陥ります。
財政を悪化させてまで寺社の造営・修築をしたのは、母・桂昌院のためでした。
桂昌院は、深く仏教に帰依し、桂昌院のために将軍就任の翌年には護国寺を造営、その後も母の願いをすべて聞き入れ、寺社の造営をしていきます。
綱吉は、母に対し異常なまでに従順で、将軍になってからも度々母を訪れては助言を求めていました。
綱吉は、母・桂昌院は信頼できるアドバイザーの一人でした。
将軍を動かすためにはまず、桂昌院から・・・今のマザコンのように見えますが・・・
儒教の教えの”孝”を果たすことが人間としての義務だと思っていたようです。

時代は高度経済成長へ・・・!!
綱吉が寺社の造営、農業生産の向上、街道の整備、商業の発展・・・大衆文化をも発展させます。
このような公共事業で巨万の富を得たのが商人たちでした。
中でも幕府を相手にした商人は大儲け!!
材木問屋・紀伊国屋文左衛門、奈良屋茂左衛門・・・豪商が誕生しました。
紀文は、寛永寺根本中堂の工事で50万両(約500億円)を儲けたといいます。
奈良茂は、日光東照宮の修復工事を独占し、大出世し財を成したと言われています。

豪商の誕生、商業の発展で、元禄時代は空前のバブル時代となります。
しかし、商人が儲かったのは・・・商人に対する税制が確立していなかったからです。
儒教の倫理観では「商売は卑しい行為」で、上人にはほとんど税金はかけられていませんでした。

空前のバブル景気に沸いた江戸でしたが、貨幣改鋳によりその流通量が増えて物価が高騰!!
一転して庶民の生活が困窮に・・・!!
そんな中、1703年元禄大地震、1707年富士山大噴火・・・その復興費用が、幕府の財政を圧迫していきます。
当時は、災害はお上の悪政が引き起こすと言われていました。
庶民たちは、将軍への批判を始めます。
天に見放され、人心さえも・・・晩年は、生来の好き嫌いが激しくなり、気に入らないものはすぐに遠ざけたと言われています。
そして被害妄想も・・・
やがて、唯一成人していた娘・鶴姫を27歳という若さで亡くし、その翌年、最愛の母・桂昌院も亡くすのです。
4年後・・・綱吉は、自らの跡継ぎを残せないまま・・・64歳で孤独の中この世を去りました。


ドイツ人医師ゲッペルは綱吉のことを・・・
「法律を厳格に守り、国民に対し憐み深い優れた君主である。
 日本は、生活習慣、芸術、道徳において、ほかのあらゆる国の人を凌駕している」
様々な国を見てきたゲッペルには、綱吉が名君に映ったようです。


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元禄15年(1702年)12月14日

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「狙うは殿 浅野内匠頭の敵
 吉良上野介の御首のみ!!」

赤穂藩筆頭家老大石内蔵助をはじめ四十七士が討ちいったのが“忠臣蔵”。
その忠義のための義の心が、今も日本人の心を掴んで離しません。
この事件の中心人物が、浅野内匠頭のNo,2大石内蔵助です。

大石内蔵助は、赤穂藩代々の家老の家に生まれました。

21歳の若さで家老となり、筆頭家老として22年間その座にありました。
そして・・・昼行灯と呼ばれていました。

元禄14年3月14日・・・大事件が起こります。
江戸城内松の廊下で浅野内匠頭が吉良上野介に突然斬りかかったのです。

浅野内匠頭は、将軍綱吉の怒りを買い、即日切腹。。。
お家断絶となりました。
その知らせを聞いた内蔵助は愕然とし・・・

しかし、なぜ浅野内匠頭が斬りかかったのか・・・
その理由は300年たった今もわかりません。
意地悪説・賄賂拒否説・・・


しかし、新たな説が出てきました。
その謎が解明されたとき、赤穂浪士が討ち入りました???

江戸時代から親しまれてきた「仮名手本忠臣蔵」。
なぜこのようなタイトルなのでしょうか?
仮名・・・つまり、“四十七文字”手本忠臣蔵ということです。

では、どうして忠臣蔵?
吉良を炭蔵で見つけたから、とか、忠臣たちが蔵に詰まっているからとか言われています。


加藤廣さんが、広い視野で考えてくれました。

なぜ浅野内匠頭は、刃傷沙汰に及んだのでしょう??
刃傷沙汰の2週間前・・・

元禄14年2月28日
五代将軍綱吉のお側用人筆頭柳沢吉保のもとにやってきたのは、幕府の朝廷外交を一気に預かる肝いり・吉良上野介。

吉保は4年前に作成した桂一計画の進行度合いを聞くために呼んだのでした。
桂一計画とは・・・綱吉の母・桂昌院に女性の最高位である従一位を取らせることでした。
朝廷は、ここ数年、これを渋っていたのです。
出来なければ、腹を切るしかない吉保でした。


元禄14年3月14日
この日は、江戸城内で、綱吉が朝廷の勅使に御礼を述べて、勅使を送り出す・・・
そんな大切な日でした。

浅野内匠頭は、朝廷の勅使を接待する“勅使供応役”を任命されていました。
勅使は10時にやってきます。

そんな9時に。。。事件は起こりました。

儀式に向かう吉良・・・突然浅野内匠頭が斬りかかりました。
こんないざこざが朝廷の耳に入れば・・・
不安がよぎる吉保・・・

桂一計画に暗雲が立ち込めます。
浅野内匠頭は、大番所に留め置かれます。
「その方、場所もわきまえずに吉良に刃傷沙汰に及んだのはどのようなつもりであったのか???」

浅野内匠頭「吉良には、私的な遺恨があったので刃傷に及びました。」

吉良上野介「拙者何の恨みも受ける覚えはなく内匠頭の乱心と思われます。」

結局、吉良は何の責任も取ることはなく・・・内匠頭は即日切腹という異例の処分が下されました。
35年の生涯が閉じられたのです。

吉保は、忍びの黒鍬組から意外な知らせを受けます。内匠頭の妻阿久利は、夫が吉良に恨みがあったことを知っていたのです。

桂一計画が裏にあるのでは・・・?
つまり、幕府のNo,2・柳沢吉保と赤穂藩のNo,2大石内蔵助の戦いがあるというのです。

幕府は密偵を放って、諸藩のことは調べ上げていました。
だから、柳沢は大石を知っていました。
柳沢は幕府では怖い存在で、側用人として主君のそばに仕え、全てのことに携わっていました。
江戸幕府では、将軍側近の実質的な最高職だったのです。


昼行灯の大石内蔵助が輝く日がやってきました。
元禄14年3月19日、松の廊下事件から5日後・・・浅野大学からの手紙を受け取ります。

「今14日、殿中において吉良上野介殿を内匠頭様一太刀切りつけのところ内匠頭様命の別状これなき由・・・」

今回の殿の所業は、痞(さしこみの一種)による突発的発作によるものと思われた・・・

最後に。。。
「札座のことよろしく申し付けられるべく候」
とありました。

大きな不安がよぎりました。

昼行灯がNo,2として大きく動き出します。
内蔵助が最初に手を付けたのが、藩札の換金でした。
当時、大名家が断絶の場合、藩札の換金率は、3割から5割・・・引き換えなしという場合もありました。

領民の動揺を抑えるために、6割で換金しました。
また、300近い藩士の数を抑えること。
このままでは、混乱が起きる・・・。

江戸から早籠が届きました。
「14日即日ご切腹とお家取り潰しでござる」

内蔵助は・・・突発的発作事件ではないかも知れない・・・

3月19日・・・
赤穂上籠城と徹底抗戦と、全員の自決・・・第3の道を探す時間があまりにも短すぎ・・・

翌20日。
城を枕に自決することを藩士に提案します。
そこに、黒鍬組がいることを知ってのことでした。

2日後、赤穂城から藩士がめっきり減りました。
本当に残った忠臣たち・・・そこで、残った藩士に退職金を分配しました。
しかし、内蔵助は思っていました。なぜ刀を抜いたのか・・・本当のことがわかるまでは死ねない・・・と。


元禄14年3月26日夕刻・・・第三の使者が・・・
殿は切腹に対しても、庭先で・・・一般人と同じ扱いを受けたことを知ります。
当時、大名の切腹は、室内ですることになっていました。

そして、遺言は・・・
「これまでのことは、かねてから知らせようと思っていたが
 今日せっぱ詰まったことなので知らせることが出来ない
 不信に思うかもしれぬが・・・」

内蔵助は衝撃を受けました。
吉良との間に何かあったに違いない・・・
妻の阿久利様に会うために、江戸に向かいます。

そしてそのことは、黒鍬組を通じて柳沢には筒抜けでした。

江戸・赤坂にある屋敷にて阿久利様から聞きます。・・・

吉良に、「これは、田舎大名が口をはさむことではない」と言われたとか・・・

殿の言われたこれとはなんであろうか・・・
じっと考える・・・

黒鍬組からそのことを聞いた柳沢吉保は・・・
それは、桂昌院の従一位のことでは???と思ったとか。

つまり、吉良は浅野内蔵助に桂一計画を自慢げに話したのではないか???
あるいは浅野内蔵助が桂一計画に対して警告したのかもしれない・・・

それに対して、田舎大名が口をはさむことではないと言ったのではなかったか???

その後、桂昌院には従一位が、柳沢吉保には2万石の加増が・・・
内蔵助の言ったことは・・・
朝廷思いの内蔵助が、幕府の横暴に口出しし、その先鋒の吉良を咎め、言い争いになったのではないか???


松の廊下から9か月・・・
吉良への復讐に、準備が始まりました。

隠居した高家を深川に追い出した柳沢・・・
桂一計画が達成された今、大石の仇討に協力するかのような行為でした。
「やるなら江戸のど真ん中ではなく深川でやれ」と言ってるかのようでした。


討ち入りの時期と手段は???

討ち入り作戦其の一。
急進派(堀部安兵衛ら)の説得。
「十分な準備なくして討ち入りを急いでは必ず失敗する
 下手な大工仕事と同じよ」

安兵衛は激怒!!
そこで内蔵助は、同志を京都・丸山に集めます。
会議の直前、安兵衛のことは、黒鍬組に筒抜けだということを知らせました。
安兵衛は反省し、内蔵助に忠誠を誓うことになります。

討ち入り作戦其の二。
決意表明。
大石の決意表明に、万感胸に迫る藩士たち・・・一つにまとまります。

討ち入り作戦其の三。
意思の確認。
「筆頭家老大石殿には、重ね重ねの屈辱的処分に対しても
 反発はおろか復讐のお気持ちすら見せませぬ
 ただただ女遊びにうつつを抜かす有様・・・」

といって、怒り狂うものに対してだけ討ち入りの決定をあかし・・・江戸へと向かう準備をします。その数、50人ばかり。。。

頭を悩ませたのが、武具でした。
資金がありません。
瑶泉院に用立ててもらったり・・・暗闇でも目立たないように、黒っぽい同じものに・・・
防具は脇楯、手には籠手、足には脛当、頭には針金入りの頭巾をつけました。

元禄15年10月7日。
江戸に向けて、京都を出発しました。
同志たちは、続々と江戸に集結。

12月2日。
赤穂浪士たちは、深川八幡の茶屋で策を練りました。
上野介の寝所を探ります。

しかし・・・
幕府は、吉良上野介の米沢隠棲願いをご裁可します。
米沢に行かれては、仇討もままならない・・・・・。

12月14日、年忘れ茶会の日に決定します。
浪士は47人。

12月14日・・・あれから1年9か月が経っていました。

そして、この物語は、時代を超えて忠義の物語として語り継がれることになります。
討ち入りの翌年、16年2月4日、赤穂浪士たちはそれぞれのお預け先の大名家で切腹します。
そして、浅野内匠頭の眠る泉岳寺へ・・・

この時代、おとり潰しになった大名は248にも上ります。
しかし、赤穂浪士だけが忠義を全うしました。


う~ん・・・どうでしょうか???
どうして浅野内匠頭が切りつけたのか?やっぱり闇のなかでしょう???
大石が”皇室崇拝の祖父に育てられた”という部分で、朝廷方の考えがあったかもしれませんが、浅野内匠頭がそんなに朝廷のことを思っていたのかはわからないし、そうでないとこの話も始まらないので・・・

やっぱり真相はやぶの中でしょうか・・・???
ただ言えることは、今でもいろいろな考え方が出てくるのは、やっぱり人気があるからなのでしょうね。黒ハート

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