犬と鷹の江戸時代 〈犬公方〉綱吉と〈鷹将軍〉吉宗 (歴史文化ライブラリー) [ 根崎光男 ] 価格:1,944円 |
悪法・・・生類憐みの令を思い出す人も沢山いるでしょう。
この生類憐みの令を出した徳川綱吉・・・
江戸時代の黄金期”元禄時代”は、大衆文化が花開き、人々は太平の世を謳歌していました。
一方、地震や富士山の噴火など天変地異や、忠臣蔵で知られる討ち入りがありました。
そんな時代を治めていたのが、江戸幕府5代将軍・綱吉でした。
戌年生まれで、犬を保護したところから犬公方と呼ばれています。
15代に渡った徳川幕府史上最悪の将軍のイメージが・・・。
無能??恐怖政治??
しかし、実際の綱吉は、庶民の生活を一番に考え、福祉政策に力を入れていました。
当時、来日し、綱吉と対面したドイツ人医師・ケンペルは・・・
「綱吉は優れた君主である。
法に厳格という点を除けば、憐れみ深い人物で、国民の気風にふさわしい方法で国のかじ取りをしている。」
そんな綱吉が、どうして悪名を残すことになったのでしょうか??
子供の健やかな成長を願う七五三は、もともと貴族の行事でした。
それが庶民の間に広まったのは、綱吉が子供のために行ったのがきっかけだったといいます。
綱吉の治世初期は天和の治と称賛されるほど優れていました。
どうして庶民に目を向けるようになったのでしょうか?
関ケ原から半世紀たった1646年、綱吉は3代将軍家光の4男として生まれました。
普通に考えれば、将軍になる立場ではありませんでした。
綱吉は、兄弟の中でも抜きんでて利発な子・・・しかし、家光は若干の懸念を持っていました。
「才能に任せて、心のままに行動すれば、思いのほか災いを引き起こすかもしれない。」by家光
当時、武士が学ぶべきは武道でしたが、家光はあえて学問を命じます。
「私は幼いころから武芸ばかりしていて、学問を修めなかったことが悔やまれる。
この子は非常に賢いから、第一に学問にはげむように。」by家光
綱吉は、将軍になるべくして育ったわけではありません。
なので、長男・家綱は帝王学を学ばなくてはいけませんが・・・綱吉は学問をベースにしておけば将来的に役に立つだろうと・・・。
1651年、綱吉5歳の時に、父・家光が46歳で死去。
そして、長男・家綱が僅か11歳で4代将軍に就任。
この時、3男と5男はすでに亡く、次男・綱重と4男・綱吉はそれぞれ15万の大名に・・・。
綱吉は、母の影響を強く受け・・・母の桂昌院は家光の側室のひとりでした。
元々は京都の青果店の娘・玉で、庶民が将軍に見初められたことから、玉の輿の言葉の由来にもなっています。
当時、将軍家の人々は、庶民の生活の実情には疎く・・・しかし、綱吉は、母からいかに武家が優遇され、庶民が貧しいかを教えられながら育ちました。
通常、乳母に面倒を見てもらい、母親は直接関与しないことが多かった中、母として我が子に接するという庶民感覚があったのです。
教育ママ的要素もあって、綱吉は大きな影響を受けることとなります。
更に綱吉は、母の影響で、仏教を大切にし、能をたしなむなど文化にも強い関心を示しました。
武芸には一切興味なし!!でした。
将軍・家綱が、綱重と綱吉に馬を贈るものの・・・乗馬の練習に励む綱重に対し、綱吉は馬の絵ばかり描いていたといいます。
1664年、18歳で公家の娘と結婚。
しかし、子宝には恵まれませんでした。
1677年、31歳の時に側室・お伝が長女・鶴姫を、その2年後、33歳にはお伝が長男を産みます。
綱吉は、自分の幼名である徳松と命名。
この頃、綱吉を取り巻く状況は大きく変わりつつありました。
1678年兄・綱重が急死、家綱には子供がいなかったので、綱吉が次期将軍の最有力候補となったのです。
しかし、それに異を唱えたものが・・・大老・酒井忠清です。
病気がちだった将軍・家綱の元で、実質的な権力を握っていました。
家綱の死後も、権力を握りたいと考えていた忠清は、次期将軍に皇族の擁立を画策!!
学問にばかり打ち込む綱吉を・・・「天下を治めさせたもうべき御器量なし」と、言いました。
しかし、老中の堀田正俊が異議を唱えます。
「正しき血縁者である綱吉さまがいらっしゃるではないか」
結局、綱吉は後継者として認められることに・・・
1680年、34歳の時に兄・家綱が死去、綱吉は五代将軍になります。
綱吉は、自分の就任に反対した大老・酒井忠清を病気を理由に引退させます。
そして、自分の味方をした堀田正敏を大老に・・・。
1680年、34歳で思いもよらない将軍の地位に上り詰めた綱吉は・・・母から聞いていた厳しい庶民の生活に耳を傾けていきます。
そして、天和の治を実現させます。
幼いころから学民を学んでいた綱吉・・・当時、中心となったのが儒学でした。
そして、綱吉は儒学の古典の中に自分の理想を見出します。
それは、各藩の大名が領民を統治している当時の幕藩体制ではなく、慈悲深い絶対君主が統治し、その幸せに責任を持つというものです。
この実現のために・・・
悪代官を根絶・・・当時、年貢の横領などをする代官が少なくありませんでした。
そこで綱吉は大老・堀田正敏の名で”七か条の訓示”を出します。
民は国の基本である
代官たちは常に、民の辛さや苦しさを知り、決して民が飢えることのないようにせよ
綱吉は、不正をする代官を次々と免職・・・切腹させることもありました。
この頃から、民は年貢負担者から国の礎という考えに代わります。
これは、成人君主が民にも優しく接するという儒教の影響が大きく出ています。
大名にも厳しい姿勢で臨みます。
綱吉がとり潰した大名は、46件・・・他の将軍の時代をはるかに上回っています。
身内であっても見逃さない姿勢を、他の大名たちにも見せつけたのです。
恐怖政治的な側面も・・・恐れおののかせることで、将軍の権威を示し、将軍専制政治・・・将軍自身が前面に立って、政治の陣頭指揮に当たったのです。
一方、綱吉は、庶民の負担を軽減することに力を入れます。
父・家光が作った巨大船・安宅丸・・・維持費に莫大な費用が掛かると知ると廃棄。
初代家康を祀る日光東照宮への参拝は、取りやめに・・・。
そして、鷹狩りの廃止・・・鷹狩りは、支配者だけに認められた権力の象徴の重要な儀式でしたが、準備のために周辺住民は多大な負担を強いられていました。
次々と前例を無視する綱吉に、周りから不満の声が・・・。
綱吉は、
「自分は普通ではない状況の中で将軍職を継承した。
よって、徳川の前例に従う必要などは感じていない。」
綱吉はさらに、特権階級となっていた武士の考えを変えようと試みます。
正月の恒例行事を、武芸の腕前を披露する「兵馬初め」から、儒学の書物を読む「読書初め」に変更。
家臣への褒美も、自ら儒学の講義をすることに変えました。
1683年、37歳の時、改革を進める綱吉に不幸が・・・
長男・徳松が僅か4歳で亡くなります。
さらによく年には、右腕の大老・堀田正敏が江戸城で若年寄に刺殺されてしまいます。
従来、老中・若年寄の部屋は、御座所の隣にありました。
ところが、この部屋で堀田が刺殺されたことで、御座所から離れた場所に置かれることとなります。
そこで、双方を繋ぐ連絡係として側用人が誕生します。
綱吉は、側用人を介することで、独裁的な政治を行うことに・・・。
更に綱吉は、側用人に、身分にかかわらず優秀な人物を登用。
従来、重要な役職は世襲となっていましたが、能力主義を導入したのです。
生まれより学識を重んじる儒教の考えがありました。
しかし、側用人の仕事は過酷で・・・
綱吉は朝早くから夜遅くまで仕事に打ち込むために、側用人のずっと仕事・・・。
「やるべき仕事があるときには、夜遅くても城に留まること。」by綱吉
結局、多くの者が体を壊してやめていきます。
そんな中、綱吉の期待に応えた側用人が柳沢吉保です。
僅か500石の武士でしたが、後に15万石の大名へと出世します。
「人はただ、まこと(誠・実)の二文字を忘れずば、幾千代までも栄ゆるなりけり」
綱吉は、よりよい社会実現のために、自分自身にも、家臣にも過酷な日々を課したのでした。
綱吉が将軍となった時、関ケ原の戦いからすでに80年経っていました。
しかし、当時にはまだ戦国時代の殺伐さが色濃く残っていました。
武家には”切り捨て御免”が認められ、刀の試し切りに何の罪もない庶民が殺されていました。
火事と喧嘩は江戸の華の通り、人の気性も激しく、生活苦から子供や病人、年寄りを捨てるケースも少なくありませんでした。
庶民の幸せを実現させるために、殺伐とした社会の変革を考え始めます。
「残酷さや心意気を良しとする戦国時代の古い生き方には、無慈悲な行いが多く、人の本来の道に背く」
戦国時代の遺風では、彩絵画成り立たない段階に来ていたのです。
綱吉は、その社会構造から脱却しなければいけないと思っていました。
多くの人々に意識改革をしてもらい、新しい社会を作っていこうとしたのです。
しかし、理想の社会の実現には、庶民の日常を統制することとなりました。
①華美な服装の禁止
綱吉自身も古く汚れた衣装を着続けます。
②肉食の禁止
戦国時代の武将たちが好んでいた肉食を綱吉は嫌っていました。
③飲酒の抑制
庶民でも酒が手に入るようになり、酔っ払いによる犯罪が増えていました。
いつしか、庶民のための政策が、庶民のささやかな楽しみを奪う政策となっていっていました。
綱吉が将軍となってから、抑圧した政治を行っています。
道徳を植え付けたいと意識改革を、一般庶民に求めたのです。
将軍が権威的で恐ろしいという側面を持つようになっていました。
1685年・・・39歳の時に打ち出したのが、”生類憐みの令”です。
生類憐みの令は、24年にわたる130を超える法令の総称です。
その対象も、犬、猫、馬、牛、取り、魚、虫・・・あらゆるものに及びます。
犬に関する法令が多いのは、当時の江戸の状況によります。
至る所で野良犬がうろつき、捨て子を食べたり、通行人を襲ったりしていました。
殺伐とした世の中を変えていくためには、野良犬対策は真っ先に取り組むべき課題でした。
しかし、ここでも綱吉はやり方を失敗します。
生類憐みの令の最大の狙いは、人々に慈悲の心を植え付けることです。
しかし、成果が上がらないことにいら立つ綱吉は、違反者に厳しい罰則を行っていきます。
馬に重い荷物を積んだりしないこと。
金魚は飼ってもよいが、飼育数を正確に報告すること。
子供、老人、病人を捨てることは禁止、そして捨てられた子供、老人、病人を見つけたら役人が保護すること。etc.
飼い犬はすべて毛色を記載し、飼い主を登録すること。
ケンカをしている犬を見つけたら、仲裁すること。etc.
遂には犬を殺したことで、切腹させらるる者も・・・
その結果、人々は犬に関わることを嫌がり、逆に野良犬が急増してしまいます。
止む無く綱吉は、東京・中野に「犬屋敷」を建設。
東京ドーム20個分の敷地に、10万匹の野良犬が運び込まれました。
犬たちには、1日米3合・みそ・魚が与えられ、費用は幕府の年間予算の1/8に及び、その負担は庶民にのしかかるようになります。
綱吉に対する不満が高まっていきます。
生類憐みの令で、人々の反感を買った綱吉・・・それでも30年近くに及んだ治世で、殺伐とした空気を変えていきます。
綱吉の時代に花開いた元禄文化・・・日本史上初めての町人文化です。
歌舞伎、浄瑠璃、浮世絵、俳句、天文学、古典研究・・・
その中に、綱吉がいかに空気を変えたのか・・・
浮世草子・伊原西鶴の作品にあります。
綱吉が将軍になりたての頃に書かれた”好色一代男”では・・・恋人との間の子を捨てることに罪を感じていません。
しかし、10年後の「世間胸算用」では、子供を捨てることは罪だということが色濃く浸透しています。
殺伐とした時代の空気を変えた綱吉・・・しかし、江戸幕府の公式記録「徳川実記」には、綱吉の政治は決して仰ぎ慕うようなものではないと書いています。
綱吉は無用な君主として語り継がれるようになるのです。
どうして酷評されることに・・・??
1701年、55歳の時に・・・人々の反感を買うことになることに直面します。
忠臣蔵一連の騒動です。
江戸城中で、赤穂藩主・浅野内匠頭が吉良上野介に斬りつけた・・・
浅野は切腹、赤穂藩はおとり潰しに・・・2年後・・・赤穂藩の47人の浪士が吉良邸に討ち入り!!
浅野の仇を討ったのです。
問題となったのは、47人の浪士をどう処分するのか??です。
綱吉自身も相当悩み・・・下した判断は全員の切腹でした。
藩主のために命を投げ出した武士の美学よりも、法に基づき命の大切さをとったのです。
しかし、世間の人々は、仇討を果たした赤穂浪士たちに同情します。
そして、綱吉への不満を募らせていったのです。
綱吉は、儒教の精神にのっとり「忠孝に励むように」と説いていましたが、忠孝に励んだ赤穂浪士たちが切腹を命じられるという状況・・・それは、一般の人たちの憂さ晴らしの格好の材料となりえたのです。
さらに、綱吉の評価を下げたのは、相次いだ天変地異でした。
1703年、57歳の時に関東で元禄地震発生。
1707年、61歳の時に東海で宝永地震発生。
その2か月後、富士山が噴火!!
江戸にも大量の火山灰が降り積もりました。
1708年、62歳の時に、京都で「宝永の大火」が発生。
町の中心地が焼け野原となり、皇居も消失しました。
こうした災害に対し、綱吉は被災者救済に全力を注ぎます。
しかし、世間の受け止め方は違いました。
度重なる天変地異は、綱吉が悪い政治をしたゆえの天罰だと考えたのです。
町には、綱吉を批判する落書きが溢れ、綱吉が地震で死んだというデマまで・・・。
綱吉自身の身の回りでも不幸が相次ぎます。
天変地異が続くさ中・・・1704年58歳の時に、長女・鶴姫が27歳で死去。
翌年には、母・桂昌院もこの世を去ってしまいます。
気難しくなっていく綱吉・・・。
晩年、はしかにかかった時に綱吉は、かかりつけの医師さえ寄せ付けず、自らの医学知識に基づいて薬を処方させていました。
一時的に回復の兆しが・・・しかし、このはしかが原因で命を落とすこととなります。
1709年1月9日、5代将軍徳川綱吉死去・・・享年63歳でした。
綱吉の死後、6代将軍となったのは、兄・綱重の息子・家宣でした。
そして、その政治を支えたのは、儒学者・新井白石でした。
白石は、新将軍・家宣に対する人々への期待を高めるために、晩年評判の悪くなっていた綱吉を徹底的に批判!!
生類憐みの令も、綱吉の死後僅か10日で、そのほとんどが撤廃されました。
しかし、捨て子の禁止や病人の保護など、福祉政策は引き継がれました。
その後、名君と名高い8代将軍吉宗も、綱吉の政治を参考にしたといいます。
晩年、綱吉の残した書が残っています。
「おもい よこしま なし」
政を司る人間はどう考えるべきか、
考えによこしまなもの・・・邪念が入ってはいけない、
将軍の務めを果たしていく上での心構えを書いたものです。
理想の社会を実現しようと奮闘した徳川綱吉・・・しかし、その名は、最悪の統治者として伝わることとなったのです。
↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。
にほんブログ村
戦国時代 ブログランキングへ
将軍側近柳沢吉保 いかにして悪名は作られたか/福留真紀【2500円以上送料無料】 価格:756円 |
柳沢吉保と江戸の夢 元禄ルネッサンスの開幕【電子書籍】[ 島内景二 ] 価格:1,944円 |