天下統一の総仕上げとなった戦場・・・そこに苦楽を共にした一人の武将の姿がありませんでした。
秀吉の弟・豊臣秀長です。兄が壮大な夢を叶えるのを見届けることなく、秀長はこの世を去りました。
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1582年6月2日、秀吉、秀長兄弟の運命の歯車が急速に回り始めました。
織田信長が明智光秀に討たれた本能寺の変・・・
信長の家臣として出世を重ねていた羽柴秀吉、この時46歳!!
中国地方で毛利氏と戦っていた秀吉は、信長が討たれたという知らせを受け急ぎ畿内へと引き返します。
中国大返しです。
この時、撤退する秀吉軍の殿を任されたのが、弟・秀長・44歳でした。
最後尾で敵の追撃を食い止める殿は、命を張って大将を守る危険な任務です。
これまで幾度となく秀吉軍の殿を務めてきた秀長・・・
この時も、明智光秀のもとに攻めあがる秀吉の背後を守る地味ながら重要な役割を一手に引き受けました。
そして迎えた明智光秀との山崎での戦い・・・
秀長は、勝敗を分ける天王山に布陣!!
この地の守りを固め、秀吉本体の突撃を援護、勝利に貢献しました。
強気に攻める秀吉に対し、守りを固める秀長・・・
そんな兄弟は、生い立ちからして対照的でした。
1537年、尾張国の農民の家に生まれた秀吉は、若くして家を出ます。
行商人として放浪したのち、武士を志し信長に仕えるようになります。
一方、秀長は、1540年、秀吉の3歳下の弟として生まれました。
真面目で働き者の秀長は、長男の秀吉に代わり農家を守っていました。
しかし、秀長が20歳を過ぎた頃、突然、秀吉が弟の元を訪れ、自分の家来になってほしいという・・・。
武士になるなど夢にも思わなかった秀長は困り果てたものの、兄の強引な誘いを断り切れませんでした。
以来、行動を共にするようになった2人・・・20年後、本能寺の変をむかえたのです。
山崎の合戦で主君の仇を討った秀吉と秀長・・・ここから天下統一への兄弟の挑戦が始まります。
1583年、賤ケ岳の戦い・・・
秀吉は、信長の後継者の座をかけて、柴田勝家と戦います。
勝家軍は、北国街道を南下、それを琵琶湖の右岸で秀吉軍が迎え撃ちました。
布陣から一月後、両軍睨み合う中でハプニングが発生!!
信長の3男・織田信孝と、滝川一益が挙兵。
秀吉は戦場を離脱し、美濃に向かわなければならなくなりました。
後を任されたのが、秀長でした。
この時、秀吉から秀長に送られた書状が残されています。
秀吉が秀長に、どう戦闘を行うべきか、柴田軍と対峙するべきかの命令が書かれています。
”私が戻ってくるまでは攻め込んではならない”
この時も秀長は、秀吉から戦場の守りを任されたのです。
しかし、敵の大将がいなくなったのを知った柴田軍は、一斉に攻撃を開始。
窮地に立たされる秀長・・・それでも秀吉の命に徹し、守り続けました。
そこへ秀吉本体が美濃から引き返してきました。
形勢は一気に逆転し、戦いは秀吉軍が勝利!!
兄弟の連携によって、秀吉の後継者争いに一歩抜き出たかに見えました。
しかし、ここで二人に待ったをかける者が現れます。
徳川家康です。
賤ケ岳の戦いの翌年の1584年。
家康は、信長の2男・織田信雄の求めに応じて挙兵。
小牧長久手の戦いで、秀吉は家康に手痛い敗戦を被りました。
各地の反秀吉勢力と関係を深めた家康・・・最大のライバルとして秀吉の天下統一に立ちはだかります。
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家康と敵対するうえで、戦略拠点となった城・・・それは、大和国の宇陀松山城です。
ここを難攻不落の城に大改修したのが秀長でした。
この城の東には、伊賀・伊勢、南には紀伊、そこには、家康と気脈を通じる勢力が根を張っていました。
伊賀衆、根来衆、雑賀衆・・・といった地侍集団の本拠地でした。
彼らは、小牧長久手の戦いでは家康と連携して秀吉を苦しめました。
もし、再び彼らが家康と結託して攻め寄せる事態となれば、秀吉は二方面から攻撃を受けることになってしまう・・・
その脅威を阻むためには、宇田松山城で、伊賀や紀伊の在地勢力を押さえ込むことが必要でした。
その為に、秀長は、この宇陀松山城の防御能力を飛躍的に高めようとしました。
東海より東に領地が広がる徳川家康・・・西に広がる秀吉。
両者がぶつかり合う地点を、秀長は堅固な城で守り通すのに成功します。
秀長は、秀吉の影の存在として、兄の天下取りを支え続けていたのです。
秀吉の天下取りを陰で支え続けた秀長・・・
46歳になった時、武将としての真価が問われる機会が訪れました。
1585年、四国攻めです。
小牧長久手の戦い以降、秀吉は徳川家康と手を組む勢力への対応に苦慮していました。
なかでも、秀吉に強く反抗し続けていた人物が・・・長宗我部元親です。
土佐の豪族から身を立てて、一代で四国全土を制覇した戦国大名です。
小牧長久手の戦いの際には、徳川家康の重臣・本多正信が元親に畿内への出兵を依頼していたことが記録されています。
四国支配を目論むようになってきた秀吉には、服従しない姿勢を貫いていました。
業を煮やした秀吉は、対に自ら総大将となって、四国攻めに出ることを決断し、準備に取り掛かります。
しかし・・・直前になって秀吉は体調を崩したため、急遽総大将は秀長が任されることになります。
これまで影の存在となってなってきた秀長は、予期せず表舞台に立つことになりました。
徳島県土佐泊・・・秀長が率いる6万の軍勢が、ここに上陸しました。
秀長は、長宗我部方の前線の城を次々と攻略。
そして行きついたのが、阿波一宮城!!
四国山地の入り口に位置するこの城は、長宗我部の本拠である土佐へ侵入するのを防ぐ防衛拠点でした。
ここを突破すれば、四国攻めは一気に秀長側に形勢が傾くと考えられていました。
5000の長曾我部軍は、阿波一宮城に籠城します。
秀長は、川を挟んだ辰ヶ山に本陣を置き、およそ5万の兵で城を包囲しました。
城攻めを進めていた秀長・・・そこに、大坂から思わぬ知らせが届きます。
病のいえた秀吉が、出陣して来るというのです。
秀吉からの申し出に・・・指示に従い秀吉の出陣を待つ??それとも、秀吉の出陣を断わる??
四国攻めを行っていた当時、秀吉は別方面にも手ごわい敵を抱えていました。
家康に与していた佐々成政が、北陸で敵対行動を起こしていました。
佐々討伐のために、秀吉が発給した命令書が残っています。
記されているのは、前田利家・池田輝政・山内一豊・蒲生氏郷・細川忠興・・・名だたる武将への出兵要請でした。
兵の総勢は、5万7300!!
北陸で、四国攻めと同等の大きな戦が始まらんとしていました。
もしここで秀吉が四国攻めに参加すれば、佐々成政や家康に自由に動く機会を与えることになってしまう・・・!!
秀吉の出陣を待つべきか??自ら四国攻めを決着させるべきか・・・??
秀吉が四国攻めに参戦すると聞いた秀長は、思案の末、兄に書状を送りました。
”ご出陣は、殿の御威光を損ねます
たとえ日数がかかっても、期待に応えますのでご出陣をおやめください”
秀長は、秀吉の出陣を断わり、自ら四国攻めをやり遂げることを選択しました。
これまで戦場では、兄からの命令を忠実にこなしてきた秀長が、自らの考えで行動することを決断した瞬間でした。
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鉄壁の阿波一宮城をどのように攻略すべきか??
秀長は一つの策を思いつきました。
貯水池を干上がらせるため、秀長は城の背後から侵入させ、水路を破壊しました。
水の手を奪われたことで、城の兵たちは慌てふためきました。
このタイミングで、秀長は長曾我部元親に和議を提案しました。
”城が落ちる前に降参すれば、元親殿の面目も保てるでしょう
私に任せてもらえれば、良きように取り計らわせていただきます”
秀長は、どちらかが滅ぶまで戦うよりも、和議による道を探ります。
阿波一宮城が落城すれば、本領土佐への侵攻は避けられないと考えた元親は、提案を受け入れ降伏。
阿波・讃岐・伊予の三国は秀吉方に接収されましたが、秀長の計らいによって土佐は安堵されました。
一方、四国に来なかった秀吉は、北陸を攻め佐々成政を降伏させました。
各地の味方を失った徳川家康・・・
ここで秀吉は、思い切った懐柔策に打って出ようとします。
妹・旭姫を家康に嫁がせ、母の大政所も家康のもとに送ろうとしたのです。
家族を事実上の人質に差し出そうとする兄に、秀長は猛反対!!強く意見したといいます。
この頃を機に、秀長は秀吉からいわれるがままに動かずにはっきりと反対意見もいう存在に変わっていきました。
1585年、秀長は、大和、紀伊、和泉の大名になります。
秀長が、領国経営の拠点とした大和郡山城!!
近年の発掘調査によって、この城について新たな事実が明らかになりました。
2014年に行われた発掘調査で、礎石が発見され大和郡山城に天守があったことが分かりました。
さらに、大坂城と同種の金箔瓦が出土したことから、豪華絢爛な天守であったことも明らかとなりました。
秀長が、煌びやかな天守を築いたことには、ある狙いがありました。
薬師寺、東大寺、興福寺を見ることができます。
大和国はもともと寺院や神社の力の強い地域でした。
寺社勢力は、広大な荘園からなる経済基盤を持つだけでなく、独自に兵を組織し、武力も備えていました。
武士にはなびかない厄介な相手に対して、天守を見せることで領主としての権威を示そうとしたのです。
豊臣が力を持ち、これからの時代は豊臣が中心の大和国である!!
そのメッセージを、いかにお寺のお坊さんたちに見せつけるか??意図して豪華にしたものです。
秀長は、寺社勢力と渡り合うために他にも知恵を絞っていました。
興福寺の僧が記した”多門院日記”には、秀長の行った政策が細かく記されています。
・多武峰(寺)が、弓・槍・鉄砲などの全てを秀長に差し出した
秀長は、強大な兵力を備えていた多武峰寺をはじめとする寺社から、武具や防具をすべて没収し、武装解除させました。
これは秀吉が行った刀狩りの3年も前のことです。
秀長は、戦乱の世を終わらせる方策をいち早く考えていたのです。
秀長が行った政策について、こうも記されています。
・土地の面積など書き、差し出すように申しつけられた
秀長は、所領の面積や米の収穫量を申告させる差しだしという検地を行いました。
申告内容は、細かく確認され、寺の土地はことごとく押し取られたというケースもあります。
実際、興福寺は、2度に渡った検地で、領地を1/5にまで減らされました。
秀吉は、大和国の検地をさらに改良した太閤検地を全国の大名に実施させ、長く続いてきた荘園制に基づく土地所有の在り方を一新させました。
秀長は、後に豊臣政権の屋台骨となる政策を先駆けとなってあみ出していたのです。
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1587年、九州攻めでは秀吉が肥後方面の総大将・・・秀長は日向方面の総大将となり、二方面から島津氏を攻略。
九州平定によって、東海より西はほとんど秀吉の支配する処となり、天下統一は目前となりました。
秀長はこの年、48歳にして従2位大納言に叙されます。
豊臣政権内では、秀吉に次いで高い官位です。
この頃になると、秀長は戦場よりも政治の場で重要な役割を担うようになっていました。
秀吉に謁見する為に上洛する各地の大名達・・・
血の気の多い戦国武将たちをもてなすのも秀長の仕事となりました。
秀長の居城・大和郡山城に招かれた毛利輝元の言葉が残されています。
”お供の衆にまで気を遣われる大納言殿の心配りは、筆舌に尽くしがたい”
九州の有力大名であった大友宗麟は・・・
”内密の話は千利休だ
公式な業務は私が執り計らうので安心してほしい”
大友宗麟は、豊臣ファミリーをこう評しています。
”秀長殿に頼ればすべて大丈夫である”
今や権力者となった秀吉に、意見を言える数少ない存在となった秀長・・・
最も強く反対したのは、朝鮮出兵の構想についてでした。
決して実行すべきではないと歯止めをかけ続けました。
1590年の北条攻め・・・秀吉の天下取りも最終段階に入ったこの戦に、秀長の姿はありませんでした。
1591年・・・病を患った秀長は、52歳でこの世を去りました。
秀長の葬儀には、20万もの領民が集まり、野山を埋め尽くしたと記録されています。
秀長に領地を奪われた興福寺の僧でさえ、こう記しています。
「これからこの国はどうなるのか、心細い限りである」
その心配は、ほどなくして現実となります。
秀長の死から1か月後、政権を内から支えていた千利休が、秀吉に命じられて切腹。
さらに翌年、秀長が頑なに反対していた朝鮮出兵が断行されました。
秀長亡き秀吉政権は、崩壊へと進んでいったのです。
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