日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:桶狭間の戦い

およそ460年前、大きく歴史が動きました。
1560年5月19日、尾張のおおうつけと呼ばれていた織田信長と、海道一の弓取りと称された大大名・今川義元が激突。
織田軍3000に対し今川軍2万5000・・・
しかし、信長はこれを覆して勝利し、一躍乱世の主役となりました。

1560年5月12日・・・桶狭間の戦いの7日前・・・

駿河・遠江・駿河の三国を支配下に置く今川義元は、貴族のように白塗りをして輿に乗り、2万5000ともいわれる大軍を率いて駿府から出陣!!
信長のいる尾張へと兵を進めていました。
義元がどうして尾張へ侵攻したのか・・・??
上洛のため・・・??
足利将軍家に代わって、政権を掌握しようとした義元が、上洛の途中に邪魔となる尾張の織田信長を退けようというのです。
義元が9代当主を務める今川氏は、室町幕府を開いた足利一門・吉良氏の諸流・・・

”御所が絶えれば吉良が継ぎ 吉良が絶えれば 今川が継ぐ”

と言われるほどの高い地位にありました。
当時は足利将軍家が弱体化・・・吉良氏も没落していました。
義元が天下の立て直しを目論んでいたと考えても何ら不思議はありません。
しかし、この上洛説は、現在では否定されつつあります。

江戸時代の資料には、よく上洛という文字が書かれていますが、今川氏の資料には、上洛を思わせる資料がありません。
仮に信長を退けたとしても、その後ろには美濃の再投資、南近江の六角氏、北近江の浅井・・・
一気に上洛するのは不可能でした。
よって、尾張への侵攻というのは上洛とは考えにくいのです。
その為、現在では
①織田は他の付城排除説
②尾張の今川領回復説
③三河の安定化説
があります。

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その中に、尾張奪取説もあります。
もともと織田信秀の時代から、尾張に目をつけていて、国境付近で争奪戦を繰り広げていました。
信長の勢力が拡大する前に、尾張を制圧してしまおうと考えていたのでは??

上洛のためと書かれているのは「日本戦史 桶狭間役」です。
そこには他にも今川義元がくぼ地で休息していた
信長が戦場を迂回して義元の背後から奇襲を仕掛けた
などと記されていて、”桶狭間の戦い=信長の奇跡の逆転劇”というイメージを世間に定着させました。
というのも、”軍事の権威である陸軍参謀本部が編纂した史料に間違いがあるはずがない”からです。
明治から大正昭和にかけて、多くの研究者が支持したためでした。

現在、信長研究の基本資料と言われているのが信長家臣・太田牛一が記した「信長公記」です。
ここに記されている桶狭間の戦いの内容と、「日本戦史 桶狭間役」の内容が大きく異なるのです。
「日本戦史」は、江戸時代職の仮名草子「信長記」をもとに書かれたものです。
「信長記」は、「信長公記」をベースに書かれていますが、脚色や誇張が多いので現在では史料的な価値は極めて低いとされています。
本当は、どのような戦いだったのでしょうか??

桶狭間の戦いの前日の5月18日、今川義元率いる2万5000の大軍が、尾張との国境を越え、支配下に置く沓掛城に入ります。
この頃、義元の勢力は、尾張東部にまで及んでいてもともとは織田家の城だった沓掛城・鳴海城・大高城などを手に入れていました。
これに対し信長は、鳴海城の周囲に丹下砦・善照寺砦・中島砦・・・大高城の周囲には鷲津砦・丸根砦を築いて今川軍をけん制していました。
その為、沓掛城に入った義元は、すぐに家臣たちを集めて軍議に入ります。
大高城への兵糧入れと、鷲津砦と丸根砦の攻略を命じます。
しかも、
「領と出野攻略の際は、信長が助けに来られぬよう、潮の満ちる時に合わせ出陣せよ」
信長が、居城である清洲城から大高城に近い砦に加勢に来るならば、浜辺の道をとおるのが最短ルートですが、満潮時には浸水してしまうため迂回しなければならないので到着が遅くなります。
そこで義元は、満潮時を狙って出陣せよと命令したのです。
軟弱武将というイメージが強い義元ですが、愚将ではありませんでした。
この時、大高城に兵糧を入れたのが当時義元の人質となっていた19歳の松平元康・・・後の徳川家康でした。
元康は兵糧を届けると、そのまま城に残りました。
一方その頃、清洲城にいた信長は、家臣の諜報によって今川軍が鷲津砦と丸根砦を落とそうとしていることを知ります。

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大軍を擁する今川軍の襲撃は目前・・・「日本戦史 桶狭間役」には・・・
その夜、信長が軍議を開いたと書かれています。

「すぐに出陣する!!」

「今川の大軍と対峙するのは余りにも無謀
 ここは、この清洲城で籠城すべきかと存じます」

敵は2万5000!!
しかし、出陣する信長・・・!!

というのが通説でした。
しかし、「信長公記」によれば、軍議は開かなかったといいます。
雑談をしただけで家臣たちに帰る様に命じました。

「運が傾くと知恵の鏡も曇ることとはこのことじゃ
 うつけもうつけ、お館様は大うつけよ
 織田家もこれで終わりかのう・・・」by家臣

信長が軍議を開かなかった理由とは・・・??
信長は、清洲城の中に内通者が入り込んでいることを警戒していました。
敢えて何も考えていないように振る舞ったのです。
戦で一番重要なのは情報・・・そう考えていたのです。

5月19日・・・桶狭間の戦い当日。
遂に、今川軍が鷲津砦、丸根砦への攻撃を開始。
丸根砦攻略の大将は松平元康!!
兵の数はおよそ1000!!
鷲津砦には、今川軍の重臣が2000の兵で攻め入りました。
清洲城にいた信長のもとに、襲撃開始の知らせが届いたのはそれから間もなくのこと・・・
信長は飛び起きて・・・幸若舞の演目「敦盛」を舞ったと言われています。
舞い終えた信長は、「出陣のほら貝を吹け!!具足をもって来い!!」そう命じて、具足をつけさせながら湯漬けをかき込むと、馬にまたがり清須城をかけ出したといいます。
この時、信長と一緒に駆け出した家臣はわずか5人・・・信長が目をかけていた小姓たちでした。
ところが。。。向かった先は・・・??

午前7時ごろ・・・向かったのは尾張領内にある熱田神宮でした。
そして、熱田神宮に入った信長は、鷲津砦と丸根砦がある辺りを見つめていました。
そこには、恐るべき戦略が隠されていました。
丸根砦、鷲津砦の援軍に向かわす、熱田神宮に入った戦略は・・・
この二つの砦と兵を捨て駒と考えていたようです。
信長は、砦の攻防戦に勝利するつもりはなく、二つの砦を犠牲にして、今川軍本陣の兵力を減らそうと考えていたのです。
今川軍の兵力を分散させなければ、勝ち目が薄いと考えていたのです。
信長は、砦の辺りから煙が上がったのを確認し、両砦が陥落したことを悟ると、熱田神宮で戦の勝利を祈願すると、後を追ってきた雑兵と共に、再び出陣しました。

午前10時ごろ・・・
熱田神宮を後にした織田信長は、鳴海城を包囲する砦の一つ善照寺砦に入りました。
そして、ここに負傷兵たちを集結させました。
兵の数は3000ほどだったと言われています。
対する今川軍は、およそ2万5000と兵力の差は歴然・・・しかも、信長がいまだ尾張一国すらまとめ切れていない駆け出しの武将だったのに対し、義元は東海三国を支配下におさめる大大名・・・兵力、国力共に、義元が大きく上回っていたため、信長の勝利は奇跡と言われてきました。

国力の差・・・国力で考えると、必ずとも3倍ではありません。
義元と信長の国力の差は、それほど大きくありませんでした。
当時の石高は明らかになってはいませんが、1598年に豊臣秀吉が行った太閤検地によると・・・
駿河・・・15万石、遠江・・・25万5160石、三河・・・29万715石=70万石
尾張は、濃尾平野が広がる肥沃な穀倉地代であったため57万1737石、よって両者の石高の差は、それほど大きなものではありませんでした。

兵力の差・・・数字だけで見れば、織田軍・3000、今川軍2万5000。
8倍以上ありますが、大事なのはその質・・・兵の質が全く違っていました。

戦場で千人の死者があれば、武士はそのうち100人~150人程度・・・
つまり、戦場で刃を交えていた兵の多くは武士ではなかったのです。
戦を本業とする武士の割合はわずか1割程度で、9割は農民でした。
戦が始まった時だけ兵として招集していたため、当然武術の訓練などは受けていませんでした。
今川軍もその例にもれず、2万5000の兵のうち本当の戦力と言える武士は、2500ほどだったのです。
同様に計算すれば、織田軍にはわずか300ほどの武士しかいなかったことになりますが、戦国の革命児・信長にこの常識は当てはまりません。
信長には親衛隊と呼ばれる戦の専門集団がいました。
親衛隊は、家を継ぐことのできない武士や農民の次男や三男などでした。
日々軍事訓練を行っていた精鋭部隊だったのです。
桶狭間の戦いの頃には、700人から800人ほどいたと言われ、大きな戦力となっていました。
彼等は武器の扱いにも長けて、組織力も高く、織田軍は戦う気概も強かったのです。
つまり、奇跡が起きなければ覆せないほどの大きなものではなかったのです。

信長は、様々な下工作も行っていました。
その一つが、必勝祈願をした熱田神宮から善照寺砦に向かう際に、熱田の住民に白い木綿の布を竿に吊るして立てるよう命じていました。
それは、今川軍に織田軍の旗と見間違わさせ、多くの兵がいるかのように見せかけるための偽装工作でした。

10時ごろ、およそ3000の兵を率いて善照寺砦に入った信長でしたが、ここで思わぬ事件が起こります。
信長の家臣である佐々政次・千秋季忠が本体から離脱し、300ほどの兵を率いて今川軍の前衛部隊に突撃したのです。
しかも、あっけなく撃退されてしまい佐々・千秋ともに討ち死に!!
どうして二人は無謀ともいわれる先駆けをしたのでしょうか?

その理由について「日本戦史」にも、「信長公記」にも書かれていません。
一説には戦功に逸って抜け駆け??とも言われていますが・・・??
しかし、信長は厳しいので抜け駆けは思えません。
信長の命令による行動のように思えるのです。
「信長公記」には、この二人の動きを見て信長がすぐ中島砦に移ったとあります。
2人の先駆けは、信長本陣の移動をスムーズに行わせるための陽動作戦・・・囮だったように思えます。

勝つためには非情な作戦も厭わない信長・・・
また、「信長公記」には、信長と共に中島砦に異動した兵は2000足らずとあります。
残りの1000は、善照寺砦に残し置いたと思われますが、これも信長の策略でした。
後方からの敵襲に備えるため・・・そこに、織田軍の本陣が残っているように思わせるためでした。

桶狭間の戦いもいよいよ大詰め・・・
決戦当日の5月19日、前日に終わりに入っていた今川義元は、この日の朝、輿に乗って沓掛城を出陣・・・記録がなく、どこに向かっていたのかは分かっていませんが、おそらく大高城だと思われます。
そして、信長がおよそ2000の兵で中島砦へ移った正午ごろ、義元がどこにいたのかというと・・・??
「日本戦史」にはこうあります。

”織田家家臣の梁田出羽守が「今川義元が田楽狭間で休息中」という情報を信長にもたらした”

梁田出羽守は、諜報を担当していたといわれる信長の家臣です。
そして、田楽狭間とは中島砦から3キロ離れたところにあるくぼ地で田楽坪と呼ばれ、義元はここで休息していたというのです。
ところが、「信長公記」には、梁田が信長に情報をもたらしたという記述はありません。
義元が休息していた場所についても、”おけはざま山に人馬の息を休め”とあるのです。

現在は、おけはざま山にいたというのが通説です。
ただし、おけはざま山という名称の山がどこにもないのです。
おそらく、今の名古屋市緑区と豊明市にまたがる丘陵地帯(標高64.7m)の辺りだと思われます。
義元の本陣が、その丘陵のどこなのか??西側中腹にあったのでは??と言われています。
また、おけはざま山は、義元が出陣した沓掛城から大高城までの中間地点にあり、湧き水も豊富だったといわれるため、兵や馬を休ませるには絶好の場所だったと思われます。

休憩中の義元は、丸根砦と鷲津砦を落としたことで上機嫌・・・
謡を歌うなど、戦勝気分に浸っていたといいます。
信長は、その隙をつくのです。
「日本戦史」にはこう書かれています。

梁田出羽守の諜報によって義元の居場所を知った信長は、戦場を大きく迂回して義元のいる今川本陣の背後に回り込み、突然降り始めた豪雨に紛れて突撃!!
今川軍が大混乱となる中、義元の首を討ち取りました。
迂回奇襲説です。
この説が、通説でしたが・・・??
これもまた、現在は否定されつつあるのです。

というのも、「信長公記」には、信長が戦場を迂回して義元に奇襲を仕掛けたという記述はなく、さらに近年の調査により、迂回ルートを使っても今川軍に気付かれずに接近することは困難なことがわかりました。
現在有力視されているのが正面攻撃説です。

「信長公記」の記述をもとに、1982年に提唱された説で・・・
決戦当日の正午過ぎ、中島砦を発った信長は、義元のいるおけはざま山に向かって正面から進軍、途中、今川軍の前衛部隊と激突するも、これを退けて山際まで兵を進めます。
そして、義元いる本陣に、一揆に攻め入ったというのです。

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しかし、「信長公記」にも、戦いの全貌が事細かに記されているわけではないので、検証の余地はあります。
なので、その他にも側面強襲説、時間差二段攻撃説、別動隊説・・・があり議論されています。

義元の前衛部隊は、織田軍の攻撃を本陣に知らせようとしました。
しかし、信長がそれを阻止したのではないか・・・??
信長は、今川軍の連絡網を遮断していたと思われます。
その役割を担っていたのが、梁田出羽守だったのでは・・・??
情報を重視する信長が、敵の動きを把握せずに攻撃を仕掛けたとは考えにくいのです。
当時、諜報を担当する者は、敵の諜報を阻止する役目も担っていました。
梁田が今川軍の連絡係を捕殺することで、織田軍襲撃の知らせが今川本陣に届かなかったのでは・・・??
織田軍が攻めてくることを知らなかった今川軍にとっては、正面からでも奇襲だったのです。

「信長公記」には、
”激しいにわか雨が石化氷を練下撃つように降り出した
 二抱えも三抱えもあるクスノキが雨で東へ倒された”
とあります。
ゲリラ豪雨・・・風が西から東へ吹いていた・・・
織田軍にとっては追い風で、今川軍にとっては向かい風・・・
気配を隠すのに一役買っていたようです。

どうして格上の今川義元に勝つことが出来たのでしょうか??

勝因①巧みな戦術
勝因②突然の豪雨

勝因③地の利
決戦の地となったおけはざま山は、あくまでも尾張領・・・
鷹狩りなどで領内に赴くことの多かった信長には、なじみの場所・・・地理や地形も把握していました。

勝因④論功行賞
信長は中島砦からおけはざま山へと出陣する際、家臣たちにこんなことを継げています。

「敵の首や武器をとってはならぬ  
 死骸は放置せよ
 合戦に勝ちさえすれば、この場にいた者は家の名誉であり、末代までの功名であるぞ
 ひたすら励め」

武士にとって一番の武功は、敵方の首を取ることでした。
戦ののちに与えられる恩賞は、討ち取った首の数や価値で決まりました。
しかし、信長はこの戦に限ってはこれを禁じ、戦に勝ちさえすれば全員の名誉・・・全員に恩賞を与えると約束したのです。
そうすれば、味方同士の武功争いも起きません。
一丸となって打倒今川に邁進します。
そうしたワンチームの織田軍に対し、兵力を分散した今川・・・義元のいる本陣には5000ほどの兵しかいなかったのです。
そこへ、2000の織田軍が一斉に突撃!!
今川軍が慌てふためき、退却する中、義元の乗っていた輿が打ち捨てられているのを見かけます。

「義元が近くにいる・・・かかれ!!」

勝因⑤義元の誤算
そもそも、どうして義元は目立つ輿に乗って出陣したのでしょうか?
当時の武将で大名クラスで輿に乗ることが出来たのは、将軍家から許しを得た者だけでした。
高貴な身分であることを知らせるための演出だったのです。
しかし、これが裏目に出て、自分の居場所をしらせる格好の目印となってしまいました。
そして、義元を見つけた織田軍の兵たちは、周りを取り囲み一番槍をつけたのは、服部小平太!!
義元に深手を負わせましたが、最後の意地を見せる義元に膝を斬られてしまいます。
すると、毛利良勝が背後から義元に飛びついて組臥せ、遂に首を落としました。
こうして義元を討ち取った信長は、全軍を集めて勝鬨をあげ、意気揚々と引き上げていったのです。

桶狭間の戦い自体は1日で終わりました。
しかし、信長はその戦いのため、事前にこんな手まで打っていたのです。
それは、桶狭間の戦いの3年前の1557年頃・・・
信長は、織田方から今川方に寝返った戸部城主・戸部政直の筆跡を家臣に覚えさせ、戸部が信長に宛てたように見える偽の書状を書かせます。
そして、その書状を商人に扮した家臣が義元まで届けます。
書状を読んだ義元は、戸部がまだ信長と通じていると信じ、激怒!!
戸部に切腹を命じるのです。
こうして信長は、義元の貴重な戦力を削いていたのです。
信長の桶狭間の戦いは、実に3年も前から始まっていました。

信長の勝利は、たまたまではなく、用意周到に準備をしていた当然の結果だったのではないでしょうか?
そして信長は、この桶狭間の戦いの勝利をきっかけに天下人へと駆け上がっていくことになります。

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桶狭間合戦の真相―中島砦発にして用意周到・機略に満ちた奇襲戦だった

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1582年6月2日、京都・本能寺にて・・・一人の武将の夢が潰えました。
明智光秀の謀反によって本能寺で自害した戦国の覇者・織田信長。
49年の生涯の中で、信長の名を最も世に知らしめたのが”桶狭間の戦い”でした。
2万5000ともいわれた今川義元軍に対して、織田信長軍はわずか2000。
しかし、今川軍を撃破しました。
何が、信長に勝利をもたらしたのでしょうか??

1534年、信長は、尾張・勝幡城で生まれます。
父・信秀は尾張理守護代の家臣で、その地位は尾張の守護・斯波氏の下・・・守護代・清須織田氏の家臣・・・清州三奉行のひとりでした。
信長は、帝王学を学ぶために、9歳で那古野城主となり、家臣・平手政秀ら家臣によって育てられました。
その頃父は、周辺諸国との戦いに明け暮れ・・・地位は低いながらも守護や守護代よりも権勢をふるい・・・事実上の尾張の代表になっていました。

13歳で元服した信長は、1647年14歳で初陣。
しかし、農民や家臣の評判は芳しくなく、”うつけ”と言われていたのです。
常識をわきまえないうつけぶりは、父や母・土田御前の耳にも入ります。
折り目正しい弟・信勝を跡目にしようと望むようになります。
1552年、信長19歳の時、父の急死によって家督を相続!!
家臣の多くは・・・
「本当に、あのうつけに信秀殿の後を任せられるのか?」ということを感じていました。
その不安が的中!!
父の葬儀に遅れてやってきた信長は、袴もはかずいつもの奇抜な格好のまま・・・そればかりか、抹香を仏前に投げつけて、手も合わせずに引き上げて行ったのです。
「嫡男としてあるまじき行いだ!!」
織田家の行く末に不安を抱いた家臣たちは、信長に改めるように進言しますが・・・
信長の養育係・平手政秀がその素行の悪さを咎めるために切腹・・・!!

信長は後に言っています。
「わしがここまで強大になれたのは、政秀の死があったからこそだ」と。。。
政秀の命を懸けた行為に反省したのかもしれません。


美濃の戦国大名・斎藤道三・・・信長にとって舅となるわけですが・・・。
初めて会う日の事。
信長の格好は、男性器の模様が書かれた衣装に虎皮の袴・・・奇抜な格好で・・・評判通りのうつけでしたが・・・。
しかし、共の者は槍・鉄砲を持参!!
そして道三に挨拶に来た信長は、若殿の正装をした威厳ある男でした。
単なるうつけではなかったのです。常識外れの発想力を持っていました。

そして、信長の本当の試練はここから始まります。
19歳で父の跡を継いだ信長・・・那古野城の周りが敵だらけになってしまいました。
というのも、うつけだと、守護代たちが反旗を翻したのです。
さらに鳴海城を与えられていた家臣の山口教継が今川義元に寝返ります。
混乱状態の領内!!
窮地の信長が講じた策は・・・
叔父・信光と密約を結び、清須織田氏の居城を謀略で乗っ取ります。
そればかりか、叔父・信光を謀殺!!

家臣たちに信頼されていた血を分けた弟も敵に・・・
猛将・柴田勝家らに担がれて、7000の兵で攻め入ってきました。
これが・・・1556年稲生の戦いです。
信長の兵はわずか700・・・。
どうして勝てたのでしょう??そこには信長はうつけという・・・弟・信勝の油断があったようです。
信長母のとりなしで一度は弟を許しましたが、再び謀反を起こそうとしたことを知ると・・・
自ら仮病を装い、見舞いに来た信勝を謀殺!!

もう一人の守護代も、家督相続の混乱に乗じて追放してしまいました。
さらに、斯波氏も謀反の疑いで追放!!
謀略を駆使し、敵対するい勢力を排除、織田家を頂点へと導くのです。
尾張全土を平定し、翌年京に登り、室町幕府第13代将軍・足利義輝に謁見!!
尾張統一を報告し、信長の尾張支配を内外に認めさせたのです。
父の死から7年・・・1559年26歳のことでした。

信長軍の強さの秘密とは・・・??
信勝が柴田勝家らに担がれて信長と戦った稲生の戦い・・・
信勝軍7000に対し、信長軍700・・・1/10で勝利したのは・・・親衛隊の存在でした。
寝返り、逃走が当たり前の戦国時代にあって、何があっても裏切ることのない・・・特筆すべき存在でした。
命を捨てることも厭わない男たちの存在です。
父・信秀からお目付け役をつけられていた信長は、古参の家臣に縛られることを嫌いました。
目を付けたのは・・・尾張の土豪の次男・三男です。
跡取りにもなれないあぶれ者たちを手元に置き、専門的に兵士として育成しました。
そして、当時の最新武器である鉄砲、槍も普通は3.6mなのに信長軍の槍は6.3m!!
従来の槍は個人戦で用いられましたが、長槍を集団で使い、長さを生かして最前線で敵を崩したのです。
信長に絶対的に忠誠を誓う親衛隊が出来上がりました。
命知らずの若者が大活躍していくこととなります。
親衛隊の中でも有名なのが・・・前田利家・・・槍の又左です。
こうして信長は近代戦術の創始者となるのでした。

天才・革命家・合理主義・能力本位主義・・・部下たちのやる気が出るのです。
父の時代から津島湊・熱田湊を押さえ、豪商たちからお金を出させ、城下に兵を住まわせ、鉄砲を買う・・・
経済力がなければできなかったことです。
信長の強さは徹底的な合理主義にあったのです。

大胆な発想力、優れた知略、徹底した合理主義・・・この3つの力が備わった信長・・・運命の戦いへ!!
父の時からの宿敵・・・駿河・遠江・三河の三国を支配する大大名・今川義元!!
まず、今川義元の手に落ちていた大高城・鳴海城を謀略をめぐらせ・・・偽の情報を流します。
「山口教継は、織田家の間者として今川家に仕えている」と。
これを信じた義元は、教継に切腹を命じます。
そして鳴海城の戦力を削ぎ・・・
大高城と鳴海城の近くにいくつもの砦を築き、準備を進めます。
これが、今川義元を刺激し、尾張進攻を招くことになるのです。

そして桶狭間の戦いへ!!

駿府城をでた今川の大軍は、1560年5月18日、沓掛城にせまります!!
迎え撃つ信長軍2000!!親衛隊といえども、相手は海道一の弓取りと謳われた男の軍!!
「明朝、今川軍が我が方に攻撃を仕掛ける模様です。」
いよいよ先頭の火ぶたが・・・!!
軍議を開いた信長は・・・家臣たちが籠城戦の支度を・・・!!といっているので・・・だまって出陣のタイミングを図っていました。
籠城戦は考えていない信長・・・家老にも内通者がいるかもしれない不安・・・作戦を語らないまま皆を帰したのです。
考えに考えた作戦だったのです。
動かない信長・・・
「殿!!今川軍が、我が方の丸根、鷲津の両砦に攻撃を始めました!!」
信長が築かせた最前線は・・・風前の灯火・・・
しかし、敦盛を舞う信長・・・。
舞い終わるや否や清須城から出陣!!あまりの急な出陣だったので、共はわずか5人!!19日午前4時のことでした。

信長が目指したのは熱田神宮!!
ここで、丸根・鷲津が陥落したことを確認し・・・中島砦まで進みます。
ようやく軍と合流するも、攻撃を仕掛けない信長!!
これに対し、今川本体は、沓掛城を出て桶狭間に布陣!!
この動きを察知したのは、この近くに土地を与えられていた織田家家臣・簗田政綱!!
政綱は信長にすぐに報告!!
「今川義元の本隊5000の兵が、桶狭間山にて休息中」
信長はこの時を待っていたのです。
出撃!!

「運は天にあり!!」

今川軍が疲労困憊し、最も油断するタイミングを待っていた信長です。
地の利もあった桶狭間・・・大軍が一斉に動ける状態でもなかったのです。
まさに信長にぴったりな地形だったのです。
正面攻撃!!しかし、それは奇襲!!来るとは思っていなかった今川軍なのでした。

1560年5月19日桶狭間の戦い!!
この日は現在では6月下旬・・・梅雨というのに、朝から日差しが照り付ける暑い日でした。
信長坂のあたりに布陣していた信長軍は、今川本隊5000が桶狭間山で休憩をしていると聞くや否や、一気に坂を駆け登ります。
ひと山越えて、桶狭間山の麓へ・・・!!
山頂目指して突撃!!
しかし、敵がいくら油断しているとはいえ優勢は今川軍!!
おまけに、攻め上ってくる信長軍は丸見え・・・!!
数で劣る信長軍に勝ち目はない・・・??
天が信長に味方します。
勝敗を分けたのはダウンバースト!!
晴天だった天気が一変し、大雨・・・午後1時ごろ、ゲリラ豪雨に見舞われました!!
時間雨量50㎜以上!!
この日起きたダウンバーストは、信長軍に有利に働いたようです。
熱田神宮の方から降ってきた大雨・・・。
西から東へ移動した・・・時速10~15㎞・・・西から天気は回復してくるので、信長軍の方が体制をもとに整えることが出来たようです。
今川勢はいまだ雨の中・・・この15分ほどの間に体勢を立て直して今川を攻めたのです。
いきなりの信長軍にパニックを起こした今川軍!!
義元は信長の親衛隊・服部小平太に一番槍を受け、同じく親衛隊・毛利新介に後から襲われました。
天下に最も近かった男・今川義元のあっけない最期でした。

こうして桶狭間の戦いは終わり・・・まさに天が信長に勝利をもたらしたのでした。
天運・・・これをもって信長が戦国の風雲児となっていきます。

論功行賞を与えたのは・・・一番槍の服部小平太でも毛利新介でも勝手に参戦して首をとった前田利家でもなく・・・
戦功第一としたのは、今川軍の動きを信長に知らせた簗田政綱でした。
信長は情報に最も重きを置いたのです。

天下取りに邁進する信長・・・。
兵を西へ西へと進めます。1567年34歳で美濃・斎藤家を滅ぼし、浅井・朝倉を下し、名実ともに室町幕府を崩壊へと導きます。
1582年・49歳には、戦国最強と謳われた甲斐・武田家を滅ぼします。
もはや信長に対抗できる勢力はなかったのです。
天下統一目前で・・・本能寺の変!!となるのです。

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めざすは桶狭間!織田信長が駆け抜けた道―読む、歩く『証義・桶狭間の戦い』

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桶狭間の戦い―景虎の画策と信長の策略

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戦国の天才・破壊者・第六天魔王・革命児・・・一般に、広く流布された信長のイメージ・・・それは、信長の真の姿だったのでしょうか?
群雄割拠ひしめく戦国にあって、天下統一のもと、武力で日本を統一しようとしました。
しかし・・・従来の姿を見直さなければならない・・・??
”天下布武”の本当の意味とは・・・??

熊本県熊本市2014年に新発見の資料が公開されました。
発見された上洛に関する書状によると・・・
「将軍上洛の共として織田信長が参陣する・・・」
永禄11年に足利義昭を奉じて信長は上洛します。
信長は、自らの野望のために、傀儡としての将軍を担いで京に上ったとされてきていました。
発見されたのはその時の書状ですが・・・史実の上洛の2年前となっていました。

日本各地で群雄割拠した戦国時代・・・京で始まった戦いは、日本全土に広がっていました。
有力大名が力をつける一方で、室町幕府は弱体化して行っていました。

将軍は戦果を逃れるために都を離れることが多かったのですが・・・
当時、将軍が暗殺されたことによって、将軍職は空位となっていました。
そんな中、将軍候補に名乗りを上げたのが足利義昭。
しかし、反対勢力のために、各地を転々としていました。
流浪先から各地の大名に上洛を要請して・・・機会をうかがっていたのです。
義昭の上洛要請は・・・越後の上杉・甲斐の武田・・・有力大名はもとより、遠く薩摩の島津にまで上洛要請をしていました。
果たして大名側にメリットはあったのでしょうか?

軍事力、武力を持っていなかったであろう足利義昭・・・。
しかし、権威はあったようです。

将軍の権威は、戦国時代もあったと考えられます。

①栄典授与の権限
②大名たちの紛争の調停
③偏諱(将軍の名の一字をもらう)
武田信玄晴信の晴、上杉謙信輝虎の輝は、将軍の名の一字をもらっています。

義昭を奉じて将軍に就かせることができれば、権勢をふるうことができる!!
戦の時代であればあるほど、将軍の利用価値、権威の必要性が高くなってくるのです。

将軍の要請の手紙が届いたのは、永禄8年10月ごろに信長の元へ。。。
尾張の守護代の家臣から成り上がった織田家は、出自が低い・・・
大名としての正当性を得る絶好の機会でした。
信長は将軍に対して敬意をはらっていたようで・・・
衰退した室町幕府の再興を・・・室町幕府の秩序を再構築するための上洛だったのかもしれません。
一有力大名としてそれを支えていこうと考えていました。

しかし・・・上洛するにはかなり難しい・・・

①領国経営の安定が最優先
②都に兵を常駐させる必要がある=経済力も必要

永禄九年の書状の頃は・・・
桶狭間の戦いに勝利したものの、隣国美濃との戦いに手を焼いていました。
上洛など出来る余裕はなかったのです。

信長の居城・小牧山城は、美濃との戦いをにらんだ砦と思われてきました。
が・・・ここに信長が上洛を決意した・・・最新式の巨大な石垣が発見されたのです。
石垣など・・・最新式の技術は畿内にありました。
つまり、信長は、畿内の色んな技術・情報を押さえ・・・
そして・・・最新の技術を築くことのできるノウハウを持っていたのです。

城の南側に城下町が・・・当時、戦国大名の軍団を成していたのは農民たちでしたが・・・
信長は・・・つまり、兵農分離・・・専業の武士団を作って、城下町に住まわせていたのです。
農繁期、農閑期に関わらず、いつでも遠征できる軍団を作り上げたのです。
これは、中世から近世への大きな変革でした。
ここに、京都を目指していた意図があると言えます。

尾張の一大名でありながら、上洛の用意を着々とする信長。。。
しかし、事態は信長の思惑通りには行きませんでした。
直前に・・・近江・六角氏が反旗を翻します。
信長は行く手を阻まれ、上洛を断念しなければなりませんでした。
この上洛計画は幻に終わったのです。
そして・・・上洛を果たすのは、その2年後でした。

小牧山城を足掛かりに宿敵・美濃を攻め・・・永禄10年に美濃を平定します。
小牧山城から岐阜城に居城を移した信長は・・・”天下布武”という印を使いだしました。
日本で武力統一をしようという野望をもったという意味に使われてきたとされていましたが・・・
この天下布武・・・
ルイス・フロイスの書簡によると・・・
日本全国の中心である五畿内の主は「天下」と呼ばれ、「君主」を意味するとあります。
五畿内とは・・・京の周りの山城・大和・河内・摂津・和泉の事・・・。
天下の範囲はこの五つの事だったのです。
つまり、天下布武=全国を征服するという意味ではなく・・・
将軍の権威の及ぶ範囲の事で、”将軍の復権”を目指していたのです。

岐阜城でも足利将軍に憧れているという発見がありました。
大規模な庭園が発見され・・・その造園は、足利将軍の庭園様式を踏襲していると言えます。

革新的なイメージの強い信長は・・・伝統や文化を重んじていたようにも思えます。
幻の上洛計画の後も、義昭の上洛野望は続きます。
が・・・将軍候補として義昭の従兄弟・義栄が擁立されます。
もし・・・先に将軍になってしまわれたら・・・と、信長に上洛要請を働きかけます。

「これからは、織田信長をひたすら頼りにしたい。」

信長は、大きな決断に迫られていました。
2年前に失敗した上洛を成功させることができるのか・・・??

そこには、軍事力・経済力・外交力の3つの条件がありました。
美濃を手に入れて軍事力は大きく飛躍、兵農分離によって都に兵を常駐できる、津島湊・熱田湊の流通を支配、浅井・徳川とも同盟関係を結ぶ・・・
上洛の条件は整いつつありました。
上洛を阻む敵は・・・六角に三好・・・武田・上杉などの潜在的な敵勢力にも・・・

永禄11年9月26日、4万の大軍勢で足利義昭を奉じて信長は上洛を果たします。
成り上がり大名の上洛にアタフタする都・・・
しかし、都の人の心配をよそに、信長軍の規律は厳しく都はすぐに平静を取り戻しました。
将軍の軍隊としての矜持を観てとることができます。
義昭は将軍に就任・・・。

一方その立役者となった信長の名は、畿内一円に広まります。
周辺の武将たちは馳せ参じて忠誠を誓ったと言います。
それでも従わなかったものは、義昭の攘夷を大義名分として信長が平定・・・
遂に、五畿内の天下布武を成し遂げたのです。

義昭は・・・信長を慕い、副将軍や幕府高位を与えようとします。
しかし、上洛から2年・・・越前の朝倉・浅井・延暦寺・六角・三好・松永・武田・一向宗・・・次々に反旗を翻したのです。
信長は、室町幕府の再興・天下静謐を掲げ、戦い・・・支配地を拡張していきます。
義昭も・・・信長の勢いに嫉妬し、恐れ始めます。

二人の亀裂は・・・??
信長が義昭に送った十七条の意見書です。
義昭の怠慢をまとめ、諌めたものです。
忠勤の部下を大切にせよ・・・えこひいきがあってはならない・・・悪しき御所と陰口をたたかれている義昭に、公明正大を求めたのです。

そして・・・遂に元亀4年3月・・・義昭が挙兵・・・しかし、圧倒的な信長の前に義昭になすすべなし・・・。
元亀4年7月・・・義昭追放。
ここに室町幕府は崩壊。。。
義昭の命を奪わなかったのは、奪ったことにより謀反人となることを恐れたためとも言われています。
以降・・・天皇の権威によらない新しい天下を目指していくのです。

義昭は・・・各地の有力大名に、信長に対する挙兵を要請し続けます。
朝倉・浅井・武田を滅ぼした信長は・・・毛利・上杉・・・と、戦いを挑んでいきます。
信長の支配領域は、急激に膨れ上がっていきました。
しかし・・・天正10年6月2日・・・本能寺の変・・・
信長は、非業の最期を遂げることになるのです。
その後、天下統一は、豊臣秀吉によって実現されました。

信長の天下布武・・・真意はどこにあったのでしょうか・・・??

天下人・・・周りの人が認めた瞬間に、出来上がった権力・・・何の官職もない者が上に立てる権力・・・
今の秩序の中に生き残りの道を探し、既存の概念を突き抜けてしまったのが信長なのかもしれません。

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「桶狭間」は経済戦争だった (青春新書インテリジェンス)

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戦国武将最大の天才・織田信長。
その名を始めて天下に轟かせたのが、桶狭間の戦いです。
押し寄せる今川軍・およそ2万5千に対する信長軍・2千。。。
27歳の信長が、起こした奇跡的勝利です。
天才・信長の奇襲作戦で有名ですが、この時も逆境に苦しんでいました。
その逆境の真実とは??

一族の謀反が続発し、弟までもが敵だったのです。
そこに押し寄せてきたのが今川義元の大軍勢・・・
まさに内憂外患でした。

義元の攻撃に・・・降伏を考えるまでに葛藤していました。

決戦前夜、軍議を行わず部屋に閉じこもる信長。。。

桶狭間の3年前に、若き信長が認めた手紙によると・・・
”敵”・・・敵は実の弟・信行のことでした。
どうして弟が敵なのか???
それが始まったのは18歳の時。
1551年信長の父・信秀が死去。
父の墓前に抹香を投げつけます。
理由はいろいろ考えられますが、父の突然の死による重荷があったようです。
信秀は、守護代の一家臣でした。
そこから成り上がりとなり、尾張統一を想うようになります。
海運の要・熱田と津島を手に入れたことが始まりでした。

海運を通じて経済を活性化した父は、莫大な資金を得ました。
その財力の大きさは・・・朝廷への献金に4000貫文(6億円)使ったといわれています。
遂には主君・尾張守護職さえもしのぐ力を手に入れます。

そんな最中の信秀の死だったのです。

嫡男としてその後を継いだ信長。。。
”大うつけ”と疎まれていました。

それが、一族の不信感を招いていきます。
弟・信行の方が???
これが信長にとっての大きなプレッシャーとなっていたようです。
一族に対する恐れ・・・不安感の方が強かったのです。
不安は的中し、一族の離反が始まります。

「信長公記」によると・・・
”鳴海の城主は織田信秀の配下だったが信秀が死ぬと謀反を企てた”
とあります。
寝返った先は、今川義元でした。

これによって、鳴海城・沓掛城・大高城・・・が義元のものとなってしまいました。
信長大打撃!!
鳴海城と大高城は、伊勢湾沿いにあり、津島と熱田が狙われやすい状況になったのです。
信長は、織田家の経済力の危機に遭っていたのです。

さらに内紛は。。。
1552年織田信友らの攻撃
1556年兄・信広の謀反
信長は、過剰ともいえる一族討伐を始めました。

叔父・信光の追放
謀反の疑いのある弟・信行を暗殺
激しさを増していく一族討伐!!

信長公記には・・・
”信長が苦労している時、助けるものは稀であった”
とあります。

そして・・・信長の手紙は、弟を暗殺した直後に書かれているものでした。
あて先は、熱田神宮。

”謀反を企てた弟・信行に味方した者の財産は没収したが、その者たちが熱田神宮に預けたものは除外する”
というものでした。

熱田港の商業にも深くかかわっていた熱田神宮。
熱田の経済力を頼りにしていた信長だったのです。
その熱田港に脅威が迫っていました。

東海一の弓取りと謳われた今川義元です。
義元は内紛に苦しむ信長を攻略しようと着々と手筈を整えていました。
今川は、駿河・遠江・三河さらに織田を離反した者の総石高を合わせると、100万石!!

信長は、美濃の斎藤とも睨み合いの四面楚歌状態!!
援軍を望むべくもありませんでした。
信長は、寝返った鳴海城近くに、丹下砦・善照寺砦・中島砦、大高城近くに鷲津砦・丸根砦と牽制します。
1560年義元は尾張に進軍!!
その数およそ2万5千!!
信長の10倍以上でした。

尾張を手中に収めようとやってくる日本最強の義元!!
そして尾張で孤立した信長!!
まさに内憂外患!!

1560年5月18日夕刻。。。
清州城にいた信長に、今川を偵察していた家臣から連絡が・・・

「今川軍が明朝に攻撃する!!」

いよいよ決戦の時!!

しかし・・・

「さあ、夜も更けた。
 皆、帰宅していいぞ。」by信長

失望する家臣たちもいました。

ひとり閉じこもる信長。。。

①降伏策
降伏して織田を残す?
降参すれば、味方に組み入れてくれる今川だったのです。

②籠城策
清州城は平城として籠城には向かないとされてきていましたが・・・
近年の研究では・・・強く、外敵に強く、籠城に相応しいお城でした。
信長時代の清州城には天守閣はありませんでした。
幅が10mはあるような巨大な堀を巡らし、その周囲に武家屋敷が並んでいました。
そして・・・五条川は・・・天然の大きな堀・・・となっていました。
しかし、四面楚歌の自分には援軍は期待できないし、味方が寝返るかも知れない。。。

③野戦策
乾坤一擲!!戦いに打って出て、良い条件で和平交渉に臨む???
数の差は圧倒的でしたが、兵の質は信長に!!
当時の兵隊は農民が主流でしたが、信長軍は違っていました。
おもに家業を継がない次男などを中心に武士軍団を編成し、平素から兵隊として訓練し、禄を与えていたのです。職業軍人の先駆けです。
これも、海運業のおかげでした。
しかし、まともに戦えば全滅・・・
いかに戦うか???

深夜・・・一人で思案を巡らせる信長でした。


ぎりぎりまで悩んでいた5月19日夜明け方・・・
家臣から鷲津砦と丸根砦が攻撃されたとの連絡が入ります。
義元は自分に寝返った大高城の周囲を攻略し始めたのです。
わずか5騎を連れて清州城を飛び出した信長・・・
具体的な今川の攻撃場所を知る必要がありました。

okehazama




















煙が上がる・・・砦陥落???
善照寺砦で足を止める信長。。。
ここには物見やぐらがありました。
そう、ここが前線基地だったのです。
高いところから見ると・・・鷲津砦・丸根砦を見ることができます。
立ち上る煙・・・二つの砦が陥落してしまった・・・!!

当時の攻め方として・・・今川先陣が砦を陥落させ、本陣は後方で待機している・・・。
今川軍が二手に分かれるこの時を、狙っていたのです。
そう、今川本陣がむき出しになっている瞬間を・・・!!
勝機はその時・・・!!

鷲津砦と丸根砦を陥落させた義元が、先陣から3km離れた桶狭間山で休憩をし始め・・・謡を謳わせている!!
ここに勝機を見出した信長。
この時今川本陣は5千、対する信長軍は2千。。。

「今川軍は既に疲れている。
 大軍を怖れるな!!
 この戦に参加するものは、全て名誉を得て功名は永久に語り継がれるであろう!!」

午後2時頃、今川本陣に突進!!
豪雨も味方します。
散り散りになって雨宿りをする今川軍に突入!!

信長の号令で一斉攻撃!!
不意を突かれた今川軍・・・
信長の精鋭部隊に、今川義元は討たれたのでした。
その知らせに今川軍は撤退を余儀なくされます。

信長軍の奇跡的大勝利だったのです。
その裏には、ぎりぎりまで悩み、絶妙のタイミングで出撃する信長の決断力があったのです。
戦国時代最強の天才が生まれたのでした。

信長が生涯大切にしていた一振りの刀・・・
桶狭間で今川義元から奪った”義元左文字”。
信長は常に、この刀を手元に置いていたといいます。
はるかに大きな敵、今川義元を倒したことは、信長にとっても大転換点だったのです。

桶狭間での自分に自信を持ち、新しいビジョンを出していきます。

”天下布武”。。。

それまでは、旧来の大名同様自分の土地を守って大きくしていくという考え方でしたが、自分で全てを一切抑える!!という発想が芽生えてきたのでした。

当時の日本は、各地に戦国大名が割拠する時代でした。
それを制するために信長が考え出したのが”軍団制”・・・各地方ごとの軍団部隊です。
出仕を問わない実力主義の軍団制は、桶狭間の職業軍人を発展させたものです。

農民出身の羽柴秀吉が抜擢されたのも、この仕組みのおかげです。
方面軍の軍事力を背景に、天下統一計画が進んでいきます。
関所の撤廃と商業の自由化。
貨幣経済の活発化で土地に縛られずに活発に人と物が動きます。
全国規模の街道整備。
インフラの向上で物の流通が活発化し、早く移動が可能となりました。

信長の改革は城にまでおよび・・・
日本初の天守を持つ近代城郭の建築が行われます。
中央集権の具現化でした。

茶器の政治利用。。。
古いシステムを解体し、新しい価値観でひとつの国にまとめ上げる信長。
その裏には、地縁血縁に悩まされる日々・・・悩んだ末の桶狭間での勝利があったのでした。


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桶狭間合戦の真相―中島砦発にして用意周到・機略に満ちた奇襲戦だった

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1560年5月19日 桶狭間の戦い
この戦いの主人公は・・・
東海一の弓取りとうたわれた戦国武将であり大大名・今川義元。
もう一人は織田信長、尾張一国もまとめられない小大名にすぎませんでした。

今川軍4万5千に対し、信長軍2千・・・。
しかし、圧倒的な奇跡の完全勝利で信長が勝利します。
どうして勝利できたのでしょうか???


桶狭間には二人の像が立っています。


1560年5月13日、今川軍は、4万5千を尾張に向けて進軍していました。
対する信長軍は2千・・・。
そこには、伝説のう回奇襲作戦がありました。


桶狭間の戦いは、江戸時代に小瀬甫庵が書いた「信長記」で知られていました。
これをもとに、明治時代陸軍参謀本部によって編纂されました。
これによると・・・
今川義元が天下統一のために・・・将軍謁見のために進軍していたとあります。
主戦場となった場所は、田楽狭間。
激しい風雨の中、う回奇襲作戦で信長が勝利したとされていますが・・・


信長の家臣、太田牛一の「信長公記」によると・・・
う回奇襲作戦とは矛盾する点がいくつかあります。

①今川本陣の場所
御敵今川義元は、4万5千引率し、おけはざま山に人馬の息をひそめてこれあり
田楽狭間という低地ではなく、「おけはざま」という山の上だというのです。
つまり、“桶狭間”という谷底に攻め入ることは出来ないのです。

②信長の進軍方法
脇は深田の足入れ 一騎打ちの道なり
無勢の様体 敵方より定かに相見え候
勿体無きの由
つまり、狭い一本道を進軍する信長軍は、敵から丸見えだったというのです。

新しい定説によると、う回奇襲説が成り立たなくなっています。


「信長記」は、歴史小説のようなもので、「信長公記」を脚色したものだということ・・・
陸軍がこの勝利が信じられなかったということと、「小さい日本が敵に勝つには奇襲」だということ・・・
それが、重なって、学校で教えられるようになってしまったというのです。
では“う回奇襲でないなら・・・何?”なんでしょうか?

“桶狭間”は誤解の多い合戦で・・・
どうして今川義元が出てきたのか?
戦国大名は、上洛して天下を取るというのが当たり前のように思われていますが・・・
上洛ではないとすれば・・・?

今川が出てきたのではなく・・・信長の領土回復戦争であるということ。
信長が仕掛けたのです。

遡ること7年前、大高城などが、今川のモノになります。それは、信長の家臣が寝返ったためでした。
それに対抗するために砦を作ります。
1560年5月17日、義元が大軍を率いて進軍してきました。
それは大高城の砦×2を武装解除するためでした。


5月18日信長方で軍議が開かれました。
清州城に情報が集められます。
今川軍が攻めてくる・・・
なのに、信長は何もせず。

翌日、今川軍の攻撃が始まりました。
信長は、「敦盛」を踊っています。

午前8時には、砦は陥落。
ようやく信長は前線の善照寺砦に到着。

その時・・・

「御敵今川義元は4万5千引率し おけはざま山に人馬の息を休めこれあり」

という情報が入ります。

これを聞いた信長は、一本道を丸見え・・・命を捨てに行くかの行軍を開始します。
おけはざまに必死に行軍する信長を、家臣たちは必死に止めます。
それも聞かずに行軍!!

「勝も負けるも天が決める!!」

信長は、進軍を続け・・・
敵から丸見えの中、正面突破を図りました。

もし、正面突破だとしても、そこに義元がいるとどうして知りえたのでしょう???
そこにはまだまだ謎がたくさんあります。

では、信長は何を考えていたのでしょう?
いわゆるカウンター攻撃だったようです。
今川軍が攻撃してくるのを待っていたのです。
鷲津砦・丸根砦は捨て石にする!!

そのあと疲れている義元軍を叩く!!というのが作戦でした。

信長は、義元の首を取るつもりだったのかは不明ですが・・・
結果的にそうなったということは確かでした。

27歳信長の、型破りな発想は・・・
故郷・尾張の莫大な経済力にありました。

1534年勝幡城で生まれました。
津島湊は東国と西国の中間に位置し、物流の拠点でした。
当時は関所がたくさんあって、物流を阻んでいました。
そこで、信長の父・信秀は、港・・・海運ルートに目をつけます。

戦国時代といえば、殺伐とした時代と思いがちですが・・・
戦国時代は高度成長期で、お金があれば何でもできる時代だったようです。


関税などで莫大な利益を得。。。
伊勢外宮 仮設造営費・700貫文、皇居修理費・4000貫文、寄付しています。

のちの楽市楽座につながります。
そして信長は、人々の安全・自由、利益を保護する代わりに、莫大な献金を受けていたといわれています。

その一方で・・・「大うつけ」と言われていました。
しかし、その非凡さを斉藤道三も認めています。

信長軍は・・・三間半(6.3m)の槍を持ち、訓練された兵を指揮できる・・・近代的な軍隊でした。きわめて統率のとれた軍・・・それが、最強の証でした。

今川軍は土地に縛られた農民兵、しかし、信長軍は土豪の次男・三男を集め、お金で雇い常備軍としていたのです。のちの兵農分離を始めていたのです。

まだまだ城下町が形成されていなかった時代・・・
清州城下には、多くの武家屋敷が並んでいたようです。
その人々が、桶狭間の戦いで活躍したのです。

侍が侍として生き、侍が主人となる世界・・・信長は、そのトップは自分であるという武士の考え方を・・・侍の時代を作った人だったのです。

信長は、血縁・地縁・宗教縁を断ち切ったので、日本では宗教戦争がない世の中になっていくのです。

天才とは時代の通念にとらわれないこと・・・その天才が信長だったのです。


桶狭間の戦いにはもう一つ、秘密がありました。
今川軍は、鷲津砦・丸根砦を落としたことに大変満足したと言います。
そこには、旧体制・・・義元の“戦争目的”である少ずづつ国を広げていく・・・そして恩賞を与える。。。
当時の武士たちの恩賞は土地でした。
地点の占領奪取です。
家来たちも首の奪取。
その恩賞の証としての“首”は、取って、持って次の戦いに参加していました。

しかし、信長の戦争目的は・・・

「分捕をなすべからず
    打捨たるべし!!」

首を取らずにすぐまた次の敵と戦えということでした。


少ない軍勢で、効率よく攻撃する!!
義元ひとりの首を狙うために!!

敵戦力の無力化奪取です。

そして・・・
「軍に勝ちぬれば 此場へ乗ったる者は家の面目
  末代の高名たるべし  只励むべし」

この戦は、全ての兵の名誉であり、語り継がれることだろうと鼓舞したのです。

義元に一番槍を突きつけたのは、服部小平太、首を取った毛利新介も、地侍の次男坊。

IY_HK[1].jpg

若者たちは“名誉”のために戦ったのが・・・桶狭間の戦いでした。

戦争はアートに似ている。。。
人には解らない・・・信長にしか解らない戦いでした。

信長の“求心力”・・・
戦争を起こして自分が勝つ、自分が頂点に立った国を作る!!
というのがはっきり見えていました。


この“桶狭間”と同じ物語・・・
それが明智光秀・・・。


「天下布武」を掲げて走り出した信長。
しかし、“天下統一”は、結果論でしかありません。
朝廷や幕府が弱体化し・・・
地方分権の進んだ時代でした。
農民たちが力を持ち、“加賀の一向一揆”などがありました。
武士は、自治的な民衆の動きとタイアップし、うまく国を治めようとしていました。

しかし、信長は・・・
その流れに抗うように、天下統一を進めます。
楽市楽座・関所の撤廃・街道整備・・・中央集権的な政策を推し進めます。

しかし・・・それは、多くの犠牲を払いました。
延暦寺の焼き討ち・長島一向一揆制圧・・・

天下統一に命を懸ける・・・
“桶狭間”で独裁者・信長が幕を開け、独裁者らしく暗殺されて終わるのです。

天下統一の道半ばで命を失ってしまう信長・・・

権威の世界を武威の世界に変えた信長でした。

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