武勇や知略に優れ、連勝をかさねた関東随一の名将!!
その戦ぶりから、今代天下無双の覇王と評されました。
そんな氏康が、戦国最強と謳われた武田信玄と知略をつくした戦いがありました。
戦国最大の山岳戦といわれる三増峠の戦いです。
戦いの舞台となったのは、小田原城から甲斐国に向かう山道三増峠。
ここで武田軍を足止めし、挟み撃ちにする氏康!!
危険を察知しながらも、敢えて峠へ突入していく信玄!!
互いが互いの腹を探り合う虚々実々の駆け引きの末、両軍が激突!!
しかし、資料は少なく、戦いの実像は明らかになっていません。
神奈川県小田原市・・・北条氏が関東支配の本拠地とした場所です。
北条氏の三代目当主・北条氏康は、27歳にして当主となりました。
当時、伊豆・相模を中心に、武蔵・下総にまで領土を広げ、関東に覇を広げていた北条氏・・・
しかし、当主の代替わりを好機と考えた周辺勢力が、打倒北条に動き始めます。
家督相続から4年後、氏康は最大のピンチを迎えます。
1545年、駿河の今川氏、甲斐の武田氏が駿河の北条領に侵攻。。。
同時に領国の北部にあった川越城が窮地に陥ります。
関東管領・山内上杉氏や扇谷上杉氏らが、川越城を包囲!!
その軍勢は、なんと8万!!
ここで氏康は、大胆な外交を展開します。
駿河の領土を割譲することで、今川・武田と和睦・・・二正面作戦を回避したのです。
そして、自ら軍を率い、川越城の救援に向かいました。
しかし、その軍勢はわずか8000!!
敵の1/10にすぎませんでした。
氏康は、ここで一計を案じます。
1546年、川越城を包囲する敵が油断したところを奇襲決行!!
敵の隙に付け込んだ氏康は、圧倒的な兵力差をひっくり返し、敵の大将の一人・扇谷上杉氏の当主を討ち取るなど、大きな戦果を挙げました。
氏康が語ったという戦についての言葉が残されています。
”戦が起きた時には、多くの者に相談し、3人が言う時には必ず2人が言う方を選ぶ”
北条氏当主という絶対的地位にありながら、家臣の意見に耳を傾け、多数決を重んじた氏康・・・
その先進的な考えは、内政にも発揮されます。
彼が家督を継いだころ、北条氏の領国では大地震・水害が頻発・・・
領民が土地を捨てて逃げ出し、収穫量が激減・・・年貢を徴収できない状況に陥っていました。
そんな危機を打開するために、思い切った税制改革に打って出ます。
それまで領民が代官から不定期に課せられていた様々な租税を、土地の収穫高に応じた税負担に統一!!
これによって、領民の負担を軽減させつつも、安定した税収を確保することに成功します。
さらに、目安箱を設置し、領民の意見を直接聞くなど、優れた民政で人々の心をつかんでいきました。
氏康は、領主としての在り方についてこう語っています。
”部下を愛し、庶民を慈しむは、主将の当然の務めである”
こうして、領民からの信頼を得ることで、領国統治を安定させることに成功した氏康・・・
しかし、そこに北条氏の関東支配を脅かす強敵が現れます。
越後の長尾景虎・・・後の上杉謙信です。
1560年、北条氏打倒を掲げ、関東への侵攻を開始した謙信・・・北条の拠点を次々と攻略しつつ南下。
関東各地の有力武将が次々と服属し、その兵力は10万以上に膨れ上がりました。
この大軍に対し、氏康のとった行動は・・・??
居城である小田原城での籠城戦です。
当時の小田原城は、現在よりもはるかに範囲が広く、戦国屈指の大きな城でした。
氏康の時代には、巨大な屋形の三方に深い水堀があり、鉄壁の守りを誇る要塞だったと考えられます。
氏康は、謙信の到着を前に、領民を城内に非難させ、十分な兵糧と鉄砲を確保、万全を整えます。
そこに、謙信率いる大軍が到着、城への攻撃を開始します。
しかし、小田原城の守りは固く、敵の侵入を許しません。
10日ほどの籠城戦の末に、謙信を全軍撤退に追い込んだのです。
その後、反撃に転じた氏康は、領内の城を奪い返し、謙信に味方した関東各地の武将らを降伏させます。
さらに、二度と敵の侵攻を許さないため、各地の支城の防衛を強化。
そこで作られた代表的な防御の仕掛けが、障子堀です。
堀を細かく区切ることで、侵入した敵を自由に動き回れないようにして殲滅するのです。
氏康は、こうした防衛拠点を領内各地の要所に配置、小田原城を中心に緊密な関係を築く支城ネットワークを作り上げたのです。
関東の覇者・北条氏康・・・その名は、戦国の世に隠れもないものになっていきました。
関東最強となった北条氏でしたが、周囲には強敵がひしめき、いつ攻め込まれるかわからない状況でした。
ここで氏康は、人々をあっと言わせる外交を展開します。
敵対していた甲斐の虎、駿河の今川と不可侵条約を結んだのです。
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1554年、甲相駿三国同盟です。
北へ領土を広げたい武田信玄と、西への進出を図る今川義元、東に進みたい北条氏康・・・三者の思惑が合致して成立したこの同盟・・・
それぞれ当主の娘をそれぞれの嫡男に嫁がせることで、三者は血縁関係となり、結びつきがより強固となりました。
氏康は、背後を心配することなく、関東での支配域を広げることができたのです。
ところが、桶狭間の戦いで、今川義元が織田信長に打ち取られたことでバランスが崩れます。
1568年、同盟締結から14年後、弱体化する今川氏に見切りをつけた武田信玄が、駿河への侵攻をはじめました。
信玄は、北条にも協力を求めましたが、娘を今川に嫁がせていた氏康はこれに激怒!!
「この恥辱、雪ぎがたし」とまで述べています。
すぐさま駿河に援軍を派遣し、武田軍を撃退することに成功。
さらに、敵対していた越後の上杉謙信と同盟を締結!!
あくまで信玄と敵対する姿勢を見せました。
周囲を敵に囲まれた信玄・・・ここで思いがけない作戦に打って出ます。
1569年9月、2万の軍勢を率いて北条領に攻め込んだのです。
上野から武蔵に入った信玄は、氏康の五男・北条氏邦が守る鉢形城を包囲、しかし、城の守りが堅いと攻撃もせずに南下、氏康の三男・氏照が守る滝山城の攻略を狙います。
猛然と攻め込んだ武田軍でしたが、鉄壁の守りを誇る滝山城を攻め落とすことはできませんでした。
城主の氏照が、戦いの状況を記した書状にはこうあります。
”敵を際限なく討ち取り、手負いの儀はその数知れず”
かねてより市場の守りを整備していたことで、氏康は武田軍の一つの城を落とすことも許しませんでした。
戦果を挙げられない武田軍・・・しかし、信玄は撤退することなく北条領の奥深くに軍を進めます。
なんと、氏康のいる小田原へと向かったのです。
それに対し、氏康は籠城戦を選択します。
お上杉謙信を撃退した時と同じ策に出ました。
諦めて退いていくところを追撃する作戦でした。
氏康の策に乗らされるように小田原城を包囲した武田軍・・・
信玄は、城への攻撃を仕掛けますが、氏康は堅い守りで応戦・・・全く寄せ付けません。
そこで信玄は、城下にある北条方武将の屋敷に火を放って挑発するものの、氏康が誘いに乗ることはありませんでした。
包囲からわずか3日後・・・武田軍は撤退を開始しました。
しかし・・・これが二人の本当の戦いの始まりでした。
小田原から撤退する武田軍・・・実は氏康は、その戦列を考えていました。
この時、信玄が甲斐へ帰国するには、侵攻してきたルートを戻るほかにも丹沢山地を超える方法、駿河方面からの迂回など、いくつかの選択肢がありました。
その中で、最も可能性が高いと氏康が考えていたルートに、武田軍殲滅のポイントとなる場所がありました。
それが、小田原から北に50キロ・・・相模川と中津川によって分断された峠口・・・三増峠です。
三増峠とは、いったいどんな場所だったのでしょうか??
この峠は当時、相模から甲斐へ抜ける代表的なルートで、信玄が退路に選ぶ可能性が高い場所でした。
そこで氏康は、滝山城の氏輝や、鉢形城の氏邦らに北から三増峠に向かうように命じました。
総勢およそ2万人!!
もし、武田軍が三増峠を通れば、小田原からの追撃軍とで挟み撃ちにできるという壮大な作戦でした。
果たして信玄は、三増峠を通るのか??いつ、追撃軍を出せばいいのか??
武田軍を即時追撃する??それとも、武田軍の状況を見極める??
小田原から撤退した武田軍でしたが、その行軍速度はゆっくりとしたものでした。
向かう先は、北の甲斐ではなく、東の鎌倉のようにも見えました。
即時追撃か、状況を見極めるべきか・・・??そこに思わぬ知らせが届きます。
武田軍が、いきなり進軍のスピードを速めたというのです。
向かったのは、あの三増峠!!
氏康はすぐさま追撃軍の出陣を命じました。
一方、氏照や氏邦の軍はすでに三増峠に到着、入り口に軍を構えていました。
ここで、武田軍を待ち受けていたのです。
しかし、北条軍の配置は間違っていた??
北条軍の散るべき陣は、峠の下ではなく、峠の上でした。
そうすると、武田軍は、峠を突破するのに時間がかかり、苦戦しているうちに小田原から追いかけてきた氏康、氏政の本体によって挟み撃ちになる・・・これは武田軍にとって最も悪いケースで、北条必勝のパターンでした。
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実際には、氏康の戦略とは違う形で布陣していた北条軍・・・さらに、武田軍が三増峠に急行してきたことで思わぬ動きが・・・!!
武田側の甲陽軍鑑には・・・
”信玄公、三増へ付きたまへば北条衆は陣をあけ、中津川を越し、半原山に落ちる”
三増峠の入り口に布陣していた北条軍が、峠から川を渡って平地へ移動したというのです。
どうして、有利な状況を自ら放棄してしまったのでしょうか?
険しい三増峠に入ってしまえば援軍がやってくるからどちらにしても勝てるとそういう思いがあったのかもしれません。
武田の進撃の速さに恐れをなしたのかもしれません。
北条本隊が来るのを待とうという安全策を取った可能性もあります。
武田軍は、やすやすと三増峠の侵入に成功、峠からふもとまでの一帯に軍を展開しました。
信玄が本陣を置いたといわれる場所が残されています。
高台を押さえた武田軍に対し、平地に布陣せざるを得なかった北条軍・・・
氏康の計略にほころびが生じていましたが、戦いに勝つための策はまだ残されていました。
三増峠の北側にあったのが、北条方の津久井城です。
氏康は、この城からの兵によって峠の出口を遮断し、武田軍を峠に封じ込めることを狙っていました。
それに対し、峠の通過を急ぐ急ぐ信玄は、兵糧などを運ぶ小荷駄隊に先行させます。
同時に三増峠の隣にある志田峠に大規模な別動隊を進ませました。
この動きが、氏康の戦略を狂わせることとなります。
この時、氏康らの北条の本隊およそ1万は、小田原城から出陣したばかりでした。
本隊が三増峠に到着次第、武田軍に攻め込む算段でした。
しかし、武田の別動隊が、真夜中に峠を進みだしたことが、現場の指揮官である氏照や氏邦に焦りを生みました。
武田軍を逃がすまいと、本隊の到着を待たずに攻撃を開始してしまいました。
こうして、1569年10月6日、氏康の予想外の戦い三増峠の戦いが始まりました。
北条軍およそ2万に対し、別動隊を先に進めた武田軍はその半数ほど・・・
序盤は、北条の鉄砲隊が武田の有力武将を討ち取るなど兵力に勝る北条が優勢で戦いが進みます。
猛攻を続ける北条軍・・・しかし、突如、武田の新たな軍勢が姿を表しました。
それは、峠を進んでいったはずの山県昌景隊でした。
志田峠を越えた武田の別動隊・・・しかし、津久井城から軍勢が出ていないことを見ると、山県隊は反転して戦場に戻ってきたのです。
山県隊の襲撃によって大混乱に陥った北条軍は敗走・・・
多くの兵を失い、武田軍の撤退を許してしまいました。
子の戦いでの戦死者は、北条側3200に対して武田900・・・。
戦国最大の山岳戦として今に伝わっています。
氏康が味方の敗戦の報に接したのは、三増峠まで6キロの地点でした。
氏康の信玄打倒作戦はここに潰えました。
戦いの2日後・・・氏康は上杉謙信に書状を送り、その思いを述べています。
「一日の遅れによって信玄を取り逃がし、まことに無念である」
三増峠の戦いの2年後・・・北条氏康は病で亡くなります。
1571年・・・享年57歳。
死の間際、息子の氏政にこう遺言しました。
「信玄との同盟を復活させよ」
戦ったからこそ分かった武田の力を、北条が生き残るために使え!!
これが、氏康最期の作戦司令でした。
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