室町時代後期・・・11年もの長きにわたって続いた内乱・応仁の乱によって、室町幕府の権威も、朝廷の権威も失墜・・・
そんな荒廃した京の都に天下布武を掲げた男がやってきました。
戦国の革命児・織田信長です。
そして、この信長に、朝廷の復権を託したのが、第106代正親町天皇でした。
正親町天皇が、践祚・・・天皇の地位を受け継いだのは、1557年・・・41歳でした。
しかし、即位の礼が行われたのは、それから3年後の1560年でした。
どうして即位の礼はすぐに執り行われなかったのでしょうか?
即位の礼には、莫大な費用が必要でした。
室町時代、朝廷はそうした行事の資金調達を幕府に頼っていたのですが、応仁の乱が1467年から1477年も続いたことで、幕府の権威が失墜。
財政も逼迫し、その力を頼ることもできなくなっていたのです。
しかも、幕府の力が弱まったことで、御料地(皇室所有の土地)からの収入である年貢が朝廷に入って来なくなりました。
力をつけた諸国の大名たちが後領地を支配し、横領していたからです。
こうして朝廷自体の財政も困窮していたため、正親町天皇の祖父に当たる後柏原天皇は、践祚から即位の礼まで21年、父である後奈良天皇は即位の礼まで9年執り行えませんでした。
後奈良天皇に至っては、直筆の書を売って、生活の足しにしていたと伝えられています。
そして、応仁の乱の終結からおよそ80年・・・正親町天皇の世となっても御所の崩れた塀が直せずに、二条の橋の上から御所の中のあかりがみえたといわれるほど経済的に困っていました。
応仁の乱によって、朝廷及びスポンサーである幕府が税制難に陥っていたため、正親町天皇の即位の礼を執り行うことができなかったのです。
践祚から3年後の1560年・・・安芸国の戦国大名・毛利元就から、銭2千貫(約3億円)の献金を受け、即位の礼を執り行います。
幕府の権威が回復すれば、おのずと朝廷が持ち直す・・・
それを好機とみたのが大名達でした。
大義名分を得て、京の都に自らの力を示すことで、乱世を優位に勝ち抜こうと考えました。
その一人が、天下を狙う織田信長でした。
桶狭間の戦いで、今川義元を討ち、その名を天下にとどろかせた尾張の戦国大名・織田信長は、虎視眈々と上洛の機会を伺っていたのです。
1565年5月19日、前代未聞の事件が起こります。
畿内を支配していた三好長慶の養子・義継ら三好勢が、将軍御所を襲撃・・・!!
室町幕府13代将軍・足利義輝を殺害してしまったのです。
これによって、次期将軍候補となったのが、当時、興福寺・一条院門主で義輝の弟・覚慶(足利義昭)でした。
しかし、暗殺事件から3年後、14代将軍についたのは、三好勢が擁立した義昭の従兄弟・義栄でした。
そんな中、義昭に味方する者が現れます。
織田信長です。
天下取りの為、上洛したい信長は、義昭に付き従っていくという大義名分を得て、京の都に登ろうとします。
この時、信長は、朝廷の権威回復を命じる綸旨を正親町天皇から直接賜わることで、大義名分を得ていたのです。
その綸旨は特別なものでした。
臨時のあて先は、幕府の管領か、大名縁故の公家に限られていました。
当事者の大名に、直接充てられることは、異例のことだったのです。
この信長に宛てた綸旨が、個別大名あての綸旨の最初の事例となったのです。
信長は、帝に頼りにされていたのです。
足利義昭につき従い、朝廷の権威を回復するためという大義名分を掲げた信長は、6万の兵を率いて京の都へ・・・!!
義昭と信長が、都に近い摂津国の芥川城に陣を構えたことを知った正親町天皇は、”めでたき”として、勅使を派遣、義昭には太刀を、信長には酒などを贈りました。
こうして、1568年9月、信長はついに上洛を果たします。
すると、間もなくして、将軍・義栄が病死・・・
これによって、義昭が15代将軍に就任するのです。
将軍宣下を下したのは、正親町天皇でした。
その後、信長は御所を修繕、さらに、正親町天皇の皇子・誠人親王の元服費用も差し出します。
その金額・銀1万疋(1200万円)・・・これは、信長が天皇から賜った綸旨の中で命じられていたことでした。
正親町天皇は、美濃を平定した信長を、”古今無双の名将”と褒め称えたうえで、宮廷費用の献上を求めています。
具体的には、禁裏御料(美濃・尾張)の回復と、嫡男の元服費用の献上でした。
大義名分を得、上洛を果たした信長は、正親町天皇の望みを叶えることで、礼をつくしたのです。
この時、正親町天皇52歳、信長35歳、自らの目的のために、互いを必要としている二人でした。
信長は、正親町天皇の望み通り、各地の大名に支配されていた御料地や公家の領地を取り戻しました。
さらに、公家が借金を返さなくていい徳政令を発布するなど、朝廷の財政回復に貢献していきます。
1570年には、21カ国に及ぶ大名に、禁裏御修理・武家御用を理由に、上洛して朝廷と幕府に三礼すべきという旨の書状を送ります。
この要請に、多くの大名が応じるも、中には拒む者もいました。
越前国の戦国大名・朝倉義景です。
そこで、信長は、朝倉攻めの為、京の都を出発・・・
すると、この信長の出陣に当たり、正親町天皇は
”内侍所に祈祷を命じる”
など、信長の為の戦勝祈願を行います。
具体的には、御所の内侍所だけではなく、石清水八幡宮でも大規模に戦勝祈願を行っています。
戦国時代、朝廷は中立を保っていたので、天皇が戦勝祈願をすることは久しくありませんでした。
このことから、正親町天皇が信長を信頼し、天下を取る人物と見込んでいたことがわかります。
ところが、朝倉攻めの途中、信長は同盟関係にあった北近江の戦国大名・浅井長政の裏切りに遭い、いったん京の都に逃げ帰ります。
そして、軍勢を立て直し、今度は裏切った浅井攻めに向かいます。
その信長に、正親町天皇は使者遣わしこう述べます。
”今日 出陣の由 聞こし召され やがて本位に属し 上洛待ち思し召しの由”
この天皇の言葉に対し、信長は
「たとえ近江に滞在しようと、また、美濃に帰ったとしても、今進めている禁裏修造については、奉公たちに堅く申し付けるのでご安心ください
やがて上洛いたしましょう」
そう天皇に伝えるよう頼んだといいます。
信長が危機に瀕した際に、正親町天皇は見限らなかったのです。
このやり取りから、2人の関係は揺るがないものだったと思われます。
信長はこののち、正親町天皇に何度も救われることになります。
1573年8月・・・信長が浅井攻めを行ったその年の8月・・・
勢力回復を目指す三好勢が摂津国で挙兵。
信長は、将軍・足利義昭と共に出陣!!
6万の軍勢で三好勢を圧倒するも、浄土真宗の大坂本願寺が突如挙兵したことで形勢が逆転!!
本願寺に呼応して、浅井・朝倉が出陣!!
さらに、甲斐の虎・武田信玄も信長打倒に乗り出しました。
これによって、義昭・信長連合軍は、三好・本願寺・浅井・朝倉・武田などに包囲されてしまいました。
窮地に立たされた信長・・・
そんな信長の様子を知った正親町天皇は、勅書を出します。
”天下静謐のために 公方(将軍)の義昭が出陣している
また 信長も同然である
それなのに、一揆をおこし 敵対しているとのこと まことに不相応のことである
早々に戦いをやめるように”
天皇から本願寺に停戦命令がでたのです。
しかし、この勅書が本願寺に届くことはありませんでした。
というのも、信長が大坂本願寺を相手にしていたことで、近江の守りが手薄に・・・
そのすきを突き、浅井軍が南近江を攻め、山城国に入り、山科・醍醐の集落に放火・・・
勅使が大坂に向かうことができなかったのです。
その後、戦は長期化・・・京の都を守るために、正親町天皇は再び勅書を出します。
これによって、信長は、浅井・朝倉と和議を結ぶことに成功するのです。
信長が天皇に頼ることで、天皇を和平の調停役にしました。
以降、信長は、危機に陥るたびに正親町天皇の力を借りて立ち直るのです。
これに対して天皇は、信長から何を得ようとしていたのでしょうか??
それは、”天下静謐”でした。
1573年、将軍・義昭が信長を見限ります。
反対勢力についたことで、またもや信長は窮地に立たされます。
和議を申し出るも、義昭は二度も拒否。
結局、この時も正親町天皇の勅命で和議が成立します。
窮地を脱した信長は、最大の脅威だった武田信玄が病で死去すると反撃に出ます。
京の都から義昭を追放、室町幕府を滅亡へと追い込みます。
さらに信長は、長く続いていた大坂本願寺の戦いでも正親町天皇の勅命を利用し、和議が成立。
こうして正親町天皇は、信長を信任し、後ろ盾となることで戦国時代を終わらせようとしたのです。
正親町天皇は、まさに信長の保護者だったのです。
正親町天皇、信長と対立!!
権威を失墜し、財政も逼迫していた朝廷を、なんとか立て直したいと考えていた正親町天皇・・・
朝廷の威光を利用して、天下をその手に治めたい信長・・・
互いの望みを叶えるため、蜜月の関係を築いていました。
しかし、そんな2人の関係に水を差す行動を信長がとります。
1569年、正親町天皇は、日本に伝来したキリスト教を排除する綸旨を出していました。
それにもかかわらず、信長はポルトガルの宣教師ルイス・フロイスと面会。
「帝や公方の意向を心配する必要なし
すべてはこの信長の権限の中にある」
信長は、キリスト教布教の自由を保障しました。
さらに、信長は、東大寺・正倉院に収蔵されている天下第一の名香・蘭奢待を切り取ってしまいます。
蘭奢待は、奈良時代に唐から聖武天皇の手に渡ったと伝わっています。
その文字の中に、東・大・寺の名を隠した雅な呼び名がつけられた蘭奢待は、権威の象徴とされ、時に権力者が求めてきました。
しかし、正倉院は、勅封・・・天皇の命により封印されていると天皇の許可なく開けることはできないとしていました。
信長が、正倉院の蘭奢待を切り取ったことに関し、天皇は前関白への手紙で
”今度 不慮に勅封を開かれ候て・・・”
そう記したことから、蘭奢待切り取りは天皇の本意ではなく、信長が強引に正倉院を開けさせ行ったことと言われてきました。
しかし、手紙には続きがありました。
”聖代の余薫をおこされ候 この一炷にて、老懐をのへられ候はゝ祝着たるべく候”
切り取った蘭奢待を楽しんでほしいと書かれてあったのです。
もし天皇が、信長による蘭奢待切り取りを忌々しく思っていたならば・・・こんなふうには思っていないでしょう。
信長は、事前に正親町天皇の許可を受け取っており、朝廷が勅使を派遣し、勅封を開けています。
そして、東大寺の大仏師によって、一辺3センチ四方に2個切り取られたものを、信長は待っていた多門山城で受け取っています。
武力で強引に開けておらず、威圧することなく、謙虚に振る舞い、慣例に従って勅封を開けたのです。
この時、信長は切り取った蘭奢待の一つを正親町天皇に献上しています。
そして、天皇はこれを受け取っているのです。
正親町天皇、信長に譲位を迫られる!!
1573年、織田信長は、正親町天皇に進言をします。
「譲位されてはいかがでしょうか?
勘定はこの信長が献上いたしますゆえ」
これについても、正親町天皇が邪魔になった信長が強く譲位を迫り、天皇と激しく対立したと言われてきました。
ところが、近年、天皇から信長への宸筆の返書が発見され、事実と異なることがわかってきました。
正親町天皇宸筆による信長への返書には、こう書かれていました。
”譲位は後土御門天皇以来の望み”
正親町天皇も譲位を望んでいたというのです。
”譲位は、後土御門天皇以来の望みであり 久しく叶わずにいたところ この度の申し入れは奇特であり 「朝家再興」の時である”
実は、1464年、後花園天皇が後土御門天皇に譲位して以来、正親町天皇の世になるまで100年以上もの間譲位は行われていませんでした。
応仁の乱以降、財政がひっ迫し、即位の礼や大喪の礼でさえ行えずにいた朝廷において、譲位などもってのほかだったからです。
まず、譲位の儀式に多額のお金がかかります。
そして、譲位して上皇が成立すると。上皇の住まいとなる仙洞御所を整えなければならなくなります。
そして、上皇と天皇、二重の行政組織を敷く必要があったのです。
戦国時代はそんな余裕はありませんでした。
莫大な費用が掛かるため、長年できなかった譲位が再び行えるならば、朝廷の権威が回復すると考えたのです。
しかし、この後、伊勢国に一向一揆、武田氏との長篠の戦いが起きるなど、信長が各地に出陣しなければならなくなったため、攘夷は実現しませんでした。
譲位の話が再び持ち上がったのは、9年後のことです。
1581年、安土城下で厄除けのお祭りである左義長(信長の当時は爆竹をならし馬を走らせた)を行った信長は、これを京の都でも実施しようとします。
すると、朝廷から観覧したいという陽性が来たため、京都御馬揃え・・・軍事パレードを行うことにします。
この馬揃えの準備を任されたのが、明智光秀でした。
織田一門総勢6万の面々が行列を作って本能寺から正親町天皇が待つ内裏まで、6時間もかけてパレードを行いました。
観客はおよそ20万・・・天下統一目前の信長の力、その勢いに京の民衆や武将たちも改めて驚かされました。
この時、正親町天皇は、信長を左大臣に任じようとします。
朝廷は高い位を信長に与え、朝廷の権威回復にもっと尽力してもらおうと考えていました。
ところが、信長はこれを断わります。
「譲位と即位の礼が済んだのちにお受けいたします」
こうして再び、譲位の実行が検討されることとなります。
譲位について朝廷が陰陽師に占わせたところ、
”御譲位のこと 当年は金神によりご延引きの由”
陰陽道で金神は、包囲の神とされ、金神のいる方角への移動や移転は凶でたたられると言われていました。
譲位をすれば、誠仁親王の二条御所から禁裏御所への移動は金神のいる方角に当たっていました。
朝廷は今回の譲位を断念・・・また、先送りとなりました。
1582年、織田信長は正親町天皇が望む譲位をいまだ実現できずにいました。
しかし、朝廷の権威回復の為尽力し続けていました。
応仁の乱以降、久しく途絶えていた伊勢神宮の神事・式年遷宮(新しい社殿を作りご神体を遷す神事)復興もその一つです。
銭3千貫という大金を寄進します。
その後も、必要に応じて寄進すると正親町天皇に申し出ます。
この時、伊勢神宮の内宮の遷宮が120年ぶりに復興されました。
信長が寄付をするときには気前が良く、多めに寄付しています。
石清水八幡宮、熱田神宮にも多額の金銭を寄進して保護しています。
そんな信長に、正親町天皇と朝廷も応えます。
1582年武田氏滅亡・・・
すると、凱旋した信長に、朝廷が官職を与える三職推任の話が持ち上がります。
三職とは・・・関白、太政大臣、征夷大将軍のこと・・・。
それらのいずれかに信長を任じようというのです。
朝廷側の公暁・勧修寺晴豊、京都所司代・村井貞勝との間で非公式の会談が行われました。
結果は・・・晴豊の日記には・・・
”関東を討ち果たされて珍重なので将軍に任じたいと申し入れるための使者である”
このことから、朝廷は信長を将軍に推認することを決定しました。
武田氏を滅ぼし、北条氏も信長に従属していたため、関東を平定したことになり、将軍宣下の条件が整ったのです。
信長が、征夷大将軍に任じられれば織田幕府が誕生することになったのですが・・・
実現しませんでした。
この年・・・1582年6月2日、信長の家臣である明智光秀が、謀反を起こしたからです。
本能寺の変です。
これによって、信長は命を落とします。
49歳でした。
この時、信長が無くなってしまったため、官職の推任に対する信長の考えや、政権構想についてもわかっていません。
ただ、正親町天皇と信長の関係は、最後まで極めて良好だったのです。
信長は破壊者の側面が強調されてきましたが、実は勤王家で、伝統と格式を重んじる保守主義者でした。
天皇の後ろ盾による武家政権を打ち立てることを目指していたのではないか??と思われます。
10月・・・正親町天皇は、信長に太政大臣従一位を送っています。
朝廷の財政・権威回復に力を尽くしてくれた信長への最大のねぎらいと敬意の証だったのかもしれません。
そして、正親町天皇は、信長の仇である光秀を討った羽柴秀吉に太刀を贈っています。
秀吉は、信長の後継者としての地位を確立・・・
天下統一に邁進します。
そして、信長が実現できなかった正親町天皇の譲位の準備もまた引き継ぐのです。
織田信長が実現できなかった正親町天皇譲位の準備は、羽柴秀吉に引き継がれ、着々と進められていきます。
1584年、秀吉は「仙洞御所」の造営を開始、その建築費用や即位費用など(銭1万貫・15億円)の拠出を約束します。
こうして、朝廷は、政治的にも経済的にも安定。。。
譲位の準備も進み、悲願だったその日を正親町天皇は心待ちにしていました。
しかし・・・度重なる不幸が襲います。
1585年11月29日深夜・・・M8ともいわれる大地震が発生・・・近畿・東海・北陸を襲います。
正親町天皇のいた京の都は御所を含め大きな被害はありませんでしたが、被災地の被害は甚大で、多くの犠牲者が出たことを知ると、天皇は大井にうれいたといいます。
さらに・・・1586年7月24日、正親町天皇のあと即位するはずだった誠仁親王が35歳の若さで薨御。
誠仁親王が亡くなった理由は、”わらわやみ”と言われる間欠熱の一種でした。
あまりに突然亡くなったので、はしか説、自殺説が飛び交いました。
我が子を無くした正親町天皇は、食事が喉を通らなくなるほど深い悲しみに触れました。
譲位はそんな中、行われました。
正親町天皇は、誠仁親王の皇子で孫にあたる和仁親王に譲位・・・こうして・・・
1586年、第107代後陽成天皇が践祚。
11月25日、即位の礼が執り行われました。
正親町上皇この時69歳・・・後陽成天皇は15歳。
実に120年ぶりの譲位でした。
正親町天皇は、30年という在位期間の中で、逼迫していた朝廷の財政と権威を見事に回復させます。
そこに、織田信長という存在は欠かせませんでした。
互いの距離をうまく保ちながら、それぞれの主張を曲げることなく心砕く・・・二人だからこそできたのかもしれません。
江戸時代に入り、朝廷は江戸幕府の統制下におかれます。
しかし、その権威が脅かされることはありませんでした。
それは、朝廷の立て直しに力を注いだ戦国のミカド・正親町天皇の功績だったのでしょう。
1593年、正親町上皇崩御・・・77歳でした。
↓ランキングに参加しています
↓応援してくれると嬉しいです

にほんブログ村
そんな荒廃した京の都に天下布武を掲げた男がやってきました。
戦国の革命児・織田信長です。
そして、この信長に、朝廷の復権を託したのが、第106代正親町天皇でした。
正親町天皇が、践祚・・・天皇の地位を受け継いだのは、1557年・・・41歳でした。
しかし、即位の礼が行われたのは、それから3年後の1560年でした。
どうして即位の礼はすぐに執り行われなかったのでしょうか?
即位の礼には、莫大な費用が必要でした。
財政も逼迫し、その力を頼ることもできなくなっていたのです。
しかも、幕府の力が弱まったことで、御料地(皇室所有の土地)からの収入である年貢が朝廷に入って来なくなりました。
力をつけた諸国の大名たちが後領地を支配し、横領していたからです。
こうして朝廷自体の財政も困窮していたため、正親町天皇の祖父に当たる後柏原天皇は、践祚から即位の礼まで21年、父である後奈良天皇は即位の礼まで9年執り行えませんでした。
後奈良天皇に至っては、直筆の書を売って、生活の足しにしていたと伝えられています。
そして、応仁の乱の終結からおよそ80年・・・正親町天皇の世となっても御所の崩れた塀が直せずに、二条の橋の上から御所の中のあかりがみえたといわれるほど経済的に困っていました。
応仁の乱によって、朝廷及びスポンサーである幕府が税制難に陥っていたため、正親町天皇の即位の礼を執り行うことができなかったのです。
践祚から3年後の1560年・・・安芸国の戦国大名・毛利元就から、銭2千貫(約3億円)の献金を受け、即位の礼を執り行います。
幕府の権威が回復すれば、おのずと朝廷が持ち直す・・・
それを好機とみたのが大名達でした。
大義名分を得て、京の都に自らの力を示すことで、乱世を優位に勝ち抜こうと考えました。
その一人が、天下を狙う織田信長でした。
桶狭間の戦いで、今川義元を討ち、その名を天下にとどろかせた尾張の戦国大名・織田信長は、虎視眈々と上洛の機会を伺っていたのです。
1565年5月19日、前代未聞の事件が起こります。
畿内を支配していた三好長慶の養子・義継ら三好勢が、将軍御所を襲撃・・・!!
室町幕府13代将軍・足利義輝を殺害してしまったのです。
これによって、次期将軍候補となったのが、当時、興福寺・一条院門主で義輝の弟・覚慶(足利義昭)でした。
しかし、暗殺事件から3年後、14代将軍についたのは、三好勢が擁立した義昭の従兄弟・義栄でした。
そんな中、義昭に味方する者が現れます。
織田信長です。
天下取りの為、上洛したい信長は、義昭に付き従っていくという大義名分を得て、京の都に登ろうとします。
この時、信長は、朝廷の権威回復を命じる綸旨を正親町天皇から直接賜わることで、大義名分を得ていたのです。
その綸旨は特別なものでした。
臨時のあて先は、幕府の管領か、大名縁故の公家に限られていました。
当事者の大名に、直接充てられることは、異例のことだったのです。
この信長に宛てた綸旨が、個別大名あての綸旨の最初の事例となったのです。
信長は、帝に頼りにされていたのです。
足利義昭につき従い、朝廷の権威を回復するためという大義名分を掲げた信長は、6万の兵を率いて京の都へ・・・!!
義昭と信長が、都に近い摂津国の芥川城に陣を構えたことを知った正親町天皇は、”めでたき”として、勅使を派遣、義昭には太刀を、信長には酒などを贈りました。
こうして、1568年9月、信長はついに上洛を果たします。
すると、間もなくして、将軍・義栄が病死・・・
これによって、義昭が15代将軍に就任するのです。
将軍宣下を下したのは、正親町天皇でした。
その後、信長は御所を修繕、さらに、正親町天皇の皇子・誠人親王の元服費用も差し出します。
その金額・銀1万疋(1200万円)・・・これは、信長が天皇から賜った綸旨の中で命じられていたことでした。
正親町天皇は、美濃を平定した信長を、”古今無双の名将”と褒め称えたうえで、宮廷費用の献上を求めています。
具体的には、禁裏御料(美濃・尾張)の回復と、嫡男の元服費用の献上でした。
大義名分を得、上洛を果たした信長は、正親町天皇の望みを叶えることで、礼をつくしたのです。
この時、正親町天皇52歳、信長35歳、自らの目的のために、互いを必要としている二人でした。
信長は、正親町天皇の望み通り、各地の大名に支配されていた御料地や公家の領地を取り戻しました。
さらに、公家が借金を返さなくていい徳政令を発布するなど、朝廷の財政回復に貢献していきます。
1570年には、21カ国に及ぶ大名に、禁裏御修理・武家御用を理由に、上洛して朝廷と幕府に三礼すべきという旨の書状を送ります。
この要請に、多くの大名が応じるも、中には拒む者もいました。
越前国の戦国大名・朝倉義景です。
そこで、信長は、朝倉攻めの為、京の都を出発・・・
すると、この信長の出陣に当たり、正親町天皇は
”内侍所に祈祷を命じる”
など、信長の為の戦勝祈願を行います。
具体的には、御所の内侍所だけではなく、石清水八幡宮でも大規模に戦勝祈願を行っています。
戦国時代、朝廷は中立を保っていたので、天皇が戦勝祈願をすることは久しくありませんでした。
このことから、正親町天皇が信長を信頼し、天下を取る人物と見込んでいたことがわかります。
ところが、朝倉攻めの途中、信長は同盟関係にあった北近江の戦国大名・浅井長政の裏切りに遭い、いったん京の都に逃げ帰ります。
そして、軍勢を立て直し、今度は裏切った浅井攻めに向かいます。
その信長に、正親町天皇は使者遣わしこう述べます。
”今日 出陣の由 聞こし召され やがて本位に属し 上洛待ち思し召しの由”
この天皇の言葉に対し、信長は
「たとえ近江に滞在しようと、また、美濃に帰ったとしても、今進めている禁裏修造については、奉公たちに堅く申し付けるのでご安心ください
やがて上洛いたしましょう」
そう天皇に伝えるよう頼んだといいます。
信長が危機に瀕した際に、正親町天皇は見限らなかったのです。
このやり取りから、2人の関係は揺るがないものだったと思われます。
信長はこののち、正親町天皇に何度も救われることになります。
1573年8月・・・信長が浅井攻めを行ったその年の8月・・・
勢力回復を目指す三好勢が摂津国で挙兵。
信長は、将軍・足利義昭と共に出陣!!
6万の軍勢で三好勢を圧倒するも、浄土真宗の大坂本願寺が突如挙兵したことで形勢が逆転!!
本願寺に呼応して、浅井・朝倉が出陣!!
さらに、甲斐の虎・武田信玄も信長打倒に乗り出しました。
これによって、義昭・信長連合軍は、三好・本願寺・浅井・朝倉・武田などに包囲されてしまいました。
窮地に立たされた信長・・・
そんな信長の様子を知った正親町天皇は、勅書を出します。
”天下静謐のために 公方(将軍)の義昭が出陣している
また 信長も同然である
それなのに、一揆をおこし 敵対しているとのこと まことに不相応のことである
早々に戦いをやめるように”
天皇から本願寺に停戦命令がでたのです。
しかし、この勅書が本願寺に届くことはありませんでした。
というのも、信長が大坂本願寺を相手にしていたことで、近江の守りが手薄に・・・
そのすきを突き、浅井軍が南近江を攻め、山城国に入り、山科・醍醐の集落に放火・・・
勅使が大坂に向かうことができなかったのです。
その後、戦は長期化・・・京の都を守るために、正親町天皇は再び勅書を出します。
これによって、信長は、浅井・朝倉と和議を結ぶことに成功するのです。
信長が天皇に頼ることで、天皇を和平の調停役にしました。
以降、信長は、危機に陥るたびに正親町天皇の力を借りて立ち直るのです。
これに対して天皇は、信長から何を得ようとしていたのでしょうか??
それは、”天下静謐”でした。
1573年、将軍・義昭が信長を見限ります。
反対勢力についたことで、またもや信長は窮地に立たされます。
和議を申し出るも、義昭は二度も拒否。
結局、この時も正親町天皇の勅命で和議が成立します。
窮地を脱した信長は、最大の脅威だった武田信玄が病で死去すると反撃に出ます。
京の都から義昭を追放、室町幕府を滅亡へと追い込みます。
さらに信長は、長く続いていた大坂本願寺の戦いでも正親町天皇の勅命を利用し、和議が成立。
こうして正親町天皇は、信長を信任し、後ろ盾となることで戦国時代を終わらせようとしたのです。
正親町天皇は、まさに信長の保護者だったのです。
正親町天皇、信長と対立!!
権威を失墜し、財政も逼迫していた朝廷を、なんとか立て直したいと考えていた正親町天皇・・・
朝廷の威光を利用して、天下をその手に治めたい信長・・・
互いの望みを叶えるため、蜜月の関係を築いていました。
しかし、そんな2人の関係に水を差す行動を信長がとります。
1569年、正親町天皇は、日本に伝来したキリスト教を排除する綸旨を出していました。
それにもかかわらず、信長はポルトガルの宣教師ルイス・フロイスと面会。
「帝や公方の意向を心配する必要なし
すべてはこの信長の権限の中にある」
信長は、キリスト教布教の自由を保障しました。
さらに、信長は、東大寺・正倉院に収蔵されている天下第一の名香・蘭奢待を切り取ってしまいます。
蘭奢待は、奈良時代に唐から聖武天皇の手に渡ったと伝わっています。
その文字の中に、東・大・寺の名を隠した雅な呼び名がつけられた蘭奢待は、権威の象徴とされ、時に権力者が求めてきました。
しかし、正倉院は、勅封・・・天皇の命により封印されていると天皇の許可なく開けることはできないとしていました。
信長が、正倉院の蘭奢待を切り取ったことに関し、天皇は前関白への手紙で
”今度 不慮に勅封を開かれ候て・・・”
そう記したことから、蘭奢待切り取りは天皇の本意ではなく、信長が強引に正倉院を開けさせ行ったことと言われてきました。
しかし、手紙には続きがありました。
”聖代の余薫をおこされ候 この一炷にて、老懐をのへられ候はゝ祝着たるべく候”
切り取った蘭奢待を楽しんでほしいと書かれてあったのです。
もし天皇が、信長による蘭奢待切り取りを忌々しく思っていたならば・・・こんなふうには思っていないでしょう。
信長は、事前に正親町天皇の許可を受け取っており、朝廷が勅使を派遣し、勅封を開けています。
そして、東大寺の大仏師によって、一辺3センチ四方に2個切り取られたものを、信長は待っていた多門山城で受け取っています。
武力で強引に開けておらず、威圧することなく、謙虚に振る舞い、慣例に従って勅封を開けたのです。
この時、信長は切り取った蘭奢待の一つを正親町天皇に献上しています。
そして、天皇はこれを受け取っているのです。
正親町天皇、信長に譲位を迫られる!!
1573年、織田信長は、正親町天皇に進言をします。
「譲位されてはいかがでしょうか?
勘定はこの信長が献上いたしますゆえ」
これについても、正親町天皇が邪魔になった信長が強く譲位を迫り、天皇と激しく対立したと言われてきました。
ところが、近年、天皇から信長への宸筆の返書が発見され、事実と異なることがわかってきました。
正親町天皇宸筆による信長への返書には、こう書かれていました。
”譲位は後土御門天皇以来の望み”
正親町天皇も譲位を望んでいたというのです。
”譲位は、後土御門天皇以来の望みであり 久しく叶わずにいたところ この度の申し入れは奇特であり 「朝家再興」の時である”
実は、1464年、後花園天皇が後土御門天皇に譲位して以来、正親町天皇の世になるまで100年以上もの間譲位は行われていませんでした。
応仁の乱以降、財政がひっ迫し、即位の礼や大喪の礼でさえ行えずにいた朝廷において、譲位などもってのほかだったからです。
まず、譲位の儀式に多額のお金がかかります。
そして、譲位して上皇が成立すると。上皇の住まいとなる仙洞御所を整えなければならなくなります。
そして、上皇と天皇、二重の行政組織を敷く必要があったのです。
戦国時代はそんな余裕はありませんでした。
莫大な費用が掛かるため、長年できなかった譲位が再び行えるならば、朝廷の権威が回復すると考えたのです。
しかし、この後、伊勢国に一向一揆、武田氏との長篠の戦いが起きるなど、信長が各地に出陣しなければならなくなったため、攘夷は実現しませんでした。
譲位の話が再び持ち上がったのは、9年後のことです。
1581年、安土城下で厄除けのお祭りである左義長(信長の当時は爆竹をならし馬を走らせた)を行った信長は、これを京の都でも実施しようとします。
すると、朝廷から観覧したいという陽性が来たため、京都御馬揃え・・・軍事パレードを行うことにします。
この馬揃えの準備を任されたのが、明智光秀でした。
織田一門総勢6万の面々が行列を作って本能寺から正親町天皇が待つ内裏まで、6時間もかけてパレードを行いました。
観客はおよそ20万・・・天下統一目前の信長の力、その勢いに京の民衆や武将たちも改めて驚かされました。
この時、正親町天皇は、信長を左大臣に任じようとします。
朝廷は高い位を信長に与え、朝廷の権威回復にもっと尽力してもらおうと考えていました。
ところが、信長はこれを断わります。
「譲位と即位の礼が済んだのちにお受けいたします」
こうして再び、譲位の実行が検討されることとなります。
譲位について朝廷が陰陽師に占わせたところ、
”御譲位のこと 当年は金神によりご延引きの由”
陰陽道で金神は、包囲の神とされ、金神のいる方角への移動や移転は凶でたたられると言われていました。
譲位をすれば、誠仁親王の二条御所から禁裏御所への移動は金神のいる方角に当たっていました。
朝廷は今回の譲位を断念・・・また、先送りとなりました。
1582年、織田信長は正親町天皇が望む譲位をいまだ実現できずにいました。
しかし、朝廷の権威回復の為尽力し続けていました。
応仁の乱以降、久しく途絶えていた伊勢神宮の神事・式年遷宮(新しい社殿を作りご神体を遷す神事)復興もその一つです。
銭3千貫という大金を寄進します。
その後も、必要に応じて寄進すると正親町天皇に申し出ます。
この時、伊勢神宮の内宮の遷宮が120年ぶりに復興されました。
信長が寄付をするときには気前が良く、多めに寄付しています。
石清水八幡宮、熱田神宮にも多額の金銭を寄進して保護しています。
そんな信長に、正親町天皇と朝廷も応えます。
1582年武田氏滅亡・・・
すると、凱旋した信長に、朝廷が官職を与える三職推任の話が持ち上がります。
三職とは・・・関白、太政大臣、征夷大将軍のこと・・・。
それらのいずれかに信長を任じようというのです。
朝廷側の公暁・勧修寺晴豊、京都所司代・村井貞勝との間で非公式の会談が行われました。
結果は・・・晴豊の日記には・・・
”関東を討ち果たされて珍重なので将軍に任じたいと申し入れるための使者である”
このことから、朝廷は信長を将軍に推認することを決定しました。
武田氏を滅ぼし、北条氏も信長に従属していたため、関東を平定したことになり、将軍宣下の条件が整ったのです。
信長が、征夷大将軍に任じられれば織田幕府が誕生することになったのですが・・・
実現しませんでした。
この年・・・1582年6月2日、信長の家臣である明智光秀が、謀反を起こしたからです。
本能寺の変です。
これによって、信長は命を落とします。
49歳でした。
この時、信長が無くなってしまったため、官職の推任に対する信長の考えや、政権構想についてもわかっていません。
ただ、正親町天皇と信長の関係は、最後まで極めて良好だったのです。
信長は破壊者の側面が強調されてきましたが、実は勤王家で、伝統と格式を重んじる保守主義者でした。
天皇の後ろ盾による武家政権を打ち立てることを目指していたのではないか??と思われます。
10月・・・正親町天皇は、信長に太政大臣従一位を送っています。
朝廷の財政・権威回復に力を尽くしてくれた信長への最大のねぎらいと敬意の証だったのかもしれません。
そして、正親町天皇は、信長の仇である光秀を討った羽柴秀吉に太刀を贈っています。
秀吉は、信長の後継者としての地位を確立・・・
天下統一に邁進します。
そして、信長が実現できなかった正親町天皇の譲位の準備もまた引き継ぐのです。
織田信長が実現できなかった正親町天皇譲位の準備は、羽柴秀吉に引き継がれ、着々と進められていきます。
1584年、秀吉は「仙洞御所」の造営を開始、その建築費用や即位費用など(銭1万貫・15億円)の拠出を約束します。
こうして、朝廷は、政治的にも経済的にも安定。。。
譲位の準備も進み、悲願だったその日を正親町天皇は心待ちにしていました。
しかし・・・度重なる不幸が襲います。
1585年11月29日深夜・・・M8ともいわれる大地震が発生・・・近畿・東海・北陸を襲います。
正親町天皇のいた京の都は御所を含め大きな被害はありませんでしたが、被災地の被害は甚大で、多くの犠牲者が出たことを知ると、天皇は大井にうれいたといいます。
さらに・・・1586年7月24日、正親町天皇のあと即位するはずだった誠仁親王が35歳の若さで薨御。
誠仁親王が亡くなった理由は、”わらわやみ”と言われる間欠熱の一種でした。
あまりに突然亡くなったので、はしか説、自殺説が飛び交いました。
我が子を無くした正親町天皇は、食事が喉を通らなくなるほど深い悲しみに触れました。
譲位はそんな中、行われました。
正親町天皇は、誠仁親王の皇子で孫にあたる和仁親王に譲位・・・こうして・・・
1586年、第107代後陽成天皇が践祚。
11月25日、即位の礼が執り行われました。
正親町上皇この時69歳・・・後陽成天皇は15歳。
実に120年ぶりの譲位でした。
正親町天皇は、30年という在位期間の中で、逼迫していた朝廷の財政と権威を見事に回復させます。
そこに、織田信長という存在は欠かせませんでした。
互いの距離をうまく保ちながら、それぞれの主張を曲げることなく心砕く・・・二人だからこそできたのかもしれません。
江戸時代に入り、朝廷は江戸幕府の統制下におかれます。
しかし、その権威が脅かされることはありませんでした。
それは、朝廷の立て直しに力を注いだ戦国のミカド・正親町天皇の功績だったのでしょう。
1593年、正親町上皇崩御・・・77歳でした。
↓ランキングに参加しています
↓応援してくれると嬉しいです
にほんブログ村