新撰組と言えば、局長・近藤勇と鬼の副長・土方歳三です。
”近藤に誤謬なきは歳三ありたればなり”
近藤が過ちを犯さなかったのは、歳三がいたからこそ
と言われるほど、実質的に新撰組を取り仕切っていたのが土方歳三でした。
その人生は波乱万丈・・・!!
それでも最期まで新撰組として戦います。
江戸から明治へと時代が変わりゆく中、儚く散った新選組・・・土方歳三の生き様とは・・・??
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1835年武蔵国多摩郡石田村(現在の東京都日野市)の豪農の家に10人兄妹の末っ子として生まれました。
父は歳三が生まれた年に病で病死。
母も6歳の時に他界しました。
歳三は、年の離れた兄夫婦に育てられました。
11歳と17歳の時、江戸の商家に奉公に出ます。
しかし、二度とも長続きせずに出戻って来てしまいました。
土方歳三は、2番目の姉・のぶの夫で日野宿の名主だった佐藤彦五郎の家など親戚の家に入り浸ります。
そこで、運命的な出会いを果たすことになります。
朋友との出会い・・・
土方は、17,8歳で武道を志し、立派な武人になって天下に名を上げようとして家の隅に矢竹を植えました。
しかし、江戸時代は、武家に生れたもの以外は、武士になることは難しかったのです。
土方が生まれる少し前・・・文化文政年間。
江戸近郊の村々にも急速に貨幣経済が浸透します。
それに乗じて農民の中には、高利貸しや質屋、酒作りなどを兼業するものが現れます。
彼等は商売で得たお金を使って、周辺の土地を買い集め、やがて豪農としてのし上がっていったのです。
土方の家も、「石田散薬」の製造販売で財を成していました。
その一方で、幕府の取り締まりを逃れようと博徒たちがやってきてしばしば賭場を開いていたので、多摩など関東の農村にならず者が集まり、治安は悪化。
そこで幕府は、集落のリーダー的存在だった豪農たちに、名字を名乗ることを許し、刀の所持・・・帯刀を認め、彼等に治安の維持を一任したのです。
このことが、豪農たちの意識を変えました。
名字帯刀を認められることは、武士と同様の刺客を与えられることを意味していました。
身分は農民でしたが、「身上り願望」・・・豪農たちには士族の身分に上がりたいという願望が強かったのです。
御家人に多額のお金を払い、家格を買い取るなどして実際に武士になる豪農もいました。
帯刀を許された豪農たちは、剣術の習得に励みます。
土方が育った多摩で一大勢力を誇っていた剣術の流派が、天然理心流です。
土方の義理の兄・佐藤彦五郎の家にも、天然理心流の師範が出稽古をつける道場がありました。
その為、彦五郎の家に入り浸っていた土方は、自然と剣術を学ぶようになります。
そして、そこへ江戸から指導にきていたのが、後に天然理心流宗家となる近藤勇でした。
一つ年上の近藤もまた多摩の豪農出身ということもあり、2人は意気投合。
やがて土方は、江戸にあった天然理心流の道場「試衛館」に通うようになり、若き日の沖田総司、長倉新八などと出会うのです。
土方が正式に天然理心流に入門したのは25歳の時でした。
10代の頃から彦五郎の道場で剣術を学んでいました。
実家で作っていた薬の行商を手伝っていて、薬箱に武具をくくりつけて売り歩いていました。
色々な流派の道場で、他流試合をし、腕を磨いていたようです。
天然理心流は、他流試合を禁じていたので、なかなか入門しませんでした。
正式に入門した2、3年後には、近藤に代わって門人の指導にあたっていました。
剣の腕前は相当でしたが、沖田総司には敵わなかったようです。
土方は、生涯独身で過ごします。
兄たちが世話した許嫁はいたようです。
江戸の三味線屋の看板娘でしたが、彼女をおいて京都へ行ってしまいました。
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いざ、京都へ
1862年、14代将軍徳川家茂が、京都の孝明天皇のもとへ参上することが決定します。
幕府将軍の上洛は、3代将軍家光以来・・・229年ぶりのことでした。
この頃、開国を進めていた幕府は、外国勢力を追い払う攘夷を主張する孝明天皇を懐柔しようと朝廷と共に政治を行う公武合体を進めており、家茂が京都で孝明天皇に拝謁することで、それを世に知らしめようとしていました。
しかし、当時の京都は、幕府に不満を抱き、天皇を敬い攘夷を唱える尊王攘夷派の浪士が暴れ回り、無法地帯と化していました。
そこで幕府は、浪士には浪士をぶつけようと・・・
江戸周辺の浪士たちを募って「浪士組」を結成します。
彼等に京都の浪士たちを取り締まらせ、家茂の警護に当たらせようとしました。
浪士組には、幕府に忠誠をつくし、腕に覚えのある者なら誰でも応募が出来ました。
無事、警護を務めれば、幕臣に取り立てられる可能性までありました。
それを聞きつけた土方は、武士になれると、近藤勇、沖田総司らと共に浪士組への参加を決めました。
土方が育った多摩地域は、江戸の西に接しています。
多摩は幕府の直轄領が多い地域で、西から敵が責めてきたときに、まず、多摩の地域で防衛することが想定されていました。
多摩の地域は、江戸を守る防衛線・・・自分達が江戸の町を守るという意識が高かったのです。
そんな土地柄で育った土方らは、将軍家茂の警護は自分たちの警護だと考えていました。
1863年2月8日、土方は故郷を離れ、将軍警護のために京都に向かいました。
この時、29歳。
京都についた土方たちは、会津藩お預かりとなります。
藩主の松平容保が京都守護職で、京都の治安維持と御所の警備などを担う役職でした。
その容保のもと、近藤や土方など試衛館のメンバーは、水戸出身の芹沢鴨の一派などと壬生浪士組を結成し、将軍家茂の警護を務めたのです。
1863年6月、14代将軍・家茂が江戸へ戻ります。
壬生浪士組は、引き続き会津藩預かりとして京都に残ることになりました。
その2か月後・・・八月十八日の政変が起き、朝廷とつながっていた攘夷派の長州藩やそれを擁護する公家たちを京都から追放することに成功します。
その際、会津藩と共に壬生浪士組は御所の警護に当たっていました。
その功績が認められ、新たに”新選組”の名が与えられたのです。
新選組は、かつて会津藩にあった剣客集団と同じ名前で、容保は期待を込めて、壬生浪士組に与えたものです。
新選組が誕生しましたが・・・
近藤勇と芹沢鴨の2人が局長の座についていたため、近藤派と芹沢派に分裂・・・
水面下でし烈な派閥争いが生じていました。
そんな中、鬼の副長・土方が、近藤勇中心の組織にすべく、冷徹なまでの一手に出るのです。
鉄の掟4箇条
一、武士道に背くことをしてはならない
二、局を脱走してはならない
三、勝手に金策をしてはならない
四、勝手に訴訟を取り扱ってはならない
禁を犯した者は切腹!!
厳しいものでした。
隊士の数は結成当初は24人でしたが、徐々にその数は増えていきました。
隊士は様々な身分から集まっており、地域も・・・千差万別でした。
そんな隊士をまとめるために、厳しい規制が必要だったのです。
しかし、その掟に従わないものがいました。
近藤勇と共に局長の座についていた芹沢鴨です。
芹沢は、活動資金と称して、豪商からお金の無心をします。
断わられるとその店を焼き討ちにすると脅迫しました。
さらに、力士たちと乱闘騒ぎを起こしたり、遊郭で遊女たちに乱暴を働くなど、その狼藉三昧は目に余るこのがありました。
これに激怒したのが、統括していた会津藩主・松平容保でした。
会津藩の沽券に関わる・・・もう一人の局長・近藤勇に、芹沢を処分するように命じます。
そこで動いたのが土方歳三でした。
土方は、芹沢を宴に誘い出し、たっぷりと酒を飲ませます。
そして、酔いつぶれた芹沢が屯所に戻り寝入ったところを・・・沖田総司らと共に襲撃し、惨殺したのです。
土方は、局長の近藤にカリスマ性を・・・と、自らはその為に、汚れ役に徹することで組織を円滑に運営していこうとしました。
時に冷徹なことも引き受けたことで、鬼の副長と呼ばれたのです。
こうして新選組は、局長の近藤勇と副長の土方歳三を中心とした組織へと生まれ変わるのです。
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1864年6月5日、そんな新選組の名を世に知らしめる事件が起きます。
池田屋事件です。
この日の朝、尊王攘夷派の協力者を捕縛します。
その男の家から大量の武器が見つかりました。
何かを企んでいると察した土方は、拷問にかけると・・・男はたまらず白状します。
長州藩が、尊王攘夷派の志士たちを使い、近々京都市中に火を放ち、孝明天皇を聴衆に連れ去ろうとしている計画が発覚したのです。
新選組は、なんとか阻止しようと近藤隊と土方隊の二手に分かれて捜索を開始。
やがて、近藤隊が池田屋で尊王攘夷派の志士たちを発見!!
知らせを受けた土方隊も池田屋に急行!!
新選組は、見事な連携で7人を討ち取り、4人を手負いにし、23人を捕縛しました。
京都の町と天皇を守ったのです。
新たな野望
局長・近藤勇のもと、新撰組を京都の治安を守る警察組織へと変貌させていった鬼の副長・土方歳三。
新選組は、京都の町で暗躍する尊王攘夷派の志士たちに畏れられる存在となりました。
そんな中、八月十八日の政変で京都から追放され、朝廷への影響力を失った長州藩が、7月19日、朝廷での復権を目論み、兵を率いて上洛・・・禁門の変を起こします。
しかし、御所を警備する会津軍や薩摩軍らの反撃にあい、長州軍は敢え無く敗走。
逃げる際、御所に発砲したため、朝廷は長州藩を朝敵と見なします。
幕府に長州藩を追悼するように命じます。
長州征討です。
これを聞いた土方は、「今こそ新選組の力を見せようぞ!!」と、新選組を発展させる新たな野望を抱きます。
土方が作成した”行軍録”・・・組織の編成表が書かれています。
長州征討に参加させるために書いたものです。
長州征討は、1864年と1866年の2度にわたって行われました。
土方は、新選組が招集されることを想定し、従軍した際の隊列を考え、行軍録に記したのです。
その編成を見ると・・・
中心には土方自身を、後方に近藤を配しています。
注目すべきは、部隊先頭に書かれた大銃隊、小銃隊です。
新選組は、軍備の洋式化を進めていました。
幕府は、フランスをバックに軍制改革をしていました。
その一環として、会津はもちろん、新選組も最新の軍備を進めていたのです。
長州征討が決まってすぐに、江戸で隊士の募集を行い、近藤は24人を連れて帰ります。
そんな近藤に宛てた手紙の中に、土方は、新選組隊士たちが毎日西洋式の砲術訓練を行っていることを報告しています。
土方は、組織を拡大し、西洋式軍備を進めることで、新選組を警察組織から軍隊組織に変貌させようとしていたのです。
結局、幕府は今まで通り、新選組を京都に残し治安維持にあたらせたため、新選組が長州征討に加わることはできませんでした。
1867年6月、新選組にとって嬉しい出来事がありました。
幕府直参の見廻組格となり、隊士全員が幕臣となったのです。
土方歳三は、見廻組肝煎格として70俵5人扶持が与えられました。
この時33歳。武士になるという大きな夢を抱き、29歳で江戸を発ってからわずか4年ほどでその夢を叶えたのです。
しかし・・・半年後、260年余り続いた江戸幕府が滅亡してしまいました。
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晴れて幕臣に取り立てられ、武士となった新選組でしたが、4か月後には15代将軍・慶喜が大政奉還。
それを受け、王政復古の大号令が発せられたことで、仕えるべき江戸幕府が滅亡してしまいました。
それでも、新選組、副長・土方歳三の幕府への忠誠心が揺らぐことはありませんでした。
1868年1月、旧幕府軍は、新政府軍と京都で激突。
鳥羽伏見の戦い・・・戊辰戦争の始まりでした。
新選組も、旧幕府軍として戦いに参加。
しかし、旧幕府軍がわずか3日で敗走・・・慶喜の指示によって、新選組は江戸へと向かいます。
土方は、鳥羽伏見の戦いを振り返り、こう述べたといいます。
「もはや銃や大砲の時代である
刀や槍ではとても勝てない」
新選組自体は、近代化、西洋化されてきていました。
しかし、大きな戦いは初めてでした。
改めて、西洋式の軍隊としての訓練が必要だと考えたのです。
鳥羽伏見の戦いの敗戦で、新選組を西洋式の軍隊に変える必要性を痛感した土方。
江戸で、最新式の銃と共にマントやズボンを購入。
土方自身が洋服をまとい、髷を落としたのはこの頃だと言われています。
しかし、この新選組の軍隊かが思わぬ不協和音を・・・!!
盟友との別れ
江戸に入って2か月後・・・
新選組は、甲斐国の治安維持のために甲府に向かいます。
しかし、新政府軍がすでに甲府の町を占拠。
新選組はその手前、勝沼で新政府軍と激突します。
土方は応援を呼ぶために離脱!!
しかし、残った近藤らは、圧倒的な戦力の差によって2時間ほどで大敗してしまいました。
その直後、試衛館時代からの盟友・永倉新八や原田左之助らが脱退を表明。
永倉、原田など初期メンバーは、感情的にも不満がたまっていました。
そもそも新選組は、平等で同志的な関係性でした。
これに対して、近藤や土方は、上下関係がはっきりした関係性に切り替えたかったのです。
自分たちの意見が通らない・・・彼らの離脱は止む終えないことでした。
その1か月後・・・
近藤と土方は、新選組を立て直すべく200人以上の隊士と共に下総の流山に陣を張っていました。
すると、いつの間にか新政府軍に囲まれてしまいます。
隊士のほとんどが出払っていたため、陣には近藤と土方と数人のみ。
とても太刀打ちできない・・・と、観念した近藤は、切腹する覚悟を決めました。
しかし、土方は・・・
「ここで割腹するのは犬死にだ
ここは近藤さんが出頭して、自分たちは徳川の脱走兵を鎮圧するための部隊だと言い張ってくれないだろうか」by土方歳三
少し前から、近藤はもしもの時のために、大久保大和という偽名を使っていました。
出頭しても近藤とわからず処刑されないだろうと土方は考えていたのです。
近藤は、土方の提案を受け入れ、新政府軍に投降。
一方、土方は隙を見てその場を抜け出し、出払っていた隊士たちに会津に向かうように指示して自らは江戸城に向かいます。
土方は、旧幕府の代表として新政府との交渉にあたっていた勝海舟に、大久保大和の助命嘆願の手紙を書くように頼みます。
しかし、土方の思惑は打ち砕かれました。
運悪く、新政府軍の中に元新選組隊士がいて、近藤の身元が露見!!
4月25日、近藤勇、斬首刑に処される
その首は見せしめとして京都・三条河原に晒されました。
土方は少したってから近藤の死を知ることになります。
最期は武士らしく切腹したいと願った近藤を出頭させたことに、小路方は後悔の念を感じていたかもしれません
盟友・近藤勇を失い、悲しみに暮れた土方。
新選組と共に・・・
江戸を発った土方歳三らは、大鳥圭介率いる旧幕府軍と合流し、東北を目指します。
京都で新選組と後ろ盾だった松平容保の会津藩を中心に、東北の諸藩が新政府軍と対決する姿勢を表明していたからです。
その道中、土方らは新政府軍が占拠する宇都宮城をわずか1日で攻め落とします。
幸先は良かったのですが・・・その後は劣勢続き・・・会津、仙台へと移動します。
その間、新政府軍の猛攻の前に、当てにしていた東北諸藩がわずか数か月で次々と降伏していき、戦況は苦しくなるばかり・・・!!
一説に、土方はこの頃こんな事を口にしたといいます。
「到底、勝算の必ず期すべきあるにあらず」by土方歳三
それでも土方は新政府軍と戦い続けていくのです。
ひとつは近藤勇のため・・・
新政府軍が近藤を罪人扱いし、処刑したことが許せませんでした。
もうひとつは、近藤と共に築き上げた新選組を守りたかったからです。
新選組がどこまで新政府軍と戦い続けられるかも届けたかったのです。
東北での劣勢が続く中、新たな出会いもありました。
仙台で夷で合流した旧幕府軍・海軍副総裁・榎本武揚です。
旧幕府軍の主力戦隊など6隻を率いていた榎本は、旧幕臣たちと共に蝦夷を開拓し、新たな独立国家を作ろうと考えていました。
松平容保の会津藩も降伏し、東北での後ろ盾を失った土方は、新天地を求め、20人余りに激減した新選組隊士を引き連れて榎本と共に蝦夷へと渡るのです。
箱館に築かれた五稜郭に拠点を置き、2か月後、榎本武揚を総裁とする箱館政府を樹立。
しかし、1869年4月、新政府軍が蝦夷に上陸。
乙部に上陸した新政府軍は、函館に向け徐々に進軍し、5月11日、奇襲攻撃をかけ、ついに箱館の町を制圧します。
すると、土方と別行動をとって弁天台場にいた新選組が新政府軍に囲まれて孤立。
土方は僅かな兵を率いて救出に向かいますが・・・そのさ中、悲劇が!!
五稜郭と弁天台場の間・一本木関門で両軍が激突!!
新政府軍の一人が放った銃弾が、土方の腹部を貫通したのです。
最期まで戦い抜いた男の突然の幕切れでした。
奇しくも盟友・近藤勇と同じ35歳でした。
その1週間後、箱館政府が降伏し、戊辰戦争は集結しました。
6年に及んだ新選組の歴史にも終止符が打たれたのです。
その後、新選組の生き残りの兵士によって、箱館の写真館で撮られたという洋装の写真が兄弟のもとに届けられました。
決して降伏することなく、どこまでの戦い続けた男がいた・・・その証として。
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