日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:源義経

山口県下関市関門海峡・・・かつて長門国赤間関壇ノ浦と呼ばれていた場所で、今から830年以上前の1185年3月24日、武家の二大勢力平家と源氏が激突しました。
源平合戦における最後の戦い・・・壇ノ浦の戦いです。

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一ノ谷の戦い、屋島の戦いと連勝し、平家を追い詰めた源氏軍!!
対して壇ノ浦での戦いを最後の砦とし、なんとか挽回しようと息巻く平家軍!!
戦いの結果は源氏が勝利し、兵士は滅亡していきました。

平氏にあらずんば人にあらず

とまで言わしめた平家の滅亡・・・いったい何があったのでしょうか?

平安時代末期・・・1181年、平清盛死去。
知行国30カ国と全国の半分ほどをその市中に治めていた平家の力が、衰えを見せ始めます。
清盛の三男・宗盛が父の後を継ぎますが・・・平家は源氏によって京都から追放されてしまいました。
源氏を束ねる源頼朝が、更なる平家追撃を命じたのが、弟の範頼と義経でした。
中でも義経は、兄の期待に応えるべく破竹の勢いで進撃!!
摂津国・一の谷の戦いで、鵯越の逆落としとして有名な奇襲により、平家に大打撃を与えます。
それにより、平家はさらに西国へ敗走。
しかし、あきらめたわけではありませんでした。
一緒に連れてきた清盛の孫でもある安徳天皇と天皇の象徴である三種の神器を持っていたからです。
それが平家の切り札でした。
当時は、天皇と三種の神器を押さえておけば、新たな天皇を即位させることはでいないことになっていました。
平家は天皇の権威を後ろ盾にして復活を考えていました。
宗盛は、九州で勢力を盛り返し、京都奪還を狙っていました。
逆転を狙う平家でしたが、一の谷の戦いの翌年・・・1185年2月。
逃れていた讃岐国・屋島で源氏軍を迎え撃つも、またもや義経の奇襲によって平家軍は大敗を喫してしまいました。
ただただ逃げるしかなくなった平家軍は、ついに最終決戦の場・壇ノ浦に追い詰められてしまいました。

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1185年2月1日・・・平家滅亡まであと53日。
屋島の戦いに敗れた平家軍は、瀬戸内海を転々とした後、長門国・赤間関壇ノ浦にある彦島に本陣を置きます。
前もって、平知盛が城を築いて傘下の水軍を集め、総司令官として源氏に備えていた場所だったからです。
そこは、平家にとって背水の陣でした。
平家は屋島から彦島に渡り、九州で体勢を立て直すのが理想でしたが、源氏の範頼に先回りされ、先に九州を押さえられてしまったのです。

そんな平家軍の起死回生の策は、多くの水軍を有し、得意だった海上戦!!船戦でした。
源氏の大将・源義経は、その平家軍の作戦を見抜いていたにもかかわらず、不安に駆られていました。
一ノ谷・屋島と目覚ましい戦果をあげてきた義経でしたが、そのどちらも陸上戦!!
騎馬軍団による奇襲作戦でした。
海上戦は一度も経験したことがありませんでした。
義経はすぐさま訓練を開始!!
1カ月をかけ、準備をしました。
この時の問題は、源氏に十分な船が揃っていないことでした。
そこで義経は、平家方についていた西国の海賊衆に交渉を持ち掛けます。

「この度の戦、もし加勢いたすならば、勝利の暁には高禄をもって取り立てよう!!」

すると、屋島の戦いの戦況を伝え聞いていた海賊衆の棟梁たちは、源氏に分があるとその誘いにのり、次々と水軍を率いて合流しました。
しかし、中には平家を裏切ることに躊躇している者も・・・!!
熊野別当・湛増です。
平家は瀬戸内海に勢力があり、熊野水軍とも仲が良かったのです。
鎌倉方は、湛増にとってはよくわからない集団でした。
悩む湛増が頼ったのは、熊野権現でした。
祈ったところ、白旗につけというお告げ・・・つまり、源氏に着けということです。
それでも湛増は、平家の恩を考えて態度を決められずにいました。
そこで今度は、赤い鶏と白い鶏それぞれ7羽を1羽ずつ出し合って神前で勝負をさせました。
結果は・・・赤い鶏は1羽も勝てず白い鶏が勝利しました。
意を決した湛増は、200艘の水軍を率いて源氏に合流しました。
こうして義経率いる源氏軍は、熊野水軍、渡辺水軍、伊予水軍などを味方につけ、およそ800艘の船団を編制。
白旗をなびかせ、彦島を目指して出発すると、周防国で範頼の軍勢と合流するのです。

「義経」愚将論 源平合戦に見る失敗の本質

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1185年3月23日・・・平家滅亡まであと1日。
源氏軍は、壇ノ浦の奥津・・・今の下関市長府沖にある干珠島・満珠島付近まで兵を進めると、兄・範頼軍は壇ノ浦近くの陸地に布陣!!
源氏軍の動きを知った平知盛率いる平家軍は、彦島を出発し関門海峡の東の出口に当たる田ノ浦付近に集結。
赤旗を掲げた500艘ほどの船団で、源氏を迎え討つべく待ち構えます。
相対する距離は、わずか300m!!

義経の戦略は・・・自らは海上から平家の拠点彦島に攻撃をかけ、退いたところを陸地から範頼軍が矢を射かけて攻撃・・・挟み撃ちにするというものでした。
平家物語によると、この後、双方相談の上、矢合わせの時刻を翌朝の午前6時と決めました。

当時の戦争はルールがありました。
そのルールにのっとって戦うのです。
軍師を交換して日時と場所を決め、決められた日に集まり戦争を始めていました。
氏文を読み、正当性を主張し、相手を糾弾・・・そしてやっと矢合わせ!!
しかし、戦が大規模化したことで、ルールを変更せざるを得なくなっていました。

義経、兄との決裂を生んだ壇ノ浦

1185年3月23日、壇ノ浦の戦い前夜・・・
いよいよ明日、平家との決戦という時に、義経の陣営でひと悶着が起きます。
きっかけとなったのは、軍監であった梶原景時の一言でした。

「此度の先陣は、この梶原にお任せください」by景時

「この義経がいなければのう・・・残念なことに、先陣はこのわしじゃ」by義経

「なんと仰せられる、殿は総大将でございます
 総大将が、先陣を務めるなど、効いたことがありません」by景時

「何を申すか、総大将は兄・頼朝・・・
 この義経は、軍の指揮を承ったまでのこと、よって先陣を務めても差しさわりあるまい」by義経

この言葉に、先陣を務めて手柄を立てたかった景時は、

「全く・・・この殿は、主君にはなれない器じゃ!!」by景時

「なに??そなたこそ、日本一の愚か者よ!!」by義経

売り言葉に買い言葉・・・一触即発のケンカになりかけます。
景時は、官僚として優秀でした。
頼朝の言うことをよく聞いて、頼朝のためにと思っていました。
義経と馬が合わない景時は、屋島の戦いの際も言い争いをしていました。
熱くなった二人を周囲が諌めます。

「明日の決戦を前に、同士討ちなどとはもってのほか
 鎌倉殿のお耳にでも入りましたら、ただではすみませぬぞ
 どうか、気を静めてくださいませ」

義経は、それは最もなことと怒りをといたため、どうにか事なきを得ました。

この後、景時は、義経の行動を頼朝に逐一報告をしています。
官僚としては当たり前なのかもしれませんが、結果として頼朝と義経の兄弟仲を裂き、義経失脚の原因を作ったのです。

(18)「壇ノ浦で舞った男」



運命の壇ノ浦開戦!!

1185年3月24日早朝。
源義経率いる船団およそ800艘と、平知盛率いる平家の船団500艘あまりが、長門国赤間が関壇ノ浦の海上でわずか300m距てて対峙します。
午前6時ごろ・・・戦闘開始の合図・矢合わせが行われました。
鏑矢が射られ・・・鬨の声が上がり、壇ノ浦の戦いが始まりました。
まずは矢戦!!
この時、源氏方で陸地から矢を射る役を担ったのが、和田義盛・・・坂東武者の鏡たる豪勇の士であり、弓矢の名手です。
放った矢に怯んだ平家軍に向かって挑発しました。

「その矢を射返してみよ」by義盛

平家軍には、この距離を射る武士はいないであろうとバカにしたのです。
そのケンカをかったのは、仁井親清。
射返すと、その矢は、和田義盛の後方にいた源氏の武士の腕に命中!!
和田に大恥をかかせることに成功しました。

しかし、これで終わりませんでした。
仁井親清は、大将・義経が乗った船にも矢を射かけると、和田を真似てさらに挑発してきたのです。

「その矢を射返してみよ」

源氏の面目をつぶされた義経は、怒りに震え、浅利与一に矢を射返すように命じます。
浅利与一は、那須与一、佐奈田与一と共に、三与一と呼ばれる弓の名手で、源平合戦でも数々の武功をあげていました。
この時も、仁井親清の胸を射抜き、源氏の面目を保ったのです。
この後、距離を詰め、両軍の戦闘は激しくなっていきます。
兵の数では劣る平家軍でしたが、得意の船戦であり、知盛には策がありました。
そもそも知盛が彦島に本拠を置いたのは、平家の強力な水軍を活かすため・・・
そして、関門海峡独特の早い潮の流れと干満の潮の流れの変化を熟知していました。
相手は、水軍を扱うことに不慣れな源氏・・・その潮の流れに乗って、一気に源氏を追い詰めようとしたのです。
その目論見通り、戦は平家軍有利に進んでいきます。

九州の山鹿秀遠や松浦党といった強い味方が付いていた平家軍は、500艘の船団を三手に分け、関門海峡特有の潮の速い流れに乗って攻め込もうとしていました。
そして・・・源氏方が狙うのは、三種の神器と安徳天皇!!
ならば、豪華な御座船目掛け、攻めてくるに違いない!!
そこで知盛は、安徳天皇ら身分の高いモノたちを兵船に乗せ、雑兵たちを豪華な御座船に乗せて囮にしました。
御座船にめがけてやってきた源氏の軍勢を包囲し、三方から矢を射かけて殲滅しようとしました。
戦いを前に知盛は、兵士たちを鼓舞します。

「戦はこの日が最後ぞ!!
 少しも退くな!!
 東国の者どもに弱気を見せるでないぞ!!」

3月24日午前・・・
潮の流れが変わる前に決着をつけたい知盛は、源氏軍側へと流れる潮に乗り攻めます。
まずは、第1陣が義経の船目掛け矢の集中攻撃を仕掛けます。
さすがの義経も、豪雨のように降り注ぐ矢を前に、手も足も出せず、満珠島まで押し戻されてしまいました。
3月24日昼頃・・・
このまま一気に戦を終わらせたい知盛は、味方を激励!!
太鼓をたたき、声を上げ、平家軍は攻め続けました。
と・・・その時!!
劣勢を強いられていた義経の頭上に、どこからともなく、白旗が舞い降りてきました。
白旗は、言うまでもなく源氏の旗!!

「八幡台菩薩が力をお与えになったのだ!!」by義経

義経は、これは吉兆だと喜び、手を合わせて拝みました。
一方、勝利を確信していた平家軍にも不思議なことが・・・
2000頭ものイルカの群れが、海底から湧き出たように接近してきました。
これは神のお告げ・・・と、総大将の宗盛は陰陽師に占わせます。
すると・・・
”イルカが折り返して源氏に向かえば平家の勝ち
 イルカがこのまま平家の船の下を通れば源氏の勝ちとなるでしょう”

それを聞いた知盛は、固唾をのんで見守りました。
しかし、願いもむなしくイルカはそのまま平家の船の下を通り抜けていきました。

「我らが負けると・・・??」

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平家、逆転勝利への誤算

「平家物語」の一節に・・・

”壇ノ浦は潮の流れが激しいところで、源氏の船はその潮に押され、平家の船は潮の流れに乗って攻めていた”

それが一転・・・潮の流れが源氏有利の西向きに変わったことで、それまで優勢だった平家が劣勢に!!
そのまま一気に源氏軍が平家軍を追い詰め滅亡させたと言われてきました。

しかし、この時の海は、ナギの状態でした。
以前は、潮の流れが変わったことで勝敗が決したと言われてきましたが、その説は、現在は重視されていません。

3月24日昼過ぎ・・・
このままでは平家に負ける・・・!!
そう考えた義経は、当時の常識では考えられない策に出ます。

「射るのは平家にあらず、水手を狙うのだ!!」by義経

非戦闘員である船の漕ぎ手を射るように命じました。

この頃の合戦は、戦闘員同士の戦いであり、武士同士の戦いでした。
舵取りを殺すという発想がなかったのです。
源平合戦以降、相手の馬を狙うなど、戦闘方法が変わりました。

兄・頼朝と誓った平家打倒のため、策を選ばなかった頼朝!!
しかし、平家にとっては、予想だにしない展開でした。
誤算でした。
漕ぎ手を次々に失っていった平家軍の船は、動くことができなくなり大混乱!!
そんな中、またもや誤算が生じます。
味方である民部重能の裏切りです。
重能は、平家軍の主力であった阿波水軍300艘を率いる武将でした。
形勢が逆転したとみると、源氏に寝返ったのです。
そして、御座船は囮で、安徳天皇は乗っていないと源氏方に伝えてしまいました。

「狙うは御座船にあらず!!」by義経

源氏軍が、一斉に安徳天皇の乗る兵船目掛けて押し寄せてきました。
すると、これに呼応するように四国・九州の兵たちが次々と平家方から離反!!
源氏軍の猛攻に、平家軍は海へと沈んでいきました。
船の漕ぎ手を狙うという掟破りの反撃と、味方の突如の裏切りによって、平家軍は追い込まれ壊滅状態となりました。
民部重能の裏切りは、義経が仕向けたことでした。
息子・教能が、人質として源氏方に捕まっていました。
平知盛は、裏切る可能性がある民部重能の殺害を、総大将の宗盛に進言していましたが、認められませんでした。
「やはりあの時、斬っていれば・・・」
そう思っても後の祭り・・・
敗北を悟った知盛は、船の上を掃き清め、覚悟を決めるように全軍に呼びかけます。
そして、安徳天皇やその母・建礼門院徳子、そして祖母の二位尼・時子の乗る船に移るとこう告げます。

「これから女官たちは、源氏の兵たちに襲われるであろう」

これを聞いた二位尼は、平家の敗北を察し、源氏に捕まるぐらいなら・・・と、死を決意!!
孫のまだ8歳の安徳天皇を抱き寄せ祈りを捧げるように伝えます。
言われるままに東は伊勢大神宮に、西は阿弥陀如来に向けて祈りをささげた安徳天皇は、こう聞きます。

「どこへつれて行くのか?」

「この波の下に、極楽浄土というめでたい都がございます
 お連れいたしましょう」by二位尼

そう言って、海に身を投げました。
幼い天皇は、祖母に抱かれ、海の中へと沈んでいきました。
この時、二位尼は、三種の神器のうち剣を腰にさし、勾玉を抱えていたと言われています。

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3月24日午後3時ごろ・・・
安徳天皇の母・建礼門院徳子も懐に石や硯を入れて錘とし、後を追うように飛び込みます。
しかし、すぐに源氏軍によって引き上げられ、囚われてしまいました。
その様子を見ていた女官たちや平家の武士たちも覚悟を決めます。
女官や武士たちは、錨や鎧をお守りとして次々と海に飛び込みました。
そんな中、ひとり気を吐く男がいました。
平家一の猛将・・・知盛の従兄弟・平教経です。

「お前の相手ができる源氏はおらん
 これ以上罪作りなことはするな」

そう、知盛に言われると、教経は、

「ならばせめて、義経を道連れにしよう!!」

そう言って、教経はなんと片手に大太刀、もう一方には薙刀を手に、源氏の船に乗り移ると、義経との一騎打ちに出ます。
あと少しのところまで追い詰めますが・・・

「かなわじ!!」

そう言って、義経は6mも離れた8艘先の味方の船へ!!
教経の猛攻をかわし逃げるのでした。
世にいう、義経の八艘飛びです。

義経に逃げられ、源氏軍に囲まれた教経は、もはやこれまでと覚悟を決めると、

「さあ、お前たち!!
 わしの死での旅の供をせい!!」

そう言って、源氏の大男2人を両脇に抱えて海に飛び込み、道連れにしました。
平家一の猛将・平教経・・・見事な散り際でした。

しかし、その一方で、生き恥を晒す武将もいました。
平家の棟梁で総大将の平宗盛です。
平家の頂点に立つ身でありながら、覚悟が決まらず、船の上を右往左往・・・逃げ回っていました。
その姿にあきれ果てた家臣たちは、後ろを通るふりをして、宗盛を海に突き落としてしまいます。
しかし、錘も着けておらず、海面でバタバタ・・・なかなか沈みませんでした。
すると宗盛は、あろうことか源氏によって引き上げられてしまいました。
その有様に、知盛は、

「なんと情けないこと!!
 どうして深くお沈みにならなかったのか!!」

敵に捕らえられて恥をさらすより、最期まで戦い潔く果てて平家の名を汚さぬことこそ知将・知盛の美学・・・

「見届けるものはすべて見届けた
 今、自害せん!!」

知将と言えども、武運が尽きれば力及ばず・・・!!
知盛は、自分の亡骸が浮かび上がって源氏から辱めを受けないようにと鎧を2領重ねて身につけ、海に飛び込みました。

3月24日、午後4時ごろ・・・壇ノ浦の戦いは源氏の勝利となり、孟き者・平家滅亡!!

海面には、平家の赤旗が無数に漂い、水際に寄せる波は赤色に染まっていきました。
戦場に最後まで踏みとどまり、栄華を誇った平家の終焉を最期までしかとその目で見届け、劇的に散っていった平知盛・・・見事な最期でした。

こうして源平合戦は終わりをつげ、時代は源氏のものに・・・!! 
しかし、源氏軍を率いた源義経は、壇ノ浦の戦いでヒーローとなったことが、兄頼朝との間に深い溝を作ることとなり、逃げた先の奥州・平泉で無念を抱えたまま自害し、果てるのです。
源平合戦最後の決戦・壇ノ浦の戦い・・・つぶさに見ていくと、家の為、忠義の為、意地の為に命を懸けて闘った武将たちのそれぞれの思いがよくわかります。

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有名な武将には、様々な伝説がつきものです。
中でも群を抜いて華やかなのが・・・
①山の中で天狗と武術の稽古
②京の五条大橋で襲い掛かる大男を宙を舞ってかわした
③海の上の戦では、敵の刃をよけて船から船へと八艘飛びを見せた
④モンゴルに渡ってチンギス・ハンとなった
その人の名は、源義経です。

平安時代の末、すい星のごとく現れたヒーロー・・・
その人生は、屈辱と栄光の繰り返しでした。



京都駅から北へ15キロ・・・深い山の中にある鞍馬寺・・・
源義経は、少年の頃、この寺に預けられました。
しかし、16歳の時、寺を飛び出し、平氏打倒に動き出します。
義経といえば、紅顔の美少年というイメージがありますが・・・これは、義経記からいわれたものです。
平家物語には、背が低く、色白、前歯が出ていると書かれています。
義経の幼少期は、謎に包まれた部分が多くあります。
平時物語によれば・・・

1159年、源義経・牛若丸は、京の武士の子として誕生。
母の常盤は、たぐいまれなる美女でした。
父は、源氏を束ねる統領・源義朝でした。
12歳年上の兄が、後に鎌倉幕府を開く源頼朝です。
義経が生まれたこの年、源氏を暗黒に突き落とす事件が起きます。
平時の乱です。
平安時代の末、京では朝廷内部の権力争いが起こっていました。
平氏の棟梁・平清盛と、源氏の棟梁・源義朝は、それぞれ対立する実力者について敵味方として戦いました。
勝ったのは、清盛率いる平氏でした。
敗れた父・義朝は、さらし首にされ、家族は離散します。
この戦が初陣だった頼朝は、伊豆へ流刑。
義経の母・常盤は平氏に捕まり、清盛の側室となりました。
その後平氏は、”平氏にあらずんば人にあらず”ともいわれるほど、栄華を極めることとなります。
義経は、7歳で鞍馬寺に預けられました。
平氏の策略で、義経は自分が源氏の血をひくものと知らなかったといいます。
寺での義経は、およそ坊主とは思えない暮らしぶりでした。
鞍馬山の木の根が地上には出だした木の根道・・・
ここで義経は足腰を鍛えて飛び回ります。
天狗に武術を教わったという伝説も残っています。
そして、夜な夜な町に降りては若者たちとケンカを繰り返していたといいます。
そんな義経でしたが、11歳の時に転機が訪れます。
ある時、源氏の系図を見つけた義経・・・
そこには、牛若の名が・・・!!
自分は源氏の一族だったのだ!!
この時義経は、寺で僧侶にはならず、父の敵討ちを決心したと言われています。

そして、16歳の時・・・
義経は、寺に出入りの商人に密かに頼み、脱出。
寺を抜け出した自分を、奥州・平泉に案内してくれと頼みます。
奥州は、平氏の手が及ばない場所だったからです。

「出家をせずに元服をしたいのだが、そうなれば平氏が問題にするであろうから、東国につれて行ってほしい」by義経

首尾よく寺を抜け出し、奥州に向かう途中・・・
義経は、太刀をはき、烏帽子をつけて自ら元服します。

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義経がたどり着いた奥州平泉は、中尊寺金色堂が建てられるなど、当時は京にも劣らぬ繁栄ぶりでした。
奥州を治めた藤原秀衡・・・彼の力の源は、この地で採られる金でした。
朝廷から自治を黙認されるほど、絶大な権力でした。
義経は、この地で4年ほど過ごしています。
しかし、何をしていたのか・・・詳しいことはわかっていません。

21歳の時、平家打倒のチャンスが訪れます。
兄の源頼朝が挙兵したのです。
頼朝は、伊豆に流刑となったのち、豪族・北条時政の監視下で暮らしていましたが、彼の娘・政子と結ばれ支援を受けました。
北条氏の後ろ盾を得て、頼朝は徐々に関東武士団を束ねる存在になろうとしていました。
頼朝挙兵の報せを聞いた義経は、平泉を発ち、兄のもとに・・・!!
静岡県清水町にある八幡神社・・・その境内には、対面石が残っています。
戦の為、頼朝はこの近くに陣を張っていました。
兄を訪ねた義経は、そこにある石に腰かけて、初めて対面したと言われています。

「奥州に下向して多年を送ってきました
 しかし、平氏打倒のために挙兵したと聞きまして、出てきました」

「先祖が兄弟で協力して敵を倒した話とよく似ている
 義経が来てくれ感動した」

こうして義経は、頼朝の軍に参加しました。
この時、22歳でした。

兄・頼朝と共に、平氏打倒を誓った義経・・・
しかし、頼朝はこの時すでに鎌倉を中心とする武士集団の棟梁・・・
朝廷に頼らない、新しい世を作ろうとしていました。
同じ平氏打倒を目指す兄弟でも、棟梁と家臣と、頼朝は考えていました。

頼朝のもとに来て3年・・・
1183年、24歳の時に義経初陣!!
しかし、相手は平氏ではありませんでした。
同じ源氏の木曽義仲でした。
義仲は、頼朝の従兄弟で無類の強者・・・戦いで負けた兵士を追いかけて上京し、ついには平氏を京から追い出しました。
しかし、京に入った義仲の軍勢は、素行が悪く、乱暴を働いたため、人々や朝廷の評判が悪かったのです。
そこで朝廷は、義仲を追い出すため関東で勢力を広げていた頼朝に助けを求めます。
命を受けた頼朝は、義経を京へと遠征・・・そこにはある思惑がありました。
義経の力量を推察することでした。
2万5000の兵を率いた義経は、この頃から戦における非情さを見せています。
京の手前の宇治川に差し掛かった時・・・
敵によって橋が壊され、兵を進めることができません。
歩いて渡ろうにも川岸が狭く、しかも渡りやすい場所には住民の家が建っており大軍は進めない・・・
そこで義経は、こう命じました。

「邪魔な民家を焼き払ってしまえ」

火をかける前に、住民に声をかけましたが、誰も外には出てこない・・・
構わず、義経は火をかけ、兵を進めたといいます。
こうして京へと進んだ義経は、木曽義仲を打ち破り、都から追い払いました。
都に入った義経の兵たちは、規律正しく紳士的だったと言われています。
それから間もなく、頼朝から新たな命令が・・・

「平氏を討伐せよ」

ついに、宿敵と相まみえる時が来ました。



当時の平氏は、棟梁の清盛が病死。
息子の宗盛が後継者となっていました。
京を追われた平氏は、福原・・・現在の神戸で、体制の立て直しを図ります。
福原は、瀬戸内海交通の要衝で、平氏は以前から中国・宋との貿易拠点としてこの港を整備していました。
さらに、清盛の孫である安徳天皇を京から福原に連れ出します。
その時、三種の神器も持ち出しました。
福原には、平氏と朝廷の意向が健在でした。
平氏が勢いを取り戻す前に打つべし・・・
1184年、25歳の時、軍を率いて京を出発。
平氏は、本拠地福原を守るため、東西に強固な防衛線を築いていました。
その為、源氏の軍は、東西に分かれます。
義経は山側から西の防衛線・・・一の谷に向かいました。
一の谷は、瀬戸内海に面し、後ろに断崖絶壁を背負った天然の要塞でした。
侵入経路が限られるため、非常に攻めづらい・・・

一の谷の合戦・・・義経は、山の上に!!
奇襲を仕掛けます・・・鵯越の逆落としです。
どうして山の上を選んだのでしょうか??
義経は、いくつかの西海合戦には必ず、現地案内人を見つけながら対応していました。
平家物語によると、義経は、鷲尾義久という地元の漁師に、崖への案内を頼んでいました。
そして、鹿が崖を下ると聞くと・・・

「馬を下らせてみよう、義経を手本とせよ!!」by義経

こう叫んだ義経を先頭に、70騎余りが崖をくだり、奇襲を仕掛けました。
平氏はこの時、源氏の攻撃は西の平地から来ると想定し、裏の守りは薄かったのです。
予期せぬ攻撃に、平氏の陣は大混乱!!
義経が混乱に乗じて火を放つと、平氏は総崩れとなりました。
こうして、一の谷の合戦に勝利した義経は、一躍その名を轟かせることになりました。
この時、26歳!!

一の谷の合戦に敗れた平氏は、西へと撤退します。
瀬戸内海の各地に拠点があったからです。
水軍を主力とする平氏にとって、海での戦は圧倒的有利でもありました。
一方、源氏の主力は騎馬隊を中心とした陸の戦力・・・海での戦いの経験も乏しかったのです。
しかし、義経は、勝利をかさね、平氏を追い詰めていきます。

一の谷の合戦に勝利し、京に凱旋した義経・・・
時の権力者・後白河上皇は、義経を大いに讃えます。
義経は、1184年8月に検非違使に任官。
しかし、このことが、頼朝を激怒させました。
義経は、頼朝に無断で、役職と官位を授かったからです。
官職と、位階は、間に朝廷が介入する余地を与えてしまいます。
頼朝は、官位につく際には、自分が値するかどうか決めて要請するとしていたのです。
義経は、平家追討の任務から外され、京に留まることとなります。



義経は、ひとりの女性と出会います。
静御前です。
静御前は、白拍子という舞の名手でした。
そのうえ、評判の美人・・・
義経は、静かと愛し合うようになります。
平氏追討から外されたことで、幸せな生活を掴んだのです。

その頃、平氏は屋島に本拠を構えていました。
頼朝は、中国地方と九州の平氏勢力を先に攻め、屋島の平氏を孤立させるという計画を描いていました。
しかし、九州方面への長い進軍の途中で兵糧が不足・・・
兵士の指揮も下がり、遠征は失敗・・・
作戦の立て直しを迫られます。
そこで、義経に白羽の矢が経ったのです。
義経は、屋島を攻略せよと命を受けましたが・・・
屋島は、難攻不落の海の要塞でした。
当時の屋島は、周囲を海に囲まれた島でした。
高い山から瀬戸内海を一望できるため、義経たちが船で近づけばすぐに見つかってしまう・・・
運よく接近で来ても、入り組んだ海岸線に隠してある平氏の船から背後を狙われやられてしまう・・・!!
屋島をどう攻略するのか??
ある男が口を開きました。
兄・頼朝の腹心で軍に帯同していた、梶原景時です。

「船に逆櫓をつけ、いざという時に後ろにも逃げられるようにすべきでしょう」by景時

義経は、この案が気に入りませんでした。

「逃げ支度をしての出陣など、縁起が悪い・・・」by義経

 それを聞いた景時は、さらにこう言い放ちました。

「ただ責めるだけでは、前に進むだけの猪武者と同じではないか」by景時

「猪か鹿かは知らないが、戦はひたすら攻めに攻め、勝つことこそ重要だ」by義経

軍議にしびれを切らした義経は、わずか150騎の手勢を連れて、出陣します。
大坂湾に出た義経は、屋島のある西に行かず、屋島の春か南東・・・現在の徳島県の勝浦に上陸。
陸路を通り、平氏の警戒網にかからないようにしました。
しかし、四国へ渡るときに、運悪く天候が悪化・・・
それでも義経は、嵐の中、船を出せと命令しました。
上陸した義経は、海からの攻撃を意識していた平氏の裏をかき、陸側から一気に攻めます。



1182年2月、屋島の戦い・・・
平氏はまたも総崩れとなり、逃げる平氏を追撃した義経は、3日間で屋島を陥落させました。
屋島を失った平氏は、さらに西へと逃げていきます。
義経はこれを負い、壇ノ浦で兵士との最終決戦を迎えます。
壇ノ浦の戦いを前に、義経は頼朝から二つの指示を受けていました。

①天皇を安全に迎えるべし
②三種の神器を無事に取り返すべし

1185年3月24日、壇ノ浦の戦い・・・

源氏軍と平氏軍は、ついに激突!!
壇ノ浦は、潮の流れが速く変化が激しいことで知られていました。
平氏は、この潮の流れをよく知っていました。
午前9時・・・開戦。
平氏軍は、潮の流れに乗り、あっという間に源氏の船に近づくと矢を射かけました。
鮮やかな先制攻撃です。
源氏は思うように動けず、圧倒されました。
しかし・・・やがて形勢が逆転します。
午後になると、潮の流れが180度変わったのです。
西へ流れる潮に乗り、攻勢を仕掛ける源氏軍!!
義経はここで、ある作戦を実行します。
船を操る水夫に矢を射かけたのです。
船のコントロールを失った平氏軍は、反撃の矢が打てない・・・!!
さらに、平氏にとって最悪のことが起きます。
味方の水軍が、平氏を裏切りだしたのです。
義経が、彼らの家族を人質に取っていたからです。
もはや、勝敗は決したも同じ・・・!!
しかし、ここで義経の想定外の事件が起きます。
まだ8歳の安徳天皇が、祖母に抱えられ海の中に身を投げたのです。
そして、三種の神器のひとつ・・・草薙剣も海に沈んでしまいました。
やがて、残った平氏の武士たちも海に身を投げ、栄華を誇った平氏はついに滅亡しました。
義経・・・この時、27歳。

1185年4月、平氏を倒し京に凱旋。
義経は、名実ともに都の英雄となりました。
5月・・・戦勝報告のために、鎌倉に向かいますが・・・
手前の小田原で足止めを食らいます。
頼朝の使者が、”鎌倉に入らずその場に止まれ”と伝えたのです。
頼朝が与えた2つの指示・・・
天皇を連れ帰るべし、三種の神器を持ち帰るべし・・・これを義経が守れなかったため、頼朝が起こったからだと言われています。
加えて義経は、またもや頼朝に無断で後白河上皇から重要な役職を授かっていました。
”御厩司”・・・後白河上皇の軍馬を管理する親衛隊長ともいうべき役職です。
頼朝にとって、後白河上皇と義経の接近は、由々しき事態でした。
何故なら、頼朝はこの時、朝廷から自立した武士による新たな政権を作ろうとしていたからです。

頼朝の義経の印象をさらに悪くしたのは、義経と行動を共にしていた頼朝の腹心・梶原景時からの訴えでした。

「義経殿は、頼朝公の代理として御家人たちを与えられ、戦をしてきたにもかかわらず、しきりに自分の手柄だとばかり考えております
 兵士を討ち滅ぼした後の義経公の様子といえば、これまで以上に傲慢なため、みな、危険を感じております」by景時

鎌倉の満福寺・・・
ここに、義経が頼朝にあてた手紙が残されています。

”賞されるべきところを 思わぬ讒言によって 計り知れない功績が無視されることとなり
 私は罪深くして罰を受け 功績こそあっても誤りはないのに お怒りを買ってしまい
 むなしく涙に暮れています”

しかし、その思いは頼朝には届かず、京に戻るようにと命が下るのでした。

1185年10月・・・兄弟の仲を決定的に引き裂く出来事が・・・
京に戻った義経は、頼朝の刺客に襲われます。
かろうじて難を逃れた義経でしたが、ついに頼朝と戦うことを決意します。
義経は、後白河上皇に訴えます。

「頼朝追討の宣旨を賜り、一矢を射たいと思います」by義経

渋る上皇でしたが、度重なる義経の催促に・・・義経の離反を恐れてとうとう・・・
10月、頼朝追討の宣旨を得ます。
これを受け、義経は、打倒頼朝の仲間を募ります。
しかし・・・朝廷の宣旨を得たにもかかわらず、義経の軍に参加するものはいませんでした。

義経に味方しても、最終的に恩賞がどういう形で自分たちの手に入るかという不安定さがあり、義経は個人プレイヤーとして力は強いけれど、その先が見えない・・・

11月、義経は、京を出て逃亡生活に入ります。
長い逃亡生活の始まりでした。
義経が今日から脱出したと聞くと、頼朝は後白河上皇に義経追討の宣旨を要請しました。
さらに頼朝は、義経討伐を理由に、上皇に守護・地頭を全国に配置することを認めさせます。
頼朝は、各地に兵を置き、そこで米を徴収することに成功。
近年ではこの1185年を鎌倉幕府の成立とする研究者も多くいます。

奈良県吉野山・・・ここは、義経の潜伏先でした。
山の中腹にある吉水神社には、義経と静が暮らした部屋が残されています。
しかし、吉野にも追手が迫り、一行はわずか5日間の滞在で去っています。
身の危険を感じた義経は、静御前と別れます。
やがて静は、吉野で捕らえられ、頼朝の厳しい尋問を受けることとなります。
この後も、義経の逃亡生活は2年も続きました。

1187年2月・・・かつて青年時代を過ごした奥州・平泉に向かいます。
義経には、もはや、若き日の自分を保護してくれた藤原秀衡を頼るしかありませんでした。
しかし、平泉での生活も長くは続きません・・・

1187年10月、藤原秀衡死去。
義経、29歳の時でした。
秀衡の死を知った頼朝は、朝廷に義経のみならず、秀衡の息子・藤原泰衡を討伐する宣旨を求めます。

1189年閏4月、藤原泰衡の裏切りで、義経は襲われます。
義経たちは必至に戦ったものの、やがて力尽きました。
1189年閏4月30日・・・源義経自害・・・享年31歳でした。

1189年9月、奥州藤原氏滅亡・・・
義経をかくまった罪で、頼朝は奥州に進軍!!
100年の栄華を極めた奥州藤原氏を滅ぼしたのです。
1192年7月、頼朝は朝廷から武士の最高職・征夷大将軍に任じられました。
義経の死から3年後のことでした。

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山口県下関市関門海峡・・・かつて長門国赤間関壇ノ浦と呼ばれていたこの場所で、1185年3月24日、平家と源氏が激突しました。
源平合戦の最後の戦・・・壇ノ浦の戦いです。

一の谷の戦い→屋島の戦い→壇ノ浦の戦い・・・
滅亡のその日、いったい何があったのでしょうか??

平安時代末期、奢れるものも久しからずの言葉通り、棟梁の平清盛が亡くなると、知行国30か国と全国の半分ほどを手中に収めていた平家の力が衰えを見せ始めます。
清盛の三男・宗盛が父の跡を継ぎましたが・・・平家打倒に立ち上がった源氏によって京都から追い出されてしまいます。
源氏を束ねる源頼朝が、更なる平家追討を命じたのが弟の範頼と義経でした。
中でも義経は、兄の期待に応えるべく、破竹の勢いで進撃!!
摂津国・一の谷の戦いで鵯越の逆落としとして有名な奇襲によって平家に大打撃を与えます。
それによって平家はさらに西国へと敗走・・・しかし、あきらめてはいませんでした。
一緒につれてきた清盛の孫でもある安徳天皇と、天皇の象徴である三種の神器を持っていたからです。
それが平家の切り札でした。
天皇と三種の神器を押さえておけば、新たな天皇を即位させることはできないことになっていました。
宗盛は、九州で勢力を盛り返し、京都奪還を狙っていました。

逆転を狙う平家でしたが、一の谷の戦いの翌年・・・1185年2月。
逃れていた屋島で、源氏軍を迎え撃つもまたもや義経の奇襲によって大敗を喫してしまいます。
ただただ逃げるしかなくなった平家は、壇ノ浦まで追い詰められてしまいます。



2月1日・・・平家滅亡まであと53日。
屋島の戦いに敗れた平家は、瀬戸内海を転々とした後、長門国赤間関壇ノ浦にある彦島に本陣を置きます。
前もって平知盛が城を築いて傘下の水軍を集め、源氏との戦いに備えていた場所だったからです。
そこは、平家にとってまさに背水の陣でした。
本当ならば、平家は屋島から彦島に渡り、九州で体制を立て直すのが理想でした。
しかし、源氏の範頼に先回りされ、先に九州を押さえられてしまったのです。
そんな平家軍の起死回生の策は、多くの水軍を有し、得意だった船戦でした。

源氏の大将・義経は、その平家の作戦を見抜いていたにもかかわらず、不安に駆られていました。
一の谷、屋島・・・どちらも地上戦の騎馬軍団の奇襲でした。
海上戦は一度も経験していませんでした。
義経は、すぐさま会場訓練を開始、1か月かけて初めての海上戦の準備をしていきます。
さらに、義経は戦力強化のために・・・
この時、源氏に十分な船が揃っていませんでした。
そこで、義経は、平家方についていた西国の海賊衆にこんな交渉を持ち掛けます。

「こたびの戦、もし加勢いたすならば勝利の暁には俸禄をもって取り立てよう」by義経

すると、屋島の戦いの戦況を伝え聞いていた海賊衆の棟梁たちは、源氏に分があるとその誘いにのり、次々と水軍を率いて合流しました。
俸禄を餌に、平家方の水軍を寝返らせて味方にすることで、源氏方の兵力を強化したのです。
しかし、中には平家を裏切ることに躊躇している者もいました。
紀伊国・熊野水軍を率いていた別当の湛増です。
平家は、瀬戸内海に勢力があり、熊野水軍との親しい関係にありました。
鎌倉方は、湛増にとってはよくわからない集団でした。

悩む湛増が頼ったのが、熊野権現でした。
祈ったところ、白幡につけというお告げが・・・白幡・・・つまり、源氏です。
それでも湛増は、これまでの平家からの恩を考えると、態度を決められずにいました。
そこで今度は、赤い鶏と白い鶏をそれぞれ7羽・・・1羽ずつ出し合って神前で勝負をさせました。
結果は、赤い鶏は一度も勝てずに城の完勝でした。
意を決した湛増は、200艘の水軍を率いて源氏に合流します。

こうして、義経率いる源氏軍は、熊野水軍・渡辺水軍・伊予水軍などを味方につけ、およそ800艘の船団を編成しました。
白幡をなびかせ彦島を目指すと、周防国で兄・範頼の軍勢と合流するのです。

3月23日、平家滅亡まであと1日・・・
源氏軍は壇ノ浦の奥津にある満珠島・干珠島まで兵を進めると、兄の範頼軍は壇ノ浦近くの陸地に布陣・・・。
源氏軍の動きを知った平家軍は、彦島を出発し、関門海峡の東の出口に当たる田ノ浦辺りに集結・・・赤旗を掲げた500艘あまりの水軍で待ち構えます。
相対する距離は、わずか300m・・・義経の戦略は、自らは海上から彦島に攻撃をかけ、退いたところを陸地から範頼軍が矢を射かけて攻撃、挟み撃ちにするという者でした。
平家物語によると、こののち、双方相談の上、戦の開始を意味する矢合わせの時刻を翌朝の午前6時ごろと決めました。
当時の武士たちの戦争は、ルールがありました。
そのルールに従って戦います。
軍師を交換して日時と場所を決め、決められた日に集まり戦争をはじめていました。
源平の合戦は全国規模の戦いで、日本史上初めてのことでした。
それまでの合戦のルールが、現実に合わなくなってきていました。
戦が大規模化したことで、ルールを変更せざるをえなくなってきていたのです。

1185年3月23日・・・壇ノ浦の戦いの前夜・・・
いよいよ明日平家との決戦という時に、義経の陣営でひと悶着が起こりました。
きっかけとなったのは、軍監の梶原景時の一言でした。

「此度の先陣は、梶原にお任せください」by景時

「この義経がいなければのう・・・残念なことに、先陣はこのわしじゃ!!」by義経

「なんと・・・仰せられる
 殿は総大将でございます
 総大将が先陣を務めるなど、聞いたことがありませぬ」by景時

「何を申す!!
 総大将は兄頼朝、この義経は軍の指揮を承っただけの事。
 故に、先陣を務めても差しさわりあるまい・・・!!」by義経

この言葉に、先陣で手柄を立てたかった梶原は、
「全く、この殿は生まれつき主君にはなれぬ器じゃ・・・!!」by景時

「そなたこそ、日の本一の愚か者よ!!」by義経

売り言葉に買い言葉で一触即発になりかけます。
梶原景時は、相模国の武士で、京都にも詳しく官僚として優秀でした。
屋島の戦いの際も、言い争いをして、これが初めてではありませんでした。
熱くなった二人を周囲はこう諌めます。

「明日の決戦を前に同士討ちなどとはもってのほか
 鎌倉殿のお耳にでも入りましたらタダではすみませぬぞ 
 どうか気を静めてくださいませ」

義経は、それは最もなことと、怒りをといたためどうにか事なきを得ました。

この後も、景時は義経の行動を頼朝に逐一報告しています。
結果として頼朝と義経の兄弟仲を裂き、義経の失脚の原因を作ったのです。

3月24日早朝、壇ノ浦の戦い早朝!!
源義経率いる船団800VS平知盛率いる500が、壇ノ浦で300mを隔てて対峙!!
そして、いよいよ合戦取り決めの時刻です。
戦闘開始の合図・矢合わせが行われました。
鏑矢が射られ、敵方もそれに応え鏑矢を飛ばします。
鬨の声が上がり、壇ノ浦の戦いが始まりました。
まずは矢戦!!
源氏方の陸地から矢を仕掛ける役目を担ったのが、和田義盛でした。
坂東武者の鏡たる豪勇の士であり、弓矢の名手です。
放った矢にひるんだ平家軍に向かって、こう挑発しました。

「その矢を射返してみよ!!」

平家軍には、この距離を射る武士はいないであろうとバカにしたのです。
この喧嘩を買ったのは、平家方の仁井親清でした。

「その矢、わたくしめがもらいます」

そう言って射返すと、矢は和田義盛の後方にいた武士の左腕に命中しました。
和田に大恥をかかせることに成功するのです。
しかし、これで終わりではありませんでした。
仁井親清は、義経が乗った船にも矢を射かけると、和田をまねてさらに挑発してきます。

「その矢を射返してみよ!!」

源氏の面目を潰された義経は、怒りに震え浅利与一に矢を射返すよう命じました。
与一は、屋島の戦いでも平家方の小舟の上に立てられた的を射った弓の名手です。
この時も、仁井親清の胸を射抜き、源氏の面目を保ったのです。
こののち、両軍つめて戦いは激しくなっていきます。
兵の数では劣る平家軍でしたが、得意の船戦であり平知盛には策がありました。
そもそも知盛が広島に本拠を置いたのは、平家の強力な水軍を活かすためでした。
そして、関門海峡独特の早い潮の流れと干満の潮の流れの変化を熟知していたのです。
相手は、水軍を操ることに不慣れな源氏・・・その潮の流れに乗って、一気に源氏を追い詰めようとしました。
その目論見通り、戦は平家軍優勢で進んでいきます。



源平合戦最後の戦い・・・壇ノ浦の戦い・・・
源氏の大将・源義経の策は、平家方だった西国の海賊衆を味方につけ強化した水軍で、海上から平家の拠点・彦島に向けて正面攻撃を仕掛け、退く平家の背後から、兄・範頼軍がつくという挟み撃ち作戦でした。
対して平家を率いる平知盛軍は、得意とする海上戦を優位に進めるべく・・・
九州の山鹿秀遠や松浦党といった強い味方がついていた平家軍は、500艘の船団を三手に分け関門海峡特有の早い潮の流れに乗って、一気に攻め込もうというのです。
そして・・・源氏方が狙う安徳天皇&三種の神器・・・ならば、豪華な御座船目掛け攻めてくるに違いない・・・!!
そこで、知盛は、安徳天皇ら身分の高い者たちを兵船に乗せ、雑兵たちを豪華な御座船にのせて囮としました。
知盛の策は、囮となった御座船に襲い掛かってきた源氏の軍勢を包囲し、三方から矢を射かけてせん滅しようというものでした。
戦いを前に知盛は、兵士たちをこう鼓舞します。

「戦はこの日が最後ぞ!!
 少しも退くな!!
 東国の者どもに、弱気を見せるでないぞ!!」by知盛

3月24日午前・・・
潮の流れが変わる前に決着をつけたい知盛は、源氏軍側に流れる潮にのり攻め込みました。
まずは、第1陣が義経の船目掛け矢の集中攻撃を仕掛けます。
流石の義経も、降り注ぐ矢を前に、手も足も出せず満珠島まで下がります。
3月24日昼頃・・・
このまま一気に戦を終わらせたい知盛は、味方を激励!!
太鼓をたたき声をあげ、平家軍は攻め続けました。

と、その時・・・!!
劣勢を強いられていた義経の頭上に、どこからともなく白旗がひらひらと舞い降りてきたのです。
白旗は、言うまでもなく源氏の旗・・・!!

「これは、源氏の守護神、八幡大菩薩が出現され、源氏に力をお与えになったのだ・・・!!」by義経

義経は、これは吉兆だと喜んで手をあわせました。
一方、勝利を確信していた平家軍にも不思議なことが・・・
2千頭ものイルカの群れが、海底から湧き出たように接近してきました。
これは神のお告げ・・・と、総大将・平宗盛は、陰陽師に占わせます。
すると・・・

「イルカが手前で折り返し源氏に向かえば平家の勝ち
 イルカがこのまま平家の船の下を通れば源氏の勝ち
 となるでしょう」

それをきいた知盛は、固唾をのんで見守りました。
しかし、願いもむなしくイルカはそのまま平家の船の下を過ぎて行ったのです。

「平家物語」にこんな一説があります。

”壇ノ浦は潮の流れが激しいところで、源氏の船はその潮の流れに圧され、平家の船は潮の流れに乗り攻めていた
 それが一転、潮の流れが源氏有利の西向きに代わったことで、それまで優勢だった平家が劣勢に・・・そのまま一気に圧されて平家軍は滅亡した”

しかし、壇ノ浦の時、海はなぎの状態でした。
以前は、潮の流れが変わったことで勝敗が決したといわれていましたが、その説は現在は重視されていません。

3月24日昼過ぎ・・・
このままでは平家に負ける・・・そう考えた義経は、当時の常識では考えられない策に出ます。

「射るのは平家にあらず、水手を狙うのだ!!」

なんと、非戦闘員である船の漕ぎ手を射るように命じたのです。
この頃の合戦は、戦闘員同士の戦いでした。
舵取りを殺すという発想がありませんでした。
源平合戦以降、相手の馬を狙うなど、戦闘方法が変わっていきます。

兄頼朝と誓った打倒平家の為、策を選ばなかった源氏の義経、一方平家にとっては掟破りの策という予想だにしていない展開・・・!!
誤算でした。
漕ぎ手を次々と失っていった平家軍の船は、動くことができなくなって大混乱!!
そんな中、またも誤算が生じます。
味方である阿波水軍の武将・民部重能の裏切りです。
重能は平家軍の主力だった阿波水軍300艘を率いる武将でした。
形勢が逆転するとみると、源氏に寝返ったのです。
そして、御座船は囮で安徳天皇は乗っていないと源氏方に伝えてしまいます。

「狙うは、御座船にあらず!!」by義経

源氏軍が、一斉に安徳天皇の乗る兵船目掛けて漕ぎ出しました。
すると、これに呼応するように四国・九州の兵も平家方から離反・・・!!
源氏軍の猛攻に、平家軍は海へと沈んでいきました。
船の漕ぎ手を狙うという義経の掟破りの反撃と、味方の裏切りによって、平家軍は追い込まれて壊滅状態となりました。
民部重能の裏切りは、義経が仕向けたことでした。
この時、重能の子供・教能が、人質として源氏方につかまっていました。
このことを、平家方は知っていました。
知盛は、裏切る可能性がある民部重能の殺害を総大将の宗盛に進言しましたが、認められていませんでした。

「やはりあの時斬っていれば・・・!!」

敗北を悟った知盛は、船の上を掃き清め、覚悟を決めるように全軍に呼びかけます。
そして、安徳天皇は、建礼門院徳子、二位尼時子の乗る船に移るとこう告げるのです。

「これから女官たちは源氏の兵たちに襲われるであろう」

これを聞いた二位尼は、平家の敗北を察し、源氏に捕まるのならと死を決意!!
孫であるまだ8才だった安徳天皇を抱き寄せ祈りを勧めます。
言われるがままに東は伊勢大神宮に、西は阿弥陀如来に向かって祈りを捧げた安徳天皇は、こう聞きます。

「どこへつれていくのか?」
「この波の下に極楽浄土というめでたい都がございます
 お連れいたしましょう」

そう言って、海に身を投げました。
幼い天皇は、祖母に抱かれ海の中へと沈んでいきました。
この時、二位尼は、三種の神器のうち剣を腰に差し、勾玉を抱えていたといわれています。

3月24日午後3時・・・
平家軍の敗北が決定的となり、平清盛の妻だった二位尼時子と安徳天皇は海へと身を投げました。
安徳天皇の生母・建礼門院徳子も懐に石や硯を入れて錘とし、後を追うように飛び込みました。
しかし、すぐ源氏軍によって引き上げられ、とらわれてしまうのです。
その様子を見ていた女官たちや平家の武士たちも覚悟を決めます。
女官や武士たちは、錨や鎧を錘として次々と海に飛び込みました。
そんな中、ひとり気を吐く男がいました。
知盛の従兄弟で平家一の猛将・平教経です。
 
「せめて義経を道連れにしよう!!」by教経

そう言って、教経は、なんと片手に大太刀、もう一方にはなぎなたを持ち、源氏の船に乗り移ると、義経との一騎打ちに出ます。
あと少しのところまで追い詰めますが、かなわないと見るや義経は6mも離れた八艘先の味方の船に・・・!!
教経の猛攻を避けました。
世にいう義経の八艘飛びです。
義経に逃げられ、源氏軍に囲まれた教経は、もはやこれまでと覚悟を決めると・・・
源氏の大男2人を両脇に抱えて海に飛び込み道連れにしました。
平家一の猛将・平教経・・・見事な散り際でした。

しかし、一方で、生き恥をさらす武将も・・・平家の棟梁で総大将の平宗盛です。
平家の頂点に立つ身でありながら、覚悟が決まらず、船の上を右往左往逃げ回っていました。
その姿にあきれ果てた家臣たちは、後ろを通るふりをして、宗盛を海に突き落としてしまいます。
しかし、錘も着けておらず、海面をバタバタ・・・すると宗盛は、あろうことか源氏によって引き上げられてしまいました。
その有様に、知盛は、

「なんと情けないこと、どうして深くお沈みにならなかったのか・・・!!」

敵に捕らえられて恥をさらすより、最期まで戦い抜き、潔く平家の名を汚さぬことが美学・・・!!

「見届けるべきものはすべて見届けた
 今、自害せん!!」

知将といえども武運尽きれば力及ばず・・・知盛は、自分の亡骸が浮かび上がって辱めを受けないよう、鎧を二領重ねて海に飛び込みました。



3月24日午後4時・・・
こうして、源平最後の合戦・壇ノ浦の戦いは、源氏の勝利となり、ここに猛き者・平家は滅亡しました。

海面には平家の赤旗が無数に漂い水際の波は赤色に染まっていた・・・
平家物語にはそう書かれています。
最期まで踏みとどまり、栄華を誇った平家の終焉をしかとその目で見届け、劇的に散っていった平知盛・・・
見事な最期でした。
こうして源平合戦は終わりをつげ、時代は源氏のものに・・・
しかし、源氏軍を率いた源義経は、壇ノ浦の戦いでヒーローとなったことが逆に兄頼朝との間に深い溝を作ることになり、逃げた先の奥州平泉で無念を抱えたまま自害し果てるのです。
源平合戦最後の壇ノ浦の戦い・・・家の為、忠義の為、意地の為に命を懸け戦った武将たちのそれぞれの思いがよくわかります。

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鎌倉で長い歴史を誇る鶴岡八幡宮・・・
この境内に、雄々しく凛とした社があります。
白旗神社・・・祀られているのは、鎌倉で日本初の武家政権・鎌倉幕府を開いた源頼朝です。
武家の頂点を極めた頼朝・・・その人生はまさに波乱万丈でした。
どうして流人から将軍になれたのでしょうか・・・??

流人から武士の頂点となった源頼朝・・・どうやってそこに至ったのでしょうか??

①1159年 平治の乱

1143年、頼朝は源氏を束ねる武家の棟梁源義朝の子として京の都で生まれたと言われています。
三男でしたが、嫡男として育てられます。
それは、母親の家が名門貴族の藤原家の血をひき、熱田神宮の宮司をしていたことで、二人の兄の母より家柄や地位が高かったからです。
血筋に恵まれたこと、父・義朝が後白河上皇の近臣・藤原信頼の信頼を得ていたこともあって、頼朝はわずか12歳で後白河上皇の姉・上西門院統子に仕えることになります。
その翌年の1159年、蔵人に就任・・・宮中の全ての事務、行事に関する職で、出世の登竜門でした。
そして、同じ年、頼朝は13歳で初陣を果たします。
それが平治の乱!!
父・義朝が、朝廷の実権を握ろうとした藤原信頼と共に起こした内乱です。
武家のライバル平清盛が熊野詣で京の都を留守にしていたすきに、後白河法皇の屋敷を襲撃・・・
上皇とその息子である二条天皇を幽閉したのです。
このクーデターにより、父・義朝は受領の最高峰の播磨守に・・・
初陣を飾った頼朝は、右兵衛権之佐になりました。
これは、源氏にとって大きな意味を持っていました。

右兵衛権佐は、朝廷の有力者の子弟が任命される地位で、官位が四位以上の者が命じられることが多かったのです。
当時まだ従五位下であった頼朝が命じられたことは、源氏の家柄が非常に上昇していたことを表しています。
父・義朝たちの目論見は、うまくいったはずでした。
ところが・・・クーデターを知った清盛が、急遽京の都に戻ってきました。
清盛の挙兵によって、後白河法皇と二条天皇が脱出・・・
これによって、義朝たちは一変・・・賊軍となってしまいました。
そして、清盛の武力の前に惨敗・・・父・義朝は敗走中に謀殺されます。
父とはぐれた頼朝は・・・??
平家方に捕らえられてしまいました。
元服していれば処刑される・・・頼朝も、その例にもれず処刑されるはずでした。

清盛の母である池禅尼が亡くした子供に似ているからと命乞いをしたと言われていますが、元服して戦に臨んだ敗軍の武士が処刑されることを武士の妻である池禅尼が理解できないはずはありません。
亡くした子供に似ているから・・・ではなく、頼朝の助命嘆願は圧力をかけられていたからです。
その圧力とは・・・上西門院統子と後白河法皇でした。
頼朝の母の一族に助命を懇願されたので、池禅尼に圧力をかけたのだと思われます。

1160年3月11日、頼朝は京の都を追われ、伊豆の伊東に流されます。
その身は、平家方の有力豪族・伊東祐親の監視下におかれるも、ある程度の自由は認められていました。
損なる人生活が十数年続いた頃・・・
頼朝は伊東祐親が上洛している間に、祐親の娘・八重姫と恋仲になり、男の子・千鶴丸を設けてしまったのです。
これを知った祐親は激怒!!
娘と頼朝を引き離したばかりか、なんと千鶴丸を殺害してしまったのです。
さらにその後、頼朝の暗殺まで計画・・・頼朝に再び命の危険が迫ります。

この危機にすくいの手を差し伸べたのが、祐親の次男で暗殺計画に反対していた伊東祐清です。
その祐清の手引きによって、頼朝は辛くも伊東から脱出。
蛭ヶ小島にうつるとその在庁官人だった北条時政の保護を受けることに・・・
その後、31歳になった頼朝は、時政の娘・政子と結婚。
1178年娘・大姫が生れました。
流人でありながら、おだやかな生活を手に入れたのです。
そんな中でも胸の奥には武士としての滾るものがありました。

「いつか・・・父の仇・清盛を討つ!!」by頼朝

しかし、”平家にあらずんば人にあらず”と言われるほど、清盛を中心とした勢いは増すばかり・・・
頼朝は、伊豆に流されてから20年を過ごすことになります。
流人である頼朝には、武力も何もなく、周囲も清盛が平家を攻撃するとは思っていませんでした。
本人も、平家との立場の違いに、仇討ちを諦めていたのです。

「もはや・・・平家を討つことはかなわぬのか・・・??」by頼朝

流された伊豆の地で、父の仇である平家を討つと誓いながらも、20年・・・勢力を増す平家に挙兵できていませんでした。
そんな中・・・
1180年4月、平家の権勢を良しとしない後白河法皇の皇子・以仁王が挙兵に動きます。
全国の武士に、平家を討つために立ち上がって欲しいと願ったのです。
その知らせは、伊豆にいる頼朝のもとにも届けられました。
遂に、平家に一矢報いることができる・・・!!はずでした。
ところが、以仁王の乱は、平家の知る処となって鎮圧・・・
平家の今後の出方と反平家の武士たちの動向を見極め、頼朝はどう動くのか??慎重に考えました。
頼朝は伊豆周辺の状況を見ながら、虎視眈々と味方集めをしていきます。
以仁王の乱の後、それまで源氏の一族が治めていた伊豆の国の知行国主の座に平時忠がつきます。
平家による支配が色濃くなったことで、北条氏を含む伊豆の武士たちは反発!!
頼朝はそんな彼らを味方に取り込んでいきました。
さらに・・・相模・上総は後白河法皇の知行国でした。
それが平家が知行するようになり、後白河法皇の知行国の武士たちは圧力を受けるようになったのです。
頼朝はそうした平家の圧力に不満を抱く、相模や上総の武士たちにも目をつけます。
すぐに相模に腹心を派遣し、味方に引き入れることに成功します。

「ついに・・・機は熟した!!」

②1180年 源頼朝挙兵

8月17日、頼朝は平家打倒の狼煙を上げます。
しかし・・・相模国の石橋山で、平家方の大庭景親軍と激突するも、圧倒的な兵力差で惨敗を喫してしまいます。

「まだ、兵が足りぬか・・・!!」

そこで頼朝は、更なる味方集めに奔走します。

「平家によって幽閉されている院(後白河法皇)を共に救おう!!」と。

後白河法皇のためという大義名分が功を奏したのか、上総、下総の有力武将が頼朝の味方に・・・
更には、平家に不満を持っていた関東各地の有力武将たちもが次々と合流・・・平家方の武将を倒していきました。
すると、その形勢に平家方の武将の中にも頼朝に下る者たちが現れます。
こうして頼朝は、流人ながらも強大な軍団を作り上げることに成功します。
10月6日、源氏ゆかりの地鎌倉に入り、本拠地とします。
石橋山での敗戦から、わずか1月後のことでした。
頼朝は、行きつく暇もなく、京から送り込まれている大軍を迎え撃つべく出陣!!
黄瀬川沿いに布陣し、富士川の近くに陣を構えた平家軍と対峙します。
富士川の合戦です。
両軍に走る緊張・・・ところが・・・
10月20日未明・・・一斉に飛び立った水鳥の羽音を、源氏軍の紀州と勘違いした平家軍が、慌てふためいて逃げて行ったのです。
戦わずして勝利した頼朝は、実質的に関東を支配することとなりました。
頼朝は、平家という共通の敵を作り、勝ったら平家の所領を与えることにしました。
そうやって武士たちを繋ぎとめていたのです。
この新恩給与を朝廷にも認めさせ、後の地頭という制度につなげていきます。
頼朝に従っていた武将たちは、やがて御家人となり、頼朝と御家人との間には、「御恩と奉公」という関係が生れ、これが鎌倉幕府を支える基本となっていきます。
20年間流人として生きてきた頼朝には、東国の武士たちが何を望んでいるのか・・・それを知っていたからできたことです。

この合戦後、運命的な出会いをすることとなります。
腹違いの弟・義経との初体面です。
平時の乱の混乱のさ中に生れた義経は、幼いころに京の鞍馬寺に預けられるも、打倒平家を胸に京の都を脱出、奥州・平泉へ・・・!!
藤原秀衡の庇護を受け、武士として立派な成長を遂げていました。
そして・・・義経は、兄の挙兵を聞きやってきたのです。
二人は涙しながら語り合ったと言います。
こうして頼朝と義経は、力を合わせて打倒平家に邁進することとなるのです。

③1181年 平清盛死去

関東の武士たちを味方につけ、富士川の合戦で平家軍に勝利した頼朝は、鎌倉を拠点に実質的に関東を支配することになりました。
しかし、頼朝は平治の乱で平家に敗れて以来、いまだ朝廷に弓を引いた謀反人のままでした。
そこで、上洛して後白河法皇に近づき、どうにかして謀反人の立場をといてもらおうと考えていました。
その策は・・・平家の打倒と後白河法皇の救援と建前として上洛することです。
ところがそんな頼朝のもとに衝撃的な報せが・・・!!
平家を率い、強大な権力を有していた平清盛が熱病で急死したのです。

「なんと!!あの清盛が死んだ・・・??」

清盛の死で、頼朝の策は破綻します。
大黒柱を失った平家が政権を返上したことで、後白河法皇の院政が復活!!
頼朝が上洛する理由が無くなってしまったのです。



そこで頼朝は驚くべき策を・・・!!
源氏と平家の和平です。
頼朝は後白河法皇に書状を送り、こう申し入れます。

❶院(後白河法皇)への敵意はない
❷これまでの行動は、院の救済が目的
❸院が平家の滅亡を望まない場合は、朝廷の支配のもとで源氏が東国、平家が西国の治安維持を担当する

後白河法皇は、この頼朝の案に興味を示しますが、平家は猛反発します。
亡き清盛の遺言があったからです。

「かならずや我が墓前に頼朝の首を供えよ・・・!!」

結局、和平は結ばれませんでした。
しかし、これはすべて頼朝の思惑通りでした。
頼朝も、平家と和睦できるとは思っていませんでした。
この案を出すことで、後白河法皇の信頼を得ようとしたのです。
後白河法皇や朝廷の信頼を得るために、実現しないであろう和平工作を上奏したのです。
実際法皇は、突っぱねた平家に不信感を抱き、頼朝に近づいていきます。
こうして上洛への道筋を作った頼朝・・・その最終目的は、謀反人の汚名を雪ぎ、朝廷を守る唯一の官軍になること・・・しかし、横やりが・・・!!

④1183年 木曽義仲 上洛

それは、同じ源氏・いとこの木曽義仲が先に上洛。
平家を都落ちさせてしまったのです。
おまけに義仲は後白河法皇に面会、平家追討の宣旨を受けました。
一説にはこの時義仲は、頼朝を謀反人のまま据え置くように働きかけたと言います。
こうして後白河方法の信任を得た義仲が、頼朝より官軍として平家追討軍を率いることに・・・!!
頼朝は、上洛の機会を逸してしまいました。
ところが、義仲軍の兵士たちが、京の都で乱暴狼藉を働いたことで、後白河法皇が激怒!!
これを知った頼朝は、すぐさま後白河方法に使者を送り、如何に自分が法皇のために力を注いでいるのかをアピール・・・その苦労が実ったのか・・・

1183年10月9日・・・
頼朝は朝廷から謀反人の立場をとかれ、従五位下に任じられます。
14歳で伊豆に流されてから23年・・・37歳でようやく少年時代の官位に返り咲きました。
そして、この5日後・・・朝廷に認めさせたのが・・・

❶東国にある荘園の年貢や税は、頼朝が徴収して、朝廷や荘園領主におさめる
❷これに違反する者がいれば、朝廷は頼朝に追討を命じることができる

これにより頼朝は、名実ともに関東の支配権を得ます。
京の都では、後白河法皇や朝廷の信頼を失った木曽義仲を追討のため、頼朝の上洛を期待する声が・・・!!
その声に応え、頼朝が今日に派遣したのが弟の源義経でした。

1184年1月・・・
義経は宇治川の合戦で義仲軍と激突!!
見事、義仲を討ち取りました。
これで、ライバルがいなくなり、頼朝が平家追討の旗頭となったのです。

⑤1185年 平家滅亡

頼朝は平家追討のために、弟の義経を西国に派遣。
兄の期待に応えるように、義経は一の谷の合戦や屋島の合戦で奮戦し、平家を追いつめていきます。
そして、1185年3月・・・壇ノ浦の合戦で平家軍に勝利!!
頼朝の挙兵から4年半・・・ついに源氏が平家を滅ぼしたのです。

平家を滅亡させた功労者となった義経・・・
父も兄もなくしていた頼朝にとって、義経の存在は心許す唯一の存在でした。
そんな義経を、頼朝は自分の子として迎え入れ、後継者にしようとしたほどでした。
ところが・・・頼朝は、次第に義経と対立を深めていきます。
1184年8月6日、義経は法皇から左衛門少尉を与えられ、検非違使の職を宣旨られます。
義経は、源氏の権威が上がったと、兄頼朝も喜んでくれると思いました。
しかし・・・平家追討に対する恩賞を誰に与えるのかは、自分が申請すると朝廷に申し出ていた頼朝は、自身の許可を得ず官職をもらった義経に激怒!!
これが、頼朝と義経の対立の原因だと吾妻鏡には書かれています。
しかし・・・頼朝は、義経が検非違使になった後も、後白河法皇との取次などを任せています。
むしろ、頼朝は義経を検非違使に推挙していた可能性もあるのです。

⑥1189年 源義経 追討

血を分けた兄弟である頼朝と義経・・・
二人はともに平家打倒の宿願を果たしましたが、その後激しく対立!!
頼朝は実の弟である義経を死に追い込んでいくこととなります。
どうして頼朝は弟の義経を追討したのでしょうか?

通説では、頼朝は自分の許可も得ずに検非違使の職をもらったことに激怒し、二人の対立の原因とされてきました。
義経の検非違使就任は頼朝も了承していた可能性があります。
問題だったのは、義経が検非違使の職にとどまり続けたことだったのでは・・・??

対立の理由
❶検非違使留任問題
頼朝は平家追討の勲功として義経に伊予守の官職を与えるように推挙していました。
京の都の治安を守る検非違使は、京に留まる必要があります。
しかし、伊予守などの受領は、必ずしも現地に行く必要がありません。
頼朝は義経を伊予守に就任させ鎌倉に呼び戻し、自分の近くに置いておこうと考えていました。
ところが、義経は、伊予守の職をもらった後も、辞任しなければならない検非違使に留任し、京の都に居続けたのです。
これに頼朝は腹を立て、二人の仲に決定的な亀裂が生じたのです。
頼朝は、自分の軍が朝廷を守る唯一の官軍になることを目指していました。
しかし、義経は検非違使として京に留まることで後白河法皇の直属軍になる可能性がありました。
義経の検非違使留任が、頼朝軍を唯一官軍にする大きな妨げとなったのです。

❷後継者問題
弟義経との初体面から2年・・・
1182年8月に頼朝の嫡男・頼家が誕生。
我が子を跡継ぎにしたい頼朝は、弟・義経の存在を疎ましく思うようになっていきます。
義経が源氏の後継者となり、よりいrが退けられることを頼朝は恐れていました。
下手をすれば、源氏が二つに分裂し、頼朝が築いた権力が消滅する危険性があったのです。
頼家を後継者にする弊害となり、源氏内の派閥闘争の火種となる義経を排除したかったのです。

1187年、義経が藤原秀衡を頼って平泉に到着。
一方、頼朝は義経追討の宣旨を受けます。
しかし、秀衡の強大な軍事力を前に、頼朝は手を出せずにいました。
ところが・・・10月29日、秀衡は病死。
頼朝は義経追討に動きます。秀衡の後継者である泰衡に圧力をかけ、義経と奥州藤原氏の分裂を画策。
泰衡は家を守るために義経を攻撃することに・・・!!
追いつめられた義経は・・・
1189年4月30日、義経自害!!
その後、頼朝は平泉に兵を送り込んで、強大な力を有していた奥州藤原氏を滅ぼすのです。
これで敵対する武家勢力は消滅・・・頼朝は遂に武家政権の頂点に立ったのです。

⑦1192年 頼朝 将軍就任

弟である義経や、奥州藤原氏を滅ぼした頼朝は、1190年11月7日、上洛。
一千騎の兵を従えて堂々たる行列で京の都に戻ってきました。
14歳で都を追われてから30年の月日が経っていました。
この時頼朝は武官の最高位・右近衛大将に任じられ、名実ともに武士の最高位に上り詰めるのですが・・・
わずか9日後に辞任して鎌倉に帰ってしまいました。

右近衛大将は、朝廷の政務、儀式への参加が主な仕事・・・京の都に絶えずいなければなりませんでした。
頼朝は拠点とする鎌倉で体制を盤石にすることを優先しました。
頼朝は、鎌倉にいても務まる権威ある官職を朝廷に求めます。
そうして2年後、朝廷から賜ったのが・・・
1192年、征夷大将軍・・・46歳でついに流人から将軍となりました。
その3年後、頼朝は再び上洛。
妻・政子、嫡男・頼家、娘・大姫らを引き連れてのことでした。
頼朝は、娘の大姫を、時の後鳥羽天皇の妃にしようと考えていました。
朝廷の有力者に大姫を紹介し、後鳥羽天皇との縁談を取り持ってもらおうと・・・
大姫を入内させ、男子が生れればそれは天皇・・・源氏は天皇の外戚となり、強大な権力を得ることができます。
大姫を嫁がせることで、源氏と北条氏の権威が上がると頼朝は考えていました。
源氏と北条氏が天皇の縁戚となり、高い権威を持つことで、幕府の安定を図ろうとしたのです。

ところが・・・入内を待たずに娘の大姫は入内を待たずに病死・・・。
20歳だったと言われています。
かなしみいえぬままに大姫の代わりとしてその妹の入内計画を始めますが・・・
最後の願いはかなわず・・・
1199年正月13日、源頼朝、53歳で病死。
志半ば・・・波乱に満ちた生涯でした。

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岩手県北上川の中流に位置するのが平泉・・・ここに、平安時代後期、黄金の国ジパングのいわれとなる大都市がありました。
その繁栄を築いたのが、奥州藤原氏です。

1124年上棟の中尊寺金色堂・・・繊細で美しい螺鈿や透かし彫りの金具に蒔絵・・・平安時代後期の技の粋を集めた国宝建造物第一号です。
そんな金色堂を含む中尊寺を建立したのが奥州藤原氏初代・藤原清衡です。
最盛期には、10万人の人が暮らし、京の都に迫る大都市でした。
その礎を築いたのが初代・清衡です。
清衡が国づくりを始めたことで、奥州藤原氏と呼ばれることとなりました。

奥州藤原氏は、いかにして誕生したのでしょうか?

1056年、清衡は、陸奥国に生れました。
家は、藤原鎌足の流れをくむ藤原北家・・・の地方豪族でした。
京では、藤原道長の子で平等院鳳凰堂を造営した頼道が摂関政治を行っており、朝廷は全国を支配する為に全国に国司を派遣、国司は国府と呼ばれる行政機関で政や軍事を執り行っていました。
そんな国司に仕える地方官僚だったのが清衡の父・経清・・・陸奥にあった多賀城に努める国府でしたが・・・
1051年、陸奥国で前九年合戦が起こります。
事の欲店は、今の岩手県奥六郡の安倍頼時が義務だった税を滞納し、さらに勢力拡大を画策したことでした。
危機を感じた朝廷は、武家で河内源氏を束ねていた源頼義を陸奥国司として派遣!!
これでおとなしくなった安倍氏でしたが・・・しばらくすると反旗を翻すのです。
清衡の父・経清は、国府の在庁官人だったので、国府軍につきますが、国府頼義に普請を抱いたことで、突如安倍頼時に寝返ります。
それには、経清の妻が頼時の娘で、清衡の父だったことも大きな理由です。
こうして経清の加わった安倍軍は優勢に・・・。
ところが、国府軍が山北三郡を支配していた清原氏を援軍につけたことで戦況は一変!!
1062年9月、厨川柵の戦いで安倍氏が滅亡。

安倍氏の味方に付いていた経清は、裏切り者への恨みからか、わざと錆びた刀で苦痛を与えられながら斬首・・・。
この時、清衡はまだ7歳でした。
清衡も処刑されることろでしたが、母が敵将の清原武則の嫡男・武貞の後妻に迎えられたことで養子となりその命を救われたのです。
この時、清原家には真衡という長男がいました。
さらにこの後、母が清衡の弟となる家衡を産みます。
清衡は、父の仇でもある清原の性を名乗りながら、血のつながらない兄、父の違う弟という複雑な過程で大きくなるのです。
そんな中、清衡は新しい大きな波にのまれることに・・・。

1083年、清衡28歳の時、再び奥州で戦乱が起こります。
清原家の当主となっていた真衡と、長老・吉彦秀武との間で内部抗争が勃発!!
後三年合戦です。
争いは、清原真衡の急死により、いったんおさまったかに見えましたが、今度は、清衡の義父弟である家衡が、真衡の所領分配に不満を示し、清衡の暗殺を計画!!
屋敷を襲撃し、清衡の妻・子・一族郎党を皆殺しにしてしまうのです。
暗殺何とか免れた清衡は、新たに派遣された陸奥国司源義家に家衡討伐を訴え、共に挙兵!!
1087年金沢柵で家衡を討ち取るのです。
ここに、清衡の育った清原氏が滅亡!!
これにより、欧州で権力をふるった安倍氏、清原氏が滅亡!!安倍氏と清原氏の縁者であった清衡が、支配地を継承したことで、奥州藤原氏となったのです。
国づくりを始めた清衡は、44歳の時に豊田館から30キロ南にある平泉に自らの拠点を移します。
そこで行ったのが、仏教に基づいた仏教立国でした。
どうして仏教だったのでしょうか?

その理由の一つが度重なる戦乱で亡くなった敵味方の区別なく、更には皆平等に浄土に導きたい・・・。
誰もが極楽浄土に行ける国を造りたかったのです。
さらに、もう一つの理由は・・・仏教は当時の最先端の文化でした。
陸奥国司と対立しないための、清衡の戦略でした。
陸奥国司との戦の末に、母方の安倍氏が滅んだ歴史を踏まえ、国司との対立を避けるために、仏教を重んじる平和な国をアピールしようとしました。
そして清衡は、その晩年をその平和都市建設に注いでいきます。
手始めに行ったのが、関山での中尊寺造営でした。
40基もの仏塔をはじめ、最盛期には300を超えたと言われる一大伽藍を20年もの歳月をかけて整備します。
中でも、二階大堂は、巨大な阿弥陀像が9体も納められる当時の日本では類を見ない壮大な建築物でした。
さらに清衡は、中尊寺の傍に阿弥陀堂(のちの金色堂)を作ります。

1128年、清衡はこの金色堂の中で、「百日後に入滅する」と、自らの死を予言したのです。
そして念仏を唱えながら、予言通りに100日後に無くなったのです。
73歳でした。
清衡の遺体は、金色の木棺に納められ、金色堂の須弥壇の真下に安置されました。
奇跡的な往生を遂げた清衡を、平泉の守護神とあがめるようになっていきます。
1950年に清衡のミイラを調査された結果、脳疾患による半身不随だったのでは?と言われています。
指揮を悟っていたのかもしれません。

その後を継いだのが、清衡の子・2代基衡でした。
岩手県平泉にある毛越寺。
その多くの伽藍を造営したのが、二代基衡でした。
本尊は、本堂に安置されている薬師如来像。
現在の高さはおよそ1.4mですが、基衡が当時造らせたものは、2.4mあったと言われています。
しかし、その制作から安置するまでには多くの困難が・・・
朝廷の時の権力者・鳥羽法皇が大反対したのです。

基衡は、薬師如来像の制作を京都の仏師・雲慶に依頼。
しかし、プライドの高い都の仏師に像を作ってもらうのは、容易なことではありませんでした。
野蛮な民とされていた奥州からの依頼・・・
そこで基衡は、贈り物をします。
奥州は砂金の産地でした。
特に、奥州藤原氏の支配地には、多くの採取場所があり、そこからたくさんの砂金が取れたのです。
そして、馬の産地でした。
蝦夷地との交易も盛んで、矢羽根(鷲の尾羽)、馬の鞍(アザラシの皮)などが容易に手に入りました。
北上川の水運を利用して中国とも交易していたため、宋の最新の文物まで手に入りました。
そんな品々を、完成までの3年間に大量に雲慶のもとに・・・。
その甲斐あってか、雲慶が仕上げた薬師如来像は素晴らしいものでした。
たちまち都の評判に・・・噂は鳥羽法皇のもとへ届き、実物をその目で見た法皇は、
「これほどの仏像、決して都から持ち出してはならぬ!!」と、仏像の差し止めをしたのです。
基衡は・・・あまりのショックにお堂に籠り、差し止めの撤回を7日7晩祈り続けました。
その後、関白に法皇へのとりなしを依頼。
王首藤原氏は、初代清衡の時代から摂政・関白(藤原北家)などにも献上品を送っていて、時乃関白とも深いパイプがありました。
その関白のとりなしの結果、やっと都から出すことを許されます。
基衡は、奥州藤原氏の財力を生かした贈り物作戦を行ったのです。

基衡は安堵したのか、その後1157年に急死。
跡を継いだのは、基衡の子・秀衡です。
秀衡は36歳で後を継ぐと、無量光院の造営に力を注ぐなど、清衡・基衡の遺志を継ぎ、平和な国づくりを推し進めていきます。
柳之御所遺跡は政庁で、その名は平泉館といいました。
最大の特徴は、巨大な空堀です。
本来の空堀の目的は、馬の侵入を防ぐものです。
しかし、秀衡は、戦の為ではなく、権力を見せつけるために造ったのだと言われています。
そして車宿・・・牛車の車庫の跡もあります。
当時、牛車に乗ることができたのは貴族の中でも位が上の者や高僧でした。
平泉には、たくさんの貴族や高僧がいたことがわかります。

平泉は壮大な都市計画に基づいて作られていました。
平泉の町の中心に位置する金鶏山。
金鶏山の山頂には、奥州藤原氏によって大規模な経塚が営まれ、信仰の山とされてきました。
秀衡は、この金鶏山を中心に都市計画を立てます。
無量光院を金鶏山を西に望む場所に建立・・・年に2回、彼岸の時期に金鶏山に沈む夕日が中堂の真上に来るようにしました。
西の山に沈む夕日は、浄土から来迎する阿弥陀仏の姿・・・
その夕日を拝めば、仏のお導きで必ず極楽浄土に行けるに違いないと考えていました。
平泉の都市全体で、仏教の浄土思想を具現化しようとしたのです。
こうして平和都市平泉は、三代秀衡によって完成・・・奥州藤原氏は、最盛期を迎えます。

しかし・・・遠く離れた京の都で、時代は大きく変わろうとしていました。
この世の極楽浄土とも言うべき平和都市・平泉を作った奥州藤原氏・・・最盛期を迎えた三代秀衡の時代・・・
京の都では、武家の覇権争いで源氏に勝利した平清盛を中心とする平家政権が全盛を極め、その勢力は西日本を中心に拡大の一途をたどっていました。
そこで秀衡は奥州を守るために、平清盛に中国・宋との貿易で必要な金を献納します。
すぐさま、平家との良好な関係を築きます。
その甲斐あってか、1170年、三代秀衡は、朝廷から陸奥国司の次に当たる鎮守府将軍に任ぜられます。
鎮守府将軍は、通常都から派遣された貴族や武士が努めました。
現地の地方豪族が務めたのは、過去に一例でした。
奥州藤原氏の存在が、都の人々に大きなものとして認識されたのです。

しかし、1180年、時代が大きく動きます。
清盛によって伊豆に流されていた源頼朝が平家打倒と挙兵!!
その討伐に、戦力として清盛が期待したのが、関東を支配した頼朝に対抗できる勢力を有していた秀衡だったのです。
頻繁に平泉に使者を送っては、平家が都を動かし源氏追討を要請します。
これに対し秀衡は、慎重でした。
返事はしても、実際には動かなかったのです。
動けなかった・・・??
朝廷からの命令でも、頼朝と戦う見通しがつきませんでした。
うかつには動けなかったのです。
秀衡の助けを得られないまま、清盛は病死・・・
一族の大黒柱を失った平家は、急速に力を失い1185年3月・・・兄・源頼朝、弟・義経の活躍によって滅亡するのです。

ところが、共に手を取り合っていた頼朝と義経の間に亀裂が・・・
義経が無断で朝廷から官位を受けたことで、兄・頼朝が激怒!!
時の後白河法皇に、義経追討令を出すように申し入れたのです。

頼朝から秀衡に直々の書状が・・・
「秀衡殿は奥六郡の主で、私は東海道を統括する惣官。
 お互い水と魚の用事、親密な関係を築くべきでしょう。
 よってぜひとも今年からは、朝廷に献上する馬や金を、私に取り仕切らせていただきたい。」

なんと・・・頼朝は、これまで奥州藤原氏が直接朝廷に献上していた貢物を代わって送り届けると言ってきたのです。
秀衡よりも、頼朝の方が立場が上だということをアピールするためです。
平家亡き後、強大な勢力は奥州藤原氏・・・頼朝にとっては目障りな存在でした。
奥州藤原氏の持つ経済力は、頼朝にとって脅威的なものでした。
1184年に東大寺大仏の再建工事の際、頼朝は黄金千両を寄進しましたが、秀衡は五千両も寄進しています。
その資金力を以て朝廷を取り込まれてしまったら・・・??
秀衡は頼朝の手紙に対し・・・悩んだ挙句に要求を受け入れます。
秀衡の選択は、名を捨てて実を取る・・・頼朝の要求を受け入れることで、頼朝の奥州への侵入を防ごうとしたのです。

1187年2月・・・奥州藤原氏三代秀衡のもとに、源頼朝に追われ朝敵となっていた頼朝の弟・義経が現れます。
義経は、若い頃平家から逃れるために、常盤御前のつてを頼って平泉で生活していたことがありました。
そして、再び奥州藤原氏に助けを求めてきたのです。
しかし、義経はお尋ね者・・・匿えば、秀衡にも罪が・・・
それでも秀衡は義経を受け入れました。
しかし、10月・・・秀衡は病に倒れてしまいました。
指揮を悟った秀衡は、息子の泰衡に・・・
「わしが死んだ後は、義経公を大将軍にして政務をまかせよ」
当時の奥州では、奥州藤原氏の力をもってしても、一つにまとめるのは大変でした。
一枚岩にして対抗するためにも、都の貴族の血をひく義経を金看板にすることが必要だったのです。
義経を中心に、泰衡ら奥州の武士が一致団結しなければ、頼朝から欧州を守ることはできないと秀衡は考えていたのです。
秀衡は、自らの役目を終えたかのように1187年、永遠の眠りにつくのでした。

奥州藤原氏は、四代泰衡に託されました。
泰衡は、頼朝との決戦に備え、義経を中心とする平泉幕府を作ります。
国見峠付近には、3.2キロにも及ぶ長大な防塁を構築し、守りを固めました。
そんな中、泰衡のもとに宣旨が・・・
”義経の身柄を差し出すならば、恩賞を与えよう”
泰衡は、あいまいな返事を送り、時間を稼ごうとしますが・・・
これを知った頼朝が、義経と共に奥州藤原氏の追悼令を出すように朝廷に圧力をかけてきます。
泰衡は、父の遺言に背き、義経の首を差し出すことに・・・!!

「義経を討つ!!」

1189年4月30日、泰衡は義経の館を数百騎で奇襲!!
周囲を囲まれた義経は、館の中にあった持仏堂に入り自刃!!

「これで我が家も安泰じゃ・・・!!」

そう安堵したのもつかの間・・・泰衡の目論見は大きく外れます。
この時すでに頼朝は、奥州攻略の順見を整えていました。義経の首が差し出されても、差し出されなくても、攻め入る構えでした。
4か月後、頼朝率いる1万数千騎の軍勢が、奥州に現れます。
対する奥州藤原氏は、阿津賀志山に防塁を築き迎え討とうとするも、頼朝軍に堀を埋められ、あっけなく突破されてしまいます。
その報告を受けた泰衡は、平泉の舘に火を放ち逃げ出します。
一説にはこれによって、平泉の町が火の海に包まれたといいます。
吾妻鏡には、この時の泰衡の様子を書いています。

”阿津賀志山で大敗したと聞き、あわてふためき、我を忘れ、一時の命を惜しんで、隠れること鼠のごとく”

平泉を捨て鼠のように逃げただけではなく、秀衡の遺言に背いて義経を裏切ったことから、奥州藤原氏の滅亡を招いた無能な武将と言われてきました。
本当に泰衡は無能だったのでしょうか?

無能説
①泰衡が平泉を焼き払って逃亡した
この時、平泉の町全体が炎上したと言われていますが、泰衡が焼いたのは平泉館だけでした。
負けた武将は自ら焼くという作法でした。
②泰衡が父の遺言に背いて義経を裏切った
泰衡は臆病者、無能としているのは、あくまで鎌倉幕府の一方的な評価です。
当時としては、朝廷の命令を実行しただけ・・・当時は朝廷の命令は絶対です。
義経を裏切ったのは、奥州を守るための常識的な判断でした。

決して無能ではなかったのです。
平泉を離れた泰衡は、北に向かい、腹心の家臣だった河田次郎を頼ります。
しかし、頼朝軍に寝返っていた河田次郎によって・・・
1189年・・・奥州藤原氏滅亡。
泰衡の首は、鎌倉へと届けられました。

頼朝が平泉に入ったのは、泰衡が火を放って逃げた翌日でした。
すっかり焼け落ちた邸宅の後に残ったのは倉庫だけ・・・
その中に積み上げられていた莫大な財宝に、頼朝はひどく驚いたといいます。
その後、藤原氏が建立し、整備した平泉の寺を巡礼した頼朝は、その仏教文化のすばらしさに感銘を受け、家臣の御家人・葛西清重に平泉の安全を保つように命じました。
こうして、初代清衡が立てた中尊寺金色堂は破壊を免れ、今もその姿をとどめています。

2011年、平泉の理想世界は、他に類を見ない浄土を表す建築・庭園・および考古学的遺跡群として世界文化遺産に登録されたのです。
奥州藤原氏が守り通した平和への願いと共に・・・!!


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