源平合戦における最後の戦い・・・壇ノ浦の戦いです。
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一ノ谷の戦い、屋島の戦いと連勝し、平家を追い詰めた源氏軍!!
対して壇ノ浦での戦いを最後の砦とし、なんとか挽回しようと息巻く平家軍!!
戦いの結果は源氏が勝利し、兵士は滅亡していきました。
平氏にあらずんば人にあらず
とまで言わしめた平家の滅亡・・・いったい何があったのでしょうか?
平安時代末期・・・1181年、平清盛死去。
知行国30カ国と全国の半分ほどをその市中に治めていた平家の力が、衰えを見せ始めます。
清盛の三男・宗盛が父の後を継ぎますが・・・平家は源氏によって京都から追放されてしまいました。
源氏を束ねる源頼朝が、更なる平家追撃を命じたのが、弟の範頼と義経でした。
中でも義経は、兄の期待に応えるべく破竹の勢いで進撃!!
摂津国・一の谷の戦いで、鵯越の逆落としとして有名な奇襲により、平家に大打撃を与えます。
それにより、平家はさらに西国へ敗走。
しかし、あきらめたわけではありませんでした。
一緒に連れてきた清盛の孫でもある安徳天皇と天皇の象徴である三種の神器を持っていたからです。
それが平家の切り札でした。
当時は、天皇と三種の神器を押さえておけば、新たな天皇を即位させることはでいないことになっていました。
平家は天皇の権威を後ろ盾にして復活を考えていました。
宗盛は、九州で勢力を盛り返し、京都奪還を狙っていました。
逆転を狙う平家でしたが、一の谷の戦いの翌年・・・1185年2月。
逃れていた讃岐国・屋島で源氏軍を迎え撃つも、またもや義経の奇襲によって平家軍は大敗を喫してしまいました。
ただただ逃げるしかなくなった平家軍は、ついに最終決戦の場・壇ノ浦に追い詰められてしまいました。
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1185年2月1日・・・平家滅亡まであと53日。
屋島の戦いに敗れた平家軍は、瀬戸内海を転々とした後、長門国・赤間関壇ノ浦にある彦島に本陣を置きます。
前もって、平知盛が城を築いて傘下の水軍を集め、総司令官として源氏に備えていた場所だったからです。
そこは、平家にとって背水の陣でした。
平家は屋島から彦島に渡り、九州で体勢を立て直すのが理想でしたが、源氏の範頼に先回りされ、先に九州を押さえられてしまったのです。
そんな平家軍の起死回生の策は、多くの水軍を有し、得意だった海上戦!!船戦でした。
源氏の大将・源義経は、その平家軍の作戦を見抜いていたにもかかわらず、不安に駆られていました。
一ノ谷・屋島と目覚ましい戦果をあげてきた義経でしたが、そのどちらも陸上戦!!
騎馬軍団による奇襲作戦でした。
海上戦は一度も経験したことがありませんでした。
義経はすぐさま訓練を開始!!
1カ月をかけ、準備をしました。
この時の問題は、源氏に十分な船が揃っていないことでした。
そこで義経は、平家方についていた西国の海賊衆に交渉を持ち掛けます。
「この度の戦、もし加勢いたすならば、勝利の暁には高禄をもって取り立てよう!!」
すると、屋島の戦いの戦況を伝え聞いていた海賊衆の棟梁たちは、源氏に分があるとその誘いにのり、次々と水軍を率いて合流しました。
しかし、中には平家を裏切ることに躊躇している者も・・・!!
熊野別当・湛増です。
平家は瀬戸内海に勢力があり、熊野水軍とも仲が良かったのです。
鎌倉方は、湛増にとってはよくわからない集団でした。
悩む湛増が頼ったのは、熊野権現でした。
祈ったところ、白旗につけというお告げ・・・つまり、源氏に着けということです。
それでも湛増は、平家の恩を考えて態度を決められずにいました。
そこで今度は、赤い鶏と白い鶏それぞれ7羽を1羽ずつ出し合って神前で勝負をさせました。
結果は・・・赤い鶏は1羽も勝てず白い鶏が勝利しました。
意を決した湛増は、200艘の水軍を率いて源氏に合流しました。
こうして義経率いる源氏軍は、熊野水軍、渡辺水軍、伊予水軍などを味方につけ、およそ800艘の船団を編制。
白旗をなびかせ、彦島を目指して出発すると、周防国で範頼の軍勢と合流するのです。
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1185年3月23日・・・平家滅亡まであと1日。
源氏軍は、壇ノ浦の奥津・・・今の下関市長府沖にある干珠島・満珠島付近まで兵を進めると、兄・範頼軍は壇ノ浦近くの陸地に布陣!!
源氏軍の動きを知った平知盛率いる平家軍は、彦島を出発し関門海峡の東の出口に当たる田ノ浦付近に集結。
赤旗を掲げた500艘ほどの船団で、源氏を迎え討つべく待ち構えます。
相対する距離は、わずか300m!!
義経の戦略は・・・自らは海上から平家の拠点彦島に攻撃をかけ、退いたところを陸地から範頼軍が矢を射かけて攻撃・・・挟み撃ちにするというものでした。
平家物語によると、この後、双方相談の上、矢合わせの時刻を翌朝の午前6時と決めました。
当時の戦争はルールがありました。
そのルールにのっとって戦うのです。
軍師を交換して日時と場所を決め、決められた日に集まり戦争を始めていました。
氏文を読み、正当性を主張し、相手を糾弾・・・そしてやっと矢合わせ!!
しかし、戦が大規模化したことで、ルールを変更せざるを得なくなっていました。
義経、兄との決裂を生んだ壇ノ浦
1185年3月23日、壇ノ浦の戦い前夜・・・
いよいよ明日、平家との決戦という時に、義経の陣営でひと悶着が起きます。
きっかけとなったのは、軍監であった梶原景時の一言でした。
「此度の先陣は、この梶原にお任せください」by景時
「この義経がいなければのう・・・残念なことに、先陣はこのわしじゃ」by義経
「なんと仰せられる、殿は総大将でございます
総大将が、先陣を務めるなど、効いたことがありません」by景時
「何を申すか、総大将は兄・頼朝・・・
この義経は、軍の指揮を承ったまでのこと、よって先陣を務めても差しさわりあるまい」by義経
この言葉に、先陣を務めて手柄を立てたかった景時は、
「全く・・・この殿は、主君にはなれない器じゃ!!」by景時
「なに??そなたこそ、日本一の愚か者よ!!」by義経
売り言葉に買い言葉・・・一触即発のケンカになりかけます。
景時は、官僚として優秀でした。
頼朝の言うことをよく聞いて、頼朝のためにと思っていました。
義経と馬が合わない景時は、屋島の戦いの際も言い争いをしていました。
熱くなった二人を周囲が諌めます。
「明日の決戦を前に、同士討ちなどとはもってのほか
鎌倉殿のお耳にでも入りましたら、ただではすみませぬぞ
どうか、気を静めてくださいませ」
義経は、それは最もなことと怒りをといたため、どうにか事なきを得ました。
この後、景時は、義経の行動を頼朝に逐一報告をしています。
官僚としては当たり前なのかもしれませんが、結果として頼朝と義経の兄弟仲を裂き、義経失脚の原因を作ったのです。
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運命の壇ノ浦開戦!!
1185年3月24日早朝。
源義経率いる船団およそ800艘と、平知盛率いる平家の船団500艘あまりが、長門国赤間が関壇ノ浦の海上でわずか300m距てて対峙します。
午前6時ごろ・・・戦闘開始の合図・矢合わせが行われました。
鏑矢が射られ・・・鬨の声が上がり、壇ノ浦の戦いが始まりました。
まずは矢戦!!
この時、源氏方で陸地から矢を射る役を担ったのが、和田義盛・・・坂東武者の鏡たる豪勇の士であり、弓矢の名手です。
放った矢に怯んだ平家軍に向かって挑発しました。
「その矢を射返してみよ」by義盛
平家軍には、この距離を射る武士はいないであろうとバカにしたのです。
そのケンカをかったのは、仁井親清。
射返すと、その矢は、和田義盛の後方にいた源氏の武士の腕に命中!!
和田に大恥をかかせることに成功しました。
しかし、これで終わりませんでした。
仁井親清は、大将・義経が乗った船にも矢を射かけると、和田を真似てさらに挑発してきたのです。
「その矢を射返してみよ」
源氏の面目をつぶされた義経は、怒りに震え、浅利与一に矢を射返すように命じます。
浅利与一は、那須与一、佐奈田与一と共に、三与一と呼ばれる弓の名手で、源平合戦でも数々の武功をあげていました。
この時も、仁井親清の胸を射抜き、源氏の面目を保ったのです。
この後、距離を詰め、両軍の戦闘は激しくなっていきます。
兵の数では劣る平家軍でしたが、得意の船戦であり、知盛には策がありました。
そもそも知盛が彦島に本拠を置いたのは、平家の強力な水軍を活かすため・・・
そして、関門海峡独特の早い潮の流れと干満の潮の流れの変化を熟知していました。
相手は、水軍を扱うことに不慣れな源氏・・・その潮の流れに乗って、一気に源氏を追い詰めようとしたのです。
その目論見通り、戦は平家軍有利に進んでいきます。
九州の山鹿秀遠や松浦党といった強い味方が付いていた平家軍は、500艘の船団を三手に分け、関門海峡特有の潮の速い流れに乗って攻め込もうとしていました。
そして・・・源氏方が狙うのは、三種の神器と安徳天皇!!
ならば、豪華な御座船目掛け、攻めてくるに違いない!!
そこで知盛は、安徳天皇ら身分の高いモノたちを兵船に乗せ、雑兵たちを豪華な御座船に乗せて囮にしました。
御座船にめがけてやってきた源氏の軍勢を包囲し、三方から矢を射かけて殲滅しようとしました。
戦いを前に知盛は、兵士たちを鼓舞します。
「戦はこの日が最後ぞ!!
少しも退くな!!
東国の者どもに弱気を見せるでないぞ!!」
3月24日午前・・・
潮の流れが変わる前に決着をつけたい知盛は、源氏軍側へと流れる潮に乗り攻めます。
まずは、第1陣が義経の船目掛け矢の集中攻撃を仕掛けます。
さすがの義経も、豪雨のように降り注ぐ矢を前に、手も足も出せず、満珠島まで押し戻されてしまいました。
3月24日昼頃・・・
このまま一気に戦を終わらせたい知盛は、味方を激励!!
太鼓をたたき、声を上げ、平家軍は攻め続けました。
と・・・その時!!
劣勢を強いられていた義経の頭上に、どこからともなく、白旗が舞い降りてきました。
白旗は、言うまでもなく源氏の旗!!
「八幡台菩薩が力をお与えになったのだ!!」by義経
義経は、これは吉兆だと喜び、手を合わせて拝みました。
一方、勝利を確信していた平家軍にも不思議なことが・・・
2000頭ものイルカの群れが、海底から湧き出たように接近してきました。
これは神のお告げ・・・と、総大将の宗盛は陰陽師に占わせます。
すると・・・
”イルカが折り返して源氏に向かえば平家の勝ち
イルカがこのまま平家の船の下を通れば源氏の勝ちとなるでしょう”
それを聞いた知盛は、固唾をのんで見守りました。
しかし、願いもむなしくイルカはそのまま平家の船の下を通り抜けていきました。
「我らが負けると・・・??」
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平家、逆転勝利への誤算
「平家物語」の一節に・・・
”壇ノ浦は潮の流れが激しいところで、源氏の船はその潮に押され、平家の船は潮の流れに乗って攻めていた”
それが一転・・・潮の流れが源氏有利の西向きに変わったことで、それまで優勢だった平家が劣勢に!!
そのまま一気に源氏軍が平家軍を追い詰め滅亡させたと言われてきました。
しかし、この時の海は、ナギの状態でした。
以前は、潮の流れが変わったことで勝敗が決したと言われてきましたが、その説は、現在は重視されていません。
3月24日昼過ぎ・・・
このままでは平家に負ける・・・!!
そう考えた義経は、当時の常識では考えられない策に出ます。
「射るのは平家にあらず、水手を狙うのだ!!」by義経
非戦闘員である船の漕ぎ手を射るように命じました。
この頃の合戦は、戦闘員同士の戦いであり、武士同士の戦いでした。
舵取りを殺すという発想がなかったのです。
源平合戦以降、相手の馬を狙うなど、戦闘方法が変わりました。
兄・頼朝と誓った平家打倒のため、策を選ばなかった頼朝!!
しかし、平家にとっては、予想だにしない展開でした。
誤算でした。
漕ぎ手を次々に失っていった平家軍の船は、動くことができなくなり大混乱!!
そんな中、またもや誤算が生じます。
味方である民部重能の裏切りです。
重能は、平家軍の主力であった阿波水軍300艘を率いる武将でした。
形勢が逆転したとみると、源氏に寝返ったのです。
そして、御座船は囮で、安徳天皇は乗っていないと源氏方に伝えてしまいました。
「狙うは御座船にあらず!!」by義経
源氏軍が、一斉に安徳天皇の乗る兵船目掛けて押し寄せてきました。
すると、これに呼応するように四国・九州の兵たちが次々と平家方から離反!!
源氏軍の猛攻に、平家軍は海へと沈んでいきました。
船の漕ぎ手を狙うという掟破りの反撃と、味方の突如の裏切りによって、平家軍は追い込まれ壊滅状態となりました。
民部重能の裏切りは、義経が仕向けたことでした。
息子・教能が、人質として源氏方に捕まっていました。
平知盛は、裏切る可能性がある民部重能の殺害を、総大将の宗盛に進言していましたが、認められませんでした。
「やはりあの時、斬っていれば・・・」
そう思っても後の祭り・・・
敗北を悟った知盛は、船の上を掃き清め、覚悟を決めるように全軍に呼びかけます。
そして、安徳天皇やその母・建礼門院徳子、そして祖母の二位尼・時子の乗る船に移るとこう告げます。
「これから女官たちは、源氏の兵たちに襲われるであろう」
これを聞いた二位尼は、平家の敗北を察し、源氏に捕まるぐらいなら・・・と、死を決意!!
孫のまだ8歳の安徳天皇を抱き寄せ祈りを捧げるように伝えます。
言われるままに東は伊勢大神宮に、西は阿弥陀如来に向けて祈りをささげた安徳天皇は、こう聞きます。
「どこへつれて行くのか?」
「この波の下に、極楽浄土というめでたい都がございます
お連れいたしましょう」by二位尼
そう言って、海に身を投げました。
幼い天皇は、祖母に抱かれ、海の中へと沈んでいきました。
この時、二位尼は、三種の神器のうち剣を腰にさし、勾玉を抱えていたと言われています。
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3月24日午後3時ごろ・・・
安徳天皇の母・建礼門院徳子も懐に石や硯を入れて錘とし、後を追うように飛び込みます。
しかし、すぐに源氏軍によって引き上げられ、囚われてしまいました。
その様子を見ていた女官たちや平家の武士たちも覚悟を決めます。
女官や武士たちは、錨や鎧をお守りとして次々と海に飛び込みました。
そんな中、ひとり気を吐く男がいました。
平家一の猛将・・・知盛の従兄弟・平教経です。
「お前の相手ができる源氏はおらん
これ以上罪作りなことはするな」
そう、知盛に言われると、教経は、
「ならばせめて、義経を道連れにしよう!!」
そう言って、教経はなんと片手に大太刀、もう一方には薙刀を手に、源氏の船に乗り移ると、義経との一騎打ちに出ます。
あと少しのところまで追い詰めますが・・・
「かなわじ!!」
そう言って、義経は6mも離れた8艘先の味方の船へ!!
教経の猛攻をかわし逃げるのでした。
世にいう、義経の八艘飛びです。
義経に逃げられ、源氏軍に囲まれた教経は、もはやこれまでと覚悟を決めると、
「さあ、お前たち!!
わしの死での旅の供をせい!!」
そう言って、源氏の大男2人を両脇に抱えて海に飛び込み、道連れにしました。
平家一の猛将・平教経・・・見事な散り際でした。
しかし、その一方で、生き恥を晒す武将もいました。
平家の棟梁で総大将の平宗盛です。
平家の頂点に立つ身でありながら、覚悟が決まらず、船の上を右往左往・・・逃げ回っていました。
その姿にあきれ果てた家臣たちは、後ろを通るふりをして、宗盛を海に突き落としてしまいます。
しかし、錘も着けておらず、海面でバタバタ・・・なかなか沈みませんでした。
すると宗盛は、あろうことか源氏によって引き上げられてしまいました。
その有様に、知盛は、
「なんと情けないこと!!
どうして深くお沈みにならなかったのか!!」
敵に捕らえられて恥をさらすより、最期まで戦い潔く果てて平家の名を汚さぬことこそ知将・知盛の美学・・・
「見届けるものはすべて見届けた
今、自害せん!!」
知将と言えども、武運が尽きれば力及ばず・・・!!
知盛は、自分の亡骸が浮かび上がって源氏から辱めを受けないようにと鎧を2領重ねて身につけ、海に飛び込みました。
3月24日、午後4時ごろ・・・壇ノ浦の戦いは源氏の勝利となり、孟き者・平家滅亡!!
海面には、平家の赤旗が無数に漂い、水際に寄せる波は赤色に染まっていきました。
戦場に最後まで踏みとどまり、栄華を誇った平家の終焉を最期までしかとその目で見届け、劇的に散っていった平知盛・・・見事な最期でした。
こうして源平合戦は終わりをつげ、時代は源氏のものに・・・!!
しかし、源氏軍を率いた源義経は、壇ノ浦の戦いでヒーローとなったことが、兄頼朝との間に深い溝を作ることとなり、逃げた先の奥州・平泉で無念を抱えたまま自害し、果てるのです。
源平合戦最後の決戦・壇ノ浦の戦い・・・つぶさに見ていくと、家の為、忠義の為、意地の為に命を懸けて闘った武将たちのそれぞれの思いがよくわかります。
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