承久の乱です。
相対したのは、京の朝廷と、東国武士を束ねる鎌倉幕府でした。
後鳥羽上皇が、幕府執権である北条義時追討の院宣を発したことで、その火ぶたが切って落とされました。
この時、後鳥羽上皇は治天の君・・・日本の頂点に立つ存在でした。
その後鳥羽上皇が、どうして武士に戦いを挑んだのでしょうか??
結果は、鎌倉幕府の圧勝に終わります。
その勝敗を分けたものは一体何だったのでしょうか??
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1203年、源頼朝が築いた鎌倉幕府の新たな将軍として、頼朝と北条政子との間に出来た次男・実朝が就任します。
この時、まだ12歳でした。
その若き3代将軍を支えたのが、政子の弟・北条義時でした。
北条氏は、血で血を洗う争いで幕府内での抗争を繰り返し、政敵を次々と排除。
幕府の政務を担う政所別当に加え、軍事を司る侍所別当にも就き、義時は将軍を補佐する執権として幕府No,2の地位を築きます。
当初、将軍実朝は、義時らに政務を任せていましたが、成長するにつれて自らで政を行おうと、為政者の手本を求めました。
それが、実朝の名づけ親でもある後鳥羽上皇だったのです。
わずか4歳で将軍となった後鳥羽は、19歳で長男の土御門天皇に譲位、上皇による政治・・・院政を敷き、絶大な権勢を誇っていました。
後鳥羽上皇とは・・・??
資質として歴代の天皇で最も有能な傑出した人物でした。
しかし、自信がありすぎました。
そんな後鳥羽上皇から、政を学ぼうと、実朝は上皇に近づき、蹴鞠や和歌を通じて信頼関係を築いていきます。
上皇側にも、実朝に近づきたい思いが・・・
幕府を実朝を通じて遠隔操作しようと考えていました。
後鳥羽上皇は、将軍・実朝を、自分の私的グループに引き入れたかったのです。
後鳥羽上皇は、実朝を取り込むため、自分のいとこを実朝の正室に迎えさせ、姻戚関係を結ぶなどの手を打ちます。
その思惑通り、実朝は上皇に心酔・・・
”山がさけ 海はあせなむ 世なりとも
君にふた心 わがあらめらも” by実朝
後鳥羽上皇は、このまま実朝を思いのままに操り、幕府とうまくやっていけるとそう考えていました。
後鳥羽上皇33歳の時・・・
”人もをし 人も恨めし あぢきなく
世を思ふるゑに もの思う身は”
上皇の抱く不満とは・・・??
朝廷と幕府・・・不協和音
当時、諸国を統治する守護と、朝廷の公領・荘園の管理をする地頭の任命権は、幕府が握っていました。
それは、初代将軍・源頼朝が武士の世を築く根幹として強引に朝廷に認めさせた権利でした。
これが後鳥羽上皇が抱く不満の火種でした。
熊野三山を参詣する熊野詣に熱心だった後鳥羽上皇は、その費用を調達するため沿道の地域への課税を考えます。
その為には、京から熊野三山までの道が通る和泉国と紀伊国の守護が邪魔になると・・・その罷免を幕府に要求しました。
しかし、幕府はこれを拒否。
さらに、「朝廷への実入りが少なくなるから、備後の公領の地頭を罷免せよ」
地頭は、公領や荘園を管理することで、年貢の一部を管理費として得ていました。
その地頭がいなくなれば、朝廷の取り分が増えると上皇は罷免を命じたのです。
この要求に対しても、幕府は受け入れませんでした。
どうして頑なに幕府が拒んだのか・・・??
頼朝が幕府を造った時から、鎌倉殿の幕府は武士たちを守る組織でした。
それが存在意義でした。
それがゆえに、多くの武士が御家人となったのです。
守護や地頭は御家人が任命されます。
幕府は、御家人である地頭を守るために、罷免要求には従えなかったのです。
幕府成立以前には、武士が朝廷の言うことを聞かないということはあり得ませんでした。
命令に逆らい、朝廷の権威を傷つけるようになった幕府に、後鳥羽上皇は強い不満を抱くようになったのです。
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後鳥羽上皇の幕府への不満が募る中、事件が起こります。
1219年1月27日、実朝の昇進を祝う儀式が鶴岡八幡宮で執り行われました。
ところが、そのハレの席で・・・鶴岡八幡宮を管理する別当・公暁によって、実朝が暗殺されたのです。
公暁は、実朝の甥にあたりました。
源頼朝亡き後、嫡男・頼家が2代将軍となっていましたが、北条氏が幕府幹部と対立し、将軍職を追われてしまいます。
この時、頼家の嫡男・一幡がすでに亡くなっていたので、頼家の次男・公暁と、頼家の弟・実朝。
結果、将軍となったのは、北条氏に都合のいい実朝でした。
公暁は、将軍になれなかったことを恨み、実朝を殺したと言われていますが・・・黒幕がいたという噂も・・・。
それは義時・・・??幕府の実権を握るため将軍・実朝を排除したともいわれています。
それとも後鳥羽上皇??表面上は昵懇にしていたものの、邪魔な幕府TOPを消そうとしたとも言われています。
しかし、双方とも、実朝が亡くなってのメリットはありません。
そうなると、やはり公暁の単独犯行ではないのか・・・??
幕府と朝廷をつないでいた実朝を失ったことで、両者の関係は急速に冷え込んでいきます。
後鳥羽上皇は、実朝暗殺を嘆き、警護を怠った幕府に不信感を抱くようになります。
そして、執権・北条義時に、こんな要求を突き付けました。
「亀菊に与えた所領、摂津国の荘園の地頭を罷免すべし」
亀菊とは、上皇が寵愛した女性です。
その亀菊が、自分の荘園の地頭を辞めさせてほしいとおねだりし、上皇がそれを受けて幕府に命じたのです。
どうしてこの時に・・・??
それは、踏み絵でした。
義時や政子が自分の言うことを聞くかどうかを試そうとしたのです。
対応に苦慮した義時ら幕府幹部は、協議を重ねます。
そして、義時の弟・時房が一千騎を率いて上洛します。
上皇に、幕府の返答を伝えます。
「頼朝公が、恩賞として任命された地頭を、大した罪もないのに罷免することができませぬ」
意のままにならない幕府に対して、後鳥羽上皇は反幕感情を強めて行きました。
一方、幕府は、1219年、摂家の九条家から、源氏の血をわずかにひく三寅(のちの4代将軍・藤原頼家)を招聘します。
ところが、朝廷の内裏を警護する大内守護を務めていた源頼茂が、源氏の血を引く我こそが将軍になるべきと謀反を起こします。
謀反は鎮圧されたものの、内裏の一部が消失、その修理費用捻出のために増税を行いますが、御家人や寺社などから強い抵抗を受けてしまいます。
その状況を幕府は静観・・・
もともと、将軍の後継をめぐる諍いが原因にもかかわらず、それらの抵抗を押さえない幕府に対して、後鳥羽上皇の不満はついに限界に達しました。
そして、その怒りの矛先は、幕府を束ねる執権・北条義時に向けられたのです。
決戦・・・朝廷VS.幕府
1221年6月5日、鎌倉幕府の大軍が、尾張一宮に到着します。
承久の乱合戦①美濃・尾張の戦い
敵方に後鳥羽上皇がいないことを確認した幕府軍総大将・北条泰時は、躊躇することなく上皇軍に攻めかかりました。
その攻撃に耐え切れず、上皇軍は敗走・・・
承久の乱合戦②砺波山の戦い
6月8日、北陸方面を進む幕府軍4万・・・
越中加賀の境に位置する砺波山で上皇軍と対峙します。
圧倒的な兵力差を前にして、上皇軍は相次ぎ投降・・・
ここでも敗走を余儀なくされたのです。
後がない上皇軍は、京の都に近い宇治川を最後の防衛線として決戦に挑みました。
承久の乱・・・最大の激戦の始まりです。
承久の乱合戦③宇治川の戦い
6月13日、幕府軍総大将・北条泰時は、全軍を宇治川に集中させ、防衛線突破を図ります。
しかし、上皇軍は橋を落とし、必死の抵抗を見せます。
攻めあぐね、立ち往生する幕府軍の兵たちに、上皇軍の屋の雨が降り注ぎました。
苦戦を強いられた幕府軍は、一旦兵を引きます。
6月14日、泰時は、川を渡って攻めることを指示します。
しかし、宇治川は、折からの豪雨で激流と化していました。
重い具足を身につけていた武将たちは、増水した川に次々と沈んでいきました。
「もはや・・・これまでか・・・!!」
泰時は、自ら川の中へ進もうとします。
しかし、周囲にいた武将たちに止められ、冷静さを取り戻すと・・・
近隣の家を壊して筏を作り、川を渡ることに成功します。
こうなれば、数に劣る上皇軍は敵ではありません。
その日のうちに、京になだれ込み、上皇軍を制圧します。
後鳥羽上皇は、泰時に使いを送り、執権北条義時追討の宣旨を撤回し、降伏しました。
幕府は承久の乱に勝利したのです。
後鳥羽上皇が宣旨を下してから、わずか1月での決着でした。
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どうして上皇軍は完敗を喫したのでしょうか?
敗因は、後鳥羽上皇の誤算でした。
誤算①己の権力への過信
自分が出した宣旨に逆らえるものなどいない・・・
朝廷が敵に回るとなれば、北条義時は孤立し滅びるだろうと、たかをくくっていました。
しかし、東国武士のほとんどは、北条氏につき、京周辺にも幕府に味方する者がいました。
御家人たちは、朝廷の意向よりも、幕府への恩義を選んだのです。
誤算②三浦市の篭絡の失敗
上皇は、北条氏の幕府内最大のライバル・三浦氏を味方に引き入れ、強力な援軍にしようと考えていました。
そこで、京にいた三浦一族の三浦胤義を味方につけますが・・・鎌倉にいた当主・三浦義村をどう取り込むのか??
義村の弟である胤義は、上皇にこう進言します。
「兄は恩賞を与えれば、必ずやこちらにつくでしょう」by胤義
「であれば”恩賞は思いのままに”と書いた密書を送ることにしよう」by後鳥羽上皇
しかし、幕府側が有利と見ていた義村は、その誘いに乗りませんでした。
それどころか、執権・義時に上皇からの密書を渡しました。
鎌倉で、三浦義村が蜂起してくれると信じていた上皇にとって、痛すぎる誤算でした。
後鳥羽上皇の独断専行が過ぎたこと、恩義のために幕府方につくという御家人たちの心情が読み切れなかったことで、上皇軍は完敗を喫したのです。
乱の後・・・公武逆転
後鳥羽上皇は、上皇軍敗北の報せを受けると、幕府軍の陣営に使いを送ります。
「此度の合戦は、謀臣等が申し行ふところなり」
と、責任を臣下に押しつけます。
しかし、執権・北条義時の裁断は苛烈なものでした。
上皇方に加わった公家、御家人はすべて処刑。
さらに、「西面の武士」は廃止、「北面の武士」は縮小・・・朝廷から武力を剥奪しました。
軍事力を失わせて幕府に逆らわせない・・・
7月6日、後鳥羽上皇は鳥羽離宮に移されます。
7月8日には出家・・・
そして、死罪の次に重い配流の沙汰が下されます。
後鳥羽上皇の息子たち・・・土御門上皇は土佐へ配流、順徳上皇は佐渡へ配流となりました。
さらに、幕府は上皇の孫・仲恭天皇を廃位させ、新たに御堀河天皇を擁立。
以後、幕府は皇位継承に関与し、朝廷は幕府の意向なしに天皇を決めることができなくなりました。
京からおよそ300キロ・・・日本海に浮かぶ絶海の孤島・隠岐・・・罪人用の輿に乗せられた後鳥羽上皇は、二週間ほどかけてこの島に流されてきました。
これまでとは違う粗末な屋敷で、謹慎生活を送りました。
楽しみは和歌を詠むことぐらいでした。
”我こそは 新島守よ 隠岐の海の
荒き波風 心して吹け”
隠岐に来て19年後・・・1239年後鳥羽上皇崩御。
一方、幕府の支配は全国へと広がっていきます。
公家政権は没落し、武士による新しい世が始まったのです。
朝廷はこの後、600年以上、形式的な存在となり、長き武家政権が続くことになります。
承久の乱は、まさに日本の歴史の大きな転換点だったのです。
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