日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:田沼意次

1787年江戸・・・激しい物価高に悩んでいました。
原因は凶作と商人たちによる買い占め・・・米の値段は例年の4倍にまで跳ね上がりました。
生活に行き詰まり、橋や船から川に身投げする人が後を絶ちませんでした。
ところが幕府は助けてくれない・・・!!

「昔、飢饉の時には犬を食べた、今回も犬を喰え」

人々の我慢は限界を超え、米屋を狙った一斉蜂起が起きました。
江戸時代最大規模の打ちこわし「天明の打ちこわし」です。
将軍のおひざ元での大暴動は、幕府に強い衝撃を与えました。
打ちこわしは、政権交代のきっかけとなり、後に寛政の改革を行う松平定信の登場をもたらします。

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1787年5月20日、江戸。
どこからともなく集まった町人たちが米屋を狙い、打ちこわしを行いました。

”店にある米俵はもちろん、店に置いていた米俵も担ぎ出して切り裂き、路上にぶちまけた”

打ちこわしの原因は例年の4倍以上となった米価の高騰でした。
打ちこわしは20日に深川と赤坂で始まり、21日には江戸一帯へと広がりました。
米屋を中心に、油屋、乾物屋、薬屋などが襲われました。
男たちは身の回りにあった木槌や鍬などを持って参加しましたが、とりわけ多くのものが手にしたのが鳶口でした。
火事の際、延焼を防ぐために周囲の家を引き倒したり、解体した木材を運ぶための道具です。
町々には、火事に備えて数多くの鳶口が保管されていました。
しかし、打ちこわしといっても家そのものを壊したり、暴れまわったりするものではなく・・・
記録によるとそれは・・・

打ちこわしを始まめる前に数人で店に入りきちんと火の元を消す・・・
火事を起こして周囲に迷惑をかけることを避ける気配りからです。
打ちこわしは、リーダーがうつ拍子木で始まります。
さらに、再び合図が鳴ると打ちこわしを止め、みんなが一斉に休憩をとりました。
次の合図でまた打ちかかる・・・規律のある行動でした。

店の商売道具は滅茶苦茶にしたが、店の人には手出しせず危害を加えることはありませんでした。
混乱に乗じて物を盗むことも禁じ、万が一盗みを働く者がいたときは、仲間内で即座に打ち殺すという申し送りまでありました。
こうした打ちこわしの様子を見た水戸藩士の証言は・・・

「誠に丁寧、礼儀正しく狼藉に御座候」

狼藉には違いないが、秩序と統制を重んじた一風変わった暴動だったのです。
打ちこわしに参加した町人たちは目に余るほどの大勢と記録され、打ちこわしの被害に遭った商店は1000軒と言われています。
参加者は日増しに増え、広がっていきました。
事態収拾のため、江戸の治安を守る与力・同心が出動します。
この時彼らを指揮したのが、鬼平でお馴染みの長谷川平蔵でした。
しかし、蜂起した町人たちのあまりの規模に、与力と同心たちだけでは多勢に無勢・・・
騒ぎを収めることはできませんでした。
こうして江戸の大混乱は5日間にわたって続いたのでした。

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18世紀、江戸の人口は100万を超え、その半分を町人が占めていました。
町人の大半は、家を借りて長屋で暮らす店子でした。
長屋では3坪か4坪の部屋にそれぞれの家族がひしめき合って暮らしていました。
仕事は異なれど、長屋で暮らす者は稼ぎで食料を買って暮らすその日暮らし・・・
食事は白米にみそ汁と漬物が基本の一汁一菜。
おかずは質素でも江戸っ子は白米を好んで食べました。
そんな江戸の庶民を直撃したのが、急激な物価高でした。
大豆や麦、そばなど穀物全般が値上がりしましたが、激しく値上がったのが米でした。
例年ならば100文で1升1合買えましたが、打ちこわしの正月には値上がりによって100文で6合~7合しか買えなくなりました。
米の値上がりは、留まることを知らずに、4月下旬には100文で5合~4合半、その10日後には4合半~4合・・・さらに1週間後には3合・・・その2日後には2合半にまで高騰しました。
例年の4倍以上、米価高騰が庶民を襲いました。
棒手振の稼ぎが1日300文・・・当時の人は、ひとり1日3合の米を食べたと言われています。
日銭暮らしの町人が一家を養うことは不可能となりました。

米価高騰の裏には・・・1783年浅間山の大噴火と異常気象がもたらした天明の大飢饉がありました。
降り続く火山灰と冷夏が、東日本で農作物に深刻な被害を及ぼしました。
さらに追い打ちをかけたのが、大洪水!!
関東一帯が大洪水に見舞われました。
打ちこわしの前年、全国の米の収穫量は例年の1/3にまで減少していました。

幕府も手をこまねいていたわけではなく、品不足による米価高騰を防ぐ対策を打っていました。
それが通称”米穀売買勝手令”です。
当時、決められた業者のみが米の販売や流通を行うことを許されていましたが、それを撤廃。
素人・・・それまで米取引を行っていなかった商人も自由に売買してもいいというものでした。
新たな商人の参入によって、米の流通量を増やして米価の引き下げを狙った緊急時の時限立法です。

しかし、この政策は、幕府の意図とは逆の方向に・・・
新たに参入した商人たちの中に、投機目的で米を買い占めて価格のつり上げを狙うものが現れました。
買占めによって米価は一層高騰します。
幕府は、米価高騰を収めるため、商人による米の買い占めを禁止します。
しかし、これが出されても、米の買い占めは治まることはなくあがる一方でした。
どうして買占めは止まなかったのでしょうか?
それは、商人たちが法の目をかいくぐったからです。
米価高騰の背景には、商人が旗本と結託して、賄賂などを贈って旗本の屋敷に預けて米を隠す・・・
市中に出回る米が少なくなるので米の値段が上がります。
これは、将軍直属の隠密であるお庭番が、町で広がる噂の実情を探っています。

米の値上がりと不正への怒りが、人々を打ちこわしに向かわせました。

打ちこわしがあった町の辻には、木綿の旗が掲げられていました。
その旗には、打ちこわしに及んだ理由と幕府への要求がびっしりと書かれていました。

”老中をはじめ町奉行や諸役人が、結託して悪事を働いたため、その罪により打ちこわしを行った
 もし、幕府が徒党の者をひとりでも逮捕し、罪を科すならば老中や町奉行、諸役人を行かしてはおけない
 その為の人数は、何人でも動員するし、このことを厭うことはない 生活の成立を保障する政策を実施すべし”

木綿の旗に記された言葉には、打ちこわしは正義の行いという強い思いが書かれていました。
怒りの矛先は、直接的には不正を行う商人に向かいます。
しかし、為政者たちにも向いていきます。
為政者は、全ての人の生活を成り立たせる大きな役割があるからです。
今、自分たちの生活が成り立たなくなっている・・・
これは正義の行いだと、自分たちは思っているのです。
自分達の正義の行いを取り締まるような為政者がいたならば、本来の正義に反するという思いがありました。

打ちこわしを目撃した人は・・・

「誰一人打ちこわしを憎むものなし」

打ちこわしは江戸に暮らす人々に強く支持されていました。

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1787年5月・・・江戸では米の値上がりの影響で家賃が払えなくなり、長屋を追い出される町人が続出し、飢えに苦しんでいました。
そして、思わぬ社会現象が起きました。
隅田川にかかる永代橋や両国橋から多くの人が身を投げ、溺死する人が続出しました。
その為、見張りが増やされ、橋の上での行動が監視されるようになりました。
橋からの身投げが難しくなると、隅田川の渡し船から身を投げるようになり・・・渡し船が停止されました。

米の値上がりで最も苦境に立たされたのが、長屋に住むその日暮らしの店子でした。
かつて享保の大飢饉の時、幕府は多くのためにお救い米を出しました。
今回も、店子たちの間でその期待が高まりました。
身分の低い店子が、町奉行に直接願い出ることなど許されません。
そこで、店子たちは自分の暮らし町の責任者である町名主にすがりました。
町名主にお救い米嘆願を訴えたのです。
ところが、町名主たちは、町奉行から、店子たちが騒動を起こさないように監視するように言われていました。
町名主たちは板挟み状態・・・苦しい立場にありました。
そうした町名主たちの代表が、商業の中心地・日本橋界隈を取り仕切っていた3人の年番名主でした。
上からの命令と、下からの訴えに挟まれた彼らは・・・??

お救い米を願い出る・・・??
町の者たちをなだめて騒ぎを防ぐ・・・??

5月18日、年番名主たちは決断を下します。
それは、店子たちに寄り添い、お救い米を願い出ることでした。
嘆願書は、江戸の行政と司法の責任者である町奉行宛に出されました。

”町の者たちはみな、困窮しています
 お救い米をいただけないと、餓死者が出続けます”

その文末には、

”お慈悲が全ての者たちに行き届くよう、甚だ恐れ入りつつお願い奉ります
 町中すべてが嘆いているため、やむを得ず申し上げた次第です”

必死の思いで町人たちが出した嘆願書・・・果たしてその願いは・・・??

江戸の年番名主の訴えから遡る事1年・・・
幕府を大きく揺るがす事態が起きていました。
1786年8月25日、10代将軍徳川家治死去。
これによって、およそ20年間にわたって老中として幕政を取り仕切ってきた田沼意次が失脚。
以後、田沼派と、白川藩主の松平定信を老中にしようとする反田沼派が反目する事態となります。
城内は緊張状態にありました。
そうした中、年番名主によるあのお救い米の嘆願書が提出されました。

5月19日、町奉行所からその回答が出ます。
しかし、それは驚くような内容でした。

男性は米2合、女性と子供は米1合を時価で売り渡すというものでした。

さらに、米の代わりに大豆を食べることを推奨するおふれが出されました。
しかし、大豆もまた高騰!!
無償のお救い米を待ち望んでいた江戸の町民たち・・・
その期待は、すっかり裏切られたのです。
おふれが出された日、米価が20%上昇。
さらに、北町奉行・曲淵景漸が暴言を吐いたという噂が・・・

「昔、飢饉のときに犬を食べたことがある
 今回も犬を食え」

町人たちの怒りは頂点に達しました。
そして翌日の5月20日、打ちこわしが始まりました。
5日間に渡り江戸の町は大混乱に陥ります。
事態を収拾すべく、幕府は遅ればせながら動き出しました。
お救いの実施を決定!!
まず、奉公人を除くすべての町人に米と大豆を3合ずつ支給されました。
さらに幕府は、20万両を支出し、商人から買い集めた米を安価で販売。

町人たちは、水を得た魚の如く喜び安堵したといいます。
町人たちの願いに向き合おうとしなかった着た町奉行曲淵景漸が打ちこわしの責任を取らされ解任。
さらに、田沼派の重鎮で御側御用取次の横田準松が将軍に打ちこわしを隠したとして失脚。
これをきっかけに、政治の主導権を反田沼派が掌握。
翌月には、松平定信が老中に就任しました。
民衆の蜂起によって政権が交代したということは、江戸時代始まって以来、初めての出来事でした。

田沼派に変わって政治の実権を握った松平定信は、米価引き下げのための政策を次々と打ち出します。
幕臣と商人との癒着や賄賂を厳しく取り締まります。
米を大量に必要とする酒の製造を1/3に制限。
さらに、地区ごとに町会所と呼ばれる米蔵を設置。
50万人が1か月食べられる米を備蓄しました。

これらの政策が功を奏して、天保の飢饉の際には江戸で打ちこわしが起きることはありませんでした。
町人たちの怒りの抗議が世を変えたのです。

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日本人が知らされてこなかった「江戸」 世界が認める「徳川日本」の社会と精神 (SB新書)

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およそ260年に渡り泰平の世を築いた江戸幕府・・・
その権威の頂点に立った将軍は、15人!!
在位期間をランキングにすると、栄えある一位に輝いたのは、11代将軍・徳川家斉。
なんと、その在位期間は50年!!
最も長く武家の頂点に立ち続けた男!!
にもかかわらず、ほとんど取り上げられることもなく・・・家斉って誰??
「続徳川実紀」によると・・・

”遊王となりて数年を楽しみたまふ
 嗚呼 福徳王と申したてまつるべきかな”



1773年、徳川家斉は、御三卿の一橋治済の嫡男として生まれます。
幼名は豊千代。
御三卿とは、田安、一橋、清水の三徳川家。
8代将軍・吉宗が創設したもので、徳川将軍家に世継ぎがない場合に、御三家からではなく吉宗の血筋の御三卿から将軍を輩出できるようにしました。

時は10代将軍・徳川家治の治世・・・
跡継ぎとなる時期将軍は、家治の嫡男・家基と決まっていました。
家基に万が一のことがあった場合、第2、第3の将軍候補も考えられていました。
第二候補は田安家の7男で吉宗の孫・賢丸(のちの松平定信)、第三候補が豊千代(家斉)でした。
豊千代は、吉宗のひ孫にあたります。
御三卿の格式は、田安家の方が上で、吉宗との血筋も、孫の賢丸の方がひ孫の豊千代よりも近く、この時点で豊千代が将軍になれる可能性はかなり低かったのです。

1779年、次期将軍に決まっていた・家基が18歳の若さで急死。
それを受けて将軍の跡継ぎとなったのが、21歳になっていた定信・・・ではなく、なぜかまだ9歳だった豊千代でした。
定信よりも格下だった豊千代がどうして将軍の跡継ぎに慣れたのでしょうか?

1773年、定信は、突然、幕府から白河松平家に養子に行けと命令が出されます。
将軍の家族から普通の大名に行けと言われてしまうのです。
定信は、田安徳川家を出され、将軍になれる資格を失ってしまったのです。
その裏で暗躍していたのが、豊千代の親の一橋治済だったと言われています。
治済は、嫡男である豊千代を将軍にしたいと強く望んでいました。
その為、格上である田安家の定信は目障りな存在でした。
そこで、時の老中・田沼意次と手を組み、定信を白河へ追いやったといいます。
田沼意次の弟が、一橋家の家老を務めるなど、田沼家と一橋家の関係が深くありました。
治済は、なんとか息子の豊千代を将軍にしたいと思います。
優秀と評判の定信がいることは、豊千代を将軍にするうえで邪魔だったのです。
田沼も、将軍が変わると前の時代の権力者は必ず失脚することを知っていました。
次の時代を考えたのです。
そんな二つの思惑が定信を排除したのです。



清廉な人柄で知られる定信は、賄賂が横行する田沼政治を批判していました。
その為、定信が将軍となれば、田沼の失脚は必至!!
その点、幼い豊千代が将軍になれば扱いやすいと考えたのです。
こうして利害が一致した二人が、有力候補・定信を早々に排除したため、豊千代は将軍の後継になれました。
そして7年後・・・将軍・家治が死去すると・・・
1787年、豊千代は、15歳で11代将軍・徳川家斉となります。

江戸城内では・・・
「家基さまは、本当は毒殺されたらしい・・・」
と、噂が立ちます。

家基が死んで一番得をするのは、我が子を将軍にした治済だということで、首謀者ではないかと噂までたちます。
真相はわかりませんが、家斉の父の野望はまだまだ続きます。
家斉が将軍となって1カ月がたった頃・・・江戸で前代未聞の事件が起きます。
天明の打ちこわしです。
1783年、浅間山が大噴火!!
その火山灰が、田畑をを覆ったことや、悪天候が続いたことで、大飢饉が発生!!
深刻なコメ不足となった上に、商人による米の買い占めが起き米価が高騰!!
これに反発した5000人もの町人が、米問屋を襲い、略奪する暴動を起こしたのです。
将軍のおひざ元である江戸での騒動・・・
その責任を取らされる形で田沼派は幕府から一掃されます。
そして、新たに老中として就任したのが、家斉と将軍の座を争った松平定信だったのです。

治済は、息子を将軍にする目論見を達成しました。
自分の子供の時代には、権力者は自分一人だけでいい・・・!!
そうなると、批判が高まる田沼意次は邪魔だ!!
まさに、身内である徳川一門で新しい政治を始めた方が得策なのではないか??と考えます。
そこで、田沼から松平定信に、乗り換えたのです。
定信は、逼迫していた白川藩の財政を立て直し、評判となっていました。
治済は、その手腕を利用し、徳川一門の手で政治をしようと考えたのです。
家斉・18歳、定信30歳・・・!!
こうして定信は、若い将軍・家斉のもとで、理想の政治を行っていくことになります。

寛政の改革です。
商業を重視した田沼意次の重商主義は、賄賂の温床となり、社会を乱すと定信は質素倹約を奨励。
町人の女房が髪結いを呼ぶことは贅沢だと禁じたり、障子の張替えの回数、ひな人形の大きさまで規制し、締め付けを行いました。
その結果・・・町から活気は消え、経済は停滞・・・やがて、倹約の締め付けが幕府内にも及ぶと、家斉はその窮屈さから対立するようになります。
そんな2人の関係が決定的となった事件は・・・
家斉は、自分を将軍にしてくれた父・治済に大御所の号を送りたいと考えていました。
しかし、定信はこれに対して先例がないことだと反対します。
将軍となった人が「大御所」になれるので、なっていない治済が「大御所」になることはできない、筋が通らないという定信。
何度も何度もこの問答が繰り返され、そのうちに家斉も堪忍袋の緒が切れて・・・
刀を抜いて成敗しようとしました。
ところが、そこにはおこしがいて

「定信殿、家斉さまからお刀をいただけるようでございます
 ちょうだいなされ」

家斉は、かざした刀を放り出しておくにはいってしまいました。

緊張した場面が、何回か繰り返されたのです。

1793年、松平定信・老中を罷免される!!

家斉は、古代中国の歴史書・三国志好きで、劉備玄徳の命参謀として知られる諸葛孔明の肖像画を自ら描き、掛け軸にするほどでした。
ある日のこと・・・この孔明を刺して・・・

「何故、(諸葛孔明のような)幕臣がいないのか?」by家斉

その場にいた幕臣たちは凍り付きました。

「それもそうだな・・・上に劉備玄徳のような(立派な)主君もいないのだからなあ」by家斉

そう言って笑ったといいます。
家斉は、自分自身に対しても、冷静に判断できる将軍でした。



徳川家斉の将軍就任から時は経ち・・・
家斉は、江戸幕府歴代の中で大奥を最も活用した将軍と言われ、正室以外に多くの側室を持ちました。
日頃、精力増強のためにオットセイの睾丸の粉末を飲んで・・・オットセイ将軍と言われています。
一説に、生涯に持った側室は40人、そのうち16人が家斉の子を身ごもり出産、その数は、徳川諸家系譜で名前が確認できるだけでも男子25人、女子27人の計52人!!
流産した子などを含めると、家斉は55人もの子をもうけたと言われています。
中には、2人の側室が同時に出産したこともあったとか・・・

しかし、家斉の名誉のためにいうと・・・
多くの子を持った理由・・・それは好色家というだけではなく、10代将軍・家治には男子が2人しか授からず、次男は生後3か月で早世・・・そのうえ、跡継ぎだった家基も急死。
自分の血を将軍として残せませんでした。
家斉は、このことを反面教師としてとらえてました。
徳川本家が途絶えたことで、紀州徳川家となり・・・結局、紀州徳川家も一橋という違う家から将軍を出すこととなります。
この新々の将軍家を、自分たちの血脈で維持していくためには、たくさん子供を作り、途絶えないようにしなければならない・・・!!
家斉は、使命と思っていたのかもしれません。
こうして、生涯に55人もの子をもうけた家斉でしたが、皮肉にも、それが幕府の危機を招くことになるのです。
家斉がもうけた55人の子供のうち、健康に育ったのは男子14人、女子13人でした。
嫡男が早世したため、次男の瓶次郎が嫡男となりました。
問題は、それ以外の子の行く末でした。
幕府は引き取り先を探すことに奔走します。
その結果、男子の場合は半ば押しつけるように大名への養子縁組が行われます。
幕府も、引き取り先には気を遣って、格式を上げたり、借金の返済を免除したり・・・
当然、貸していたお金が返って来なくなれば・・・幕府の資産は激減です。
姫君たちは・・・??
積極的に外様大名と縁組をさせました。
大変だったのは、婚礼にまつわる費用でした。
水戸藩に行った峯姫は、お化粧料1万両と、お手当1万両を持参金として付けています。
おまけに水戸家が借りていた借金2万2000両の返済を免除しました。
莫大な費用のために、幕府の財政がひっ迫し、危機を招いたのです。

家斉は、就任してしばらくの間は老中・松平定信がいたことで、質素倹約を心がけていました。
しかし、定信を罷免し、新たな老中にいうことを何でも聞くイエスマンの水野忠成をつけると一変、贅沢三昧に・・・!!
浪費をかさね、更なる財政危機を招くのです。

東京・汐留にある浜離宮恩賜庭園は、かつては浜御殿と呼ばれた将軍家の別邸でした。
見事な庭園は、家斉が莫大なお金を投じて整備させたものです。
当時、家斉は、浜御殿で園遊会を度々開催。
幕臣を招いて遊ばせたり、釣りをさせたり、庭木を与えたりして労ったといいます。
家斉も、大奥の女性たちと舟遊びに興じたり、巨大なクジラを運ばせて見学したりと楽しんでいました。
その贅沢ぶりは、大奥にも波及・・・
家斉時代の大奥は、3000人を超える大所帯で、規模は最も膨れ上がっていました。
当然、維持するための費用も莫大!!
正室の小遣いは、年間5000両+銀百貫・・・現在の価値で8億円!!
側室の小遣いなども合わせると、年関係費は30~40万両!!
幕府の年間経費140万両の1/4を大奥が占めていました。
江戸城に蔓延した贅沢で享楽的な気風は、幕府の財政難をより深刻なものに・・・
定信の緊縮財政による100万両の蓄えが半分になると・・・家斉も危機感を覚えます。
そして、自らが招いた財政危機を乗り越えるため、ある策を講じるのです。



老中・水野忠成に命じたのは、貨幣改鋳・・・
市中に流通している貨幣を回収し、鋳つぶして金や銀の含有量を改訂した新たな貨幣を作り、それを市中に流通させるというものでした。
貨幣改鋳を行うのは、8代将軍・吉宗以来で、しかも家斉は在位中、小判に限らず銀貨など8回も貨幣改鋳を行っています。
例えば、江戸時代市中に出回った小判は10種類あります。
大きさが違うだけでなく、金の割合も異なりました。
それまでの元文小判が金品位65%なのに対し、家斉が懐中して作らせた文政小判は56%。
江戸時代に作られた小判の中では最低の品位でした。
その文政小判を、金品位の高い元文小判と等価交換し、それをまた金の少ない文政小判に改鋳すれば枚数が増え増収になる・・・それが幕府の資産となりました。
こうして得た利益は、1550万両!!
家斉は、貨幣改鋳を行うことで、幕府の年間予算の10倍近い利益を得て財政を潤わせました。
しかし、その一方で、質の悪い貨幣が大量に出回ったため、お金の価値が下がり物価が上昇!!
インフレを招きました。
酒・1割、味噌・2割、塩・4割・・・米に関しては、7割も価格が上昇!!
庶民の生活を圧迫しました。

経済活動が活発になったことで、庶民文化が発展します。
浮世絵も爛熟期を迎えます。
風景画という新たなジャンルを開いたのは葛飾北斎。
最高傑作シリーズ・富岳三十六景・・・たぐいまれなる才能が生んだ富士の姿に、人々は魅了されました。
これに対抗し、歌川広重が描いたシリーズが東海道五十三次。
空前の旅行ブームに乗って、こちらも大ヒット!!
作家たちの腕も絶好調。
文学の分野でも続々と傑作が生まれます。
十返捨一九の「東海道中膝栗毛」・・・弥二さんと喜多さんの伊勢詣での道中を綴ったこの小説は、ベストセラーとなります。
滝沢馬琴が、「里見八犬伝」を描き始めたのもこの頃です。
こうした江戸庶民文化が花開いたのも、家斉の贅沢のたまものでした。

農民から年貢をとり、商人から税金を取ったとしても、武士階級が倹約でお金を貯めこんでいたら市中にお金が還流しません。
将軍の最大の仕事は、贅沢をしてお金を還流させることなのです。
家斉も、壮大なおすそ分けをしていると思っていました。
自由な風潮により、庶民の不満も少なく、安定した政権運営ができました。

徳川家斉が、幕府の中で最も長い政権を築けたのは、
①優秀な人材を適材適所に起用した
②自由な風潮で庶民の不満が少なかった

家斉は、生まれながらにして体が丈夫で、一年中薄着で過ごし、将軍在任中寝込んだのは、風邪を引いた数回だけ。
健康には特に気を遣い、毎朝江戸城内での散歩を欠かさなかったといいます。
さらに、家斉はしょうがを決行をよくし、身体を温める効果がある健康食として毎日欠かしませんでした。
そして・・・牛乳を煮詰めて丸めたチーズのようなものを作らせ、精力減退や疲労衰弱に効くと食べていました。

③常に健康に気づかい長生きだったのです。

だからこそ、長期政権を築くことができたのです。

1837年、65歳となった家斉は、嫡男の家慶に将軍職を譲り隠居。
将軍在位は50年に及びました。
その4年後・・・1841年閏1月13日・・・家斉は、激しい差し込み・・・疝癪に襲われました。
急性腹膜炎だったと思われます。
そして、そのまま帰らぬ人となりました。
69歳でした。

長い治世の中で、優秀な幕臣を巧みに使い、自らは自由に時代を謳歌した家斉・・・
まさに、遊王と呼ばれるにふさわしい、最強の将軍でした。

”武門の天下を平治すること これに至りて その盛を極むと云ふ”by頼山陽

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田沼意次は、遠江国相良を領地とする大名です。
相良城は、三層の櫓を持つ広壮な城でしたが、意次の失脚後、破却されました。
意次は、一代で蔵米俵の身分から5万700石の大名にのし上がり、老中として権勢を振るいました。
近年、意次が行った数々の経済政策が非常に進んだものだったとされ、開明的なリーダーとして再確認されています。
それを支えたのが、当時山師と言われていた人たちの存在です。
彼等が持ち込むアイデアを、意次は実行していきました。
しかし、天明の大飢饉が起きると批判が噴出!!
窮地に陥った意次の前に起死回生の壮大な一手が浮かび上がります。
果たして田沼意次は未来を見据えた政治家だったのか?
それとも、山師たちに踊らされただけだったのか・・・??



岐阜県五條市の南宮神社・・・
およそ270年前、周辺の村々120あまりの代表者がここに集結しました。
1754年から58年にかけての郡上一揆の始まりです。
騒動のきっかけは、財政難の郡上藩が強引な年貢の引き上げをはかったことでした。
郡上藩に限らず、当時全国で一揆が頻発していました。
8代将軍・吉宗が行った享保の改革によって農民らの年貢負担が増大していたからです。
この郡上一揆は、郡上藩内に止まらず、幕府中枢をも巻き込んでいきます。
農民たちの犯行に業を煮やした郡上藩主は、幕府老中らに助けを求め、幕府の命令として年貢を引き揚げさせようとしました。
しかし、各藩の内政に幕府が命令を下すのは、重大なルール違反でした。
事態を重く見た9代将軍・家重は、信頼する側近を真相究明の吟味に参加させます。
それが田沼意次でした。
意次は、手加減のない取り調べを行い、不正を行った老中らは厳しく処罰されました。
この働きをきっかけに、意次は幕政に大きな発言力を持つようになります。
この頃、幕府の最重要課題は、収入増加でした。
吉宗の時代に増えた年貢収入は頭打ちとなり、再び財政難に陥りつつありました。

このままではいずれ幕府財政は破綻する・・・
しかし、年貢に頼る今までのままでは限界がきている・・・!!

そこで意次が目をつけたのが商工業でした。
当時、大きく発展していたにもかかわらず、税を課されていませんでした。
意次は、商工業者に同業屋の組合・株仲間を結成させます。
鑑札を持つ者に、幕府は仕入れや販売の独占権を保障しました。
対象となったのは、廻船問屋・両替・酒造・質屋・米仲買・茶屋・湯屋・旅籠・髪結床・飛脚・鋳物師・塗物師・木地師・絞油屋など。
職人たちにまで及びました。
そして、独占権の見返りに、運上・冥加と呼ばれる営業税を納めさせたのです。
これは、幕府の財政のもう一つの柱となりました。
意次の経済財政政策を支えたのが、勘定奉行をトップとする勘定所・・・勘定所は、200人以上のスタッフが政策を立案し、実行する幕府の最重要機関となっていました。
それだけに、家柄に関わらず、業績次第で出世できる特別な組織でした。

田沼の時代に勘定奉行を務めたのは、松本秀持です。
松本秀持は、勘定所内から登用された人物で、元々は御家人・・・御目見以下でした。
人材を登用するのは能力主義だったようです。
勘定所のスタッフたちは、様々策を立案します。
そうした政策のひとつが、新貨幣の発行でした。
南鐐二朱銀・・・「南鐐」は、非常に良質な銀貨で、この銀貨8枚で小判1両と換えることができます。
この新貨幣の発行には大きな意味がありました。
通貨の東西統一です。
江戸時代、流通する通貨に東西で違いがありました。関東では金貨を、関西では銀貨を主に使っていたのです。
金と銀を交換する際は、両替商に持ち込み、手数料を払って交換する必要がありました。
しかも、両替相場は日々変動し、経済の発展と共に不便さが目立ってきていました。
幕府は、南鐐二朱銀の発行によって、金銀交換の相場を固定しようとしたのです。
これは、江戸時代始まって以来の大改革でした。
大坂の動かしている相場が日々変動するというのは、幕府としてもデメリットが多かったのです。
金貨単位の銀貨を運用、浸透させることによって、江戸幕府としては金貨経済圏を広げていきたかったのです。



さらに、長崎で行われていたオランダ、中国との貿易の拡大を図り、輸出産業を育成しました。
輸出品の主力となったのは、銅。
そして、干アワビ、フカヒレなどの俵物でした。
俵物100キロが、銀2キロになりました。
商工業への課税、新貨幣の発行、輸出産業の育成・・・
これらの増収策によって、幕府の御金蔵には300万両の蓄えが出来ていました。
1772年1月、田沼意次は、側用人のまま老中に就任します。
将軍の厚い信頼を後ろ盾に、幕政の実験を名実ともに握ったのです。

意次の新政策・・・それは、必ずしも好意的に受け取られたわけではありませんでした。
杉田玄白は・・・

世に逢ふは 道楽ものに おこりもの
          ころひ芸者に 山師運上
 
と詠んでいます。
山師とは、怪しげな金儲けを勘定所に持ち込む人を揶揄したものです。
批判したのは玄白だけではありません。
幕府お庭番が、将軍に提出した報告書には・・・
世間の評判として近頃山師のような人物があふれているとあります。
意次のもとには、金を生むアイデアを持った山師たちが続々と集まっていました。
その一人が、蘭学者・博物学者として知られる平賀源内です。
意次は、源内の能力に期待して、パトロンとなって新事業の後押しをします。
源内がエレキテルを開発した時には、意次の嫡男が見学に訪れています。

埼玉県秩父市の中津峡・・・
幕府の期待を背負った源内は、この川をさかのぼり、1766年鉱山開発に着手。
意次は、源内の豊富な鉱山知識をかい、その力を活用しようとしたのです。
しかし、鉱山開発は、目論見通りにはいかず失敗に・・・!!

千葉県北部の印旛沼・・・ここも山師の活躍の舞台となりました。
1780年、印旛沼干拓計画が提出されます。
提出したのは、蔵米200俵の昇進からこの地の大奸となった宮村高豊でした。
宮村は、用意周到にも大坂、江戸の商人から工事資金出仕の約束を取りつけていました。
計画は、印旛沼の沿岸部を埋め立てて、新田を開発するというものです。
見積もられた面積は、3900町歩!!
しかし、問題がありました。
利根川は、増水すると印旛沼に流れ込み、沼の周囲を水びたしにする・・・埋め立ての成功は、この利根川からの水をいかに制御するかにかかっていました。
1782年、印旛沼干拓工事が始まります。
沼の北側の工事と同時に、南側でも大工事が行われました。
印旛沼の水を江戸湾に流す掘割を作る工事です。
これで、利根川が増水しても、江戸湾に流れ、印旛沼は水はけのよい神殿に適した土地となる・・・!!
掘割工事の現場は熾烈を極め、混乱します。
工事は難航し、印旛沼と江戸湾を結ぶ水路が完成するのは昭和になってからのことでした。
どうして意次は、危うい政策に踏み出すことができたのでしょうか?
そこには、人脈がありました。
意次は、娘たちを各地の大名家へと嫁がぜ、息子たちを養子に送り込みました。
血縁で結びついた田沼派を作り上げていたのです。
さらに、嫡男である意知を若年寄に引き上げ、自分の政策を受け継がせる体制を用意します。
最盛期には、なんと老中全員が田沼家の親戚という状況でした。
当時の随筆には、諸侯が意次に気に入られようと我も我もと縁結びを望んだことが書かれています。
さらに、大奥の実力者ともつながりを持ち、大奥の支持を得ることにも成功していました。
意次は、有力な味方を集めることで新たな政策を推し進めていったのです。



順風満帆に見えた意次の政治・・・
しかし、天明年間に入ると状況は一変します。
1783年、浅間山が噴火!!
大量の噴出物は、天候不順を呼び、飢饉を引き起こしました。
天明の大飢饉です。
大きな被害を受けたのが東北地方でした。
30万人以上が命を落とし、住民が死に絶えた村もありました。
家の中を伺えば、犠牲者が葬り弔う者もなく放置され、道々には餓死者の骸骨が累々と重なり合っていました。
この未曽有の災害は、人災の要素もありました。
当時の大名は、財政が悪化していたので、大坂、江戸の豪商などから借金をしていました。
当然抵当として年貢を提供するので、備蓄米としてとっていたものについても回してしまっていました。
人々の食料になるはずの米が、大名の借金返済のために江戸や大坂に送られていたのです。
意次は、大坂の奉行所が発案した救済策を採用します。
大坂の両替商や大商人に大名に貸し出す資金を用意させる御用金です。
返済が滞った場合に備え、借りた大名の年貢を担保にしたり、幕府が債務を保障したりしました。
しかし、この政策が軌道に乗ることはありませんでした。
反発した商人たちが貸し渋りを行ったからです。
お上の無策に人々の不満は高まり、各地で打ちこわしが起こるようになります。
そんな時、意次の目に留まったのは1冊の本でした。
仙台藩の意思・工藤平助が書いた「赤蝦夷風説考」です。
この中で工藤は、世界地図を示しながら、ロシアが蝦夷地を挟んで日本の隣に位置し、清を超える巨大な国として紹介しています。
幕府が率先して蝦夷地の金銀を開発し、それを使ってロシアと交易をおこなうべきであると説きました。
金銀が取れ、交易が出来れば大きな資金源となる・・・
飢饉のさ中の1785年、意次は蝦夷地調査を始めます。
そして、翌年・・・いまだ飢饉がおさまらないなか、蝦夷地調査団の報告がもたらされます。
金銀鉱山は発見できず、ロシアとの交易も利益は見込めないというものでした。
担当の勘定奉行・松本秀持が代わりに提案したのが、広大な未開地を切り開き、農地を作る蝦夷地開拓計画でした。
開拓できるのは、およそ116万町歩、石高は少なく見積もっても583万2000石!!
壮大な計画でした。
新たな計画を前に、意次は何を考えていたのでしょうか??
将来のため蝦夷地を開拓するのか??
蝦夷地より飢饉対策に注力すべきか??

1786年2月、意次は、勘定奉行にこう言い渡します。

「伺いの通り仕るべし」

蝦夷地の将来性にかけ、開拓計画にゴーサインを出したのです。

1786年6月、新たな飢饉対策を打ち出します。
桑名藩藩主が出した策を採用します。
それが、全国御用金令です。
全国の農民、町民などに農地の石高や建物の間口に応じて出資させます。
それに幕府の資金を加えて、大坂に貸金会所を設立。
融資を希望する大名に貸し付ける・・・そして、得た利子を出資した者と幕府で分け合うというものです。
幕府、大名、民・・・皆に利益があるという妙案でした。
しかし・・・新たな負担に民は怒りの声をあげました。

1786年7月・・・追い打ちをかける事態が起こります。
関東に大雨が降り、利根川が氾濫!!
干拓工事中の印旛沼を襲ったのです。
着工から4年、着々と進みつつあった印旛沼の干拓事業は、たった1度の洪水で水の泡となりました。

8月24日付で、印旛沼干拓 全国御用金令 中止となりました。
そして3日後、8月27日に意次は失脚・・・老中を辞任しました。
原因は、将軍・家治の病死でした。
後ろ盾を失った意次は、坂道を転がり落ちるように転落。
蝦夷地の調査は、中止となったばかりか、不埒の至りとされ、意次を断罪する要因の一つとなりました。

1787年10月、意次は隠居、謹慎を命じられます。
領地の相良も召し上げられ、城は破却されました。
代わりに意次の孫に与えられたのは、1万石だけでした。
田沼はと呼ばれた人々も離れていきます。
老中・水野忠知は、養子に向かえていた意次の息子を追い出し、田沼家との縁を切ります。

1788年7月24日、田沼意次は失意のまま死去・・・70歳の生涯でした。
その後、政敵たちによって賄賂政治家としての悪評のみが伝わることになるのでした。

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今から200年前、江戸は人口100万を超え、錦絵、読み本、芝居に落語が大人気。
空前の繁栄を誇っていました。
手軽な食事として天ぷらや寿司が流行。
今、私たちが時代劇で見る光景は、まさにこの頃のことです。
しかし、この江戸の最盛期に君臨した将軍は??

11代将軍・徳川家斉です。

しかし、教科書に乗る家斉は、大奥が代名詞。
40人を超える側室を持ち、産ませた子供は53人・・・小作りばかりに励む放蕩将軍・・・
家斉は、子供の多くを、主だった大名たちに跡継ぎや正妻として送り込んでいます。
その数、21家、640万石です。
まるで日本中の主だった大名を自分の血筋で埋め尽くし、一大ファミリー化を図っているように見えます。

徳川家斉は、1773年、八代将軍の孫である一橋治済の長男として生まれます。
7歳の時、10代将軍・家治の跡継ぎが急死したことによって次期将軍への道を歩み始めます。
治済は、なんとかして家斉を次期将軍にしようとして時の老中・田沼意次に接近。
他の候補者を退き、家斉を将軍候補にさせました。
そして1786年、将軍・家治が病死し、家斉は15歳で11代将軍に就任します。
同時に父・治済の工作で田沼意次が失脚、老中となった松平定信のもとで、寛政の改革が始まりました。
しかし、家斉は、翌年定信を退け、自ら政治を行い始めます。

徳川実紀によると。。。
家斉は早朝から日が高くなるまで怠けることなく政務をこなし、真剣に政治に取り組んでいました。
しかしやがて、遊び好きの本性が表れ始めます。
趣味は鷹狩り・・・関東中の狩場に足しげく通い、鴨を捕らえるだけでは飽き足らず、猪や鹿狩りまでやっています。
江戸湾に巨大な鯨が現れたときは、目の前で見たいと浜御殿の池に引き入れさせ、泳ぐ姿を見て楽しんだという逸話も残っています。
そんな家斉を最も特徴づけるのが、色好みです。
15歳から大奥通いを始め、次々と手を付け40人を超える側室を持ったともいわれています。
最初の子が生まれたのが17歳の時、生涯で53人もの子供をもうけ、大奥に入り浸っていたと言われています。
さらに家斉は、生まれた子供たちを全国の大名家に世継ぎや正室として送り込んでいます。
その結果、全国の主だった大名の多くが、家斉の息子や娘婿となっていきました。
その方法は、大名たちの弱みに付け込む実に巧みなものでした。

その一つが”金”・・・
将軍家から迎えるといろいろなメリットがあります。
若君をもらうと支度金、お姫さまだと化粧料、たくさんの女中を連れてくるので1万両、2万両。
迎える側が幕府から借金をしている場合、免除してもらう。
当座は財政難が救われたのです。
当時の大名たちは、参勤交代やお手伝い普請などで借金を抱え、どの藩も借金に喘いでいました。
それが、家斉の子どもを受け入れることで借金が免除され、金銭的に支援を受けるなどの恩恵を受けられました。
その金額は莫大なものでした。
例えば、水戸徳川家は、家斉の娘を正室に迎えたことで、幕府に借りていた19万2000両の借金が免除されることに・・・今の金額で、200億円の借金免除でした。
100万石の加賀前田家も、家斉の娘を正室に迎えました。
その時に作られた門が、東京大学の赤門です。
将軍の娘を迎えることで出費がかさみましたが、それに対して毎年1万8000両(18億円)の化粧料を前だけに行っています。
中には世継ぎがいるにもかかわらず廃嫡し、家斉の息子を世継ぎに迎えた藩も・・・明石・松平家です。
これによって2万石を加増されています。
家族化かの波は、外様にまで・・・
徳島藩蜂須賀家では・・・家斉の23男を後継ぎに迎え入れ、長州藩・毛利家、仙台藩・伊達家も家斉の娘を正室として迎えています。
こうして将軍・家斉のファミリーとなったのは、21家に及びます。

こうした縁組にかかる莫大な費用を、家斉はどのように工面したのでしょうか?
その秘密は、貨幣の改鋳という錬金術でした。
それまで流通していた小判・4819万両を回収、金の含有量の少ない小判に作り直させたのです。
浮いた金の分が、幕府の利益になりました。
家斉の貨幣改鋳は、小判以外の貨幣にも及び、15年間で1550万両の利益があったと言われています。
強引に作った潤沢なお金によって子供たちを大名家に送り込んでいたのです。

江戸幕府の1年間を、100万両前後で予算を組んでいました。
かなりの貨幣鋳造をして財政を豊かにしました。
それだけ湯水のように使って、徳川家の血が各大名家に浸透していくということに使ったのです。
さらに・・・家斉が利用したのが「家格」
子供を受け入れた大名たちを優遇し、家格を上げたのです。
江戸城ではこの家格によってすべてが区別されていました。
特に、大名が控える部屋は、家格によって七カ所に分かれていました。
最上位とされるのが、松之大廊下に面した大廊下の一室・・・御三家に御下問、そして加賀前田家のみが使用できました。
主な譜代大名には黒書院溜之間と帝鑑之間が用意され、10万石以上の外様大名や官位の高い大名は大広間が控の間となりました。
それ以外の大名は155家には3つの部屋が与えられています。
家格が低ければ、将軍に謁見する場合も集団で平伏、立ったままの将軍に目通りする事しか許されていません。
家格の違いは歴然でした。
そんな下位の部屋から大出世をしたのが、わずか6万石の舘林・松平家です。
家斉の20番目の息子を養子とすることに成功します。
すると、大部屋から帝鑑之間、大広間を経由して大廊下へと三段跳びの大出世・・・
家紋も、三つ葉葵の使用を許されるという破格の扱いとなりました。
封建社会の平和な時代、他に人間の望みがない時代・・・格が上がること、人より上に行くということは、一番の望みでした。
金と家格を使った巧みな大名支配と子供送り込み・・・家斉はただの贅沢将軍だったのでしょうか??

18世紀末から19世紀・・・家斉が統治した時代には、日本を取り巻く環境が大きく変わろうとしていました。
外国船が日本近海に現れるようになっていたのです。
1792年、ロシアの使節・ラックスマンが根室に来航、通商を求めます。
1808年イギリス軍艦フェートン号が長崎港に侵入。
外圧が高まっていました。
当然家斉の耳にも入ります。
通商を求めるロシア船に頭を悩ませ、外国船の対策に旅谷議論しています。
しかし、外国船対策の一元化は当時の幕藩体制は適していませんでした。
それぞれの地域を支配しているのは大名で、中には外国と密貿易を行っている場合もあり、足並みをそろえることはできませんでした。
そんな中、家斉の子供達でファミリー化すれば・・・将軍の意に沿うのでは・・・??
幕府を中心にものを考えるとなれば、幕府に協力すると海岸線の防備をしようと言われれば喜んで手をあげる・・・殿様は、将軍家のために尽くそう・・・そういう思いがあったのです。

もう一つの問題が・・・徳川一門の結束です。
幕府が開かれてから190年・・・ゆるみが出てきていました。
家斉が特に注目したのが尾張徳川家・・・
尾張藩は御三家筆頭の62万石。
徳川家康の9男・義直を初代藩主にいただく名門です。
尾張藩が位置するのは西国で反乱が起きた場合に、幕府を守る楯になる重要拠点です。
そんな尾張徳川家・・・すっかり血縁が薄くなってきていました。
さらに、8代将軍の座を尾張藩を差し置いて紀州藩の吉宗が勝ち取ったことで不仲となり、七代藩主となった宗春は吉宗と対立。
宗春は蟄居・謹慎させられ、その後、将軍家と終わりの間には緊張が続いていました。
そこで家斉が考えたのが娘を送り込むことでした。
尾張徳川家に娘を嫁がせ跡取りが生れれば、その子は家斉の孫・・・
家斉は、5歳になったばかりの長女・淑姫を尾張の世継ぎと婚約させます。
しかし、同じ年、その世継ぎが病死し、家斉の目論見は潰えてしまいました。

1796年、空いていた尾張の世継ぎに生れたばかりの4男・敬之助を養子として送り込みます。
しかし、その4男は、わずか1年で病死・・・
家斉は諦めません。
1年後、弟の子を尾張藩主の世継ぎとして送り込み、自分の10歳になった長女を嫁がせ、ファミリー化しようとします。
家斉は、養子に入った弟の子に斉朝という名前を与えています。
そして翌年斉朝は、尾張藩10代藩主徳川斉朝となり、ついに家斉の尾張ファミリー化は成功します。
度重なる子供送り込み工作・・・尾張藩も、最初は歓迎していたといいます。
将軍家との血のつなが生じ、姫との間に子供が生まれて次の当主になれば、確固とした血のつながりの再現となりります。
官位も上がり、経済的にもある程度のメリットが生じます。
相対的に尾張にとってはいいことです。
しかし、順風満帆は続きません。三人目に送り込んだ斉朝は、尾張藩を統治するものの淑姫との間に世継ぎは生まれませんでした。
1822年、家斉は夫婦の養子として19男斉温を養子に据えます。
この時、家斉50歳・・・あくまでも尾張家をファミリーにしたかったのです。
斉朝を継いで藩主となった斉温は、江戸城西ノ丸が大火で焼失した時、父家斉のために見舞金として9万両もの大金と大量の木曽ヒノキを献上したといいます。
家長である家斉を、大名家を継いだ子供たちが助けてくれる・・・
それこそが、家斉の目指すファミリーでした。
4回にわたって跡継ぎや正妻を送り込まれ、家斉のファミリーとなっていた尾張藩・・・11代藩主となった斉温かは、1836年近衛家の姫・福君と結婚。
この婚儀は、尾張藩に莫大な費用を強いることとなりました。
福君の婚礼調度品は、210点にも及び、贅を尽くした調度品でした。
当然、福君の出立の準備も尾張藩が行いました。
京都から江戸へ下向する行列は千人を超え、これにもまた巨額の費用が掛かったと言われています。
ところが、婚儀から3年後斉温は21歳で死去・・・1839年。
跡継ぎがいなかったことで、尾張藩は混乱します。
藩士たちは度重なる家斉の子の受け入れが藩の財政を圧迫したとし、次こそは尾張家初代の分家から次の藩主を・・・と期待するようになっていきます。
この時家老に出された意見書には、

”度重なる世継ぎ受け入れは、天下の嘲りを受け、将軍家の乗っ取りに怨念を持つ者や、お国の恥と嘆く家臣が大勢いる”と書かれています。

急進過激派・・・我々はどんな政治的圧力にも屈しない・・・
金や鉄のような固い意志を持つ・・・ということで、金鉄党と名付け、派閥を作りました。
将軍家による尾張家の乗っ取りではないのか・・・??

この時、家斉67歳・・・空席となった尾張藩主の座をどうするのか・・・??
用紙に送り込める子や孫はいない・・・尾張藩の中から不平不満が出ている今、手綱を緩めることはできない・・・

どうする・・・??
男子を将軍家に戻し、尾張徳川家に送る??
夫と死別し出戻った永姫か、婚約しているもののまだ13歳の泰姫を・・・女子を尾張徳川家に送る??
しかし、それまでには何年もかかってしまう・・・!!
忠誠を誓わせて誰も送らない・・・??

どうする・・・??

1839年3月26日、家斉は決断を下します。
御三卿の一つ田安家当主・斉荘(家斉12男)を、亡くなった藩主・斉温の末期養子として尾張藩12藩主を継がせたのです。
これに尾張藩主の不満が爆発!!
押し付け養子であると批判の声が上がります。
家斉は、尾張藩をなだめるために当時日本有数の商業地で10万石相当であった近江八幡を加増します。
さらに、吉宗と対立して蟄居させられていた尾張藩七代藩主宗春の罪を赦し、官位を元に戻します。
家斉は、いかなる代償を払ってでも、尾張藩を身内に止めようと考えていました。
斉荘が藩主になった事を見届けると・・・2年後・・・
1841年徳川家斉死去・・・69歳でした。

しかし、尾張の問題は終わりませんでした。
家斉の死から4年後・・・斉荘が病死・・・再び尾張藩主の座が空席となってしまいます。
家斉の息子の12代将軍家慶は、なおも親しい身内を尾張藩主とすることにこだわり家斉の弟の子供・慶臧を13代藩主として送り込んでいます。

尾張藩士たちは、「またか!!」尾張藩と将軍家の戦になるようなことまで、平気で言う過激状態になってきていました。

新藩主となった慶臧に、兄である越前福井藩主・松平春嶽は手紙を送り、尾張内をなだめるように指示しています。
手紙には、家臣から気に入らないことを言われても、決して咎めだてしないこと、仁心を持って接することと書かれています。
しかし、その4年後、慶臧は14歳で亡くなってしまいます。
跡を継ぎ、14代藩主となったのは、初代藩主義直の流れをくむ美濃高須藩松平家の徳川義勝でした。
遂に尾張藩は、家斉ファミリーではなくなりました。

1868年・・・鳥羽伏見の戦いが起こります。
この時、新政府軍の中心となっていた長州・毛利家は、かつて家斉の娘を正室に迎えましたが子供は生まれず、家斉の血筋とはなりませんでした。
家斉の子供を送り込まれた21家の中で、家斉の血筋が当主となっていたのは、加賀藩・前田家、鳥取・池田家、姫路・酒井家、徳島・蜂須賀家・・・4家のみ・・・
しかし、この4家が、旧幕府側につくことはありませんでした。
鳥羽伏見の戦い以降、新政府軍に味方します。
そして尾張藩藩主となっていた徳川義勝は、新政府の要職につき、江戸無血開城の受け取り役を務めています。

家斉が50年かけて行った大名ファミリー化計画・・・
それが幕府を支えることはありませんでした。


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小京都と言われる飛騨高山は、江戸時代の面影を今に止め、多くの観光客でにぎわっています。
この地で250年前に異彩を放つ一揆が起きました。
それは大原騒動・・・飛騨高山の農民1万人が決起しました。
3代にわたって19年もの間、親子2代の代官と対峙しました。
過酷な増税と、容赦のない拷問・・・タブーとされていた鉄砲による一揆弾圧。
農民たちはあらゆる手段で代官に抗い続けました。
強訴、捨訴、駕籠訴・・・
大原騒動、その真実とは・・・??

高山市の中心部にある飛騨国分寺・・・
1771年12月11日、この境内に飛騨高山の農民たちが続々と集まってきました。
その数実に数千人!!
人びとは大きな声で叫び、罵り、その声は町中に響き渡りました。
明和騒動と呼ばれる1回目の大原騒動です。
どうしてこんなにたくさんの農民たちが集結したのでしょうか?

大原騒動の顛末を参加した農民が著した「夢物語」
そこには農民たちの発言が鮮明に記されています。

「とにかく今度の代官は金銭欲が強い人で、皆でいろいろ工面してお金を納めた。
 江戸表からの要請だというが、そんなことはない。
 代官の言うことは信じられない。」

代官の支配に対する不平不満、疑念が騒動の原因でした。

1766年5月10日、高山陣内に新しい代官が。。。大原彦四郎です。
大原はもともと下級武士の出で、勘定所留役→勘定組頭→代官と順調に出世してきていました。
就任すると、高山陣屋の地役人に転勤をいいます。
地役人は皆、高山の出身で農民と近しい存在でした。
大原はここで飛騨高山の統治に厳しく臨む姿勢を鮮明にしました。

1771年飛騨高山に激震が・・・
向こう5年間、飛騨高山の樹木の伐採を禁止すると幕府の命令でした。
乱伐で木材の質が落ちたので、暫く山を休めようというのです。飛騨高山は江戸幕府の直轄地・天領でした。
豊富な山林は御用木にされ、山間部の農民たちはその伐採で糧を得ていました。
それが中止となれば、農民たちにとって死活問題です。
農民たちは代官所に向かい、御用木の伐採継続を願い出ました。
しかし、大原代官は「これは幕府の決定である」と、願いを退けました。
そして農民たちに追い打ちをかけます。
「陣屋の修復が必要なので、その費用は農民たちが負担するように」
息をのむ農民たち・・・しかし、大はr代官は・・・
「とはいえ、このままでは生活に困るだろう
 幕府に年貢を安くしてもらえるように取り計らってやる
 ついては運動費用として3000両を用立てよ」
どうして大原代官はこのように難題を要求したのでしょうか?

代官は勘定奉行の管轄下にあり、そのトップは老中・田沼意次でした。
田沼政権下に、大原彦四郎代官は、金銀の力で全てのことをうまくやっていたのです。
金権政治家・田沼意次を後ろ盾に、大原は異例の出世を成し遂げてきたのです。

かくして大原代官の難題に抗うべく、飛騨高山の農民たちは飛騨国分寺に集結してきました。
1771年12月14日、声を上げた一人の人物・・・大古井村伝十郎です。
伝十郎は、休山取りやめ嘆願のために江戸に赴いていました。
そこで、大原代官の更なる不正の情報を入手しました。

「休山で困っている俺たちを助けるどころか、大原代官は飛騨高山の商人たちと手を組み、治めた年貢米を巡って金儲けを企んでいる・・・!!」

代官は年貢米を元に安い米を買い、利ザヤを稼ごうとしている。。。
この話を聞いた農民たちは激高!!
暴徒と化して商人たちの屋敷を襲います。
これが明和騒動です。
打ちこわしは、2晩にわたりました。

農民たちの考えを、正式な文書として大原代官に提出。
そこには46の村、百姓たち95人の署名、捺印が円形に推されていました。
一致団結のために行われたものです。

農民たちの並々ならぬ努力を前に、3000両の資金提供と陣屋の修復費用の負担を取り下げます。
しかし、打ちこわしに参加した農民たちには厳しいお咎めが・・・徹底した首謀者探しのため、伝十郎ら数十人をつかまえ厳しい取調べが行われました。
角責、火責で苦しみ、さけび、かなしむ有様は目も当てられぬ上古湯でした。
そして・・・伝十郎たちに判決が・・・
大古井村伝十郎・・・
百姓どもを呼び集め、居宅へ踏み込み、建具諸道具損さし候 始末に及び候段 徒党の頭取に相決し 不届き至極につき・・・死罪申しつくるものなり。
伝十郎は打ちこわし首謀者として2年間獄中の後、1774年斬首!!



岐阜県高山市飛騨一宮水無神社・・・古来農業を奨励する神社として飛騨の人たちに厚い信頼を受けてきました。
神社の前に立つ強大な碑・・・そこには「一宮大集会之地」と書かれています。
明和騒動から2年後、この境内で農民たちの大集会が行われました。
その数、およそ1万!!
中心人物は本郷村善九郎、わずか19歳の若者でした。
安永騒動と呼ばれるこの一揆はどうして起こったのでしょうか?
1773年3月18日、陣屋に近い花里村に、大原代官の姿がりました。
検地が行われたのです。
元禄検地以来、飛騨では80年余り検地が行われていませんでした。
その間に新しくできた田畑を検地するのが目的でした。
その様子を見ていた農民たちおどろきます。
従来の検地では、1~2割少なめに測量します。
これは縄心といって、凶作や農民の意欲に対する配慮でした。
しかし、大原代官の検地は、全く縄心がありません。
極めて厳格に、正確な面積を帳簿に記していきます。
そして約束を破って、古田までも測量し始めました。
古田を正確に測量し、さらに新しい田畑を追加することで、年貢が2~3割増し、場所によっては5割増しとなりました。

花里村の検地の様子は、瞬く間に飛騨高山中に広がり、農民の代表たちは大原代官に抗議しました。

「古田は、検地しないお約束でした」

すると大原は・・・
「時に望んでは、嘘言方便も世の宝なり」

1773年7月22日、江戸品川の沖合に一艘の船が浮かんでいました。
中にいたのは密かに江戸に潜入していた飛騨の農民たちです。
彼等は大原代官の悪政を止めるために非常手段に訴えるべく相談していました。
それは、駕籠訴。
駕籠訴とは、幕府の有力者や大名の駕籠が通るところで待ち伏せして、直接訴状をだす・・・当時厳禁されていました。
決行する農民たちの家族は、国中の農民で面倒を見ると誓っての命をかけての訴えでした。
7月26日午前9時、桜田門通り・・・そこに、駕籠訴を決行する6人の農民の姿が・・・!!
訴える相手は老中・松平武元・・・。
いよいよ駕籠がやってきて・・・たくさんある駕籠・・・どれが松平武元の駕籠かわからない・・・
そこで農民たちは近所の者に金を渡して、どの駕籠か教えてもらうように頼んでいました。
脱兎のように飛び出す6人!!
ようやく駕籠にたどり着いて駕籠が止まり・・・早速嘆願書を差し出し・・・
決死の駕籠訴は成功!!訴えは老中に届いたのです。
しかし、決行した6人は一人は牢死、5人は獄門となりました。

駕籠訴決行の報せを聞いた大原代官は激怒!!
村の代表者を呼びつけ・・・
「6人の者は、村の総代ではない。
 私共の全く存ぜぬことである。」という文書を要求しました。

これに納得できない農民たちが、1773年9月、飛騨一宮水無神社に集まってきました。
その数1万!!
率いるのはわずか18歳の本郷村善九郎。
善九郎は農民たちに呼びかけます。
「駕籠訴を命がけで決行したのは、我々の代表だ!!
 どんなにつらい目にあおうとも、偽りの証文に捺印することはできない・・・!!」
10月20日、善九郎ら3000人の農民が、高山陣屋に押しかけました。
強訴の結構です。
強訴とは、多数の農民が団結し、領主側を圧倒・・・強引に要求をのませる百姓一揆を指します。
陣屋の門前に姿を現した大原代官に、善九郎は言います。
「今年の年貢米の上納を、来年3月まで延期してほしい。
 検地御赦免願いのため、代表3000人を江戸へ送るので、代官の添え状を書いてほしい」
3000もの農民に恐れをなした代官は、こう答えます。
「お前たちの願い承知した。」
歓喜の声を上げる農民、善九郎達。。。
この時、大原代官は、すでに武力による弾圧を考えていました。

かねてから幕府は一揆が起きた際には、幕府の沙汰を待たず直ちに近隣の藩に出兵を要請せよという通達を出していました。
大原代官は、隣国の郡上藩に一揆鎮圧を要請。
500人もの兵が高山藩に向かいました。
11月15日未明・・・1万もの農民が立て籠る飛騨一宮水無神社を郡上藩の大軍が襲いました。
この時、驚くべき事態が・・・!!
足軽20人が先頭に立ち、鉄砲を次々に撃ち始めました。
島原の乱以降、一揆制圧には鉄砲を撃ってはいけないというのが幕府の方針でした。
それを曲げ、幕府は鉄砲使用の許可を出したのです。
神社に入れば、手荒な真似は出来ないと思っていた農民たちは逃げ惑うのみ・・・
鉄砲による死者4人、逮捕者350人!!

首謀者善九郎は、自宅で捕らえられ・・・
抗うことなく善九郎は、年老いた両親に
「命は初めから無きものと覚悟していました。
 先立つことは不幸ですが、これも宿命と諦めてください。」
農民たちに下された判決は、磔4人、獄門10人、死罪2人、遠島14人・・・
このほか、罰金など1万人の農民の殆どがなんらかの罪に問われました。
農民の完全な敗北でした。

1774年12月5日、本郷村善九郎 獄門・・・。

検地は再開され、飛騨の石高は約25%増しの5万5000石に!!
農民たちの命をかけた戦いは、水泡と帰したのです。

1777年5月、大原代官は将軍お目見えの布衣郡代に昇進。
我が世の春を謳歌していました。
しかし、1779年、大原郡代は原因不明の熱病で悶死。
人びとは、亡くなった農民たちの祟りだと噂しました。

1783年7月、浅間山大噴火!!火山灰が空を覆い、各地に天明の大飢饉をもたらします。
飛騨高山も大凶作に・・・。
この時飛騨郡代の任にあったのが大原亀五郎・・・1781年9月22日に布衣郡代を父から継いでいました。
亀五郎は先代と同じく、ひたすら金銭を農民から収奪する姿勢を崩しませんでした。
この年、農民たちから6128両を借財。
翌1784年には江戸幕府からの返戻金1600両を没収。
その一部は、田沼意次の賄賂に使われたともいわれています。
飛騨の郡代は世襲というのはあまりなく、幕府から役人が派遣されてくる中・・・
二代続いたのは、金銀の力をもって世襲の配慮が働いたのでは・・・??

安永騒動で徹底的な弾圧を受けた農民たちは、大原亀五郎の悪政に耐えるほかありません。
しかし、生活は苦しくなるばかり・・・
追いつめられた飛騨の農民は、一策を講じます。
捨訴です。
捨訴とは、訴状を奉行所や老中の門前に密かに捨て去る・・・
身元がわからないので、誰が捨てたのか限定されずに、飛騨高山の様子を伝えることができる・・・!!
農民たちは、大原郡代に対抗しようとします。
折しも、1786年田沼意次は失脚していました。

この時農民がわらをもすがる思いで訴えたのは・・・新たな老中・松平定信でした。
松平は清廉な政治を目指していました。
訴状を見た定信は、諸藩や天領を視察する巡見使を飛騨高山に派遣!!
これを知った大原亀五郎は、農民が巡見使に願い出ないよう徹底的に取り締まります。
この時、農民側で活躍したのが大沼村忠次郎です。
忠次郎は飛騨を出て、能登の白瀬村まで逃亡・・・巡見使が飛騨に入るのを見計らって再び飛騨に戻り・・・
1789年5月26日、飛騨高山大萱村で巡見使に会います。
忠次郎が大原亀五郎郡代の悪政を伝え、国中の農民が困窮し、それを省みない郡代など百姓に勝利はありません。と訴えました。
8月20日、江戸の勘定奉行の屋敷において、郡代と農民の吟味が行われました。
朝10時、大原亀五郎がお白州に・・・夕方5時ごろ、忠次郎らが呼び出されました。
郡代と農民とが同じ白州で平等に吟味を受けたのです。
さらに郡代の部下や農民たちに吟味を行い、ようやく4か月後・・・
1789年12月25日、判決が申し渡されます。

大原亀五郎は八丈島流罪、大夢魔村忠次郎お咎めなし!!

他の農民の殆どが、お叱りなどの軽い罪で済みました。
かくして死者34人、遠島17人など多くの犠牲を払った大原騒動は、19年にわたる長い戦いに幕を閉じたのです。

自分達の命と生活をかけた飛騨の農民たちの戦いは、今も静かに語り継がれています。

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