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真田昌幸: 徳川、北条、上杉、羽柴と渡り合い大名にのぼりつめた戦略の全貌 新品価格 |

敗軍の将となった昌幸親子は徳川についた信幸の助命嘆願の末、紀州の九度山に幽閉されることとなった。

九度山です。紀ノ川が流れ・・・山深い・・・未だにこんな感じの九度山です。
でもね、私の住んでいるところからすると、和歌山でも寒そうな九度山ですが、それでも上田よりましだと思うんですが・・・心が寒いのかな・・・??!!
お屋敷の隣に番所が設けられ・・・抜け出すことなどできないようです。
真田家の人々は、九度山に馴染もうとしてくれているようですが・・・

父に代わって村長・長兵衛に挨拶に来た信繁。
こちらでもやっぱり厄介者のようです。
兄・信之が・・・昌幸の「幸」を捨てたことを文で知った昌幸・・・。
それは、徳川に対する忠義のため・・・わかってはいても、ちょっぴり寂しそう・・・。
「源次郎・・・源三郎が捨てた幸の字・・・もろうてくれんか・・・」by昌幸
「私がですか・・・??」by信繁
「真田・・・幸・・・信繁・・・??」by昌幸
ああ・・・これが、幸村へ・・・大変身の蛹中なんですね・・・??
九度山が蛹・・・??じっとこらえているところがなんかそっくり・・・。


その頃、上野・沼田城では・・・

徳川の家臣中。
内府様にご赦免を願う文を書いている信之・・・。

上杉景勝は、徳川家康に謝罪し、会津120万石から米沢30万石に減俸されることとなりました。
120万石!!は凄いですが、ま、太閤検地があったとはいえ、この石がきっちりこの通りだったかどうかはわかりません。
が、30万石に減らされたのは、かなりしんどい!!
おまけに、義に厚い景勝や兼次は、誰一人家臣を切り捨てることなく、財政がひっ迫・・・日向高鍋藩から養子に入った上杉鷹山が、傾いた財政を立て直したのは有名な話。
「なせば為る 成さねば為らぬ 何事も
成らぬは人の なさぬなりけり」by鷹山
は、かのアメリカ第35代大統領J・F・ケネディや、第42代大統領ビル・クリントンの最も尊敬する日本人政治家です。
1603年2月家康は、征夷大将軍に任ぜられました。

同じ年に、孫娘の千姫を豊臣秀頼に輿入れさせ、絶頂を向えようとしていました。
全ての武士の棟梁として・・・徳川の世になってしまう・・・。
もしかすると許されて上田に帰れるかもしれない・・・。
と、かすかな期待を寄せる昌幸。。。
九度山に流されて2年・・・赦免にはいい頃ですが・・・
しかし家康は・・・許しません。
1605年4月、家康は征夷大将軍を秀忠に譲りました。
将軍の座を息子・秀頼に譲ったということは、これからの世は徳川の世になるという事・・・。
秀頼公が天下人となる機会が奪われてしまいました。
浮かれている家康を倒す最後の機会・・・赦免も最後の機会・・・。
流罪となって4年となっていました。
本多正信も、もうそろそろいいのでは・・・??
と言いますが、絶対に許さない家康・・・!!
「あれが九度山を離れるのは骨になった時じゃ・・・。」by家康
「源次郎・・・これは・・・ひょっとすると・・・わしはもうここから出られんのかもしれんな。。。」by昌幸
1606年7月、豊臣秀頼主宰の大掛かりな鷹狩りが催されることとなりました。

右大臣・豊臣秀頼公・・・だそうだ。

立派な男子になりましたね。
秀頼!!
でも、右大臣・・・関白ではありません。
この時すでに、関白には家康の息のかかったものがなっており、右大臣のままとなっていたのです。
なので・・・もうだめなのかしら・・・??
ただ・・・関白秀吉をひっくり返したのが家康です。
今の家康の立場が危うい事は、本人が一番わかっている事でしょう。
もちろん、それは、家康が亡くなって秀忠の代になった時に・・・となるので、征夷大将軍の座を早々と秀忠に譲ったわけです。
九度山では・・・

江雪斎が北条氏直を弔いに高野山へやってきたついでに会いに来ました。
引退する・・・とのようですが、信繁には、まだまだ諦めるな!!と言って去っていくのでいた。
って、この時、徳川の人間なんじゃないの??
信繁を探りに来たんじゃないの・・・??なんて、穿った見方をしちゃいました。
なんだか外が騒がしい・・・
村人たちが、隣村ともめているので、昌幸にアドバイスをもらいに来ました。
戦の仕方の・・・!!
「倍以上の敵と戦うときは、真正面から攻めても勝ち目はない。
その時は20の兵を二手に分け・・・」と言い出して・・・フッとやめてしまいました。
村同士の勝手なケンカは太閤殿下によって禁止されました。
もし、誰かが死ねば、村長が磔となる・・・信繁に浅野の殿様に話を持って行くように言われるのでした。
そう・・・昌幸もわかっているんですよ・・・。
もう、武士も、農民も、戦の時代ではないことを・・・
自分の時代が終わったということを・・・
なんだか、切ないなあ・・・。
その頃・・・本多忠勝は孫に竹とんぼを作っていて・・・手を怪我してしまいました。

このことで隠居を決めた忠勝・・・。
もう・・・世の中は太平になったから・・・。
武士の忠勝・・・暑苦しい忠勝・・・でも、そのほとんどを家康のために尽くして戦った忠勝・・・。
寂しいですがこれも時の世の流れ・・・。
生涯57回の出陣・・・しかもほとんどが最前線であったにもかかわらず、ただの一度も怪我をしたことがなかったと言います。
そして・・・実際に彫り物をしているときに指に怪我をして・・・隠居を決めたとか・・・そして、実際に、その数日後に亡くなったと言われています。
その頃、信之は、北政所様に会えるように・・・京都のつてを探していました。
探し出したのはお通・・・書をたしなみ、和歌を詠み、当時一流の文化人・小野お通。
秀頼から家康に、上洛命令が出ました。
大坂城に行くのはちょっとな家康は、二条城なら・・・と、OKを出しました。
家康が立て直した家康の城に・・・秀頼を呼ぶ・・・世間は豊臣が徳川の臣下となったと思うであろう・・・。
というのが、家康の目論見。
それをわかっていて、了承する秀頼。。。
「どんな形であれ、大事なのは私と家康が会う事・・・そうではないのか??」by秀頼
なんと・・・賢い、賢いというか、純粋な秀頼です。
この聡明さがいけないのよ~~~!!
家康が、やっぱたたいておかないと!!って思っちゃうのよ・・・!!
そして・・・1611年4月8日・・・家康は秀頼と二条城で会見。

この時・・・立ち会ったのは加藤清正。。。
そしてあの時の三成のささやきは・・・??

「もし私が志半ばで斃れたら・・・
豊臣家の事お主に託す・・・
命に代えて、秀頼さまをお守りしろ・・・!!」でした。


下れ・・・と、正信に言われ、大御所様の警護に行くのだ!!と、返して立ち会いますが、これって、あながち間違っていないんですよね。


すでに、清正は、家康と姻戚関係にあるし、関ケ原は参加しないまでも九州での大坂方と戦ったことによって領地も大幅アップ、肥後守にもしてもらってますからね・・・。
三成に託されて・・・ってのが一番かっこいいんですが・・・。
ただ・・・下がらずに家康側に座ったこと・・・
これって、秀頼に上座を譲らずに上座に座っていた家康に対してお前の方が下座だよ!!と、結局、秀頼を上座に見立てたって思うのは私だけでしょうか・・・??
「豊臣秀頼である・・・!!」by秀頼
「御無沙汰いたしております。」by家康
やはり・・・立場は変わっていないのか・・・??
余りのりりしさに・・・
あれは本当に太閤の子か・・・??と、見事な若武者ぶりに、訝し気な家康・・・。
「いかんのう・・・」「いけませんな・・・」
凡庸な二代目でないこと・・・それが家康の気に障ったようです。
それって・・・秀忠の事・・・??
いえいえ、秀忠は、武士ではありませんが、大政治家ですよ、お間違いなく・・・!!

そして・・・服部半蔵によって・・・
というか、会見の後、肥後に戻る途中、船の中で発病し、2か月後に亡くなることとなります。
って・・・やっぱり半蔵が・・・??
信繁たちは、九度山に来てもう、10年が経とうとしていました・・・。
そして、昌幸の武功も・・・昔話になりつつあったのです。
そして昌幸も・・・

死を予感していたのか、自分の戦いを記録していたのです。
戦の事を考え・・・戦に出て死にたかった昌幸の遺言・・・
「いずれ必ず・・・豊臣と徳川はぶつかる。
その時はここを抜け出し、お前は豊臣に付け!!
これより話すは、徳川に勝てるただ一つの道・・・10年かけてわしが考えた策じゃ・・・
まず・・・手持ちの軍勢をもって先に尾張を制する。
徳川が攻めてきたら、頃合いを見て、尾張を捨てる。
いったん、近江まで退く・・・一時でも尾張を抑えたということが大事よ・・・
そこで、日本中の徳川に不満を持つ大名の心を掴む・・・
さらに、瀬田と宇治の橋を落とし、敵の追撃を阻む・・・
その間に二条城を焼き払う・・・そうなれば、徳川勢は大坂に攻めかかるしかない・・・
それを大坂城で迎え撃つ・・・!!
戦は長引かせるだけ長引かせよ。
その間に各地で徳川に対して反旗があがる。
半旗があがれば、敵は大坂攻めに関わってはおられん。
やがては退くしかなくなる・・・
負ける気がせん。」by昌幸

「しかし、父上ならきっとうまく運ぶでしょうが、私では難しいのでは・・・??」by信繁
「なんで・・・??」by昌幸
「私には、場数が足りません。」by信繁
「わしの立てる策に、場数などいらん。
心得は一つ。
軍勢を一つの塊と思うな。
一人一人が生きておる。
一人一人が思いを持っておる。
それを努々忘れるな・・・」by昌幸
疲れて眠る昌幸・・・
そう、この10年・・・この策をず~っと考えていたんですね。
実際、戊辰戦争の時、一番の山場は、薩長が関ケ原を越えることができるのか??というところでした。
西をにらんで、最前線に忠義な井伊や桑名を置いていたわけで・・・
それって、家康と同じこと考えてたってことですよね。
ほんと、タヌキオヤジな策士だったんでしょう。
まさに、無念!!
「信濃に・・・帰りたかった・・・上田の城に・・・」
???誰か・・・??
お館様・・・??
迎えに来たのは、お館様・・・??
もちろん、武田信玄公です。

そう・・・信濃への想い・・・
上田への想い・・・
そして・・・甲斐への想い・・・
全ては御館様のために・・・!!
紀州・・・紀ノ川の奥。。。高野山の山裾に、その小さな村はあった。。。
その外れで・・・一人の戦国武将が死んだ・・・。

ああ・・・ついに死んでしまいました。次回から寂しくなります。


だって、主役だったじゃない・・・この大河の!!??
そうですね、和歌山人としては、九度山に来てくれて・・・とっても嬉しいですが本人はほんと、不本意だったことでしょう。
あのいけずな本多正信が許してやったら??と言っているのに、許さなかった家康。。。
そうとうトラウマになっているというか、大っ嫌いだったんでしょうね。
この大河、お父さんの昌幸が主役じゃないの??と思えるほどの大活躍でしたが、実際、息子の真田信繁という男、よくわかっていません。
真田幸村として有名ですが、幸村は本名じゃありませんし、何もわからない・・・というか、残っていないというのが正しいと思います。
いきなり大坂の陣で彗星のごとく現れたって感じでしょうか・・・??
あ・・・だから、シャアは赤なのか・・・


なので、ドラマの感じと同じかな??な、印象です。
そんな・・・まさに、歴史と同じように、大活躍だった昌幸です。
ほんと、戦って死にたかったでしょうね・・・無念の一言な九度山生活だったでしょう。


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