天下人、徳川家康の首まであと一歩と迫った男、真田信繁・・・真田幸村です。
信繁が名を上げたのは、大坂冬の陣!!
最大の激戦地で、彼の作った出城があの”真田丸”でした。
長野県上田市にある眞田神社・・・
真田家代々の武将が祀られています。
ここは、戦国時代、真田家が守り抜いた場所です。
真田は、億差上手で知られる徳川軍の攻撃を二度も退けています。
一体どうやったのか??
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1571年、真田信繁は真田家の次男として生まれます。
父は真田昌幸・・・兄は信之です。
当時、真田家は、武田信玄の配下で、わずかな領地を治めていました。
ところが・・・
1582年、武田家が滅亡。
すると、周辺国の北条、上杉、徳川が、旧武田の領地に勢力を拡大。
昌幸は家を守るためにその時々の有力な大名に忠誠を誓うことで生き残りを図ります。
その為次男の信繁は、上杉景勝をはじめとする有力武将に何回も人質として送り出されました。
信繁の初陣について、後世の軍記物にこう書かれています。
当時真田家が仕えていたのは徳川家康でした。
その徳川は、敵対する北条と和睦、すると、家康は昌幸にこう言いました。
「沼田を北条へ渡せ」by家康
「沼田は、家康より与えられた領地ではない
アクマで真田が自力で獲得したものだ
到底、承知できるものではない」by昌幸
家康は、命に背いた真田を討つべく、上田城に攻めてきました。(1585年第1次上田合戦)
立てこもる眞田の兵は2000!!
徳川の兵は7000!
はじめは家康が優勢でした。
徳川の兵は、手柄を立てようと城内になだれ込みます。
それが真田の狙いとも知らずに・・・!!
狭い通りに入ると、隠れていた真田兵が一斉射撃!!
慌てて撤退しようとする徳川軍に対し、別の城に潜んでいた兄・信之が挟み撃ちにしました。
真田は3倍の兵をもろともせずに、徳川軍に勝利し、家康を蹴散らします。
1587年真田家は新しく有力武将を探し、その配下となりました。
豊臣秀吉です。
信繁は、またしても人質となり、秀吉のもとに送られます。
しかし・・・これが幸運をもたらします。
秀吉に気に入られた信繁は、馬廻りに抜擢されます。
24歳の時には、宮中の官位を授かり、大名に取り立てられます。
さらに、豊臣の姓を名乗ることを許されました。
そして、秀吉の重臣・大谷吉継の娘と結婚。
豊臣家の家臣としての地位をゆるぎないものとしました。
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ところが・・・1598年、秀吉が死去。
やがて、秀吉の部下・石田三成と天下を狙う徳川家康が対立。
関ケ原の戦いへと発展します。
石田三成の西軍につくか、それとも徳川家康の東軍につくか・・・判断を間違えれば一族滅亡の危機でした。
1600年7月、栃木県佐野市にある犬伏で、真田家の3人が話し合いをしました。
「我は石田方につこうと思う」by昌幸
信繁もこれに同意・・・
しかし、兄・信之はこれに反対します。
信之は、家康の重臣・本多忠勝の娘と結婚していました。
「今更、逆心を企てるのも不義というものではないでしょうか」by信之
互いに譲らず、激論の末・・・
「親子離れ離れとなる
それが家のために良いことであろう」by昌幸
真田親子は、西軍と東軍に分かれる道を選びました。
後に、犬伏の分かれと言われた話し合いです。
一方、徳川の軍は岐阜に兵を進めようとしていました。
信濃には上田城がある・・・
無視すれば、後ろから西軍と挟み撃ちにされる恐れがありました。
家康は軍を分け、秀忠に東山道を西へ向かわせます。
真田を討ち、その後合流して西軍との決戦に参加する予定でした。
その数3万8000!!
対する昌幸と信繁の兵はわずか5000!!
1600年第2次上田合戦・・・
数で劣勢の真田軍は、城に敵を引き入れると、集中砲火!!
退却する秀忠軍に、信繁が追い打ちをかけると敵は総崩れ・・・
またも、真田は徳川を退けたのです。
予想外の足止めを受け、秀忠軍は関ケ原の戦いに間に合わなかったと言われています。
勝利に意気上がる信繁のもとに、思わぬ知らせが・・・
関ケ原の戦いで、石田三成率いる西軍が敗北!!
わずか1日のことでした。
昌幸、信繁親子は、西軍として奮闘しましたが、最後は孤立無援となって降伏します。
真田に二度も苦杯を飲まされた家康は、死罪を命じます。
しかし、徳川方についた兄・信之の必死の嘆願で、なんとか命だけは取られずに済みました。
真田親子は流罪と決まりました。
この時、信繁30歳でした。
1603年、関ケ原の戦いで勝利した家康は、江戸幕府を開きます。
それから11年・・・戦国時代最大の戦い・・・大坂の陣が始まります。
この時信繁は、大坂城の南に出城を築きます。
真田丸です。
1600年、30歳・・・
和歌山県九度山町・・・関ケ原の後、信繁と父・昌幸は、ここに幽閉されていました。
高野山の人里離れた寺・・・ここで信繁は、7人の子供を授かります。
さらに、16人の家臣を養わなけれBならず、生活は苦しかったのです。
救いの手を差し伸べたのが、兄・信之でした。
故郷・上田で、十万石ほどの大名となった信之は、昌幸と信繁に仕送りを続けていました。
領地が与えられているわけではなかったので、お金については本当に苦労していたようです。
高野山周辺には行くことができました。
畑を耕したり、村人といろんな活動をしたり・・・それなりの自由はあったようです。
そんな中、信繁の楽しみは・・・酒でした。
生きてはいても、先が見えない幽閉生活・・・
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1611年・・・九度山に来てから11年目・・・信繁は41歳になっていました。
父・昌幸が64歳でこの世を去ります。
故郷・上田に帰ることは、叶わぬままでした。
41歳の信繁は、故郷・上田の親族に向けて・・・
”私も去年から、急に年もとり、ことのほか病気がちになりました
歯も抜け、髭なども黒いところはあまりありません”
1614年・・・幽閉生活14年・・・秀吉の息子・秀頼の使者が来ました。
背景には、豊臣と徳川の深刻な対立がありました。
江戸幕府の開設後も、大坂城にいる秀頼が、大きな影響力を持っていたからです。
発火点は、寺の鐘でした。
方広寺・・・寺の鐘に”国家安康”とあります。
家康を、安の字で分断すると、徳川が糾弾する騒動となったのです。
これをきっかけに、開戦の機運が高まっていきます。
秀頼のもとには、職を失った武士、牢人が続々と集まっていました。
信繁は、秀頼の要請に応えようと、長男と共に九度山を脱出!!
大坂城に向かいました。
日頃から信繁と親しくしていた地元の人々は、誰一人、徳川に密告しませんでした。
信繁が大坂城についた頃、集まった牢人は10万に膨れ上がっていました。
城で開かれた軍議には、豊臣家の重臣・大野治長をはじめ豊臣恩顧の大名・長曾我部守親、毛利勝永、そして信繁は参加しました。
信繁は、城の外に打って出るべきだと主張します。
しかし、賛同する者は現れませんでした。
大野治長たちが選んだのは、籠城策です。
秀吉の築いた大坂城の守りの固さは、絶大だったのです。
意見が受け入れられなかった信繁・・・しかし、切り替えて、籠城策の中では最善と思う手を打ちます。
大坂城の南側・・・後に、真田丸と呼ばれる出城です。
真田丸は、大坂城から独立した出城と考えられています。
ここで、徳川の大軍を迎え撃つ・・・いよいよ、大坂の陣が始まろうとしていました。
この時・・・信繁44歳!!
1614年11月、大坂冬の陣が始まりました。
豊臣10万に対し、徳川は20万!!倍の兵力差です。
しかし、信繁は、真田丸で徳川の大軍をことごとく迎え討ち、一躍有名を馳せます。
予想外の苦戦を強いられた家康は、和睦を選ばざるを得ませんでした。
実戦経験が豊富なわけでもない・・・なのに、どうして家康を苦しめることができたのでしょうか?
全国の大名を動員した20万の徳川勢に、大坂城は完全に包囲されました。
最前線の真田丸には、信繁率いる6000の兵が立てこもります。
彼等の姿は、敵からもひときわ目を引きました。
寄せ集めの牢人たちを集め、士気を高めるために信繁が用意したのは赤備え・・・!!
徳川勢にとっては、格好の標的でした。
真田丸に向けて兵を進めます。
「攻め潰してやろうと襲い掛かってくる敵に、そう簡単にはやられはしない」
家康の命令により、徳川の兵は真田丸に不要に近づかずにいました。
信繁は部下に命じて、敵をあざけり挑発させました。
これに我慢できず、一部の兵が突撃を開始!!
すると・・・他の部隊も遅れまいと、雪崩をうって真田丸に押し寄せます。
徳川勢は、大きな空堀にどんどん落ちていきます。
そこで・・・当時のイエズス会の文献には
”あらしのように銃撃したため、大虐殺が繰り広げられた”
と記されています。
家康は、不甲斐ない味方の姿を見て、こうこぼしたといいます。
「戦い慣れない者が多すぎる
足手まといになっただけだ」
関ケ原などの大きな戦いが終わった後は、合戦がない時代が続きました。
なので、実戦経験の乏しい人が増えてきていました。
大名も代替わりした家が多く、部隊を統制しきれず、前線の武士たちが動くことを止められませんでした。
豊臣勢が夜襲に備えて堀に提灯をつるしていましたが・・・
徳川軍は、弾除けとして竹を束ねた盾を作り、塹壕を掘り進めていました。
しかし、真田丸に向かう兵は、塹壕を掘っていません・・・孤立した出城に過ぎないと、真田丸を見くびっていたのです。
激戦となったのは、たったの1日でした。
それでも文献にはこう記されています。
”徳川方の死者、その数を知らず”
一説では、大坂冬の陣で討死した徳川勢の8割は、真田丸のこの一戦の犠牲者だといわれています。
徳川勢は、真田丸を攻略できず、戦いは膠着状態に・・・
正面突破が難しいと見た家康は、裏から手をまわ層としました。
信繁の叔父を密かに派遣し、味方になれば10万石を与えるという条件を示します。
しかし、信繁は・・・
「高野山で、困窮していたところを秀頼様に召し出され、一つの曲輪を預けられたことは幸運であり、その恩があるので徳川につけと言われても困る」
すると家康は、条件をさらに上げ、味方になった暁には信濃一国を与える・・・と伝えます。
しかし、これに信繁は激怒!!
家康は諦めるしかありませんでした。
信繁の奮戦で、戦いは1か月以上!!
その為、徳川勢の20万は野営を強いられます。
士気が低下し、寝返るものを恐れた家康は、水面下で和睦交渉を進めます。
それと並行して、大坂城に昼夜を問わず大砲で揺さぶりをかけます。
すると、その中の1発が、淀殿が居住する御殿を直撃!!
侍女が死亡するという事態となりました。
動揺した秀頼や淀殿は、家康との和睦に応じることにしました。
信繁は、戦いを続けるべきだと主張したと言われています。
ある資料には・・・信繁は、これで徳川方が油断するとふみ、家康の襲撃を企てたといいます。
しかし、家康は、豊臣の牢人たちが和睦に不満を募らせていると警戒していました。
その為、信繁は奇襲を断念したといわれています。
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12月19日、大坂冬の陣集結。
豊臣と徳川に和睦が成立!!
大坂冬の陣は終わりました。
家康は、秀頼の身の安全と、領地の安堵を保障する見返りとして、大坂城の堀を埋め立てるという条件を出します。
その結果、真田丸も取り壊されました。
戦いが終わって1か月後、信繁は故郷・上田の姉にあてて手紙を送っています。
”まずまず無事に済み、私も死なずに済みました
明日になればどうなるか、わからぬ状況ですが・・・”
この時、信繁45歳でした。
大坂冬の陣が終わり、つかの間の平和が訪れました。
講和によって、堀はすべて埋められました。
しかし、集まった牢人たちは居座り続けていました。
「諸大名は、家康を恐れて我らを召し抱えてくれない
再び戦をして報奨金をもらうしかない!!」
それが彼らの言い分でした。
大坂城の重臣たちは、和平派と再戦派の真っ二つに分かれ、秀頼も考えを決めかねていました。
1615年3月、信繁は、義理の兄に手紙を送っています。
”秀頼様のご寵愛は、程よいものではありますが、何かと気遣いが多いです
定めなき世の中ですから、一日先のことは全くわかりません
私などのことは、この世に生きている者とはお思いにならぬようお願い申し上げます”
大坂に、再び戦の気配が漂ってきました。
4月4日、徳川家康、大坂へ!!
豊臣方の牢人が、大坂城で戦の準備をしているとの知らせを受けたからです。
信繁は考えます。
堀が無ければ、籠城は不可能だ!!
野戦で決着をつけるしかない!!
信繁は、作戦を進言します。
秀頼が陣頭指揮を執り、畿内を押さえて徳川を迎え撃つと!!
しかし、豊臣の重臣たちは、京への秀頼の出陣に同意しません。
結局、大坂城の南で決戦に・・・!!
「敵が来たならば戦い、討ち死にするつもりだ」by秀頼
1615年4月27日、大坂夏の陣!!
徳川勢15万、信繁たち豊臣勢5万!!
しかし・・・戦力の差は歴然!!
豊臣方は、大坂城の南10キロの地点から大坂城に後退していくしかありませんでした。
5月7日、追い込まれた豊臣側は、一大決戦に出ます。
この時、豊臣の重臣が味方の全軍に向けて指令を出します。
「真田、毛利とよく相談するように
迂闊な戦いをしてはならない」
最後の最後になって、信繁はようやく自分の考え通りに全軍を動かすことができたのです。
信繁こそが頼りになる武将だ!!
信繁が考えた起死回生の策は・・・??
信繁たちが総力をかけて闘い、徳川勢の主力をひきつけます。
その間に、奇襲部隊が迂回し、手薄となった家康本陣を一気に襲撃する!!
目指すは、家康の首!!
ところが、ことは作戦通りに運びませんでした。
奇襲部隊が配置につく前に、戦が始まってしまいました。
信繁は、それでも秀頼が出陣すれば、士気が上がると考えます。
信繁は、一緒に出陣した息子・大助を呼び寄せ、大坂城に戻って秀頼の出陣を乞うように命じます。
大助は、共に戦って最期を迎えることを願いますが、信繁は許しませんでした。
「お前が私と一緒に死んだら、誰が私に二心がないことを明らかにするのか
行って、秀頼公を生死を共にせよ」
その間、戦いは信繁の考え以上に早く進み、激しい乱戦となります。
もはや、奇襲部隊が家康に迫ることは不可能でした。
万事休す・・・??
その時、信繁が目にしたのは、徳川勢に起きた異変でした。
味方に裏切者が出た!!という噂が流れると、気弱な兵が、我先にと逃げ出したのです。
天が与えた最後の好機!!
信繁は、一直線に家康の本陣へと突き進みます。
信繁の突進のすさまじさに、徳川勢は押される一方!!
”重臣たちは逃げ出し、家康の周りに残ったのはひとりだけだった”
家康は、徳川家の馬印が倒れるのも構わず、逃げだします。
家康は、二度、切腹を覚悟したといいます。
戦場を稲妻のような速さで家康に迫る信繁・・・
その姿を見た兵は、こう呼びます。
「真田 日本一の兵」
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しかし・・・ようやく徳川勢の援軍が駆けつけると・・・信繁はあと一歩及びませんでした。
大坂城の4キロ南にある安居神社・・・ここで信繁は討ち死にします。
45歳の生涯でした。
信繁を討ち取った武将によると・・・
”馬で高き所に乗り上げたときに、よき敵と遭遇
言葉をかけ、互いに馬から降りて槍で組みあい討ち取った”
その夜、大坂城は落城し、大坂の陣は終わりを告げます。
信繁の武勇は、徳川勢にも鳴り響いていました。
信繁にあやかりたいと、その首から紙を抜いて持ち去る者が絶えなかったといいます。
信繁の息子・大助は、秀頼とともに自害。
しかし、真田家は、兄・信之によって受け継がれ、信濃国・松代藩として江戸時代を生き抜いていきます。
真田家の宝物を保管した「吉光御腰物箱」・・・
中にある文書には、西軍・石田三成から眞田家に送られた書状もあります。
兄・信之が入れたものだと考えられています。
幕府から謀反の嫌疑を受ける危険を冒してでも、昌幸と信繁が生きた証は真田の家宝として守られました。
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