石田三成の西軍8万4000の軍勢と、徳川家康の東軍7万4000の軍勢が相まみえた天下分け目の合戦です。勝ったのは東軍・・・勝因は、西軍の4人の武将達による裏切りがありました。
最も西軍に痛手を与え、得をしたのは・・・??
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明治時代、日本政府の招聘により来日していたドイツ人将校に関ケ原の戦いの布陣図を見せたところ・・・即座にこう答えました。
「勝ったのは西軍であろう」
西軍は、石田三成が北側の笹尾山に、他の武将達はその周囲に布陣・・・鶴翼の陣で、重要な山をすべて押さえていました。
迫りくる東軍を山の上から牽制・・・平地に追い込んで、一網打尽にしようと考えていました。
一方、東軍は、大将の家康以外ほとんどが平地に布陣。
誰の目にも、東軍不利という状況で戦は始まりました。
しかし、この圧倒的な不利な状況が覆ります!!
①松尾山・小早川秀秋(1万5000)
②三成のそば・島津義弘
③家康のそば・吉川広家
④吉川の後ろ・毛利秀元
ここに、西軍大将である毛利輝元はいませんでした。
この時輝元は、大坂城に居たのです。
この4人がなぜ、どんな形で裏切って・・・関ケ原の戦いを左右したのでしょうか??
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①小早川秀秋
1600年9月15日午前6時
野外の雨もあがり、霧が立ち込める中、15万もの兵たちが睨み合っていました。
そして、午前8時、ついに天下分け目の火蓋が切られます!!
一進一退の攻防が続くこと2時間・・・早くこの膠着状態を打開したい石田三成は、松尾山に陣を敷く小早川秀秋に攻撃を仕掛けるよう合図します。
しかし、小早川は動きません。
再三の出撃命令にもかかわらず、一向に動こうとしない小早川に三成は苛立ちます。
この時、小早川にいら立っていた男がもう一人いました。
東軍の大将・徳川家康です。
実は、小早川は戦の前からすでに徳川家康と内通し、東軍に寝返るよう説得されていました。
家康は、開戦から4時間後の正午・・・小早川軍に向かって鉄砲を撃ち込ませます。
世にいう”家康の問鉄砲”です。
小早川はこれに怯み、寝返りを決断!!
味方である西軍に襲い掛かったと言われています。
関ケ原の形地から、小早川の布陣する松尾山に発砲したとして・・・その距離1.5キロ!!
有効射程距離はたかだか100mなので、玉は届きそうにありません。
では、小早川は銃声に怯んだのでしょうか??
当時の大筒では・・・??
実験では、撃ってから5秒後に聞こえましたが・・・大筒の音は聞こえますが、かなり小さいです。
戦の時は、怒号や銃声が飛び交っているので、聞こえそうにもありません。
問鉄砲が後世の創作だとすると、どうして小早川は寝返りを決断するのに4時間もかかったのでしょうか?
実は、石田三成からも勝った暁には関白の地位と上方で二カ国を加増すると褒賞が約束されていました。
秀秋は、東軍西軍、どちらにつくのか最後まで迷っていた・・・悩んでいたのです。
悩む小早川は、戦局を伺っていたため、4時間もの間動かなかったのです。
そもそも、小早川はどうして家康と内通したのでしょうか?
裏切りの理由その①秀吉への恨み
豊臣秀吉の正室・ねねの甥である小早川秀秋は、3歳の時跡継ぎがいなかった秀吉の養子となり、ねねの手で大切に育てられます。
ところが、秀吉の側室・淀の方が男子・・・後の秀頼を授かると状況は一変します。
13歳で有力大名・小早川隆景の元へ養子に出されてしまいます。
さらに、秀吉からこんな仕打ちを・・・
秀吉のもう一人の養子であった秀次が、謀反を企てた嫌疑をかけられたことと、それに加担したと噂され、秀秋も当時の領地・丹波亀山10万石を没収されてしまいます。
謀反自体、秀吉のでっち上げかも・・・??
自分を疎んじた秀吉を、小早川は恨んでいたのかもしれません。
裏切りの理由その②三成への憎しみ
丹波亀山を没収された小早川でしたが、その後養父の隆景から領地の一部である九州の筑前国などを受け継ぎました。
そして、15歳の時、秀吉の命令で朝鮮出兵!!
ところが、帰国すると突如越前への減封・転封を命じられたのです。
一説には、五奉行であった石田三成が秀吉に、朝鮮における小早川の失敗を大袈裟に報告したからではないか??と言われています。
開戦から4時間後、1万5000の軍を率いる小早川秀秋が、東軍へと寝返りました。
近くにいた脇坂弾正、朽木元網、小川祐忠、赤座直保・・・それぞれの武将達が、小早川に便乗するように次々と寝返っていきました。
すぐさま西軍は大混乱に陥り、東軍の勝利が確定しました。
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②島津義弘
小早川秀秋が加わったことによって優勢に転じ始めた東軍・・・
家康は、この機を逃さず全軍に総攻撃を命じます。
これに焦った石田三成は、開戦からずっと傍観している島津義弘に出陣を求めました。
ところが・・・島津もまた動かなかったのです。
裏切りの理由その①
朝鮮出兵では、7000の兵で20万の明と朝鮮の連合軍を破るなど、勇名を轟かせていた島津軍・・・
しかし、関ケ原の戦いに参戦したのはわずか1500の兵だけでした。
それは、この時、義弘の兄・義久との対立・・・島津家が二分していたからです。
この時、島津家の実質的な決定権は、兄・義久にありました。
義久は義弘が弟にもかかわらず、”関ケ原には参加しない”と兵を送りませんでした。
本隊は関ケ原にはいかず、義弘の家臣たちが行っていたのです。
”鬼の島津”こと島津義弘66歳!!
百戦錬磨の武将ですが、1500の兵で戦っても勝ち目はない・・・とみて動かなかったのです。
裏切りの理由その②
戦わなかった理由は、合戦前日のある出来事にもありました。
西軍は大垣城に・・・東軍は中山道の宿場町・美濃赤坂宿付近に陣取り、杭瀬川を挟んで戦いを繰り広げました。
しかし・・・結果は、西軍の大勝!!
兵たちの指揮は大いに上がりました。
そこで島津義弘は、石田三成にこう提案します。
「勢いをそのままに夜襲をかけてはどうか?」by義弘
「夜襲はかけぬ!!」by三成
この時、三成は家康の東軍は大坂に向かっているかもしれないという情報を掴んでいました。
それを何としても阻止しようと、先回りしたかったのです。
その結果、関ケ原で東軍を待ち構えることになります。
もうひとつ・・・島津軍があまりにも少なかった・・・。
三成としては、あまりにも頼りない・・・!!と思っていました。
自分が軽んじられていると感じた島津義弘・・・
その前の、墨俣の戦いの時も島津軍は三成に置いてきぼりにされていました。
三成に対する不信感がぬぐえませんでした。
小早川軍の寝返りと、島津軍の不戦!!
これによって午後2時、西軍は総崩れとなりました。
主力が次々と敗走するとともに、多くの武将達が討ち死にに・・・!!
これを見た島津義弘は、「さて・・・我らもいかにここから脱出するか」
その大脱出劇が伝説の、島津の退き口です。
関ケ原は、3つの街道が交わる交通の要衝です。
西への逃走ルートは3つ!!
①北国街道を通る北西ルート
ところが、このルートは、敗走して行く西軍とそれを追う東軍の黒田長政や細川忠興の兵で溢れていました。
②中山道を通る南西ルート
東軍に寝返った小早川軍が占拠。
③伊勢街道へと向かう南東ルート
前線まで移動してきていた家康の徳川本体が待ち受けていました。
井伊直政、本多忠勝といった東軍の猛者たち相手に、1500の兵では討ち死にも同然!!
しかし、鬼の島津は、敵中突破!!
少ない軍勢で、如何にして敵中を突破して関ケ原から脱出したのでしょうか??
島津軍は、笹尾山あたりから南東に進み、徳川本体のわきを通って伊勢街道へと向かいました。
穿ち抜けという島津軍独特の先鋒で、キリで穴を穿つように敵の一点を集中攻撃!!
大将の義弘を通過させたところで、捨てがまり戦法に切り替えます。
狙撃部隊が残って敵を足止めし、その間に本体を先に!!
これを何度も繰り返して、距離を稼いだのです。
島津義弘は、こうして井伊直政や本多忠勝らを振り切って関ケ原を脱出しました。
捨てがまりによって、合戦前に1500の兵だったものが関ケ原を脱出した時には100人も残っていなかったと言われています。
③毛利輝元
中国地方の半分ほどを治めていた毛利輝元は、九州征伐で大きな戦果をあげるなど、秀吉の天下統一に貢献。
秀吉亡き後も、豊臣政権を支える五大老を家康と共に務めていました。
関ケ原の戦いで、西軍の大勝に就任したのは、反家康ののろしを上げた三成に要請されたからでした。
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7月半ば、輝元は、大坂城に入ります。
三成はこの時、まだ8歳だった秀吉の跡継ぎ・豊臣秀頼の補佐を輝元に任せ、決戦の際には、共に出陣させようと考えていました。
関ケ原の戦いは、秀吉の家臣同士の戦い・・・
恩顧の意識が強いうちに、秀頼という息子が出てくることで心理作戦をとろうとしたのです。
合戦間近の9月、三成は輝元に出陣を要請します。
しかし、本人は大坂城にとどまったまま・・・
代わりにやってきたのは、輝元の養子の毛利秀元率いる1万5000の軍勢でした。
輝元はどうして関ケ原にやってこなかったのでしょうか??
その理由は様々言われています。
①秀頼の母・淀の方が幼い我が子の参戦を拒んだため、補佐役の輝元も出陣出来なかった
②大阪城内に、家康と内通していると噂される増田長盛の軍がおり、その動向を見守っていたから
これらの説に従えば、輝元は秀頼を守るために大坂城にとどまったということになります。
しかし、「家康を気にして関ケ原で戦う気がなかった」ようなのです。
それは、家康に宛ててこんな手紙を送っていたからです。
”三成殿の謀 当方とは関係ない”
と伝え、自身は戦わないという姿勢を見せた輝元・・・その真意とは??
どっちが勝ったとしても毛利家が生き残る可能性を持っておきたかったのです。
この時、輝元は自国の領土拡大のために動いていました。
家康方について関ケ原に出陣していた蜂須賀家など四国の大名たちの領地に攻め入っていたのです。
東西両軍との関係を保ちながら、自らの野望を叶える・・・毛利輝元、戦略家でした。
岐阜県関ケ原町にある標高104mの桃配山。
東軍の大将・徳川家康が、最初に陣を敷いた場所です。
家康は、この周辺に3万の軍勢を配置しました。
その背後にそびえるのは、標高420mの南宮山です。
西軍の多くの武将達が、ここに陣を構えていました。
長曾我部守親・安国寺恵瓊・長束正家・・・そして大将毛利輝元の養子・毛利秀元です。
兵の数を併せると、およそ3万・・・西軍の主力ともいえる軍勢です。
その中で、最初に戦を仕掛ける先陣を任されたのが、毛利家家臣・吉川広家でした。
家康に最も近い場所に布陣していました。
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④吉川広家
毛利秀元をはじめ、安国寺、長束、長宗我部の軍勢は、開戦と共に南宮山を下って背後から家康に襲い掛かろうとしていました。
ところが・・・肝心の、吉川広家の軍が動こうとしません。
後ろにいた武将が、その理由を問いただすと・・・
「霧が立ち込めて敵の姿が見えない・・・!!」
確かに、前日の雨で周囲は深い霧に包まれていました。
しかし、それから数時間経ち、スッキリと霧が晴れた後も吉川は相変らず陣にとどまったままでした。
これに激怒したのが、毛利軍のすぐ後ろにいた長曾我部守親です。
「何故早く出陣せんのじゃ!!」
苛立つのも当然のこと・・・吉川が動かないのは大問題でした。
先駆けは吉川家だったのです。
つまり、吉川が動かなければ、後ろの毛利や長宗我部たちも動くことが出来なかったのです。
吉川に代わって長宗我部に応えたのは、毛利秀元でした。
家臣である吉川の為、言い訳をします。
「今ちょうど兵に弁当を食べさせているところじゃ」
毛利秀元の役職が宰相だったことから、”宰相殿の空弁当”と呼ばれるエピソードです。
吉川広家が動かなかったことで出陣出来なかった兵・・・およそ3万!!
西軍にとってはかなりの痛手でした。
吉川広家の裏切りの理由とは・・・??
吉川広家は、西軍大将・毛利輝元と同じく毛利元就の孫に当たります。
二人はいとこ同士でした。
吉川家は、父の時代から家臣として本家の毛利家を献身的に支えてきました。
その一方で、吉川は家康に近い黒田長政とも通じており、2人が交わした書状には
「行動を共にしていこう」とあります。
早々に東軍有利と見た吉川は、
輝元に東軍につくように進言しようとしていました。
ところがその矢先、輝元は三成らによって西軍大将に担ぎ上げられてしまったのです。
仕方なく西軍についた吉川でしたが、決戦を前に黒田長政の父・官兵衛からこんな書状を受け取ります。
「上方の大名もみな家康公に味方します
あなたの判断が第一」
東軍の勝利を確信した吉川は、寝返ることを決意します。
家康に約束します。
この密約が、すでに戦の前にかわされていたことは、家康が構えていた陣の位置からもわかります。
吉川が陣取っていたのは、南宮山の頂上付近です。
家康の陣がある桃配山とは峰続きなので、背後から3万の兵で攻められたらひとたまりもありません。
そんな無防備な布陣が出来たのも、背後を気にせず動けた吉川の寝返りがあったのです。
吉川広家は、家康との間にで、もし東軍が勝った場合、毛利手元への寛大な処遇を取り付けていました。
西軍を裏切ったのは、毛利本家を思ってのことでした。
輝元に大坂城に留まることを強く進言したのは広家・・・全ては毛利を守るためでした。
小早川が昼時迄動かなかったのは、吉川が南宮山の西軍を足止めしているという情報を手に入れていました。
東軍の勝利が確定したので動かなかったのです。
・毛利輝元を大坂城に留まらせる
・西軍3万の軍勢を足止め
・小早川秀秋に寝返りの決断をさせる
裏切り者の中では、最も西軍にダメージを与えたと言っても過言ではありません。
真の裏切り者は吉川広家でした。
こうして関ケ原の戦いはわずか半日で終結。
東軍が勝利を収めました。
西軍を裏切った4人の武将達・・・その後は・・・??
天下分け目の決戦を制し、大坂城に入った徳川家康・・・
東軍の武将達に褒賞を与えるとともに西軍方の処遇も決定します。
戦況を大きく変えた小早川秀秋は筑前30万石から岡山55万石に加増。
しかし、その2年後、小早川は21歳の若さで亡くなります。西軍の武将の呪いだと噂されました。
戦は傍観していたものの、家康軍に突っ込み逃げて行った島津義弘に対しては討伐を考えます。
しかし、周囲のとりなしによって中止。
義弘の隠居を条件に、領地を安堵しました。
西軍の大将・毛利輝元は、吉川広家の根回しもあってお咎めなしと思われていましたが、家康が下した処分は・・・身分・所領全てを没収する改易。
家康は、その領地の一部を吉川広家に与えようと考えていました。
これを聞いた吉川は、家康に毛利家の存続を直談判。
自分への褒賞も辞退しました。
その甲斐あって、毛利家は120万石から30万石と大きく減封されましたが、改易は免れたのです。
毛利家のために尽力した吉川広家には、毛利家から岩国3万石が与えられました。
数の上でも、陣形でも勝っていた西軍でしたが、最後は多くの裏切りによって負けてしまいました。
天下分け目の戦いでどちらにつくのか・・・??
それは大名たちにとって裁量が試されるときでもありました。
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