日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:禁門の変

明治20年、政府内で検討された一通の文書・・・

”右の者、満三年皇居を距てる 三里以外の地、退去” 

名指しされたのは、福沢諭吉!!
明治最大の啓蒙思想家にして教育者・・・
”天は人の上に人を作らず”で始まる学問ノススメは、あまりにも有名です。
ところが・・・明治政府は福沢を、危険人物とみなし、周辺に密偵を張りつけ、誰と会い、何をしゃべったかまで逐一報告をさせていました。
その訳は・・・”福沢は見え過ぎていた!!”

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幕末、三度にわたって洋行した福沢は、理想的な政治体制を見出します。
イギリス議会政治です。
血を流すことなく政権交代ができる・・・福沢は、次々と啓蒙書を出版、イギリス流議会政治の導入を解き続けます。
その前に立ちはだかったのが、薩長藩閥政府でした。
福沢の国民への影響力を削ぐために、政府内で密かに進められた工作・・・そして引き起こされたのが、政府から福沢シンパを追い出す明治十四年政変でした。

時の権力者が恐れた福沢のすごみとは・・・??

東京・三田の慶應義塾大学・・・明治の末に建てられた図書館旧館に、福沢が生涯で目指したステンドグラスがあります。

”ペンは剣よりも強し”というラテン語の上に描かれているのは、鎧兜をつけた武士が馬から降り、西洋文明の象徴である女神を迎える様子です。
封建時代の旧制度を改め、文明の世を切り開くという福沢の理想が描かれています。
剣の時代からペンの時代へ・・・
福沢の思想は、いかに形作られたのでしょうか??

福沢と西洋の出会いは蘭学でした。
緒方洪庵が大坂で開いた蘭学塾・適塾に、郷里・中津から留学、修行に励んでいました。
下級藩士の次男坊だった福沢は、最新の西洋知識を身につけることで、人生を切り開こうとしたのです。
福沢の修行の様子を伝える資料が残されています。
福沢諭吉が初めて本格的に翻訳した原稿・・・ペルの「築城書」
西洋式の城の作り方の本で・・・それを通してオランダ語を翻訳する力を身につけ、西洋のことを知りたいという意欲が感じられます。
福沢は、オランダ語の原書を写し、独力で翻訳、精密な図も添えた力作にしました。
福沢諭吉なる蘭学に秀でたものがいる・・・評判は、中津藩で一気に広まりました。

1585年、福沢は、蘭学塾を開く藩命によって江戸へ・・・!!
しかし、待っていたのは驚くべき現実でした。
開港したばかりの横浜へ行ってみたところ・・・苦心して学んだオランダ語が全く通じない・・・!!
英語が世界の共通語となっていました。
一念発起して、英語を学び始めます。
その決断が人生を大きく開くことになります。
1860年、幕府に英会話能力を買われ、従者としてアメリカへ・・・
さらに1862年、ヨーロッパ諸国を歴訪した福沢は、旅の途中、国家のありようを大きく揺るがされる経験をしました。
あるオランダ人医師から、イギリスの政治について講義を受けたのです。

”イギリスの政治は、国王、上院、下院、3つの要素から成り立っており、政党は、自由・保守の2つがある”

福沢が一番理解に苦しんだのは、イギリスの二大政党制でした。
江戸時代、日本国内では徒党を組むことは禁止されていました。
イギリスの議会には、野党が存在して、野党を含めて議会が円満に運営されていました。
後に、福沢は日本にイギリス流の二大政党制を導入し、野党の役割が重要だということを強調していくことになります。

欧米諸国に追いつくためには、政治体制の大変革が必要・・・そう、福沢は悟りました。
ところが、帰国した福沢を待っていたのは・・・

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1864年、禁門の変が勃発。
過激な攘夷論を唱える長州藩が幕府に公然と反抗、武力衝突を起こします。
その後、禁門の変で幕府側についた外様の大藩・薩摩も、長州と同盟を締結し、倒幕に向けた動きが加速していきます。

1866年7月、幕府に「長州再征に関する建白書」を執筆。
幕府に提出しました。

”長州へ軍事行動を起こし、一挙に征服、その勢いで諸大名も制圧し、朝廷の動きも取り鎮める
 前日本国封建の制度を一変させるべきだ”

将軍が一元的に権力を掌握して、外交を積極的に展開して、産業、文化を積極的に西洋から取り入れて変えていく・・・近代化、文明化を成し遂げて、西洋に追いついていく・・・!!

しかし、その提言が実を結ぶことはありませんでした。

1866年、第二次長州征討・・・幕府は惨敗・・・
翌年、将軍・慶喜は、大政奉還を行って、朝廷に政権を返上してしまいます。
福沢が期待をかけた幕府は消滅してしまったのです。

そして始まった明治という新時代・・・
薩長を中心とする新政府は、文明開化路線を採用。
職を失った幕府の通訳経験者も数多く採用されました。
福沢にも、役人にならないかという誘いが幾度となく届きます。
しかし、福沢は固辞し続けました。

”もはや武家奉公もたくさんに御座候
 この後は双刀を投棄し、読書渡世の一小民と相成り候積”

新時代に福沢がどう向き合ったのか??
上野戦争・・・大砲の音がとどろく中、いつもと変わることなく経済の講義をする福沢がいました。
福沢が力を注いだのは若い世代の教育でした。

1872年に発表された「学問ノスゝメ」
天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らずといへり・・・
封建的身分制から脱した明治の代を、学問を身につけ社会に貢献し、身を立てよという福沢の考えを表したものです。
政治と一線を画し、在野の言論人として生きる・・・
福沢は、新時代に新たな一歩を踏み出しました。

幕府が倒れて数年・・・明治維新は新たな局面を迎えます。
佐賀の乱をはじめとする士族の反乱です。
従来の特権を取り上げられたことに対して各地で武装蜂起、西南戦争まで続きました。

武力ではなく言論で戦おうとする一派も現れます。
1874年、板垣退助・立志社を設立。
薩長藩閥の専横を押さえるには、国会開設以外にないと主張し、自由民権運動は大きなうねりとなります。
当時の心境を福沢は・・・

”うかうかしていては、次第にノーレジを狭くするようあいなるべく、1年ばかり学問する積なり”

激変する時代に対応するには、確固たる政治理論が必要だ!!
そう痛感した福沢は、西洋の最新の政治思想書を大量に買いこみ、1年かけて読み込みます。
1875年「文明論之概略」・・・満を持して発表します。
西洋と日本の文明を比較し、今後日本がどのような道を進むべきかを説いた渾身の論説です。
この本の草稿には、出版の際に削除された部分があります。
それは、議会開設についての福沢の提言です。

”民会の体裁は、速に作らざるべからず”

国会開設の前に、まず地方議会という民会優先論です。
あくまで地方の議会をまず作って、自分の地域のことを自分で決められるようになったうえで、その次の段階として国会を作るべきだと考えていました。
下から変えて、基礎が固まっていないと国家としての基盤が脆弱になってしまう・・・!!
もう一度政治と向き合うことを決めた福沢が、慶應義塾に建設したのが、日本初の演説会堂・三田演説館です。
演説や討論という、当時日本の存在しなかった概念は、この時福沢が導入したものです。
門下生たちは、日夜福沢の前で意見をぶつけ合い、弁舌家としての腕を磨きました。
その後彼等は、全国で演説会や講演を開き、地方議会開設を訴えていきます。
政府は、選挙による地方議会導入に踏み切ります。
理想の政治体制に、その第一歩が記されました。

1879年、新たな論説を発表します。
国民に新時代への心構えを説いたものです。
「民情一新」です。
そこには、注目すべき一説が・・・

”英政を美なりとしてこれを称賛する”

日本が目指すべきは、イギリス型の議会政治だと高らかに宣言したのです。
福沢が評価したのは、イギリスの議院内閣制の仕組みです。
2つの対立する政党のうち、議会で多数を占めた政党の党首が首相となり政治を行う・・・
しかし、次の選挙で野党が多数派となると首相は一議員に戻る・・・
政権交代は、平均して3~4年に一度おこるので、議員は権力にしがみつくことがなく、建設的な議論が行われる!!
はじめて知ったときには、呆然と眺めるだけだったイギリスの議会政治が、福沢にとって明確な目標となったのです。

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一方、その頃、政府の中でも国会開設の議論が進んでいました。
どのような政治体制を目指すのか、国民に示す必要が・・・目をつけたのが、民間に影響力のある福沢でした。
1880年12月、福沢は、政権中枢の参議・伊藤博文・井上馨・大隈重信に呼び出され、次のような申し出を受けました。

”政府はこの度、新聞を発行することとなった
 巷の新聞は、国民を扇動して社会の安寧を妨げてばかりだ
 政府の主張を書いた新聞が必要だ
 ぜひ引き受けてほしい”

在野の言論人を標榜する福沢にとって、政府の御用新聞など問題外・・・
1か月後の1881年1月、申し出を断ろうと井上馨を訪ねた福沢・・・
そこで予期せぬ一言を聞かされます。

「しからば打ち明けよう
 政府は国会を開くつもりだ
 吾輩も国会開設に向け意を決した以上、一身の地位を惜しむものではない
 いかなる政党が進出しようとも、多数を得たものならば政府を譲り渡そうと覚悟を定めた」

伊藤と大隈も、議院内閣制導入に同意しているという井上の言葉に、福沢は大いに感激しました。

「この諭吉、もちろん国のために全力を尽くします」

悲願のイギリス型議会制度がついに実現する・・・!!
福沢にとって、生涯最良の日でした。

1881年10月、福沢にとって青天の霹靂ともいうべき事態が起きます。
新聞発行を頼んできた参議のひとり・大隈重信が政府から追放されたのです。
明治十四年の政権です。
発端は、この年の3月、大隈が政府に提出した意見書でした。

”立憲の政は政党の政なり”

大隈は、この意見書でイギリス型の議員内閣制を主張していました。
この大隈の動きに、伊藤博文が激しく反発したのです。
福沢との会談の時には、志を同じくしていた伊藤にどんな心境の変化があったのでしょうか??

その謎のカギを握るのは・・・井上毅!!
後に、憲法制定にも関わることになる法制官僚です。
7月12日、伊藤博文宛に井上毅の「内陳」が・・・

”現在巷で発表されている憲法案は、全て福澤の私擬憲法が案に基づいている
 福澤の勢力は、知らないうちに人々の脳内を泡立たせ、発酵させている”

井上は、伊藤に大隈の意見書の背後には福沢がいるとにおわせました。
さらに、福沢の思想の危険性を再三にわたって吹き込み、伊藤の考えを一変させたのです。
井上毅は、民衆が力を持つ国家感に対しては批判的でした。
人心が福沢に行ってしまえば、政治制度が議院内閣制になる可能性がありました。
実際に、選挙をやった時に、福沢派に負ける可能性が高い・・・!!
そうなると、立法権も、行政権も失い、明治政府にとって危険極まりないこととなります。
井上の説得に動かされた伊藤は、大隈を呼びつけ詰問します。

「大隈さんの主張は、天皇の大権を人民に投げ捨てる様なものだ
 参議の住職にある君が、福沢如きものの代理を務めるとは、笑うべきではないか」

大隈の政府からの追放が決定します。
その下で官僚として働いていた福沢門下生・・・矢野文雄・尾崎幸雄・犬養毅らも一斉に官職を去りました。
イギリス型議会政治への道は、閉ざされるかに見えました。

福沢諭吉“学問のすゝめ”第1回「学問で人生を切りひらけ」



1882年4月、福沢のもとに来訪者が・・・大隈重信です。
自らの政党・立憲改進党を結成したばかりでした。

「ぜひ福沢先生も、改進党に入り、ともに尽力していただきたい」

政治家となり、現実を変革する道を提示されます。
選択を迫られた福沢は・・・どうする・・・??
政治家に転身する??それとも、在野の言論人??

福沢の発言の文書が残っています。

”余は諸種の人を育成するのを任とすれば、一派の政党に与するを欲せず”

大隈の誘いを断り、あくまで言論で立つ道を選んだのです。

その後、福沢は自ら創刊した「時事新報」誌上で、政府にも特定政党にも偏ることなく、持論を発表し続けます。

”国会開設の準備として、最も肝要なのは官民調和である
 政府は真正面から人民の議論を圧迫すべきではないし、民権家が一身の不平を漏らすために、民権の名を借りるのもいただけない
 官民が調和した上で、藩閥の寡人政府を改め、多人政府となすことが必要だ”

1882年4月から5月にかけて連載されたのが皇室の在り方を書いた「帝室論」です。

”帝室は直接に万機に当たらずして万機を統べ給ふものなり”

帝室の役割は、学術、芸術の奨励や、叙勲などに留めるべきで、政治とは離れ、国民精神の統合であるべきだ・・・
福沢は、あくまでイギリス型の立憲君主国家を目指していました。
しかし・・・発布された「大日本帝国憲法」・・・天皇大権が規定され、議会の権限が弱い、プロイセン型国家とすることが定められました。
政府と正反対の立場をとる福沢の周りには、密偵が張り付き、発言は逐一報告されました。

過激派に同情とも思える福沢は、政府にとって見過ごすことのできないものでした。
福沢は最大級の危険人物とみなされ、一時は首都東京からの追放すら検討されました。

生涯を在野の言論人として通した福沢は、1901年、病により死去・・・66歳でした。
あくまで官と対峙した思想家らしく、死後も国家からの叙勲を受けることはありませんでした。
福沢の死から40年・・・日本は英米を相手とする太平洋戦争に突入しました。
そして敗戦・・・明治国家体制は終わりをつげ、大日本帝国憲法は現在の日本国憲法に改正されました。
国民統合の象徴となった昭和天皇は、福沢諭吉の帝室論を知り、次のように感想を残しています。

「この書の中に説かれておるところは、すこぶるもっともである
 わが意を得た」

象徴である天皇のもと、議院内閣制の政府が国政に当たる・・・
福沢の理想は、戦後ようやく制度化されたのです。

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慶応2年1月京都・・・
風雲急を告げる京都で、時代を大きく動かす密約が結ばれました。
薩長同盟です。

交渉に当たったのは、薩摩藩が小松帯刀・西郷隆盛、長州藩が木戸孝允、そして交渉成立に深くかかわったとされるのが坂本龍馬です。
薩長同盟により、薩摩と長州を中心に倒幕運動が加速し、明治維新へと繋がっていきます。
犬猿の仲だった薩摩と長州がどうして同盟を結ぶことになったのでしょうか?

1853年ペリー来航、開国を要求します。
これをきっかけに攘夷の機運が全国で高まります。
外様大名の雄・薩摩藩は、朝廷、幕府、諸藩が一致して富国強兵を図り、国力を整えての緩やかな攘夷を主張。
これに対し、外様で力を持っていた長州藩は、即時の攘夷決行を主張・・・一部の公家を巻き込みながら、過激になり幕府を悩ませていました。
そんな中、1863年8月18日、会津藩、薩摩藩を中心とした幕府軍が、長州藩と急進派の公家らを京都から追放します(八月十八日の政変)。

しかし、長州藩も黙っておらず、翌年、京都での復権をはかり3人の家老が軍勢を率いて上洛し、御所にせまります。
そして、蛤御門付近で会津藩・桑名藩と激突(禁門の変・蛤御門の変)。
長州藩は、一進一退の戦いを繰り広げるも、京都に常駐していた薩摩藩の西郷隆盛の舞台が幕府側につくと形勢は不利に・・・!!
長州藩は、京の町に火を放ち、逃げていきました。
その際、御所を背にした幕府軍に発砲したとして、長州藩は朝敵となってしまったのです。
そんな長州藩に対し薩摩藩に望んだのは、厳しい処分と早期の長州征討。
中でも、禁門の変の際に参戦していた西郷は、急進派の中心的人物でした。
西郷は、盟友・大久保利通にこんな手紙を送っています。
”長州藩には兵力をもって迫り。東国あたりへ国替えを命じるべきである”と。
厳しい処分を考えていました。

朝敵となってしまった長州藩は、薩摩藩や会津藩に対して敵愾心を燃やし、”薩賊会奸”と呼びました。
そして、憎しみを忘れないようにとその四文字を下駄に書いたといいます。

satuma

















禁門の変から5日・・・幕府は西国諸藩に長州を攻撃するように命じました。
第一次長州征討です。
しかし、厳しい処分を望んでいた薩摩藩が、”長州には寛大な処分を望む”と、その態度を軟化させます。
わずか数日で・・・??
それは、薩摩藩の当時の最高権力者・島津久光の意向によるものでした。
久光は、京都の参与会議に参加、新しい国づくりに参加していました。
しかし、薩摩藩の力が強くなることを警戒した一橋慶喜と対立!!
慶喜の暴言に寄って、参与会議は瓦解してしまいました。

それ以後、政治の主導権は、政治に取り入った一橋慶喜が会津と桑名による一会桑政権となっていきます。
国元に戻った久光は、薩摩藩単独での富国強兵に舵を切ります。
そうなると、藩の支出が増える長州征討などもってのほか・・・
戦を避けたいという久光の意向が、薩摩の方向転換の大きな要因でした。
さらに、久光が慶喜と対立したことで、薩摩藩が危険視されるようになっていきます。

長州藩が滅ぼされてしまったら、次のターゲットは薩摩になるのではないか??という意見が、薩摩藩内部から出て来ます。
しかし、禁門の変で長州と直接戦った西郷は、厳しい処分にこだわっていました。
これを、小松帯刀が説得!!
西郷はようやく態度を改め、久光の意向に従い、手腕を発揮していきます。

大阪城で長州征討の軍議が開かれた際には・・・
薩摩藩の代表として参謀役となった西郷は、征長総督・徳川慶勝(尾張藩主)に対してこう進言します。

「今、長州藩の中は内部分裂を起こしています。
 これを利用し、長州人をもって長州人を征するのが良いかと・・・!!」by西郷

当時、長州藩は穏健派と強硬派に分かれていました。
西郷は、穏健派に実権を握らせれば戦わずに済むのではないか?と考えたのです。
しかし、征討軍は15万の軍勢で長州藩の国境に迫っていました。

「このままでは長州藩が潰される・・・
 そうなれば、次は薩摩が危ない・・・!!
 何としても総攻撃を回避せねば・・・!!」by西郷

西郷は、長州藩と関係の深い岩国藩を通じ、至急教順の姿勢を見せるように要請。
交渉が成立するように、禁門の変で捕らえていた捕虜10人を長州藩に返しました。
そして、自ら長州に乗り込み、強硬派とも交渉します。
こうした西郷の奔走により、長州藩が禁門の変に関わった三家老の首を差し出すなど、幕府に恭順の意を示したことで、総攻撃は回避!!
西郷は間一髪のところで、薩摩藩を戦に巻き込むことなく終息に向かわせたのです。

1865年5月、幕府は再び抵抗の姿勢を見せ始めていた長州藩に圧力をかけようと、14代将軍家茂自ら軍勢を率いて江戸を出発!!
これを知った西郷は怒りをあらわにします。
そして、家老の小松帯刀に嘆きます。

「将軍の江戸出発は、自ら禍を迎えるようなもので、幕府の威厳を示すどころではありません。
 これによって、天下は動乱となり、徳川氏の衰運はまさにこの時より始まるでしょう。」by西郷

薩摩藩は、この時、西国雄藩連合を作り、幕府の2度目の長州征討を阻止しようと考えていました。
これを実現するためには、長州藩の協力が必要で・・・両藩の和解が急務でした。
そして、この和解実現の立役者となったのが、土佐脱藩浪士・坂本龍馬でした。
この時、龍馬は薩摩藩の庇護のもとにありました。
龍馬が勝海舟の元にいた神戸海軍塾が1865年に閉鎖、行き場を失くした龍馬を交流のあった薩摩藩・小松帯刀に預けたのです。
小松は、近代的な海運教育を受けていた龍馬は使えるとし、庇護下に置いていたのです。
そして、龍馬が長州藩士たちとも進行があったので、薩長和解の道を任せることにしたのです。

知人を通じて下関に入った龍馬は、長州藩の中心的人物・木戸孝允との会談に持ち込みます。
しかし、相手は薩摩への深い恨みを抱える人物・・・いかにして説得するか??

鹿児島にいる西郷が、上洛途中に下関に立ち寄るらしい・・・
木戸との面会を希望しているらしい・・・。
西郷を木戸との会談に連れてきてしまえば、和解できる・・・
そう考えた龍馬は、同じ土佐脱藩浪士・中岡慎太郎に西郷を下関に連れてくるように頼みます。
龍馬は木戸と共に西郷の到着を待ちます。
しかし・・・戻ってきたのは中岡だけでした。
西郷は、下関に寄ることなく、京都に向かってしまったのです。

この時点で、西郷は木戸と会う気はなかったのです。
当時の京都は、第二次長州征討でもめていたので、一刻も早く京都に戻らなくてはならない状況だったのです。
そして、島津久光に何の断りもなく木戸と会うこともできませんでした。
糠喜びをさせてしまったと、龍馬と中岡は謝りますが、木戸の怒りは収まらず・・・

「薩摩藩が信用できるというならば、長州藩のために名義を貸してくれますか?」by木戸

この頃、長州藩は、武器の輸入が禁止されていました。
なので、外国製の銃などを手に入れることができませんでした。
幕府軍との戦いに、軍備増強したい木戸は、薩摩藩に名義を借りることで武器調達しようと考えたのです。
龍馬はすぐにこれを薩摩側に連絡し、なんとか長州と和解したい小松・西郷は許可しました。
こうして、長州藩は4000丁の最新式の銃と蒸気船を手に入れたのです。

9月・・・西郷は再び龍馬を長州に向かわせています。
今度は、薩摩藩が二度目の長州征討を阻止しようとしていることを連絡し、信頼を構築し、距離を縮めようとしたのです。
この時、大いに役立ったのが、西郷が持たせた大久保の書簡でした。
そこには・・・
「義のない勅命は勅命にあらず」と書かれていました。
つまり、いかに朝廷の命令であろうとも、天下万民が認めなければ誰も支持することはないという・・・断固長州征討に反対するというものでした。

薩摩藩に対する長州藩の信頼が回復していきます。
薩長同盟の機運が高まってきていました。

徳川慶喜が権勢をふるう幕府と対立関係にあった薩摩は、長州藩が潰れれば次は自分たちに矛先が・・・!!と、警戒。
それを避けるためには、長州征討を何としても阻止しなければなりませんでした。
一方、長州藩は、軍備を増強し、幕府の二度目の長州征討に備えますが、出来れば長州単独で幕府に対抗するのは避けたいと思っていました。
そんな中、1865年12月・・・木戸孝允のもとを一人の男が訪れます。
後の総理大臣となる黒田清隆です。
まだ20代半ばの薩摩藩下級藩士でした。
黒田は木戸に対し
「京都にいる西郷が会いたがっているので、ぜひあってほしい。」と。
しかし、これは黒田の作り話でした。

彼なりの切羽詰まった思いが、こんな行動に出たのです。
薩長同盟最大の功労者は黒田だったのかもしれません。
懐疑的な木戸に対し・・・
「すでに西郷の心は、長州と一つとなっています。」
長州も味方が欲しい・・・黒田と共に京都に向かう木戸。
すべて黒田の独断であったために、小松、西郷らは木戸の上洛に戸惑います。
しかし、せっかくの機会なので・・・そのまま会談を行うことに・・・。
場所については諸説ありますが・・・
その一つは現在の同志社大学の敷地内にある薩摩藩邸。
そして、近年有力視されているのが、御花畑屋敷・・・小松帯刀が近衛家から借り受けていた屋敷です。
1800坪もあり、薩摩藩の迎賓館のような役割をしていました。

1866年1月18日、ついに薩摩と長州の会談が始まりました。
徳川家茂が、第二次長州征討に向け、大坂城に入ります。
一方幕府は、長州藩に対し、新たな処分を行おうとしていました。
そんな中の薩長同盟の交渉開始でした。
話し合いの席についたのは、薩摩藩側は西郷隆盛、小松帯刀、大久保利通、島津伊勢、桂久武、吉井友実、奈良原繁。
対して長州藩は、木戸孝允一人でした。
階段の口火を切ったのは、西郷でした。

「幕府が近く下す長州への処分案を今は忍んで受け入れてたもんせ。」by西郷

これは、長州藩主の蟄居、10万石削減などでした。
幕府内での秘密事項でしたが、西郷は手に入れていたのです。
薩摩は長州と共に幕府と戦ってくれると期待していた木戸は、幕府側についたともとれる西郷のこの言葉に驚きます。
そして・・・
「三家老の首を差し出したことで、長州藩の処分はついている。
 更なる処分など、納得できません。」by木戸

双方が押し黙ってしまい、開始早々交渉は決裂!!

西郷が木戸に処分受け入れを求めたのでしょうか?
この時、西郷には・・・一旦、幕府が下した処分を受けさせておいて、事態を収束させる自信がありました。
長州側が、幕府の処分を受け入れなければ戦争になる!!それを避けようとしたのです。
薩長の会談が物別れに終わった2日後の1月20日、薩摩藩の有志がによって長州に戻ることになった木戸の送別会が行われることとなりました。
するとそこに、坂本龍馬がやってきました。
話し合いの結果を知らない龍馬は木戸に・・・
「会談の方はどうなりましたかのう??」
「なんも、きまっちゃおらん・・・!!」by木戸
これを聞いた龍馬は、西郷や小松のところに行き、もう一度話し合うように説得します。
これによって、再び話し合いが持たれることとなりました。

一度は決裂した交渉・・・知恵を絞ったのは西郷でした。
木戸に沿うような条件を出します。
その内容が、唯一記録として残っているのが木戸の書簡です。
そこにはこうありました。

幕府と長州の戦いが始まれば、薩摩藩は2000ほどの兵を国元から上洛させ、幕府に圧力をかける。
戦が発生して、長州側が勝利を収めそうな勢いになった時は、薩摩藩は長州藩の復権を朝廷に働きかける。

その中身は、薩摩がいかにして長州藩の復権に尽力するかというものばかり・・・。
中でも注目すべき一文は・・・

一橋・会津・桑名の三者が今までのように朝廷を擁し、薩摩藩の周旋尽力の道を遮った際には、決戦もやむ終えない。

これらの内容に木戸も納得し、1月21日薩長同盟成立!!

この同盟は、木戸の書簡に記された”決戦”の文字から、薩長両藩が手を組み、幕府を倒そうとする軍事同盟だとされてきました。
しかし、この”決戦”は、対幕府ではない・・・??
薩長同盟の真相とは・・・??

西郷が念頭に置いていたのは、あくまで一橋・会津・桑名との戦いであって、武力討幕は全く想定していませんでした。
おまけに、実際に戦闘が想定されるのは京都で軍事力を持つ会津だけ・・・。
戦いが起きても、藩同士での戦いであって、”決戦”という言葉には、長州と共に幕府と戦うという意味はないのです。
つまり、薩長同盟は、倒幕のための軍事同盟ではありませんでした。

木戸の書簡以外に、薩摩側の記録はなく・・・
同盟というほどの物ではなく、薩摩藩幹部と長州藩・木戸との会談の覚書だったのです。
この時の西郷たちの目的は・・・
この会談はあくまでも長州を味方につなぎ止めておくための物で、薩摩側のリップサービスでした。
この時点で薩摩側は、第二次長州征討が実行される可能性は低いと想定していたため、木戸に伝えた内容は履行されないとみていました。

薩摩藩にとって記録に残すほどの物ではなくても、四面楚歌にあった長州の木戸にとっては重要なものでした。
その証拠に、薩摩藩が長州藩に有利な内容を提示してきたこの内容を「皇国之大事件」とし、木戸はその言葉を書簡の中に何度も書いています。
そして木戸は龍馬に、この書簡の裏書を書くように強く求めます。
交渉の内容を知る人を増やすために・・・長州藩にとって、龍馬は薩摩藩士のひとりのように認識されていたからです。
証明してくれる人材として適任でした。
そして裏書として朱色でこう書きました。

”表に記されているのは、私が同席した時に話し合われていた内容に相違ありません
 二月五日 坂本龍馬” と。

龍馬に裏書をしてもらうことで、木戸は交渉の成果を確かなものとして長州に持ち帰ったのです。

薩長同盟締結からわずか2日後・・・1866年1月23日寺田屋にて・・・。
坂本龍馬は会談の成功を祝い、長州藩と関わりの深い長府藩士・三吉慎蔵と祝杯を挙げていました。
するとそこへ、幕府の役人が襲撃してきました。
龍馬は持っていた銃で応戦するも、刀で切りつけられ両手を負傷!!
命からがら近くの薩摩藩邸に逃げ込みます。
世に言う寺田屋事件です。

2017年この時の様子が書かれたものが、鳥取藩の記録が発見されました。
そこには・・・

坂本龍馬というものが泊まっていた寺田屋に、薩摩と長州が密談していたことを記した手紙があった。
それによれば、長州が挙兵した際は、薩摩藩が京都の幕府軍を追い払うという密約があるらしい。

龍馬が寺田屋に置き忘れた手紙が・・・薩長同盟の内容が僅か数日のうちに、幕府に漏れていたのです。

一説によると、龍馬はわざと書簡を置き忘れ幕府にリーク、薩摩藩の方針を幕府に知らせることでこの同盟が破棄されることのないよう薩摩の退路を断ったのでは??というのです。

果たして真相は如何に・・・??

寺田屋事件の後、龍馬が家族に送った手紙には・・・
”寺田屋で襲われたことは、幕府に長州藩と薩摩藩の関係を知らせることができてかえって幸いだった”と。
龍馬は、長州と薩摩の温度差・・・この同盟についての考え方の違いについて解ってたはず・・・。
薩長同盟・・・幕府の知るところになった瞬間、歴史は大きく動き出すのです。

同盟締結から5か月後の1866年6月・・・第二次長州征討!!
幕府は10万の軍勢で迫ります。
単独で迎え撃つ長州軍は、3500の兵でしたが奮戦します。
この時、兵士たちが手にしていたのは薩摩藩の名義を借りて手に入れた最新式の銃でした。
二度目の長州征討はないという思惑が外れた薩摩藩でしたが、木戸との約束を守り、征討軍の参加を拒否!!
西郷も早期終戦に向けて尽力します。
長州藩は戦いを優位に進め追討軍を撃破!!
この後、薩長の倒幕の勢いは大きなうねりとなり、江戸幕府は終焉へと向かうこととなるのです。
薩長同盟の成立からわずか2年足らずのことでした。

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う~ん・・・かなり挫折しそうです。
私がブツブツ言いながら「西郷どん」を見ていると、旦那がいつも言います。
「だって、これが史実だから~~」
今回も、ブツブツ言っているといいました。
「歴史なんてそんなもんやで。
 普通の人間がやったことを、あとからお前みたいなのが美化するんや。」って。
言っている意味は分かるし、私が美化しているのもわかっています。
でも・・・今回はほんと、歴史がねじ曲がっていると思うので、きっと美化ではないと思うんです。

そう思ってもう一度見ます、「西郷どん」を・・・。

幕末維新史上一番のターニングポイントとなる禁門の変です。

・・・軍賦役・・・”ぐんぷやく”ではなくって、”ぐんふえき”だよ・・・。

コロコロコロ・・・と長州の・・・久坂玄瑞たちの京都火の海作戦の紙くずを吉之助に見せた男・・・
don2















「侍の本懐はの・・・戦をするこっちゃなか・・・」
またもや民を守ることだと、言う吉之助です。
う~ん・・・もういいのよね・・・。
民のために・・・なんて考えてると思う??
それって、今の考え方だと思うのよね・・・。

村田新八も、久光が、戦の先頭に立たせて吉之助を殺そうとしているとか・・・憎んでいるとか・・・
そんな内輪の細かい話はどうでもいいし、そんな汚い考え・・・久光を小さい男にしたいのかなあ・・・
そんな話をすること自体、大義の前には小さい事なんだよ・・・って思ってしまう。
それを、「よか、よか」と言う西郷が、懐の広い大きな男だって言いたいのかなあ・・・。

鍵屋に西郷に合わせろって人物がやってきました。
先日の物乞い・・・
あ・・・長州の桂小五郎って、変装しているのにあっさり自ら名乗ったよ・・・
もう。。。薩長同盟は要らないな・・・
小栗旬、大好きなのに、龍馬さんの出番は無くなりました。
あんなに東奔西走して薩長同盟を成し遂げたのになあ・・・見せ場が無くなってしまったよ・・・残念です。

でもって、話しは”長州を助けてほしい”みたいな感じなんだけど。
長州過激派の秘密をばらしてしまいます。
そして、一橋慶喜に妾を通して会わせてほしいと言っています。
朝廷工作で会わせてもらいなさいよ・・・小五郎・・・。
だから・・・龍馬さん、出番なしね・・・

慶喜は・・・孝明天皇に「頼みはそなただけじゃ・・・」と言ってもらっていますが・・・
そう言ってもらうのは、やっぱり松平容保でしょう。
周りのみんなが嫉妬するぐらい、容保を信頼していた孝明天皇なんです。

一方、吉之助は小五郎を慶喜に会わせてみようと考えます。
・・・ああ・・・小松帯刀が吉之助と久光の伝達係に成り下がっているのも最悪だ・・・

人斬り半次郎も出てきました。
平岡を斬った犯人では??と、問われているのです。
う~ん・・・いい男というか・・・綺麗すぎる・・・。
ハンサムが悪いって言っているんじゃないの・・・

izou













こちらは龍馬伝の岡田以蔵です。
これぐらい眼光鋭く小汚い感じが人斬りにはちょうどいいかなあ・・・って感じなんです。
この以蔵は最期までどろくさかったからなあ・・・.。

慶喜からヒー様になる・・・
とか、そんな場面もホント必要ないよなあ・・・。
「西郷さまと一緒なら安心ですね。」byお芳
「俺のことは信じていない・・・??」byヒー様
「ヒー様には惚れています。」byお芳
これも必要なし!!それに、お芳、慶喜に無礼すぎるだろ・・・??

と、吉之助が会わせた慶喜と小五郎も遊郭でした

don3















って・・・ほうっかむりして鼻を赤くして・・・バカボンのパパかと思っちゃいました。

papa





先日見ちゃったからなあ・・・玉鉄のパパ・・・。

本当の小五郎かどうかもわからずに会わせるのか??って思っちゃいます。






暗殺が流行っている当時、みんな本当に慎重でした。
だから吉之助はいくつも名前を変えているし、写真がないんだよ・・・。
慶喜だって、平岡が暗殺されているんだから、自分の行動にも責任を持ってほしいんだよね・・・。

??幕府と長州が組めば、乱れた世を治すことができる・・・と言い出す慶喜でした。

小五郎は、長州過激派の説得をはじめました。
そこへ半次郎がやってきます。
自分は、長州の桂小五郎だと自ら名乗り、話しをつけるんですが・・・これ、OKですか??
逃げの小五郎が、ガタガタと崩れ落ちていきます
この大河では、正々堂々と話をして片を付けるんだろうか・・・??
天誅、天誅、暗殺、暗殺と殺伐とした時代に、なんだ・・・この生ぬるい感じ・・・。
そこでも、半次郎が、薩摩で西郷先生を知らない者はいないとか、小五郎が西郷のおかげで長州が救われたとか・・・
一体何の話をしているんだ・・・??って話を重厚そうにいう小五郎です。

一月後の祇園祭の日・・・。
慶喜が命令したのか・・・池田屋事件を・・・。
一瞬で終わった池田屋事件でした。
ま、新選組ファンとしては、一瞬で済んで良かったわ・・・

でも、この大河で思うことがあります。
真田丸や直虎で、一瞬で終わる・・・関ケ原とかね?そんな描写が話題となりました。
でも、それは、関ケ原が誰もが知っていて、基本的にわかりやすいからだと思うんです。
当時の地方の大名たちはタイムラグも今より長かったでしょうし・・・
でもね、こんなに混沌としている幕末を、訳も分からずサクッと端折ってしまうと、何が何だか分からなくなると思うんですよね・・・。
違うかな・・・??

池田屋のリベンジに、長州が2000の兵を率いて上洛します。
でも・・・私怨で戦ってはいけないとやっぱり戦争反対の吉之助です。
ま、これに乗り気ではなかったのは確かですが・・・。

薩摩藩邸の訓練に吉之助がやってきました。
昔、江戸に行った西郷を叱った迫田がここにいました。
昔の失礼を土下座して謝る迫田・・・それを「やめてくれ、38番西郷吉之助、ちょっとでてきもす。」と、言う吉之助・・・。
こんなにへこへこしていいのか??迫田!!やめろよ~~こんな演出~~!!
武士が、土下座なんかしないでくれ~~!!
もっと他にいい演出あるだろう・・・??

don















半次郎も再会!!
子供の半次郎は、眼光鋭く人斬りらしかったのになあ・・・優し過ぎだろ・・・この眼・・・。

鉢巻を巻いて、陣羽織・・・戦支度をしている慶喜ですが・・・桃ちゃんにしか見えないのは私だけだろうか・・・??
誰が敵で誰が味方かわからん!!と、ヒステリックになる慶喜・・・。
「もう、お前しかおらんのだ・・・」と、またもや吉之助アゲアゲに言うのでした。

don5















この戦いは、長州を討つことに非ずなんだそうです。

長州軍が御所をめがけて進軍してきました。
禁門の変!!です。
あ・・・いきなり会津軍も出てきました。

don4















ラリアットも健在・・・??

が・・・大将の来島又兵衛が死んだことで、長州軍は、みんな刀を落とすのでした。
2000人も引き連れて来て、又兵衛が死んだぐらいで戦意喪失すんの・・・??
って、そこへ会津が鉄砲を打ち込んで・・・斬り込んで・・・またもや戦闘再開!!
吉之助はそれを止めようとして足を討たれ負傷!!
それでも戦いを止めようとする吉之助なのです。
西郷さんは軍人でしょ??
人によったら・・・最終的には国家転覆を謀るわけだからテロリストっていう人もいるんですよ・・・
清濁併せ吞む男だから、得体のしれない・・・カッコいいんじゃないの??

おもんない・・・こんな展開・・・。

悪者は会津だったんだな・・・
戦いの中、吉之助負傷・・・退場するから戦いが再開してもいいんだろうな・・・。

そして・・・望んでいない京都が火の海に・・・!!??

なんだかネットでは八重の桜を懐かしむ声がたくさんあるようで・・・
ま、別にハンサムにしてほしいわけではないけれど・・・私は桂小五郎さんは・・・いやいや、玉山鉄二さんは・・・

yamakawa













山川大蔵でいて欲しかった。。。


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1866年1月・・・風雲急を告げる幕末の京都で・・・時代を大きく動かす密約が結ばれました。
薩長同盟です。
交渉に当たったのは、薩摩藩が小松帯刀と西郷隆盛、長州藩が木戸孝允、そして・・・交渉成立に深くかかわったとされているのが坂本龍馬です。
薩長同盟を機に、薩摩と長州を中心に討幕運動が加速!!突き進んでいくこととなります。
元々は犬猿の仲だった薩摩と長州がどうして・・・?

1853年浦賀にぺりーが来航し、開国を要求します。
これをきっかけに、外国勢力を打ち払う攘夷の機運が高まります。
外様大名の雄・薩摩藩は、朝廷と幕府と諸藩とが一体となって富国強兵を行い、国力が備わったところで攘夷を行うのがいいと主張。
これに対し、同じく外様で力を持っていた長州藩は、即時の譲位を主張!!
一部の公家を巻き込みながら、過激さを増し、幕府を悩ませていました。

そんな中、1863年8月18日・・・
会津藩、薩摩藩を中心とした幕府側勢力が、長州藩と急進派の公家を京都から追放します。
ところが・・・長州藩は、翌年の1864年、京都での復権を図り、3人の家老が軍勢を率いて上洛・・・(禁門の変・蛤御門の変)。
蛤御門付近で会津藩、桑名藩と激突!!
長州藩は、一進一退を続けるも、京都にいた西郷隆盛の薩摩軍の部隊が幕府側につくと、形勢は不利に・・・!!
長州藩は、京の町に火を放ち、逃げていきました。
その時、御所を背にした幕府軍に対して発砲したとして長州軍は朝敵に・・・!!
そんな長州藩に対し、薩摩藩が望んだのは厳しい処分・・・長州征討でした。
禁門の変の時に参戦していた西郷は、その時の強硬派の中心的人物で、盟友・大久保利通に手紙を送っています。
「長州藩には、兵力をもって迫り、東国当たりへ国替えを命じるべきである」と。
厳しい処分を考えていたようです。
朝敵となってしまった長州藩は、薩摩や会津に対して敵愾心を燃やし、薩摩を薩賊、会津を会奸と呼び、憎しみを忘れないようにとその4文字を下駄に書いたと言われています。

禁門の変から5日・・・7月24日、幕府は、西国諸藩に徴収を攻撃するように命じました。
第1次長州征討です。
ところが、あれだけ厳しい処分を望んでいた薩摩藩が、「長州には寛大な処分を望む」と、その態度を軟化させます。
どうして方針が変わったのか・・・??
それは、当時の薩摩藩の権力者・島津久光の意向によるものでした。
久光は、京都でで行われた参与会議に参加し、新しい国づくりに参加していました。
しかし、薩摩藩の力が強くなることを恐れた徳川慶喜が、久光と対立。
慶喜の暴言によって、参与会議はなんの成果もないまま瓦解してしまいました。
それ以後、幕府の政治は、一会桑政権(一橋徳川家・慶喜、会津藩・松平容保、桑名藩・松平定敬)となります。
国元に戻った久光は、薩摩藩のみの富国強兵に舵を切ります。
そうとなれな、藩の支出が多くなる長州征討などもってのほか・・・戦を避けたいという久光の意向が、薩摩の方針転換の大きな要因でした。
さらに、久光が慶喜と対立したことで、薩摩藩が幕府から危険視されたともいわれています。

もし・・・長州藩が滅ぼされてしまったら・・・次の標的は薩摩に向かうのでは・・・??という意見が内部から出てきました。
あまり長州藩を追いつめないように・・・。
しかし、禁門の変で直接対峙した西郷は、厳しい処分にこだわっていました。
これを西郷の上司である薩摩藩家老・小松帯刀が説得。
西郷はようやく態度を改めて、久光の意向に従い、その手腕を発揮していきます。

1864年10月・・・大阪城で軍議が開かれた際には、薩摩藩の代表として参謀役として任じられた西郷は、長州征討軍の総督・尾張藩主徳川慶勝に進言します。

「いま、長州藩の中は、内部分裂を起こしています。
 これを利用し、長州人をもって長州人を征するのが良いかと・・・」

当時、長州藩は、穏健派と強硬派に分かれていました。
そこで西郷は、穏健派を支持し、実権を握らせることができれば戦を行うことをやめることができると考えたのです。
しかし、征討軍はすでに15万で長州藩の国境に・・・!!

「このままでは長州藩が潰れる・・・
 そうなれば、次は薩摩藩が危ない・・・。
 何としても、総攻撃を回避せねば・・・!!」

西郷は急いで、岩国藩主・吉川経幹に長州藩の穏健派に恭順の意を見せるようにと要請します。
交渉が成立するように、禁門の変で捕らえていた捕虜10人を長州藩に返しました。
その後、自ら長州藩に乗り込んで、薩摩藩に敵愾心を抱く強硬派とも交渉を行います。
乗り込んで・・・殺される危険性は大でした。
それでも西郷は、承知の上で行ったのです。
西郷ならではの問題解決方法でした。
こうした西郷の本葬によって、長州藩が禁門の変に加わった三人の家老の首を差し出すなどの幕府に恭順の意を示したことで、総攻撃は中止!!
西郷は、間一髪のところで薩摩藩を戦に巻き込まずに事態を収束させたのでした。

1865年5月、幕府は再び抵抗の姿勢を見せた長州藩に圧力をかけるために、第14代将軍徳川家茂自ら軍勢を率いて江戸を出発!!
これを知った西郷は怒りをあらわにします。
そして、家老小松帯刀にぼやきました。

「将軍の江戸出発は、自ら災いを迎えるようなもので、幕府の威厳を示すどころではありません。
 これによって、天下は動乱と徳川氏の衰退はまさに、この時よりはじまるでしょう。」

薩摩藩は、この時、西国雄藩連合を作って幕府にせまり、二度目の長州征討を阻止しようと考えていました。
ただし、これを実現させるためには、当事者である長州藩の協力が必要で・・・
薩摩と長州の和解が急務でした。
そして、この和解実現の立役者となったのが、土佐脱藩浪士・坂本龍馬でした。
この時、龍馬は薩摩藩の庇護のもとにありました。
それは、龍馬が勝海舟の門下生として参加していた江戸海軍塾が1865年に閉鎖され、行き場を失くした龍馬が、交流のあった薩摩藩・小松帯刀に相談し、預けたのです。
小松は、近代的な海軍教育を受けていた龍馬は使える!!として、庇護下に置いていたのです。
そして、龍馬が長州藩士たちとも交流があったことで、薩長和解の道を探らせたのです。

早速、知人を通じて下関に入った龍馬は、長州藩の中心的人物・木戸孝允との会談にこぎつけます。
しかし・・・相手は、薩摩への深い恨みを抱えていました。
どのようにして説得する??
鹿児島にいる西郷が、上洛する際に、下関によるらしい・・・
そして、木戸との面会を希望しているという噂が・・・。
そこで龍馬は、西郷を木戸との会談の場に連れてくることができれば、薩長の和解が進む・・・
そう考えた龍馬は、同じく土佐脱藩浪士・中岡慎太郎に、西郷を下関に連れてくるように頼みました。
龍馬は木戸と共に、西郷の到着を待ちます。
しかし・・・戻ってきたのは中岡だけでした。
なんと、西郷は、下関によることなく、京都に向かってしまったのです。

どうして西郷はこの時現れなかったのでしょうか?

この時点で、西郷は木戸と会う意志がありませんでした。
京都がもめている今、一刻も早く京都に戻らなければ・・・!!と、西郷は思っていたのです。
そして、薩摩藩の最高実力者・島津久光に答えもしていない中、木戸とあったとしたら??
どんな激しい怒りを買うかもしれません。
あやふやな情報で、糠喜びをさせてしまったとして、龍馬と中岡は木戸にひたすら謝ります。
しかし、木戸の怒りは収まらず・・・その要求は・・・??

「薩摩藩が信用できると言うならば、長州藩のために、名義を貸してくれますか?」by木戸孝允

この頃、長州藩は、武器の輸入を幕府から禁じられていたので、外国から新しい武器を手に入れることが出来ずにいました。
幕府と対峙する為に、軍備強化を図りたい木戸は、薩摩藩から名義を借りることで武器を調達しようと考えたのです。
龍馬はすぐにこれを薩摩側に報告!!
なんとか長州藩と和解したい小松と西郷は、名義を使うことを許可します。
こうして長州藩は、4000丁の最新式の銃と、蒸気船を手に入れることに成功したのです。

9月・・・西郷は、再び龍馬を長州に向かわせています。
今度は、二度目の長州征討を阻止しようと奔走していることをあえて使えることで、お互いの信頼を構築しようとしたのです。
この時、大きな役割を果たしたのは、西郷が龍馬に持たせた大久保利通の書簡の写しでした。
そこには・・・

「義のない勅命は勅命にあらず。
 いかに朝廷の命令であろうとも、天下万民が認めなければ、誰も支持することはない。」

長州征討に断固反対する言葉でした。
これが、長州藩に多大なインパクトを与えました。
そして、薩摩藩の信頼が回復・・・薩長同盟へ・・・??

徳川慶喜が権勢をふるう幕府と対立しつつあった薩摩藩は、長州藩が潰れれば、次は薩摩藩が・・・と、警戒!!
長州征討を何が何でも阻止する必要がありました。
一方、長州藩は、軍備を増強し、二度目の長州征討に備えなければなりませんでした。
「出来れば、長州単独で戦うのは避けたい・・・」と、他藩と協力することを模索!!
そんな中、12月・・・木戸孝允の元を一人の男が訪れます。
後に総理大臣となる黒田清隆・・・この時は、薩摩藩の下級藩士でした。
黒田は木戸に対してこう言います。

「京都にいる西郷が会いたがっているので、是非あってほしい・・・。」と。

しかし、これは黒田の全くの作り話でした。
黒田の中には、いがみ合っていたのでは、根本的に解決しない・・・という思いがあったのです。
黒田清隆こそ、薩長の交渉のおぜん立てをした最大の功労者といっても過言ではないのです。
一度、薩摩藩に騙された木戸は・・・懐疑的・・・。
そこで黒田は・・・

「すでに西郷の心は、長州とひとつになっています。」

俄に信じがたい・・・でも、長州としても味方が欲しい・・・。
そこで、木戸は、黒田と共に京都に向かうことに・・・。
すべて、黒田の独断であったために、何も知らなかった西郷ら薩摩藩幹部は戸惑います。
しかし、せっかくの機会・・・と、そのまま京都で会談することに。

会談が行われた場所は諸説あって・・・
その一つが、現在の同志社大学の敷地内にあった薩摩藩邸。
そして、近年有力視されているのが・・・森之木町にある御花畑御屋敷・・・
ここは、小松帯刀が公家の近衛家から借り受けていた場所で・・・1800坪の邸宅でした。
つまり・・・小松帯刀の私邸というよりは、薩摩藩の迎賓館のような場所だったのでは?と言われています。
小松は、人目につきやすい薩摩藩邸を避け、迎賓館的な御花畑屋敷を会談の場にしたと考えられます。
そして、1866年1月18日・・・薩摩と長州の会談が始まりました。

ところが・・・14代将軍家茂が第二次長州征討に向け、大坂城に入ります。
そして、幕府は、長州藩に新たな処罰を出そうとしていました。
そんな中、1866年1月18日、薩長同盟の交渉が開始されます。
薩摩藩側は、家老・小松帯刀を始め西郷隆盛、大久保利通、島津伊勢、桂久武、吉井友実、奈良原繁。
対して長州藩は、木戸孝允ひとり・・・。
口火を切ったのは、西郷でした。

「幕府が近く下す長州への処分案を、今は忍んで受け入れてたもんせ。」by西郷

西郷の言う長州処分案とは、長州藩主の蟄居、10万石削減・・・これはまだ幕府で協議中の極秘事項でしたが、西郷は独自のルートで情報を入手していました。
薩摩は長州と共に戦ってくれると期待していた木戸は、幕府側ともとれる西郷の発言に驚きます。

「三家老の首を差し出したことで、もはや、長州藩の処分は済んでいる。
 更なる処分など、納得いきません。」by木戸

双方、黙ってしまい、会談早々に交渉は決裂・・・。
しかし、どうして西郷は、幕府が下す処分の受け入れを勧めたのでしょうか?
薩摩側は長州藩士が、禁門の変で御所の前で発砲した以上、何らかの処分が必要だと考えていました。
この時、西郷は・・・一旦、幕府が下した処分命令を受けさせておいて、長州側に村にならないよう収束させるつもりだったようです。
長州側が、幕府の処分案を拒否すれば戦争になってしまう・・・それを避けたかったのです。

薩長の会談が物別れに終わってしまった2日後・・・薩摩藩の有志によって、長州に戻ることとなった木戸の送別会が行われました。
そこに・・・坂本龍馬がやってきて・・・話し合いの結果を知らない龍馬は木戸に・・・。
そして、西郷と小松にもう一度話し合うように説得します。
これによって、もう一度話し合いが持たれることとなりました。
決裂した交渉・・・知恵を絞ったのは西郷でした。
木戸の希望に沿う条件を提示しました。
その内容が、唯一記録として木戸の書簡に残っています。

・幕府と長州の戦いが始まれば、薩摩藩は二千ほどの兵を国元から上洛させ、幕府に圧力をかける。
・戦が発生して、長州側が勝利を収めそうな勢いになった時は、薩摩藩は長州藩の復権を朝廷に働きかける

その中身は、薩摩藩がいかにして長州藩の復権に尽力するかというものばかり・・・
中でも注目すべきは・・・

・一橋、会津、桑名の三者が今までのように朝廷を擁し、薩摩藩の終戦尽力の道を遮った際には、決戦も已む終えない。

これらの内容に、木戸も納得し、1月21日薩長同盟成立!!

この決戦は、対幕府ではない??
薩長同盟は本当に軍事同盟??
西郷が念頭に置いていたのは、一橋、会津、桑名との戦いで、武力討幕を全く考えていませんでした。
実際に戦闘が想定されるのは、京都で軍事力を持つ会津のみでした。
つまり、戦いが起きても藩同士の戦い・・・
「決戦」という言葉には、長州と共に幕府と戦うという意味はなかったと思われます。

つまり、薩長同盟は、討幕のための軍事同盟ではなかったのです。
この時点では、薩摩は第二次長州征討が実行される可能性が低いと想定していたので、木戸に伝えた内容は履行されないと見ていました。

薩摩藩にとって記録に残すほどでもなかった会談も、四面楚歌の長州にとっては大切なものでした。
その証拠に、薩摩藩が長州藩に有利な内容を提示してきたこの会談の内容を”皇国之大事件”とし、木戸はその言葉を書簡に何度も書いています。
そして、木戸は龍馬にこの書簡に裏書を書くように強く求めます。
交渉の場には、長州側は木戸だけでした。
なので、交渉内容を証明する人物として・・・龍馬は長州藩からは、薩摩藩士のひとりとして認識されていました。
後に、書簡を受け取った龍馬は、朱色の墨でこう記します。
”表に記されているのは、私は同席したときに、話し合われていた内容に相違ありません
2月5日 坂本龍馬”と。
龍馬に裏書してもらうことで、交渉を確かなものとして長州に持ち帰ったのです。

薩長同盟締結からわずか2日後・・・
1866年1月23日、寺田屋にて・・・
坂本龍馬は会談の成功を祝い、伏見の寺田屋で、長州藩となじみの深い長府藩三吉慎蔵と祝杯を挙げていました。
するとそこへ・・・幕府の役人が・・・!!
龍馬は持っていた銃で応戦しますが、刀で切りつけられ両手を負傷!!
命からがら近くの薩摩藩邸に逃げ込みます。
世にいう寺田屋事件です。
2017年、鳥取藩の記録が発見されました。
そこには・・・
”坂本龍馬というものが泊まっていた寺田屋に、薩摩と長州が密談していたことを記していた手紙があった。
 それによれば、長州が挙兵した際は、薩摩藩が京都の幕府軍を追い払うという密約があるらしい。”
 龍馬が寺田屋に置き忘れた手紙が、幕府の手に渡り、極秘の密談の内容が数日のうちに幕府に漏れていたのです。
一説には、龍馬はわざと手紙を残して幕府にリーク、薩摩の方針を幕府に知らせることで、この同盟が破棄されないよう、薩摩藩の退路を断ったのでは??とも言われています。
果たしてその真相はいかに・・・??

寺田屋事件の後、龍馬が家族に送った手紙には・・・
「寺田屋で襲われたことは、幕府に薩摩藩と長州藩の関係を知らせることができて、かえって幸いだった。」と。
龍馬は、薩摩と長州の温度差・・・この同盟の考え方の違いに気づいていたのでしょうか??

薩摩藩にとっては、記録に残す必要のない、リップサービスだった薩長同盟・・・
幕府の知るところとなった瞬間に、歴史は大きく動くのです。
同盟締結から5か月後・・・
6月第二次長州征討・・・幕府は10万の軍勢で開始します。
単独で幕府軍を迎え討つ長州軍は、3500ほどの兵で善戦。
この時、兵士たちが手にしていたのは、薩摩藩名義で入手した最新式の銃だったのです。
二度目の長州征討はないという思惑が外れた薩摩藩・・・
木戸との約束を守るために征討軍参加を拒否!!
西郷も、早期終戦に向けて尽力します。
長州藩は戦いを優位に進め、征討軍を撃破!!
この後、薩長両藩の討幕への勢いは、大きなうねりとなり、江戸幕府は終焉へと向かうのです。
薩長同盟成立からわずか2年後のことでした。

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いよいよ第3部の始まりです。
個人的には、女性のドロドロとした昼ドラや渡鬼が大嫌いだから、カッコいい粋な男の歴史=大河に転んだ私。
幕末維新という日本の2つしかない歴史的大転換な時期(もう一つは大化の改新)に、そんなドロドロした女性のお話を見せられるのも気が乗りませんが、ここまで続けてきたので腐らずに見たいと思います。
そう・・・あと5か月か・・・。

幕府と対立した長州は、京での戦いに敗れ・・・って禁門の変ってことよ。
いつも思うのですがどうしてそれが歴史的に”禁門の変””蛤御門の変”って史実を述べてくれないんだろう・・・。
この頃は、そこらへんで”〇〇の変”が起こっていて、何が何だか状態なのに、それをナレーションが言わずしてどうする??って感じの、大好きな池田秀一さんに思ってしまった・・・。ゴメンナサイ。。。

変に対する長州征討の詔が天皇から幕府に出されます。
長州がやった異国船攻撃報復の為に、四か国連合艦隊が下関の攻撃を開始しました。
で・・・お話は文へと変わってしまいました。
奥御殿に入り・・・これまでの自分を捨て、”美和”として生きることを決断するのです。

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ちなみに、この四か国連合艦隊で、長州側は1時間のうちに壊滅状態となります。
この下関戦争&長州征伐で、朝敵となり討幕へと拍車のかかっていく長州。。。
これから一番長州藩の面白い時期に、どうして素性を隠して奥御殿に入る文を見なければならないのかと思うと・・・ちょっとねえ・・・

ちなみにここら辺の事は・・・

四か国連合艦隊に歯が立たなかった大砲。はこちら
高杉晋作 革命戦士が夢見た独立国家構想はこちら
長州藩討幕の立役者~高杉晋作~はこちら

でどうぞ。

いつも言っていますが、”江”で・・・
江は、まんじゅうを食って、子供を産んで、まんじゅうを食って、子供を産んで・・・
訳の分からん神君伊賀越えについていくなんてことしないで、もっと歴史をしてくれよ・・・と思っていましたが・・・。
秀忠との間だけでも8人だったかな?そんなことを成し遂げた江はすごかったなあ・・・。
そこには、秀勝との娘は九条家に、後に明正天皇の母となる和子を産んだり・・・。
そう言えば、江の時も、天皇の中宮にあげるという偉業を、全くのなんの偉業とすることもなくドラマが進んだのを思い出した。。。

ふつうに女としての変化があるんですが、子供のいない文。。。
私もけっこう子供のいない時期が長かったですが、そうなると、ひとの生き死にという人間的な変化があんまりないので、この時代の女性はドラマにはしにくいんじゃないかと思いだしました。

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別に、奥御殿の掃除をして、銀姫にいびられる文を見るのが大河ではないわよね・・・。
おまけに、短筒の件・・・
打掛を飾って敵を倒すなどと・・・八重が怒りに打ち震え火薬の雨の降る中、命を懸けて鉄砲を撃っていたのとは対照的で・・・ばかばかしい。。。
短筒を知らない方が・・・”知らないんだな”ってことで良かったのに・・・。
なんか、知ってるひけらかしのように思えてしまう・・・。
「打掛・・・」と言っているのが、動乱の毛利家を陰で支え、後に文化人として勲三等に任ぜられた銀姫かと思うと・・・。

「(美和と)共に成長していく姿をご覧いただければと思います。」と、麗奈ちゃんが言っているので、美和が賢い女性へと替えていくストーリーなのかもしれませんが・・・。
後に勲三等をもらう銀姫、新島八重の参加した日本赤十字社で要職を務めたといいます。
今でもいがみ合っているという長州VS会津・・・
この時代に一緒に赤十字活動をするなんてすごい女性たちですよね。
なので、こんなおバカなイケズに描かれると困っちゃうわ。。。
もしかすると、賢い女に成長するのは美和のおかげではなく八重のおかげでは・・・??なんてよからぬことを思ってしまった・・・。

四か国艦隊との講和に向かうことになった高杉晋作。
喜んで受けた高杉に対し、異国に頭を下げるなど!!と、奇兵隊のみんなは講和には大反対!!

お・・・いきなり井上門多と伊藤利助登場!!
イギリスから帰ってきた件はほとんどなし。。。
「彼の地で誓いおうたではないか!!」と、イギリスを彼の地とし、見ている人に全く解らず・・・。

スーパー留学生 長州ファイブはこちら

でどうぞ。

で・・・いつの間には野山獄から出てきた高杉&井上・伊藤は匿われているようですが、その説明も一切なし!!

大事な衣装を高杉に持って行くという大きなミッションを受けることになった文。
文・・・御半下だよね・・・。

「そのような大切なお衣装をなぜ私に・・・」
「今、下関は異国に屈することを許さぬという者らで満ちておる。
 男では危ないのです。。。」

??では、女は危なくないのか・・・??
全くつじつまの合わないまま美和のミッションが始まるのでした。
武芸の心得がある鞠を共につけるという・・・
きな臭い下関へ・・・ピンクの衣装を身にまとった女性・・・目立つだろう・・・。
この時代・・・それだけで襲われるよ・・・。


このミッションが成し遂げられた暁には、お目見えになりたいという文。。。
やっぱりさ・・・園山様ほどの人物になると、輩は奥にはあげないと思うんですよね。。。
文が不穏な動きをしないかどうか?試しているようで、鞠はそのための見張りのようです。
かなり危なっかしい採用の仕方です。
前回も書きましたが、長州を窮地に追いやった人物の妹であり妻である文。。。
しかし、それを上回る才女だから園山のお眼鏡にかない採用したって方がしっくりいくのに。。。

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都美姫も賢い女性だったようですが・・・
意地わるならともかく、浅いというか・・・おバカに見えてしまいます。


その頃京では・・・なんと、桂が川の下で物もらいの恰好で、辰路と会っていました。

「会いたいじゃろうな・・・」by桂

どうして橋の下の小汚いところでこの展開・・・。
幾松を頼れ・・・と言いますが、幾松・・・きっと、桂さんの事だけで手一杯ですよ。。。
そこを新選組に襲われるというびっくりな展開!!
さすがの逃げの小五郎も、妊婦を連れてじゃあ逃げられませんよ・・・と、冷静に思ってしまった。。。
のめり込めていない証拠ね。。。

「久坂の命を頼む!!」by桂

ですが、当時のこんな女性は頼まれなくたって守るのがきっぷのいい玄人な女なんだよ!!
なんて感じながら。。。
新選組としても茶番な・・・。
誰ひとつカッコ良くない展開でした。

文がようやくたどり着いた場所で・・・待っていたのは、品川と野村・・・
なんと、第1回の交渉はもう終わっていたことが判明
う~ん、筆頭家老・宍戸家の息子・宍戸刑馬と名乗り、威厳を付けるために鎧、直垂、陣羽織、立て烏帽子・・・そんな物々しい出で立ちでイギリス艦司令長官・クーパーと対峙したのではないの??
そう、日本人でなかなか言えない「NO」を、クーパーに叩きつけたんじゃないの・・・??
 

講和を止めさせようとする品川&野村たち攘夷派!!
背負っていた衣装を取り上げられようとしている文を助けたのは・・・
「何をしちょる??」お助け伊之助でした。

伊之助がそんなに動けるのなら・・・そこらへんの人が男の脚で歩けば間に合っただろうに・・・。

「高杉さんに会わせてつかあさい!!」

奥勤めになるために会いたいみたいよ・・・。
天下国家のためではないらしい。。。

匿われている高杉&伊藤&井上・・・。
どうしてこの3人が攘夷派に狙われているのかは全く説明は無し!!

良い女も連れてこい!!と言った晋作に、文が衣装をもって登場・・・。

おまけに「お前はいつも俺の気にくわんことばかりする・・・久坂に惚れたんもそのひとつじゃ・・・」と、まるで文を好きだったような展開。。。
みんなが主人公を好きという少女漫画的展開にかなりゲンナリ・・・。

文に対して天下国家を述べるですが・・・そこはこのあと講和に一緒に臨む伊藤として欲しかった・・・。

奥で何ぞやらかしてやれ・・・
思う存分狂え・・・
それも供養じゃ・・・

と、文をそそのかす晋作。。。

ここから文が、奥から長州藩を変えていくのか・・・

で。。。ここでか・・・

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伊之助から「みわ」という名前をもらうのですが・・・
もう奥勤めしているからすでに美和になっていないとダメなんじゃないの・・・??

だって、いきなりミッションから帰ってきて「私、みわで行きます!!」って言うの??

ちなみに交渉は、ナレーションで終了・・・。

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アーネスト・サトウに「魔王」と言わしめた晋作は、なんの緊張もなく終わってしまったのでした。
ちなみに晋作は以前に行った上海の・・・中国の植民地化を見て、日本もそうなるのでは??と危惧していました。
なので、どうにか植民地化をされないように交渉に臨み・・・その交渉の通訳としてついたのが伊藤利助(もう俊輔か??)だったのです。
伊藤もまた長州ファイブとしてイギリスを見て・・・攘夷!!攘夷!!と叫ぶよりも、富国強兵に努めなければ!!と、イギリスで学んで帰ってきたという事実をもっと表現してくれないと、長州や奇兵隊の思想もへったくれもわかんないでしょう・・・。
だからナレーションで終了なのか・・・


でもって、このミッションによって奥勤め・銀姫付をゲットしたみわ。。。
園山さまが「名を・・・」と言ってくれているのに、自ら「みわにしたい」という・・・なかなか無礼なみわなのでした。
お目見えをゲットしましたが・・・園山さまも、
「下っ端の雑用係じゃ・・・お目見えも許されぬ・・・」
何ともお目見えに協力的・・・
それでいいのか??園山さま。。。

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しかし・・・周りに久坂の妻とばれてしまいました。

勤めのもののほとんど何らかの身内は、今までの戦いで命を落としていました。
皆にいじめられだしそうです。。。

「お前か、お家を朝敵に追いやった久坂の妻とは」と、おバカ全開の銀姫・・・

いつ逃げ出すか、泣き出すか賭けをしようと言い出します。
褒美は独楽・・・。

「怖れながら・・・賭けにはならぬかと・・・!!」

と、決意を新たにするみわですが、なんともはや銀姫の足らなさが尾を引いて・・・
頭にも入んなかったよ・・・。

ということで、今回はドラマに比べて史実を優先で書いてしまいました。
そう、明治維新を成し遂げた・・・そんな男たちの大きな河が見たいんだけどなあ・・・。


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