日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:福沢諭吉

明治20年、政府内で検討された一通の文書・・・

”右の者、満三年皇居を距てる 三里以外の地、退去” 

名指しされたのは、福沢諭吉!!
明治最大の啓蒙思想家にして教育者・・・
”天は人の上に人を作らず”で始まる学問ノススメは、あまりにも有名です。
ところが・・・明治政府は福沢を、危険人物とみなし、周辺に密偵を張りつけ、誰と会い、何をしゃべったかまで逐一報告をさせていました。
その訳は・・・”福沢は見え過ぎていた!!”

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幕末、三度にわたって洋行した福沢は、理想的な政治体制を見出します。
イギリス議会政治です。
血を流すことなく政権交代ができる・・・福沢は、次々と啓蒙書を出版、イギリス流議会政治の導入を解き続けます。
その前に立ちはだかったのが、薩長藩閥政府でした。
福沢の国民への影響力を削ぐために、政府内で密かに進められた工作・・・そして引き起こされたのが、政府から福沢シンパを追い出す明治十四年政変でした。

時の権力者が恐れた福沢のすごみとは・・・??

東京・三田の慶應義塾大学・・・明治の末に建てられた図書館旧館に、福沢が生涯で目指したステンドグラスがあります。

”ペンは剣よりも強し”というラテン語の上に描かれているのは、鎧兜をつけた武士が馬から降り、西洋文明の象徴である女神を迎える様子です。
封建時代の旧制度を改め、文明の世を切り開くという福沢の理想が描かれています。
剣の時代からペンの時代へ・・・
福沢の思想は、いかに形作られたのでしょうか??

福沢と西洋の出会いは蘭学でした。
緒方洪庵が大坂で開いた蘭学塾・適塾に、郷里・中津から留学、修行に励んでいました。
下級藩士の次男坊だった福沢は、最新の西洋知識を身につけることで、人生を切り開こうとしたのです。
福沢の修行の様子を伝える資料が残されています。
福沢諭吉が初めて本格的に翻訳した原稿・・・ペルの「築城書」
西洋式の城の作り方の本で・・・それを通してオランダ語を翻訳する力を身につけ、西洋のことを知りたいという意欲が感じられます。
福沢は、オランダ語の原書を写し、独力で翻訳、精密な図も添えた力作にしました。
福沢諭吉なる蘭学に秀でたものがいる・・・評判は、中津藩で一気に広まりました。

1585年、福沢は、蘭学塾を開く藩命によって江戸へ・・・!!
しかし、待っていたのは驚くべき現実でした。
開港したばかりの横浜へ行ってみたところ・・・苦心して学んだオランダ語が全く通じない・・・!!
英語が世界の共通語となっていました。
一念発起して、英語を学び始めます。
その決断が人生を大きく開くことになります。
1860年、幕府に英会話能力を買われ、従者としてアメリカへ・・・
さらに1862年、ヨーロッパ諸国を歴訪した福沢は、旅の途中、国家のありようを大きく揺るがされる経験をしました。
あるオランダ人医師から、イギリスの政治について講義を受けたのです。

”イギリスの政治は、国王、上院、下院、3つの要素から成り立っており、政党は、自由・保守の2つがある”

福沢が一番理解に苦しんだのは、イギリスの二大政党制でした。
江戸時代、日本国内では徒党を組むことは禁止されていました。
イギリスの議会には、野党が存在して、野党を含めて議会が円満に運営されていました。
後に、福沢は日本にイギリス流の二大政党制を導入し、野党の役割が重要だということを強調していくことになります。

欧米諸国に追いつくためには、政治体制の大変革が必要・・・そう、福沢は悟りました。
ところが、帰国した福沢を待っていたのは・・・

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1864年、禁門の変が勃発。
過激な攘夷論を唱える長州藩が幕府に公然と反抗、武力衝突を起こします。
その後、禁門の変で幕府側についた外様の大藩・薩摩も、長州と同盟を締結し、倒幕に向けた動きが加速していきます。

1866年7月、幕府に「長州再征に関する建白書」を執筆。
幕府に提出しました。

”長州へ軍事行動を起こし、一挙に征服、その勢いで諸大名も制圧し、朝廷の動きも取り鎮める
 前日本国封建の制度を一変させるべきだ”

将軍が一元的に権力を掌握して、外交を積極的に展開して、産業、文化を積極的に西洋から取り入れて変えていく・・・近代化、文明化を成し遂げて、西洋に追いついていく・・・!!

しかし、その提言が実を結ぶことはありませんでした。

1866年、第二次長州征討・・・幕府は惨敗・・・
翌年、将軍・慶喜は、大政奉還を行って、朝廷に政権を返上してしまいます。
福沢が期待をかけた幕府は消滅してしまったのです。

そして始まった明治という新時代・・・
薩長を中心とする新政府は、文明開化路線を採用。
職を失った幕府の通訳経験者も数多く採用されました。
福沢にも、役人にならないかという誘いが幾度となく届きます。
しかし、福沢は固辞し続けました。

”もはや武家奉公もたくさんに御座候
 この後は双刀を投棄し、読書渡世の一小民と相成り候積”

新時代に福沢がどう向き合ったのか??
上野戦争・・・大砲の音がとどろく中、いつもと変わることなく経済の講義をする福沢がいました。
福沢が力を注いだのは若い世代の教育でした。

1872年に発表された「学問ノスゝメ」
天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らずといへり・・・
封建的身分制から脱した明治の代を、学問を身につけ社会に貢献し、身を立てよという福沢の考えを表したものです。
政治と一線を画し、在野の言論人として生きる・・・
福沢は、新時代に新たな一歩を踏み出しました。

幕府が倒れて数年・・・明治維新は新たな局面を迎えます。
佐賀の乱をはじめとする士族の反乱です。
従来の特権を取り上げられたことに対して各地で武装蜂起、西南戦争まで続きました。

武力ではなく言論で戦おうとする一派も現れます。
1874年、板垣退助・立志社を設立。
薩長藩閥の専横を押さえるには、国会開設以外にないと主張し、自由民権運動は大きなうねりとなります。
当時の心境を福沢は・・・

”うかうかしていては、次第にノーレジを狭くするようあいなるべく、1年ばかり学問する積なり”

激変する時代に対応するには、確固たる政治理論が必要だ!!
そう痛感した福沢は、西洋の最新の政治思想書を大量に買いこみ、1年かけて読み込みます。
1875年「文明論之概略」・・・満を持して発表します。
西洋と日本の文明を比較し、今後日本がどのような道を進むべきかを説いた渾身の論説です。
この本の草稿には、出版の際に削除された部分があります。
それは、議会開設についての福沢の提言です。

”民会の体裁は、速に作らざるべからず”

国会開設の前に、まず地方議会という民会優先論です。
あくまで地方の議会をまず作って、自分の地域のことを自分で決められるようになったうえで、その次の段階として国会を作るべきだと考えていました。
下から変えて、基礎が固まっていないと国家としての基盤が脆弱になってしまう・・・!!
もう一度政治と向き合うことを決めた福沢が、慶應義塾に建設したのが、日本初の演説会堂・三田演説館です。
演説や討論という、当時日本の存在しなかった概念は、この時福沢が導入したものです。
門下生たちは、日夜福沢の前で意見をぶつけ合い、弁舌家としての腕を磨きました。
その後彼等は、全国で演説会や講演を開き、地方議会開設を訴えていきます。
政府は、選挙による地方議会導入に踏み切ります。
理想の政治体制に、その第一歩が記されました。

1879年、新たな論説を発表します。
国民に新時代への心構えを説いたものです。
「民情一新」です。
そこには、注目すべき一説が・・・

”英政を美なりとしてこれを称賛する”

日本が目指すべきは、イギリス型の議会政治だと高らかに宣言したのです。
福沢が評価したのは、イギリスの議院内閣制の仕組みです。
2つの対立する政党のうち、議会で多数を占めた政党の党首が首相となり政治を行う・・・
しかし、次の選挙で野党が多数派となると首相は一議員に戻る・・・
政権交代は、平均して3~4年に一度おこるので、議員は権力にしがみつくことがなく、建設的な議論が行われる!!
はじめて知ったときには、呆然と眺めるだけだったイギリスの議会政治が、福沢にとって明確な目標となったのです。

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一方、その頃、政府の中でも国会開設の議論が進んでいました。
どのような政治体制を目指すのか、国民に示す必要が・・・目をつけたのが、民間に影響力のある福沢でした。
1880年12月、福沢は、政権中枢の参議・伊藤博文・井上馨・大隈重信に呼び出され、次のような申し出を受けました。

”政府はこの度、新聞を発行することとなった
 巷の新聞は、国民を扇動して社会の安寧を妨げてばかりだ
 政府の主張を書いた新聞が必要だ
 ぜひ引き受けてほしい”

在野の言論人を標榜する福沢にとって、政府の御用新聞など問題外・・・
1か月後の1881年1月、申し出を断ろうと井上馨を訪ねた福沢・・・
そこで予期せぬ一言を聞かされます。

「しからば打ち明けよう
 政府は国会を開くつもりだ
 吾輩も国会開設に向け意を決した以上、一身の地位を惜しむものではない
 いかなる政党が進出しようとも、多数を得たものならば政府を譲り渡そうと覚悟を定めた」

伊藤と大隈も、議院内閣制導入に同意しているという井上の言葉に、福沢は大いに感激しました。

「この諭吉、もちろん国のために全力を尽くします」

悲願のイギリス型議会制度がついに実現する・・・!!
福沢にとって、生涯最良の日でした。

1881年10月、福沢にとって青天の霹靂ともいうべき事態が起きます。
新聞発行を頼んできた参議のひとり・大隈重信が政府から追放されたのです。
明治十四年の政権です。
発端は、この年の3月、大隈が政府に提出した意見書でした。

”立憲の政は政党の政なり”

大隈は、この意見書でイギリス型の議員内閣制を主張していました。
この大隈の動きに、伊藤博文が激しく反発したのです。
福沢との会談の時には、志を同じくしていた伊藤にどんな心境の変化があったのでしょうか??

その謎のカギを握るのは・・・井上毅!!
後に、憲法制定にも関わることになる法制官僚です。
7月12日、伊藤博文宛に井上毅の「内陳」が・・・

”現在巷で発表されている憲法案は、全て福澤の私擬憲法が案に基づいている
 福澤の勢力は、知らないうちに人々の脳内を泡立たせ、発酵させている”

井上は、伊藤に大隈の意見書の背後には福沢がいるとにおわせました。
さらに、福沢の思想の危険性を再三にわたって吹き込み、伊藤の考えを一変させたのです。
井上毅は、民衆が力を持つ国家感に対しては批判的でした。
人心が福沢に行ってしまえば、政治制度が議院内閣制になる可能性がありました。
実際に、選挙をやった時に、福沢派に負ける可能性が高い・・・!!
そうなると、立法権も、行政権も失い、明治政府にとって危険極まりないこととなります。
井上の説得に動かされた伊藤は、大隈を呼びつけ詰問します。

「大隈さんの主張は、天皇の大権を人民に投げ捨てる様なものだ
 参議の住職にある君が、福沢如きものの代理を務めるとは、笑うべきではないか」

大隈の政府からの追放が決定します。
その下で官僚として働いていた福沢門下生・・・矢野文雄・尾崎幸雄・犬養毅らも一斉に官職を去りました。
イギリス型議会政治への道は、閉ざされるかに見えました。

福沢諭吉“学問のすゝめ”第1回「学問で人生を切りひらけ」



1882年4月、福沢のもとに来訪者が・・・大隈重信です。
自らの政党・立憲改進党を結成したばかりでした。

「ぜひ福沢先生も、改進党に入り、ともに尽力していただきたい」

政治家となり、現実を変革する道を提示されます。
選択を迫られた福沢は・・・どうする・・・??
政治家に転身する??それとも、在野の言論人??

福沢の発言の文書が残っています。

”余は諸種の人を育成するのを任とすれば、一派の政党に与するを欲せず”

大隈の誘いを断り、あくまで言論で立つ道を選んだのです。

その後、福沢は自ら創刊した「時事新報」誌上で、政府にも特定政党にも偏ることなく、持論を発表し続けます。

”国会開設の準備として、最も肝要なのは官民調和である
 政府は真正面から人民の議論を圧迫すべきではないし、民権家が一身の不平を漏らすために、民権の名を借りるのもいただけない
 官民が調和した上で、藩閥の寡人政府を改め、多人政府となすことが必要だ”

1882年4月から5月にかけて連載されたのが皇室の在り方を書いた「帝室論」です。

”帝室は直接に万機に当たらずして万機を統べ給ふものなり”

帝室の役割は、学術、芸術の奨励や、叙勲などに留めるべきで、政治とは離れ、国民精神の統合であるべきだ・・・
福沢は、あくまでイギリス型の立憲君主国家を目指していました。
しかし・・・発布された「大日本帝国憲法」・・・天皇大権が規定され、議会の権限が弱い、プロイセン型国家とすることが定められました。
政府と正反対の立場をとる福沢の周りには、密偵が張り付き、発言は逐一報告されました。

過激派に同情とも思える福沢は、政府にとって見過ごすことのできないものでした。
福沢は最大級の危険人物とみなされ、一時は首都東京からの追放すら検討されました。

生涯を在野の言論人として通した福沢は、1901年、病により死去・・・66歳でした。
あくまで官と対峙した思想家らしく、死後も国家からの叙勲を受けることはありませんでした。
福沢の死から40年・・・日本は英米を相手とする太平洋戦争に突入しました。
そして敗戦・・・明治国家体制は終わりをつげ、大日本帝国憲法は現在の日本国憲法に改正されました。
国民統合の象徴となった昭和天皇は、福沢諭吉の帝室論を知り、次のように感想を残しています。

「この書の中に説かれておるところは、すこぶるもっともである
 わが意を得た」

象徴である天皇のもと、議院内閣制の政府が国政に当たる・・・
福沢の理想は、戦後ようやく制度化されたのです。

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昭和の選択です~~!!
昭和7年5月15日、海軍青年将校ら9人が首相官邸を襲撃しました。
世にいう五・一五事件です。
殺害されたのは、首相・犬養毅。
憲政の神様と称された政治家の死によって、戦前の政党政治は終わりをつげ、日本は軍国主義を突き進んでいきます。
どうして犬養は、軍によって殺害されなければならなかったのか・・・??

「侵略主義というようなことは、よほど今では遅ればせのことであるから、どこまでも私は平和ということをもって進んでいきたい」by犬養毅

満州事変を起こし、大陸侵略を謀る軍を真っ向から批判した犬養・・・
軍の暴走に歯止めをかけること・・・それは、政治家犬養の生涯の課題でした。
大正元年には憲政擁護運動を掲げ、政党勢力を結集して立ち向かいます。
軍の目論見を打ち砕いたその秘策とは・・・??

そして、首相として直面した満州事変。
犬養は密かに中国に使者を送り、和平交渉を行わせて事態を打開しようとしました。
和平まであと一歩だったと言われる密使外交・・・その真相とは・・・??

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東京・・・慶應義塾大学・・・政治家・犬養毅の原点ともいうべき場所が残されています。
日本初の演説会堂・三田演説館です。
郷里・岡山から上京した犬養は、明治9年慶応義塾に入学しました。
ここで、明治の言論界のリーダー・福沢諭吉と出会い、生涯をかける目標を見出しました。
言論で国を動かす政治家への道・・・!!
福沢は、日本にも西洋流の議会政治が必要だと考え、明治13年慶応義塾で模擬国会を開いています。
26歳の犬養も、弁士としてその演壇に立ちました。
反対論者の発言をことごとく論破していく犬養の姿を同級生は・・・

”颯爽たる風貌は満場を圧し、警句は口をついて出る有様で、既に将来の大宰相となる貫禄があった”

当時、日本はまさに言論の時代へと舵を切ろうとしていました。
自由民権運動の勃興です。
明治14年には板垣退助が自由党を、翌年には、大隈重信が立憲改進党を結成。
議会政治を求める機運が高まっていました。
明治22年・大日本帝国憲法が発布、明治23年・帝国議会開設されました。
選挙権を持つ者は、全人口の1%強と限られていましたが、立憲政治はようやくその端緒につきました。

この頃、犬養は福沢のつてで大隈重信の立憲改進党に参加、政治家として歩み始めていました。
議会開設に先立つ第1かい衆議院議員選挙で犬養は36歳で初当選を果たします。
待ちに待った議会政治の始まり・・・しかし、その前に立ちはだかったのが藩閥政治でした。

当時の政府は、明治維新を主導した長州藩や薩摩藩出身のものが要職を占め、議会の意向に左右されない独断的な政治を行っていました。
政党側が、政費節減・地租軽減を主張する民間政党を政府が弾圧!!
暴力や買収、選挙妨害が横行します。
こうした圧力に、自由党・改進党の二大政党の中にも次第に藩閥政府との接近を図る勢力が表れます。
それに、政党間の対立も加わり、議会政治は混迷を深めるばかりでした。
このままでは理想の政治は実現できない・・・やがて、犬養と藩閥との対立は、ある問題で決定的となります。

発端は、明治37年の日露戦争勃発です。
ロシアに勝利した日本は、満州南部に鉄道敷設などの権益を獲得しました。
当時、陸軍を掌握していた長州閥の山県有朋・・・。
山県は、ロシアとの再戦を見据え、戦時兵力を従来の2倍以上に増強することや、大陸利権の更なる拡大を主張しました。
犬養は、これを真っ向から批判しました。

”日露戦争後の戦後経営は大失敗だ
 原因は、国力に見合わぬ国防計画と、軍事計画にある”

犬養は、国家は経済を主として、軍備は従にしなければならないと思っていました。
日露戦争後、ロシアを敵とすべきではないと考えていました。
満州はマーケット・・・経済的に結合して、外交で平和的にやっていこうと考えていたのです。
しかし、その主張は、長州閥の認めるところではありませんでした。

大正元年、陸軍は政府に2個師団増設を要求。
時の首相は、西園寺公望・・・立憲政友会の総裁でした。
政友会は、明治33年に伊藤博文によって創設されました。
それを引き継いだ西園寺は、藩閥勢力となれ合い、長州閥の桂太郎と交互に政権を担当してきました。
しかし、財政難の中、軍への更なる支出はあまりにも負担が大きかったのです。
西園寺が要求を拒むと、犬養は陸軍大臣を辞職させ・・・
大正元年、西園寺内閣総辞職に追い込むという策に出ました。
後任の首相には、桂太郎が就任。
軍の要求は実現するかに見えました。
この時、犬養は58歳・・・立憲主義を掲げ、自らの政党立憲国民党を旗揚げしていました。
藩閥の横暴に対し、犬養は決然と立ち上がります。

”この度の一戦は、小生の最後の一戦になるかもしれない
 万一敗れれば、全く政界を去る覚悟だ”

大正元年12月19日、歌舞伎座・・・犬養は、演壇に立ちました。
大正政変の幕開けです。

”今、政党人に一点の私心がなければ藩閥打破などたやすいことである!”

犬養には秘策がありました。
これまで藩閥との妥協を繰り返してきた政友会を倒閣運動に引き入れることです。
政友会もこれに応じ、党の論客・尾崎幸雄は犬養と共に憲政擁護運動を推進しました。
新聞には、連日2人の主張が掲載され、日露戦争後の重税に苦しむ民衆に藩閥の横暴をアピールしました。
そして迎えた大正2年2月5日・・・熱狂した民衆が議会を取り囲む中、犬養たちは桂内閣不信任案を提出!!
ところが、桂も反撃!!
宮中に働きかけ、政友会総裁・西園寺への勅語を引き出したのです。

「朕の意を体して争いは無事に収めよ!」

天皇の言葉を前に妥協に転じようとした西園寺・・・
しかし、犬養は、あくまで徹底抗戦を主張・・・政友会幹部にこう進言しました。

「西園寺公は、大命を奉ぜられるとともに、総裁を辞職なさるが良い
 政友会としては、最後まで憲政のために戦うべきが本筋である」by犬養毅

再開した議会で政友会は、不信任案を撤回せずと宣言、その断固たる態度と民衆の怒号を前に桂はついに内閣総辞職に追い込まれました。
藩閥の政治介入から、立憲政治を守り抜いた犬養は、尾崎と共に憲政の神様とたたえられました。
しかし、藩閥や軍との戦いは、まだ始まったばかりでした。

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大正3年、ヨーロッパを主な舞台に第1次世界大戦勃発。
直接戦場とならなかった日本では、軍需物資などの輸出が大幅に伸び、空前の好景気となりました。
資本家や財閥が潤う一方で、民衆は物価の高騰により厳しい生活を強いられました。
大正7年、富山を起点に米騒動が始まると、炭坑や都市の労働者の間でも社会的不満が爆発します。
各地で相次いで暴動が起こりました。
この状況を打開するために、犬養は政治をもっと民衆に開かれたものにすることが急務だと考えました。

”政治は、一部階級の独占たる迷夢より覚醒し、選挙権拡張を以て国民全体に国家維持の責任を負わすべし”

特権階級が政治をすると、それ以外の人の意見は反映されません。
社会的不満、社会的格差・・・第1次大戦後は、危機の時代でした。
国民みんながいろんな階層も協力して新たな日本を作っていかなければならない・・・!!

大正8年、選挙権拡大案を提出。
有権者の納税額と年齢を引き下げ、来るべき普通選挙への布石を打ったのです。
ところが、この案は時の首相だった政友会の原敬によって棚上げにされてしまいます。
政友会の支持基盤は、既に選挙権を持つ地方の財産家が多く、普通選挙の実現には後ろ向きだったのです。
その原が、大正10年、政治腐敗に憤る一青年にちょって暗殺されました。
その死は普通選挙ばかりか政党政治の流れをも停滞させてしまいます。
続く政権の座には・・・
大正11年加藤友三郎(海軍大将)、大正12年山本権兵衛(退役海軍大将)、大正13年清浦奎吾(枢密院議長)・・・軍人や、藩閥政治の息のかかった官僚の政治家が就き、やがて政党人はすべて閣僚から排除されるようになったのです。

犬養自身も逆境にありました。
大正11年、立憲国民党を内部分裂で解党し、革新俱楽部を結成。
そんな中、犬養は驚くべき一手を打ちます。
普通選挙をめぐって対立していた政友会・・・国民党から離脱した幹部の要る憲政会と敢えて手を結んだのです。
護憲三派の結成でした。
迎えた大正13年の総選挙・・・犬養たちは普通選挙を争点に戦い、民衆の支持を得ました。
284議席獲得という大勝の結果、憲政会の加藤高明を首班とする護憲三派内閣成立。
そして、大正14年、犬養悲願の普通選挙法成立。
納税額の制限は撤廃され、25歳以上の全ての男子に選挙権が与えられることになりました。
法案の成立を見届けた犬養は、政界からの引退を宣言します。
残された革新倶楽部の党員は、政友会に合流させました。
犬養も71歳となっていました。

長野県富士見町・・・白林荘・・・政界を退くにあたり、犬養が終の棲家として建てた別荘です。
犬養は、夜な夜な青年たちと囲炉裏を囲んで酒を酌み交わし、彼等に普通選挙の意義を説いたといいます。
モンペに身を包み、気さくに村の人々と接した犬養・・・
その思い出は今もこの地に語り継がれています。
激しい政治闘争から離れ、犬養はこれまでにない穏やかな日々を送っていました。

昭和3年6月、中国東北部の満州で、一大事件が起きました。
現地の部隊・関東軍が独断で、満州の実力者・張作霖が乗った電車を爆破、殺害したのです。
大陸における軍の暴走は、日本の政局を大きく揺るがしました。
昭和4年7月、政友会・田中義一内閣が事件の処理を巡って天皇の不興を買い総辞職に追い込まれました。
当時の議会は、政友会・民政党の二大政党制が交互に政権を担いました。
失政によって内閣が倒れた場合、野党第一党の当主に組閣命令が下るのが慣例でした。
7月・・・民政党内閣成立・・・
そこに、アメリカに端を発する世界恐慌の嵐が襲い掛かります。
民政党内閣の緊縮財政が民衆の暮らしを直撃・・・米や繭の暴落を引き起こしてしまいます。
農村の生活は窮乏を極めました。
一方、野党の政友会が新たな総裁として迎えたのは、既に政界を引退していた犬養でした。
この時、75歳・・・少数政党出身で、党内基盤は弱い・・・しかも、政友会には軍に同調して大陸権益の拡張を図り勢力も多かったのです。
しかし・・・昭和4年、犬養、75歳で政界に復帰。

”惨烈深刻の不景気に対する救済に、余命を捧げたい”

犬養が直面したのは、止まらない軍の暴走でした。
昭和6年9月、満州事変が勃発・・・政府の不拡大方針にも関わらず、現地・関東軍は矢継ぎ早に戦線を拡大します。
これに呼応して、10月・・・国内で陸軍のクーデター計画が発覚(十月事件)・・・首相を暗殺し、軍事政権を樹立するという目論見は未遂に終わりました。
この危機に、犬養はいち早く反応しました。
事件発覚直後、当時天皇の重臣・元老となっていた西園寺公望に使者を送ってこう告げます。

”陸軍の根本組織から変えてかからなければならないが、そうなると政友会一手ではできない
 どうしても、連立していかなければ駄目だ”

議会で多数を占める民政党の若槻内閣と連立を組み、軍を押さえる・・・協力内閣案です。

しかし、経済政策をはじめ、両者の隔たりはあまりにも大きかったのです。
11月に入ると犬養は、協力内閣案を撤回。
一方、与党・民政党でも、独自に協力内閣案が議論されていました。
しかし、推進派と慎重派の間で内紛が勃発・・・閣内不一致の末に、総辞職してしまいました。
慣例に従えば、次の首相は野党第一党政友会の犬養でした。
12月12日、首相指名の権限を持つ元老の西園寺から呼び出しが・・・
西園寺はこう切り出します。

”先ほど次の首相は犬養しかないと陛下にお伝えした
 陛下は軍が国政や外交に立ち入ることを深く憂いておられ、強力な内閣を作ってほしいと切望しておられる”

しかし、ここで西園寺は犬養に選択を突き付けます。

”協力内閣の事が話題となっているようだが、どうお考えか?”

すでに、与野党ともに手を引いた協力内閣案が、再度蒸し返されたのです。

単独内閣か?それとも協力内閣か??

犬養毅・・・第29代内閣総理大臣に就任。
選んだのは政友会単独内閣でした。

その頃、大陸では関東軍は更なる戦線拡大を目指し、各地で中国軍との衝突を繰り返していました。
難局のさ中、首相の大役を引き受けた犬養・・・しかし、そこには確かな成算がありました。
犬養の別荘に一本の白松が・・・中国の革命家・孫文から贈られたものです。
かつて犬養は、孫文の革命運動を援助したことがありました。
当時の中国国民政府のTOPは、その息子・孫科でした。
この人脈で、事変を収拾し様としたのです。
組閣の3日後、犬養は共に孫文を支援した萱野長知を呼び出しこう告げます。

”君ひとつご苦労だが現在の中国内情を探り、深刻な状態にある時局打開の方途を見出してくれないだろうか?”

現地に親日的、日本と交渉できるような政権を仕立てる・・・あくまでも、中国という枠組みを崩さない形で解決するのが犬養の意図でした。
同じような考え方で中国側も最低gんギリギリ譲歩できるラインとして持っていたのです。
犬養との間で、うまく日中関係を持っていきたい・・・

12月下旬、中国に渡った萱野は、早速交渉を開始・・・
事態の進展を電報で伝えます。

”中国政府は、満州問題解決のため、東北政務委員会を組織
 日本と直接交渉に入り、撤兵について話し合う準備がある”

ところが、犬養からの返答は一向に届きませんでした。
ある人物が萱野からの電報を握りつぶしていたのです。
内閣書記官長の森恪・・・軍と同様、満州の直接支配を考えていた森が動いていたのです。

昭和7年1月28日、上海事変勃発
海軍陸戦隊と中国軍が交戦状態に入ると、中国側の態度が一気に硬化・・・交渉による解決の道は、閉ざされました。
しかし、78歳の老宰相は不屈でした。
5月1日、犬養はNHKのマイクの前に立ち、国民に語り掛けます。

”侵略主義というようなことはよほど今では遅ればせの事であるから、どこまでも私は平和ということをもって進んでいきたい
 政友会の内閣である以上は、決して外国に向かってことを起こして侵略しようというような考えは、毛頭持っていないのである”

軍の侵略主義を、断固として否定した犬養・・・
それから2週間後、事件は起きました。
昭和7年5月15日午後5時・・・海軍の青年将校ら9人が首相官邸を襲撃しました。

”まてまて、騒がぬでも話をすればわかる”

”撃て撃て、問答はいらぬ!!”

即死は免れましたが、弾丸は脳にまで届いていました。その日の午後11時26分・・・犬養毅死去。

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犬養の死は、時代の大きな転換点となりました。
政友会は、後継内閣の樹立に動きましたが、組閣の大命は海軍の長老・斎藤実に下りました。
以後、政党内閣は生まれることなく、日本は軍主導のもと、戦争への道を突き進んでいきます。
青年将校の放った銃弾は、犬養の命を奪っただけでなく、戦前の政党政治の命脈をも断ち切ったのです。

近年、亡くなった直後の犬養の顔をかたどったデスマスクが公開されました。
まるで眠っているかのような静謐な表情・・・
犬養ならその後の日本が歩んだ道をどのように思い、どんな言葉を投げかけただろうか??

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西郷は、後にこう言っています。

「才能や学識、人間の器、左内にわれの及ぶところは一つもない」と。

日本を震撼させた安政の大獄・・・左内は捕らえられ、僅か26歳で刑場に散りました。
どうして幕府は、左内に死を命じたのだろうか?
1834年、福井藩の藩医の家に生まれた左内・・・その人となりを表す資料が残っています。
「啓発録」・・・左内が数え15歳の時に書いたもので、人生の目標を定めた書です。
幼心を捨て、気を振るい、志を立て、勉学に励み、交友を選ぶ・・・
左内は、この5つを自らに課すことで、武士として生きる道を目指しました。
文末には・・・
「私は医者の家に生まれ、家を継がなければならない
 志を果たせぬ事が、悔しくてならぬ」
と、書かれています。
身もだえするような焦り・・・
背景には、西洋諸国の脅威がありました。
1840年に勃発したアヘン戦争、隣国清がイギリスに敗れ、植民地化されていました。
この危機から日本を守らねばならない!!
そのため、左内が選んだのが蘭学でした。
1849年、16歳で適塾に入門します。
福沢諭吉らを輩出した蘭学の名門です。
西洋の医学書を原書で読んで、最新の知識に触れた左内の結論は、日本は西洋に学ばなければならない・・・というものでした。

後に左内は、こう記しています。
貿易を始めることは、国家の大なる利益、品物だけでなく、知恵の交易も肝要である。
それは、西洋の政治思想や軍事産業など、あらゆることを学ぶという決意でした。

1853年、ペリーが来航し、開国を要求します。
圧倒的な軍事力を前に、幕府は和親条約締結に踏み切ります。
この危機に動き始めたのが、左内の主君・松平慶永(春嶽)です。
越前藩の記録によると・・・一橋慶喜公は、不世出の御英明・・・このお方を将軍の後継にすれば、天下憂えるに足らず!!
時の将軍・家定は、病弱で暗愚とのうわさが絶えない・・・その跡継ぎに当時17歳、御三家水戸斉昭の子で、栄明に高い一橋慶喜を将軍に据えようというのです。
そこには、大名たちの政治参加の意思が隠されていました。
これまでは、10万石クラスの譜代大名だけ幕政に携わることができました。
しかし、御三家、親藩、外様の大藩には、一早く国際情勢を知り、西洋の最新技術導入に着手している藩もありました。
名君慶喜の元、挙国一致体制を作るのが、慶永の狙いでした。
水戸斉昭、島津斉彬など、一橋派の賛同を得て、政治工作に乗り出しました。
慶永の意をくむ懐刀として、左内に白羽の矢が立ちました。

1855年、武士に取り立てられ、江戸行きを命じられます。
江戸での活動は・・・薩摩の西郷と緊密に連携しながら、政治工作に臨みます。
この時の出会いは、西郷にとっても終生忘れることはなかったといいます。

左内独自の政治構想は・・・
列強が争う時代にあって、日本が単独で生き残ることはとてもできない・・・。
ロシアとの同盟を結ぶべきである。
と、当時の国際情勢を冷静に分析し、日本の生き残りの道を提示した左内・・・
国内体制の変革は・・・??
将軍継嗣を確立し、慶永公、斉昭公、斉彬公を国内事務宰相とする。
そして、天下に名だたる知識人は、陪審や浪人に関わらず、幕府で採用する。
今や日本国中を一家と見なければならない
主君をはるかに凌駕する改革案・・・左内はこれを西郷に明かしたのではないか??

空前絶後、他には見られない体系的な改革で、大名の家来や庶民まで動員し、日本最上の人材を幕府に集中し、西洋の危機を凌ごうとしたのです。

左内が帰宅したのち、西郷は周りにこう漏らしました。
「今日の談論、余甚だ敗せり」

しかし、事はそう容易くは運びませんでした。
幕閣の中心である南紀派が慶喜擁立に一斉に反発しました。
彼等が推すのは、紀州慶福・・・。
年齢こそ幼いものの、慶喜と以上に将軍との血統が近く、継承権が上なのは、誰もが認めるところでした。

老中・堀田正睦は・・・
「継嗣は将軍の御意志に従うべきではあるが、強いて言えば紀州慶福さまかと思う。」
幕閣への工作が難航する中、一橋派が頼ろうとしたのが大奥でした。
薩摩から迎えた将軍正室・篤姫を通じ、将軍を引き込もうという作戦です。
左内は、慶喜の側近から集めたエピソードを小冊子にまとめ、西郷経由で大奥に配っています。
慶喜がいかに文武に優れ、開明的な人物であるかをアピールしたのです。

結果は・・・??
息子の地位を脅かす慶喜擁立に、将軍・家定の実母本寿院が難色を示したことで、工作は遅々として進みません。
左内は、追いつめられていきます。

突破口は、思わぬところから・・・??
継嗣問題と並んで政治的課題となっていた通商条約問題。
1857年10月、老中首座・堀田正睦は、アメリカとの条約締結に向けて交渉を進めていました。
ところが、これに待ったをかけたのが京の朝廷でした。
時の孝明天皇が、自らの代で鎖国の国是を変えることはまかりならんと、頑なに主張したのです。
1858年1月、条約勅許をえるために、堀田は京へ・・・
この機をとらえて、慶永は左内に命令を下します。

京へ向かい、朝廷への工作を行うように・・・!!

左内に託されたのは、堀田を支援して、条約勅許を実現することでした。
幕府の抱える課題を解決すれば、継嗣問題も有利に運ぶことができるのでは??というのが、慶永の考えでした。
2月、公家・三条実万を訪問します。
この時、左内が藩に送った密書によると・・・

「朝廷のお考えは、攘夷か通商許容かをお聞きしたところ、実万公は呆然のご様子で、今しばらく様子を見てから・・・と、おっしゃるのみだった。」

三条は左内にこう訴えた・・・
「もし、御三家や、一門に英傑がいれば、その人を頼むしかない。」
左内にとって絶好の機会でした。
そこで、おいおいと、一橋公のことを申し上げたところ、実万公は、手を打って「その人を得た」と、お喜びであった。
条約問題ははぐらかされたものの、一橋継嗣に期待できることを聞きだします。

一方、幕府の条約勅許の交渉は難航していました。
2月23日に下された勅答は・・・
「御三家以下、諸大名の意見を聞いて、もう一度持ってくるように。」

堀田は止む無く京に留まって交渉を続けます。
左内も、今後の対策を迫られることとなります。

継嗣問題に方向転換??
順調に見えた継嗣問題も・・・
南紀派の巨頭・井伊直弼が、腹心・長野主膳を京に向かわせ、工作を展開し、関白・九条尚忠を慶福支持へと動かすことに成功していました。
そして、左内自身にも葛藤が・・・
朝廷に取り入るのは、南北朝のような混乱をもたらす・・・??

条約勅許工作を継続??
継嗣問題は、幕府内だけで決めればいいのでは・・・??
朝廷が関わると、朝廷の存在が大きくなりすぎる・・・!!
下手をすると、派閥争いで内乱になるかも・・・??

どうする??左内!!

1858年3月下旬・・・京に一通の書簡が届きました。
差出人は松平慶永、宛先人は天皇に次ぐ実力者・鷹司政通の側近でした。
「英明の一橋卿を差し置いて、他の人が将軍になるようであれば、皇国の為にもなりませぬ。
 殿下のご尽力を賜わりますよう。」

左内は、九条関白の政敵・鷹司への工作に・・・継嗣問題に方向転換しました。
効果は絶大!!
左内は、国元にこう送っています。
「将軍継嗣の一件は、年長、英傑、人望の者と定まった」と。
事実上、慶喜を名指しするものでした。

しかし、思わぬ落とし穴が待ち受けていました。
3月24日、朝廷から下された勅答は・・・
「継嗣が決定し、政務を助けられることとなれば、おにぎやかにてよろしい」
南紀派の巻き返しが功を奏し、九条関白が独断で、「年長、英傑、人望」の三条件を消し去ったのです。

そして、条約問題も壁にぶち当たり・・・
堀田の度重なる説得にもかかわらず、朝廷は条約を頑なに拒否!!
アメリカが武力に出るようならば、戦も辞さない!!と・・・条約勅許を得られなかったのです。

左内の日本を一家とする政治改革構想はついえたかに見えました。
しかし、左内はまだあきらめてはいませんでした。
京を引き上げる寸前の1858年3月24日、一人の人物とあっています。
日米和親条約締結に当たった幕府のエリー外交・ト海防掛・岩瀬忠震です。
岩瀬はこう持ち掛けます。

「ご主君・慶永公が宰相となり、将軍継嗣一橋公を補佐する体制を作る。
 事態を打開するにはそれしかない。」

堀田老中、岩瀬をはじめとする幕府の条約推進派は、条約勅許が難しくなった段階で、一気に一橋派に舵を切る・・・慶喜は積極的明国論で、慶喜継嗣に合わせて通商条約問題を一気に解決しようと思っていました・
岩瀬だけではなく、老中首座の堀田正睦も加わった一橋派。
これに対し、南紀派も反撃に出ます。
井伊直弼が大老に就任。
6月に入ると、将軍家定の「継嗣は慶福」との内意を受け、朝廷に使者を派遣。
これに朝廷からの承認が下りればすべては決着する・・・一橋派は、絶体絶命の窮地に陥ります。
予期せぬ好機が到来・・・
1858年6月17日、ハリスがぐぐん間で江戸湾に現れ、通商条約を強行に迫ります。

この時、交渉に当たった岩瀬は、勅許もないのに調印は出来ないという井伊の主張を押し切って調印を強行!!
これこそが、左内たちの最後の望みの逆転の秘策でした。
朝廷に調印を連絡しなければならない・・・しかも、それは違勅。
朝廷、孝明天皇に対し、説明する人がいかなければならない・・・!!
慶永を派遣したらどうか・・・??
その時に、将軍継嗣の話もしてもらって、もう1回内勅降下を図ろうとしたのです。

条約調印前日の6月18日、岩瀬は左内と慶永にハリスとの交渉を逐一奉じ、後は頼むとばかりにこう記します。
「回天の一事、何とぞご精力下さい。」
しかし、6月23日堀田正睦、老中を罷免!!
すべての計画が狂ってしまいます。

おりしも朝廷から祝い状が届き、慶福継嗣が正式に発表されます。
慶永は、井伊に抗議する為に江戸城に押しかけるものの、もはや決定が覆ることはありませんでした。
左内が未来を託した政治改革の夢は、ここに潰えたのです。

敗北の代償はあまりにも大きく、1858年7月5日、松平慶永隠居謹慎処分に。
左内は責任を痛感し、死を決意!!
そんな左内を思いとどまらせたのは、主君・慶永からの命令書でした。

「愕然のあまり性急に死を選ぶようなことがあれば、我を見捨てることと同じである。」

左内は、京に向け政治工作の中止を命じ、自らも一切の政治活動から身を引きます。
しかし・・・時代の激流は押しとどめることは出来ず・・・井伊は強権を発動!!
度重なる政治介入で幕政に混乱をもたらしたとして、公家、攘夷派の志士を処罰!!
世にいう安政の大獄です。
左内も、前年の朝廷工作の咎で捕縛!!
1859年10月7日、橋本左内・・・斬首・・・刑死・・・享年26歳でした。
誰もが予想しない重い処罰・・・そこには、左内の思想と行動力に対する井伊の恐れがありました。

あまりにも早すぎる死・・・しかし、左内の志は、新たな時代へと受け継がれていきます。
1868年、太政官布告「政体」・・・この中に、興味深い一節があります。

「藩士、庶人といえども、二等官に至るを得る」

身分にかかわらず、有能な人物を官僚に登用することで、対外的な危機に立ち向かう・・・左内がかつて記した構想が、10年の時を経て受け継がれていました。
時代を先駆け、時代と真っ向から格闘した橋本左内・・・
その想いは、その後も人々の心の中に生き続けたのです。

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1866年6月、徳川幕府の大軍勢が西へ・・・
目的は、幕府に反抗するたった一つの藩を叩き潰すため・・・!!
その数十数万・・・。
迎え討つのは長州藩、その数およそ5000!!
この絶望的な兵力差にもかかわらず、長州を劇的な勝利に導き、幕府崩壊のきっかけを作った男・・・
その名は、大村益次郎です。
勝海舟は・・・「長州軍に大村益次郎が出て来ては、とてもかなわぬと思った。」と言っています。

元々は村医者・・・しかし、兵学者へ成長。
長州藩の命運は、大村益次郎に託されたのです。

山口県山口市・・・当時は鋳銭司村と呼ばれていました。
明治維新からさかのぼる事40年前、1825年5月3日、大村益次郎はこの地に村医者の子として生まれました。
1846年、22歳の時、大坂に出ます。
その目的は当時日本で指折りの適塾に入る事・・・。
塾生には、福沢諭吉、大鳥圭介、佐野常民などがいました。
大村は、一心不乱に医学を学ぶ塾生として、注目されていました。

そして3年後には25歳で塾頭に上り詰めました。
当時、適塾の塾頭には、好待遇で仕官を求めてくる藩がいくつもありましたが・・・
翌年の1850年、26歳で故郷に帰りました。
家業の村医者を継がなければならなかったからと言われています。
このままいけば、ただの村医者として一生が終わる・・・。

ところが29歳の時・・・宇和島藩で。
江戸時代、10万石の城下町として栄えた宇和島市。
時の藩主は伊達宗城。数ある大名の中で格別の蘭学好きでした。
大村は、持っている洋学の知識、蘭学の知識、語学の知識を時代に生かそうと思っていたようです。
この宇和島行きが大きな転機となります。
宇和島藩が大村に求めたのは、本業の医学ではなく、兵学でした。
得意の蘭学を生かして、西洋の軍事書物の翻訳を命じられたのです。
こうして、大村の専門は、医学から兵学へ・・・!!

そんな西洋兵学の知識を深めていった大村に目を付けたのが・・・時の政権・徳川幕府でした。
3年前の黒船来航・・・圧倒的武力で開国を迫ってきたペリーになすすべなしの幕府・・・。
開国をきっかけに、老中・阿部正弘を中心とした首脳部は、優秀な西洋兵学者を集め始めました。
大村は、その目に留まったのです。

1856年11月、32歳で、蕃書調所の教授手伝に就任。
翌年には、講武所の教授に就任。
大村益次郎、33歳・・・長州の村医者が、兵学者に歩みを変え、幕府に仕えるまでに上り詰めたのです。
そんな大村に更なる誘いが・・・
それは、故郷・長州藩でした。
依頼内容は、江戸で兵書の翻訳や、藩士相手の蘭学の先生をして欲しいというもの・・・。
大村が適塾で優秀な成績を収め、故郷で村医者をやっていた時には見向きもしなかった長州藩。
どうして態度を変えたのでしょうか??
当時、長州藩は、諸外国を排除する攘夷を主張していました。
外国と渡り合うためにも、大村の西洋兵学の知識が必要だったのです。
大村は、兵学を通じて桂と親しくなり、故郷でも有名になっていきます。

それから5年・・・幕府にも長州にも頼られ、順風満帆な生活を送っていた大村。
しかし、その人生を大きく揺るがす大事件が・・・!!
1863年5月10日、長州藩、関門海峡を通る外国船を攻撃!!
しかし、翌月手痛い反撃に!!
外国の軍事力の前に、長州は手も足も出なかったのです。
このままだと外国に飲み込まれてしまう・・・。
長州藩は、大村に救いの手を求めます。
「外国の軍事力に対抗するため、幕府の役職を辞め、長州に戻ってきてほしい。」と。

幕府に残るか??長州に戻るか??
この時点で安泰なのは、幕府に残る事・・・。
ところが選んだのは長州藩でした。
そこには、大村の幕府に対する不信感があったのです。
大村が友人にあてた手紙には・・・
「大名に砲術などを研究する講武所をみせた。
 大神宮様(阿部正弘)はご自慢だ。
 にもかかわらず、自分の藩の軍隊には今も弓矢を持たせている。
 何のことやら、一切訳の分からない事だ。」と書いています。
大村は、研究はするが、武士そのものの戦い方を変える気などさらさらない阿部を見限っていたのです。
一方の長州藩には、新しい改革が・・・奇兵隊です!!
長州は、これまで武士にしか認めなかった武器を庶民にももたせ、軍事改革をしている長州に、大村は可能性を感じていたのです。
1863年10月、39歳の時に、長州に帰ります。
そして幕府には辞表を・・・!!
兵学者・大村益次郎の一大決心でした。

西洋兵学を学ぶ意義を・・・海軍従卒練習規範に書いています。
「私は、自分が浅はかであることを顧みず、今この本を訳し出版する
 皇国の確固たる独立のための武力をあげ、国家に利益があることを願うのみである。」
自分の能力を認めてくれる場所を求めて・・・行きついた場所は、日本を守りたいという自分の信念の生かせる長州でした。

西洋列強という巨大な敵と戦う決意をした長州藩・・・
しかし、そのためには戦い方の根本を考え直さなけれな・・・!!
大村は、藩の存亡をかけた大改革を託されます。
散兵戦術・・・
「アメリカ独立戦争以来、散兵戦術を用いることが盛んになった。」
西洋で主流となっていた散兵戦術とは・・・??
通常武士は、己の手柄をあげるため、個人個人で敵を目指して突っ込んでいきます。
一方、散兵戦術は、数人単位で行動・・・広く散会しながらも、全員共通の作戦目標の元、敵に向かっていきます。
この時兵は、決められた目標に向かって隠れながら進んでいきます。
兵を統率する指揮官が把握したうえで命令を出します。
そのため、散兵戦術は、兵も指揮官も、徹底的な訓練が必要となりました。
この戦術がみにつけば、敵が多くても少ない兵力で勝つことができる・・・!!
しかし、この大村の改革が実行される前に、長州には次から次へと難が降りかかります。 

1864年8月、英仏蘭米四国連合艦隊が下関を攻撃!!
長州に対して猛攻撃を開始!!
近代兵力の前に、長州藩はなすすべなし!!
さらに1月前には禁門の変が起こっていました。
長州藩は、幕府に完膚なきまでに叩きのめされ朝敵に・・・!!
幕府は15万の軍勢で長州藩を包囲・・・長州藩には降伏するほかありませんでした。
そして藩内は、幕府恭順の一派が牛耳ることに・・・。
その結果、大村は、藩の軍事担当から外されてしまいました。

大村の軍事改革は消え去ったかに見えましたが・・・
一人の藩士が立ち上がります。
高杉晋作です。
1865年1勝月、高杉晋作が、幕府の正規軍を破ります。
結果、長州藩は、再び幕府と対立の道を進みます。
これに対し幕府は、30藩以上から十数万人を動員し、長州を討つべく・・・
迎え討つ長州藩は5000!!
この絶望的劣勢を覆すには・・・この難題を任されたのが大村益次郎でした。

近代兵器の導入
躍起になって集めた武器がミニエー銃。
幕府に対抗する為に、4300丁購入しました。
その特徴は銃身の中・・・らせん状に溝が刻まれています。
銃弾は回転し、射程距離が格段に伸びるのです。
その射程距離はこれまでが100mに対し、500m!!
さらにミニエー銃から照準がつけられていて、これによって命中精度が5倍増します。
しかし、数で勝る幕府軍と対等に戦うためには、見合った近代的な戦術が必要です。

散兵戦術は、当時の兵には実現不可能と思われました。
関ケ原では・・・武士の周りにいる槍や旗を持った人々は奉公人で、その役目は自ら戦う事ではなく、主人を飾り立て手助けすること・・・。
武士は自らを手助けさせるために、無駄な戦力を共にしていたのです。
大村は主従関係で結ばれている武士と奉公人の関係を断ち切ろうと考えます。
武士から切り離した奉公人たちを藩が直接管理し、藩が任命した指揮官の元、兵とする。
そうすると、奉公人たちが兵力となるのです。
さらに奉公人から引き離された武士を銃を持つ兵に・・・
武士集団の解体に挑もうとしたのです。
しかし、それは、800年続いた武士の主従関係を根底から覆すことになってしまう。。。
武士の否定・・・軍制改革・・・??
それは、武士の反発を招き、最悪の場合、分裂を招く恐れが・・・

迫りくる幕府軍に対し、どこまで改革をするべきか??
1865年5月28日、毛利敬親は、重大な方針を家臣に告げました。
「平成は西洋陣法を採用!!」
長州藩はしがらみをすべて捨て、西洋式の軍事改革に突き進むことに・・・!!
大村たちは、前代未聞の改革をするために、絶対的存在の藩主の命令と言う切り札を使ったのです。
藩士たちに信じがたい命令をします。
それは、甲冑の売却!!
先祖代々の甲冑を売却し、そのお金でミニエー銃を買う・・・!!
さらに非情な命令は続きます。
「御一門などの家老職は、戦の時は総奉行としていたが、これからは一部隊とする。」
「主人は一人単騎で働く心得を持って、無用の従卒を連れて来てはならない。」
無用となった従卒は、藩士の禄高によって決められた人数を藩に差し出すように命じました。
これによって長州藩には主従による武士集団は消滅。
代わりに判を頂点として近代軍隊が誕生しました。
奇兵隊などの諸隊以外の・・・家臣団の隊も、西洋式となっていたのです。

1年後の1866年6月、第二次長州征伐
遂に幕府軍が長州に押し寄せてきました。
幕府軍は、芸州口・大島口・小倉口・石州口の4カ所から・・・総勢十数万の大軍勢・・・!!
大村が直接指揮を執ったのが石州口でした。
島根県益田市・・・敵の領地であるここに、打って出る作戦を立てます。
幕府軍があったのが萬福寺。
大村は最新式の銃と、散兵戦術で攻め立てます。
この散兵戦術に翻弄する幕府軍・・・。

「敵は、卑しい黒い装束で、ミニエー銃を持ってあちこち5~6人が隠れて撃ってくる。
 賊徒同様の振る舞いだ!!」

従来の戦術からは、正々堂々と姿を現し戦う・・・西洋戦術では、身体を保護しながら銃撃するのは非常に基本的な事でした。
これまでの武士とは全く違う方法で戦った大村。。。

民衆を味方につけ、武器、戦術ともに勝った長州藩は、幕府軍を圧倒!!
3か月に及んだ戦いは、幕府軍の撤退をもって終わったのです。
僅か長州一藩に敗れた幕府軍・・・その権威は完全に失墜したのです。
翌年・・・260年の長きにわたって日本を支配した徳川幕府は崩壊・・・
明治という新しい時代を迎えるのです。

長州だけでなく、日本全体を近代化へと導くこと・・・大村の役割はここからがスタート・・・!!
ところが、1869年9月4日、京都で襲撃されます。
襲った中には、大村と同じ長州藩の人間もいました。
彼らは大村を許せなかったのです。

大村は全身6カ所に大傷を負いながら、自らの不運を嘆くよりも軍の改革に生かそうとします。
「自分は兵士同様の傷を受けて、軍事病院が不可欠だということを知った。
 至急、軍事病院の基礎を作らないといけない・・・」
深い傷を負いながらも、軍事病院の建設を訴えた大村は、徹頭徹尾合理主義を通して来た男らしい言葉・・・
この書状を送った半月余りのち・・・
1869年11月5日 大村益次郎死去・享年45歳でした。

大村の遺体は山口に運ばれ眠っています。
大村益次郎・・・彼の決断は、800年続いた武士の世さえも終わらせ、日本の近代の礎を築くことに繋がっていったのです。



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適塾は・・・適々斎塾という、門弟3000人といわれる幕末最大の私塾です。

開いたのは・・・1838年、主宰者は緒方洪庵28歳でした。

名声は広まり・・・
諸国から若者が続々とやって来ました。
医師の洪庵が主宰者だったので、医家の子弟が多く入塾し、ここを巣立って行ったものの過半数は医者となり、明治の医学界に多大な影響を与えています。

他にも・・・
兵法・砲術・本草・化学・・・多方面にわたって学んでいます。
それは、適塾が医者の学校というだけでなく、蘭書解読の研究を行っていたからです。
塾生は8つの学級に分かれていました。

この中から、橋本左内・大村益次郎・大鳥圭介・福沢諭吉・佐野常民・本野盛享・箕作秋坪らが育っています。

吉田松陰の夢 松下村塾の魂 (タウンムック)

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もう一つは・・・松下村塾。
こちらは吉田松陰と行動する草莽の志士集団です。
吉田松陰、下田で密航を図り失敗、長州藩に送還されることになります。
萩城下の野山獄に・・・。

ここを仮出獄後・・・
叔父・玉木文之進の松下村塾を受け継ぎます。

その教育目的は、改革の断行を身を持って指導し、革命の実現しうる人材を育てることにありました。
そんな中、松陰は、門下生ひとりひとりの才能を見つけ、伸ばす方向を示唆します。
入塾者は300人ほどと思われますは・・・熱心に通ったものは、30名ほどといわれています。

「草莽崛起の人を望む外頼みなし」
吉田松陰は、安政の大獄の前にこのような境地に達していました。
ここにある草莽という言葉は、「孟子」の中にあります。
「草むらに隠れている隠者」という意味ですが・・・
吉田松陰が日本で最初に使ったのではないか?
といわれています。

このような草莽が・・・崛起することによって、時局を打開し、革命を成し遂げようと考えていたのです。
しかし・・・松陰は、安政の大獄によって非業の死を遂げることになります。

その意思は・・・高杉晋作・久坂玄瑞・吉田稔麿・入江九一・伊藤俊輔・山県小輔・品川弥二郎・前原一誠・赤根武人・・・・などに受け継がれて・・・革命の原動力となりました。

しかし・・・維新政府の成立を見たのは、半数にすぎません。

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松下村塾と吉田松陰―維新史を走った若者たち

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