日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:立志社

明治20年、政府内で検討された一通の文書・・・

”右の者、満三年皇居を距てる 三里以外の地、退去” 

名指しされたのは、福沢諭吉!!
明治最大の啓蒙思想家にして教育者・・・
”天は人の上に人を作らず”で始まる学問ノススメは、あまりにも有名です。
ところが・・・明治政府は福沢を、危険人物とみなし、周辺に密偵を張りつけ、誰と会い、何をしゃべったかまで逐一報告をさせていました。
その訳は・・・”福沢は見え過ぎていた!!”

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幕末、三度にわたって洋行した福沢は、理想的な政治体制を見出します。
イギリス議会政治です。
血を流すことなく政権交代ができる・・・福沢は、次々と啓蒙書を出版、イギリス流議会政治の導入を解き続けます。
その前に立ちはだかったのが、薩長藩閥政府でした。
福沢の国民への影響力を削ぐために、政府内で密かに進められた工作・・・そして引き起こされたのが、政府から福沢シンパを追い出す明治十四年政変でした。

時の権力者が恐れた福沢のすごみとは・・・??

東京・三田の慶應義塾大学・・・明治の末に建てられた図書館旧館に、福沢が生涯で目指したステンドグラスがあります。

”ペンは剣よりも強し”というラテン語の上に描かれているのは、鎧兜をつけた武士が馬から降り、西洋文明の象徴である女神を迎える様子です。
封建時代の旧制度を改め、文明の世を切り開くという福沢の理想が描かれています。
剣の時代からペンの時代へ・・・
福沢の思想は、いかに形作られたのでしょうか??

福沢と西洋の出会いは蘭学でした。
緒方洪庵が大坂で開いた蘭学塾・適塾に、郷里・中津から留学、修行に励んでいました。
下級藩士の次男坊だった福沢は、最新の西洋知識を身につけることで、人生を切り開こうとしたのです。
福沢の修行の様子を伝える資料が残されています。
福沢諭吉が初めて本格的に翻訳した原稿・・・ペルの「築城書」
西洋式の城の作り方の本で・・・それを通してオランダ語を翻訳する力を身につけ、西洋のことを知りたいという意欲が感じられます。
福沢は、オランダ語の原書を写し、独力で翻訳、精密な図も添えた力作にしました。
福沢諭吉なる蘭学に秀でたものがいる・・・評判は、中津藩で一気に広まりました。

1585年、福沢は、蘭学塾を開く藩命によって江戸へ・・・!!
しかし、待っていたのは驚くべき現実でした。
開港したばかりの横浜へ行ってみたところ・・・苦心して学んだオランダ語が全く通じない・・・!!
英語が世界の共通語となっていました。
一念発起して、英語を学び始めます。
その決断が人生を大きく開くことになります。
1860年、幕府に英会話能力を買われ、従者としてアメリカへ・・・
さらに1862年、ヨーロッパ諸国を歴訪した福沢は、旅の途中、国家のありようを大きく揺るがされる経験をしました。
あるオランダ人医師から、イギリスの政治について講義を受けたのです。

”イギリスの政治は、国王、上院、下院、3つの要素から成り立っており、政党は、自由・保守の2つがある”

福沢が一番理解に苦しんだのは、イギリスの二大政党制でした。
江戸時代、日本国内では徒党を組むことは禁止されていました。
イギリスの議会には、野党が存在して、野党を含めて議会が円満に運営されていました。
後に、福沢は日本にイギリス流の二大政党制を導入し、野党の役割が重要だということを強調していくことになります。

欧米諸国に追いつくためには、政治体制の大変革が必要・・・そう、福沢は悟りました。
ところが、帰国した福沢を待っていたのは・・・

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1864年、禁門の変が勃発。
過激な攘夷論を唱える長州藩が幕府に公然と反抗、武力衝突を起こします。
その後、禁門の変で幕府側についた外様の大藩・薩摩も、長州と同盟を締結し、倒幕に向けた動きが加速していきます。

1866年7月、幕府に「長州再征に関する建白書」を執筆。
幕府に提出しました。

”長州へ軍事行動を起こし、一挙に征服、その勢いで諸大名も制圧し、朝廷の動きも取り鎮める
 前日本国封建の制度を一変させるべきだ”

将軍が一元的に権力を掌握して、外交を積極的に展開して、産業、文化を積極的に西洋から取り入れて変えていく・・・近代化、文明化を成し遂げて、西洋に追いついていく・・・!!

しかし、その提言が実を結ぶことはありませんでした。

1866年、第二次長州征討・・・幕府は惨敗・・・
翌年、将軍・慶喜は、大政奉還を行って、朝廷に政権を返上してしまいます。
福沢が期待をかけた幕府は消滅してしまったのです。

そして始まった明治という新時代・・・
薩長を中心とする新政府は、文明開化路線を採用。
職を失った幕府の通訳経験者も数多く採用されました。
福沢にも、役人にならないかという誘いが幾度となく届きます。
しかし、福沢は固辞し続けました。

”もはや武家奉公もたくさんに御座候
 この後は双刀を投棄し、読書渡世の一小民と相成り候積”

新時代に福沢がどう向き合ったのか??
上野戦争・・・大砲の音がとどろく中、いつもと変わることなく経済の講義をする福沢がいました。
福沢が力を注いだのは若い世代の教育でした。

1872年に発表された「学問ノスゝメ」
天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らずといへり・・・
封建的身分制から脱した明治の代を、学問を身につけ社会に貢献し、身を立てよという福沢の考えを表したものです。
政治と一線を画し、在野の言論人として生きる・・・
福沢は、新時代に新たな一歩を踏み出しました。

幕府が倒れて数年・・・明治維新は新たな局面を迎えます。
佐賀の乱をはじめとする士族の反乱です。
従来の特権を取り上げられたことに対して各地で武装蜂起、西南戦争まで続きました。

武力ではなく言論で戦おうとする一派も現れます。
1874年、板垣退助・立志社を設立。
薩長藩閥の専横を押さえるには、国会開設以外にないと主張し、自由民権運動は大きなうねりとなります。
当時の心境を福沢は・・・

”うかうかしていては、次第にノーレジを狭くするようあいなるべく、1年ばかり学問する積なり”

激変する時代に対応するには、確固たる政治理論が必要だ!!
そう痛感した福沢は、西洋の最新の政治思想書を大量に買いこみ、1年かけて読み込みます。
1875年「文明論之概略」・・・満を持して発表します。
西洋と日本の文明を比較し、今後日本がどのような道を進むべきかを説いた渾身の論説です。
この本の草稿には、出版の際に削除された部分があります。
それは、議会開設についての福沢の提言です。

”民会の体裁は、速に作らざるべからず”

国会開設の前に、まず地方議会という民会優先論です。
あくまで地方の議会をまず作って、自分の地域のことを自分で決められるようになったうえで、その次の段階として国会を作るべきだと考えていました。
下から変えて、基礎が固まっていないと国家としての基盤が脆弱になってしまう・・・!!
もう一度政治と向き合うことを決めた福沢が、慶應義塾に建設したのが、日本初の演説会堂・三田演説館です。
演説や討論という、当時日本の存在しなかった概念は、この時福沢が導入したものです。
門下生たちは、日夜福沢の前で意見をぶつけ合い、弁舌家としての腕を磨きました。
その後彼等は、全国で演説会や講演を開き、地方議会開設を訴えていきます。
政府は、選挙による地方議会導入に踏み切ります。
理想の政治体制に、その第一歩が記されました。

1879年、新たな論説を発表します。
国民に新時代への心構えを説いたものです。
「民情一新」です。
そこには、注目すべき一説が・・・

”英政を美なりとしてこれを称賛する”

日本が目指すべきは、イギリス型の議会政治だと高らかに宣言したのです。
福沢が評価したのは、イギリスの議院内閣制の仕組みです。
2つの対立する政党のうち、議会で多数を占めた政党の党首が首相となり政治を行う・・・
しかし、次の選挙で野党が多数派となると首相は一議員に戻る・・・
政権交代は、平均して3~4年に一度おこるので、議員は権力にしがみつくことがなく、建設的な議論が行われる!!
はじめて知ったときには、呆然と眺めるだけだったイギリスの議会政治が、福沢にとって明確な目標となったのです。

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一方、その頃、政府の中でも国会開設の議論が進んでいました。
どのような政治体制を目指すのか、国民に示す必要が・・・目をつけたのが、民間に影響力のある福沢でした。
1880年12月、福沢は、政権中枢の参議・伊藤博文・井上馨・大隈重信に呼び出され、次のような申し出を受けました。

”政府はこの度、新聞を発行することとなった
 巷の新聞は、国民を扇動して社会の安寧を妨げてばかりだ
 政府の主張を書いた新聞が必要だ
 ぜひ引き受けてほしい”

在野の言論人を標榜する福沢にとって、政府の御用新聞など問題外・・・
1か月後の1881年1月、申し出を断ろうと井上馨を訪ねた福沢・・・
そこで予期せぬ一言を聞かされます。

「しからば打ち明けよう
 政府は国会を開くつもりだ
 吾輩も国会開設に向け意を決した以上、一身の地位を惜しむものではない
 いかなる政党が進出しようとも、多数を得たものならば政府を譲り渡そうと覚悟を定めた」

伊藤と大隈も、議院内閣制導入に同意しているという井上の言葉に、福沢は大いに感激しました。

「この諭吉、もちろん国のために全力を尽くします」

悲願のイギリス型議会制度がついに実現する・・・!!
福沢にとって、生涯最良の日でした。

1881年10月、福沢にとって青天の霹靂ともいうべき事態が起きます。
新聞発行を頼んできた参議のひとり・大隈重信が政府から追放されたのです。
明治十四年の政権です。
発端は、この年の3月、大隈が政府に提出した意見書でした。

”立憲の政は政党の政なり”

大隈は、この意見書でイギリス型の議員内閣制を主張していました。
この大隈の動きに、伊藤博文が激しく反発したのです。
福沢との会談の時には、志を同じくしていた伊藤にどんな心境の変化があったのでしょうか??

その謎のカギを握るのは・・・井上毅!!
後に、憲法制定にも関わることになる法制官僚です。
7月12日、伊藤博文宛に井上毅の「内陳」が・・・

”現在巷で発表されている憲法案は、全て福澤の私擬憲法が案に基づいている
 福澤の勢力は、知らないうちに人々の脳内を泡立たせ、発酵させている”

井上は、伊藤に大隈の意見書の背後には福沢がいるとにおわせました。
さらに、福沢の思想の危険性を再三にわたって吹き込み、伊藤の考えを一変させたのです。
井上毅は、民衆が力を持つ国家感に対しては批判的でした。
人心が福沢に行ってしまえば、政治制度が議院内閣制になる可能性がありました。
実際に、選挙をやった時に、福沢派に負ける可能性が高い・・・!!
そうなると、立法権も、行政権も失い、明治政府にとって危険極まりないこととなります。
井上の説得に動かされた伊藤は、大隈を呼びつけ詰問します。

「大隈さんの主張は、天皇の大権を人民に投げ捨てる様なものだ
 参議の住職にある君が、福沢如きものの代理を務めるとは、笑うべきではないか」

大隈の政府からの追放が決定します。
その下で官僚として働いていた福沢門下生・・・矢野文雄・尾崎幸雄・犬養毅らも一斉に官職を去りました。
イギリス型議会政治への道は、閉ざされるかに見えました。

福沢諭吉“学問のすゝめ”第1回「学問で人生を切りひらけ」



1882年4月、福沢のもとに来訪者が・・・大隈重信です。
自らの政党・立憲改進党を結成したばかりでした。

「ぜひ福沢先生も、改進党に入り、ともに尽力していただきたい」

政治家となり、現実を変革する道を提示されます。
選択を迫られた福沢は・・・どうする・・・??
政治家に転身する??それとも、在野の言論人??

福沢の発言の文書が残っています。

”余は諸種の人を育成するのを任とすれば、一派の政党に与するを欲せず”

大隈の誘いを断り、あくまで言論で立つ道を選んだのです。

その後、福沢は自ら創刊した「時事新報」誌上で、政府にも特定政党にも偏ることなく、持論を発表し続けます。

”国会開設の準備として、最も肝要なのは官民調和である
 政府は真正面から人民の議論を圧迫すべきではないし、民権家が一身の不平を漏らすために、民権の名を借りるのもいただけない
 官民が調和した上で、藩閥の寡人政府を改め、多人政府となすことが必要だ”

1882年4月から5月にかけて連載されたのが皇室の在り方を書いた「帝室論」です。

”帝室は直接に万機に当たらずして万機を統べ給ふものなり”

帝室の役割は、学術、芸術の奨励や、叙勲などに留めるべきで、政治とは離れ、国民精神の統合であるべきだ・・・
福沢は、あくまでイギリス型の立憲君主国家を目指していました。
しかし・・・発布された「大日本帝国憲法」・・・天皇大権が規定され、議会の権限が弱い、プロイセン型国家とすることが定められました。
政府と正反対の立場をとる福沢の周りには、密偵が張り付き、発言は逐一報告されました。

過激派に同情とも思える福沢は、政府にとって見過ごすことのできないものでした。
福沢は最大級の危険人物とみなされ、一時は首都東京からの追放すら検討されました。

生涯を在野の言論人として通した福沢は、1901年、病により死去・・・66歳でした。
あくまで官と対峙した思想家らしく、死後も国家からの叙勲を受けることはありませんでした。
福沢の死から40年・・・日本は英米を相手とする太平洋戦争に突入しました。
そして敗戦・・・明治国家体制は終わりをつげ、大日本帝国憲法は現在の日本国憲法に改正されました。
国民統合の象徴となった昭和天皇は、福沢諭吉の帝室論を知り、次のように感想を残しています。

「この書の中に説かれておるところは、すこぶるもっともである
 わが意を得た」

象徴である天皇のもと、議院内閣制の政府が国政に当たる・・・
福沢の理想は、戦後ようやく制度化されたのです。

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福沢諭吉が見た150年前の世界~『西洋旅案内』初の現代語訳~

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埼玉県秩父市・椋神社・・・明治17年11月1日・・・ここで3000人の農民が武装蜂起しました。
明治政府を揺るがした秩父事件です。
貧民の救済を求め、郡役所や高利貸しを襲撃した農民は、こんな言葉を叫んでいたといいます。

「板垣さまの世ならしに参加すれば、俺たちの負債もなくなる!!」

板垣さまの世ならし・・・
板垣さまとは、明治維新の立役者の一人・板垣退助の事です。
当時、板垣は、民衆が政治に参加する自由と権利を求める自由民権運動のリーダーとして知られていました。
板垣の考えは、民権派と呼ばれる人々を生み出し、自分たちの手で国会を開設しようという大きな運動にまで発展します。
板垣は、日本初の正当・自由党を結成し、全国を遊説・・・
政府の専制を批判し、草の根に自由民権思想を広げていきました。
しかし、板垣の前に壁が立ちはだかります。

「板垣死すとも自由は死せず」

この名言を生んだとされる暗殺未遂事件が発生・・・
さらに、板垣の動きを警戒した政府は、自由党の弾圧を開始、各地で自由党員たちが次々と検挙されていきました。
こうした中、民衆を突き動かした自由民権運動は、次第に力をそがれていきます。
自由民権運動は何を目指したのか・・・??

慶応4年に始まった戊辰戦争・・・
土佐藩兵を率いた板垣退助は、会津戦などで勝利に導き明治維新の立役者となりました。
戊辰戦争に参加した迅衝隊・・・土佐藩の精鋭部隊です。
31歳の板垣退助・・・600人の隊員のほとんどが下級武士で、普段は農作業をして暮らしていた彼らに、板垣は銃剣を授け、フランス式の軍隊に編成しました。
上級武士の軍をはるかに凌ぐ活躍を見せました。
板垣は、兵士の力量に身分の差は関係ないことを痛感しました。

2年後・・・明治3年、戊辰戦争の功績を認められた板垣は、高知藩大参事に就任しました。
すぐさま大改革を行います。
それは、身分制の撤廃でした。
日本の近代化に必要なのは人民平均・・・!!
人間を士農工商の隔てなく登用する社会の実現だと唱え、上級氏族による藩の役職の独占を禁じました。
板垣は、明治新政府が行おうとしていた身分制の改革をいち早く藩で行っていたのです。
その手腕を評価された板垣は、明治4年、新政府に招かれ、中枢を担う参議の一員に就任します。
そして、国に徴兵制を導入し、四民平等の軍隊を作ることを目指しました。

しかし、思わぬ外交問題が板垣を巻き込んでいきます。
征韓論争です。
当時政府内は、国交のない朝鮮に居留する日本人を保護するために兵を送るかどうかで意見が分かれていました。
この対立で政府は真っ二つに分裂・・・
征韓派筆頭の西郷隆盛と共に参議を辞職
明治6年のことでした。
しかし、翌年、板垣はすぐさま同志たちと行動に移ります。
議会を作り、選挙で選ばれた議員たちが国政を担うべきだと、政府に建白書を送ります。
明治7年、民選議院設立の建白書を政府に提出・・・!!

「現在、権力を握っているのは天皇でも人民でもなく、一握りの官僚である
 政府に税を払っている人民には、政府が行う政治に関与する権利がある」by板垣退助

その内容は、新聞にも掲載され、多くの知識人たちの間で議会の早期開設を求める動きが高まりました。
しかし、政府はこの建白書を却下・・・
板垣は、故郷・高知に戻り、新たな行動を開始します。
政治結社・立志社の創設です。

”自由は土佐の山間より出づ”

自由という言葉を合言葉に、高知から議会開設運動を巻き起こそうとしました。
立志社は、戊辰戦争を戦った士族が中心となり、東京の慶應義塾から教師を招聘し、西洋の民権思想を学びながら、議会開設運動を着々と進めました。
ところが、結成から3年・・・立志社を大きく動揺させる事件が起こります。
それは・・・明治10年、西南戦争勃発!!
明治6年の政変後、新政府との緊張関係が続いていた西郷隆盛と旧薩摩藩士たちが武装蜂起!!
実はこの時、立志社内部では西郷軍と共に挙兵し、政府を転覆、一気に議会開設を実現させようという動きがありました。
しかし、板垣は、この挙兵論を押さえます。
そして、戦争が政府軍有利になったことを見計らい、ブレーンである植木枝盛に新たな建白を作成させ、政府に提出しました。
ここでも板垣は、言論の力で議会開設を実現することを宣言・・・
専制政治を批判し、抗議という言葉で人民の政治参加を呼びかけました。

西南戦争の翌年、全国各地で議会開設を求める政治結社の結成が相次ぎました。
その動きは士族だけでなく、農民たちにも波及します。
明治11年、東北福島県三春で河野広中が三師社を結成・・・
以後わずか2年間で結成された農民結社36社。
板垣と立志社が始めた新たな社会を目指す運動は、身分や地域を越え、広がろうとしていました。

西南戦争から3年、高知から広がった自由民権運動は新たな局面を迎えていました。
各地の政治結社は、板垣をリーダーに国会開設を胸に手を組み、明治13年国会期成同盟を結成します。
当時の資料に彼らが目論んだ大胆な構想が書かれています。

それが、私立国会・・・
国民の過半数が求めても政府が国会を開設しない場合、国会期成同盟が国会を作りそれを天皇に認めさせるというものです。
そこで各地の結社は、それぞれの地で半数以上の賛同者を集めようと演説や勉強会を盛んに開き、政治への参加を促しました。
しかし、中には運動の理念とはかけ離れた方法で勧誘をする結社も現れました。
その一つが、撃剣会という剣術興行を見世物にして人を集めるという愛国更親社です。
最盛期には参加者2万8000人、愛知・岐阜の農村部で組織を拡大しました。
巧みな宣伝文句が勧誘に使われました。

入社すれば兵役免除、武士になり永世禄支給、税金免除・・・

そして、講談師・川上音二郎をまねて、舞台で政府批判を歌い、結社への参加を促すもの

民衆の心をつかむあらゆる方法で、結社拡大の動きがみられました。
しかし、板垣はこうした熱気の高まりに不安を抱いていました。
自分達で勝手に国会を作ってしまおうというのが私立国会論・・・
完全に政府と話し合いをやめてしまって・・・国政は分断してしまう・・・!!
分断されることを、板垣は望んでいませんでした。
政府と決定的な対立を起こしかねない・・・!!
板垣の不安は的中します。
明治13年4月、政府は集会条例発布。
政治集会や演説は規制され、結社同士の連合が禁止されました。
これにより、政治活動は大きく制限され、ほとんどの結社が半数以上の参加者を得るには至りませんでした。
結果、私立国会の構想は、いったん頓挫してしまいます。
その打開策として板垣が作ろうとしたのは、日本初の政党・自由党です。
結社を一つの団体としてまとめ上げてしまえば、条例違反を問われることはない・・・!!
しかも、これまでばらばらだった結社の主張が一つにまとまり私立国家の実現にも拍車がかかるはずだ・・・!!
ところが、明治14年10月・・・
結党準備のさ中に政府が下した新たな決断に、民権派は激しく動揺します。

国会開設の勅諭です。

明治23年を目標に、政府主導で国会開設と憲法制定を行うと、天皇の名のもとに告知したのです。
自分達の手で国会をと意気込んでいた民権派に対して、機先を制したのです。
自由党総理に選出された板垣は、新たな情勢の中で、今後の運動の指針を示しました。
それは、各地に自由党の地方支部を組織して、当の基盤を固め、将来の国会開設に備えるというものでした。
板垣は、6か月にわたる全国遊説の旅に出て、民衆の政治参加を熱く訴えました。

「我が国の人民は、社会一般の自由を伸ばそうとする精神に欠けているが、これは積み重なった専制政治の慣習によるものである
 ゆえに、この弊害をただすためには、人民に政治に参加させ、国家公共のことに関与させるしかない」by板垣退助

板垣は、行く先々で熱狂的な支持を受けます。
そんな中、遊説先の岐阜で事件が起こります。
演説後に、板垣が暴漢に襲われたのです。
この時発したとされる言葉が、

「板垣死すとも 自由は死せず」

板垣の不屈の闘志に、自由民権運動はさらに勢いを増していくことになります。

明治15年10月9日・・・板垣を揶揄した風刺画が雑誌に掲載されました。
自由号という船の上に、洋行費と記された大きな星が飛んでいます。
屋根の上では多くの人がその星の行方を見ています。
この洋行費こそが、板垣に降りかかったスキャンダルでした。
当時、板垣が予定していたヨーロッパへの視察旅行の費用を、政府が用意していると新聞各紙が報じていました。
板垣に洋行の話を持ち掛けたのは、共に政府の参議を務めた盟友で自由党幹部でもあった後藤象二郎です。
政党活動に興味を失っていた後藤は、政府への復帰を目論んでいました。
そこで、板垣を洋行させる代わりに政府に復帰することを、参議の伊藤博文と井上馨に相談していました。
後藤の提案は、政府にとっても自由党を切り崩す絶好のチャンスでした。
こうして政府が板垣の洋行費を用意することとなり、その情報が外部に漏れたのです。
板垣の洋行に反対した自由党の幹部は、次々と党を去りました。
これまで組織を支えてきた精鋭を失い、党本部は大きな打撃を受けることとなります。

さらに、地方では自由党への弾圧が始まっていました。
すでに明治12年から地主や豪農たちの要望を受け、府県会という地方議会が開かれていました。
この府県会で地方政府と自由党の衝突が起きていたのです。
舞台は福島・・・当時、自由党幹部だった福島県会議長・河野広中・・・福島では自由党が大きな勢力を占めていました。
そこで議題となっていたのは、地方税の問題です。
それまでの2倍以上の重税を課そうとする県に対し、自由党は議会で反対の議決を繰り返していました。
これに対し、副島県令・三島通庸は、副島の自由党員に民衆デモを先導したことをきっかけに党員全員を一斉検挙!!
さらに、裁判では自由党員が政府の転覆を図ったとみなし、河野たちを断罪します。
この事件で、東北での民権運動の拠点だった福島自由党は壊滅・・・
さらに、秋田・群馬など各地で弾圧が増していきました。

自由党が危機に瀕する中、明治15年、板垣退助、7か月にわたる洋行に出発・・・!!
板垣の中では、今、政党が一番順調だと思っていました。
自分が一人抜けても、全然問題はないだろうと考えていたのです。
さらに、自由党を苦しめたのが経済の冷え込みです。
政府のデフレ政策によって、深刻な不況は全国に及びました。
党員たちは思うように活動資金を調達できずに、遂には詐欺や強盗で資金を調達するようになります。

明治16年6月・・・板垣は帰国・・・。
しかし、待っていたのは政府の弾圧と資金不足で窮地に陥った自由党の弱体化した姿でした。
政党の活動を続けることが出来るのか??

党を存続させるべきか??
解党するべきか・・・??

板垣は選択を迫られていました。

自由党を解党するべきか否か??
明治16年6月、帰国した板垣は、党員たちにある提案を行います。
党の運営資金として必要な10万円を、募金で集めることを宣言したのです。
当時の10万円は、今の数億円に相当する金額です。
10万円を集められなければ解党止む無し!!
住民のために政治を志すならば奮起せよと、党員たちを鼓舞しました。
翌年の党大会で、集まった募金額が発表されました。
合計1万円余り・・・目標とした額にはとても及びませんでした。
その結果、板垣は宣言通り、明治17年10月29日、自由党の解党を決断します。
3年に渡り自由民権運動をリードしてきた日本最初の政党は、ここに幕を閉じたのです。

埼玉県秩父・・・自由党が解党された3日後の11月1日、ここで政府を揺るがす民衆蜂起が起きました。
秩父事件です。
当時、養蚕で生計を立てていた農家は、生糸価格の大暴落によって困窮を極めていました。
負債に苦しむ農民たちを、解党の事実を知らない自由党員が組織化し、武力蜂起へと導いたのです。
決起の地・・・椋神社・・・
農民3000人が集まって掲げた要求を、当時の神官が記録しています。

負債の据え置き、村費軽減や、減税など・・・

そこには、国会や憲法といった言葉はありませんでした。
当時蜂起勢が口ずさんでいた歌があります。

”金のないのも苦にしやさんすな 今にお金が自由党”

自由党に入って、板垣さまの世ならしに参加すれば、俺たちの負債もなくなる・・・
自由党というものに対して大きな期待と夢を託していたのです。
農民たちは、山村から町へ向かい、借金の証文を焼き払いました。
ゆく先々で勢力を増し、秩父府を占拠した時、その数は1万を超えていました。
2日後、郡役所に革命本部を構えます。
関東一円の志を同じくする自由党員に決起を呼びかけようとしました。
しかし・・・政府は軍隊を投入し、放棄から9日後に鎮圧・・・蜂起勢は強盗として裁かれることになりました。
この事件を境に、自由民権運動は、民衆運動としての力を失っていきます。
その後、日本は憲法制定、国会開設と、急ピッチで近代化の道を駆け上っていきました。
板垣自身も、政党政治への情熱を失うことはありませんでした。

板垣は、帝国議会が開かれると、旧自由党員が組織したいくつかの政党をまとめ上げ、自由党を復活させました。
そして、帝国議会の第1党党首として活躍し続けました。
国会議事堂・・・中央広間・・・国会開設の功労者として板垣の像が立てられています。
板垣は、晩年の回想録の中で、自由民権運動をけん引した時代を振り返り、次のように述べています。

「自由党の特色は、破壊的な働きにこそあった
 先生を打破し、国会開設への道を切り開くためには、古いものを破壊するほかなかった
 彼らが政府に抵抗し、血を流しても屈しなかったのはこのためである」by板垣退助

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