「わが命ある限り、兄者の天下の事に尽くしたい」by豊臣秀長
1540年、豊臣秀長は、尾張国・中村で生まれ、幼名は小竹でした。
兄の秀吉とは、3歳違いで唯一の男兄弟でしたが、父親は違い、秀吉の父・弥右衛門が亡くなった後に、母・なかが再婚した筑阿弥の子だとされてきました。
しかし、弥右衛門が亡くなったのは秀長誕生の3年後でした。
なので、秀長も弥右衛門の子だったのでは??とも言われています。
3歳違いの兄弟として幼少期を過ごした秀吉と秀長・・・
しかし、それは長くは続きませんでした。
母の再婚相手・筑阿弥とそりが合わなかった秀吉が、10歳前後で家を出ます。
その後、秀吉が流浪の末に織田信長に使えることとなりました。
一方、秀長は、農家の後継ぎとして成長・・・貧しいながらも平穏な日々を送っていました。
しかし、突然武士となり、兄・秀吉に仕えることとなったのです。
尾張国・前野一族の記録「武功夜話」によると・・・
1562年、秀長23歳の時、家を出て以来、音信不通だった秀吉が、何の前触れもなく帰ってきました。
そして、再会を喜ぶ秀長にこう告げます。
「わしのもとで武士になってほしい」by秀吉
この時、設永のもとで足軽組頭となっていた秀吉は、更なる出世のためには信頼できる腹心が必要と考え、唯一の男兄弟である秀長に声をかけたのです。
「自分が武士となれば、田畑はどうなる・・・
そもそも、人の命を奪う戦など性に合わんわ」by秀長
断わろうとした秀長でしたが、秀吉から熱心に誘われると押し切られてしまいました。
秀長は、織田信長のもとで成り上がろうとする兄・秀吉のために武士になることを決意したのです。
名前は、木下小一郎長秀!!
秀長と改名するのはずっと後のことです。
秀長は、秀吉が天下人になるまで数々の重要な局面で大きな役割をしていくことになります。
秀長の名サポート①墨俣城築城
1566年、織田信長は、美濃攻めの拠点として敵地の墨俣に城を築こうとしましたが・・・敵軍の妨害に遭いことごとく失敗・・・。
そこで名乗りを上げたのが、更なる出世を目指す秀吉です。
「敵が妨害するよりも早く城を築いてしまえばよい」by秀吉
そう考えた秀吉は、墨俣周辺の水上運送を牛耳る怒号の蜂須賀小六に協力を依頼。
事前に作っておいた築城用の木組みを水上で墨俣まで運んでもらいそれを組み立てようと考えます。
しかし・・・かなりの危険を伴う策だったため、蜂須賀は人たらしの秀吉が演説を駆使して頼み込んでも頑として拒否!!
すると、それまでじっと黙っていた秀長が・・・
「私如きが申すのはおこがましいことなれど、此度兄者は墨俣築城がならなければ自身の命をないものと覚悟でお頼み申しております」by秀長
と控えめながらも力のこもった誠実な言葉で蜂須賀に協力を乞いました。
その結果・・・
「墨俣のこと、お引き受けいたす」by小六
蜂須賀小六は、言葉巧みな秀吉よりも、真面目、真摯な言葉で話す秀長の人柄に惹かれたのです。
こうして、蜂須賀の協力を得た秀吉は、一説に一夜城と言われるほど短い期間で墨俣城を築城!!
信長から称賛されたといいます。
それ以降、蜂須賀小六は、秀吉の重臣として多くの武功をあげています。
この小六を味方につけた秀長の功績は、大きかったのです。
秀長の名サポート②金ヶ崎の退き口
1570年4月・・・信長率いる織田軍は、朝倉義景を撃つべく越前に進軍!!
朝倉方の金ヶ崎城を攻め落としたのですが・・・
その直後、同盟を結んでいた北近江の浅井長政が朝倉方に寝返り、信長方に牙をむいたのです。
突然の裏切りに退却を余儀なくされた信長・・・
ここで、退却する織田軍の殿を買って出たのが秀吉でした。
世に言う”金ヶ崎の退き口”です。
秀吉の武功の一つとして知られています。
その殿の最後尾・・・殿の殿を務めたのが秀長でした。
殿は、敵の追撃を食い止め、味方を無事に退却させるという戦において、もっとも危険な難しい任務でした。
生還できる可能性は非常に低く、その最後尾ともなれば生きては帰れません・・・。
この時、秀吉は秀長にこう命じました。
「上様が駆け出されたのち、二刻(4時間)ばかり持ちこたえればよい
無駄な戦いはしたらあかん!!
もうよいと思ったら、兵を引き、ワシの陣に追いつけ」by秀吉
秀長はこの言葉通り、浅井・朝倉軍の追撃を食い止め、信長が安全圏に撤退するまで持ちこたえます。
そして、自らも秀吉に追いつき、無事に生還を果たしました。
最大の危機を逃れた信長は、秀吉に金30枚を与えたといいます。
1573年、羽柴秀吉37歳、弟・秀長34歳の時・・・
天下取りに邁進する織田信長が、朝倉義景、浅井長政を討ち取ります。
これに貢献いた秀吉は、褒美として浅井氏の旧領である北近江を与えられ、12万石の大名となります。
そして、翌年・・・琵琶湖の東岸に、自らの居城となる長浜城を築きます。
この頃、信長の命令で各地を飛び回っていた秀吉・・・長浜城を留守にすることが多かったのです。
その際、秀吉の代わりに城を守り、政務を行ったのが秀長でした。
秀吉は、秀長を分身のように考えていました。
秀長自身も、秀吉から8500石を受領、自分の家臣団を持つようになります。
その一人が、後に江戸城大改築に関わる築城の名手・藤堂高虎です。
近江出身だった貧乏浪人だった藤堂高虎は、生涯で7度も主君を変えています。
どれも長続きしませんでしたが、秀長のことは慕っていて、秀長が亡くなるまで約15年間仕え続けました。
秀吉の代役が務めるほど有能で、家臣からも慕われていた秀長・・・しかし、時代は戦国。
兄弟は時に最大のライバルにもなり得ます。
秀長は兄にとって代わろうとは考えなかったのでしょうか?
秀長は、秀吉の補佐役こそが自分の使命と撃考えていました。
武功夜話にも、”秀長は数々の武功をあげても決して驕ることなく、秀吉を助けることに専念していた”と書かれています。
秀吉の影と思い、自分の功績などは敢えて残さないようにしていました。
だからこそ、一級資料が少ないのです。
秀吉は、竹中半兵衛と並ぶ名軍師の黒田官兵衛を味方につける際に、「そなたを弟同然に信頼している」と書状を送っています。
秀長に全幅の信頼を置き、それは周知の事実でした。
秀長は最高の腹心だったのです。
1577年夏・・・信長は、北陸方面に進出してきた上杉謙信を抑えるため、重臣の柴田勝家や秀吉を加賀に派遣しました。
しかし、作戦をめぐって2人が対立!!
当面の衝突は避けるべきだという秀吉と、即時決戦の勝家は「臆したか!!」とののしります。
怒った秀吉は、信長に無断で兵を撤退してしまいました。
戦線離脱は重大違反・・・激怒した信長は、秀吉に長浜城での蟄居を命じます。
すぐに秀長ら5人の側近を伴い信長のもとへ謝罪に向かいました。
秀吉が信長と対面している間・・・秀長たちは控えの間で待機。
上様の気分次第では自分たちの命も危うい・・・と皆不安と緊張の中、浅野長政は3度も厠へ・・・
蜂須賀小六に至っては
「おのおの方覚悟めされよ もはやただではこの城を出られまい
万が一討ち手が迫ってきたら、それがしは斬り死を覚悟しておる」
とふところのあいくちを握りしめ殺気立っていました。
他の面々も血を登らせたとの時・・・!!
ひとり涼しい顔をしていた秀長が、扇子を扇ぎ一同に風を送りました。
そよ風に頬を撫でられた面々は、我に返り、張りつめていた空気も一転!!
落ち着き払った秀長に習い、みな、心静かに秀吉の帰りを待つようになったといいます。
最終的に信長の怒りはとけ、秀吉と共に無事に変えることができました。
どんな時も冷静沈着、どっしりと構えているのが秀長の魅力でした。
秀長の名サポート③中国攻め
1577年秋・・・信長から毛利氏の支配する中国地方の攻略を任された秀吉は、その拠点となる播磨・姫路城に入ります。
そこで秀長は、こんな進言をしました。
「兄者・・・まずは但馬を攻略し、生野銀山を手に入れるべきと存じます」by秀長
但馬国にある生野銀山は、平安時代から銀が掘られていたという日本有数の銀山です。
当時、銀は通貨として用いられるなど非常に重宝されていたため、ここを手に入れれば戦いを有利に進められると考えたのです。
秀長は、戦における経済力の重要さをよく知っていました。
また、銭の使いどころもよくわかっていました。
秀吉の許しを得た秀長は、但馬に攻め込み、生野銀山を管理していた太田垣氏の居城・竹田城を落として大量の銀を手に入れました。
さらに、手に入れた銀の使い方は・・・??
中国攻めを進める中、丹波の平定に取っかった秀長は、地元農民たちの一揆を制圧すると、降伏した農民たちに生野銀山で採掘した銀の粒を与えました。
「今後は、乱暴狼藉を働くでない」by秀長
と言い聞かせたのです。
農民たちは大感激!!
秀忠に加勢したいという者もあらわれ、気が付けば秀長軍は5000人余りに膨れ上がっていたといいます。
無駄な殺生を嫌う秀長・・・農民だったので、その苦労も銭のありがたさも身をもって知っていました。
秀長の名サポート④賤ケ岳の戦い
1582年6月2日未明・・・明智光秀の謀反にとって、京都本能寺で織田信長が命を落とします。
その25日後には、信長の後継者を決める会議が尾張の清州城で開かれました。
そこで、信長の三男・信孝を推す柴田利家と、信長の嫡孫・三法師を推す秀吉と対立!!
そして、翌年3月・・・余呉湖を挟んで両軍が対峙しました。
賤ケ岳の戦いです。
しばらくはにらみ合いが続きましたが、勝家と手を組む信孝が美濃で挙兵したことで秀吉がその征圧のために半数を率いて美濃に向かうと、柴田軍が動きました。
先鋒を務めていた作間盛政が羽柴軍の最前線・大岩山砦を守る中川清秀を襲撃。
この時、賤ケ岳に残った軍勢の指揮を執っていたのが秀長でした。
心優しい秀長のこと・・・すぐに救援に向かった・・・??
なんと、非常にも中川を見殺しにしたのです。
どうしてでしょうか??
これは秀吉に勝利をもたらすための策略、戦略でした。
この時、大岩山砦を落として気をよくした佐久間盛政は、秀吉陣営の奥深くまで侵攻してきたことになります。
これこそが、秀長の狙いでした。
中川清秀を見殺しにすることで、佐久間盛政を自陣深くまで誘い込み、一気に叩こうと考えていました。
戦況を知らされた秀吉が美濃から急遽帰還します。
秀吉陣営の中に取り残された佐久間軍を撃退し、その勢いで勝家率いる本隊も襲撃。
敗走する勝家を猛追し、北庄城で自害に追い込みます。
秀吉は勝家に勝利したことで、信長の後継者の座を確立し、天下統一に向けて進むことができました。
秀吉の方は、味方を見殺しにしたことで秀長を激しく叱責しています。
味方を見殺しにすれば叱責されるのは当たり前で、それは秀長もわかっていました。
それ以上に秀長は兄のためにあえて汚れ役を務め、非情な決断をしたのです。
秀長の名サポート⑤四国平定
柴田勝家を破り、名実ともに織田信長の後継者となった秀吉と、その秀吉を天下人にするべく力を尽くす弟・秀長・・・
1585年6月には、病に臥せっていた秀吉に代わり、秀長が四国攻めの総指揮官に就任。
四国を支配する長宗我部元親を討つべく10万の兵を率いて阿波・讃岐・伊予の三方から攻め入ります。
ところが、長曾我部軍の抵抗は思いのほか激しく大苦戦・・・
すると、大坂城で静養していた秀吉が、
「生ぬるいわ!わしが出陣する!!」
これを戦場で伝え聞いた秀長は、急ぎ書状を認め、秀吉にこう訴えます。
「期待を裏切ることはないゆえ、任せていただきたい」by秀長
秀吉は大した家臣を持っていないという噂が流れ、秀吉の器量が疑われるのを避けたかったのです。
兄秀吉の出陣をとどめた秀長は、決死の覚悟で奮戦・・・
その結果、わずか50日余りで長曾我部を降伏させ、四国平定という難事業を成し遂げたのです。
この功績によって秀長は、それまでに受領していた和泉、紀伊に加えて大和を与えられ、100万石越えの大大名となるのです。
秀長の名サポート⑥大和国の統治
この時46歳、大和郡山城を居城とし、大和の領国経営に取り掛かります。
現在の奈良県は、かつての大和国・・・神国と呼ばれるほど寺社勢力が強い地域でした。
東大寺、興福寺などのたくさんの寺社が勢力を誇っていました。
これらの多くは僧兵を持ち、その武力を背景に、単なる宗教組織ではなく大きな政治的発言力を持っていました。
秀吉の意のままにならない地域だったのです。
天下統一の障壁となるので、最も信頼する秀長を送り込んで、刷新しようとしたのです。
早速秀長は、寺社勢力の弱体化に取り掛かります。
その一つが検地でした。
それまでの検地は、自己申告制だったため、多くの寺社が虚偽の申告をして不当な利益を得ていました。
中でも興福寺は、不正を厳しく糾弾され、領地を1/5にまで減らされました。
さらに秀長は、多くの僧兵を抱えていた多武峰の寺院に全ての武器武具を差し出すように命じます。
その軍事力を削ぎます。
秀吉のせいさっくとして知られるものに、刀狩りがありますが、この秀長の政策が原型ともいわれています。
既得権益を次々と奪われた寺社側には反発心が芽生えましたが・・・
秀長は、社殿の造営や寄進などの懐柔策を織り交ぜることで、不満を抑え、秀吉の天下統一の障壁となっていた大和国を刷新します。
秀長は、寺社勢力の弱体化と並行して、大和郡山城の整備にも着手していきます。
同業者を集めた13の町・・・箱本を作り、営業上の独占権や税金の免除を許して、商工業を活性化。
また、箱本に城下町の治安維持や消火活動、課税や訴訟などを月替わりで担当させました。
住民自治の制度です。
秀長のサポート⑦九州平定
1585年7月、羽柴秀吉は関白に就任・・・翌年には正親町天皇から豊臣姓を下賜されます。
聚楽第を京都に造営しました。
秀長も、参議・正三位に昇進、農民出身だったと言われる二人が天下に手が届くところまで上り詰めました。
そんな中、豊後の大友宗麟が、薩摩の島津義久に攻め込まれたことで、上洛して秀吉に救援を願い出ます。
すると、大坂城で秀吉の代わりに大友と対面した秀長は、
「内々のことは千利休が、公儀のことは私が取り計らうので心配なされるな」by秀長
これは、豊臣政権における大名統制の権限を秀長が持っていたということです。
実際、この頃の秀長は、外交のほとんどを任されていて、諸大名からの信頼も厚かったのです。
そして内々のことは千利休が・・・というように、豊臣政権の内政を任されていたのが、秀吉の筆頭茶頭を務めていた千利休でした。
当時、茶の湯は選ばれた者だけが行うことを許された政治的権力の象徴でした。
その頂点に立つ利休は、絶大な権力と発言力を持ち、豊臣家の内政顧問のような存在となっていました。
利休にとって秀長は、共に豊臣政権を支える良き理解者でした。
そして、時には秀吉との間を取り持ってくれる大事な存在だったのです。
1587年2月、秀長は、島津義久を撃つべく出陣!!
翌月には秀吉も九州に入り、総勢18万の大軍になると、秀長は九州の東沿岸から、秀吉は西沿岸から薩摩に向けて出陣します。
挟み撃ちにされた島津義久は降伏・・・
九州はh知恵由の手に落ち、また一歩天下統一に近づいたのです。
そしてこの年の8月、秀長は従二位・大納言に昇進・・・大和大納言と呼ばれるようになりました。
1590年3月、天下統一に王手をかけた秀吉は、最後の難敵・関東の覇者・北条氏を討つべく、京都・聚楽第から小田原に向けて出陣!!
秀吉の命を受けた諸大名たちも、小田原に駆けつけ、総勢20万以上に及んだと言われています。
しかし、そこに秀長の姿はありませんでした。
この少し前から病に臥せっていたのです。
一説に結核だったと言われる秀長の病状は重く、心配した秀吉は小田原攻めに向かう途中に立ち寄ったと言われています。
また、興福寺や春日大社に大量の金品を寄進して、回復を祈願させるなど、弟のために手をつくします。
秀長の回復を願って多くの人々が祈祷し、見舞いの品が数多く届けられました。
そんな中、秀吉は小田原城を攻め落とし、北条氏に勝利。
遂に天下統一を成し遂げます。
それを伝え聞いた秀長は、家臣にこう告げていました。
「わが命ある限り、兄者の天下のことに尽くしたいがどうにもならず」by秀長
秀長は死期を悟っていました。
そして半年後・・・秀長は、兄を支え続けた激動の生涯に幕を下ろしました。
52歳でした。
秀長が亡くなったとき、大和郡山城には金子5万6000枚以上、銀子二間四方の部屋2棟にぎっしりと積み重なっていました。
秀長は、終生贅沢を好まなかったと言われ、豊臣政権安定のために蓄財していたのです。
最後まで兄・秀吉、豊臣家のことを案じていた秀長・・・
しかし、その思いとは裏腹に、秀長の死の直後から秀吉が暴走を始めてしまいます。
秀長の死の翌月、秀吉は千利休に切腹を命じます。
その理由は
①千利休が茶器の売買で私利をむさぼっていた
②大徳寺の山門の上に利休の木像を置いたことが身分不相応
ともいわれていますが・・・
まさに、秀吉の暴走で、豊臣家にとっては痛恨の極みでした。
翌年には、秀長が暴挙であると強く反対していた朝鮮出兵を断行、2度にわたった出兵は、どちらも失敗に終わり、豊臣政権に甚大なダメージを与えました。
さらに、秀長の死の4年後・・・
1595年に、秀吉は、関白の座を譲っていた甥の秀次に謀反の疑いをかけて切腹に追い込みます。
そして、その妻子や側近たち30余人も処刑しました。
淀の方との間に実施の秀頼が生まれたことで、養子の秀次が邪魔になったともいわれていますが・・・
秀吉の苛烈な処断に不満を抱いたものは少なくなく、豊臣政権を大きく傾かせる要因となりました。
秀長は、秀吉のナビゲーター役でした。
ナビゲーターがいなくなったことで、秀吉が暴走を始めたのです。
秀長が生きていたら・・・利休や秀次が切腹させられることがなかった・・・
朝鮮出兵も止めていたのでは・・・??
群雄割拠の戦国の世において、秀吉が天下人No,1になれたのは、光あたらずとも実直に働き秀吉を陰で支え続けた秀長の存在があったればこそでした。
秀吉亡き後、豊臣家を滅ぼした徳川家康が天下を取ります。
その家康も、秀長には一目置いていたと言われています。
秀長がもっと長生きしていたら・・・秀吉の暴走を止め、豊臣政権も崩壊させず、家康に天下を奪われえることもなかったかもしれません。
不世出の補佐役だった秀長は、まさに戦国最強のNo,2・・・影の太閤と呼ばれるのにふさわしい武将でした。
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1540年、豊臣秀長は、尾張国・中村で生まれ、幼名は小竹でした。
兄の秀吉とは、3歳違いで唯一の男兄弟でしたが、父親は違い、秀吉の父・弥右衛門が亡くなった後に、母・なかが再婚した筑阿弥の子だとされてきました。
しかし、弥右衛門が亡くなったのは秀長誕生の3年後でした。
なので、秀長も弥右衛門の子だったのでは??とも言われています。
3歳違いの兄弟として幼少期を過ごした秀吉と秀長・・・
しかし、それは長くは続きませんでした。
母の再婚相手・筑阿弥とそりが合わなかった秀吉が、10歳前後で家を出ます。
その後、秀吉が流浪の末に織田信長に使えることとなりました。
一方、秀長は、農家の後継ぎとして成長・・・貧しいながらも平穏な日々を送っていました。
しかし、突然武士となり、兄・秀吉に仕えることとなったのです。
尾張国・前野一族の記録「武功夜話」によると・・・
1562年、秀長23歳の時、家を出て以来、音信不通だった秀吉が、何の前触れもなく帰ってきました。
そして、再会を喜ぶ秀長にこう告げます。
「わしのもとで武士になってほしい」by秀吉
この時、設永のもとで足軽組頭となっていた秀吉は、更なる出世のためには信頼できる腹心が必要と考え、唯一の男兄弟である秀長に声をかけたのです。
「自分が武士となれば、田畑はどうなる・・・
そもそも、人の命を奪う戦など性に合わんわ」by秀長
断わろうとした秀長でしたが、秀吉から熱心に誘われると押し切られてしまいました。
秀長は、織田信長のもとで成り上がろうとする兄・秀吉のために武士になることを決意したのです。
名前は、木下小一郎長秀!!
秀長と改名するのはずっと後のことです。
秀長は、秀吉が天下人になるまで数々の重要な局面で大きな役割をしていくことになります。
秀長の名サポート①墨俣城築城
1566年、織田信長は、美濃攻めの拠点として敵地の墨俣に城を築こうとしましたが・・・敵軍の妨害に遭いことごとく失敗・・・。
そこで名乗りを上げたのが、更なる出世を目指す秀吉です。
「敵が妨害するよりも早く城を築いてしまえばよい」by秀吉
そう考えた秀吉は、墨俣周辺の水上運送を牛耳る怒号の蜂須賀小六に協力を依頼。
事前に作っておいた築城用の木組みを水上で墨俣まで運んでもらいそれを組み立てようと考えます。
しかし・・・かなりの危険を伴う策だったため、蜂須賀は人たらしの秀吉が演説を駆使して頼み込んでも頑として拒否!!
すると、それまでじっと黙っていた秀長が・・・
「私如きが申すのはおこがましいことなれど、此度兄者は墨俣築城がならなければ自身の命をないものと覚悟でお頼み申しております」by秀長
と控えめながらも力のこもった誠実な言葉で蜂須賀に協力を乞いました。
その結果・・・
「墨俣のこと、お引き受けいたす」by小六
蜂須賀小六は、言葉巧みな秀吉よりも、真面目、真摯な言葉で話す秀長の人柄に惹かれたのです。
こうして、蜂須賀の協力を得た秀吉は、一説に一夜城と言われるほど短い期間で墨俣城を築城!!
信長から称賛されたといいます。
それ以降、蜂須賀小六は、秀吉の重臣として多くの武功をあげています。
この小六を味方につけた秀長の功績は、大きかったのです。
秀長の名サポート②金ヶ崎の退き口
1570年4月・・・信長率いる織田軍は、朝倉義景を撃つべく越前に進軍!!
朝倉方の金ヶ崎城を攻め落としたのですが・・・
その直後、同盟を結んでいた北近江の浅井長政が朝倉方に寝返り、信長方に牙をむいたのです。
突然の裏切りに退却を余儀なくされた信長・・・
ここで、退却する織田軍の殿を買って出たのが秀吉でした。
世に言う”金ヶ崎の退き口”です。
秀吉の武功の一つとして知られています。
その殿の最後尾・・・殿の殿を務めたのが秀長でした。
殿は、敵の追撃を食い止め、味方を無事に退却させるという戦において、もっとも危険な難しい任務でした。
生還できる可能性は非常に低く、その最後尾ともなれば生きては帰れません・・・。
この時、秀吉は秀長にこう命じました。
「上様が駆け出されたのち、二刻(4時間)ばかり持ちこたえればよい
無駄な戦いはしたらあかん!!
もうよいと思ったら、兵を引き、ワシの陣に追いつけ」by秀吉
秀長はこの言葉通り、浅井・朝倉軍の追撃を食い止め、信長が安全圏に撤退するまで持ちこたえます。
そして、自らも秀吉に追いつき、無事に生還を果たしました。
最大の危機を逃れた信長は、秀吉に金30枚を与えたといいます。
1573年、羽柴秀吉37歳、弟・秀長34歳の時・・・
天下取りに邁進する織田信長が、朝倉義景、浅井長政を討ち取ります。
これに貢献いた秀吉は、褒美として浅井氏の旧領である北近江を与えられ、12万石の大名となります。
そして、翌年・・・琵琶湖の東岸に、自らの居城となる長浜城を築きます。
この頃、信長の命令で各地を飛び回っていた秀吉・・・長浜城を留守にすることが多かったのです。
その際、秀吉の代わりに城を守り、政務を行ったのが秀長でした。
秀吉は、秀長を分身のように考えていました。
秀長自身も、秀吉から8500石を受領、自分の家臣団を持つようになります。
その一人が、後に江戸城大改築に関わる築城の名手・藤堂高虎です。
近江出身だった貧乏浪人だった藤堂高虎は、生涯で7度も主君を変えています。
どれも長続きしませんでしたが、秀長のことは慕っていて、秀長が亡くなるまで約15年間仕え続けました。
秀吉の代役が務めるほど有能で、家臣からも慕われていた秀長・・・しかし、時代は戦国。
兄弟は時に最大のライバルにもなり得ます。
秀長は兄にとって代わろうとは考えなかったのでしょうか?
秀長は、秀吉の補佐役こそが自分の使命と撃考えていました。
武功夜話にも、”秀長は数々の武功をあげても決して驕ることなく、秀吉を助けることに専念していた”と書かれています。
秀吉の影と思い、自分の功績などは敢えて残さないようにしていました。
だからこそ、一級資料が少ないのです。
秀吉は、竹中半兵衛と並ぶ名軍師の黒田官兵衛を味方につける際に、「そなたを弟同然に信頼している」と書状を送っています。
秀長に全幅の信頼を置き、それは周知の事実でした。
秀長は最高の腹心だったのです。
1577年夏・・・信長は、北陸方面に進出してきた上杉謙信を抑えるため、重臣の柴田勝家や秀吉を加賀に派遣しました。
しかし、作戦をめぐって2人が対立!!
当面の衝突は避けるべきだという秀吉と、即時決戦の勝家は「臆したか!!」とののしります。
怒った秀吉は、信長に無断で兵を撤退してしまいました。
戦線離脱は重大違反・・・激怒した信長は、秀吉に長浜城での蟄居を命じます。
すぐに秀長ら5人の側近を伴い信長のもとへ謝罪に向かいました。
秀吉が信長と対面している間・・・秀長たちは控えの間で待機。
上様の気分次第では自分たちの命も危うい・・・と皆不安と緊張の中、浅野長政は3度も厠へ・・・
蜂須賀小六に至っては
「おのおの方覚悟めされよ もはやただではこの城を出られまい
万が一討ち手が迫ってきたら、それがしは斬り死を覚悟しておる」
とふところのあいくちを握りしめ殺気立っていました。
他の面々も血を登らせたとの時・・・!!
ひとり涼しい顔をしていた秀長が、扇子を扇ぎ一同に風を送りました。
そよ風に頬を撫でられた面々は、我に返り、張りつめていた空気も一転!!
落ち着き払った秀長に習い、みな、心静かに秀吉の帰りを待つようになったといいます。
最終的に信長の怒りはとけ、秀吉と共に無事に変えることができました。
どんな時も冷静沈着、どっしりと構えているのが秀長の魅力でした。
秀長の名サポート③中国攻め
1577年秋・・・信長から毛利氏の支配する中国地方の攻略を任された秀吉は、その拠点となる播磨・姫路城に入ります。
そこで秀長は、こんな進言をしました。
「兄者・・・まずは但馬を攻略し、生野銀山を手に入れるべきと存じます」by秀長
但馬国にある生野銀山は、平安時代から銀が掘られていたという日本有数の銀山です。
当時、銀は通貨として用いられるなど非常に重宝されていたため、ここを手に入れれば戦いを有利に進められると考えたのです。
秀長は、戦における経済力の重要さをよく知っていました。
また、銭の使いどころもよくわかっていました。
秀吉の許しを得た秀長は、但馬に攻め込み、生野銀山を管理していた太田垣氏の居城・竹田城を落として大量の銀を手に入れました。
さらに、手に入れた銀の使い方は・・・??
中国攻めを進める中、丹波の平定に取っかった秀長は、地元農民たちの一揆を制圧すると、降伏した農民たちに生野銀山で採掘した銀の粒を与えました。
「今後は、乱暴狼藉を働くでない」by秀長
と言い聞かせたのです。
農民たちは大感激!!
秀忠に加勢したいという者もあらわれ、気が付けば秀長軍は5000人余りに膨れ上がっていたといいます。
無駄な殺生を嫌う秀長・・・農民だったので、その苦労も銭のありがたさも身をもって知っていました。
秀長の名サポート④賤ケ岳の戦い
1582年6月2日未明・・・明智光秀の謀反にとって、京都本能寺で織田信長が命を落とします。
その25日後には、信長の後継者を決める会議が尾張の清州城で開かれました。
そこで、信長の三男・信孝を推す柴田利家と、信長の嫡孫・三法師を推す秀吉と対立!!
そして、翌年3月・・・余呉湖を挟んで両軍が対峙しました。
賤ケ岳の戦いです。
しばらくはにらみ合いが続きましたが、勝家と手を組む信孝が美濃で挙兵したことで秀吉がその征圧のために半数を率いて美濃に向かうと、柴田軍が動きました。
先鋒を務めていた作間盛政が羽柴軍の最前線・大岩山砦を守る中川清秀を襲撃。
この時、賤ケ岳に残った軍勢の指揮を執っていたのが秀長でした。
心優しい秀長のこと・・・すぐに救援に向かった・・・??
なんと、非常にも中川を見殺しにしたのです。
どうしてでしょうか??
これは秀吉に勝利をもたらすための策略、戦略でした。
この時、大岩山砦を落として気をよくした佐久間盛政は、秀吉陣営の奥深くまで侵攻してきたことになります。
これこそが、秀長の狙いでした。
中川清秀を見殺しにすることで、佐久間盛政を自陣深くまで誘い込み、一気に叩こうと考えていました。
戦況を知らされた秀吉が美濃から急遽帰還します。
秀吉陣営の中に取り残された佐久間軍を撃退し、その勢いで勝家率いる本隊も襲撃。
敗走する勝家を猛追し、北庄城で自害に追い込みます。
秀吉は勝家に勝利したことで、信長の後継者の座を確立し、天下統一に向けて進むことができました。
秀吉の方は、味方を見殺しにしたことで秀長を激しく叱責しています。
味方を見殺しにすれば叱責されるのは当たり前で、それは秀長もわかっていました。
それ以上に秀長は兄のためにあえて汚れ役を務め、非情な決断をしたのです。
秀長の名サポート⑤四国平定
柴田勝家を破り、名実ともに織田信長の後継者となった秀吉と、その秀吉を天下人にするべく力を尽くす弟・秀長・・・
1585年6月には、病に臥せっていた秀吉に代わり、秀長が四国攻めの総指揮官に就任。
四国を支配する長宗我部元親を討つべく10万の兵を率いて阿波・讃岐・伊予の三方から攻め入ります。
ところが、長曾我部軍の抵抗は思いのほか激しく大苦戦・・・
すると、大坂城で静養していた秀吉が、
「生ぬるいわ!わしが出陣する!!」
これを戦場で伝え聞いた秀長は、急ぎ書状を認め、秀吉にこう訴えます。
「期待を裏切ることはないゆえ、任せていただきたい」by秀長
秀吉は大した家臣を持っていないという噂が流れ、秀吉の器量が疑われるのを避けたかったのです。
兄秀吉の出陣をとどめた秀長は、決死の覚悟で奮戦・・・
その結果、わずか50日余りで長曾我部を降伏させ、四国平定という難事業を成し遂げたのです。
この功績によって秀長は、それまでに受領していた和泉、紀伊に加えて大和を与えられ、100万石越えの大大名となるのです。
秀長の名サポート⑥大和国の統治
この時46歳、大和郡山城を居城とし、大和の領国経営に取り掛かります。
現在の奈良県は、かつての大和国・・・神国と呼ばれるほど寺社勢力が強い地域でした。
東大寺、興福寺などのたくさんの寺社が勢力を誇っていました。
これらの多くは僧兵を持ち、その武力を背景に、単なる宗教組織ではなく大きな政治的発言力を持っていました。
秀吉の意のままにならない地域だったのです。
天下統一の障壁となるので、最も信頼する秀長を送り込んで、刷新しようとしたのです。
早速秀長は、寺社勢力の弱体化に取り掛かります。
その一つが検地でした。
それまでの検地は、自己申告制だったため、多くの寺社が虚偽の申告をして不当な利益を得ていました。
中でも興福寺は、不正を厳しく糾弾され、領地を1/5にまで減らされました。
さらに秀長は、多くの僧兵を抱えていた多武峰の寺院に全ての武器武具を差し出すように命じます。
その軍事力を削ぎます。
秀吉のせいさっくとして知られるものに、刀狩りがありますが、この秀長の政策が原型ともいわれています。
既得権益を次々と奪われた寺社側には反発心が芽生えましたが・・・
秀長は、社殿の造営や寄進などの懐柔策を織り交ぜることで、不満を抑え、秀吉の天下統一の障壁となっていた大和国を刷新します。
秀長は、寺社勢力の弱体化と並行して、大和郡山城の整備にも着手していきます。
同業者を集めた13の町・・・箱本を作り、営業上の独占権や税金の免除を許して、商工業を活性化。
また、箱本に城下町の治安維持や消火活動、課税や訴訟などを月替わりで担当させました。
住民自治の制度です。
秀長のサポート⑦九州平定
1585年7月、羽柴秀吉は関白に就任・・・翌年には正親町天皇から豊臣姓を下賜されます。
聚楽第を京都に造営しました。
秀長も、参議・正三位に昇進、農民出身だったと言われる二人が天下に手が届くところまで上り詰めました。
そんな中、豊後の大友宗麟が、薩摩の島津義久に攻め込まれたことで、上洛して秀吉に救援を願い出ます。
すると、大坂城で秀吉の代わりに大友と対面した秀長は、
「内々のことは千利休が、公儀のことは私が取り計らうので心配なされるな」by秀長
これは、豊臣政権における大名統制の権限を秀長が持っていたということです。
実際、この頃の秀長は、外交のほとんどを任されていて、諸大名からの信頼も厚かったのです。
そして内々のことは千利休が・・・というように、豊臣政権の内政を任されていたのが、秀吉の筆頭茶頭を務めていた千利休でした。
当時、茶の湯は選ばれた者だけが行うことを許された政治的権力の象徴でした。
その頂点に立つ利休は、絶大な権力と発言力を持ち、豊臣家の内政顧問のような存在となっていました。
利休にとって秀長は、共に豊臣政権を支える良き理解者でした。
そして、時には秀吉との間を取り持ってくれる大事な存在だったのです。
1587年2月、秀長は、島津義久を撃つべく出陣!!
翌月には秀吉も九州に入り、総勢18万の大軍になると、秀長は九州の東沿岸から、秀吉は西沿岸から薩摩に向けて出陣します。
挟み撃ちにされた島津義久は降伏・・・
九州はh知恵由の手に落ち、また一歩天下統一に近づいたのです。
そしてこの年の8月、秀長は従二位・大納言に昇進・・・大和大納言と呼ばれるようになりました。
1590年3月、天下統一に王手をかけた秀吉は、最後の難敵・関東の覇者・北条氏を討つべく、京都・聚楽第から小田原に向けて出陣!!
秀吉の命を受けた諸大名たちも、小田原に駆けつけ、総勢20万以上に及んだと言われています。
しかし、そこに秀長の姿はありませんでした。
この少し前から病に臥せっていたのです。
一説に結核だったと言われる秀長の病状は重く、心配した秀吉は小田原攻めに向かう途中に立ち寄ったと言われています。
また、興福寺や春日大社に大量の金品を寄進して、回復を祈願させるなど、弟のために手をつくします。
秀長の回復を願って多くの人々が祈祷し、見舞いの品が数多く届けられました。
そんな中、秀吉は小田原城を攻め落とし、北条氏に勝利。
遂に天下統一を成し遂げます。
それを伝え聞いた秀長は、家臣にこう告げていました。
「わが命ある限り、兄者の天下のことに尽くしたいがどうにもならず」by秀長
秀長は死期を悟っていました。
そして半年後・・・秀長は、兄を支え続けた激動の生涯に幕を下ろしました。
52歳でした。
秀長が亡くなったとき、大和郡山城には金子5万6000枚以上、銀子二間四方の部屋2棟にぎっしりと積み重なっていました。
秀長は、終生贅沢を好まなかったと言われ、豊臣政権安定のために蓄財していたのです。
最後まで兄・秀吉、豊臣家のことを案じていた秀長・・・
しかし、その思いとは裏腹に、秀長の死の直後から秀吉が暴走を始めてしまいます。
秀長の死の翌月、秀吉は千利休に切腹を命じます。
その理由は
①千利休が茶器の売買で私利をむさぼっていた
②大徳寺の山門の上に利休の木像を置いたことが身分不相応
ともいわれていますが・・・
まさに、秀吉の暴走で、豊臣家にとっては痛恨の極みでした。
翌年には、秀長が暴挙であると強く反対していた朝鮮出兵を断行、2度にわたった出兵は、どちらも失敗に終わり、豊臣政権に甚大なダメージを与えました。
さらに、秀長の死の4年後・・・
1595年に、秀吉は、関白の座を譲っていた甥の秀次に謀反の疑いをかけて切腹に追い込みます。
そして、その妻子や側近たち30余人も処刑しました。
淀の方との間に実施の秀頼が生まれたことで、養子の秀次が邪魔になったともいわれていますが・・・
秀吉の苛烈な処断に不満を抱いたものは少なくなく、豊臣政権を大きく傾かせる要因となりました。
秀長は、秀吉のナビゲーター役でした。
ナビゲーターがいなくなったことで、秀吉が暴走を始めたのです。
秀長が生きていたら・・・利休や秀次が切腹させられることがなかった・・・
朝鮮出兵も止めていたのでは・・・??
群雄割拠の戦国の世において、秀吉が天下人No,1になれたのは、光あたらずとも実直に働き秀吉を陰で支え続けた秀長の存在があったればこそでした。
秀吉亡き後、豊臣家を滅ぼした徳川家康が天下を取ります。
その家康も、秀長には一目置いていたと言われています。
秀長がもっと長生きしていたら・・・秀吉の暴走を止め、豊臣政権も崩壊させず、家康に天下を奪われえることもなかったかもしれません。
不世出の補佐役だった秀長は、まさに戦国最強のNo,2・・・影の太閤と呼ばれるのにふさわしい武将でした。
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