日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:織田信秀

群雄割拠の戦国時代、一人の男が乱世を制し、やがて時代の覇権を握りました。
戦国の革命児・織田信長です。
天下統一を目指した信長・・・しかし、その前には、数々の大きな壁が立ちはだかりました。
僅かな兵力で、10倍以上の大軍に挑んだ桶狭間の戦い・・・
周囲を多くの敵に囲まれる中で断行した上洛作戦!!
そして、不意の奇襲攻撃を受け窮地に立たされた姉川の戦い!!
信長は、3つの逆境をいかにして克服したのか・・・??

戦国の覇者・織田信長・・・しかし、若き日々は、苦悩と不安に満ちていました。
それは信長19歳の時に始まります。
1552年、信長の父、死去。
急死した父親の葬儀に駆け付けた信長・・・突然仏前に抹香を投げつけました。
どうしてそんなことをしたのか??
定かではありませんが、父の死が信長の方に重くのしかかっていたことは確かでした。
信長の父・織田信秀は、守護代の一家臣という低い身分でしたが、尾張一国を担う立場にありました。
力の源泉は、海運の要・津島湊と熱田湊を支配下に置いたことでした。

信秀は、海運を通じて商業を活性化・・・莫大な富を得ることに成功しました。
ところが、晩年は美濃・斎藤氏との戦いに敗れるなど信秀の求心力は徐々に低下・・・。
尾張統一も危ぶまれる情勢にありました。
そんな中、父の跡を継いだ信長・・・
しかし、周囲から大うつけ・・・非常識、愚か者として疎まれていました。

一族が敵対する事への恐れ、不安感がないまぜになっていた信長・・・不安は的中します。
ほどなくして一族の離反が始まります。
織田信友の謀反!!
それに対し信長は、信友を切腹に追い込んでいます。
そして実の弟・信勝・・・その謀反の計画を察知した信長は、仮病を使って見舞いに来させ家臣に命じて殺害しました(1558年)。
激しさを増す信長の一族討伐!!
造反勢力を抑えるのは容易ではありませんでした。
さらに、信長に巨大な外敵が迫っていました。
東海一の弓取りと畏れられた今川義元・・・義元は、一族の内紛に苦しむ信長に対して攻略の準備を進めていました。
まず義元は、尾張領内にあった鳴海城・大高城・沓掛城を手中に収めます。
それは信長にとって大きな痛手でした。
伊勢湾沿いに建てられた鳴海城と大高城・・・義元は、尾張の海運の要である津島と熱田に狙いを定めたのです。
信長は、父から受け継いだ経済基盤を失う危機に直面していました。
義元の領国は、駿河・遠江・三河の三か国・・・離反した織田方の家臣も組み入れ、石高にするとおよそ100万石!!
対する信長は、美濃・斎藤氏とも対立しており、まさに四面楚歌!!
援軍を望むべくもなかったのです。
しかし、信長はあくまでも義元に対抗!!
寝返った城の周辺に善照寺砦など3との砦を、そして鷲津砦・丸根砦を築いてけん制しました。

信長のこの動きをきっかけに・・・1560年今川義元、尾張に進軍・その数2万5000!!
信長軍の10倍以上でした。
尾張に侵攻した義元・・・信長にとってこれまでに兵力を持つ外敵でした。
5月18日夕刻・・・清須城にいる信長に、今川の動きを偵察していた家臣から報告が入りました。

「今川軍が明朝に攻撃開始!!」

いよいよ決戦の時!!
集まった家臣たちは、信長の言葉を待っていました。
ところが信長は・・・

「さあ・・・夜も更けた
 皆、帰宅して良いぞ」

そういって、軍議もせずに家臣たちを帰らせました。

「運の尽きる時は知恵の鏡も曇るというが、今がまさにその時なのか・・・!!」

そう失望する家臣もいました。
今川軍襲来の報を受けても動かない信長・・・果たして信長に勝機はあるのか・・・??

1560年5月19日、清須城の信長に、今川軍が鷲津砦と丸根砦が攻撃され始めたと連絡が入りました。
義元はまず、自分に寝返った大高城をすくうため、その周囲の鷲津・丸根砦を攻略し始めたのです。
すると信長は、僅か5騎を引き連れ、砦方面へと駆け出しました。
これまでの今川迫るの知らせには、微動だにしなかった信長が、どうして突然清洲城を飛び出したのか・・・??
それは、具体的な今川の攻撃場所を知る必要があったからです。
信長が、僅かな手勢で飛び出したのは、あくまで状況確認のため・・・もっと情報が必要だったと考えられます。
途中、善照寺砦に到着した信長は、一旦ここで馬を止めます。
ここには、遠くを見渡す物見櫓がありました。
この砦こそ、戦況を知るための前線基地だったのです。
高いところから今川軍の方向を見ると、鷲津砦・丸根砦の当た場所が遠望できます。
当時の信長が見た景色・・・立ち上る煙を目の当たりにして、信長は二つの砦が陥落したことを確信しました。
当時の戦術の常として、義元は鷲津・丸根攻略のためにまず、軍の主力・・・まず先陣を送ったはず・・・一方、大将・義元のいる本陣は、そのはるか後方で待機!!
今川軍が二つに分かれているこの状況を信長は図っていました。
今川本陣がむき出しになっている瞬間・・・その瞬間にかけて・・・!!
しかし、信長はまだ今川本陣がどこにあるのか具体的な場所をつかみかねていました。
そして正午ごろ・・・決定的な報告が、家臣からもたらされます。
鷲津砦と丸根砦陥落の知らせを聞いた信長が、桶狭間山で人馬を休憩させ、謡を歌わせているというのです。
桶狭間山は、先陣から3キロほど離れた場所でした。
地元の地理を熟知していた信長・・・今川軍が二手に分かれる構図に勝機を見出します。
この時、義元の本陣はおよそ5000、対する信長軍は2000足らず!!

今しかない!!

信長は、ここで最終決断をします。
そして檄を飛ばします。

「今川軍はすでに疲れている 大軍を恐れるな!!
 この戦に参加する者は、すべて名誉を得て功名は永遠に語り継がれるであろう!」

午後2時ごろ、今川本陣に突進!!
その途中で豪雨が降り出しました。
一方、今川本陣は、散り散りになって雨宿りの場所を求めました。
迫りくる信長軍に注意を向けるものはいませんでした。
豪雨が治まった時、信長軍は今川軍の本陣のすぐ目の前に接近していました。

「旗本これなり これへかかれ!!」

信長の号令で一斉攻撃!!
不意を突かれ浮足立つ今川軍、信長軍の一人が義元に一番槍を突き刺し、もう一人が首を刎ねる!!
いずれも、信長が育てた精鋭部隊でした。
一方、本陣から離れて休憩していた2万の軍勢は、”義元討たる”の報を聞くと、戦意を失って退却!!
信長軍の奇跡的大勝利!!
そこには、敵の情勢を見極め、勝機を逃さない信長の優れた判断力がありました。
戦国の覇者へ、その一歩を踏み出したのです。


2014年10月、新発見の資料が公開されました。
それは、新発見であり、未紹介であり、内容が非常に重要でした。
発見されたのは、信長の上洛に関する書状です。

”将軍上洛の供として 織田信長が参陣する”

1568年、信長が足利義昭の要請に応じて上洛したのは、桶狭間の戦いから8年後のことでした。
発見された書状の年号は永禄9年・・・信長は、実際の上洛の2年も前から義昭を奉じ、今日を目指す計画を立てていました。
どうして信長はそこまでして上洛にこだわったのか・・・??
室町時代、京の都で始まった権力争いは、全国を巻き込み大乱に発展!!
室町幕府は衰退の一途をたどっていきます。
戦国時代になると、将軍はしばしば都を離れ、地方の有力大名に庇護を求めました。
しかし、近年の研究によれば、戦国時代でも将軍の権威は保たれていたといいます。
信長が、将軍の権威を重んじていたことを示す資料が残されています。
幕府の家臣の名簿の中に信長の名前・・・権威を蔑ろにするイメージの信長も、将軍を支える大名の一人でした。
信長が上洛を目指したのは、衰退した室町幕府の細網を図ったからか・・・??
従来の室町幕府の秩序を、もう1回再構築するのが信長の目的なので、将軍は必要な存在でした。
そして、一有力大名として支えていくというのが信長の考え方でした。
尾張守護代の家臣という信長の出自は低い・・・
義昭の要請に応えることは、大名としての正当性を獲得する絶好の機会となったのです。
しかし、桶狭間の戦いで今川義元を討ち、尾張統一を果たしたとはいえ、永禄9年の時点では、信長の周囲は強敵に囲まれていました。
上洛など夢のまた夢・・・
さらに、上洛は、京に義昭を送り届けるだけではありませんでした。
将軍を守り、都の治安維持を図る・・・それには兵を常駐させておかなければなりません。
圧倒的な軍事力を求められました。
当時、信長が居城としていた小牧山城・・・
この城から信長の上洛に対する並々ならぬ決意が伺えます。
近年の発掘調査によって、当時の最新技術を使った巨大な石垣が次々と出土しました。
石垣の先端技術は、畿内で古くから発達しました。
信長は、畿内のいろんな技術、情報を押さえていたのです。
その中で、最先端の技術を築くことが出来るノウハウを持っていたのです。
また、小牧山城には、城下町が整備されていました。
上洛を睨んで、兵農分離が行われていたと考えられます。
兵農分離は、武士を農民から切り離す軍制改革です。
戦国大名の軍団を成す兵は農民たち・・・普段は村で農業をし、いざ戦いとなると兵隊として駆り集められました。
一方信長は、一早く専業の武士団を作り、城下町に集めて生活させていたことが小牧山城の発掘からわかりました。
兵農分離したことで、農繁期・農閑期に関わらず、いつでも遠征できる・・・!!
尾張をいかに治めるかということだけでなく、京都を目指していた意図が隠されていました。
上洛を果たすために、畿内の先進技術を取り入れ軍制改革を推し進めた信長・・・周到な準備を重ね、ようやく上洛が実現したのは最初の計画から2年後のことでした。

永禄11年(1568年)9月26日、およそ4万の大軍を率いて上洛!!
立ちはだかる敵を一蹴します。
ついに、足利義昭を奉じて上洛を果たしました。
10月18日、信長の軍事力を背景に、足利義昭将軍に就任!!
一方、新将軍誕生の立役者となった信長・・・信長の名は畿内一円に広がり、周辺の武将たちが次々と馳せ参じて忠誠を誓ったといいます。
信長が目指した国のありようを表した言葉・・・”天下静謐”・・・天下を平和にするという意味です。
将軍が中心となった畿内の政情を安定させる・・・そういう状況こそ、信長が考えた天下静謐でした。

ところが、上洛からわずか2年・・・怖れていたことが起こります。
越前の大名・朝倉の叛逆を皮切りに、畿内周辺の有力大名や、寺社勢力が次々と信長に反旗を翻したのです。
信長は、天下静謐を目指し、戦を重ね支配地域を拡張していきました。
一方、義昭は信長の凄まじい勢いに恐怖を抱き始めます。
2人の亀裂があらわになったのが、信長が義昭に宛てた「十七条の意見書」です。
義昭の怠慢や不正を十七ヶ条にまとめ、諫めたものです。

忠勤の部下を大切にせよ
えこひいきがあってはならない
世間から悪しき御所と陰口をたたかれている

などと、義昭を注意しています。
以後、信長と義昭の関係は、悪化の一途をたどります。
そして遂に1573年2月、義昭・・・挙兵!!
しかし、信長の圧倒的な軍勢を前に、降参する以外に術はありませんでした。
7月・・・義昭、京から追放・・・ここに室町幕府は崩壊したといわれます。
義昭を殺さず追放に止めたのは、将軍の権威を恐れ、謀反人と見なされることを避けたからだともいわれています。
以後、信長は、将軍の権威に寄らず、天下の静謐を目指しました。
それは、新しい天下人の姿でした。

日々徒然〜歴史とニュース?社会科な時間〜 - にほんブログ村 

足利義昭を奉じ、上洛を果たした信長・・・
将軍の権威を背景に、信長は畿内周辺の諸大名に上洛を命じる書状を出しました。
これをはねつけたのが、朝倉義景です。
かつて、足利義昭の後ろ盾となっていた越前の雄です。
信長の上洛勧告に朝倉側はこう答えました。

「これは上意にはあらず
 信長の謀略である!!」

1570年4月、信長は3万の大軍勢を引き連れて朝倉討伐へ!!
目指したのは、今の福井県敦賀市。
陸上交通と、北国海運の要です。
朝倉氏にとっては、畿内への玄関口でした。
1570年4月26日、金ヶ崎城の戦い!!
信長は力攻めで、敦賀にある金ヶ崎城を攻略します。
ところが、この時信長のもとに驚愕の知らせが・・・!!
妹婿で北近江を治める浅井長政が裏切ったのです。
長政裏切りの報に接した信長は、こう答えました。

「虚説たるべき!!」

裏切りを嘘だと報告を信じようとはしませんでした。
当時の資料には、こうあります。
”浅井は近年信長の家来となり、心の隔たりなく付き合ってきた”
長政には、十分な所領・北近江半分を与えています。
しかも、信長の妹・お市の方を嫁にしているのに・・・!!
別格の待遇をしていると、信長は長政に恩を着せています。
しかし、長政は、信長の家臣ではないと思っていました。
家臣扱いされることに対する自尊心があったのです。
朝倉攻めを優勢に進めている信長・・・
しかし、長政の裏切りが事実ならば、形勢は一気に逆転します。
長政が南から敦賀に攻め入れば、朝倉との挟撃は免れない!!
西には敵対する若狭の武将たち・・・さらに、南の琵琶湖を支配しているのは長政!!
四方を囲まれ、信長は袋の鼠!!
この時、信長は即断即決します。
南西に向かい、即座に駆け出します。
京までおよそ100キロの道程・・・信長の撤退戦・金ヶ崎の退き口の始まりでした。
信長を京まで逃がすために、困難な殿を受け持った家臣たち・・・
木下藤吉郎(豊臣秀吉)・明智光秀・徳川家康があその任に当たったといいます。
若桜街道を南下し、京に無事たどり着いた信長・・・長政の裏切り発覚から3日後のことでした。
この時、信長に付き従ったものは、僅か10人ばかりと記されています。

フロイスの「日本史」によると・・・
”信長は自らに加えられた屈辱に対しては懲罰せずにはおかなかった”
とあります。

いよいよ、姉川の戦いの幕が切って落とされようとしていました。

1570年6月、信長は長政討伐のために北近江に侵攻。
同じ頃、朝倉の援軍8000が到着、小谷城近くの大依山に陣を構えました。
対する信長の本陣は龍ヶ鼻!!
左手には徳川家康が陣を構えました。
姉川を挟んで浅井・朝倉の連合軍と信長の本陣とが睨み合う形となりました。

6月27日、大依山の浅井・朝倉勢が動きます。
大依山の軍勢が、山向こうに異動したため、信長の目の前から浅井・朝倉勢が見えなくなってしまったのです。
この時信長は、敵の動きを小谷城への撤退行動だと読んでいました。
しかし、長政は撤退したと見せかけて信長本陣に奇襲攻撃をかけようとしていました。

6月28日午前5時ごろ・・・浅井勢、姉川に到着。
信長の本陣に密かに迫っていました。
そして・・・姉川の戦い開戦!!
信長の虚をつくまさに乾坤一擲の奇襲攻撃でした。
浅井軍の猛攻に押される信長の軍勢・・・崩れるのは、もはや時間の問題でした。
この時、信長の本陣は、陣杭の柳と呼ばれる場所にありました。
本陣の奥深くまで攻め込まれ、信長が窮地に立たされたことを物語るものがありました。
浅井家家臣・遠藤直経の墓です。
信長に迫り、あと一歩のところで討ち取られた武士として記録されていました。
本陣から墓までの距離・わずか300m!!
これこそ、浅井長政の奇襲攻撃で、信長本陣が大混乱した証です。
浅井勢に攻め込まれた織田軍・・・
しかし、信長は戦場を離脱することなく本陣に踏みとどまりました。
この時、信長を支えたのが家康の援軍でした。
これにより、信長は反撃を開始!!
結果、浅井軍は退却し、信長は辛くも勝利を得たのです。
この戦い以降、信長は大きく戦法を変えます。
時間をかけて浅井方の城を包囲し、小谷城の包囲網を築いて行きました。
さらに、浅井に組する武将に調略を持ちかけ寝返りを図ったのが、後の豊臣秀吉です。

1571年9月、比叡山焼き打ち!!
信長は、浅井長政に味方した比叡山を焼き打ちにしました。
その2年後の1571年8月、5万の大軍勢で朝倉滅亡!!
返す刀で小谷城を包囲!!
信長軍の猛攻についに浅井長政は切腹・・・享年29の若さでした。
浅井・朝倉滅亡の後、畿内周辺から信長に敵対する大勢力は途絶えました。
最大の逆境を乗り切った信長は、領土を拡大、天下統一に邁進していきます。

浅井・朝倉滅亡の2年後・・・信長は、当時最強と畏れられた武田軍を撃破することに成功!!
その後信長は、巨大な安土城を築き、天下統一事業に邁進!!
敵対する勢力には周到な準備と圧倒的な兵力で臨み、勝利を重ねていきます。
新しい時代の扉は数多の逆境を克服した男によって開かれたのです。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

あらすじで読む「信長公記」 一級史料に記された織田信長の合戦・城・道楽【電子書籍】[ 黒田基樹 ]

価格:1,430円
(2020/7/8 11:17時点)
感想(0件)

虚像の織田信長 覆された九つの定説 [ 渡邊 大門 ]

価格:1,980円
(2020/7/8 11:18時点)
感想(0件)

常識にとらわれない大胆な発想で、戦国の世に君臨した革命児・織田信長・・・その破天荒な人生を陰で支えた女性たちがいました。
その一人が、下剋上で大名となった斎藤道三の娘として生まれ、信長の正室となった濃姫です。
信長には、正室と8人の側室がいたといわれています。
濃姫は、信長をどう支え、どう生きたのでしょうか?

1535年、濃姫は美濃国で生まれたと伝わっています。
父は、美濃の蝮と恐れられた斎藤道三・・・母は、美濃の名門・明智家の出身で道三の正室だった小見の方といわれています。
濃姫の本名はわかっていませんが、帰蝶と名付けられたともいわれています。
その名の通り、美しく育った娘は、信長に嫁ぐことになるのですが・・・
どうして、信長に嫁ぐことになったのでしょうか?

濃姫にとって信長は、二度目の結婚相手でした。
最初の夫は土岐頼純・・・土岐家は美濃を治めてきた守護大名です。
濃姫の父・道三は、一説には油売りの商人から調略を重ね、仕えていた主人を裏切ることで武将になりあがったとされる人物です。
そうして土岐家の重臣にまで上り詰め、稲葉山城を手に入れたのです。
さらに、守護職を務めていた土岐頼芸を美濃から追い出すことに成功し、実質的な美濃の支配者となりました。
そして、1546年、頼芸の甥である土岐頼純が新たに守護職に就くと、娘の濃姫を頼純に嫁がせ、自らの立場を盤石なものにしようとしたのです。
この時、濃姫13歳、最初の政略結婚でした。
ところが・・・結婚の翌年・・・夫・頼純が24歳の若さで病により亡くなってしまいました。
濃姫は、道三の元へと戻ります。

その矢先・・・道三にピンチが・・・!!
越前の朝倉家と尾張の織田家が南北から美濃に侵攻してきました。
道三は、両軍相手に戦うことは難しいと判断・・・織田家と和睦することに決めました。
そして、その証として、濃姫を織田家の嫡男・信長に嫁がせることにしたのです。
しかし・・・この頃の信長は、派手な湯帷子をまとい、髪を茶筅髷にし、人目もはばからず闊歩するという・・・相次ぐ奇行に”大うつけ”と、家臣や一族たちから疎まれていました。
そんな信長と濃姫の縁組をどうしても実現させたかったのが、信長の傅役・平手政秀でした。
信長は、母・土田御前に嫌われていました。
織田家の後継者として家中で疑問を持たれていたので、平手は信長に家を継がせるためには、斎藤道三という後ろ盾を借りようと縁組を勧めたのです。

織田家と和睦したい父・道三の思惑と、道三を信長の後ろ盾にしたい平手政秀の思惑が重なり、濃姫は織田家に嫁ぐこととなりました。
二度目となる濃姫の政略結婚・・・
嫁ぐ前に、濃姫は父・道三から一本の懐刀を渡され、こう告げられます。

「信長が本当のうつけものだったら、この刀で刺し殺せ」by道三
「わかっておりまする
 でも、もしかしたら、この刀は父上を刺す刀になるやもしれませぬ」by濃姫
「よく申した。それでこそ我が娘よ・・・!!」by道三

隙あらば、尾張を乗っ取ろうと思っていた道三の狙いを理解しながらも、信長が有利と見るや父を裏切るかも・・・
濃姫はまさに、蝮の道三の娘でした。

1549年、濃姫は、尾張の織田家へと嫁ぎます。
濃姫15歳、信長16歳でした。
最初に濃姫と呼んだのは、信長だったといいます。
美濃から来た姫・・・という意味です。

濃姫は、うつけものと呼ばれた夫・信長の奇行に悩まされます。
1552年、信長の父・織田信秀が死去。
その葬儀の際、信長は、遅刻してきたばかりか、いつものように茶筅髷で袴もつけず、そしてずかずかと霊前に向かうと抹香をつかみ、父・信秀の位牌に投げつけたのです。
父とは確執があったといわれる信長ですが、それは憎しみだったのか?それとも悲しみだったのか・・・??
しかし、この奇行によって、信長はまたもや評判を落とします。

夫・織田信長のうつけぶりに悩まされる濃姫に、また悩みが・・・。
今度は、信長が夜な夜な出ていき、明け方戻るようになったのです。
不審に思った濃姫は・・・

「上様が、夜ごと出掛けるのは、どこか別のおなごのところへ通っているからなのでしょうか?」

「なに・・・そのようなことではない。
 実は、美濃の家老で、わしに内通する者がおるのじゃ
 そやつに、舅の道三を殺したら、狼煙をあげよと言ってあっての
 毎夜、その狼煙が上がってないか、見に行っておるのじゃ
 狼煙が上がれば、美濃に攻め込む!!」

これを聞いた濃姫は、父・斎藤道三に密書を送り、危険を知らせました。
知らせを聞いた道三は、すぐさま信長と通じているという家老たちを見つけ、切り殺すのです。
しかし、実はこれは信長の策略で、濃姫が美濃側のスパイとして必ず情報を伝えると見抜いていた信長は、それを逆手に取り、嘘の情報を濃姫に伝え、美濃の内紛を画策したというのです。
この逸話の真相とは・・・??

他家に嫁いだ姫が、折に触れて嫁ぎ先の様子を実家に報告することはよくありました。
が・・・これは創作??
その理由は、この時期の信長の居城が那古野城なので、那古野城から稲葉山城の狼煙は見ることが出来ないことがあげられます。
もう一つは、この時点で斎藤道三の家老が殺された事実がないことが挙げられます。
もちろん、道三と信長が対立する理由もありませんでした。

道三と信長は、強い信頼関係を築いていました。
きっかけとなったのは、濃姫が信長に嫁いだ4年後・・・1553年。
道三は、信長が本当にうつけものかどうか知るために、直接会って確かめることにしました。
会見の場所となったのは、美濃と尾張の国境の寺院・・・
しかし、道三は、会見の前に信長を見定めようと道沿いの小屋に潜んで信長を待っていました。
やがて行列を率いてやってきた信長は、相変らずの茶筅髷・派手な衣装・奇抜な虎皮の袴をつけていました。

「噂通りのうつけよな・・・
 これなら、尾張を我が物にする日も近いのぉ」by道三

ところが、会見の場所で相対した信長は、いつの間にか髪を結い直し、正装に着替えていたのです。
道三は、このたった一回の会見で、信長が只物ではないと見抜きました。
美濃を手に入れるためには手段を選ばなかった道三と、うつけといわれても自らのスタイルを崩さなかった信長・・・2人とも、当時としては常識外れでした。
既成の秩序を壊し、新しいものを作り上げる改革者・・・似た者同士の2人が認め合うのは必然のことでした。
たがいに持つたぎる野心を感じながら、認め合った道三と信長・・・

そんな二人の強い信頼関係が分かる事件が起こります。
1554年、駿河の今川義元が尾張に侵攻・・・緒川城の近くに村木砦を築きます。
しかし、村木砦の攻略に兵を出せば、信長の居城・那古野城ががら空きになってしまう!!
困った信長は、美濃の戦国大名となっていた濃姫の父・道三に援軍を頼みました。
すると、道三はすぐに尾張に1000の兵を派遣!!
信長の居城・那古野城の傍に陣取ると、防備を固めたのです。
戦国時代・・・本拠地を他国の者に守らせるというのは異例のことでした。
道三と信長の関係が、濃姫を通じて固く結ばれていたことを示しています。

これにより、背後を固めた信長は、熱田から海を渡り緒川城に入城。
当時としてはまだ珍しかった鉄砲を用いて砦を攻略し、今川方を降伏させることに成功しました。
この後、道三は家督を嫡男・義龍に譲り出家します。
そして、鷺山城で余生をゆっくりと始めようとしたのですが・・・
その矢先、義龍が実の弟たちを殺害するという暴挙にでたのです。
道三に可愛がられていた弟たちが、自分にとって代わるのではないか?と、恐れたためでした。
これに激怒した道三は挙兵、鶴山付近に陣を置き、息子・義龍と相対します。
しかし、美濃を強引に乗っ取った道三に、不満を抱えていた家臣団が義龍を支持。
義龍軍1万2000に対し道三軍は2000・・・の兵しか集まりませんでした。

道三は、死を覚悟したのか、書状を書き残します。

「もし、わしが死んだら、濃姫の婿・信長へ美濃一国を譲る」

道三の危機を知った信長は、すぐに挙兵します。
信長は美濃の大良河原まで進軍しましたが、義龍軍に行く手を阻まれてしまいました。
そのため、道三は劣勢を跳ね返すことが出来ず、首を落とされ、この世を去ったのです。
父・道三の非業の死を知った濃姫は、悲しみにくれました。
百ヵ日法要の際には道三の肖像画を描かせ、美濃にある斉藤家の菩提寺に寄進したといわれています。

そんな道三の死から4年・・・
1560年、27歳となった信長は、桶狭間の戦いで駿河の今川義元を討ち取り、三河の徳川家康と同盟を結んで背後を万全にすると、いよいよ美濃攻めに乗り出します。
この時美濃は、斉藤義龍の病死によって、息子の龍興が治めていました。
信長は、まず斉藤家の重臣たちの一部を、調略によって味方につけると、1567年、稲葉山城を攻め落とし、念願の美濃を手に入れたのです。
稲葉山城に入った信長は、城の名を岐阜城に改め、ここを天下取りの拠点とします。

岐阜城の麓で、2008年、瓦の破片が見つかりました。
表面に緊迫が施された直径28センチもある飾り瓦でした。
そんな豪華な瓦を用いた建物とは・・・??
ルイス・フロイスの「日本史」によると・・・
”庭園を見た後、信長の妻・濃姫の金で彩られた部屋を見た”と書かれています。
贅を尽くした信長らしい豪華なものだったようです。
普段はこのような屋敷に住んでいた妻も、一旦戦乱となると妻たちも天守に籠り戦いました。
その妻たちの役目とは・・・??

信長の出陣中、濃姫は夫の無事を神仏に祈ります。
しかし、それだけではありません。
合戦で夫たちが城を出ていくと、当然夫が城でやっていた仕事をしなければなりません。
その一つが火の用心です。
女性たちが集まり、台所と中居は火事の火元になりやすいところでした。
また、籠城戦になると、男たちと共に鉄砲玉の製造を行いました。
さらに、女性たちが任されたのが、首化粧・・・。
天守に集められた敵将の首を、水で洗い、その首に誰々が誰々を討ち取ったと記した札をつけていきます。
これは後に褒美を与える論功行賞の際に、誰の手柄化をハッキリさせるためでした。
この時、その首にお歯黒を塗ったといいます。
戦国時代後期になると、戦は熾烈を極め、女子供を含め城中皆殺しとする例が増えていきます。
そうなれば、自ら身を守らねばならず、日ごろから長刀などの訓練を行っていました。
戦国の女性たちは、常に嫁いだ家と運命を共にする覚悟をもって、生きていたのです。

信長と正室・濃姫の間には子供はおらず・・・
そこで信長は、側室を持つことにします。
生涯8人の側室がいたといわれますが、信長から最も寵愛を受けたのが、生駒吉乃でした。
吉乃は、1528年、尾張国・生駒家の娘に生れます。
成長した吉乃は、一説には信長の母の甥の弥平次と結婚、しかし、29歳の時、夫が戦死してしまったのです。
未亡人となり実家に戻っていた吉乃を見初めたのが信長でした。
信長より6歳年下の吉乃は色白で、優しく、控えめな性格だったといいます。
側室となった翌年、1557年に、信忠を出産。
この時信長は、子ができない濃姫をはばかり、城の外でひっそりと産ませたといいます。
信長の寵愛を受けた吉乃は、信雄、徳姫を設けますが、産後の肥立ちが悪く、床に臥せってしまいます。
これを知った信長は、生駒家にこう命じます。

「吉乃を新しい城の御台所として御殿に移すように」

信長は、吉乃を完成したばかりの小牧山城の奥を取り仕切る御台所・・・正室の待遇を与えることにしたのです。
病を押し、なんとか小牧山城に移った吉乃・・・
御台所となってわずか2年・・・1565年、死去・・・39歳でした。

1576年信忠が織田家の家督を譲られ、岐阜城主となります。

織田信長と交流のあった公家・山科言継の「言継日記」によると・・・
信長の美濃攻略から2年後の逸話が記されています。

1569年、信長は斎藤道三の息子・義龍の未亡人に所持する銘品の壺を差し出すように命じました。
すると義龍の未亡人は・・・??

「戦乱のさ中、壺は紛失してしまいました。
 それでもなお差し出せとおっしゃるなら、もはや、自害して果てるしかありません。」

これを知った信長の本妻と呼ばれる女性が擁護します。

「もし、義龍の妻を自害させるのなら、わたくしも自害いたします。」

さらに、斉藤家の重臣たちもこれに繋がり抵抗。
大事件に発展してしまいました。
流石の信長も、本妻の意見を聞き入れて、未亡人の意見を聞き入れたといいます。
この日記に書かれている”信長本妻”とは・・・??
義龍は、濃姫にとっては母違いの兄・・・この時期、織田家のなかで義龍の未亡人をかばうことが出来たのは、濃姫以外にはいません。
つまり、信長が美濃を手に入れた2年後の1569年までは、濃姫は存命で、信長の正室のままだったと思われます。

織田信長の配下には、美濃出身の武将が多く仕えていました。
明智光秀もその一人です。
濃姫の母・小見の方は光秀の叔母に当たり、濃姫と光秀は従兄妹同士だったといわれています。
こうした縁もあってか、光秀は信長に気に入られ様々な任務を任されるようになり、信長の躍進に貢献しました。
しかし・・・1582年6月2日・・・
光秀が京都本能寺に滞在していた信長を襲撃・・・信長は49歳で命を落としました。
信長の家臣・太田牛一の「安土日記(信長公記)」によると、本能寺の変の際、信長が

「女どもは苦しからず 急ぎ罷りいでよ」

そういって女性たちを逃がしたといわれています。
このことから、本能寺には信長の世話をしていた女性たちがおり、その中には濃姫もいて、本能寺で信長と戦い亡くなったといわれています。
岐阜市にある”濃姫遺髪塚”・・・本能寺の変で亡くなった濃姫の遺髪を家臣が持ち帰り、この地に埋めたといわれています。
では、濃姫が本能寺で死んだというのは本当なのでしょうか?

戦国時代の女性が戦場で男並みの働きをした者もいます。
しかし、濃姫の場合は、資料的な裏付けがなく、後世の創作だと思われます。
後世の人々は、濃姫に勇敢な女性像をあてはめたかったのでは・・・??と思われます。

濃姫が本能寺の変で亡くなっていないならば、いつまで生きていたのでしょうか?
それを知る手がかりの一つが信長の家臣・蒲生氏郷の「氏郷記」です。
そこには本能寺の変の際、御台所を安土城から近江の日野谷へ避難させたとあります。
安土の摠見寺にあるとされる織田家の過去帳には、信長の正室が1612年に78歳で亡くなったと記されています。
これが事実ならば、濃姫は本能寺の変の後、30年ほども長生きしたということになります。
しかし・・・御台所としか書かれていないので、濃姫であるという確証はありません。

濃姫は、1573年には亡くなっていたと思われています。
その根拠となるのが、濃姫の実家である斎藤家とゆかりの深い、快川紹喜の「快川和尚法語」です。
そこには、濃姫とみられる女性(雪渓宗梅大禅定尼=濃姫)が側室・吉乃の死から8年後の1573年に亡くなったと記されているのです。
つまり、本能寺の変の9年前に、濃姫はすでに亡くなっていた・・・
では、本能寺の変の際に登場する御台所とは・・・??お鍋の方であった可能性が高いと思われます。
信長の葬儀の際に、秀吉から信長の位牌を受け取ったのもお鍋の方と言われています。
岐阜の崇福寺には、信長の位牌場をこの場所にするようにという指示を出したお鍋の方の書状が残されています。
これらのことから、正室・濃姫が亡くなった後、お鍋の方が織田家を取り仕切る御台所となっていたことが推測されます。

戦国の乱世、蝮の道三の娘として生まれ、織田信長に嫁いだ濃姫・・・
夫の最期をみとることはできなかったかもしれません。
しかし、若き信長が天下人へと駆け上がっていく、最も大切な時期を身近で支えた女性であったことは確かなのです。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

「新説 本能寺の変 明智光秀 帰蝶の物語」

新品価格
¥1,115から
(2020/6/13 08:24時点)

信長協奏曲 DVD-BOX

新品価格
¥22,593から
(2020/6/13 08:25時点)

経済で読み解く織田信長 [ 上念司 ]

価格:1,199円
(2019/1/13 22:40時点)
感想(4件)



群雄割拠の戦国時代、並み居る強敵を退けて天下統一に王手をかけたのが織田信長です。
しかし、その戦績を見ると・・・
上杉謙信・・・64勝8敗36分
武田信玄・・・54勝6敗22分
織田信長・・・151勝42敗9分
と、負け戦が多いのです。

どうして信長は戦国の世を征することができたのでしょうか??
その理由は旗印にありました。
描かれているのは・・・「永楽通宝」・・・どうしてお金を旗印にしたのでしょうか??
それは、銭の力で天下を取る・・・信長の圧倒的な力は経済力だったのです。

1559年尾張国を平定した織田信長は、桶狭間の戦いで駿河・遠江を支配する今川義元に勝利し、天下に名をとどろかせます。
その勢いはとどまることを知らず、美濃の斎藤龍興を責め難攻不落と言われた稲葉山城を制圧!!
岐阜城と改めて新しい居城としました。
天下統一に邁進する信長・・・この時34歳!!
しかし、まだまだ並の大名にすぎず、武田信玄や上杉謙信の足元にも及びませんでした。

1568年、室町幕府の再興を願う足利義昭から支援を要請された信長は、義昭を擁して上洛。
6万もの兵を以て京を制圧し、義昭を15代将軍に就任させます。
大いに喜んだ義昭は、褒美をとらせることに・・・

「此度の礼として畿内5か国の管領に任ぜよう」by義昭

信長にとっては大変な出世でしたが・・・「身に余ること」と辞退してしまいました。

義昭は・・・「管領で不足ならば、副将軍ではどうじゃ」

それでも信長は首を縦に振りません。
何が欲しいのか・・・??

「堺・大津・草津に代官を置かせていただきたい」by信長

代官を置くとは、直轄地にすることで・・・義昭はそれをあっさりと認めました。
どうして信長は副将軍の座より3つの町を選んだのでしょうか??

足利将軍に取り入れられることを拒否し、銭の力で天下統一を果たそうとするマネー戦略の一つでした。

信長のマネー戦略①地位より港町
堺は、日本最大級の港町で、物流の拠点でした。
日明貿易や南蛮貿易の外国船も数多く入港し、国際商業都市として大いに発展。
それは、京都をもしのぐ繁栄と言われ、フランシスコ・ザビエルは
「日本の殆どの富がここに集まっている」と言っています。
一方、大津と草津は、琵琶湖水運港町でした。
当時、京都と日本海を行き来するためには、琵琶湖水運で船を使うのが一般的でした。
そのため、大津と草津には、常に多くの人や物が出入りしていたのです。
信長が、義昭に所望した場所は、いずれも物流の拠点となる港町でした。
当時は、船の積み荷に関税を課していました。
大きな港となれば、莫大な関税収入を得ることができました。
これが、信長の軍資金となりました。
越後の上杉謙信の場合、柏崎港と直江津港からの関税収入は、年間4万貫・・・約60億円でした。
堺や大津などは、莫大になったでしょう。
副将軍より三つの町を選んだ理由は、港町からの莫大な税収を、軍資金にして天下を取るためでした。

1534年、信長は尾張国守護代重臣の織田信秀の長男として生まれます。
守護代とは、守護大名を補佐する立場で、尾張には二人いました。
信秀は、その守護代のひとりに仕える重臣のひとりにすぎませんでした。
信長が生まれた頃から急激に勢力をつけていきます。
そこには圧倒的な経済力がありました。
信秀は、勝幡城近くにある津島近くの港町を支配下に置いていました。
木曽川沿いの津島は、伊勢湾水運の要所で、多くの船が出入りしていました。
信秀は、ここに出入りする船に関税をかけ、莫大な収入を得ていました。
さらに信長が生まれた年には古渡城を築城、それによって伊勢湾水運によって栄えていた熱田湊の関税収入を手に入れます。
すると信秀は、伊勢神宮の下宮の仮殿造営費のために700貫(1億円)を献上。
四千貫(6億円)を京都御所の修理に献上。
圧倒的な経済力を相手に見せつけることで圧倒!!
ついに、尾張国の実質的支配者となるのです。
そんな父を見て育った信長は、「武力に勝るものがある」ことを、知っていたのです。

1560年、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った翌日、信長は清須城で論功行賞を行いました。
真っ先に一番槍をつけた服部春安か、一番首の毛利良勝が一番手柄だろうと考えていました。
ところが、信長が一番の褒美を与えたのは戦場では目立った活躍もしていない簗田政綱でした。
簗田は信長への情報提供・・・戦った武将たちよりも情報を届けた簗田の方が手柄が上だと考えたからです。
戦国の世に置いて、武力だけにとらわれない信長は、革新的な経済政策を打ち立てていきます。

信長のマネー戦略②楽市楽座

美濃国の戦国大名・斎藤龍興を退けて岐阜城に入った信長は、1568年に岐阜城下に「楽市楽座令」を発布します。
「市の独占、座の特権は全く認めない」
市=商売を行う場所のこと。
当時は、定められた市でしか商売ができず、一の多くは寺社の境内や門前に開かれることが多く、商人たちは寺子銭(場所代)を払わなければなりませんでした。
座=商品の独占販売権を持つ同業者組合のこと。
商人たちはどこかの座に所属しなければ商売ができませんでした。
座を保護している公家や寺社に冥加金(売上税)を払わなければなりませんでした。
信長はこれらを自由化してどこでも商売ができるようにし、以前よりも安く設定した売上税のみを信長側に支払うように命じました。

楽父楽座は、南近江の戦国大名・六角義賢が観音寺城で始めたもので、信長よりも20年ぐらい早く始めていました。
更に進化したものを行った信長です。
信長の経済改革によって岐阜城下には多くの商人が集まりました。
経済は活性化し、城下町が急速に発展!!
信長には売上税ががっぽり!!
しかも、城下町のおかげで人材や物資の確保がしやすく、天下取りの土台と考えていました。

この楽市楽座には、信長の大いなる野望が隠されていました。
”天下布武”という言葉の意味は・・・
鎌倉時代以降の日本は、公家、寺家、武家の3つの権門がけん制し合っていました。
公家や寺家が莫大な税収に寄って武家に対抗できる大きな権力を持っていたのです。
信長は、公家や寺家の介入を許さない、純粋な武家政権の樹立を目指していました。
公家や寺家の既得権益を奪い、経済力を低下を図ったのです。
そして、商人たちを信長の味方につけることに繫がりました。

さらに関所を撤廃。
これもまた天下布武のためには外せません。
戦国時代の関所は税関で、公家や寺社が自領の荘園内を通る道に勝手に関所を設けていました。
通行税を課して、大きな収入源としていたのです。
そのため、関所の数は膨大で・・・
荘園が入り組んだ淀川河口から京都までの50キロの間に、380カ所もありました。
ひどいところでは、1里の間に40カ所もありました。
行商人は大変で・・・上乗せした値段が高くて商品が売れないという悪循環も・・・
そこで信長は、1568年頃から関所の撤廃を始めます。
公家や寺社の資金源を断ち、商品をスムーズに動かし経済を動かしました。

信長のマネー戦略③交通インフラの整備

戦国時代、通常戦国大名たちは敵を警戒して居城辺りはわざと悪路にしていました。
橋も架けない・・・そんな常識を・・・
1574年、命令を出しています。
・入り江や川には船を並べた上に橋を架け、意志を取り除いて悪路をならせ
・本街道の道幅は、3間2尺(約6.5m)とし、街路樹として左右に松と柳を植えよ
・周辺の者たちは道の清掃と街路樹の手入れをせよ

交通インフラの整備によって商品流通を活性化させ、財を成した商人たちから多くの税を集めることが目的でした。
道を通りやすくすることで敵に攻められやすくなる・・・そのことを、圧倒的な経済力によって強化しました。

兵農分離・・・当時の多くの兵士たちは、半農半兵の地侍でした。
普段は村に住んで田畑を耕し、合戦が始まると戦場に駆り出されていました。
そのため、農繁期の秋には出陣もままならず、長期遠征も困難でした。
「戦に専念できる兵士が欲しい」
そこで、信長が目をつけたのが、地侍の次男、三男でした。
当時は調子相続が原則で、次男、三男は長男が亡くなった時の控えで、家を継ぐことはありません。
そんな次男、三男を召し抱え、親衛隊を結成しました。
親衛隊が活躍すると、兵農分離を強化します。
召し抱えた兵士たちを城下町に住まわせて、武器ごとに集団訓練をさせます。
高い組織力と機動力で強くなっていきました。
農業からから切り離した兵士たちに生活費を支給しなければならない・・・経済的な負担は大きいものでしたが、それを実行できたのは、信長が様々な税によって収益を得ていたからです。
信長の経済力がなさせた・・・天下統一への大きな要因の一つでした。

火縄銃・・・信長が10歳の時、1543年にポルトガルから種子島に伝来。
しかし、強力な新兵器としてみなが興味を示すも普及しませんでした。
その理由は・・・
①弾を込めるのに時間がかかる
②非常に高価だった
からです。
鉄砲1挺=1丁30金・・・およそ50万円しました。
信長は、鉄砲を重視していました。
19歳の時に引き連れていた親衛隊は、500挺の鉄砲を持っていました。
そして、その鉄砲が活躍したのは、織田・徳川連合軍と武田勝頼軍が激突した長篠の戦いでした。

兵の数こそ織田・徳川軍が大きく上回っていたものの、武田軍には戦国最強の騎馬軍団がいました。
そこで信長は、今のお金で15億円という大金を使って3000挺の鉄砲を購入し、騎馬軍団に対抗しました。
一発撃つごとに先頭を交代し、連射を可能にしたともいわれています。
これによって長年の宿敵・武田軍を撃破!!
天下取りに大きく近づきました。
強大な経済力と境を手に入れていたこと・・・この二つが鉄砲を大量に手に入れることができた理由でした。
堺は鋳物文化が盛んであったこと、そして日本では作ることのできない火薬である硝石を手に入れやすかったことが、信長が鉄砲を存分に使えた理由でした。

信長のマネー戦略が武力に勝った瞬間でした。
その経済力のたまものの兵器・・・鉄鋼船です。
1570年、寺社勢力を削ごうとする信長に対し、石山本願寺の蓮如が立ち上がります。
各地で一向一揆が勃発!!
激闘を繰り広げるも、蓮如は次第に追いつめられていきます。
すると・・・中国地方の有力大名の毛利輝元に援助を要請!!
毛利水軍700艘を本願寺に・・・補給のために大坂湾に差し向けます。
信長は、これを阻止する為に300艘を大坂湾に・・・しかし、あえなく撃退・・・。
毛利水軍焙烙火矢(焼夷弾)によって多くが焼かれてしまいます。
信長は、配下に置いていた伊勢志摩水軍に燃えない船を作れと言明!!
こうして作られたのが鉄鋼船です。
全長23mの巨大な船でした。
当時、鉄鋼は高価なので、船全体に貼ることは莫大なお金が必要でした。
それを作ってしまった信長・・・経済力は相当なものでした。
この頃、鉄鋼船は世界中にどこにもなく、信長が初めてでした。
鉄鋼船は、焙烙火矢にはびくともせず、多数の銃を搭載していたので圧倒的な力で毛利を撃退!!
2年後の1580年には石山本願寺が降伏しました。

信長のマネー戦略④居城の移転
一所懸命・・・当時の武士たちは一つの場所でその土地を命をかけて守るというものでした。
そして、その土地をめぐっての戦いで・・・土地が最も大切でした。
そのため、自分の土地を離れる者はおらず、武田信玄、上杉謙信も一度も城を移してはいません。
しかし、信長は那古野城、清須城、小牧山城、岐阜城、安土城と、4回も城を変わっています。
理由は・・・22歳の時父から譲り受けた那古野城から清須城に移転したのは、清州が尾張国の中心だったからです。
8年後に小牧山城に移ったのは次の侵略目標の美濃に近いからでした。
美濃を攻略するとそのまま岐阜城に。
次には安土城に・・・更なる領地拡大の拠点とするため、最前線に城を築いたのです。
兵農分離のなせる業でした。

新しく城を築くには、莫大なお金がかかります。
城下町を拡大すれば、経済が活性化し、税収がアップする・・・城下町を作り、拡大し、より多くの税収を集めるために居城を移転しました。
満を持して・・・安土城!!
1576年1月・・・信長は標高200メートルの安土山に築城を開始。
この時43歳でした。安土を選んだ理由・・・
中京経済圏、近畿経済圏の両方に目を光らせ、琵琶湖を使えば京都に半日で行けること。
中山道、近江商人と伊勢商人が行き来する八風街道・・・商品流通の要所・・・経済的な発展も狙っていました。
城下町も整備し、商人たちの誘致にも知恵を絞ります。
「安土山下町中掟書」には・・・
・城下町を楽市楽座とする
・往来する商人は必ず安土に立ち寄らなければならない
・他所からに転入者も従来からの住人と同じ恩恵が受けられる
・馬の流通は安土で独占する

人々を呼び集めるために政策が書かれていました。
城にも・・・完成した安土城は七層の壮大なものとなりました。
最上階は内も外も金で輝いていたといいます。
信長はこの城を、盂蘭盆会でナイトアップ!!
人々は集まり、信長の威厳と力を目の当たりにしました。
信長は、安土を京都や堺に並ぶ大都市に成長させました。
天下統一がなされたときには、安土に遷都を考えていました。
安土城には天皇を迎えるための御幸の間がありました。
そして、その御幸の間は信長の天主よりも低いところにあったのです。
天皇をも凌駕する存在になろうとしたのでは・・・??
お金の力で天下を取る・・・それを現実のものにしようとしていた信長・・・
1582年6月2日、京都本能寺で明智光秀に襲撃されあえなく死去。
光秀は、天皇をも超える存在になろうとしていた信長を危惧し、今何とかしないと大変なことになる・・・そう考え謀反を起こしたともいわれています。
巧みな経済感覚で時勢を追い、戦乱の世を征した信長でしたが、光秀の心までは読めませんでした。


↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

【中古】 織田信長のマネー革命 経済戦争としての戦国時代 / 武田 知弘 / ソフトバンククリエイティブ [新書]【ネコポス発送】

価格:1,124円
(2019/1/13 22:40時点)
感想(0件)

ウッディジョー リアル木製模型 安土城 織田信長 日本製模型 木製 1/150サイズ 150分の1サイズ 木製模型 模型 木製 城 木製 模型 キット 木製模型キット 日本製 インテリア 詳細再現 自由研究 コレクション ジオラマ

価格:31,110円
(2019/1/13 22:42時点)
感想(0件)

斎藤道三と義龍・龍興 戦国美濃の下克上 (中世武士選書) [ 横山住雄 ]

価格:2,808円
(2017/10/5 08:43時点)
感想(0件)


標高329メートルの金華山山頂にそびえる岐阜城は、織田信長が天下取りの足掛かりとした城です。
しかし、その前は、稲葉山城とよばれ、その主は美濃のマムシと恐れられた戦国大名・斎藤道三でした。
一介の油商人から大名になった下剋上の代名詞です。

11年もの長きにわたった応仁の乱・・・全国を争乱の渦に巻き込んだこの戦いは、足利幕府の権威を失墜させ、守護の力を弱めてしまいました。
そんな不安定な情勢の中、実力で下のものが上のものにとって代わる下剋上の時代がやってきました。
そこに登場したのが斎藤道三です。

道三の出自ははっきりしていませんが、京の都・山城の地侍の子として1494年に生まれました。
11歳で出家して京都・妙覚寺で修業したとされています。
しかし、その傍らで軍略書を読み、兵法を勉強していました。
武士として名をあげたい・・・野心を抑えきれずに還俗!!
油商人の入り婿となり、庄五郎と名乗ると、全国を渡り歩き活躍の場を探します。
そんな中、今日に近い交通の要所・美濃国でチャンスが訪れます。
この時、美濃を治めていたのが守護・土岐政頼。
守護である政頼は、弟である頼芸と家督相続でもめていました。
政頼には守護代に美濃の斎藤家が、頼芸には重臣の長井長弘が付き、土岐家は分裂!!

大きく揺れる土岐家・・・
道三は、商売をやめて槍の猛特訓をし、槍使いの名人となり長井長弘に仕える道三。
やがて頭角を現し、出世し、ほどなく頼芸の直臣となります。
しかし、それでは満足できない道三。
狙いは美濃の国を手に入れること。
その野望を叶えるために、次々と邪魔者を排除していきます。
まず、土岐頼芸をそそのかしてクーデターを起こし、政頼と斎藤家を追放!!
その後、自分を最初に取り立ててくれた長井長弘を殺害!!
主君である頼芸までも追放!!
僅か一代で美濃を乗っ取ってしまいました。

しかし、この一大国盗り話はウソ??

「六角承禎条書」の中に・・・
「新左衛門尉 京都妙覚寺の修行僧にて、長井弥二郎に仕える」とあります。
新左衛門尉とは、斎藤道三の父のことです。
つまり、僧侶から油商人となり、長井家の家臣となったのは道三の父親の経歴でした。
多分、頼芸を担ぎ出し、政頼を追放したのは父で・・・美濃の国盗りは、道三と父との二代でのことだったのです。
道三の資料はほとんど残されていませんが、この文書が書かれたのが道三の死後の4年後なので、信憑性があります。

父の地盤を元に、国盗りに邁進していく道三。
1533年、父・新左衛門尉 死去。
家督をついだ道三の下剋上が始まりました。
最初のターゲットは、頼芸の重臣であり、自分を取り立ててくれた長井長弘!!
長弘が道三のことを疎ましく思うようになっていたのです。
というのも、頼芸が弁の立つ道三の傀儡になりつつあったので、長弘は危機感を感じていました。
道三の調略は手が込んでおり、一説には長弘に美女をあてがい遊興に溺れさせ、政務怠慢でその信用を落としていきます。
そうしたうえで道三は頼芸に、「長弘に謀反の意あり」と、讒言!!
上意討ちの許可を取り付けて殺害!!
非情にも、かつての主で恩人の首を斬ったと言われています。
長井家を乗っ取り、居城だった稲葉山城を手に入れたのです。

さらに、追放した斎藤家の名跡を継ぎ、それ以来斎藤道三と名乗るようになりました。
実質的な美濃のNo,2となった道三は、頼芸の弟・頼満を娘婿に迎えます。
姻戚関係を結ぶことで、土岐家をも乗っ取ろうとしていたのです。
しかし、婿に入った頼満は、道三の危険性を感じており、道三の排除を画策しますが、道三に気付かれてしまいました。
頼満を毒殺!!マムシの道三なのです。
そんな道三の新しい敵となったのが、尾張・織田家!!
信長の父・信秀が、稲葉山城の道三に戦を仕掛けてきました。

織田軍の兵2万VS道三の兵数千・・・。
調略に暗殺・・・邪魔者をことごとく排除してきた道三、次なる敵は織田!!
ところが、その圧倒的な状況の中・・・
織田の軍勢は稲葉山城に詰め寄り、城下を焼き払いました。
それでも、城に籠った道三に、怖気づいたか・・・と、信秀は勝利を確信し、日暮れにいったん兵を下がらせました。
道三はこの時を待っていたのです。
買ったも同然と気が緩んだ織田軍に、奇襲をかけ、僅かな兵で勝利を収めます。
一説には、織田一族、十院など、5000の兵が討死したともいわれています。
この時道三は、織田の家臣に謀反を起こさせて兵を退かせたり、調略で勝っていくという戦略化でした。
この織田家との戦いで、土岐家に代わって道三は美濃の実権を握ったのです。

1548年、織田信秀から和睦の要請が・・・。
織田家は、道三との戦で多くの犠牲者を出し、疲弊していました。
さらに、織田信秀はこの時、今川義元とも戦っていて負けていました。
同時に二つの戦いは・・・と、手を結ぼうと思ったのが道三でした。
道三は織田との和睦を受け入れ・・・娘・濃姫を信秀の息子・信長に嫁がせようとしたのです。
この時、信長15歳でした。
帝王学を学ぶために、那古屋城の城主となり、家老・平手政秀によって養育されていましたが・・・
この頃は、大うつけとして、一族、家臣、城下のものたちにまで疎まれていました。
道三は、濃姫に短刀を渡します。
「隙あらば、信長を討て!!」と。
事実はわかりませんが、マムシの道三、織田家の乗っ取りを企てていたかも・・・??

織田家と同盟を結び、盤石な備えを築いた斎藤道三は、国盗り最後の仕上げに取り掛かります。
主君・土岐頼芸を追放し、遂に念願の美濃一国を手に入れたのです。
その矢先・・・織田信秀急死。
これによって19歳だった信長が後を継ぐこととなりますが、家臣からは不満の声が・・・
織田家当主の自覚が微塵もないうつけ者・・・。

そこで、道三は会ってみることに・・・。
これは当時としては異例のことでした。

1553年4月、場所は、美濃と尾張の境にある寺でした。
道三は対面を前に、信長が通る道沿いの小屋から信長をうかがうことに・・・。
行列を率いてやってきた信長は、髪は無造作に結び、奇抜な虎皮の袴に奇抜な着物でした。
噂通りのうつけ??
尾張を手にする日も近い・・・??
しかし、供のものは・・・6mを越える長槍を装備した兵が連なっていました。
甲陽軍鑑には・・・
「信長の戦い方は、父の信秀を少しも真似ず、斎藤山城守の戦法を真似ようとしていた。」とあります。
斎藤山城守とは、道三のこと。
長槍を使った戦法は、道三が最も得意としたとされ、当時としては新しい戦法でした。
この頃の戦い方は、大将の周りには馬廻が、その周りには防御役の足軽が導入され始めていました。
しかし、足軽の武器は様々で、防御に不向きです。
そこで、彼らに長槍を持たせ、防御(槍衾)としたのです。
信長はこの道三の戦法を真似ることで、新しい時代に対応したのです。
そしてさらに・・・鉄砲隊!!
信長は、500挺近い鉄砲を携えてやってきたのです。

いよいよ対面・・・!!
対面の場に後れてやってきた道三はわが目を疑います。
信長はいつの間には髪を結い直し、正装に着替えていたのです。
キチンと挨拶をする信長・・・。
平然と信長と杯を交わす道三・・・道三の目に、信長はどのように映ったのでしょうか?

「どう見ても、信長殿は阿呆でございますなぁ」by家臣
「だから無念なのだ。
 この道三の息子どもが、必ずあの阿呆の家臣となるであろうよ。」by道三

道三は、このただ一度の対面で、信長がただ者ではないと気づいたのです。
既成の秩序を壊す改革者として・・・!!
この時、道三60歳、信長はまだ20歳でした。
同盟関係以上の強い絆で結ばれることとなる二人です。

翌年・・・今川義元が尾張を我が物にしようと侵攻を始めました。
これを食い止めるために出陣しようとした信長、しかし、留守中に那古屋城が攻められることは必至!!
そこで、同盟相手であり舅の道三に助けを求めます。
道三はこれに応じ、重臣・安藤守就を尾張に派遣します。
信長がこの戦に負ければ、道三は尾張を攻め、奪うつもりだったと言います。
ところが、その考えを変える出来事が・・・それは、信長の行動でした。
信長は、安藤の援軍が来ると、本拠地である那古屋城近くに陣を張らせ、那古屋城を預けたのです。
自分の本拠地の城を預ける・・・??
それは、道三との信頼関係を内外に示すためのものでした。
城を出た信長は、今川軍の砦に急いで向かいます。
最新鋭の鉄砲隊と共に信長も前線で戦い、今川軍を僅か1日で撃退!!
美濃へ戻った安藤は、他国の援軍に城を預ける信長の大胆さと、その巧みな戦いぶりの一部始終を道三に報告します。
「敵にすれば、信長ほど恐ろしい武将はおるまい・・・!!」by道三
こうして、道三は織田の領地を奪うことより、信長との関係を強固なものにする道を選んだのです。

しかし・・・これがマムシの道三の足元をすくうことに・・・!!

1554年、美濃国を手に入れてからわずか数年で、長男・義龍に家督を譲ります。
稲葉山城を離れ、鷺山城に入って隠居。
しかし、その翌年、事件が起こります。
病を装い床に臥せていた義龍が、二人の弟たちを殺害してしまいました。
義龍の謀反に道三は激怒!!
どうして息子・義龍は、道三に対して謀反を起こしたのでしょうか?

義龍の母は、道三の正室・深芳野です。
元々は、道三が追放した土岐頼芸の側室で、道三のもとに下げ渡された拝領妻でした。
一説によると、その時深芳野のお腹には頼芸の子がおり、その子が義龍だというのです。
成長して自分のことを知った義龍は、道三を恨んでいたというのですが・・・
これは創作で、別の理由がありました。
道三は、義龍に譲ったものの、ゆくゆくは次男にと思っていたのです。
義龍は、本ばかり読んでいる物静かな、道三とは正反対の息子だったからです。
道三→義龍への家督交代は、家臣たちによって強制的になされていました。
道三によって戦いに明け暮れていた美濃国内は、疲弊しきっていました。
国を治めるという面では、道三は優秀ではなかったのかもしれません。
国内には、まだまだ土岐家の勢力が残っており、その勢力をなだめるための家督交代だったのです。
ゆくゆくは次男に家督を・・・それを義龍は察していたようです。
それ以外にも、道三が信長に肩入れしているということに、義龍も不満を持っていたようです。

義龍の謀反に激怒した道三は、兵を挙げます。
長良川を挟んで対峙する両軍!!
知らせを受けた信長は、道三を助けるべく美濃へ・・・!!

1556年4月20日、長良川の戦い!!
およそ1万7000の義龍軍に対し、道三は僅か2000!!
この時点では、道三は隠居しているので、道三を支持する者はほとんどおらず、まるで道三が反乱軍のようになってしまいました。
道三危うし!!の知らせを受けた信長は急ぎ美濃へ・・・!!
しかし、その途中、義龍の別動隊に行く手を阻まれてしまいます。
突破を試みるも苦戦!!
そこへ知らせが・・・!!
斎藤道三討死!!63歳、無念の死でした。

義龍との決戦前夜、遺言状を認めていました。

「美濃国も、ついに織田信長の想いのままに任せるほかはないので、譲状を送りつかわした次第である。」

道三は、後継者に信長を指名していました。

すべては夢のようだ・・・
終の住処はどこになるのだろうか

道三は死を覚悟していました。
野心のままに非情な裏切りと謀略を繰り返し、下剋上によって一国を手に入れた・・・そんな人生を夢のようだと振り返り、そののちは安らかではないこともわかっていました。
道三の死から11年、信長は道三の遺言状を大義名分として美濃を攻め、斎藤家を倒し美濃国を手に入れます。
稲葉山城に入るとその名を岐阜城と改めました。
この時から信長は命令書に「天下布武」の印を使うようになります。
信長はこの美濃から天下統一へと歩み出したのです。

道三が託した男に間違いはなかったのです。



↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

国盗り物語(一~四) 合本版【電子書籍】[ 司馬遼太郎 ]

価格:3,748円
(2017/10/5 08:44時点)
感想(0件)

【新品】【本】戦国大名県別国盗り物語 我が故郷の武将にもチャンスがあった!? 八幡和郎/著

価格:864円
(2017/10/5 08:44時点)
感想(0件)

<今川義元と戦国時代>今川家の屋台骨 太原雪斎と岡部元信 (歴史群像デジタルアーカイブス)



1560年5月19日、織田信長率いる2000の軍勢が、今川の本陣を奇襲しました。
桶狭間の戦いです。
この時、2万5000の大軍を率いていたにもかかわらず、討ち取らてれしまった武将が、今川義元です。
トレードマークは白塗りにお歯黒の公家風メイク。。。輿に乗っての進軍でした。

今川家は、足利将軍家から分かれた名門です。
その始まりは、室町時代初頭・・・
1338年、今川範国が駿河国守護職に任ぜられ、やがて隣国の遠江をも治めるようになります。
時を経て・・・7代当主今川氏親・・・その5番目の男子として1519年に生まれたのが義元です。
義元6歳の時、父が亡くなり、長男・氏輝が後を継ぐことに・・・。
しかし、まだ14歳だったので、その母・寿桂尼が後ろ盾となって政治を司ることになりました。
義元の母でもある寿桂尼は、京都の公家の出ですが、今川家の政務をとったことから”女戦国大名”と呼ばれました。
義元は・・・5男だったので、早くから出家し、栴岳承芳と呼ばれていました。
そんな義元の教育係となったのが、太原雪斎。
義元は、雪斎と共に京に上り、建仁寺などの禅宗の寺院で格式を高めていきました。
この頃の義元は・・・京都の知識人と交流し、かなりの教養を身に着けていたようです。
一僧侶として生きる予定だった義元・・・
1536年、義元18歳の時、偶然にも同じ日に、兄である氏輝、次男・彦五郎が病死しました。
氏輝には跡継ぎが居なかったので、残った弟たちの中から跡継ぎを決めることになりました。

四男は、家督争いに加わりません。
六男は、尾張今川家の養子となっておりすでにそちらの家督を継いでいました。
残るはともに出家していた三番目の兄・玄広恵探と義元だったのです。
恵探の母親は、側室で今川家の有力家臣・福嶋氏の娘でした。
ちなみに義元の母は、正室の寿桂尼。
義元になりかけていましたが・・・恵探の母方の福嶋氏が大反対!!
今川家を二分するお家騒動が勃発しました。

が・・・寿桂尼は恵探の元へ・・・。
寿桂尼は、実の息子を裏切ったのでしょうか??
この頃既に、義元は将軍足利義晴から家督を継ぐことを承認されていました。
寿桂尼が恵探に足利家からの注書・・・覚書を見せて説得したようです。
しかし、その注書をを恵探に奪われてしまいました。
寿桂尼もこの時抑留されたのだとか・・・。
注書だけでなく、母も奪われてしまった義元は、すぐさま恵探派を襲撃!!
1536年花蔵の乱・・・今川家を二つに分ける内戦の始まりでした。
義元軍は、恵探派が籠る方ノ上城を攻撃!!
すると恵探は、難攻不落の花倉城へと逃げていきました。
しかし、この鉄壁の守りも、義元家臣・岡部親綱によって破られます。
見事母と注書を奪還!!
恵探は城を捨てて逃げますが・・・その途中、「もはやこれまで!!」と、自刃したのでした。
兄・江探の死によって、熾烈な家督争いは終わりを告げたのでした。
こうして義元は、1536年、9代当主となるのです。

駿河と遠江を治めていましたが、三代当主の頃、遠江を斯波氏に奪われてしまいました。
それ以来、遠江奪還は今川家の悲願でした。
そのカギを握っていたのは井伊家でした。
井伊家は遠江・浜名湖北岸の井伊谷の国人領主で、後におんな城主となる直虎になるまで因縁は続きます。
遠江を取り戻そうと侵攻する今川に対し、斯波氏について抵抗する井伊・・・。
しかし、1513年、井伊家の支城・三岳城が落城・・・井伊は屈服しましたが、それは表面上のことで、その支配はまだ安定していませんでした。
そんな中、今川の家督を継いだのが義元でした。
井伊家支配の強化に動き出した今川・・・遠江・・・そして、三河に進出する為に、井伊家を取り込もうとしたのでした。


井伊家に飴と鞭を使う今川・・・。
奪い取った三岳城を返却し、井伊谷に駐留していた兵を引き上げ、国人領主としての地位を保証します。
温情を見せておいて、当主・直平の娘を人質に出すように命じます。
ちなみに、この娘の産んだ娘が、後に家康の正室となる築山殿です。
こうして、井伊家の支配を強化した義元は、井伊家を利用していきます。

井伊家は今川にとって外様なので、戦になると一番危ないところ・・・
井伊家も早く手柄を立てて忠誠を誓わなければなりませんでした。
井伊家を配下に置くことに成功した義元は、更に三河へと侵攻していきます。
1546年、東三河・今橋城攻略。
この三河進出に刺激されたのが、尾張の織田信秀です。
早速、西三河の岡崎城に攻撃!!
自力で織田と戦う力のなかった松平広忠は、義元に援軍を求めてきました。
義元はこれを利用・・・援軍の代わりに、広忠の嫡男・竹千代を人質にと、命じたのです。
この竹千代こそ、後の徳川家康で、まだ6歳でした。
こうして義元は、松平家の後ろ盾として参戦。
三河から織田方を排除することに成功しました。
人質を取られていた松平家は、今川配下につくしかなく、西三河も義元のものに・・・
したたかかつ、巧妙な外交手段によって、駿河・遠江・三河の大大名となったのです。

着実に領土を広げていく義元・・・そこにいたのは、軍師・太原雪斎でした。
太原雪斎の支えもあって、東海三国を制した今川義元は、領土拡大のためにさらに西へ進出!!
しかし、そのためには、退路を安全にしておかなければなりません。
北には甲斐・武田、東には相模・北条氏康が・・・義元は彼らとの同盟を画策します。
1552年11月、武田信玄の息子には自分の娘を嫁がせます。
この時、信玄は、宿敵・上杉謙信との戦いで背後を安全にしておきたかったのです。
武田は、上杉と敵対していた北条と姻戚関係を結びます。
これによって間接的に北条との間にも同盟が結ばれたことに・・・
念には念を入れて・・・1554年7月、嫡男と氏康の娘を結婚させます。
これは、単なる不可侵条約ではなく、合戦になった場合の援軍という甲相駿三国同盟でした。

例えば・・・1555年の第2次川中島の戦いでは、今川の家臣が武田の援軍として出陣しています。
さらに合戦が膠着状態になると、義元が和平案をあっせんします。
信玄、謙信に匹敵する力を持っていた義元・・・
やがて海道一の弓取りと呼ばれるようになります。

1553年「仮名目録追加」21か条を制定します。
”今川家は自らで法を定め、領民の生活を守っている。
 よって今川以外の権勢がわが領内に及んではならない。”
この頃は・・・守護大名は、室町幕府から任命されて、地方を治め、指示されていました。
そんな幕府の支配を離れ、戦国大名となることを宣言したのです。

自信に満ちた義元は、次々と計画を実行に移していきます。

①検地・・・田畑の広さと収穫量を調べる検地を徹底させます。
山地の多い今川領は推定50万石・・・一国で50万石の尾張と比べると、その差は歴然です。
そのため、別の方法で収入を増やす必要がありました。

②課税・・・田畑の段銭、家屋ごとの棟別銭を領民から徴収し、税収を安定させます。

③金山開発・・・安倍川上流にあった金山に目をつけます。
今川領には金山が無数に点在しており、そこから産出される豊富な金は、大きな収入源となりました。

領国経営のモデルとなった武将・今川義元。
先駆的な経営によって、石高は、50万石から100万石へ・・・!!
義元はこれを戦の資金源として西を目指すのです。
そして今川家は黄金時代を迎えるのです。
駿府は、今でも京都と同じ名のスポットがたくさん残っています。
京都には多くの公家が滞在し、母の寿桂尼が公家出身だったこと、義元自身も京都にいたこと・・・
能や茶の湯をたしなみ、和歌は今川家のお家芸となっていました。
今川家の歌会始には、一族、重臣だけでなく、公家も招かれ、たいへん華やかでした。
だから公家風の装いな義元なのです。

1560年5月12日、今川義元は2万5000の兵を率い、自ら陣頭指揮を行い、東海道を西に登っていきます。
この時、義元が動員した2万5000は、当時としては桁外れ!!
迎え討つ織田信長は、推定でも最大5000!!
全精力を注いで西に向かった義元の狙いは、那古野城??
この時点で、信長は清須城に移っていました。
那古野城は今川家のお城でしたが、信長の父・信秀に乗っ取られたという経緯がありました。
なので、那古野城、清須城を落とし、尾張を攻略しようとしていたのです。

いざ、那古野城奪還!!尾張を我が物に・・・!!

義元は自ら陣頭指揮を執って輿に乗って進軍していきます。
1560年5月18日、今川本体は、尾張との国境にあった沓掛城に入ります。
この時、輿に乗って進軍する義元・・・。
それは馬に乗れなかったからではなく、輿に乗る=守護大名の中でもごくわずかしか室町幕府に許されていなかったのです。
自分はそれだけの身分の人間だということを、尾張の小国大名・織田信長とその家臣たちに知らしめるためだったのです。
敵を威圧する作戦でした。

そして、運命の桶狭間に・・・!!

1560年5月19日、沓掛城を出た義元は最前線の大高城へ・・・。
ここを足掛かりに那古野城を攻めるつもりでした。
午前11時ごろ・・・義元本体は、桶狭間山の陣所で昼休憩をとっていました。
するとその時・・・!!
織田方2000の兵に、正面から奇襲をかけられ、大敗を喫してしまったのです。
どうして2万5000の兵をもってしても、織田軍を打ち負かせなかったのでしょうか?

①天気・・・この日、沓掛で楠木が倒れるほどの大雨が降りました。
豪雨によって視界を妨げられ、織田軍の接近に気付けなかったと思われます。
②油断・・・この日の早朝、今川軍の先鋒、松平元康らは、障害となる丸根砦・鷲津砦を攻略していました。
戦況が有利に進んだことに気を良くし、義元は休憩中に謡などを謳っていました。
この一時の油断が命取りとなりました。
③参謀の喪失・・・そして何より・・・遡ること5年、義元を支えてきた軍師・太原雪斎が亡くなっていました。
④兵の数・・・2万5000のうち、2万は別の方に向かっており、義元本隊5000程度でした。
しかも、この時昼休憩でみんなバラバラになっていて、義元の元にいたのは300ほど・・・僅かだったと言います。

その後、次々と倒されていき・・・間もなく大将である義元が取り囲まれてしまいました。
果敢に応戦する義元!!
義元に一番槍を付けたのは、織田方の服部小平太。
義元は小平太を交わし・・・そこにかかってきたのが毛利新介でした。
最後まで果敢に戦い、夢半ばで散った海道一の弓取り・・・
1560年5月19日・・・42歳の生涯でした。

その首は清須城に・・・
信長によって首実検され・・・本来なら返す必要のない首は、義元の首は駿府に送り返されることに・・・
尾張攻めの最前線であった鳴海城に、義元家臣の岡部元綱が踏みとどまり、主君である義元の首の返還を願い出たのです。
信長は、主君を思うその思いに・・・鳴海城を明け渡す代わりに義元の首を返還。
駿府に戻ったその首は、今川の菩提寺に弔われました。

義元無き後、継いだのは嫡男・氏真。
しかし、桶狭間の後、次々と配下の者たちは離れていきます。
今川家はかつての勢いを削がれるばかり・・・これを好機と見た徳川家康と武田信玄は、東西から攻め込んで・・・
1569年今川家滅亡・・・桶狭間からわずか10年足らずでした。

戦略にも領国経営にもたけていた今川義元・・・
samonji

京都にある建勲神社には、名刀”義元左文字”が大切に保管されています。
桶狭間の戦いで義元が使っていた愛刀です。
義元を討ち取り、歴史の表舞台に躍り出た信長は、この刀を終生大切にしたと言います。
戦国の世を自ら切り開いていった義元への敬意と共に。




↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

「桶狭間」は経済戦争だった (青春新書インテリジェンス)

新品価格
¥940から
(2017/2/27 23:06時点)

戦国武将のカルテ (角川ソフィア文庫)

このページのトップヘ