埼玉県秩父市・椋神社・・・明治17年11月1日・・・ここで3000人の農民が武装蜂起しました。
明治政府を揺るがした秩父事件です。
貧民の救済を求め、郡役所や高利貸しを襲撃した農民は、こんな言葉を叫んでいたといいます。
「板垣さまの世ならしに参加すれば、俺たちの負債もなくなる!!」
板垣さまの世ならし・・・
板垣さまとは、明治維新の立役者の一人・板垣退助の事です。
当時、板垣は、民衆が政治に参加する自由と権利を求める自由民権運動のリーダーとして知られていました。
板垣の考えは、民権派と呼ばれる人々を生み出し、自分たちの手で国会を開設しようという大きな運動にまで発展します。
板垣は、日本初の正当・自由党を結成し、全国を遊説・・・
政府の専制を批判し、草の根に自由民権思想を広げていきました。
しかし、板垣の前に壁が立ちはだかります。
「板垣死すとも自由は死せず」
この名言を生んだとされる暗殺未遂事件が発生・・・
さらに、板垣の動きを警戒した政府は、自由党の弾圧を開始、各地で自由党員たちが次々と検挙されていきました。
こうした中、民衆を突き動かした自由民権運動は、次第に力をそがれていきます。
自由民権運動は何を目指したのか・・・??
慶応4年に始まった戊辰戦争・・・
土佐藩兵を率いた板垣退助は、会津戦などで勝利に導き明治維新の立役者となりました。
戊辰戦争に参加した迅衝隊・・・土佐藩の精鋭部隊です。
31歳の板垣退助・・・600人の隊員のほとんどが下級武士で、普段は農作業をして暮らしていた彼らに、板垣は銃剣を授け、フランス式の軍隊に編成しました。
上級武士の軍をはるかに凌ぐ活躍を見せました。
板垣は、兵士の力量に身分の差は関係ないことを痛感しました。
2年後・・・明治3年、戊辰戦争の功績を認められた板垣は、高知藩大参事に就任しました。
すぐさま大改革を行います。
それは、身分制の撤廃でした。
日本の近代化に必要なのは人民平均・・・!!
人間を士農工商の隔てなく登用する社会の実現だと唱え、上級氏族による藩の役職の独占を禁じました。
板垣は、明治新政府が行おうとしていた身分制の改革をいち早く藩で行っていたのです。
その手腕を評価された板垣は、明治4年、新政府に招かれ、中枢を担う参議の一員に就任します。
そして、国に徴兵制を導入し、四民平等の軍隊を作ることを目指しました。
しかし、思わぬ外交問題が板垣を巻き込んでいきます。
征韓論争です。
当時政府内は、国交のない朝鮮に居留する日本人を保護するために兵を送るかどうかで意見が分かれていました。
この対立で政府は真っ二つに分裂・・・
征韓派筆頭の西郷隆盛と共に参議を辞職
明治6年のことでした。
しかし、翌年、板垣はすぐさま同志たちと行動に移ります。
議会を作り、選挙で選ばれた議員たちが国政を担うべきだと、政府に建白書を送ります。
明治7年、民選議院設立の建白書を政府に提出・・・!!
「現在、権力を握っているのは天皇でも人民でもなく、一握りの官僚である
政府に税を払っている人民には、政府が行う政治に関与する権利がある」by板垣退助
その内容は、新聞にも掲載され、多くの知識人たちの間で議会の早期開設を求める動きが高まりました。
しかし、政府はこの建白書を却下・・・
板垣は、故郷・高知に戻り、新たな行動を開始します。
政治結社・立志社の創設です。
”自由は土佐の山間より出づ”
自由という言葉を合言葉に、高知から議会開設運動を巻き起こそうとしました。
立志社は、戊辰戦争を戦った士族が中心となり、東京の慶應義塾から教師を招聘し、西洋の民権思想を学びながら、議会開設運動を着々と進めました。
ところが、結成から3年・・・立志社を大きく動揺させる事件が起こります。
それは・・・明治10年、西南戦争勃発!!
明治6年の政変後、新政府との緊張関係が続いていた西郷隆盛と旧薩摩藩士たちが武装蜂起!!
実はこの時、立志社内部では西郷軍と共に挙兵し、政府を転覆、一気に議会開設を実現させようという動きがありました。
しかし、板垣は、この挙兵論を押さえます。
そして、戦争が政府軍有利になったことを見計らい、ブレーンである植木枝盛に新たな建白を作成させ、政府に提出しました。
ここでも板垣は、言論の力で議会開設を実現することを宣言・・・
専制政治を批判し、抗議という言葉で人民の政治参加を呼びかけました。
西南戦争の翌年、全国各地で議会開設を求める政治結社の結成が相次ぎました。
その動きは士族だけでなく、農民たちにも波及します。
明治11年、東北福島県三春で河野広中が三師社を結成・・・
以後わずか2年間で結成された農民結社36社。
板垣と立志社が始めた新たな社会を目指す運動は、身分や地域を越え、広がろうとしていました。
西南戦争から3年、高知から広がった自由民権運動は新たな局面を迎えていました。
各地の政治結社は、板垣をリーダーに国会開設を胸に手を組み、明治13年国会期成同盟を結成します。
当時の資料に彼らが目論んだ大胆な構想が書かれています。
それが、私立国会・・・
国民の過半数が求めても政府が国会を開設しない場合、国会期成同盟が国会を作りそれを天皇に認めさせるというものです。
そこで各地の結社は、それぞれの地で半数以上の賛同者を集めようと演説や勉強会を盛んに開き、政治への参加を促しました。
しかし、中には運動の理念とはかけ離れた方法で勧誘をする結社も現れました。
その一つが、撃剣会という剣術興行を見世物にして人を集めるという愛国更親社です。
最盛期には参加者2万8000人、愛知・岐阜の農村部で組織を拡大しました。
巧みな宣伝文句が勧誘に使われました。
入社すれば兵役免除、武士になり永世禄支給、税金免除・・・
そして、講談師・川上音二郎をまねて、舞台で政府批判を歌い、結社への参加を促すもの
民衆の心をつかむあらゆる方法で、結社拡大の動きがみられました。
しかし、板垣はこうした熱気の高まりに不安を抱いていました。
自分達で勝手に国会を作ってしまおうというのが私立国会論・・・
完全に政府と話し合いをやめてしまって・・・国政は分断してしまう・・・!!
分断されることを、板垣は望んでいませんでした。
政府と決定的な対立を起こしかねない・・・!!
板垣の不安は的中します。
明治13年4月、政府は集会条例発布。
政治集会や演説は規制され、結社同士の連合が禁止されました。
これにより、政治活動は大きく制限され、ほとんどの結社が半数以上の参加者を得るには至りませんでした。
結果、私立国会の構想は、いったん頓挫してしまいます。
その打開策として板垣が作ろうとしたのは、日本初の政党・自由党です。
結社を一つの団体としてまとめ上げてしまえば、条例違反を問われることはない・・・!!
しかも、これまでばらばらだった結社の主張が一つにまとまり私立国家の実現にも拍車がかかるはずだ・・・!!
ところが、明治14年10月・・・
結党準備のさ中に政府が下した新たな決断に、民権派は激しく動揺します。
国会開設の勅諭です。
明治23年を目標に、政府主導で国会開設と憲法制定を行うと、天皇の名のもとに告知したのです。
自分達の手で国会をと意気込んでいた民権派に対して、機先を制したのです。
自由党総理に選出された板垣は、新たな情勢の中で、今後の運動の指針を示しました。
それは、各地に自由党の地方支部を組織して、当の基盤を固め、将来の国会開設に備えるというものでした。
板垣は、6か月にわたる全国遊説の旅に出て、民衆の政治参加を熱く訴えました。
「我が国の人民は、社会一般の自由を伸ばそうとする精神に欠けているが、これは積み重なった専制政治の慣習によるものである
ゆえに、この弊害をただすためには、人民に政治に参加させ、国家公共のことに関与させるしかない」by板垣退助
板垣は、行く先々で熱狂的な支持を受けます。
そんな中、遊説先の岐阜で事件が起こります。
演説後に、板垣が暴漢に襲われたのです。
この時発したとされる言葉が、
「板垣死すとも 自由は死せず」
板垣の不屈の闘志に、自由民権運動はさらに勢いを増していくことになります。
明治15年10月9日・・・板垣を揶揄した風刺画が雑誌に掲載されました。
自由号という船の上に、洋行費と記された大きな星が飛んでいます。
屋根の上では多くの人がその星の行方を見ています。
この洋行費こそが、板垣に降りかかったスキャンダルでした。
当時、板垣が予定していたヨーロッパへの視察旅行の費用を、政府が用意していると新聞各紙が報じていました。
板垣に洋行の話を持ち掛けたのは、共に政府の参議を務めた盟友で自由党幹部でもあった後藤象二郎です。
政党活動に興味を失っていた後藤は、政府への復帰を目論んでいました。
そこで、板垣を洋行させる代わりに政府に復帰することを、参議の伊藤博文と井上馨に相談していました。
後藤の提案は、政府にとっても自由党を切り崩す絶好のチャンスでした。
こうして政府が板垣の洋行費を用意することとなり、その情報が外部に漏れたのです。
板垣の洋行に反対した自由党の幹部は、次々と党を去りました。
これまで組織を支えてきた精鋭を失い、党本部は大きな打撃を受けることとなります。
さらに、地方では自由党への弾圧が始まっていました。
すでに明治12年から地主や豪農たちの要望を受け、府県会という地方議会が開かれていました。
この府県会で地方政府と自由党の衝突が起きていたのです。
舞台は福島・・・当時、自由党幹部だった福島県会議長・河野広中・・・福島では自由党が大きな勢力を占めていました。
そこで議題となっていたのは、地方税の問題です。
それまでの2倍以上の重税を課そうとする県に対し、自由党は議会で反対の議決を繰り返していました。
これに対し、副島県令・三島通庸は、副島の自由党員に民衆デモを先導したことをきっかけに党員全員を一斉検挙!!
さらに、裁判では自由党員が政府の転覆を図ったとみなし、河野たちを断罪します。
この事件で、東北での民権運動の拠点だった福島自由党は壊滅・・・
さらに、秋田・群馬など各地で弾圧が増していきました。
自由党が危機に瀕する中、明治15年、板垣退助、7か月にわたる洋行に出発・・・!!
板垣の中では、今、政党が一番順調だと思っていました。
自分が一人抜けても、全然問題はないだろうと考えていたのです。
さらに、自由党を苦しめたのが経済の冷え込みです。
政府のデフレ政策によって、深刻な不況は全国に及びました。
党員たちは思うように活動資金を調達できずに、遂には詐欺や強盗で資金を調達するようになります。
明治16年6月・・・板垣は帰国・・・。
しかし、待っていたのは政府の弾圧と資金不足で窮地に陥った自由党の弱体化した姿でした。
政党の活動を続けることが出来るのか??
党を存続させるべきか??
解党するべきか・・・??
板垣は選択を迫られていました。
自由党を解党するべきか否か??
明治16年6月、帰国した板垣は、党員たちにある提案を行います。
党の運営資金として必要な10万円を、募金で集めることを宣言したのです。
当時の10万円は、今の数億円に相当する金額です。
10万円を集められなければ解党止む無し!!
住民のために政治を志すならば奮起せよと、党員たちを鼓舞しました。
翌年の党大会で、集まった募金額が発表されました。
合計1万円余り・・・目標とした額にはとても及びませんでした。
その結果、板垣は宣言通り、明治17年10月29日、自由党の解党を決断します。
3年に渡り自由民権運動をリードしてきた日本最初の政党は、ここに幕を閉じたのです。
埼玉県秩父・・・自由党が解党された3日後の11月1日、ここで政府を揺るがす民衆蜂起が起きました。
秩父事件です。
当時、養蚕で生計を立てていた農家は、生糸価格の大暴落によって困窮を極めていました。
負債に苦しむ農民たちを、解党の事実を知らない自由党員が組織化し、武力蜂起へと導いたのです。
決起の地・・・椋神社・・・
農民3000人が集まって掲げた要求を、当時の神官が記録しています。
負債の据え置き、村費軽減や、減税など・・・
そこには、国会や憲法といった言葉はありませんでした。
当時蜂起勢が口ずさんでいた歌があります。
”金のないのも苦にしやさんすな 今にお金が自由党”
自由党に入って、板垣さまの世ならしに参加すれば、俺たちの負債もなくなる・・・
自由党というものに対して大きな期待と夢を託していたのです。
農民たちは、山村から町へ向かい、借金の証文を焼き払いました。
ゆく先々で勢力を増し、秩父府を占拠した時、その数は1万を超えていました。
2日後、郡役所に革命本部を構えます。
関東一円の志を同じくする自由党員に決起を呼びかけようとしました。
しかし・・・政府は軍隊を投入し、放棄から9日後に鎮圧・・・蜂起勢は強盗として裁かれることになりました。
この事件を境に、自由民権運動は、民衆運動としての力を失っていきます。
その後、日本は憲法制定、国会開設と、急ピッチで近代化の道を駆け上っていきました。
板垣自身も、政党政治への情熱を失うことはありませんでした。
板垣は、帝国議会が開かれると、旧自由党員が組織したいくつかの政党をまとめ上げ、自由党を復活させました。
そして、帝国議会の第1党党首として活躍し続けました。
国会議事堂・・・中央広間・・・国会開設の功労者として板垣の像が立てられています。
板垣は、晩年の回想録の中で、自由民権運動をけん引した時代を振り返り、次のように述べています。
「自由党の特色は、破壊的な働きにこそあった
先生を打破し、国会開設への道を切り開くためには、古いものを破壊するほかなかった
彼らが政府に抵抗し、血を流しても屈しなかったのはこのためである」by板垣退助
↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです
。

にほんブログ村

戦国時代ランキング


明治政府を揺るがした秩父事件です。
貧民の救済を求め、郡役所や高利貸しを襲撃した農民は、こんな言葉を叫んでいたといいます。
「板垣さまの世ならしに参加すれば、俺たちの負債もなくなる!!」
板垣さまの世ならし・・・
板垣さまとは、明治維新の立役者の一人・板垣退助の事です。
当時、板垣は、民衆が政治に参加する自由と権利を求める自由民権運動のリーダーとして知られていました。
板垣の考えは、民権派と呼ばれる人々を生み出し、自分たちの手で国会を開設しようという大きな運動にまで発展します。
板垣は、日本初の正当・自由党を結成し、全国を遊説・・・
政府の専制を批判し、草の根に自由民権思想を広げていきました。
しかし、板垣の前に壁が立ちはだかります。
「板垣死すとも自由は死せず」
この名言を生んだとされる暗殺未遂事件が発生・・・
さらに、板垣の動きを警戒した政府は、自由党の弾圧を開始、各地で自由党員たちが次々と検挙されていきました。
こうした中、民衆を突き動かした自由民権運動は、次第に力をそがれていきます。
自由民権運動は何を目指したのか・・・??
慶応4年に始まった戊辰戦争・・・
土佐藩兵を率いた板垣退助は、会津戦などで勝利に導き明治維新の立役者となりました。
戊辰戦争に参加した迅衝隊・・・土佐藩の精鋭部隊です。
31歳の板垣退助・・・600人の隊員のほとんどが下級武士で、普段は農作業をして暮らしていた彼らに、板垣は銃剣を授け、フランス式の軍隊に編成しました。
上級武士の軍をはるかに凌ぐ活躍を見せました。
板垣は、兵士の力量に身分の差は関係ないことを痛感しました。
2年後・・・明治3年、戊辰戦争の功績を認められた板垣は、高知藩大参事に就任しました。
すぐさま大改革を行います。
それは、身分制の撤廃でした。
日本の近代化に必要なのは人民平均・・・!!
人間を士農工商の隔てなく登用する社会の実現だと唱え、上級氏族による藩の役職の独占を禁じました。
板垣は、明治新政府が行おうとしていた身分制の改革をいち早く藩で行っていたのです。
その手腕を評価された板垣は、明治4年、新政府に招かれ、中枢を担う参議の一員に就任します。
そして、国に徴兵制を導入し、四民平等の軍隊を作ることを目指しました。
しかし、思わぬ外交問題が板垣を巻き込んでいきます。
征韓論争です。
当時政府内は、国交のない朝鮮に居留する日本人を保護するために兵を送るかどうかで意見が分かれていました。
この対立で政府は真っ二つに分裂・・・
征韓派筆頭の西郷隆盛と共に参議を辞職
明治6年のことでした。
しかし、翌年、板垣はすぐさま同志たちと行動に移ります。
議会を作り、選挙で選ばれた議員たちが国政を担うべきだと、政府に建白書を送ります。
明治7年、民選議院設立の建白書を政府に提出・・・!!
「現在、権力を握っているのは天皇でも人民でもなく、一握りの官僚である
政府に税を払っている人民には、政府が行う政治に関与する権利がある」by板垣退助
その内容は、新聞にも掲載され、多くの知識人たちの間で議会の早期開設を求める動きが高まりました。
しかし、政府はこの建白書を却下・・・
板垣は、故郷・高知に戻り、新たな行動を開始します。
政治結社・立志社の創設です。
”自由は土佐の山間より出づ”
自由という言葉を合言葉に、高知から議会開設運動を巻き起こそうとしました。
立志社は、戊辰戦争を戦った士族が中心となり、東京の慶應義塾から教師を招聘し、西洋の民権思想を学びながら、議会開設運動を着々と進めました。
ところが、結成から3年・・・立志社を大きく動揺させる事件が起こります。
それは・・・明治10年、西南戦争勃発!!
明治6年の政変後、新政府との緊張関係が続いていた西郷隆盛と旧薩摩藩士たちが武装蜂起!!
実はこの時、立志社内部では西郷軍と共に挙兵し、政府を転覆、一気に議会開設を実現させようという動きがありました。
しかし、板垣は、この挙兵論を押さえます。
そして、戦争が政府軍有利になったことを見計らい、ブレーンである植木枝盛に新たな建白を作成させ、政府に提出しました。
ここでも板垣は、言論の力で議会開設を実現することを宣言・・・
専制政治を批判し、抗議という言葉で人民の政治参加を呼びかけました。
西南戦争の翌年、全国各地で議会開設を求める政治結社の結成が相次ぎました。
その動きは士族だけでなく、農民たちにも波及します。
明治11年、東北福島県三春で河野広中が三師社を結成・・・
以後わずか2年間で結成された農民結社36社。
板垣と立志社が始めた新たな社会を目指す運動は、身分や地域を越え、広がろうとしていました。
西南戦争から3年、高知から広がった自由民権運動は新たな局面を迎えていました。
各地の政治結社は、板垣をリーダーに国会開設を胸に手を組み、明治13年国会期成同盟を結成します。
当時の資料に彼らが目論んだ大胆な構想が書かれています。
それが、私立国会・・・
国民の過半数が求めても政府が国会を開設しない場合、国会期成同盟が国会を作りそれを天皇に認めさせるというものです。
そこで各地の結社は、それぞれの地で半数以上の賛同者を集めようと演説や勉強会を盛んに開き、政治への参加を促しました。
しかし、中には運動の理念とはかけ離れた方法で勧誘をする結社も現れました。
その一つが、撃剣会という剣術興行を見世物にして人を集めるという愛国更親社です。
最盛期には参加者2万8000人、愛知・岐阜の農村部で組織を拡大しました。
巧みな宣伝文句が勧誘に使われました。
入社すれば兵役免除、武士になり永世禄支給、税金免除・・・
そして、講談師・川上音二郎をまねて、舞台で政府批判を歌い、結社への参加を促すもの
民衆の心をつかむあらゆる方法で、結社拡大の動きがみられました。
しかし、板垣はこうした熱気の高まりに不安を抱いていました。
自分達で勝手に国会を作ってしまおうというのが私立国会論・・・
完全に政府と話し合いをやめてしまって・・・国政は分断してしまう・・・!!
分断されることを、板垣は望んでいませんでした。
政府と決定的な対立を起こしかねない・・・!!
板垣の不安は的中します。
明治13年4月、政府は集会条例発布。
政治集会や演説は規制され、結社同士の連合が禁止されました。
これにより、政治活動は大きく制限され、ほとんどの結社が半数以上の参加者を得るには至りませんでした。
結果、私立国会の構想は、いったん頓挫してしまいます。
その打開策として板垣が作ろうとしたのは、日本初の政党・自由党です。
結社を一つの団体としてまとめ上げてしまえば、条例違反を問われることはない・・・!!
しかも、これまでばらばらだった結社の主張が一つにまとまり私立国家の実現にも拍車がかかるはずだ・・・!!
ところが、明治14年10月・・・
結党準備のさ中に政府が下した新たな決断に、民権派は激しく動揺します。
国会開設の勅諭です。
明治23年を目標に、政府主導で国会開設と憲法制定を行うと、天皇の名のもとに告知したのです。
自分達の手で国会をと意気込んでいた民権派に対して、機先を制したのです。
自由党総理に選出された板垣は、新たな情勢の中で、今後の運動の指針を示しました。
それは、各地に自由党の地方支部を組織して、当の基盤を固め、将来の国会開設に備えるというものでした。
板垣は、6か月にわたる全国遊説の旅に出て、民衆の政治参加を熱く訴えました。
「我が国の人民は、社会一般の自由を伸ばそうとする精神に欠けているが、これは積み重なった専制政治の慣習によるものである
ゆえに、この弊害をただすためには、人民に政治に参加させ、国家公共のことに関与させるしかない」by板垣退助
板垣は、行く先々で熱狂的な支持を受けます。
そんな中、遊説先の岐阜で事件が起こります。
演説後に、板垣が暴漢に襲われたのです。
この時発したとされる言葉が、
「板垣死すとも 自由は死せず」
板垣の不屈の闘志に、自由民権運動はさらに勢いを増していくことになります。
明治15年10月9日・・・板垣を揶揄した風刺画が雑誌に掲載されました。
自由号という船の上に、洋行費と記された大きな星が飛んでいます。
屋根の上では多くの人がその星の行方を見ています。
この洋行費こそが、板垣に降りかかったスキャンダルでした。
当時、板垣が予定していたヨーロッパへの視察旅行の費用を、政府が用意していると新聞各紙が報じていました。
板垣に洋行の話を持ち掛けたのは、共に政府の参議を務めた盟友で自由党幹部でもあった後藤象二郎です。
政党活動に興味を失っていた後藤は、政府への復帰を目論んでいました。
そこで、板垣を洋行させる代わりに政府に復帰することを、参議の伊藤博文と井上馨に相談していました。
後藤の提案は、政府にとっても自由党を切り崩す絶好のチャンスでした。
こうして政府が板垣の洋行費を用意することとなり、その情報が外部に漏れたのです。
板垣の洋行に反対した自由党の幹部は、次々と党を去りました。
これまで組織を支えてきた精鋭を失い、党本部は大きな打撃を受けることとなります。
さらに、地方では自由党への弾圧が始まっていました。
すでに明治12年から地主や豪農たちの要望を受け、府県会という地方議会が開かれていました。
この府県会で地方政府と自由党の衝突が起きていたのです。
舞台は福島・・・当時、自由党幹部だった福島県会議長・河野広中・・・福島では自由党が大きな勢力を占めていました。
そこで議題となっていたのは、地方税の問題です。
それまでの2倍以上の重税を課そうとする県に対し、自由党は議会で反対の議決を繰り返していました。
これに対し、副島県令・三島通庸は、副島の自由党員に民衆デモを先導したことをきっかけに党員全員を一斉検挙!!
さらに、裁判では自由党員が政府の転覆を図ったとみなし、河野たちを断罪します。
この事件で、東北での民権運動の拠点だった福島自由党は壊滅・・・
さらに、秋田・群馬など各地で弾圧が増していきました。
自由党が危機に瀕する中、明治15年、板垣退助、7か月にわたる洋行に出発・・・!!
板垣の中では、今、政党が一番順調だと思っていました。
自分が一人抜けても、全然問題はないだろうと考えていたのです。
さらに、自由党を苦しめたのが経済の冷え込みです。
政府のデフレ政策によって、深刻な不況は全国に及びました。
党員たちは思うように活動資金を調達できずに、遂には詐欺や強盗で資金を調達するようになります。
明治16年6月・・・板垣は帰国・・・。
しかし、待っていたのは政府の弾圧と資金不足で窮地に陥った自由党の弱体化した姿でした。
政党の活動を続けることが出来るのか??
党を存続させるべきか??
解党するべきか・・・??
板垣は選択を迫られていました。
自由党を解党するべきか否か??
明治16年6月、帰国した板垣は、党員たちにある提案を行います。
党の運営資金として必要な10万円を、募金で集めることを宣言したのです。
当時の10万円は、今の数億円に相当する金額です。
10万円を集められなければ解党止む無し!!
住民のために政治を志すならば奮起せよと、党員たちを鼓舞しました。
翌年の党大会で、集まった募金額が発表されました。
合計1万円余り・・・目標とした額にはとても及びませんでした。
その結果、板垣は宣言通り、明治17年10月29日、自由党の解党を決断します。
3年に渡り自由民権運動をリードしてきた日本最初の政党は、ここに幕を閉じたのです。
埼玉県秩父・・・自由党が解党された3日後の11月1日、ここで政府を揺るがす民衆蜂起が起きました。
秩父事件です。
当時、養蚕で生計を立てていた農家は、生糸価格の大暴落によって困窮を極めていました。
負債に苦しむ農民たちを、解党の事実を知らない自由党員が組織化し、武力蜂起へと導いたのです。
決起の地・・・椋神社・・・
農民3000人が集まって掲げた要求を、当時の神官が記録しています。
負債の据え置き、村費軽減や、減税など・・・
そこには、国会や憲法といった言葉はありませんでした。
当時蜂起勢が口ずさんでいた歌があります。
”金のないのも苦にしやさんすな 今にお金が自由党”
自由党に入って、板垣さまの世ならしに参加すれば、俺たちの負債もなくなる・・・
自由党というものに対して大きな期待と夢を託していたのです。
農民たちは、山村から町へ向かい、借金の証文を焼き払いました。
ゆく先々で勢力を増し、秩父府を占拠した時、その数は1万を超えていました。
2日後、郡役所に革命本部を構えます。
関東一円の志を同じくする自由党員に決起を呼びかけようとしました。
しかし・・・政府は軍隊を投入し、放棄から9日後に鎮圧・・・蜂起勢は強盗として裁かれることになりました。
この事件を境に、自由民権運動は、民衆運動としての力を失っていきます。
その後、日本は憲法制定、国会開設と、急ピッチで近代化の道を駆け上っていきました。
板垣自身も、政党政治への情熱を失うことはありませんでした。
板垣は、帝国議会が開かれると、旧自由党員が組織したいくつかの政党をまとめ上げ、自由党を復活させました。
そして、帝国議会の第1党党首として活躍し続けました。
国会議事堂・・・中央広間・・・国会開設の功労者として板垣の像が立てられています。
板垣は、晩年の回想録の中で、自由民権運動をけん引した時代を振り返り、次のように述べています。
「自由党の特色は、破壊的な働きにこそあった
先生を打破し、国会開設への道を切り開くためには、古いものを破壊するほかなかった
彼らが政府に抵抗し、血を流しても屈しなかったのはこのためである」by板垣退助
↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです

。にほんブログ村

戦国時代ランキング
紙幣額 『 昭和 紙幣史大全 決定版 』 全100枚 聖徳太子 伊藤博文 板垣退助 岩倉具視 高橋是清 武内宿禰 菅原道真 軍票 額装 応接間 玄関 リビング 通販 販売 プレゼント 価格:187,136円 |
明治維新 板垣 退助 4.5度 330ml 24本セット(1ケース) 瓶 日本 クラフトビール 価格:12,222円 |


八重の桜では、加藤雅也さんです。










