日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:荒木村重

愛知県半田市にある浄顕寺・・・ここに、戦国時代に描かれた珍しい仏画が残っています。
”血判阿弥陀如来絵像”です。
仏画の裏に記された名前と、生々しい血判・・・その数342人。
農民や武士、僧侶など、さまざまな階層の人々は、当時一向宗と呼ばれた門徒たちでした。
人々の血判は、ある人物に対して徹底的に戦う決意でした。
彼等が激しい怒りを向けたのは・・・戦国の覇者・織田信長です。
そして、この一向宗の門徒を率いたのは、大坂に本拠を構えた本願寺第11代門主・顕如です。
信長生涯最大の敵ともいわれています。
一向宗との戦いは、信長が制圧するまで11年もかかりました。
どうしてこれほどまでに苦戦を強いられたのでしょうか?

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戦国の覇者・織田信長・・・
その名を天下に広く知らしめたのは、1568年、足利義昭を奉じて上洛したことに始まります。
信長は、征夷大将軍となった義昭や、朝廷の権威を背景に、次々と近隣の武将たちを攻略。
1570年、姉川の戦いでは越前の朝倉と、北近江の浅井を破り、その武威をとどろかせました。

そんな信長が次に狙いを定めたのは、大坂の地でした。
「信長公記」にこうあります。

”大坂は日本一の境地なり”

境地とは、交通、経済、防御に秀でた優れた土地のことを刺します。
信長は、大坂こそが、日本一だと称賛したのです。
周囲を多くの河川で囲まれた大坂は、水陸交通の要衝でした。
都がおかれた京や奈良、貿易が盛んな堺を結ぶ拠点であり、さらに、西に面した瀬戸内海を通じて、朝鮮、中国、南蛮などの異国とも通じる富貴の湊でした。

信長の野望に危機感を抱いた大坂本願寺・・・。
後に名付けられた石山という地名から、石山本願寺とも呼ばれています。
当時、一向宗と呼ばれた仏教宗派の一大拠点だった本願寺は、大坂を中心に越前、伊勢、近江、紀伊など、日本各地で勢力を拡大。
西方極楽浄土の仏・・・阿弥陀如来を信仰する門徒たちは、一向・・・ひたすら念仏を唱え、来世に救いを求めました。
こうした門徒は、全国数十万に及んだといいます。
孤の一大宗教勢力を率いたのは、本願寺第11代門主・顕如。
勇ましい武者姿の肖像画も残されています。
顕如率いる一向宗は、巨大な宗教勢力というだけではなく、本願寺は当時最新の鉄砲に習熟した紀州・和歌山の雑賀衆を傭兵として雇用するなど、戦国大名に匹敵するほどの武装集団でした。

1570年、顕如は、大坂に狙いを定めた信長から、最後通告とも思われる要求を突き付けられました。
顕如が門徒にあてた書状によると・・・

”信長が、上洛を果たして以来、様々な難題を持ち掛けられた
 これまで信長の要求に応じてきたにもかかわらず、今度は本願寺を破却するとの意向を告げてきた”

信長は、顕如に対し、大坂からの退去を求めたのです。
9月、ついに本願寺は、反信長の兵を揚げました。
足掛け11年に及ぶ長きにわたる戦いの始まりでした。
挙兵した本願寺勢は、大坂周辺の織田軍を一気に攻勢、精強誇る織田軍を、わずか1日で退けることに成功しました。

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本願寺の強さの秘密とは??
後の天下人・豊臣秀吉によって築城された大坂城・・・それまでは、本願寺の本拠地でした。
織田軍を寄せ付けなかった本願寺の強さ・・・その立地とは??
堀や土居、あるいは土塁、防御のための土の土手・・・それぞれの町の周辺にめぐらせて、自主的な防御が出来ています。
河川を天然の要害となし、海抜30mに及ぶ上町台地の戦端に築かれた本願寺。
堅固な防御施設に囲まれた戦国大名の城下町を彷彿とさせます。

上町台地の自然にも秘密がありました。
比高差、落差があり、天然の城壁となります。
例え法下としても、織田軍は崖の下から包囲することになります。
どう攻めるのか??
それは、天然の要害でした。

さらに本願寺を難攻不落の要塞にしたのは、台地上でも豊富に得られた湧き水でした。
台地・山の上というのは弱点もあります。
なかなか水を得にくいということでした。
水かなければ、長期の籠城を戦うことはできません。

強敵・本願寺と戦端を開いた信長・・・
まもなく、思いもよらない勢力に囲まれることになります。
当時、最強と謳われた武田信玄が、反信長を掲げて参戦。
翌年、信長が擁立した将軍・足利義昭も本願寺に与し、反旗を翻しました。
敵の包囲網・・・信長は、その中心となった本願寺を攻略するため、各個撃破で挑みます。
敵勢力が分散しているうちに、それぞれ個別に打ち破るというものです。
1573年7月、将軍足利義昭を降伏させたことを皮切りに、宿敵・朝倉、浅井を一気に滅亡にまで追い込みます。
これによって、畿内周辺の敵は、本願寺を残すのみとなりました。

大坂本願寺の挙兵以降、各地で織田軍に抵抗をつづけた一向宗の門徒たち・・・
この一向一揆に対し、信長は強硬な作戦に打って出ます。
1574年9月、長嶋一向一揆・・・せん滅
この時、男女2万人を焼き殺したと言われています。
さらに1575年8月、総勢4万人を超える大軍勢で、越前一向一揆・・・せん滅
いっきに参加した人々を皆殺しにしました。
各地の一向一揆を容赦なく弾圧し、本願寺の孤立を図った信長・・・


1576年5月、ついに本願寺の攻略に取り掛かります。
織田軍は、大軍勢で本願寺を囲みます。
ところが・・・本願寺は、数百丁もの鉄砲を駆使し、攻め寄せる織田軍をことごとく蹴散らしました。
さらに、前線に向かった信長は、足を撃たれ負傷・・・
信長が戦場で負傷したという記録は、本能寺の変を除いてこの時だけです。
戦線は膠着しました。
信長は、力攻めを諦め、敵の武器や兵糧の輸送を断つ持久戦に転じます。
本願寺の南に堅固な天王寺砦を築き、西は荒木村重、東は明智光秀と、織田軍精鋭の武将に本願寺を包囲させました。
しかし、本願寺を完全に包囲するためには、海に面した木津川口を封鎖しなければなりません。
信長は、急遽水軍を編制・・・木津川口の封鎖を試みました。
この織田軍の包囲作戦に対し、本願寺が救援を求めたのは信長と敵対し始めていた毛利輝元でした。
本願寺は毛利と同盟を結び、兵糧の輸送を依頼します。
当時、瀬戸内海を制していた毛利水軍の中核を担っていたのは村上海賊でした。
本願寺への兵糧輸送を阻止すべく、木津川口を封鎖しようつする織田軍・・・
対する毛利水軍は、淡路島に終結後対岸に移動、鉄砲に熟達した雑賀衆と合流・・・その数800艘にのぼりました。
7月13日、毛利水軍は300艘からなる織田水軍の防衛線を突破すべく、攻撃を開始します。
この時、勝敗を決したのが村上水軍のほうろく火矢です。
球体の鉄や鉛などの内部に、黒色火薬を詰めた新兵器です。
信長公記はこう伝えています。

”海上ほうろく火矢などというものを作り、味方の船を取り囲み、繰返し投げ入れて織田方の船を焼き崩した”

木津川口の戦いに呼応して籠城していた本願寺勢も陸上で包囲する織田軍を責攻めてました。
本願寺勢の勝鬨は、大坂に響き渡りました。
信長は、本願寺勢の猛攻を前に、またも大敗を喫したのです。

信長の窮地は、木津川口の戦い敗北の後も続きました。
追い打ちをかけたのが、松永久秀叛逆!!
久秀は、本願寺包囲戦の要となる天王寺砦を守っていました。
ところが、それを放棄し、軍を撤退・・・本願寺と内通した裏切りでした。
さらに、荒木村重謀反!!
村重もまた本願寺と通じていました。
信長の痛手は大きかった・・・!!
荒木村重は、信長軍の中では摂津担当でした。
本願寺の北側エリアを中心的に任されていました。
本願寺方に渡ると、西日本から本願寺へ向かう船、様々な物資が容易く入って来れるのです。
これは、信長が摂津を掌握していたことを考えると、形勢逆転となるのです。

この機を逃さず、毛利水軍を動き始めていました。
本願寺に兵糧を輸送するため、織田水軍の倍以上に当たる600艘もの軍勢が、淡路島に集結していました。
度重なる家臣の叛逆、迫りくる敵の大船団・・・!!

本願寺と和議を結ぶ??それとも本願寺との戦いを継続する??

これまで信長は、鉄甲船を準備したと言われてきました。
ところが、他の資料には、その記述がありません。
しかも、信長の船を実際に見学した宣教師はこう記しています。

”その船は、日本国中最も大きく、また華麗なるものにして、ポルトガルの船に似たり
 船には、大砲三門を載せ、無数の大なる長銃を備えたり”

こうしたことから、信長が新たに建造したのは船体を鉄で覆った鉄甲船ではなく、大砲と長銃を備えた南蛮船のような大船だと、近年では考えられています。
この大砲があれば、さすがの敵も、木津川口に近づくことさえできまい!!

毛利水軍との戦いを避けて、本願寺と和議を結ぶべきか??
海戦に挑み本願寺との戦いを継続すべきか??

信長は、本願寺と和議を結ぶと見せつつ、新たに建造した大船を木津川口に配置。
和戦両様を見せていました。
そんな信長に対し、優位に進めていた本願寺が和議を結ぶいわれはありませんでした。
その2日後、大坂湾で戦端が行われました。

11月6日、第2次木津川口の戦い!!
戦いはどのように展開したのでしょうか?
11月6日、淡路島に拠点を置いた毛利水軍600艘が、大坂湾を進み、木津川口に船を進めます。
織田水軍は、巨大軍船を軸に、船を並べ、それを待ち受けました。
両軍の船が近づいたとき・・・織田の巨大軍船の大砲が火を噴きました。
この攻撃で、毛利水軍の大将が乗った大船を大破させました。
織田水軍は、大砲などの重火器による集中砲火で敵に大打撃を与えて行きました。
しかし、織田方の一方的な勝利というわけではありませんでした。

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開戦の後も、本願寺に兵糧を運び入れていた毛利軍・・・
第2次木津川口の戦いに勝利したとはいえ、海の搬入路の完全封鎖は不可能でした。
そこで信長は外交策に出ます。
まず、荒木村重配下の武将たちを次々に調略。
村重を孤立させることに力を注ぎます。
本願寺への兵糧輸送を阻止するべく、豊後の大友、肥前の宇喜多と同盟を結び、東西から毛利本国に圧力をかけて行きました。
これによって、毛利は自衛の戦いを余儀なくされ、本願寺の兵糧輸送にまで手が回らなくなってしまいます。

1569年、荒木村重の居城・有岡城陥落。
信長は、大坂湾周辺の制海権を取り戻すことに成功します。
そして・・・1580年4月、深刻な兵糧不足に陥った本願寺は、朝廷を介し信長に和議を申し入れます。
信長もこれを受け入れ、最終的な和睦が成立しました。
その結果、顕如は大坂を知り沖、紀州に逃れます。
門徒たちも、無事に大坂を退去。
当時の信長にとって、大坂の地を手に入れることこそ、最も重要な目的だったのです。

こうして信長は、足掛け11年に及んだ本願寺との戦いに幕を閉じ、ようやく畿内統一を果たしました。
ところが・・・そのわずか2年後、本能寺で明智光秀に打たれることとなります。
信長が、日本一の境地とたたえた大坂は、後継者の秀吉に受けつがれます。
秀吉は、ここに当時日本最大の大坂城を築城し、天下統一を成し遂げたのです。

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戦国の世に革命をもたらし、天下統一を目指した武将・織田信長・・・

その冷酷な言動ゆえに、魔王と呼ばれて畏れられた信長に、刃向かった男たちがいました。
ひとりは、本能寺の変を起こした明智光秀。
信長が光秀の謀反により命を落としたのは有名です。
しかし、信長が信頼する重臣に裏切られたのはこれが初めてではありませんでした。
本能寺の4年前・・・光秀より先に信長に反旗を翻したのが、摂津国を治めていた荒木村重でした。

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大阪市北西部に位置する池田市・・・ここにはかつて摂津国の有力国人であった池田氏の城がありました。
1535年、池田氏に仕える荒木家に生まれた村重は、優れた武将に成長し、当主になると主君である池田勝正に信頼され、重臣の一人となりました。
村重が仕えていた池田氏は、摂津国北部を支配、畿内や四国で力を有し、室町幕府足利将軍家と対立していた三好勢の傘下にありました。
そんな池田氏や村重たちの運命は、ある男の登場で翻弄されることになります。
尾張の織田信長です。

1568年、天下を狙う信長は、室町幕府再興を目指す足利義昭と手を組み上洛・・・
信長が、三好勢を京都から追い出したことで、義昭が15代将軍に就任します。
この時、池田氏当主の勝正は、京都を追われた三好勢を見限り、将軍となった義昭に寝返りました。
これに、池田氏内の三好派の重臣たちが猛反発!!
謀反を起こし勝正を追放、新たな当主として勝正の弟・知正を据えたのです。
村重は・・・??
三好派側にいたため、池田氏の重臣として残りました。
しかし、義昭が将軍となったことで、摂津国の情勢は大きく変わります。
将軍義昭が、側近だった和田惟政に摂津北東部の支配を任せたことで、北東部の和田氏、北部の池田氏、西部の伊丹氏らが鎬を削る状況となったのです。

1571年、池田知正と和田惟政が、領地争いにより激突!!
この時、敵将の惟政を討ち取ったのが、村重でした。
フロイスの”日本史”によると、発端は和田惟政が荒木村重の領地の境に城を築いていきました。
これによって、村重が激怒、惟政を討ち取って武功をあげることになります。
この戦いで、池田家臣団のその他大勢ではなく、池田家臣団を率いていく代表の地位を固めていきます。
しかし、惟雅の息子惟長が党首を継いだことで、池田氏と和田氏の対立が続くこととなります。

一方、信長もまた敵対する勢力に苦しんでいました。
1573年、三方ヶ原の戦い・・・信長は、徳川家康と手を組み、武田信玄と戦うも完敗・・・
これを知った将軍義昭が、信長を見限り、反信長勢力と手を組んだのです。
信長は、足利将軍家、三好勢、大坂本願寺、浅井長政、朝倉義景、武田信玄にまで包囲される形となり、窮地に追い込まれました。
そこで、将軍義昭に人質を差し出し、和睦を申し出るも、義昭はこれを拒否。
これで戦となれば、信長の敗北は決定的であろうと畿内の武将たちの誰もが思っていました。
そんな中、村重は敗色濃厚な信長方につくことを決意します。

この時、池田氏内で村重と対立関係にあった重臣たちが、反信長勢力となった将軍・義昭方につきました。
そこで、村重は、対立する重臣たちに対抗するため、信長に味方することにしたのです。
池田氏内の勢力争いに勝つため、信長にかけた村重・・・
同じく、将軍・義昭の家臣から織田方についた細川藤孝を通じ織田家に忠節を誓う旨を伝えました。
そんな中、村重は、池田氏と対立していた摂津北東部を支配していた和田惟長を追放。
北摂津最大の実力者となったのです。

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そして1573年3月29日・・・村重は、近江で初めて信長に対面します。

”村重が信長の前に進み出ると、信長は自らの刀を引き抜き、そこにあった大きなまんじゅうを突き刺し、村重の前に差し出した
 すると、村重はひるむことなく、大口を開けてそのまんじゅうを口にくわえた
 これを見た信長は大喜びしたといい、名刀を与え、摂津方面は任せたと、村重が摂津国を支配下に置くことを許した”by陰徳太平記

信長は、将軍・義昭と和睦するため、その交渉役に荒木村重と細川藤孝を起用。
そこには、将軍・義昭に圧力をかけるという狙いがありました。
その思惑通り、将軍・義昭は、疑念を抱きます。
京都に近い摂津の実力者である村重や、それまで自分に仕えていた細川藤孝まで信長についたことで、このまま信長と対立を深めると、都の周りの他の武将たちも寝返るのではないか・・・
そんな、好戦意識の薄れた将軍・義昭を、信長はすかさず攻め、京都から追い出しました。
こうして、室町幕府が滅亡へと追い詰められていきました。
村重の決断は、信長の危機を救っただけでなく、室町幕府滅亡という日本の大きな歴史を変えるきっかけとなったのです。

そうした功績から、村重は、信長の厚い信頼を得て、柴田勝家や丹羽長秀らとならび織田家の奉行を任されます。
さらに、摂津一国を支配する権限を与えられたのです。
これによって、池田氏との立場は逆転!!
池田知正が村重の臣下となりました。
摂津を治める権限を与えられたとはいえ、摂津には、まだ西部を支配する伊丹氏などの武将がいました。
切り取り次第・・・自力で支配領域を広げていかなくてはなりませんでした。

1574年、村重は、西摂津への侵攻を開始。
物流の要所だった尼崎を押さえたことで力を増し、伊丹氏などを滅ぼすことに成功!!
摂津国の統一を成し遂げました。
そんな中、村重は、明智光秀の娘を嫡男・村次の正室に迎えていました。
信長のもとでともに活躍していた外様の光秀との関係を強化することで、新参者である自らを守り、その地位を確かなものにしようとしました。
さらに、村重は織田軍の主力として各地を転戦!!
常に最前線で戦い続けることで、自らの存在を信長にアピールしていきました。

1575年、活躍目覚ましい村重に、信長は播磨国の浦上宗景の救援を命じます。
信長は、備前国の実力者だった宗景を味方にするため、備前・美作・播磨三国の支配権を与えたのですが、宗景には三カ国を治める実力がなく、毛利方の武将・宇喜多直家に次々と城を奪われていました。
信長が宗景の実力を見誤った尻拭いをすることになりましたが・・・
播磨に向かうと、信長の期待に見事にこたえ、小寺氏、別所氏など、播磨の武将たちを説得し、信長への忠誠を誓わせます。
その村重の能力を、信長は高く評価、ますます信頼を置くようになります。
こうして村重は、播磨方面の武将と信長を仲介する取次役として、信長の西国政策に欠かせない存在となりました。

ところが・・・1578年10月21日。
安土城にいた織田信長のもとに、荒木村重が背いたという知らせが届きます。
信長は信じませんでした。
というのも、村重は、織田家代々の家臣ではないものの信長に忠誠を誓い、何度のも窮地を救った功労者だったからです。

謀反のきっかけ①大坂本願寺攻め
1576年、信長と敵対していた仏教勢力・本願寺が、法主の顕如を中心に大坂で挙兵!!
村重は、信長から明智光秀らと共に大坂本願寺攻めを命ぜられます。
村重ら信長軍は本願寺を包囲、何度も攻撃するも落とすことができず、とうとう信長自ら援軍に駆けつけました。
どこまでも力攻めにこだわった信長は、次に行う総攻撃で村重に先鋒を命じます。

「それは、お受けできませぬ!!」

この時、本願寺は、信長と敵対している毛利輝元に援軍を要請しています。
これにたいして、輝元は、兵糧や弾薬を、水軍を使って大坂本願寺に届けようとしていました。
これを見越していた村重は、海からの補給を断つために木津川口を遮断、無益な力攻めではなく、兵糧攻めを行う準備をしていました。
村重が先鋒を断ったのは、もはや力攻めではできないと考え、兵糧攻めの準備をしていたからでした。
しかし、村重が兵糧攻めに変えるよう進言するも、信長は総攻撃を決行したのです。

結果は、またしても失敗!!
結局、兵糧攻めに戦法を変えることになります。

村重の意見を無視し、いたずらに力攻めを行って失敗・・・
兵糧攻めの際も、村重ではなく尾張出身の佐久間信盛を本願寺攻めの司令官に登用。
こうしたことから、信長の人材登用の不公平さを村重は不満に思い始めていました。
おまけに、佐久間信盛は、結局、本願寺を攻め落とすことができませんでした。

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謀反のきっかけ②羽柴秀吉の行動

1577年、信長は、毛利輝元の勢力圏内である山陰、山陽道の侵攻を決断。
その中国方面軍総司令官・総大将に羽柴秀吉を指名します。
これを聞いた村重は・・・怒ります。
播磨方面の武将と、信長の取次役として、信長の西国政策に欠かせない存在となっていた村重が、総司令官になってもおかしくはなかったからです。
さらに、秀吉の行動が村重を怒らせます。
中国方面軍の総司令官として播磨に入った秀吉は、播磨の実力者小寺政職の家臣・黒田官兵衛を参謀役に起用、官兵衛の居城・姫路城を毛利攻めの拠点にしたのです。

これが、信長を見限る決め手となりました。
もともと小寺などを味方につけたのは村重でした。
その功績を無視して、秀吉が小寺氏の家臣である黒田官兵衛と繋がっていく・・・
これは、村重の権益を侵すものでした。
そうして、村重の取次役としての面目をつぶすことになりました。
本来ならば、播磨方面の取次役である村重が、小寺政職に話がいき、その小寺から黒田官兵衛に話がいくのが筋でした。
それを、秀吉は無視して、直接官兵衛を起用してしまったのです。
権益を侵され、メンツをつぶされることは、当時の武将にとってその地域の支配力を失うのと同じことでした。
周囲の武将たちからも、見限られかねません。
そして、なにより村重は、自分を無視した秀吉の行動を、信長が容認したことに腹を立てたのです。
つまり、村重が信長に叛いたのは、尾張出身の家臣を優遇し、功労者の村重を蔑ろにした信長への不信感によるものでした。

村重の謀反が事実だと知った信長は、すぐに説得に乗り出します。

「不満があるなら聞くとつたえよ!!」

そう言って、明智光秀や羽柴秀吉など、錚々たるメンバーを説得に当たらせますが・・・村重は応じませんでした。
すると、信長自ら筆を執り、こう認めたのです。

「天下の面目を失った
 早く出頭せよ
 待っている」

それまで自分に歯向かう者は、実の弟でも殺害してきた信長が、村重を許し、説得して呼び戻そうとします。
それだけ、村重を評価し、天下取りに欠かせない存在と思っていたからです。
しかし、信長の書状にも村重の気持ちは揺るがず・・・
秀吉の参謀役となっていた黒田官兵衛が説得に有岡城にやってくると、村重は官兵衛を有岡城内に幽閉してしまいました。

当時の常識では、外交官・使者は、敵に捕まったら殺されてもおかしくない時代でした。
しかし、官兵衛を殺してしまうと、官兵衛の主君である小寺政職が離反しかねない・・・
そこで、村重は、あえて官兵衛を殺さず、軟禁することで小寺に対し恩を売りつけたのです。

村重は、信長に反するにあたり、味方を増やすための様々な工作を行っていました。
事前に安芸・毛利輝元に同盟を要請、その証として人質を送っています。
さらに、本願寺の顕如とは、同盟を結ぶ際の細かい条件を決めた起請文を作成。
村重は、反信長勢力と結ぶなどして、謀反の準備を進めていました。

1578年10月、織田信長に反旗を翻した荒木村重は、軍勢を有岡城・尼崎城・花熊城などに分け、籠城戦に打って出ます。
対する織田軍は、村重が籠城する有岡城に攻撃を仕掛けると苦戦!!
有岡城が難攻不落!!
村重は、もともと伊丹氏の本拠地であった有岡城を奪った後、大改修を行っていました。
城下町を土塁と堀で囲い込んだ惣構の城とし、周囲に3つの砦を配置するなど、防御機能を最大限に強化していました。
その為、織田軍は城攻めにてこずり、逆に反撃にあって2000もの死傷者を出してしまいました。
力攻めが通用しないと悟った信長は、兵糧攻めに変更します。
しかし、荒木軍は、2年近くも織田軍に抵抗します。
それは、有岡城が難攻不落の城だっただけでなく、援軍があったからでした。
安芸・毛利輝元は、軍勢を摂津に派遣、本願寺も紀伊の傭兵集団である雑賀衆などを送ってきました。
援軍が、海路を通り、尼崎などから上陸、兵糧はもちろん、武器や兵力の補充がなされたことで、荒木軍は長期の籠城戦に耐えることができました。

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そして、もうひとつ、村重の籠城を支えたものは・・・
地元・摂津の領民たちでした。
花熊城には近隣の村々から1000人余りが加勢して立てこもり、六甲山地周辺の農民たちは、海から有岡城への補給路を守るため立ち上がります。
全ては、領主である村重の為・・・
村重は、有事の際、周辺の領民が逃げ込める場所を作るなど、領民思いの領主でした。
その為、領民は信長が主になることを断固阻止したかったのです。

信長は、戦の際に領民たちを総動員させる体制を作らせました。
このような体制が、摂津の領民たちに不信感を抱かせていました。
信長に駒として扱われることを避けたい領民たちは、自分たちを守ってくれる村重に協力することを選びます。
村重と共に戦う・・・となっていったのです。
領民たちが協力したことで、長期の籠城戦に耐えることができたのです。

織田信長に反旗を翻した荒木村重は、居城である有岡城で籠城・・・
対する信長は、織田信忠・羽柴秀吉・明智光秀・滝川一益など織田軍の精鋭たちを送り込みます。
しかし、そんな織田軍に対し、村重は果敢に猛攻を跳ね返していきます。
ところが、1579年9月2日、村重は突如有岡城を出て、嫡男が守っていた尼崎城へと移ってしまいます。
信長公記によれば、村重は夜陰に乗じて数人の家臣を連れて城を出ます。
妻子や家臣を見捨てて逃亡したと言われています。
この時、備前に宇喜多直家が毛利方から織田方に寝返ったことで、毛利軍は尼崎城、花熊城から撤退し始めていました。
おまけに、拠点の尼崎城が落城することがあれば、村重の有岡城だけではなく、大坂本願寺への補給もたたれてしまう・・・!!
村重は、危機的状況にあった尼崎を守ろうとしたのです。
有岡城を見捨てたわけではありませんでした。

村重は、尼崎城に移ってからも毛利や雑賀に援軍を・・・戦線を立て直そうとしていました。
ところが、村重が家臣・荒木久左衛門や妻のだしに任せた有岡城で誤算が生じます。
村重不在の有岡城で、城兵たちの士気が低下・・・
結束力が弱まったとみた織田軍の武将・滝川一益が、内通社を通じ、有岡城の足軽大将たちを寝返らせます。
そして、惣構えの中に侵入すると、城下町に放火して、本丸だけの裸城にしてしまいました。
もはや、落城寸前・・・!!
すると、村重と姻戚関係にあった織田方の明智光秀がやってきて説得します。

「村重殿、有岡城は間もなく落ちる・・・
 潔く、この尼崎城も明け渡しなされ
 そうすれば、上様は城内の女子供や家臣たちの命を助けると仰せですぞ!!」by光秀

有岡城内の女子供や家臣の命と引き換えに、尼崎城の開城を要求します。

「白を開け渡すことは、出来ぬ!!」by村重

これを聞いた信長は、
「己ひとりの命を惜しみ、開城を拒むとは前代未聞!!」
そう言って、有岡城を落城させると、見せしめのために尼崎城の近くで有岡城にいた家臣やその妻子ら500人余りを処刑!!

”女たちの悲しみ泣き叫ぶ声が天まで響いていた”by信長公記

さらに、信長は村重の妻・だしをはじめとする荒木一族ら30人を京都の六条河原で処刑したのです。
その為、村重は妻子を見殺しにした卑怯者と言われますが・・・
本当に村重は卑怯者だったのでしょうか??

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信長公記によると、開城を拒否したのは荒木村重一人だけの責任のようにしていますが、尼崎城と花熊城には荒木村重の軍勢だけではなく、毛利氏からの援軍や本願寺からの援軍(雑賀衆)がいました。
彼等も籠城していたため、ひとりでは決断できなかったのです。
ひとりの決断で城を明け渡せる状態ではありませんでした。
開城すれば女子供は殺さない・・・というのは、信長の方便だったと思われ、それを知っていた村重は、信長を信用して城を明け渡すことはできなかったのです。

結局、有岡城の女子供は処刑された後、8か月も村重は籠城戦を続けます。

信長公記では、村重のことを恩知らず、卑怯者と書かれました。
わざと村重を悪く書いています。
これは、作者の太田牛一が、信長の家臣であったこと、主君の信長を美化した結果なのです。

1579年11月、有岡城落城。
しかし、荒木村重がこもる尼崎城や花熊城での籠城戦は依然続いていました。
ところが、1580年4月、本願寺・顕如が織田信長と和睦して大坂を退去・・・。
村重が同盟する顕如は、大坂城を開城したことで、織田軍は大坂に張り付けていた軍勢を、尼崎城と花熊城に集中させることができました。
つまり、荒木軍の敗北は決定的となっていきます。
7月2日、花熊城落城・・・すると、村重は、「もはや・・・これまで・・・!!」
村重は、嫡男・村次らと共に尼崎城を出ると、信長の追撃を避けるため、毛利氏の領国へと逃れ生き延びます。
荒木家再興のために・・・!!
こうして2年近くに及んだ籠城戦・・・信長に反旗を翻した村重の戦いは、終わりを告げました。
この時、46歳・・・!!
その後の村重は、表立った行動ははっきりとわかっていません。
しかし、道薫と名乗り、茶人として堺での茶会に参加したことが記録に残っていることから、堺に移り住み、毛利方の交渉役として活動していたと考えられています。

信長に果敢に刃向かった荒木村重は生き延び、1586年5月4日、52歳で死去・・・
荒木家の再興を息子たちに託して・・・!!
しぶとく戦い抜き、生き残ることで再起をかけた荒木村重・・・民を思う優しさと、先を読む鋭さを兼ね備えた武将でした。

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へうげもの 古田織部伝―数寄の天下を獲った武将

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日本の文化に革命を起こしたのは古田織部。
”へうげもの”と呼ばれ、一世を風靡しました。
天下を目指す信長、秀吉、家康に仕えます。

織部が人生最大の選択をしたのは・・・大坂の陣の直前でした。

古田織部は、岐阜県美濃国山口城主の子として生まれました。
濃尾平野の広がる・・・戦国時代には、天下をめざし武将たちが闘っていた場所で、代々織田家に仕えていました。
織部は、桶狭間の戦いで勢いに乗る信長の直属の家臣団に加えられました。
信長が天下統一をめざし、中国を攻略しようとしていた頃・・・腹心・荒木村重が謀反を起こします。
ここで信長は、荒木の右腕・中川清秀のもとに織部を送り込みます。
調略のために・・・!!
織部は見事、中川を説得・・・信長の危機を救います。

武将としての能力としては、刀で手柄を立てるような記録はなく、説得工作・・・調略、事前の裏工作に長けていたようです。
そんな彼を表舞台に・・・!!
数寄と呼ばれた茶の湯です。
死と隣り合わせの生活をしている武将たちには、現実を忘れることのできる唯一の世界でした。
その流行と共に、中国伝来の貴重な茶道具は、一国に匹敵るる価値を持って行きます。
それにいち早く注目したのは信長。。。
名物狩りと呼ばれ、高価な唐物を買い集め、褒章として家臣たちに与えていきます。
家臣たちを統制し、士気を鼓舞するために、茶の湯を利用し始めたのです。=茶の湯御政道。

この茶道として頭角を現していたのが千利休。
織部の数寄の師匠となって、多大な影響を与えました。
利休は信長亡き後、秀吉のブレーンとなり、一大イベントを仕掛けていきます。
黄金の茶室を作って後押しする傍ら・・・もう一つの美・・・侘びの世界を追求し始めます。

利休に傾倒していた織部は、ここで数寄の才能を発揮していきます。
侘びとは全く違うもの・・・

yaburebukuro
織部愛用の茶道具・・・「水差し・破袋」
ここに、強く反映されています。
”大きなひび割れも、一種の趣・・・”
傷のない茶碗も、一旦割ってつなぎ合わせる・・・「十文字」。。。
ゆがんだ茶碗・・・
ひょうきんな織部の美意識は、新しい流行となっていきます。
完全な茶碗は物足りないと嫌い、新しい美を追求していきます。

1591年・・・天下人となった秀吉が、独自の美を追求する利休と対立し・・・利休切腹。
命乞いをすることもなく死への旅路に向かう利休・・・

織部は、細川忠行と共に利休を見送りました。
織部は利休の死後、秀吉に取り立てられていきます。
秀吉のお伽衆に抜擢、”数寄の和尚”に任命され、才能を発揮していきます。

織部焼き・・・今までとはまったっく違う斬新なデザインと絵付け・・・
日常的な食器まで流行っていたようです。
傾奇者が出てきていたこの時代、今までの概念をぶち破ろうよいう意識が高まってきていました。
織部の数寄はその時代に合っていたようです。
慶長時代に生きた織部は、慶長の息吹がエネルギーの原点となっていたようです。
常に面白くなければ・・・!!これまでにない画期的なものを・・・!!

ひょうげを武器に新しい価値観をもたらした織部は、数寄の天下人となっていきます。
織部による美の革新・・・
東北の雄・伊達政宗、豊臣家重臣・浅野長政、信長の実弟・織田有楽、豊臣秀頼、毛利秀元、黒田如水・・・茶会を通じて、全国の武将たちとのネットワークが広がっていきます。

そのネットワークに目をつけたのが天下を狙う徳川家康です。
関ヶ原の戦いを前に、根回しをしていたのでした。

常陸の佐竹義宣は、石田三成と親しくその動向に注意を払う必要がありました。
織部を佐竹のもとに送り込み・・・茶の湯で織部と師弟関係にあった佐竹は、師の説得を受け入れて家康に人質を差し出すのです。
こうして家康は、織部を使って説得に成功し・・・関ヶ原に勝利していきます。
家康自身が数寄にのめり込むことはありませんでしたが、その力を十分に知っていたのです。

豊臣から徳川へ・・・時代が大きく動きます。
江戸幕府をひらいた家康は、その基礎を盤石なものにしていくために、織部を利用していきます。
織部は、秀忠の茶の湯の指南役となり、秀忠と諸大名との茶会を仕切って。。。
徳川政権の内部へと入り込んでいく織部・・・確固たる地位を築き上げていきます。
数寄の道に生きたい・・・しかし、あまりに忙しく・・・それもできなくなってきました。

1611年、家康は秀忠を江戸に置いたまま、京都・二条城を拠点に豊臣家弱体に進んでいきます。
二条城に諸大名を集め・・・誓詞を書かせたのです。
”反逆の企てあるべからず”と、幕府の命令に背かないように・・・!!
豊臣家と徳川家の衝突は、もう避けられなくなっていました。

織部はこの頃、息子・九郎八を豊臣秀頼の小姓として仕えさせていました。
身の安定のために徳川につくか?豊臣に尽くすのか?
織部は70歳となっていました。

①徳川方につくか??
生き残れるものの、自分のやりたい数寄は出来ない・・・!!

②豊臣方につくか??
もともと抜擢してくれたのは秀吉。。。
おまけに秀頼の小姓は息子。。。
大恩に報いる道ではないのか・・・??

aooribe織部の屋敷から発掘された「青織部角皿」。
これには、豊臣への思い・・・丁寧な筆使いで桐の文様が書かれていました。

織部はこの皿に、豊臣家の繁栄を願っていたのでしょうか??

③和平交渉策
当時大坂城には、織田有楽、片桐且元ら数寄を通じて交流を深める重臣たちがいました。

そして、秀頼の妻は秀忠の娘。。。
人間関係を生かすという策です。

両家による天下・・・新しい世界を作る・・・??


1612年8月、織部は江戸城に赴きます。
二代将軍・秀忠との接見に臨みます。
そこに伴ったのは、数寄の盟友・片桐且元でした。

片桐は、秀頼の守役のひとりで、豊臣家の重臣。徳川とのパイプ役を担っていました。
第三の道・和平交渉をしようとしていたようです。
7か月に及び江戸に滞在し、秀忠や幕閣達と茶会を行います。
推測されるのは、和平のための根回し。。。
しかし、織部の和平交渉は挫折。
秀吉が建立した方広寺の鐘に刻まれた文字が問題・・・「国家安康」に、家康がケチをつけたのです。
方広寺鐘銘事件・・・鐘銘を起草した清韓禅師は蟄居謹慎を命じられました。

言いがかりとも取れる家康の行動に・・・
なんと、織部は、清韓禅師を茶会に招いてもてなしたのです。
茶の湯に権威や権力は関係ない・・・家康の怒りを恐れることなく、茶人としての信念を貫いたのだろうか・・・??

豊臣家は大坂城内に浪人を集め・・・徳川と対決の姿勢を見せていました。
方広寺鐘銘事件から4か月後・・・大坂の陣が勃発!!
1615年、大坂城落城!!豊臣家は滅亡します。


時を同じくして、織部は幽閉されていました。
処罰の内容は、大坂方との内通です。
大坂城落城からひと月後・・・織部は息子と共に切腹を命じられます。
事件の真相は明らかではありませんが、一切の弁明をしなかったと伝えられています。
破調の美を世に刻みつけた古田織部。
6月11日・・・その生涯を閉じたのです。


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明智光秀を討ち、秀吉は信長の後継者の位置に躍り出ました。
1582年6月27日・・・柴田勝家が清州会議を開きますが。。。
時すでに遅し。。。

清州会議を中座してきた秀吉。。。
あ~、ここがポイントだったと思うのに。。。
三法師の説明とで終わっちゃいました。
なんで???

ここ、すっごいポイントですよ・・・
なのに・・・もっと軍師らしく描いてほしいの。。。

信長の仇を討った羽柴秀吉、信長の重臣の柴田勝家、同じく丹羽長秀、信長の乳兄弟の池田恒興の4名です。
官兵衛がこの清州会議に案を出したという説もあり、秀吉が頑張ったという説もあり・・・はたまたすでに三法師に決まっていたという説もあり・・・。

わかりませんが、どうせフィクションも入った物語なんだから、ここで官兵衛をカッコよく書かずしてどうする???
この大河では、どうやって攻略したか??みたいなことは書いてくれないのね。。。

信孝に・・・”お市”との結婚を願ったと思われる節がありましたが、個人的には柴田勝家は信長の忠実な家臣と思うので、秀吉を快く思わない信孝から勝家に頼んだと思う方がしっくりいきます・・・どうでしょう??

「秀吉の好きにはさせん!!」by信孝。

も、秀吉は10月15日には、養子としていた信長の4男・羽柴秀勝を喪主に大々的に葬儀を強行します。

その頃・・・山崎宝寺城にある茶室で・・・
そう・・・この頃すでに・・・
「表向きの事は秀長に、内々の事は利休に相談する 様にせよ」
となっていたのかも知れませんね・・・。
それも早い・・・ 

あ~~
伊武官兵衛と岡田官兵衛が廊下ですれ違って話してる

kan1












そんな官兵衛が利休によって引き会わされたのが・・・
道糞・・・利休の弟子となった荒木村重でした。
怒りのあまりに席を立ってしまった官兵衛でした。


kan2












1583年新年を姫路で迎えた秀吉。
長政とお糸の婚儀が持ち上がり・・・。
なんと、糸が秀吉の養女になっての婚儀となりました。
なんとも秀吉のサプライズ、粋な計らいです。
豊臣体制を作る上で、とっても良いお話。
家臣が少なく、苦労をしていた秀吉が伺えますね。

そして官兵衛は・・・道糞と右近と会するのです。
そこで秀吉に天下を取らせ、乱世を終わらせることを心に決める官兵衛ですが、天下人には魔力あがるという
道糞。
そう、秀吉が変わっていくのを暗示しているかのようです。

「信長様は変わっていかれた・・・
 秀吉は織田家を乗っ取ろうとしているではないか・・・!!」by道糞。

「また・・・戦が始まる。。。
 秀吉さまが天下を取るためには、避けては通れぬ道だ。
 また・・・大勢の者が死ぬ。。。」by官兵衛

そんな1583年2月。
滝川一益討伐に向かう秀吉。
盟友・一益を救うために、兵を挙げた越前・北ノ庄の柴田勝家。。。
って、そう言えばこの時、前田利家は親代わりだった勝家につくか?秀吉につくか???
関ケ原の時の小早川秀秋よろしくそんなことをしたはずなのに、名前すら出てこないってどういうこと???
秀吉の親友なんですけど。。。

いえいえ、そんなこんなで始まった賤ヶ岳の戦い。

あっという間に落城・・・。
浅井三姉妹もすんなり回収~~~

もっと書きようあったでしょうに。。。

「官兵衛・・・すべてお主の言うようになった。。。」

kan3












って、何言ったのよ・・・!!
もっと戦略戦略!!
残念でならないわ~。
今回の大河は、本当に戦略のシーンがないの・・・。

こんなにあっさりと済んでいいものなの???
命を賭けた男たちの戦いを・・・

あ・・・先日観た「命ある限り戦え、そして生き抜くんだ」を思い出しました。
これは第2次世界大戦時、パラオにあるペリリュー島の戦いのお話ですが、このドラマも、悲惨な殺し合いの映画なのに、ラブストーリー織り込んで。。。
女性の票を獲得したいの???みたいな感じでした。
このペリリュー島の戦いでアメリカ軍の戦い方がガラッと変わります。
バンザイ突撃しない日本兵に対し、火炎放射器とナパーム弾で皆殺しにかかるのです。
これが硫黄島⇒沖縄⇒本土の焼夷弾⇒原爆投下と繋がるのですが、そんなところもすっとばし、かなり興ざめでした。

あ~、話がそれてしまいましたが・・・
このところの官兵衛もそんな感じがします。
清州会議なんて、2回分ぐらい使ってくれてもいいのに・・・

賤ヶ岳の戦いも、前田利家の苦悩なんかも描いてほしかったんですけど・・・

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織田信長に仕えた大物家臣といえば・・・
柴田勝家と丹羽長秀です。
秀吉が姓を名乗るときに、この2人にあやかって、”羽柴”秀吉と名乗ったのは有名な話。

信長が、浅井長政を討ち滅ぼした時、朝廷の許可のもと部下たちに官位を与えました。
秀吉は”筑前守”、明智光秀は”日向守”、勝家は修理亮、滝川一益は”左近将監”、荒木村重が”摂津守”で・・・
長秀には越前守を与えようとしました。
すると・・・長秀は、今までどおりでいいと言い張って、さすがの信長も折れる他なかったとか・・・。
長秀は、忠実であったものの融通の利かない頑固者でした。

織田家臣のなかでの出世頭はもちろん”秀吉”。
勝家はそれを快く思わず敵意むき出しのバチバチ状態でしたが、長秀は秀吉を庇う立場をとります。
なので、信長の死後も、長秀は秀吉に味方しています。


1582年6月の本能寺の変後、秀吉は信長の敵・光秀を討つべく中国大返し!!
同じころ、四国征伐に備えて摂津・住吉の浦にいた長秀は、途中で秀吉軍と合流しています。

清州会議も、秀吉と勝家の権力争いの場になりましたが、長秀は秀吉と同じく信長の嫡孫・三法師を推しています。

でも・・・秀吉が賤ヶ岳の戦いで勝家を破ってから、丹羽家に陰りが見え始めました。
天下をとった秀吉に・・・下僚だった秀吉に臣従しなければならなくなったのです。
さらに・・・秀吉は、信長の三男・信孝を自害させ、小牧の戦いでは次男・信雄を攻撃しました。

怒った長秀は、越前府中の居城に籠もり、秀吉の招きに応じなくなります。
長秀にとっては織田家は主家。。。その主家の子供を次々と手にかけ、天下取りに突き進む秀吉に我慢ならなかったのです。

そのうち長秀は、持病が悪化し床に臥せるようになりますが。。。
1585年4月に突然病床で自害します。
勝家のように秀吉と戦うこともできず、前田利家のように従うこともできず・・・
自害は長秀の最大の抵抗だったのでしょう。

長秀は、腹を切り開き病巣を抉り出し・・・
握りこぶし大だったその病根を遺書と共に秀吉に送らせたと言われています。
秀吉も腰を抜かしたことでしょう。

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