日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:萩

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お久しぶりの「花燃ゆ」です。
テンションが上がらなかったのは、体調が悪かったから??
それとも、松陰先生不在の後遺症・・・??

そう言えば、長井雅樂の死はやったんだろうか・・・??

1863年5月10日、久坂玄瑞らによって攘夷が決行され・・・幕末の動乱へと進んでいきます。
??下関事件だよね・・・??

勝った勝ったと大騒ぎの長州藩!!
そこにいるのは、またもや握り飯を作っている文さん。
そして・・・

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「お文もきれいじゃ・・・」by玄瑞
などと言って膝枕なんかしていますが・・・。
京都行って要らんこと覚えたん??みたいな玄瑞です。
ま、ほんと、思うんですよね。
この夫婦、どこまで仲が良かったかは知らないですが・・・
今風の夫婦っぽく書くなら、芸妓は必要ないし、芸妓をだすなら昔の感じにしないと・・・ねじれて来ちゃってます。

そんな悠長なことしてたら6月・・・アメリカ・イギリス・フランス・オランダが大砲ぶっ放してきました。

爆風で怪我人が・・・!!
「せわあない・・・」と震える手で怪我人の手を握るの文ですが、そんなことでは治らないんだよ!!
ああ・・・「ならぬことはならぬ!!」と、キリッと言っていた八重を思い出してしまいました。
そう・・・今まで我慢してきていましたが、「せわあない」で済まないこともあるんです。。。

大筒をぶっ放したことが原因で、こんな惨事になったと・・・手のひらを返したように人々は怒るのでした。

「帰った方がええ・・・!!」by玄瑞

ですが、きっと史実では下関に来ていないだろうなあ・・・。

萩に戻った文・・・父・兄は、海岸に沿って土塁を築いていました。
そう・・・外国からの攻撃は、萩にも来るかも知れない・・・!!

軍艦も、報復攻撃で砲台も壊滅状態!!
そして町も・・・。
責任は久坂にとらせる・・・??

窮地を脱するには、異国を見てきた高杉晋作の意見を取り入れる!!と・・・。
そうせい公の前で控える玄瑞のもとへやってきたのは晋作。。。

「付け焼刃の軍艦、大砲の増強では西洋のそれにはとても追いつきませぬ!!
 今までの戦い方では到底異国には敵いませぬ。
 
 正面からは勝てぬ相手・・・。
 ならば、奇策を持って戦う兵を作ります。
 名付けて”奇兵隊”!!」by晋作。

身分を問わず兵を募る!!
それが奇兵隊!!
長州の男たちを皆、決起させ、長州を守る!!
いよいよ奇兵隊の登場です。

寅次郎の遺志をついでの草莽崛起・・・奇兵隊総督となった高杉晋作。
玄瑞は自分の指揮でなくなったので、テンションダダ下がり・・・。

下関に行く晋作について・・・
「では、久坂たちの援軍になってくださったのですね。」と、お気楽な文に対して・・・

「援軍?このたびの無残な負け・・・
 久坂様に、もはや戦は任せられんから、代わりに対象を務めるために行かれたんじゃありませんか!!」by雅

う~ん・・・当たってますよ。。。
この2人、ボケとツッコミでいいコンビになりそうです。
が、こんなことは男側で話を進めた方がいいのでは・・・なんて思ってしまいます。
だって・・・女は嫉妬や勘違いも多いかな??なんて思うから。。。

でも・・・いつも渦中に・・・家中にいる文、鈍感というか・・・
ここにきても夫の立場、わかんないのかしら・・・??
あげまんにはなれませんよ。。。


台場造りをしようと父上や兄上に申し出る文。。。
亀も、母上もやるそうな・・・。

女子が沿岸防備に参加するなんて・・・ありえないことをやり始める文。。。

「私はやります!!だれにどねなことを言われようと・・・」by文

テンションダダ下がりの玄瑞を尻目に”奇兵隊”が結成されます。

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下関の海を守るために・・・!!
身分を問わず、志を同じくする者たちの集まりでした。

お~、緊張感のない中、女達の「お台場」造りが始まりました。
「女子台場」です。


hana













って、着物がないから参加できない・・・などと、女心を出すところもなんだか緊張感がないわ~~~
着物を椋梨美鶴に借りに行くのもなぁ・・・
なんだか必死さが伝わらないのよ・・・。

おまけに高杉小忠太に、どんな着物を着て行ってもいいと許可をくれと進言しに行きます。
「女子の性でございます」by美鶴
前代未聞だという小忠太に、息子・晋作の奇兵隊に比べれば・・・なんて言い出す美鶴・・・
奇兵隊と一緒にしないでください。。。

こんな感じに毛利家奥御殿聡取締の老女・園山までもが出てきて働くのでした。

このお話は、史実ですが・・・ちなみに、絹も着て良いことになっていたんだって・・・
着飾りたいのは今も昔も女子!!
まさにファッションショーのようになってしまって、藩では風紀が乱れるといい顔をしなかったとも言われています。
おまけに、晋作⇒雅の手紙には、「おまえは行くな!!」みたいな文面が残っているとも言われています。
一生懸命命を賭けている男を横目に、アホな女子には成り下がるな!!ということだったのかもしれません。

百姓たちにも銃の使い方を教える晋作に対して・・・
京に上るという玄瑞・・・攘夷を実行するために!!

「現実を見ろ!!認めんか!!
 おまえは異国に負けたんじゃ。」by晋作

「ああ・・・負けた。
 大砲は壊され、船は沈められ、町が焼かれた!!
 何人も無残に死んだ!!
 長州の者が殺された。
 俺は負けたんじゃ。。。完膚なきまでに!!

 お前こそ、寄せ集めの百姓、町人数十人ぽっちで何ができる??どう守る??どう勝つんじゃ???
 やらんにゃいけんじゃろ!!
 無謀じゃろうと、見込みがなかろうと、捨て駒になろうと!!
 この命、なげうって国を動かさんにゃならんじゃろ??

 俺は京へ行く!!」by玄瑞

意固地になってますね・・・玄瑞・・・。

反対する晋作と・・・袂を分かっての出発でした。

「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし!!
 生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし!!
 
 松陰先生はそう言われた・・・
 久坂・・・俺はこの奇兵隊で必ずや大業を成す!!
 俺は死なんぞ!!

 死ぬなよ・・・。」by晋作

良いですね・・・このシーン。。。少年漫画的で。
そんな晋作が萩に残っているからこそ、京に上ることが出来るのね。
なんて思ったりもしますが、どうでしょうか??

今回はこの最後のシーンに尽きるかなあ・・・
やっぱりこれからの戦いの世界にカッコいいお龍(龍馬の奥さんね)や山本八重子以外はちょっとなぁ・・・。
そうでないなら、当時の女性らしく夫を立てて忍んで欲しいなあ・・・。


四か国連合艦隊に歯が立たなかった大砲。はこちら
奇兵隊150年 奔走する幕末最強集団はこちら


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毛利13万石の城下町、山口県萩市。。。
この日本海に面した小さな町に生まれ育った若者たちが、260年続いた徳川幕府を倒し、明治維新という大仕事を成し遂げました。

その彼らを討幕に導いた男・・・それは、吉田松陰でした。
彼の教えた松下村塾は、明治政府を支えた多くの政治家たちが学んでいました。

初代総理大臣伊藤博文、山縣有朋・・・松陰の薫陶を受けた若者はおよそ100人・・・。
その中に、特に目をかけて、松陰のNo,2と育てた男がいました。
それが、高杉晋作です。


どうして、高杉晋作をNo,2に選んだのでしょうか?

高杉を兄のように慕っていた伊藤博文は・・・
「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し。
 衆目駭然として敢えて正視するものなし、これ我が東行高杉君に非ずや。」
と、顕彰碑に表わしています。

討幕とは、吉田松陰が青図を描き、高杉が旗を振り、それに乗せられたようなものだ・・・。


松門の双璧と呼ばれたのが、高杉晋作と久坂玄瑞。
玄瑞は秀才で頭が良いことで有名です。
晋作は・・・頭も運動も今一つ、玄瑞にはかないません・・・

しかし、高杉晋作は、松下村塾・門下生の代表的な一人です。
その破天荒な討幕の風雲児・・・その登場には、吉田松陰は欠かせませんでした。

松下村塾、その大きさは、わずか15坪。
ここから勤皇の志士たちが生まれたのです。

松陰は24歳の時、アメリカ密航を企て失敗、萩の自宅へ幽閉されます。
そこで、近所の若者たちを集めて始めたのが松下村塾でした。

高杉晋作がこの門を叩いたのは、19歳の時。。。親には秘密のことでした。
というのも・・・晋作の家は、300年来毛利に仕えてきていた上士の出でした。
一人息子が罪人の塾に入るのを許さなかったのです。

常識にとらわれず、行動する力を持つが、学力が不足している・・・
松陰の第一印象はこうでした。

そこで、ライバルとしてあてがわれたのが、玄瑞でした。
玄瑞は、晋作の幼馴染、天才と言われていました。

晋作は、柳生新陰流に夢中で勉強熱心ではなかったのですが・・・

玄瑞とのライバル関係で、勉学に励みます。
2人は、松下村塾の龍虎と呼ばれるようになります。

「賢者は議論よりも行動を重んじる」
世の中を広く見よ・・・
玄瑞はその教え通り江戸へ・・・。晋作も、それを追って3か月後に江戸へ・・・。

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安政5年、大老・井伊直弼は、後に不平等条約と言われる日米修好通商条約に調印。
吉田松陰は、こんな弱腰では日本を守れないと「攘夷」を叫びます。

井伊は、危機感を抱き攘夷論者の取り締まりにかかります。
多くの者が、獄に繋がれるのを見た松陰は、この取り締まりを指揮していた老中・間部詮勝の暗殺を企てました。

江戸にいる玄瑞・晋作にも参加の要請が・・・
しかし、2人は老中暗殺などできるわけがない・・・と、反対します。

松陰は、「私は、国に忠義を成すつもりであるが、君たちは、手柄を求めているのか。高杉だけは解ってくれると思っていた。」と、晋作に対して失望するのです。

弟子たちには、まだその覚悟がなかったのです。

老中暗殺計画は失敗、松陰は逮捕され、伝馬町の牢へ・・・。
晋作は、差し入れをするために奔走します。

が・・・この行動が父の反感を買い、萩へと帰ることとなります。
師とはこれが最後の別れになりました。

吉田松陰は斬首・・・
「身はたとひ
   武蔵の野辺に
     朽ちるとも
    留置まし
        大和魂」

松陰は、29歳でこの世を去りました。
生き急いでしまった松陰・・・。

この時晋作は20歳、父の存在が大きくのしかかっていました。

松陰の考えは・・・藩などなくても良いというものでした。
草莽・・・いわゆる公職につかない民間の人物や団体で戦うしかない。と、思っていましたが・・・
晋作は、まだまだ部屋住み。。。藩の書生という立場・・・
その間で悩みます。

萩の城下町・・・そこには、今も武家屋敷が残っています。そこに、高杉晋作の家もありました。
江戸から帰ってきたのが、安政6年11月。

彼を待っていたのは縁談でした。
相手は、町奉行の井上平右衛門の娘・マサ。
萩城下一の美人と言われていました。

美しい娘と結婚すれば、落ち着くだろうと考えたのです。
しかし、結婚後、藩から江戸の軍艦教授所で航海術を学べと命令が下ります。

晋作が乗り込んだ船は、長州藩初の洋式軍艦とは名ばかりの丙進丸。
風頼みに未熟な航海術・・・江戸まで2か月かかりました。

あまりの航海の酷さに、玄瑞に漏らしています。航海術は学びたくない・・・と。
流石に手ぶらでは帰れないので、剣術修行をしながら旅を続けます。

そして萩に帰り、松陰の残した著作の編纂を始めます。

その頃長州藩を動かしていたのは、長州藩直目付長井雅樂。

長井は、開国を認め幕府と朝廷が一つになって国難にあたる・・・公武一和を提唱。
幕府の延命を図るこの策は、老中たちに取り上げられ、京都で朝廷工作に当たるまでになっていました。
つまり、この時期、朝廷と長州は仲が良かったのです。

それに対して、松下村塾の面々・・・
彼らは下級武士の出身なので、長州藩の中では全く実力はありません。
つまり藩を動かしていく立場の人間ではないのです。

しかし、吉田松陰が命を懸けて唱えた攘夷を遂行しようと久坂玄瑞が長井雅樂の暗殺を計画。
その暗殺の実行役を引き受けたのが晋作でした。

しかし、藩から上海視察に行かないか・・・と言われた晋作は上海へと行ってしまうのです。
この打診の裏には、桂小五郎がいました。

晋作の命をを惜しんだ桂が藩の重役・周布政之助を動かしたと言われています。
この上海視察が大きな影響を与えました。

この上海で・・・
1862年4月29日、高杉晋作上海到着。
その眼に飛び込んできたのは・・・
華やかな商船や公園・・・
しかしその裏には・・・アヘン戦争という厳しい現実がありました。

上海では、奴隷のように扱われる中国人たち・・・
外国に支配されるということの惨めさを目の当たりにしたのです。
文化やほこりまでも踏みにじる・・・攘夷をしなければ、日本も同じことになる・・・。

師である松陰の正しさを知った晋作。
日本に帰ってきた晋作は、オランダ商館に駆け込み、2万両で軍艦を買う契約をします。
独断で・・・
しかし、藩にはそんな金はなく、この話は立ち消えとなってしまいました。

行動はどんどん激しくなっていきます。
晋作を隊長、玄瑞を副隊長、火付役に伊藤博文、11名の若者が警備網を突破、英国公使館に火をつけます。
8万両の建造物を灰と化します。

また、京都に赴き、周布政之助に討幕を訴えます。
「10年待て。」と言われると、
「10年暇をもらいます。」と、髷を切り出家してしまいました。

出家した晋作に代わって攘夷を進めたのが玄瑞。
長州びいきの公家・三条実美と図って勅使による攘夷断行を幕府に約束させました。
その結果、幕府は各大名に5月10日攘夷の決行を命じます。

長州藩は、関門海峡のアメリカ船を攻撃しましたが・・・
報復攻撃が始まると。。。
武士たちは逃げ出し、ボロボロ・・・

この軍の立て直しを命じられたのが、高杉晋作でした。

晋作は、もともと武士には期待しておらず、土地に思い入れのある農民たちに武器を持たせた方が、よっぽど戦える・・・民兵に期待していました。
これが、奇兵隊です。
そこには、上海で見てきた太平天国の乱に立ち上がった一般の人々の攘夷運動を見た体験がありました。


そんな長州藩にまたもや京都で火種が・・・

1863年8月18日、薩摩藩が会津藩と手を結び、長州びいきの三条実美らを京都から追い出し、朝廷から長州の勢力を一掃したのです。世にいう八月十八日の政変・・・七卿落ちです。

7年後の7月19日・・・
起死回生を図った玄瑞は、蛤御門で連合軍に戦いを挑みましたが・・・
200名の死者を出して敗北・・・責任をとって玄瑞は自決してしまいました。
享年25歳でした。

そして・・・討幕という大仕事は、晋作の双肩にかかってきたのです。
吉田松陰の目指す攘夷に向かって走り始めました。


7月22日、英米蘭仏の連合艦隊が、下関を攻撃すべく、横浜を出発しました。
右往左往するも結論は出ず、和議に達した時にはすでに遅く・・・
この四国連隊によって下関は艦砲射撃されます。

長州藩の砲台は、わずか1時間で壊滅。
講和を求める使者に選ばれたのは、高杉晋作、通訳として伊藤博文が付きました。

300万ドルの賠償金に対して、非は攘夷を命令した幕府にあるといって一歩も引きませんでした。
当時、こんなふうに外国人に対抗できる人は、いませんでした。
結局、この請求は、幕府に回されることとなります。

一方幕府は、長州征伐軍の派遣を決定しました。
この長州藩滅亡の危機に息を吹き返したのが攘夷討幕を嫌い、幕府恭順を主張する俗論派=保守派でした。

藩を掌握した俗論派は、増田弾正・福原越後・国司信濃3人の家老を切腹させ幕府への恭順を表します。

これに憤慨した晋作は、奇兵隊に挙兵を訴えます。
しかし、その時の総監・赤禰武人は反乱を怖れて反対、晋作は、行先も告げずに飛び出しました。
行く先は、伊藤博文・・・
当時、伊藤は力士隊という民兵隊を任されていました。

この力士隊80名を味方とし、下関にある長州藩の海嘯を襲い、武器と食料・・・軍艦もを手に入れ、ついに、赤禰武人を追い出した奇兵隊・山縣有朋も合流・・・。

「俺についてこい!!」

晋作のもとに結集し、進軍する仲間たち。。。
クーデターを成功させます。

1866年幕府との四境戦争(第2次長州征伐の長州藩での呼び名)に勝利。
一大名に屈服した幕府は、その後。急速に力を落としていきます。。。

しかし、晋作は。。。小倉城攻めの最中、血を吐いて倒れます。
当時としては死の病・・・肺結核でした。

「おもしろき
   こともなき世を
       おもしろく・・・」

「すみなすものは
     心なりけり」
下の句を読んだのは、愛人の野村もと(望東尼)。

晋作は、「面白いのう・・・」と笑ったと言います。

風雲児は、長州藩を討幕へ導くと、生涯の幕を閉じました。
享年29歳、奇しくも師・松陰と同じ年でした。

しかし、晋作の死後も、その志は受け継がれ明治を迎えました。

桂小五郎~吉田松陰の遺志を継いだ維新三傑~はこちら
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見上げればそこに城のある町、城下町。全国に200はあると言われています。

その城下町で、新しい不思議を発見しましょう。

今回は、山口県萩市。萩と言えば、吉田松陰など、幕末のスーパースターを輩出した町です。
この小さな町から日本が改革されました。
萩の不思議と魅力とは?

山口県萩市・人口5万3843人。面積698.79㎢、特産は夏みかん・萩焼・かまぼこです。
海と山に囲まれたこの町は、維新胎動の地でした。
その基礎を築いたのは、中国地方の覇者・毛利輝元です。
萩の城下町は260年間毛利の当主によって代々治められてきました。

やはり、松下村塾の吉田松陰です。
ここでは多くの維新の志士が生まれました。吉田松陰や高杉晋作・桂小五郎・伊藤博文などです。
今も色濃く残る残影・・・そこにはどんな不思議があるのでしょうか?


萩城は?天守閣がありません。
明治の初めには五階建ての指月城が確かにありました。

これは、萩の人にとっては、とっても因縁のある城。
関ヶ原の合戦で敗れた毛利輝元は、八か国112万石から二か国36万石に引き下げられました。
さらに、当時は不便な地、萩の湿地帯に城を築くことになります。

そして廃城令により、明治7年に天守はとり壊され、現在は石垣だけが残っています。

萩の町は、江戸時代当時の古地図をもって歩ける街です。道がそのままに残っていので、時空を超える旅が出来るのです。

武家屋敷が並んでいた平安古地区は、鍵曲が残っています。左右を高い土塀で囲まれた細い道のことで、曲がっており、行き止まりのように見えます。敵を追い詰めるときに利用したとか。。。

そして、夏みかんが沢山生えています。

萩の夏みかん伝説。
130年以上前の失業対策として植えられた、武士を救ったみかんです。
家禄・特権を失った武士を救ったのが、夏みかんでした。
それを考えたのは、藩の要職や小倉県権令を歴任した小幡高政でした。

そして大成功し、明治大正の頃は萩の財政の数倍の夏みかんの収穫がありました。
夏みかんには、恩があるのです。黒ハート


幕末の英雄を思う。。。
菊屋横町には高杉晋作の旧宅があります。

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坂本龍馬と並ぶ幕末の英雄高杉晋作。
最強の軍隊・奇兵隊を率い長州藩を討幕に導いた維新の風雲児です。
高杉家は中堅の武士で、実務を担当しながら、お殿様の側近をしているような家柄でした。

イメージとしてはヒーローですが、萩ではこの英雄は疎まれていました。
身分にとらわれない画期的な軍隊・奇兵隊。討幕運動の先頭にいた高杉晋作が疎まれた原因は・・・。

明治維新となって、特権階級がなくなり武士が没落し・・・誰がこんな酷いことをしたのか???
「それは、高杉晋作のせいだ!!」と言うことで、親族は肩身の狭い思いをし、嫁にも行けなかったとか。。。


木戸孝義(桂小五郎)の家は、高杉晋作のすぐ近く。同じ町内です。
桂小五郎の家は、和田という医者です。桂家に養子にはいり、狙われるようになってからは木戸と改名します。また、近所には伊藤博文もいました。

維新を支えた3人は、竹馬の友であったのです。


英雄と天才を生む町。
維新を支えた英雄や、4人の内閣総理大臣(伊藤博文・山縣有朋・桂太郎・田中義一)を生んだ町萩。
そこには吉田松陰と松下村塾の存在がありました。

人はなぜ勉強するのか―千秋の人 吉田松陰 [単行本] / 岩橋 文吉 (著); モラロジー研究所 (刊)
人はなぜ勉強するのか―千秋の人 吉田松陰 [単行本] / 岩橋 文吉 (著); モラロジー研究...
吉田松陰は、幕末の思想家で、松下村塾を主催。
久坂玄瑞・高杉晋作・伊藤博文ほか、多くの維新史志士影響を与えました。

1854年にペリーが来航した際、黒船に乗船しようとして失敗し、投獄される松陰ですが、そのことをペリーが記述しています。

「厳しい法律を破り、知識を得るために命を懸けた日本人の知識欲を示すもので、大変興味深い出来事だった。」

萩に戻った松陰は松下村塾を開き、数多くの英雄を輩出します。

松下村塾、始まった当時は庭の納屋を改築した八畳の小屋で、身分の区別なく無料で学ぶことが出来ました。
日本の未来を担う若者、92名の門下生を輩出。しかし、ごくわずかの期間しか・・・1年ほどしか開かれていませんでした。

それは、”日本を背負って立つ有為な人材を育てること”だったからです。
この明確な意識の元開かれていました。

その吉田松陰の教育指導とは?
久坂玄瑞は、非常に褒めて育て。
高杉晋作は、比較して育て。
伊藤博文は、・・・才劣り 学幼きも 質直にして 華なし

吉田松陰は、命を懸けて人を育てました。
吉田松陰一日一言 [単行本(ソフトカバー)] / 川口 雅昭 (著); 川口 雅昭 (編集); 致知出版社 (刊)
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藩主である毛利家は、御用商人を多く抱えていました。
もちろん、その町並みも残っています。

豪商・熊谷家。
金融・仲買・酒造業などで財を成した萩の豪商の家が残っています。
ここに残っている証文には・・・
「金三千両を奇兵隊軍用金として旧藩政府へ献納せり」
と、残っていました。揺れるハート

長州軍は、これらの豊富な資金と武器をもとに、幕府に対抗したのです。
これらの豪商が、英雄の活躍を後押ししたのは間違いありません。


高杉晋作が愛したパンは秘密兵器?

奇兵隊が食べていたパンが残っています。
幕末の科学者・中嶋治平が長崎で見聞し、長州藩へ伝えたのがこのパンです。

文献をもとに再現した幕末パンが販売されています。

このパンは、軍事目的で造られました。名前は「備急餅」。
つまり、兵糧・非常食でした。



そして、城下町には高杉晋作が愛した味もあります。
それは、桜鯛の押し寿司。

山口県萩市は、小さい町でしたが、この町から日本の舵を握るたくさんの英雄が生まれたのは事実です。
本当に魅力的な町でした。黒ハート

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