日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:薩摩藩

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「龍馬、北辰一刀流 免許皆伝!!」
ryouma
2015年10月14日、剣の達人と言われてきた坂本龍馬が本当に北辰一刀流の免許皆伝を極めていた新資料が発見されたという記事が新聞に載りました。
今でも英雄とされている龍馬、真実はどうだったのでしょうか?

1867年11月15日、この日は龍馬の誕生日であり、33歳という命を散らした日でした。
龍馬が暗殺されたのは京都。。。
1866年、討幕を画策していた龍馬の動きが幕府に察知され、命を狙われるようになっていた龍馬。
そして・・・1月22日、龍馬が潜伏していた寺田屋を、幕府の取り方50人余りが襲撃します。
龍馬はピストルで対抗するも、両手を負傷!!
それでも必死で逃げ、材木小屋で隠れているところを仲間に発見されました。
なんとか命拾いをした龍馬・・・取り方を射殺してしまったことで、京都見廻組と新選組の二つの組織から狙われることとなります。

寺田屋以降、薩摩で静養し、長崎で活動していた龍馬が6月・・・京都に帰ってきました。
このときに隠れ家は、材木問屋の酢屋でした。10月半ばには、土佐藩邸の近くの近江屋に移り・・・ここでは、土蔵に身を隠し、その情報は限られたものしか知りませんでした。

11月14日、風邪をひいた龍馬は、土蔵から母屋の二階に移ります。
11月15日・・・龍馬のもとへ土佐・中岡慎太郎がやってきました。
腹が減った龍馬は、しゃも鍋が食べたい・・・と、使いのものを買いにやります。
このとき、二階には龍馬と中岡、一階には龍馬の世話をしていた藤吉、主人・新助家族がいました。
午後8時過ぎ・・・十津川郷士を名乗るものがやってきました。
十津川郷士の中には、龍馬の知り合いがいたので、藤吉が気を緩め取り次ごうとすると・・・斬りつけられた藤吉!!
二階に駆け上がる刺客!!
刺される中岡!!斬りつけられた龍馬!!
刺客が去ったのち、一時的に息を吹き返した龍馬は中岡に・・・
「わしは脳をやられた・・・もういかん・・・」
これが龍馬の最後の言葉・・・33歳の若すぎる死でした。

龍馬を暗殺したのはいったい誰だったのでしょうか??

手掛かりは3つ・・・
①誰のものかわからない下駄
瓢亭のものだったため、新選組??
②刀の鞘
新選組・原田左之助のもの??
③犯人は「こなくそ!!」といった。
こなくそは、伊予の方言で、原田左之助は伊予出身でした。

証拠はすべて、新選組を示していました。

しかし・・・
尾張藩などが捜査に当たったところ・・・
下駄は瓢亭ではなく、鞘も原田のものではなく・・・
こなくそも、全国に似たような言葉があり、どれも証拠不十分なものでした。

さらに・・・大目付から事情徴収を受けた近藤勇は、龍馬暗殺を否定します。
もともと新選組は、不逞労使の捕縛が仕事で、殺害することはあまりなく・・・
たとえ殺したとしても、正義にために殺すので隠す必要はありません。
これらにより、新選組の犯行ではないとされました。

3年後・・・1870年に、京都見廻組だった今井信郎が龍馬暗殺は見回組の犯行だったと自供します。
襲ったのは7人・・・佐々木只三郎、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂早之助、今井信郎、土肥仲蔵、桜井大三郎で遊撃したと告白しました。
後の3人が見張りで、先の4人で殺害!!残された鞘は、隊士の一人が忘れたこと。。。
今井以外の6人は、鳥羽伏見の戦いで戦死したことなどを供述しました。
さらに、物的証拠が見つかります。
龍馬を斬った脇差・・・持ち主は、桂早之助でした。
実行犯は、京都見廻組だということが有力視されています。

では、どうして龍馬を襲ったのでしょうか??
今井は・・・
寺田屋事件で幕府の取り方を射殺したことへの罪の追求だ・・・??
しかし、見廻組には疑問が多くあります。
見廻組も、公務で行ったのであれば、隠す必要がないということ・・・
近江屋でいることは、限られたものしか知らなかったということ・・・
見廻組は利用されていただけで、黒幕がいるのでは・・・??

時代の先を行き過ぎていた龍馬・・・
その積極性、先見性は、色々なところで恨まれていました。
龍馬はどのようにして政治の表舞台に立ったのでしょうか??

高知県高知市・・・
坂本龍馬は、1835年11月15日、土佐藩下士の次男として生まれました。
身分差の厳しい土佐では、下級武士である龍馬が出世できる見込みはなく、龍馬自身の性格も泣き虫で気弱な少年でした。
そんな龍馬の支えとなったのは、3歳年上の姉・乙女でした。
男らしく剣術道場に通わせます。
道場で頭角を表すと・・・1853年剣術修行のために、江戸へ遊学・・・!!
入門したのは、北辰一刀流の千葉定吉道場でした。

その2か月後、黒船が来航!!

これが転機となって、尊王攘夷論に目覚めていきます。
さらに尊王攘夷を傾倒させたのが、同郷の武市半平太。
6歳年上の半平太は、文武両道で、若い下級武士たちのリーダー的存在でした。
土佐勤王党を成した半平太。
その誘いを受け、龍馬もメンバーとなり、勤王の志士の道を歩むこととなるのです。
1862年1月・・・龍馬は半平太の使いとして長州に赴き、尊王攘夷運動の先頭に立つ久坂玄瑞と出会います。

「尊王上の大義のためであれば、尊藩と弊藩が滅んでも構あ示し、海軍を作り、西欧列強に対抗しようと話します。
国のために・・・!!
スケールの大きな海舟にほれ込んだ龍馬は、弟子入りするのでした。
自分の意識の中に、土佐人→日本人へと変化した瞬間でした。

龍馬は、海舟が土佐藩第15代藩主・山内容堂に掛け合ったことで、脱藩の罪を解かれ、海舟が1863年に創設した神戸海軍操練所の補佐役として参加します。
航海術や英語を学び、見識を広めていった龍馬、訓練生たちを束ねてリーダー的存在になっていきます。
勝海舟との交流で、見識や人脈を広げたことが龍馬の財産となっていきます。
表舞台の道が開けていきます。

自由の身となった龍馬・・・
龍馬の人脈の中には、明治維新の立役者となった者もたくさんいました。
長州藩士・桂小五郎とは剣術修行時代に出会っていたといわれています。
また、海舟の紹介で、西郷と知り合います。

龍馬は人を引き付ける魅力がありました。
もちろん、話上手であったのでしょう。しかし、龍馬が脱藩しているという自由な立場・・・藩の利害や役職と関わらない・・・ということが人脈を作っていくことになるのです。

外様大名の雄であった長州藩と薩摩藩が、1864年の禁門の変で尊王か公武合体かで対立します。
犬猿の仲となってしまった長州藩と薩摩藩・・・
その桂と西郷の仲を取り持ちます。
1866年の薩長同盟・・・時代の流れは、討幕へと傾いていきます。

さらに龍馬は・・・
幕府に代わる国家構想を作ります。
土佐藩の蒸気船・夕顔の中で、後藤象二郎に熱く語り、仕上がったのが、「船中八策」です。
大政奉還をはじめ、身分を問わず優れたものを登用すること、議会政治をすること、憲法制定、軍の強化、金銀の交換率を定めること・・・どれもみな、斬新なものでした。

これをもとに、大政奉還の建白書を作成した後藤・・・
1867年10月3日、山内容堂を通して幕府に提出!!
15代将軍・慶喜は、徳川家が生き残る道はこれしかない!!
と、10月14日、大政奉還が行われました。
江戸という時代の終焉でした。

しかし・・・その1か月後の11月15日、功労者・坂本龍馬は京都見廻組によって命を奪われてしまいました。
そして、その背後には黒幕がいた可能性が高いのです。
その黒幕の正体とは・・・??

①土佐藩黒幕説
後藤には、暗殺の実行者・今井との接点がありました。
二人は円山会のメンバーとされたからです。
暗殺の動機は・・・大政奉還の実績を後藤が独り占めしたかったため
自分が船中八策の発案者となるために邪魔な龍馬を暗殺したというものです。
しかし西郷たちも周りの人も、「船中八策」は龍馬の発案だということは知っていました。
後藤が龍馬を殺すメリットがないと思われます。

②紀州藩黒幕説
龍馬が暗殺されたとき、仲間たちが真っ先に疑ったのが紀州藩でした。
一番の動機があったからです。
発端は・・・
海援隊を組織した龍馬は、海運業に乗り出しました。
1867年4月23日、龍馬たちを乗せたいろは丸は、大量の兵器を乗せて瀬戸内海を長崎から大阪に向かっていました。
天候もよくなく・・・目の前に現れた紀州藩の明光丸!!
衝突してしまったのです。
龍馬たちは明光丸に飛び移って無事でしたが、1/6の大きさの明光丸は大破、沈んでしまったのです。
紀州藩と海援隊は、長崎で話し合います。
紀州藩は御三家の威光でかわせると思っていました。
紀州藩交渉役・三浦休太郎も余裕で出席・・・龍馬は死を覚悟して毅然とした態度で挑みます。
紀州藩側の主張は、長崎奉行の採決にゆだねるべきというものでしたが、龍馬は・・・
「蒸気船同士の事故の前例は日本にはないので、国際法にのっとってするべきだ!!」
とし、明光丸の航海日誌を持ち出し、明光丸側の過失を追求していきます。

想定外のことに紀州藩は、薩摩藩に仲介を求めます。
最終的に、海援隊に賠償金7万両(70億円)を支払うことになりました。
面目をつぶされた紀州藩は、龍馬を恨み、交渉役だった三浦が紀州藩の意を汲んで暗殺を命じたとされていますが・・・
海援隊は、三浦を首謀者とし、12月7日天満屋事件を起こします。
当時も三浦が怪しいと考えられていたようですが・・・
三浦は、海援隊に狙われるのではないか??と思い、新選組に身辺警護をさせていたようです。
そうなると、暗殺依頼も新選組にするのが普通だと思われます。

龍馬暗殺は、賠償金を支払わされたうえ・・・恥の上塗りのような・・・紀州藩にはメリットのない物かと思われます。

③薩摩藩黒幕説
龍馬と西郷の間の不協和音・・・海援隊の問題です。
龍馬が亀山社中を作る際に、西郷は多額の資金援助をし、隊士たちの給金も資金援助していました。
ところが・・・侍商法で上手くいかず、海援隊が薩摩藩の経済的負担となっていたというものです。
もう一つが大政奉還・・・大政奉還を画策していた龍馬と後藤・・・それには討幕の中心にいた薩摩藩の同意が必要だと思っていましたが・・・同意していた西郷でしたが、西郷は慶喜は大政奉還を受けるはずがない!!と思っていました。
裏で、武力による討幕を進めていたのです。
が・・・思いもよらず、慶喜が大政奉還を受け入れたことで、薩摩藩の討幕理由がなくなってしまいました。
さらに、龍馬が作った「新政府綱領八策」の中には・・・
「〇〇〇自ら盟主となりこれをもって朝廷に奉り、はじめて天下万民に公布云々・・・」
これは、〇〇〇をリーダーとして新しい政府を作るというものですが・・・ここに慶喜公が入るのでは・・・??
と思う人もいました。
慶喜を排除しようとする薩摩藩・・・慶喜の復権は裏切り行為・・・??
薩摩藩が龍馬が邪魔になったから・・・??

これのもとは、今井の処遇でした。
新政府の功労者である龍馬を暗殺したにもかかわらず、極刑になることもなく、2年で特赦により自由の身となりました。
これにも西郷が裏で糸を引いていたのでは・・・??と言われています。
しかし、大政奉還後、西郷は龍馬にあっていないので、「新政府綱領八策」のことで薩摩藩が龍馬を暗殺することはない・・・と思われます。

真相はやぶの中・・・

坂本龍馬・・・日本の未来に誰よりも先のビジョンを持っていました。
龍馬の先見性と行動力がなければ日本の未来は変わっていたかもしれません。

やっぱり、幕末の英雄なのです。

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遂に第2部の最終回・禁門の変がやってきました。

hana













が・・・前回も、最終回があるというまでの盛り上がりは特になく・・・
その後の1回分でどれだけ盛り上がるのでしょうか??

来島又兵衛は、いきなり薩摩藩兵の銃撃隊として活躍した川路利良の狙撃で胸を撃ちぬかれ死亡。

hana3











・・・

そんな場面でも、文の場面が入るという・・・感情移入が全くできない状態です。

真木和泉の全く出てこない”禁門の変”に違和感を感じずにはいられない・・・
頭の片隅にそんなことを感じながら、ドラマは進んでいきます。

でもって・・・ドラマの主人公の夫・久坂玄瑞は・・・??

「生きて鷹司邸に入り、生きて天子様へ嘆願する!!」

と、相変わらず鷹司邸に入る事だけを愚直に考えているのでした。

でもって・・・負傷するもみんなのおかげで簡単に鷹司邸に入れてしまうのです。

鷹司輔煕・・・マロなのに度胸あるわね・・・
落ち着いていらっしゃるわ・・・。

懇願する久坂ですが・・・

マロが一番嫌う死とか・・・血とか・・・そんな忌み嫌う穢れで御所や家を汚されたことに怒り心頭!!
足蹴にされてしまう玄瑞です。

これは当然よね・・・。
穢れは一番忌み嫌うわ・・・そのための武士なんだから・・・。

でもって・・・火もまわらない、攻め入っても来ない鷹司邸で・・・
玄瑞が話し出します。

「ここまでじゃ。。。」by玄瑞

と、自分が全ての責めを負うと言い出すのでした。

「あなたは生きねばならぬ人です。」by九一
だから・・・どういった意味で生きなければならない人なんでしょう??
玄瑞の良さが全く出ていないので、命を懸けてまで守らなければならない人だということが解んないんです。。。私。

「お前は高杉を支えてくれ。。。」by玄瑞

と、押し問答している時にひとりの志士が・・・

「最後まで一人でいくなんぞ許しません。
 久坂さんは僕の憧れでした。
 生きるんも死ぬんも久坂さんと共に。
 それが僕の立てた志じゃ・・・!!」

??お!!もしかして寺島??
こんないいシーンまで、玄瑞を尊敬しているという何のフラグも立たないまま一緒に死ぬのでした。

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ほんと、こんなに落ち着いて良いの??
周りも攻め込んでくるでしょう??

イメージ的には切羽詰まって鷹司邸にやってきて・・・それでも追い込まれ、追い込まれ、あっという間に火の手が上がり・・・相手が入ってくる前の自刃!!なんですが・・・そんな勢い全くありませんでした。

九一は元徳様への伝言を伝えることもできずに鷹司邸を出たところで命尽きるのでした。
あ~、全く活躍の出来ないまま死んじゃったよ・・・九一・・・それこそ、無念!!

九一が死んで・・・そりゃあ、敵が攻め入ってくるはずなのに、文を想いだし、思いだし・・・

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「後は皆が志を継いでくれる・・・
 お文・・・約束守れんですまん・・・じゃがな・・・俺は生きたぞ!!」by玄瑞

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??最期の最期まで視聴者の期待を裏切ってくれたのではないでしょうか??
そこはやっぱり、志を遂げることができずに無念!!だからこそ、儚く悲しいのです。
ほんと、こんなキツイ感想、書きたくないんですが・・・


おまけに京で戦になっていることも知らなかった文。。。
家庭菜園でもして夫の帰りを待とうなんてことを久米次郎に話しています。
ここら辺の空気の読めないところが妻として今一つの展開なんですよね・・・。
そして・・・野山獄の高杉にも玄瑞の死の知らせが・・・。

でもね・・・一人一人がキャラだっていないせいか・・・全く泣けないの。。。
この事実には本当にショック。。。

帰ってきた品川から変の詳細を聞く杉家の人々とすみ。
茫然自失の文ですが・・・本当に武士の妻であるならば、凛として・・・「ご苦労さまでした。」みたいな感じで聞いて欲しかった。。。


当たり前ですが、追討令が発せられた長州。。。

久坂家は断絶、養子縁組はなかったこと・・・久米次郎は小田村に帰す・・・そんなお達しがあっても受け入れない文。。。
??今回の元凶は久坂玄瑞。。。知っている人もたくさん亡くなっています。
肩身が狭く、みんなに詫びることはあっても、我を張るのはどうかと思うのです。

久坂家断絶で封鎖されてしまった家。。。
おかしくなってしまった文は、椋梨家へ向かうのでした。

hana4











「なんです?あなた??」by美鶴

「お願いがあって参りました。
 久坂家を無くしてしもうては困ります。
 夫と約束しました。
 久米次郎と私と・・・三人で暮らすと。。。
 久坂の家がなくては困ります。
 あの人に怒られてしまいます。 
 久米次郎は孟子をそらんじてお父上に聞かせると・・・
 やから、私がしっかりと久坂家を構えてお出迎えせんと・・・」b文
 
「ここはあなたの来るところではありません。
 お帰りなさい。」

おかしいでしょう??
あの人をこねな目にあわせたんは寅兄ですよ!!
久坂家の断絶は至極当然であると言い放つ美鶴!!これこそ武家の妻でしょう。

おまけに、藤太にまでしがみついて懇願する文。。。
ここはきっと、文に感情移入して泣くのがあっているのでしょうが・・・これまた藤太の言う方が正論です。

久坂の家がお取り潰しになるのは当然!!と藤太に言われ・・・

「あなた様なんですか? 
 あの人をこねな目にあわせたんはあなたなんですか??」by文。

??本当におかしい・・・そんな文は何か策が浮かんだようです。
紅を引き・・・園山に会いに来ました。

「台場作りではお世話になりました。
 お願いしたいことがございます。」

って・・・お取り潰しとなった家の妻が・・・こんなに簡単に会えてしまう人なんでしょうか??老女・園山。。。

「お文は??」と、妻よりも文の心配をする伊之助登場!!
寅次郎、玄瑞を見殺しにしてしまったことを詫びていますが・・・
これもごく当然というか・・・テロリストみたいなことをしたんだから、伊之助がどう働こうときっとこうなっていたでしょう。

で・・・立ち直りも早く・・・

みんなに園山に、お城で働かせてくださいと、お願いしたと話します。

「わからんからです、なぜあの人が死んだんか。
 解らんままに弔いを??
 そねなこと出来ません。

 なぜ死んだんです・・・寅兄は。。。
 なぜ死んだんです・・・稔麿さんは・・入江さんは・・・
 なぜ死んだんです・・・亀太郎さんは、寺島さんは・・・

 なぜ!!久坂は・・・!!
 だって、あの人は生きると約束してくれた。共に生きると!!
 嫌や、私は受け入れん!!許さん!!
 絶対許さん!!あの人を殺したもんを・・・!!
 なぜ・・・それが解るまで弔ったりなんかせん!!涙も流さん!!
 やから・・・あの人は死んでなんかおらん!!」by文

いやあ・・・なかなかの三段論法です。
が、だったら、巻き込まれた人々は・・・自分の家にやってきて家に火を放たれ勝手に自刃された鷹司家は・・・??
みんな許せやんやろう・・・。
 
「お城に奉公にあがってどねえするつもりじゃ?
 奥に入れば、家にも帰れんのだぞ。」

「構いません。
 小間使いでも下働きでもなんでもやります。
 そうやって政の真ん中でのし上がって、いつか殿さまの御前に出られる時が来たら・・・直にお尋ねします。
 私の大切な人たちが、何故無残に死なねばならんかったんかを・・・!!」by文。

そうせい公・・・さっききょとんとしてましたよ。きっと聞いてもわかんないでしょう。。。
それに、前回会ってましたよね・・・あれも多分、フィクションなんだから、こういうことになるなら会っていない方が良かったんじゃないかしら??
ほんと、文の子孫の方からクレームでないんでしょうか??
心配してしまいます。

で・・・久坂家を守るのではなく・・・久米次郎を小田村家に帰すのね・・・。

「皆さま・・・これまでお世話になりました。
 お別れ申し上げます。」


ほんと・・・妻のたたかいって・・・次回から始まるんではないのか・・・??
 
禁門の変は1864年・・・文が奥に上がるのは1年後ぐらいからだといわれています。
史実としては、元徳様に子が生まれ・・・毛利家のお世継ぎとして教育するために・・・と、園山が文に白羽の矢を立てたとも言われています。

こちらの流れの方が自然だし、お取り潰しになった家の者でなおかつ下士の女性なのに・・・
文が知性あふれる女性だったんだな??と思えて良かったのに・・・
奇をてらい過ぎてるきらいがあると思うのは私だけでしょうか??


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あ~、テンションあがりませんね・・・この題・・・。
ほんと、こんなのは昼ドラでやってほしい。。。

前回・・・壊滅的に負けてしまった長州・・・敗戦の責任を負ったまま・・・京都へと向かう玄瑞がいました。
攘夷実行に奔走する玄瑞。
お・・・桂さんもいる。。。
でも・・・最重要人物・孝明天皇いないわ・・・。

hana











・・・そんなことを教えてもらっていなかった文・・・。
またもや、晋作の妻・雅からの情報でした。
ま・・・そこが一番可哀想だな・・・。信頼してもらえていないというか・・・。

そして・・・辰路は薩摩藩のスパイとして、玄瑞の情報を探ります。

なんと・・・ひとりで旅立った玄瑞のもとへ・・・長州の志士たちが京都へやってきました。
そして、みんな・・・大きな歴史の渦に巻き込まれていくのです。

みんなが戦いに協力する中、敏三郎も奇兵隊に参加すると言い出しました。
晋作が誘ったのです。
って、玄瑞よりも頼りになるよ・・・晋作。。。

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さすがに・・・「せわあない」では済まない母。。。

が・・・結局、敏三郎は奇兵隊に参加します。
もちろん史実でも志願はしていますが・・・本当だったのかなあ。。。
そんな敏三郎を文が送っていきます。


玄瑞は、三条実美らに働きかけ・・・尊王攘夷派をまとめ御上による大和行幸を実現させようとしていました。
晋作は・・・下関で砲台を造り・・・調練を行っていました。

下関に着いた敏三郎と文。

そこで京で一大事が起きたことを晋作の口からきくのでした。

「久坂を助けに・・・!!」

そう・・・八月十八日の政変ですね。
お・・・薩摩の旗、会津の旗に萌えるわ・・・。

って・・・この八月十八日の政変・・・重要ポイントですが、本当にややこしくて・・・
よーく考えないと理解しにくいんですが・・・
このやり取りをやってくれないのね・・・。

hana5












天子様に銃を向けてはならないと、伊之助に踏みとどまることを命じられる奇兵隊・・・。
すでに、七卿をこちらに迎えて再起を図るというのですが・・・
玄瑞は責任もので切腹かも?と、心配するとか、晋作が奇兵隊総督を免じられこの危機に藩の政に参加するように言いつけられるのですが・・・。

こんな一言で済ませて良いのか・・・。
「七卿落ち」のシーンは無いのか・・・??
待ってるんですけど・・・。

敏三郎を置いて、萩に帰る文がそこにはいました。

hana3










お・・・京では・・・来島又兵衛も登場してきました。
玄瑞にとっての鬼門さんです。

杉家では、敏三郎の手紙に喜んでますが・・・

もっと七卿落ちを・・・!!

最後の決断の時・・・
ここで本当の幕末ドラマを!!
おにぎりや男女のあれこれではなく・・・ここをやってほしかった。

史実とされているのは・・・
妙法院の中で一番大きな建物である宸殿上段の間に着座した七卿・・・
協議の末、長州に落ち延びて再起を図ることを決めました。
苦渋の決断を締めくくるかのように、玄瑞は即興の今様を歌います。
その歌は、「七卿都落舞歌」と題され名作と呼ばれているのです。
すんごいドラマチックなんですが・・・ドラマ的にもしびれるほどの絶好のシチュエーションなんですが・・・。
やってくれません。

長州藩士・阿久根に利用され捨てられた辰路と傷心の玄瑞。。。
辰路の苦労話・・・必要ですか??
神社のおみくじの話必要ですか??
七卿落ちは・・・??

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ふたりのねんごろシーン・・・要らないんですが。。。

「俺はサイテーじゃ・・・」by玄瑞。

サイテーなのは、こんなことを書いてる脚本なんじゃ・・・
やってくれよ!!「七卿都落舞歌」!!
久坂玄瑞、一世一代の見せ場だったんだから・・・!!


で・・・いきなり久米次郎養子の話を手紙でよこしてくる玄瑞。。。
帰ってきたのに京都に戻るという玄瑞。

妻として迎える文は・・・一言相談してくれてもいいのに・・・みたいなことを愚痴っとります。

「俺を見んな・・・京の女と情を通じた。。。」by玄瑞。

やっぱり・・・副題はこの事だったんだ・・・。

悔いる玄瑞がそこにはいました。

って・・・お国の事は??
松陰先生は、私事より国事を大事にしたんだよ
ほんとう吃驚。

個人的には、京に集まった志士たちは、女遊びも盛んだったといいます。
ま、土方歳三がモテてモテて仕方がないと、実家の手紙に書いたのは有名ですが、玄瑞もモテモテだったといいます。
あのお顔の局長・近藤さんもモテモテだった。。。というか、そんなカッコいい男と粋な女が集まっていたんだと思うのです。

ま、玄瑞が文を愛していたか?はよく判りませんが・・・
辰路とのことは、どこまで後ろめたさを感じていたのかは分かんないですよね。
時代が時代ですからね・・・だいたい、遊郭が公然とあった時代です。
個人的には、全く感じていなかったんじゃないかとさえ思えます。
文的には・・・ここで知ってしまうということは、後々”子供がいた”という事実のインパクトも無くなっちゃうんじゃないかと、これからの筋書きに心配を感じます。


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日本屈指の貿易港・・・横浜。
幕末、通商条約によって開港された異国情緒漂う街です。

今から150年前、横浜港外の生麦村である事件が・・・
1862年8月21日、乗馬を楽しむイギリス人男女4人が、薩摩藩の行列に遭遇し・・・
そのうちの一人・・・チャールズ・リチャードソンが無礼者として殺害された・・・

生麦事件です。

ひとりの青年の死が、イギリスと幕府、薩摩を巻き込んで、大事件へと発展しました。

mugi.png

その始まりは、不幸の偶然からでした。
日本のしきたりを知らなかったイギリス人たち・・・
出会ったのは、薩摩藩・島津久光の最強軍団だったのです。

この偶然が、幕末史を変えることとなりました。

イギリスの巨額賠償請求、海上封鎖計画・・・幕府の権威は失墜します。
薩英戦争の勃発・・・
徳川幕府の崩壊・・・時代は大きく明治維新に舵を切ることとなります。

位置づけとしては、ただ単に日本とイギリスの戦争ではなく、太平洋戦争のような。。。
世界史において重要な事件であることに間違いありません。

事件の舞台となったのは、現在の横浜市鶴見区生麦・・・
かつては、富士山と相模湾を望める絶好の場所で、旧東海道にあります。
道幅は三間・・・5.4mほどです。

事件現場は・・・お茶屋などがあり、旅人で賑わっていました。
そして、そこにはたくさんの偶然がありました。

偶然其の一・・・外国人と大名行列が出会う村。
生麦村は、条約で外国人の遊歩地区となっていました。
一方、東海道は、大名行列の通る幹線道路でした。

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偶然其の二・・・上海から来た男
事件の被害者、チャールズ・リチャードソンは、イギリス商人です。
横浜にやってきたのは、2か月前・・・ロンドンに戻る前の観光でした。
初めての日本に好意を持っていたようです。
乗馬・・・4人が目指したのは、川崎大師。
風光明媚な東海道を続きます。
日本が初めてのリチャードソンが先頭になりました。
そこへ・・・江戸を下ってきた大名行列が・・・

駕籠に乗るのは、島津久光・・・
ただの大名行列ではなく、幕政改革のための率兵上京でした。
幕府の力が弱まっていたために、中央政局に出ていき幕藩体制の立て直しを図ろうという目論みがあったようです。
行列には・・・小松帯刀・大久保一蔵・黒田清隆・松方正義・・・そうそうたるメンバーです。
さらに、剣の達人たちも・・・その中には、攘夷に燃える者もいました。
精鋭400人の行列は、まさに、薩摩藩の最強軍団だったのです。

午後2時生麦村で・・・英国人一行と久光の行列が遭遇します。
先頭のリチャードソンとマーガレットは左端によりながら通ります。
馬から降りずに通る無礼な外国人に、藩士たちは怒りを覚えます。
そこへ、道幅いっぱいに久光の駕籠本体がやってきました。

逃げ場もなく、隊列に入ってしまったリチャードソン・・・そして・・・
悲劇が起こりました。
最初に動いたのは、奈良原喜佐衛門。リチャードソンを左肩から切り下げました。
薩摩藩士が一斉に抜刀し、イギリス人たちに斬りかかります。
逃げる途中にまたもや斬り付けられ・・・1キロ先で落馬、追ってきた藩士にとどめを刺されてしまいました。

イギリス人と薩摩藩士・・・
それぞれの立場で良かれと思ってとった行動でしたが・・・大事件となりました。
大名行列の権利とイギリスの権利がぶつかった大事件でした。

尾張藩主の徳川茂徳の大名行列が2年前にこのような事件に遭遇していましたが・・・
この時は、大名行列を眺めようとした外国人を・・・殿様も、オペラグラスで見たそうです。

この時の状況は、ただの参勤交代の大名行列ではなく、幕末の動乱の始まりと言われている久光の卒兵上京・・・大砲や銃などを隠し持って武装兵を連れての大名行列でした。

この時の久光は、慶喜を将軍後見人に、松平春嶽を大老にしようとしての状況だったのです。
しかし、幕閣からは冷たくあしらわれ、自分が幕政に関われなかった・・・
イライラしながら京へと戻る途中だったのです。


久光自身は、通商条約に反対ではなく、自らも貿易をし、富国強兵に励んでいました。
攘夷ではあるけれども、今の国力では勝てないことも知っていました。
だから、イギリス人を殺害してしまったことに対しては、かなり当惑していたようです。
このことが、薩摩藩にとっての国難になる・・・そのことは、薩摩藩も容易にわかったことでした。

久光たちは、予定通りに程ヶ谷宿へ・・・。
一方、横浜の外国人居留地は騒然・・・

ジャパン・ヘラルド紙には・・・
世にも無残な血まみれの遺体だったとしています。

夜10時怒りに燃える外国人たちは緊急会議を開きます。

「薩摩の大名の宿を襲撃すべきだ!!」

深夜3時・・・居留民代表は、軍事行動を求めて・・・ジョン・ニール代理公使の下へ・・・
しかし、軍隊の派遣はかたくなに拒否・・・。
この重大性を理解していたようです。

日本は開国以来、事件が多発していました。
ロシア海軍軍人殺害事件・オランダ船長殺害事件・ヒュースケン殺害事件・東禅寺事件・・・
攘夷派浪士のしたものでしたが、今回は犯人は薩摩藩と犯人が解っています。
慎重な行動が必要でした。

幕府が訪問した時に質問しています。
「幕府には、薩摩藩の侍を逮捕する権利や実行力があるのか???」と。

それに対し幕府は・・・
「薩摩は強力な雄藩。
 幕府は犯人の引き渡しを藩主に強制できません。」

この時ニールは・・・幕府と同じくらいに藩が権力を持っていることを確認します。
そして・・・本国に報告、判断を仰ぎました。

一方、加害者である薩摩藩・島津久光一行は・・・
無礼討ちを主張!!

入京した久光を迎えたのは、
「よくぞ異人を切った!!」と、誉められます。

久光は、このことについて苦々しく「攘夷ではない」と言っています。
「攘夷を強行すれば敗北、国内の武備の充実が先決である」と。

しかし、攘夷一色となっていた朝廷は、全く聞く耳を持ちません。
過激な攘夷に反対しながらも、生麦事件で攘夷のチャンピオンになってしまった久光・・・
不本意ながら、鹿児島へと帰っていくのでした。


事件から4か月後、イギリスは・・・
幕府と薩摩藩の両方に責任を取らせようとします。
幕府に対しては、監督責任として女王陛下への正式謝罪と賠償金10万ポンド(240億円)。
薩摩藩に対しては、犯人の即時逮捕および処刑、遺族と被害者に2万5000ポンドの賠償金。
イギリスの二重賠償請求・・・幕府と薩摩の両方に賠償を求めたのは、画期的なことです。
幕府だけでこの国は動いているのではない・・・
帝(天皇)・大君(将軍)・諸侯(大名)の3つで日本は成り立っている・・・ということを、ニールは知っていたのです。


1863年2月19日、イギリス艦隊が横浜に入港します。
資料によると・・・幕府が要求を拒絶した場合のイギリスの報復が書かれてあります。
即刻軍艦を回し、大坂・長崎・函館その他諸港に至るまで出入りの船を奪い江戸を焼き払う・・・日本に対する武力発動が・・・という大意が書かれていました。
主要な港を封鎖し、瀬戸内海を遮断し、江戸に入るコメなどの流通を阻止しようとしていたのです。
さらに品川平を襲撃する・・・


幕府はこの時、朝廷から攘夷を迫られていました。
朝廷は条約破棄を望み、賠償金も払うなという考えです。
賠償金を支払えば・・・非難の的になること間違いなしです・・・。
交渉の引き延ばしにかかろうとしますが・・・
イギリス側は、4月20日までに回答がなければ交渉を決裂すると言い出します。

迫る戦争の危機と、攘夷の国内勢力・・・ギリギリの状態の中、迷った挙句に賠償金の支払いに応じます。
とりあえず、戦争を回避しました。

決断できない幕府をよそに、薩摩は自分側には非はないと貫きます。
この強気な薩摩の本音は何なのでしょう???
イギリスは犯人の要求でしたが、その手紙が幕府内を転々としているうちに・・・尾ひれがついて、薩摩に渡った時には「久光の首をよこせ」となっていたのです。
これには応じるわけにはいかない・・・
この情報が、薩摩藩の攘夷派を激怒させます。

この空気に・・・久光も海戦を覚悟します。
敵に屈することは恥・・・
85門の砲台を築き、戦闘準備が始められます。

1863年6月27日イギリス艦隊鹿児島に到着。賠償を要求しましたが、薩摩はこれを拒否。
7月2日夜明け前・・・イギリスが薩摩の蒸気船3隻を拿捕、これを宣戦布告と見なし、薩摩は砲撃を開始・・・薩英戦争が始まりました。
2日に及ぶ砲撃船の結果・・・イギリス、薩摩に想定外のことが起こります。

実はイギリス艦隊は、戦うつもりはなく・・・
というか、薩摩側が「戦うのは無理だろうから賠償金を支払うだろう」と思っていたのです。
大砲に砲弾を装てんしていなかったイギリス・・・
旗艦ユーリアラス号には、弾薬庫の前に幕府から巻き上げた賠償金を積んでいました。
これにより、反撃するのに2時間以上かかったのです。
薩摩の砲弾が命中し、艦長と副長が即死。
2日間で薩摩軍は死者24人だったのに対し、イギリス側は63名に上りました。
この時、イギリス艦隊の火が鹿児島の町に飛び火し、大火をまねきます。

イギリス艦隊のキューパー提督はこれを戦果として強調、それがイギリス議会・教会関係者の大きな非難を呼びます。
「日本の家は、竹と紙でできていると聞く・・・非武装の一般人の家を破壊することが、今後の戦争における先例となれば、人類にとって想像もできない恐ろしいことになるであろう。」
恥ずべき犯罪行為として、ヴィクトリア女王が遺憾の意を示すまでになります。
帝国主義のイギリスも、市民に対する戦いについては批判する目も持っていたのです。

一方の薩摩、イギリスとの戦力の差を痛感します。
薩摩藩の丸い砲弾に対して、イギリス側は溝の掘られたしいの実型の砲弾で、3倍の飛距離があり、薩摩の被害は甚大でした。
これによって、過激な攘夷派も頭を打って、目を覚ましてくれるかもしれない・・・。

「無謀な攘夷は出来ない」ということを痛感します。

お互いにこれ以上の戦闘は望んでいませんでした。


久光は・・・松平容保と一緒にダブル京都守護職になるかもしれなかったのですが・・・
この薩英戦争のゴタゴタのために京都に入ることが出来ませんでした。
もし、久光が容保と一緒に京都守護職になっていたら・・・
尊皇攘夷運動も、大きくならなかったかもしれません。

講和に選ばれたのは、薩摩藩士・重野厚之丞。学者肌で知略に富んだ男です。
下級武士ながら、久光の庭方役、交渉の全面を任されていました。
明治に入ってからは、東京大学の教授になった男です。

横浜のイギリス公使館で行われた講和交渉では・・・

交渉第1日目・9月28日
重野「もともとイギリスと日本は条約和親の国、日本に属する薩摩も貴国と同じ戦争をする理由などありません。」
ニール「私たちも同様、日本は条約国。薩摩のみならず日本と戦争をする理由はない」

交渉は、お互いの友好を確認するところから始まります。
しかし・・・
重野「戦争になったわけは、わが蒸気船を何の知らせもなく奪ったためやむをえなく発砲したのである。」
ニール「戦争をするつもりではなく、交渉のために奪ったのだ。
    私たちは、賠償を求めるために鹿児島に行ったのであって、決して戦いをしたかったのではない。
    薩摩とは仲良くしたいので、まずそちらからの和議の申し立てをしてほしい。」
重野「イギリス人を斬ったものを罰し、賠償金をお渡ししましょう。
   ただし、蒸気船を奪ったことはどのようにしていただけるのか?
   この戦争は、全くそちらから手を出したものですから、その答え次第で方針を考えましょう。」

生麦事件の非は認めても、薩英戦争を始めたのはイギリスだ・・・と、交渉をイーブンにしようとします。

2日目・10月4日

平行線をたどります。
重野「蒸気船を奪ったのは不当である」
ニール「交渉のために奪ったまで、当然のことだ」

険悪な雰囲気になります。
その夜・・・交渉決裂だけは避けたい薩摩側は・・・

3日目・10月5日
重野「賠償金をお支払いしましょう。ただし条件があります。
   軍艦を買い入れたいので斡旋していただきたい。」
ニールはあっけにとられます。
重野「賠償金支払いの決定は、本来自分の役割を超えたこと。
   しかし、その条件として軍艦を購入すれば、両国懇親の印となり、主君への申し訳も立ちます。」
ニール「しかし、一体誰と戦争をするつもりなのですか?」
重野「今、誰が敵ということはありませんが、兵備として備えておきたい。
   一隻のみとは言わず、追々は数隻注文したいと思っています。」

イギリスにとっては、本来の目的は通商・・・喜んでこれを受け入れました。
ニール「20隻でも用意しましょう」

重野は、賠償交渉を戦艦を出すことで通商交渉へと持っていきました。
さらには、若者30人の留学を提案します。
そこにあるのは、“敵に学ぼう”の精神で、人材の育成まで視野に入れて交渉をしていたのです。

こうして薩摩が賠償金を払ったのですが、これは幕府から借りたもの。薩摩からは一文も払わなかったのです。
これ以後、イギリスと急接近していきます。

ちなみにこういうときは、幕府の目付がついた中、交渉に臨んでいます。
つまり・・・幕府に“薩摩はこれから軍艦を手に入れるのだ”ということを、教える・・・一石三鳥のことを成し遂げたのです。

薩摩には、重野クラスの人間はたくさんいたようです。
地理的にも海洋国家として開けており、外交感覚が研ぎ澄まされていたということ、そして、斉彬が存在していたということ・・・その後を久光が継いだ・・・
このことが、いい結果を生んだと言われています。


イギリスと和親を結んだ薩摩は・・・
久光の指示で活動したのが、小松帯刀。
長崎のイギリス商人グラバーから最新式の軍艦、大砲・・・、軍備の増強を図ります。さらに、パークスを鹿児島に招待。
これが、イギリスが幕府から薩摩寄りになった要因とも言われています。

久光は幕府に見切りをつけ・・・
宿敵・長州藩に目をつけます。
長州はこれまで過激攘夷派で薩摩と対立していました。

しかし、長州藩は、下関戦争で完膚なきまでに叩かれ・・・過激攘夷という考えから方向転換しようとしていました。

これで薩摩と長州が同じ方向を向いたのです。
幕府から武器の購入を禁止され窮地に陥っていた長州に、イギリスから手に入れた武器を渡します。
おおっぴらにはできないので、坂本龍馬の亀山社中を使うのです。。。

これが、薩長同盟です。
生麦事件を発端にして、幕末最大の転換期を迎えたのです。

その後、倒幕をめざし・・・明治政府で活躍していくことになるのです。

薩摩藩は・・・近現代的な感覚を持った集団だったようです。
その中心には、久光・・・小松帯刀だったのです。

重野の外交術、小松帯刀の外交術・・・今にも必要な人であることには間違いないのでした。


リチャードソンが亡くなったところに建てられた石碑には・・・
「君此の海壖に流血す 我邦の変進も亦其れを源とす」
と、書かれています。

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生麦事件の暗号

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THEナンバー2・忘れ去られた維新の立役者~小松帯刀~です。

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幕末から明治にかけて、政治をリードした薩摩藩。
その11代藩主島津斉彬は、富国強兵を推し進め、日本最初の近代様式産業群、集成館事業を起こしました。

そこでは、大砲を製造・西洋式軍艦を製造・・・それは、日本を欧米列強の植民地化を防ぐための軍事力の強化を勧め、独立を図るためでした。

この意思を受け継いで、明治維新をやってのけたのが、西郷隆盛と大久保利通など、薩摩隼人でした。

しかし、彼らに勝るとも劣らない活躍をしたのに、忘れ去られた人物。それが、薩摩藩家老小松帯刀です。
帯刀は、27歳で薩摩藩家老に就任。幕末の薩摩藩を背負って立ちます。

しかし、多くの功績を残しながらも忘れ去られた人・・・それが小松帯刀なのです。


小松帯刀の魅力、それは、温和でソフト、いろいろな人と交わることのできる器量がありました。
斉彬にNo,2として見いだされた小松帯刀ですが・・・。

1840~42年アヘン戦争で清がイギリスに完敗します。斉彬は、日本も直に植民地化されるという驚異を抱きました。というのも、琉球を抱える薩摩にとっては他人事ではなかったのです。

1851年集成館事業に着手。
西洋文献をもとに反射炉を作ります。反射炉とは、鉄を精錬するための炉の事で、自前で大砲や砲弾、軍艦が作れるということです。

製鉄や造船、軍事部門に目が行きがちですが、斉彬がやりたかったのは、民生の安定でした。
紡績業・ガラス製造(薩摩切子)・印刷業・製薬業・・・。あらゆる事業の分野で産業を起こし、内から強くしていこうと思っていました。


1853年黒船来航。
これを打開するための斉彬の主張は、公武合体。

斉彬は、西洋文化に関心を抱き、開国を幕府に提言していました。
この斉彬、父・斉興には嫌われていました。

この斉興の跡継ぎを巡って、「お由良騒動」がありました。
お由良は、斉興の側室で、嫡男・斉彬派と、お由良の子・久光派が対立します。
この騒動で、斉彬が勝ったものの、上層部はみな久光派・・・。
排除したら、上司になれる人が居なくなっていました。
必然的に若い人が・・・。

幕藩体制の強化を図ろうとします。

一門の篤姫を養女とし、御摂家筆頭近衛家の養女としたうえで、13代家定の御台所とします。
さらに、西郷・大久保などの下士階級からも抜擢します。

帯刀は、もともと肝付家(薩摩藩門閥・かつては大隅国戦国大名)の三男として生まれたのですが、斉彬に聡明さを見込まれ、1856年21歳で小松家の婿養子になり家督を継承します。
この小松家は、薩摩吉利を領しており、28代当主小松 清猷は、琉球守護役も務めた由緒ある家柄です。


しかし、斉彬は死去。幸いにも久光からも重用されます。

1862年生麦事件発生。これをきっかけに・・・
1863年薩英戦争が勃発します。この薩英戦争、1日半で終わるのですが、その戦後処理をしたのが帯刀でした。

攘夷の国論の中で、薩摩側の賠償金の支払いはNG。だから、薩摩がイギリスの船を買うということで、決着させます。これは、グラバーのもと行われました。

通訳を務めたアーネスト・サトウは・・・。
「小松は、私の知る日本人の中で、一番魅力のある人物だ。
 政治的才能があり、態度が優れており、友情に厚い、傑出した人物である。」
と言っています。

この生麦事件、いきなり交渉したわけではなく、生麦事件以前にイギリスとのルートが出来ていました。だから、交渉も上手くいったのです。

1863年八月十八日の政変が起こります。
会津・薩摩を中心とした公武合体派が、長州を主とする尊王攘夷派を京都から追放した事件です。この時、会津と薩摩に助けを求めたのが孝明天皇、尊王攘夷を唱える岩倉以下7人の公家が追放されました。これを、七卿落ちと言います。

7人の公家が長州へと逃れます。この事件が、明治維新へと大きく展開していくのですが・・・。

1864年禁門の変で長州が挙兵します。蛤御門へ・・・。
この時、嵐山にある長州の屯所天龍寺を攻めたのは小松帯刀、激戦の末に勝利します。

この天竜寺で、兵糧米五百俵を発見します。
薩摩から兵を連れてきていたので、のどから手が出るほど欲しかった兵糧米。
しかし、禁門の変で京との多くの人が焼け出され3万人が被災していたので、この人たちに分け与えます。そのことで、京都の人を味方につけるのです。
お金の使い方がとってもうまい帯刀です。

池田屋事件では、神戸の操練所の学生が参加していたということで、操練所が閉鎖。勝に頼まれた西郷が小松に頼み、大阪の薩摩藩邸に坂本たちを預かります。
坂本たちを預かっただけではなく、薩摩に連れて行き集成館事業を見せ、一緒に長崎へ・・・。

1865年亀山社中の結成。小松が行政としての補助金をだし、日本茶の海外輸出で財を成した大浦お慶が民間人のパトロンとなったのでお金の心配もなく、龍馬たちは活動できました。

1865年7月21日、長崎の薩摩藩邸にいた帯刀の元に、伊藤俊介(博文)と井上門多がやってきます。
「薩摩名義で武器や艦船を買いたい」と。

当時長州は、幕府の厳しい目もあって、武器の調達がままならない状態でした。
また薩摩は、長引く京への派兵で米が底を尽いてきていました。

薩摩は米と引き換えに、この申し出を受けます。龍馬を仲立ちに、深まる両藩。。。

1865年 薩英密約・・・イギリスと密約を交わします。
     これで、武器、船を買うこと。19名の薩摩の人間を留学させることが約束されていました。
     この留学生には、帯刀の手駒・五代友厚や寺島宗則がいました。


1866年1月、西郷と桂の間で薩長同盟が結ばれます。薩長同盟とは、戦争になった時、中立を守ろうというものです。

この場所は、近衛家から拝領した京都・小松帯刀邸でした。
この薩長同盟も、龍馬が一人でやったのではなく・・・。地ならしはすでにしていました。
七卿落ちの時も、七卿の扱いに困った長州を見かねて、2年間太宰府天満宮にかくまいます。これは、西郷が手配したものでした。

1866年寺田屋事件
帯刀は、薩摩藩邸に龍馬をかくまいます。そして、薩摩藩邸へ・・・。その後龍馬は、お龍を伴って薩摩に。

1866年12月徳川慶喜将軍に就任。
改革をし、幕府の勢いが盛り返します。

1867年亀山社中は海援隊と改称。
しかし、船は座礁、運用権も取り上げられてしまいます。
この時資金を融通したのが帯刀で、龍馬は乙女姉やんに・・・
「薩州・小松帯刀申人は出しくれ
    神も仏もあるものにて御座候」

つまり、公私にわたる援助がなければ龍馬の活躍はなかったと言えます。

1867年6月薩摩は土佐と薩土盟約を結びます。主な内容は、大政奉還でした。

西郷や大久保は無理ならば討幕を・・・と考えていましたが、帯刀と龍馬は大政奉還に一縷の望みを懸けます。

「徳川も一大名として参加するのが平和的な国家変革だ。」小松は慶喜と密会し、信頼を得ます。

土佐藩は、関ヶ原以来の徳川恩顧の藩・・・。
慶喜は、土佐藩・後藤象二郎の大政奉還建白書をもとに、各藩の重臣を二条城に招集し、意見を聞きました。

薩摩代表は、勿論帯刀でした。

1867年10月14日大政奉還・・・無血革命でした。
これで、帯刀の思うほうに進むかにみえましたが・・・。帯刀病欠の小御所会議で一変します。

岩倉の天皇中心とする政治に西郷・大久保が支持。
「慶喜の官職辞任・徳川の領地返上」が決定します。
大どんでん返し。。。そう、大政復古の大号令です。

西郷や大久保が討幕したかったのは、討幕しなければ、セレブがセレブのままで行ってしまう。。。それでは、自分たちはトップになれない。
そこで、岩倉具視と画策したのです。
つまり、新政府に徳川家が入っていたら、革命は出来なかったのです。

その後薩長と幕府は、鳥羽伏見の戦い・戊辰戦争と、戦うことになります。
武力になっていくと、帯刀や龍馬は外されていきます。


これほどまでに幕末に影響を与えた小松帯刀・・・。
しかし、坂本龍馬も昭和の初めまで知られていませんでした。
2人は、無血開城派。新政府によって、歴史的に葬られたのでしょう。

支配者にとって、歴史の真実は問題ではありません。いかに自分に都合のいい歴史を造るか?ということなのです。

帯刀は、1869年薩摩藩の藩政改革に着手します。
    慶喜に領地の返上をさせた手前藩でも、私領返上、門閥打破、家格返上を行いました。

1870年7月17日、小松帯刀 病没。

歴史にもしもはありませんが、小御所会議に出席していたら、明治新政府は変わったものになっていたかあも知れません。

まさに、幻の宰相でした。

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