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「龍馬、北辰一刀流 免許皆伝!!」
2015年10月14日、剣の達人と言われてきた坂本龍馬が本当に北辰一刀流の免許皆伝を極めていた新資料が発見されたという記事が新聞に載りました。
今でも英雄とされている龍馬、真実はどうだったのでしょうか?
1867年11月15日、この日は龍馬の誕生日であり、33歳という命を散らした日でした。
龍馬が暗殺されたのは京都。。。
1866年、討幕を画策していた龍馬の動きが幕府に察知され、命を狙われるようになっていた龍馬。
そして・・・1月22日、龍馬が潜伏していた寺田屋を、幕府の取り方50人余りが襲撃します。
龍馬はピストルで対抗するも、両手を負傷!!
それでも必死で逃げ、材木小屋で隠れているところを仲間に発見されました。
なんとか命拾いをした龍馬・・・取り方を射殺してしまったことで、京都見廻組と新選組の二つの組織から狙われることとなります。
寺田屋以降、薩摩で静養し、長崎で活動していた龍馬が6月・・・京都に帰ってきました。
このときに隠れ家は、材木問屋の酢屋でした。10月半ばには、土佐藩邸の近くの近江屋に移り・・・ここでは、土蔵に身を隠し、その情報は限られたものしか知りませんでした。
11月14日、風邪をひいた龍馬は、土蔵から母屋の二階に移ります。
11月15日・・・龍馬のもとへ土佐・中岡慎太郎がやってきました。
腹が減った龍馬は、しゃも鍋が食べたい・・・と、使いのものを買いにやります。
このとき、二階には龍馬と中岡、一階には龍馬の世話をしていた藤吉、主人・新助家族がいました。
午後8時過ぎ・・・十津川郷士を名乗るものがやってきました。
十津川郷士の中には、龍馬の知り合いがいたので、藤吉が気を緩め取り次ごうとすると・・・斬りつけられた藤吉!!
二階に駆け上がる刺客!!
刺される中岡!!斬りつけられた龍馬!!
刺客が去ったのち、一時的に息を吹き返した龍馬は中岡に・・・
「わしは脳をやられた・・・もういかん・・・」
これが龍馬の最後の言葉・・・33歳の若すぎる死でした。
龍馬を暗殺したのはいったい誰だったのでしょうか??
手掛かりは3つ・・・
①誰のものかわからない下駄
瓢亭のものだったため、新選組??
②刀の鞘
新選組・原田左之助のもの??
③犯人は「こなくそ!!」といった。
こなくそは、伊予の方言で、原田左之助は伊予出身でした。
証拠はすべて、新選組を示していました。
しかし・・・
尾張藩などが捜査に当たったところ・・・
下駄は瓢亭ではなく、鞘も原田のものではなく・・・
こなくそも、全国に似たような言葉があり、どれも証拠不十分なものでした。
さらに・・・大目付から事情徴収を受けた近藤勇は、龍馬暗殺を否定します。
もともと新選組は、不逞労使の捕縛が仕事で、殺害することはあまりなく・・・
たとえ殺したとしても、正義にために殺すので隠す必要はありません。
これらにより、新選組の犯行ではないとされました。
3年後・・・1870年に、京都見廻組だった今井信郎が龍馬暗殺は見回組の犯行だったと自供します。
襲ったのは7人・・・佐々木只三郎、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂早之助、今井信郎、土肥仲蔵、桜井大三郎で遊撃したと告白しました。
後の3人が見張りで、先の4人で殺害!!残された鞘は、隊士の一人が忘れたこと。。。
今井以外の6人は、鳥羽伏見の戦いで戦死したことなどを供述しました。
さらに、物的証拠が見つかります。
龍馬を斬った脇差・・・持ち主は、桂早之助でした。
実行犯は、京都見廻組だということが有力視されています。
では、どうして龍馬を襲ったのでしょうか??
今井は・・・
寺田屋事件で幕府の取り方を射殺したことへの罪の追求だ・・・??
しかし、見廻組には疑問が多くあります。
見廻組も、公務で行ったのであれば、隠す必要がないということ・・・
近江屋でいることは、限られたものしか知らなかったということ・・・
見廻組は利用されていただけで、黒幕がいるのでは・・・??
時代の先を行き過ぎていた龍馬・・・
その積極性、先見性は、色々なところで恨まれていました。
龍馬はどのようにして政治の表舞台に立ったのでしょうか??
高知県高知市・・・
坂本龍馬は、1835年11月15日、土佐藩下士の次男として生まれました。
身分差の厳しい土佐では、下級武士である龍馬が出世できる見込みはなく、龍馬自身の性格も泣き虫で気弱な少年でした。
そんな龍馬の支えとなったのは、3歳年上の姉・乙女でした。
男らしく剣術道場に通わせます。
道場で頭角を表すと・・・1853年剣術修行のために、江戸へ遊学・・・!!
入門したのは、北辰一刀流の千葉定吉道場でした。
その2か月後、黒船が来航!!
これが転機となって、尊王攘夷論に目覚めていきます。
さらに尊王攘夷を傾倒させたのが、同郷の武市半平太。
6歳年上の半平太は、文武両道で、若い下級武士たちのリーダー的存在でした。
土佐勤王党を成した半平太。
その誘いを受け、龍馬もメンバーとなり、勤王の志士の道を歩むこととなるのです。
1862年1月・・・龍馬は半平太の使いとして長州に赴き、尊王攘夷運動の先頭に立つ久坂玄瑞と出会います。
「尊王上の大義のためであれば、尊藩と弊藩が滅んでも構あ示し、海軍を作り、西欧列強に対抗しようと話します。
国のために・・・!!
スケールの大きな海舟にほれ込んだ龍馬は、弟子入りするのでした。
自分の意識の中に、土佐人→日本人へと変化した瞬間でした。
龍馬は、海舟が土佐藩第15代藩主・山内容堂に掛け合ったことで、脱藩の罪を解かれ、海舟が1863年に創設した神戸海軍操練所の補佐役として参加します。
航海術や英語を学び、見識を広めていった龍馬、訓練生たちを束ねてリーダー的存在になっていきます。
勝海舟との交流で、見識や人脈を広げたことが龍馬の財産となっていきます。
表舞台の道が開けていきます。
自由の身となった龍馬・・・
龍馬の人脈の中には、明治維新の立役者となった者もたくさんいました。
長州藩士・桂小五郎とは剣術修行時代に出会っていたといわれています。
また、海舟の紹介で、西郷と知り合います。
龍馬は人を引き付ける魅力がありました。
もちろん、話上手であったのでしょう。しかし、龍馬が脱藩しているという自由な立場・・・藩の利害や役職と関わらない・・・ということが人脈を作っていくことになるのです。
外様大名の雄であった長州藩と薩摩藩が、1864年の禁門の変で尊王か公武合体かで対立します。
犬猿の仲となってしまった長州藩と薩摩藩・・・
その桂と西郷の仲を取り持ちます。
1866年の薩長同盟・・・時代の流れは、討幕へと傾いていきます。
さらに龍馬は・・・
幕府に代わる国家構想を作ります。
土佐藩の蒸気船・夕顔の中で、後藤象二郎に熱く語り、仕上がったのが、「船中八策」です。
大政奉還をはじめ、身分を問わず優れたものを登用すること、議会政治をすること、憲法制定、軍の強化、金銀の交換率を定めること・・・どれもみな、斬新なものでした。
これをもとに、大政奉還の建白書を作成した後藤・・・
1867年10月3日、山内容堂を通して幕府に提出!!
15代将軍・慶喜は、徳川家が生き残る道はこれしかない!!
と、10月14日、大政奉還が行われました。
江戸という時代の終焉でした。
しかし・・・その1か月後の11月15日、功労者・坂本龍馬は京都見廻組によって命を奪われてしまいました。
そして、その背後には黒幕がいた可能性が高いのです。
その黒幕の正体とは・・・??
①土佐藩黒幕説
後藤には、暗殺の実行者・今井との接点がありました。
二人は円山会のメンバーとされたからです。
暗殺の動機は・・・大政奉還の実績を後藤が独り占めしたかったため
自分が船中八策の発案者となるために邪魔な龍馬を暗殺したというものです。
しかし西郷たちも周りの人も、「船中八策」は龍馬の発案だということは知っていました。
後藤が龍馬を殺すメリットがないと思われます。
②紀州藩黒幕説
龍馬が暗殺されたとき、仲間たちが真っ先に疑ったのが紀州藩でした。
一番の動機があったからです。
発端は・・・
海援隊を組織した龍馬は、海運業に乗り出しました。
1867年4月23日、龍馬たちを乗せたいろは丸は、大量の兵器を乗せて瀬戸内海を長崎から大阪に向かっていました。
天候もよくなく・・・目の前に現れた紀州藩の明光丸!!
衝突してしまったのです。
龍馬たちは明光丸に飛び移って無事でしたが、1/6の大きさの明光丸は大破、沈んでしまったのです。
紀州藩と海援隊は、長崎で話し合います。
紀州藩は御三家の威光でかわせると思っていました。
紀州藩交渉役・三浦休太郎も余裕で出席・・・龍馬は死を覚悟して毅然とした態度で挑みます。
紀州藩側の主張は、長崎奉行の採決にゆだねるべきというものでしたが、龍馬は・・・
「蒸気船同士の事故の前例は日本にはないので、国際法にのっとってするべきだ!!」
とし、明光丸の航海日誌を持ち出し、明光丸側の過失を追求していきます。
想定外のことに紀州藩は、薩摩藩に仲介を求めます。
最終的に、海援隊に賠償金7万両(70億円)を支払うことになりました。
面目をつぶされた紀州藩は、龍馬を恨み、交渉役だった三浦が紀州藩の意を汲んで暗殺を命じたとされていますが・・・
海援隊は、三浦を首謀者とし、12月7日天満屋事件を起こします。
当時も三浦が怪しいと考えられていたようですが・・・
三浦は、海援隊に狙われるのではないか??と思い、新選組に身辺警護をさせていたようです。
そうなると、暗殺依頼も新選組にするのが普通だと思われます。
龍馬暗殺は、賠償金を支払わされたうえ・・・恥の上塗りのような・・・紀州藩にはメリットのない物かと思われます。
③薩摩藩黒幕説
龍馬と西郷の間の不協和音・・・海援隊の問題です。
龍馬が亀山社中を作る際に、西郷は多額の資金援助をし、隊士たちの給金も資金援助していました。
ところが・・・侍商法で上手くいかず、海援隊が薩摩藩の経済的負担となっていたというものです。
もう一つが大政奉還・・・大政奉還を画策していた龍馬と後藤・・・それには討幕の中心にいた薩摩藩の同意が必要だと思っていましたが・・・同意していた西郷でしたが、西郷は慶喜は大政奉還を受けるはずがない!!と思っていました。
裏で、武力による討幕を進めていたのです。
が・・・思いもよらず、慶喜が大政奉還を受け入れたことで、薩摩藩の討幕理由がなくなってしまいました。
さらに、龍馬が作った「新政府綱領八策」の中には・・・
「〇〇〇自ら盟主となりこれをもって朝廷に奉り、はじめて天下万民に公布云々・・・」
これは、〇〇〇をリーダーとして新しい政府を作るというものですが・・・ここに慶喜公が入るのでは・・・??
と思う人もいました。
慶喜を排除しようとする薩摩藩・・・慶喜の復権は裏切り行為・・・??
薩摩藩が龍馬が邪魔になったから・・・??
これのもとは、今井の処遇でした。
新政府の功労者である龍馬を暗殺したにもかかわらず、極刑になることもなく、2年で特赦により自由の身となりました。
これにも西郷が裏で糸を引いていたのでは・・・??と言われています。
しかし、大政奉還後、西郷は龍馬にあっていないので、「新政府綱領八策」のことで薩摩藩が龍馬を暗殺することはない・・・と思われます。
真相はやぶの中・・・
坂本龍馬・・・日本の未来に誰よりも先のビジョンを持っていました。
龍馬の先見性と行動力がなければ日本の未来は変わっていたかもしれません。
やっぱり、幕末の英雄なのです。
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