日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:西郷隆盛

外務省・・・その中庭に、歴代外務大臣の中でただひとり・・・後進達の仕事を見守っている銅像があります。
陸奥宗光・・・日本外交の礎を築いた人物です。
明治時代、日本には大きな課題がありました。
幕末に、欧米列強と結んだ不平等条約を改正し、文明国の一員として認められること・・・
しかし、歴代外相の交渉は思うように進展しませんでした。

明治25年に外務大臣となった陸奥は、列強の中心だったイギリスとの条約改正に挑みます。

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1844年、陸奥宗光は、徳川御三家・紀州藩の勘定奉行の子として生まれました。
学色豊かな父のもとでの何不自由ない生活・・・。
しかし、それは9歳の時に突如終わりを告げました。
1852年、父がお家騒動に巻き込まれ失脚!!
同じ頃、日本の大きな転換期を迎えていました。
1853年、黒船来航。
アメリカの圧力を前に、幕府は開国へと舵を切り、欧米列強との間で不平等条約の締結を余儀なくされました。
幕府の弱腰外交に国論は沸騰!!
天皇を尊び、外国人を排斥せよとの尊王攘夷運動のうねりが日本中を席巻しました。
そんな中、陸奥は、自らの才覚だけを武器に、動乱の世を起きていくことを決意します。
和歌山を離れ、志士活動に身を投じます。
そして20歳の頃、生涯にわたり影響を受ける人物と出会います。
土佐脱藩浪士・坂本龍馬です。
弁舌が立ち、才気あふれる陸奥を、龍馬は大いに気に入ります。
陸奥にとって、藩や身分から自由に振る舞う龍馬の存在は、目指すべき目標となりました。

1867年、陸奥は龍馬の創設した海援隊に参加。
この年、陸奥は龍馬に1通の意見書「商方之愚案」を提出しました。

”海援隊に西洋の同盟商方、コンペニー、コンメンスを導入する”

集団が商取引を行うこと・・・商社です。
当時翻訳されていた西洋の経済書を参考に書き上げたこの意見書を、龍馬は大いに評価し、海援隊の商事部門を任されます。
陸奥は、長崎でオランダ商人との交渉に当たり、エンフィールド銃・・・1300丁もの調達に成功しています。
陸奥は、龍馬の懐刀という存在に成長し、共に未来を語ら得る同志と目されるようになります。
龍馬が陸奥に宛てた書簡が残されています。

”また世界の話もできるでしょうか
 この頃、面白い話もおかしい話も実に山をなしております”

しかし、この書簡を記したわずか8日後・・・1867年11月15日、坂本龍馬、京で暗殺!!
わずか4年にすぎませんでしたが、龍馬との交流は陸奥を次のステージに導きます。

龍馬の死から1年後の1868年、薩摩や長州を中心とする明治政府が成立します。
陸奥は、新政府で大阪府権判事、摂津県知事などを歴任。
海援隊で身につけた商才や交渉力を武器に、治水や税制の近代化に腕を振るいました。
この頃、陸奥が親交を深めた人物が・・・兵庫県知事を務めていた長州出身の伊藤俊輔・・・後の伊藤博文です。
二人は、すっかり意気投合!!
伊藤の家に泊り、国家の将来について夜通し語ることもありました。
しかし、伊藤と身近に接するうちに、陸奥は藩閥の後ろ盾を持たない自らの限界に直面しました。

1871年、伊藤は岩倉使節団の一員に抜擢され、欧米列強を歴訪。
実力者岩倉具視や大久保利通らの信頼を得て、着実に政府中枢の道へと登っていきました。
一方、陸奥に与えられたのは、大蔵省の一役人の地位。
中央政府に職を得たものの、藩閥出身者より一段低い待遇に不満をため込んでいきました。

陸奥の意見書「日本人」(明治7年)
「西は薩摩から、東は蝦夷まですべての日本人に国への権利と義務がある
  
 独りこれを政府、すなわち薩長等の人に任せるべきではない」

藩閥出身者に才能面では引けを取らない自分は、もっと重く用いられるべきだ・・・!!
強烈な自己主張を政府にたたきつけ、陸奥は大蔵省辞職に踏み切りました。
将来への展望が開けず、焦りを募らせる中、陸奥はある事件にかかわってしまいます。
1877年、西南戦争・・・西郷隆盛をいただく薩摩の不平士族が決起しました。
これに呼応し、反政府グループによるクーデター計画が動き出しました。
陸奥は当時、元老院に務めていましたが、知人から聞いたその計画を政府に知らせず、かえってそそのかしていきます。
積極的に反乱に加わる気はなかったものの、万が一、クーデターが成功した場合、乗り遅れないという思いもありました。
しかし、西南戦争は西郷の敗北に終わり、クーデターは失敗に終わりました。
陸奥も逮捕され、1878年、山形監獄に収監されました。
時に35歳・・・陸奥にとって大きな挫折でした。

陸奥が獄中で着た囚人服が残されています。
びっしりと描きつけられているのは、自ら作った漢詩。

”人生の行路は 幾重にも連なる山のように険しい
 
 旅の宿で過ごす一夜 恨めしい気持ちには限りがない”

しかし、与えられた獄中の時間を、陸奥は無駄にはしませんでした。
西洋の政治思想書や法律書、歴史書などを大量に送ってもらい、1日12時間以上読みふけりました。
この先の日本で、いかなる役割を果たすべきか??
獄中での施策の時は、4年半に及びました。

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1883年、陸奥は5年の刑期を半年短縮され出獄しました。
背景には、参議として政府の中枢にいた伊藤の働きかけがありました。
伊藤は、陸奥の才能を認め、共に政府で働いてほしいと考えていました。
伊藤が陸奥に期待した役割は、持ち前の交渉力を国益に活かせる外交でした。

陸奥は、特命全権公使としてアメリカに派遣されました。
この時、生涯のテーマとなり条約改正問題に直面します。
当時、日本が諸外国と結んでいたのが不平等条約でした。
そこには3つの問題点がありました。

①領事裁判権
外国人は、居留地に限って居住や商業活動を認められます。
日本で外国人が犯した罪は、領事が自国の法律で裁きました。
領事は法律の専門家ではないため、不当に外国人に有利な判決が下ることもありました。

②関税自主権がないこと
日本には、輸入品の関税を決める権利がなく、外国の主張する低い税率を飲まされていました。
安い輸入品が大量に入ってくることは、日本の近代産業育成に大きな障害となっていました。
ひとつの国が結んだ条約の有利な条件は、他国も日本に要求出来ました(最恵国待遇)。
近代国家として自立するためには、不平等条約は何としても改正しなければならない・・・!!
歴代の外務大臣は、改正に力を注いできました。
しかし、欧米列強は、議会や法律が整っていない日本は、まだその段階にないと判断。
日本は幕末以来の不平等条約を改正できないでいました。

ワシントンへの着任早々、陸奥は条約改正への足掛かりとなる交渉に取り組むことになります。
メキシコ公使・ロメロが接触してきました。

「メキシコには日本と条約を結ぶ意思がある
 そちらの意向はどうか?」byロメロ

条約締結に積極的なロメロに対し、陸奥はこう告げました。

「日本は、対等条約でなければ締結しないつもりである」by陸奥

陸奥は交渉に当たって、対等条約を前提としました。
引き換えに提示したのは、内地開放でした。
日本国内を自由に通行し、商売ができる内地開放は、諸外国に大きなメリットがありました。
この条件で、メキシコと条約を結ぶことで、欧米列強が追随してくることを狙っていました。

「列強に先んじて領事裁判権撤廃に踏み切るのは心配だ」byロメロ

「それは杞憂に過ぎない
 日本に好意的なアメリカなどは称賛するに違いない」by陸奥

と、巧みに説得します。
日墨修好通商条約締結!!

メキシコ人は、日本で居留地以外に住むことが許されるが、そこでは日本の法律に服することが求められる!!
領事裁判権がなく、一方的な最恵国待遇もない・・・関税についても、メキシコと対等な内容で税率が設定されました。
初の対等条約の締結という輝かしい栄光を手に、陸奥は次なるステージに踏み出していきます。

1892年、伊藤博文を首班とする第2次伊藤博文内閣成立!!
陸奥は外務大臣に抜擢されました。
就任早々、陸奥はヨーロッパに派遣していた外交官から報告を受けました。
”ポルトガル政府は、新たな条約について談判を開くため、日本公使が来訪するのを待っているそうです”
もし、ポルトガルに、今までの条約を破棄し、新たな条約を結ぶ意思があるならば、メキシコ同様対等な条約にできるかもしれない・・・
ポルトガルは、ヨーロッパの一員・・・これは大きな一歩となる!!
陸奥は、早速公使をリスボンに派遣して交渉に当たらせます。
ところが・・・現地からもたらされたのは、ポルトガルに新条約締結の意思はないという、全く正反対の報告でした。
一体何があったのでしょうか?
在日イギリス公使が本国に送った報告書からは、交渉の背後で列強が様々な思惑で動いていたことが分かります。
”ポルトガルが新条約で内地開放の特権を独占することは、列強の足並みを乱す
 現にイタリア公使は、本国に要請して、これ以上のポルトガルの行動を思いとどまらせると示唆している”

その後、イタリアだけでなく、フランスも介入したことで、ポルトガルとの交渉は暗礁に乗り上げました。
陸奥は、改めて条約改正の難しさを知ることになります。

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陸奥のもとに予期せぬ知らせが入ります。
ポルトガルと日本の交渉を受けて、イギリスが条約改正に前向きな姿勢を見せ始めたのです。
イギリスとの交渉は、これまでも進展を見せていました。
1889年に大日本帝国憲法発布。
日本の司法制度や法律が整備され始めたことは、イギリスでも条約改正の機運を高めていました。
憲法発布の翌年、当時の青木周蔵外務大臣は、関税には手をつけず、内地解放と引き換えに領事裁判権を撤廃と、イギリスからもいい感触を得ていました。
ところが、正式な交渉に臨む前、来日していたロシア皇太子が警備の警官に襲われるという大津事件が発生!!
青木が責任を取って外相を辞任したことで、交渉は打ち切りとなっていました。

そのイギリスが、再び条約改正に前向きになった!!
どのような戦術で交渉に臨むべきか??
段階的改正??それとも??対等条約??

大きなきっかけとなったのは、1886年のノルマントン号事件でした。
難破したイギリス船からイギリス船員だけ非難し、日本人乗客が全員水死した事件・・・
領事裁判で船長に無罪判決が下されたことで、不平等条約撤廃の世論が高まります。
1889年には、外国に大幅に譲歩をしようとした大隈重信に対する爆弾テロ事件が発生!!
交渉自体が中止に追い込まれていました。

1893年7月5日、陸奥、内閣に条約改正草案を提出
そこには、”両国が互いに同一の基礎をもって成り立つ対等条約である”と記されていました。
陸奥の選択は、対等条約を掲げることでした。
しかし、この大胆な路線変更は、政府の中で論議を呼びます。
文部大臣の井上毅は、3日後の閣議で陸奥にかみつきます。

「対等と言っても、税の部分については日英同一にはならないはずだ
 それを対等条約を称するのは、実態にそぐわない
 誇大な表現は有害無益ではないか」by井上毅

陸奥も即座に反論します。

「西洋諸国の条約でも、特定の物品について交渉で税率を決める例はあるが、それは対等でないことを意味しない
 数年後に発行する対等条約と、過渡時代のための条約、諸君はどちらを欲するのか?」by陸奥

一時的な過渡的な不十分な案で行くのか?
それとも対等な条約を目指すのか??
対等をプラスのシンボルにしました。

こうして陸奥は、政府内を説得した上で、元外相・青木周蔵を交渉役に任命し、イギリスでの事前交渉に臨ませました。
ところが、思わぬ壁が立ちはだかります。
国内では当時、外国人への暴行や侮辱が多発し!!
内地開放によって、外国人が自由に往来することへの国民の恐怖は、陸奥の予想をはるかに超えていました。

こうした国民感情に応じて、議会では外国への強硬政策を唱える対外硬派が勢力を拡大。
条約改正について独自の強硬案を提出するに及びました。
日本の排外感情の高まりに、イギリスは強く反発・・・交渉の中断を表明し始めました。
このままでは、悲願の条約改正が頓挫しかねない・・・陸奥は、議会や国民に強く訴えかけます。

1893年12月29日、自ら演壇に立ち、対外硬派を批判する大演説を行いました。

「外交政策というのは、多くの場合、国民の気性を反映するものであります
 幕府は、鎖国攘夷の気風に影響されて、外国人との接触を制限する方針を執りました。
近年の対外硬派の動きは、維新以来我が国が目指す開国の国是に反するもので、政府には断固としてこれを排斥する責任があるのです!!」

12月30日、これに応じ、首相の伊藤が議会を解散
日本政府として断固立つ決意を示した陸奥と伊藤の姿勢は、イギリスに大きな影響を与えます。

「現在の日本で最も有力な人材はことごとく政府に集中している」

このような強力な政府に対し、

「我々は対等な権利を得、かつ与える様な構成な提案を行ったが、一顧だにしてもらえなかったと言わせるようなことがあれば、日本は完全に排外主義へと統一されてしまうだろう」

1894年4月、イギリスは日本との正式な交渉のテーブルに着きました。
交渉が始まると、陸奥は条件面での交渉はほぼ青木に任せ、その忠告に積的体に従いました。
そして、1894年7月16日、「日米通商修好条約」調印。
この条約で、領事裁判県は撤廃、関税自主権は持ち越しとなりました。
対等を掲げたものの、結果的には段階的改正にとどまりました。
しかし、陸奥の結んだ新条約は、条約改正の歴史に大きな風穴を開けました。
その後、他の欧米諸国とも改正条約を調印。
そして、1911年には関税自主権を回復!!
日本は、条約の上で列強と対等の地位を獲得しました。
幕末の不平等条約から、実に半世紀の道のりでした。

神奈川県大磯・・・晩年の大隈が過ごした別邸が残されています。
国民や議会の強硬意見に外務大臣として対峙し続けた陸奥・・・
その激務は、もともと肺に持病のあった体を確実にむしばんでいました。
晩年、陸奥は、療養生活を送る傍ら、外交の在り方を国民に啓蒙すべく最期の力を振り絞りました。
死の1年前・・・陸奥は、1冊の雑誌を創刊させました。
題して「世界之日本」・・・その第1号の巻頭論説で、陸奥はこう記しています。

「外交を支えるのは武力ではない
 国民外交上の知識である」

国民が、外交に関する知識を持つことこそ重要である・・・
この言葉に、陸奥はどのような思いを込めたのでしょうか??

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東京・上野・・・西郷さんの像でお馴染みの上野公園は、動物園だけでなく、美術館や音楽ホールが連なり、全国の人々に親しまれる文化の薫り高い一帯です。
しかし、150年前、ここには全く違う景色がありました。

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感想(1件)



1868年5月15日、この上野の山で西郷さんが戦争を起こし、全てが焼き払われました。
明治維新の動乱の中で、唯一江戸で行われた戦い・・・新政府軍と旧幕府軍と彰義隊がぶつかった上野戦争です。
この年の1月、鳥羽・伏見の戦いで新政府軍は旧幕府軍に圧勝、勢いに乗って、江戸に軍を進めました。
そして、西郷と勝海舟の会談の結果、江戸城の無血開城が決まります。
しかし、城が明け渡されたとはいえ、これで西郷たち新政府が江戸を手中に収めたわけではありませんでした。
次々と江戸から脱走する旧幕臣たち・・・
江戸の周囲では新政府に対しゲリラ戦が行われていました。
中でも西郷を悩ませたのが、上野の山に立てこもった彰義隊でした。
彼等がいる限り、江戸は新政府のものにはならない・・・西郷は、ギリギリの選択に迫られていました。
江戸を火の海にする危険を冒しても彰義隊を討滅するのか・・・??
西郷隆盛の苦渋の選択とは・・・??

江戸城明け渡しから1か月後の1868年4月・・・
江戸に駐留していた西郷隆盛は、思わぬ事態に頭を抱えていました。
”御用中雑記”・・・将軍・徳川慶喜の側近の日記によると・・・
江戸城明け渡し後、水戸で処分を受けるのを待っている慶喜の動向が書かれています。
4月15日、江戸より新聞が届いた・・・
慶喜は新聞を取ったり、使いを送ったりして江戸の様子を調べさせていました。
慶喜は何を調べていたのでしょうか??
彰義隊がどんな動きをするのか?気が気でなかったのです。
暴発してしまえば、江戸城無血開城はおじゃんとなってしまう!!
この時点で、徳川家がどの所領をもらえるのか??決まっていませんでした。
彰義隊の行動如何でZEROとなる??処罰される・・・??

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さらに慶喜は、彰義隊の暴発を押さえようと、家臣に軍用金65両を持たせ送り込んでいました。
この頃、江戸は混乱のさ中にありました。
4月11日、徳川将軍家の居城が無抵抗のまま新政府軍に明け渡されました。
慶喜は、江戸を出て実家の水戸に移り、謹慎します。
一度は計画されていた江戸城総攻撃!!それは、新政府側の西郷と旧幕府側の勝海舟の行動によって回避されました。
新政府が提示した降伏条件は慶喜の水戸謹慎と江戸城明け渡し、そして幕府が所用する武器・軍艦の引き渡しなどです。
しかし、開城の直前、新政府に反発する旧幕臣・大鳥圭介らが歩兵部隊を率い、武器を手に脱走!!
さらに、旧幕府歓待を率いる榎本武揚は、新政府への軍監引き渡しを拒み、江戸湾を脱走!!館山沖で新政府を威嚇していました。
西郷が勝に言い渡した降伏条件は守られなかったのです。

榎本の場合は、彼が手塩にかけて育成した旧幕府艦隊・・・お金も時間も労力もつぎ込んだ艦隊を、やすやすと薩長に引き渡すことはできない!!
徳川家の行く末がはっきりしていなかったので、全部を引き渡すと条件闘争ができない!!ということもありました。

江戸を脱出した大鳥だけでなく、他の旧幕府勢力も、江戸近くで次々と蜂起!!
新政府軍は関東各地で対応を余儀なくされました。
さらに、東北では奥羽の諸藩が新政府との対立を深めていました。
結果、江戸は手薄となって市中の治安維持もままならなくなっていました。
江戸城は手にしたものの、新政府軍は江戸で孤立していたのです。
さらに、西郷たちを悩ませていたのは、彰義隊の存在でした。

無血開城から遡ること2か月・・・浅草の本願寺で、100名以上の旧幕臣で会合を開きました。
彼等は、その場で彰義隊を結成し、その目的をこう表明しました。
「慶喜公は、朝廷に対して恭順一筋
 裁きを待つお考えである
 一同、この現状を見逃すことはできない
 その為、死を決して盟約を結び、冤罪であると訴えるしかない!!」

漸将軍・慶喜は、鳥羽・伏見の戦いによって、朝敵の汚名を着せられていました。
慶喜は、上野の寛永寺で謹慎し、ひたすら恭順の姿勢を貫いていました。
この状況を打開するために、彼らは立ち上がったのです。
この彰義隊のリーダーである頭取に、慶喜の側近だった渋沢成一郎が選ばれました。
そして、副頭取には旧幕臣・天野八郎が就任しました。
その後、彰義隊は拠点を上野・寛永寺に定めます。
関東各地のみならず、江戸にまで旧幕府側が勢力を伸ばす危険な状態・・・
西郷は頭を悩ませていました。

彰義隊の拠点となった上野の山・・・当時、この山全体が、徳川将軍家の菩提寺・寛永寺の境内でした。
寛永寺は、3代将軍・家光の時代に創建、最盛期には大伽藍と付属する支院36が立ち並ぶ、江戸随一の寺として栄えました。

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鳥羽・伏見の戦いで破れ逃げ帰った徳川慶喜は、この寛永寺の支院の一つに入って謹慎していました。
寛永寺には、慶喜監禁の部屋が残っています。
”葵の間”床の間のついた書院造・・・10畳と8畳の二間続きの部屋です。
2月12日から4月11日まで、水戸に隠居されるまで、ここで謹慎していました。
将軍がここにいて、徳川の世が明治に変わっていくことに納得がいかないという人たちが・・・幕府恩顧の者たちが、上野に集結してどんどん数が膨れていきました。

慶喜を警護する為に結成された彰義隊は、旧幕臣を中心に参加者が続々と集まり、遂には4000人に達したといいます。
江戸で存在を無視できないほどの大勢力を築いた彰義隊・・・
この状況を利用しようとしたのが、徳川方の代表・勝海舟です。
勝は西郷に、彰義隊に市中取締役を命じ、江戸の治安維持にあたらせることを提案します。
治安が悪化する江戸を、新政府軍の力だけで取り締まるのは不可能・・・
西郷は、その提案を受け入れざるをえませんでした。
さらに、勝の要求はエスカレート・・・
水戸で謹慎する慶喜を、江戸に戻すこと・さらに、江戸城を徳川家に返すことまで要求しました。
このことは、西郷を窮地に陥れます。
降伏条件が守られないことを甘んじている西郷に対し、新政府軍の要人たちから弱腰との声が上がり始めたのです。
佐賀藩士・江藤新平は、手紙にこう記しています。

”官軍の中には、勝らに騙される人がおり、憤慨に堪えない”

巻き返しを図る旧幕府側の圧力・・・新政府強硬派からの圧力・・・
西郷は、のっぴきならない状況に追い込まれていました。

彰義隊?われら義に生きる

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この頃、京都から江戸にある男が送り込まれていました。
長州藩士・大村益次郎・・・長州に攻め寄せた幕府軍を、散々に打ち破った西洋流の兵学者です。
新政府内での強硬派が西郷の融和策に業を煮やし派遣・・・これは、彰義隊の武力鎮圧を期しての人選でした。
一方の西郷は、4月から江戸と京都を頻繁に行き来していました。
西郷は新政府の首脳陣と連日会議を行います。
徳川家の最終処分を決定するためです。
4月25日、新政府内部で徳川家の処分方針が決定しました。
徳川家を駿河国に移す・・・旗本の領地を含め800万石を一気に70万石まで削減するというものでした。
このことが発表されれば、旧幕臣たちの反発は必至の厳しい処分でした。

5月に入ると大村は彰義隊討滅に向け動き出します。
彰義隊に与えられていた市中取締役の役目を奪ったのです。
これ以降、江戸で事件が頻発します。
彰義隊士による新政府軍兵士の殺傷事件が起こるのです。
佐賀藩士、鳥取藩士、西郷の直属の部下である薩摩藩士も犠牲となりました。

彰義隊の扱いをどうするのか??軍議が開かれました。
大村は、彰義隊の殲滅を強硬に主張、早期の決着に自信を見せました。
一方、西郷と共に徳川方との折衝に当たってきた参謀たちは、兵力の不足を理由に大反対をします。
双方の意見を聞きながら、西郷は選択に迫られました。

彰義隊を討滅・・・??
あくまで戦を回避・・・??

いかに混乱を起こさず、徳川家処分を発表するのか・・・??
江戸と日本全体の行く末を案じながら、西郷は苦悩していました。

西郷の決断は・・・??

「大村には、勝てる清算があるに違いない
 勝てさえするならよかろう」

大村の意見に同意し、彰義隊討滅に同意しました。

5月14日、指揮権を持った大村は、彰義隊に宣戦布告を行いました。
その布告の中で大村は、官兵を暗殺し、官軍と偽り、民の財産を略奪する彰義隊は、国家の乱賊であると決めつけました。

1868年5月15日、降りしきる雨の中、新政府軍による上野攻めが始まりました。
この時、寛永寺に立てこもっていた彰義隊の人数は1000人程度。
大村による事前の宣戦布告が功を奏し、戦う意思のない者たちは寛永寺から大挙していました。
布陣を見ると・・・
彰義隊隊士たちは、寛永寺の8つの門に分かれ、新政府軍の侵攻に備えました。
さらに、現在西郷隆盛の立つ山王台に、大砲を据え、新政府軍に向けていました。
一方、新政府軍の数は1万以上、とはいえ、実際に上野の山の攻撃に当たったのはその一部に過ぎなかったといわれています。
谷中方面には長州を中心とする部隊、最も激戦と予想され黒門を攻めるのは西郷率いる薩摩兵を中心とした部隊・・・そして、谷を挟んだ本郷台には差が藩を中心とする大砲部隊の陣地が置かれました。

午前7時ごろ、戦いの火蓋が切られました。
現在も残る黒門・・・激しい戦闘を物語る無数の弾痕が・・・!!
午前中は、高台で地の利のある彰義隊が優勢に戦いを進めました。
しかし、正午・・・本郷の台地から佐賀藩が誇る最新鋭の大砲アームストロング砲が撃ち込まれました。

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この砲撃をきっかけに、彰義隊が乱れ始めます。
この機をとらえた西郷は、黒門への突撃を命じます。
上野戦争を描いた錦絵には、新政府軍の一斉射撃が高台の彰義隊を狙い撃ちにします。
黒門前は、敵味方入り乱れての大乱戦・・・
濛々と煙を上げる寛永寺の伽藍・・・次々と撃たれていく彰義隊士・・・
自害するものも・・・
午後5時ごろ、戦いは新政府側の勝利で幕を閉じ、江戸で行われた唯一の戦争はわずか半日で集結しました。

新政府軍大勝利の秘密は何だったのでしょうか?
これまで佐賀藩のアームストロング砲の威力によってもたらされたといわれてきました。
しかし、勝利の理由はそれだけではない??
アームストロング砲の特性は、射程距離が長い、命中精度が高い・・・それは、旧来の大砲よりも格段に性能が良かったのですが、上野に持ってきた大砲は、6ポンドで口径が2.5インチ・・・6センチぐらいでした。
旧来の大砲に比べて、弾が小さいのです。
火薬の量も少なく、破壊力そのものでいうとそんなに際立っていないのです。

新政府側の勝因は、アームストロング砲だけでなく、旧式の大砲を使ったその戦術にあったのでは・・・??
加賀藩邸の方に13門集中的に配備、当時、砲列を敷くというのは事例的に多くありませんでした。
集中的に火砲を運用して、攻撃を支援するというのは、大村益次郎の先験的な戦術でした。

戦いののちにとられた写真・・・彰義隊と運命を共にするかのように寛永寺の大伽藍は灰塵に帰しました。
彰義隊の生き残りは、散り散りになりながらも、関東各地や東北に逃れます。
後に会津や箱館の戦いに身を投じた者たちもいました。
新政府軍の勝利は、人々の心に新しい時代の到来を印象付けました。

彰義隊を味方としていた人びとは、賊と呼ぶようになります。
新政府軍に罪を追及される恐れがあるからです。
上野戦争の大勝利の直後、新政府は徳川家の駿河移封と70万石への減俸を発表・・・
しかし、もはや江戸に反発する者はいませんでした。

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埼玉県秩父市・椋神社・・・明治17年11月1日・・・ここで3000人の農民が武装蜂起しました。
明治政府を揺るがした秩父事件です。
貧民の救済を求め、郡役所や高利貸しを襲撃した農民は、こんな言葉を叫んでいたといいます。

「板垣さまの世ならしに参加すれば、俺たちの負債もなくなる!!」

板垣さまの世ならし・・・
板垣さまとは、明治維新の立役者の一人・板垣退助の事です。
当時、板垣は、民衆が政治に参加する自由と権利を求める自由民権運動のリーダーとして知られていました。
板垣の考えは、民権派と呼ばれる人々を生み出し、自分たちの手で国会を開設しようという大きな運動にまで発展します。
板垣は、日本初の正当・自由党を結成し、全国を遊説・・・
政府の専制を批判し、草の根に自由民権思想を広げていきました。
しかし、板垣の前に壁が立ちはだかります。

「板垣死すとも自由は死せず」

この名言を生んだとされる暗殺未遂事件が発生・・・
さらに、板垣の動きを警戒した政府は、自由党の弾圧を開始、各地で自由党員たちが次々と検挙されていきました。
こうした中、民衆を突き動かした自由民権運動は、次第に力をそがれていきます。
自由民権運動は何を目指したのか・・・??

慶応4年に始まった戊辰戦争・・・
土佐藩兵を率いた板垣退助は、会津戦などで勝利に導き明治維新の立役者となりました。
戊辰戦争に参加した迅衝隊・・・土佐藩の精鋭部隊です。
31歳の板垣退助・・・600人の隊員のほとんどが下級武士で、普段は農作業をして暮らしていた彼らに、板垣は銃剣を授け、フランス式の軍隊に編成しました。
上級武士の軍をはるかに凌ぐ活躍を見せました。
板垣は、兵士の力量に身分の差は関係ないことを痛感しました。

2年後・・・明治3年、戊辰戦争の功績を認められた板垣は、高知藩大参事に就任しました。
すぐさま大改革を行います。
それは、身分制の撤廃でした。
日本の近代化に必要なのは人民平均・・・!!
人間を士農工商の隔てなく登用する社会の実現だと唱え、上級氏族による藩の役職の独占を禁じました。
板垣は、明治新政府が行おうとしていた身分制の改革をいち早く藩で行っていたのです。
その手腕を評価された板垣は、明治4年、新政府に招かれ、中枢を担う参議の一員に就任します。
そして、国に徴兵制を導入し、四民平等の軍隊を作ることを目指しました。

しかし、思わぬ外交問題が板垣を巻き込んでいきます。
征韓論争です。
当時政府内は、国交のない朝鮮に居留する日本人を保護するために兵を送るかどうかで意見が分かれていました。
この対立で政府は真っ二つに分裂・・・
征韓派筆頭の西郷隆盛と共に参議を辞職
明治6年のことでした。
しかし、翌年、板垣はすぐさま同志たちと行動に移ります。
議会を作り、選挙で選ばれた議員たちが国政を担うべきだと、政府に建白書を送ります。
明治7年、民選議院設立の建白書を政府に提出・・・!!

「現在、権力を握っているのは天皇でも人民でもなく、一握りの官僚である
 政府に税を払っている人民には、政府が行う政治に関与する権利がある」by板垣退助

その内容は、新聞にも掲載され、多くの知識人たちの間で議会の早期開設を求める動きが高まりました。
しかし、政府はこの建白書を却下・・・
板垣は、故郷・高知に戻り、新たな行動を開始します。
政治結社・立志社の創設です。

”自由は土佐の山間より出づ”

自由という言葉を合言葉に、高知から議会開設運動を巻き起こそうとしました。
立志社は、戊辰戦争を戦った士族が中心となり、東京の慶應義塾から教師を招聘し、西洋の民権思想を学びながら、議会開設運動を着々と進めました。
ところが、結成から3年・・・立志社を大きく動揺させる事件が起こります。
それは・・・明治10年、西南戦争勃発!!
明治6年の政変後、新政府との緊張関係が続いていた西郷隆盛と旧薩摩藩士たちが武装蜂起!!
実はこの時、立志社内部では西郷軍と共に挙兵し、政府を転覆、一気に議会開設を実現させようという動きがありました。
しかし、板垣は、この挙兵論を押さえます。
そして、戦争が政府軍有利になったことを見計らい、ブレーンである植木枝盛に新たな建白を作成させ、政府に提出しました。
ここでも板垣は、言論の力で議会開設を実現することを宣言・・・
専制政治を批判し、抗議という言葉で人民の政治参加を呼びかけました。

西南戦争の翌年、全国各地で議会開設を求める政治結社の結成が相次ぎました。
その動きは士族だけでなく、農民たちにも波及します。
明治11年、東北福島県三春で河野広中が三師社を結成・・・
以後わずか2年間で結成された農民結社36社。
板垣と立志社が始めた新たな社会を目指す運動は、身分や地域を越え、広がろうとしていました。

西南戦争から3年、高知から広がった自由民権運動は新たな局面を迎えていました。
各地の政治結社は、板垣をリーダーに国会開設を胸に手を組み、明治13年国会期成同盟を結成します。
当時の資料に彼らが目論んだ大胆な構想が書かれています。

それが、私立国会・・・
国民の過半数が求めても政府が国会を開設しない場合、国会期成同盟が国会を作りそれを天皇に認めさせるというものです。
そこで各地の結社は、それぞれの地で半数以上の賛同者を集めようと演説や勉強会を盛んに開き、政治への参加を促しました。
しかし、中には運動の理念とはかけ離れた方法で勧誘をする結社も現れました。
その一つが、撃剣会という剣術興行を見世物にして人を集めるという愛国更親社です。
最盛期には参加者2万8000人、愛知・岐阜の農村部で組織を拡大しました。
巧みな宣伝文句が勧誘に使われました。

入社すれば兵役免除、武士になり永世禄支給、税金免除・・・

そして、講談師・川上音二郎をまねて、舞台で政府批判を歌い、結社への参加を促すもの

民衆の心をつかむあらゆる方法で、結社拡大の動きがみられました。
しかし、板垣はこうした熱気の高まりに不安を抱いていました。
自分達で勝手に国会を作ってしまおうというのが私立国会論・・・
完全に政府と話し合いをやめてしまって・・・国政は分断してしまう・・・!!
分断されることを、板垣は望んでいませんでした。
政府と決定的な対立を起こしかねない・・・!!
板垣の不安は的中します。
明治13年4月、政府は集会条例発布。
政治集会や演説は規制され、結社同士の連合が禁止されました。
これにより、政治活動は大きく制限され、ほとんどの結社が半数以上の参加者を得るには至りませんでした。
結果、私立国会の構想は、いったん頓挫してしまいます。
その打開策として板垣が作ろうとしたのは、日本初の政党・自由党です。
結社を一つの団体としてまとめ上げてしまえば、条例違反を問われることはない・・・!!
しかも、これまでばらばらだった結社の主張が一つにまとまり私立国家の実現にも拍車がかかるはずだ・・・!!
ところが、明治14年10月・・・
結党準備のさ中に政府が下した新たな決断に、民権派は激しく動揺します。

国会開設の勅諭です。

明治23年を目標に、政府主導で国会開設と憲法制定を行うと、天皇の名のもとに告知したのです。
自分達の手で国会をと意気込んでいた民権派に対して、機先を制したのです。
自由党総理に選出された板垣は、新たな情勢の中で、今後の運動の指針を示しました。
それは、各地に自由党の地方支部を組織して、当の基盤を固め、将来の国会開設に備えるというものでした。
板垣は、6か月にわたる全国遊説の旅に出て、民衆の政治参加を熱く訴えました。

「我が国の人民は、社会一般の自由を伸ばそうとする精神に欠けているが、これは積み重なった専制政治の慣習によるものである
 ゆえに、この弊害をただすためには、人民に政治に参加させ、国家公共のことに関与させるしかない」by板垣退助

板垣は、行く先々で熱狂的な支持を受けます。
そんな中、遊説先の岐阜で事件が起こります。
演説後に、板垣が暴漢に襲われたのです。
この時発したとされる言葉が、

「板垣死すとも 自由は死せず」

板垣の不屈の闘志に、自由民権運動はさらに勢いを増していくことになります。

明治15年10月9日・・・板垣を揶揄した風刺画が雑誌に掲載されました。
自由号という船の上に、洋行費と記された大きな星が飛んでいます。
屋根の上では多くの人がその星の行方を見ています。
この洋行費こそが、板垣に降りかかったスキャンダルでした。
当時、板垣が予定していたヨーロッパへの視察旅行の費用を、政府が用意していると新聞各紙が報じていました。
板垣に洋行の話を持ち掛けたのは、共に政府の参議を務めた盟友で自由党幹部でもあった後藤象二郎です。
政党活動に興味を失っていた後藤は、政府への復帰を目論んでいました。
そこで、板垣を洋行させる代わりに政府に復帰することを、参議の伊藤博文と井上馨に相談していました。
後藤の提案は、政府にとっても自由党を切り崩す絶好のチャンスでした。
こうして政府が板垣の洋行費を用意することとなり、その情報が外部に漏れたのです。
板垣の洋行に反対した自由党の幹部は、次々と党を去りました。
これまで組織を支えてきた精鋭を失い、党本部は大きな打撃を受けることとなります。

さらに、地方では自由党への弾圧が始まっていました。
すでに明治12年から地主や豪農たちの要望を受け、府県会という地方議会が開かれていました。
この府県会で地方政府と自由党の衝突が起きていたのです。
舞台は福島・・・当時、自由党幹部だった福島県会議長・河野広中・・・福島では自由党が大きな勢力を占めていました。
そこで議題となっていたのは、地方税の問題です。
それまでの2倍以上の重税を課そうとする県に対し、自由党は議会で反対の議決を繰り返していました。
これに対し、副島県令・三島通庸は、副島の自由党員に民衆デモを先導したことをきっかけに党員全員を一斉検挙!!
さらに、裁判では自由党員が政府の転覆を図ったとみなし、河野たちを断罪します。
この事件で、東北での民権運動の拠点だった福島自由党は壊滅・・・
さらに、秋田・群馬など各地で弾圧が増していきました。

自由党が危機に瀕する中、明治15年、板垣退助、7か月にわたる洋行に出発・・・!!
板垣の中では、今、政党が一番順調だと思っていました。
自分が一人抜けても、全然問題はないだろうと考えていたのです。
さらに、自由党を苦しめたのが経済の冷え込みです。
政府のデフレ政策によって、深刻な不況は全国に及びました。
党員たちは思うように活動資金を調達できずに、遂には詐欺や強盗で資金を調達するようになります。

明治16年6月・・・板垣は帰国・・・。
しかし、待っていたのは政府の弾圧と資金不足で窮地に陥った自由党の弱体化した姿でした。
政党の活動を続けることが出来るのか??

党を存続させるべきか??
解党するべきか・・・??

板垣は選択を迫られていました。

自由党を解党するべきか否か??
明治16年6月、帰国した板垣は、党員たちにある提案を行います。
党の運営資金として必要な10万円を、募金で集めることを宣言したのです。
当時の10万円は、今の数億円に相当する金額です。
10万円を集められなければ解党止む無し!!
住民のために政治を志すならば奮起せよと、党員たちを鼓舞しました。
翌年の党大会で、集まった募金額が発表されました。
合計1万円余り・・・目標とした額にはとても及びませんでした。
その結果、板垣は宣言通り、明治17年10月29日、自由党の解党を決断します。
3年に渡り自由民権運動をリードしてきた日本最初の政党は、ここに幕を閉じたのです。

埼玉県秩父・・・自由党が解党された3日後の11月1日、ここで政府を揺るがす民衆蜂起が起きました。
秩父事件です。
当時、養蚕で生計を立てていた農家は、生糸価格の大暴落によって困窮を極めていました。
負債に苦しむ農民たちを、解党の事実を知らない自由党員が組織化し、武力蜂起へと導いたのです。
決起の地・・・椋神社・・・
農民3000人が集まって掲げた要求を、当時の神官が記録しています。

負債の据え置き、村費軽減や、減税など・・・

そこには、国会や憲法といった言葉はありませんでした。
当時蜂起勢が口ずさんでいた歌があります。

”金のないのも苦にしやさんすな 今にお金が自由党”

自由党に入って、板垣さまの世ならしに参加すれば、俺たちの負債もなくなる・・・
自由党というものに対して大きな期待と夢を託していたのです。
農民たちは、山村から町へ向かい、借金の証文を焼き払いました。
ゆく先々で勢力を増し、秩父府を占拠した時、その数は1万を超えていました。
2日後、郡役所に革命本部を構えます。
関東一円の志を同じくする自由党員に決起を呼びかけようとしました。
しかし・・・政府は軍隊を投入し、放棄から9日後に鎮圧・・・蜂起勢は強盗として裁かれることになりました。
この事件を境に、自由民権運動は、民衆運動としての力を失っていきます。
その後、日本は憲法制定、国会開設と、急ピッチで近代化の道を駆け上っていきました。
板垣自身も、政党政治への情熱を失うことはありませんでした。

板垣は、帝国議会が開かれると、旧自由党員が組織したいくつかの政党をまとめ上げ、自由党を復活させました。
そして、帝国議会の第1党党首として活躍し続けました。
国会議事堂・・・中央広間・・・国会開設の功労者として板垣の像が立てられています。
板垣は、晩年の回想録の中で、自由民権運動をけん引した時代を振り返り、次のように述べています。

「自由党の特色は、破壊的な働きにこそあった
 先生を打破し、国会開設への道を切り開くためには、古いものを破壊するほかなかった
 彼らが政府に抵抗し、血を流しても屈しなかったのはこのためである」by板垣退助

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明治維新の立役者の一人・西郷隆盛・・・
西郷が新しい国づくりのために邁進出来たのは、ある一人の男の存在があったからでした。
薩摩藩11代藩主・島津斉彬です。
斉彬が亡くなった際に、西郷は後を追って死のうとしたと言われています。
西郷がそこまで惚れ込んだ島津斉彬とは・・・??

1809年・・・薩摩藩10代藩主・斉興の嫡男として江戸の薩摩藩邸で生まれました。
母は、正室の弥姫・・・教養が深く、教育熱心な人で、乳母をおかずに自らの手で斉彬を育てました。
6歳の頃から中国の書物を越えに出して読むことや、絵画、和歌などを母に厳しく教えこまれた斉彬は、やがてこう呼ばれるようになります。
”二つビンタ”・・・ビンタとは、薩摩弁で頭の事・・・斉彬は、まるで頭が二つあるかのようにいくつものことを同時に処理できたというのです。
その噂を聞いた幕府の重役たちは、
「薩摩のような外様ではなく、譜代大名であったなら幕府の老中となって活躍できたろうに・・・」
と、残念がったといいます。

斉彬は趣味も多彩、体格にも恵まれ、威風堂々としたものでした。
藩主になるべくして生まれた男・・・しかし、40歳を過ぎても藩主には慣れませんでした。
それは、父・斉興がなかなか家督を譲らなかったからです。
というのも、斉興は19歳で藩主になったのですが、実権は父・重豪が握っており、斉興が名実ともに藩主になれたのは、重豪が亡くなってからのことでした。
斉興は43歳、斉彬は25歳になっていました。
ようやく藩の実験を握った斉興でしたが、待っていたのは深刻な財政難でした。
原因は、重豪でした。
重豪は、オランダ語を話し、歴代のオランダ商館長とも交流を深めるなど西洋の学問である蘭学や文化にひどく傾倒・・・蘭癖と呼ばれるほどでした。
それは、薩摩藩の置かれた環境が強く影響しています。
薩摩藩は、現在の鹿児島県、宮崎県、沖縄県にひろくありました。
しかも、沖縄は、名目上琉球国王が支配する・・・藩の中に外国があり、貿易をしていました。
海外からの物資や情報、文化が薩摩藩に流入していました。
蘭癖大名と呼ばれた重豪は、オランダや中国などの知識を吸収、画期的な開化政策を打ち出す一方で、金に糸目をつけずに新しいものや珍しいものを収集します。
さらに、藩校である造士館や天文館などを建設、藩の財政を圧迫していきました。
一時は500万両・・・今のお金で5000億円もの借金をしていました。
その莫大な借金を再建することが急務でした。
そこで斉興は、幕府の鎖国政策を無視し、琉球王国を隠れ蓑にした密貿易・・・抜け荷の拡大などで財政の立て直しを図っていくのです。

努力の甲斐あり、10年後には50万両もの備蓄ができるほどに持ち直します。
その功績を花道に、斉興は嫡男・斉彬に家督を譲っても良かったのですが、そうはしませんでした。
その原因もまた、重豪にありました
斉彬は幼い頃、重豪にとてもかわいがられていました。
重豪が斉彬に与えた影響は、大きかったといいます。

斉彬は重豪の蘭癖を継承・・・多くの蘭学者たちを優遇し、洋書の翻訳をさせたり、自らオランダ文字で日記をつけたり蘭学に熱中・・・
曽祖父と同じ蘭癖と称されるようになるのです。
蘭癖は、藩の財政を揺るがすもの・・・そう考えていた父・斉興は、
「斉彬が藩主になったらまた藩の財政が悪化してしまう!!」
そう恐れたため、斉彬が30代半ばを過ぎてもなお、家督を譲らなかったのです。


nariakira父に疎まれるほどだった斉彬の蘭癖・・・
その証拠が、尚古集成館に残っています。

銀板写真・・・日本人が銀板写真に写っているのは、この島津斉彬だけです。
その外に、地球儀なども残っています。

19世紀半ば、イギリスやフランスなどの西欧列強が東アジアに進出・・・
アヘン戦争では東アジア最強と目されていた中国の清がイギリスに負け、開国を余儀なくされてしまいます。
琉球にも、フランス船やイギリス船が度々来航・・・
軍事力をちらつかせながら、通商を迫ってきました。

幕府は薩摩藩に、琉球へ兵を派遣し、守りを固める様に命じますが・・・
斉興は少数の兵を短期間派遣しただけで、幕府には、指示通り兵を送ったと報告しました。
西欧列強が相手では、琉球を守るどころか薩摩藩自体も危ういと判断し、日本と西欧列強の差を縮めるべく、藩の軍事力を強化しようとしたのです。
その外に、武器の近代化、工業化を進めていきます。
ところが、父・斉興のやり方に、斉彬が・・・
「より近代化が必要!!」
しかし、藩の財政を第一に考える斉興は、これ以上の近代化は不要と一蹴・・・真っ向から対立していきます。

斉興が、藩主の座を譲らない理由は他にもありました。
朝廷から与えられる官位です。
薩摩藩士は、通常ならば四位どまりなのですが、斉興は、財政再建をした功績によって、その上の従三位を与えられるのではないかと期待していました。
その為、官位を受けるまでは財政を悪化させる恐れのある斉彬に藩主の座を譲る気などなかったのです。

30代半ばを過ぎても藩主になれない島津斉彬・・・
しかし、跡継ぎであることに変わりはなく、江戸の薩摩藩邸に詰めていました。
そんな中、父・斉興の行動が大きな波紋を呼びます。
参勤交代で江戸に滞在する時、留守中の薩摩のことは斉彬の弟の久光に任せることにしたのです。
斉彬の藩主就任を望む藩士の一部は弟の久光が藩主になるのでは??と勘繰ります。
しかも、それを陰で操るのが久光の母であり斉興の側室であるお遊羅の方だと考えるようになります。
そのさ中、斉彬の息子二人が病死・・・
斉彬の家臣達は、お遊羅の方の呪いではないかと噂をはじめます。
というのも、実際に呪符が見つかったからです。
しかし、これは、琉球にやってきた外国人を呪った父・斉興が作ったもの・・・??
全ては勘違いだったのですが、早合点した斉彬方の家臣達は、”このままでは、斉彬さまが呪い殺されてしまう!!”と、陰で操るお遊羅の方を暗殺しようと企てました。
ところが、これがお遊羅の方を寵愛する斉興の耳に入り、激怒!!
1849年、斉彬派を処罰します。
12人が切腹、38人が貼り付けや島流しの刑に処されるのです。
こうして、父との対立は深まっていくかに見えましたが・・・
このお家騒動が幕府の知る処となり、斉興は責任を取って、1851年隠居届を提出します。
斉彬は、ようやく11代藩主となるのです。
この時すでに43歳・・・!!

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薩摩藩士となった島津斉彬は、西洋列強に対抗するため、軍備の強化、近代化を推し進めていきます。
それは、鎖国体制の日本にあって、先駆的なものでした。

・洋式船の建造
当時、日本近海にやってきていた西欧列強の巨大な軍艦は、鉄製で蒸気によって動き、大砲を何本も装備していました。
たいして日本の船は、幕府によって”大船建造禁止令”が出ていたため、大きくても米を積む500石積の船しか作ることが出来ず、大砲も搭載できませんでした。
斉彬は、外圧に晒される今、日本も大型船を作る必要があると考えていました。
そんな中、浦賀に黒船が来航・・・幕閣たちも、ようやく西洋の軍艦の脅威に気付きます。
斉彬はこの機を逃しませんでした。
幕府に大型船建造の解禁を願い出て、これを認めさせたのです。
そしてすぐに、西洋風の大型船の製造に着手・・・
全長30m、砲16門を搭載する西洋式軍艦昇平丸を完成させたのです。
その後も、大型船の建造を続け、日本初の蒸気船も完成させています。

・鉄製大砲の鋳造
島津家の歴史を語る博物館・尚古集成館の敷地内にも、斉彬の近代化の痕跡が・・・!!
反射炉跡が残っています。
反射炉とは、燃料を燃やして発生した熱を、天井に反射させて炉の中を高温に保つことで金属を溶かす施設・・・
これを使って、斉彬は丈夫な大砲を作ろうとしたのです。
しかし、当時、こうした反射炉を作る知識は日本にはなく、完成までには大変な苦労がありました。
斉彬は、既に反射炉を作ることに成功していた佐賀藩から、オランダの書物を取り寄せ、それをもとに研究を開始します。
西洋式反射炉の建設に取り掛かります。
しかし、外国語の書物のみが頼りとあって、失敗を繰り返します。
そこで・・・耐火煉瓦は薩摩焼の技術を使って作り・・・何度も諦めかける家臣たちにこう声をかけます。

「西欧人も人なり
 佐賀人も人なり
 薩摩人も同じく人なり
 退屈せずますます研究すべし」

藩士たちは奮起し、意地と努力で1857年反射炉を完成させます。
あわせて日本初の溶鉱炉も建設、鉄の大砲の鋳造に成功するのです。
斉彬は、他にもガラス工場や、蒸気機関研究所などを建設、そうした工場群を集成館と名付けました。
最盛期には、1200人もの人が働いていたといわれています。
2015年、集成館は歴史的価値のある工場群として世界遺産に登録。
独自の近代化を進めた斉彬の功績が、世界に認められたのです。

斉彬は幕府に対して日の丸を日本の船のしるしにするように提案します。
もともと、日本の船は帆が一つしかないなど、世界的にも特異な形であったため、外国船と間違われることはありませんでしたが、日本で洋式船を製造するとなると判断するのが難しいので、日本の船であると示す必要があると考えたのです。
日の丸は、古くから日本人が使っていたようですが、そのデザインは様々でした。
丸が三つ、五つも書いたデザインもあったのです。
この時、斉彬は白地に赤い丸ひとつを書いたサンプルを作成し、提案します。
幕府もそれを認め、1854年、日の丸を日本の船印に採用しました。

日本を守るために西洋式の軍艦や大砲を作るなど軍備の近代化を進める島津斉彬・・・
一方でこんな言葉を残しています。

「第一人和」

斉彬が一番大切に思っていたのは、人の和でした。
人の和は日本を守る城となる!!
人の和を生み出すためには、人々に豊かな暮らしを保証することだとも言っています。
斉彬は、軍備以外にも様々な産業を興しています。
国民の豊かな暮らしを目指し、近代化に取り組んだのです。

斉彬は、紡績、ガラス、出版、酒造りといった産業の育成にも力を入れました。
中でもガラスは、薩摩切子と呼ばれ、新しい工芸品を生み出します。
薩摩切子は、今でも日本を代表する工芸品で、高く評価されています。
斉彬は、外国に輸出することを考えていたようです。
薩摩焼に対しても、外国人の好みに代えろと指示し、あでやかなものとなっています。
そして、パリ万博で高い評価を得て、大量の薩摩焼が海を渡ることとなります。

島津家の別邸・仙厳園・・・桜島を望むこの美しい庭園にも斉彬が残した遺産があります。
日本初のガス灯の実験が行われました。
斉彬は、城下をガス灯で照らそうと考えていたといいます。
研究と実験を重ね、西欧の技術を習得し、次々と産業を立ち上げていった斉彬ですが・・・

「薩摩だけ強く豊になっても意味がない・・・」

そういって、持てる技術と知識を惜しみなく幕府や他の藩に教え、視察も喜んで受け入れたといいます。

斉彬は、日本が挙国一致体制で富国強兵策を・・・!!という考えでした。
それが、やがて明治政府によって実現され、斉彬の唱えた富国強兵を明治政府が展開していくこととなります。
斉彬が目指したもの・・・それは、まだ見ぬ維新という新しい日本の姿でした。

斉彬は、人材育成にも長けていました。
身分にとらわれず、優秀な若者を見出し、意見を求め、藩の政治に取り入りました。
斉彬はこう言っていました。

「付和雷同で意見を持たぬ者、十人が十人とも好む人材、彼らは非常事態に対応できない
 偏屈な男こそ、国の宝である」

そう考える斉彬に取り立てられた若者たちの多くは、藩の中心人物に・・・そして、激動の時代、まさに非常事態に対応し、日本を背負う人物に大きく成長していきました。
西郷隆盛もその一人でした。
斉彬が、下級藩士だった西郷隆盛を初めて知ったのは、大量に届いた建白書によってでした。
当時、薩摩藩郡方書役助だった西郷が、農家や村を指導監督する中で、農民が思い年貢などに苦しみ困窮している状況を知ります。
そして、その改善策と共に、悪性を訴えた建白書を、斉彬に何度も提出・・・
斉彬はこれを高く評価し、そこで、藩主として江戸に赴く際に西郷を庭方役に抜擢し、江戸に連れていきます。
庭方役とは、何種の用事を藩邸の庭先で聞く役職のことです。
西郷を、諸藩との重要な連絡や情報収集に当たらせるなど、斉彬の信頼は厚いものでした。
この時、人脈や、政治的視野が広がり、西郷は明治維新の立役者となります。

1856年・・・時の将軍・・・第13代家定の婚礼が行われました。
花嫁は、島津斉彬の養女・篤姫です。
この結婚・・・斉彬が篤姫を政治利用したと言われていますが・・・その真相とは・・・??
当時、幕府内では将軍の後継問題が勃発していました。
家定は体が弱く、世継ぎが見込めなかったため、次期将軍の決定が急務となっていました。
候補の上がったのは、2人・・・
一人は紀州藩主・徳川慶福・・・慶福を推したのは、譜代大名・彦根藩主・井伊直弼で、南紀派と呼ばれていました。
もう一人は、一橋家当主・徳川(一橋)慶喜で、慶喜を押したのが、老中・阿部正弘ら一橋派でした。
斉彬は、この一橋派でした。
次期将軍を決めるのに大奥の意見が強く影響すると知っていた斉彬は、篤姫を将軍に嫁がせ、大奥に入れることで慶喜擁立を有利にしようと工作したのではないか?といわれています。
しかし・・・この縁談話は、家定が将軍になる3年も前に持ち上がったものでした。
将軍の世継ぎであった家定は、公家の娘を二度正室に迎えていましたが、共に死別・・・。
その為、幕府は次は武家から迎えたいと考えます。
そこで、候補に挙がったのが島津家でした。
というのも、良い前例がありました。
11代将軍・家斉が、正室に迎えたのが、茂姫・・・斉彬の曽祖父・重豪の娘でした。
その後、家斉は、将軍在位50年と歴代最長を記録し、正室、側室の間に53人もの子を設けました。
子供ができなかった家定も、島津家から妻を迎えれば死別せずに子宝に恵まれるのでは??と、考えたのです。

つまり。斉彬は、幕府からの要請を受け、篤姫を養女とし、将軍に嫁がせることにしただけで、将軍後継問題とは関係がなかったのです。
どうして斉彬は篤姫を政治利用したと思われたのでしょうか?
黒船の来航や、江戸の大地震などで婚礼が先延ばしになり、将軍継承問題が盛り上がるころに輿入れとなったため、送り込んだという誤解が生まれたのです。
嫁いで1年後・・・待望の世継ぎは出来ませんでした。
斉彬が動いたのはこの時・・・信頼していた西郷隆盛を江戸詰めとし、諸藩との連絡係にしました。
そして、次期将軍として慶喜の将軍擁立を画策。

1858年、南紀派の井伊直弼が大老に就任・・・
その権限によって、慶福が14代将軍となりました。
斉彬は再び動きます。
薩摩の兵を率いて京に向かうため、西郷にその準備を命じたのです。
その行動は、斉彬が朝廷を武力で動かし、慶喜を将軍にしようとしたのではないかとも考えられますが??

「西欧列強の脅威にさらされている今、国内で争っている場合ではない!!」

斉彬の行動には、常に日本の未来を見据えた大局的な視点があったのです。

それから間もなく、斉彬が病に倒れます。
死期が近いことを悟った斉彬は、弟の久光らを枕元に呼び遺言を伝えます。
自分の跡継ぎは、嫡男ではまだ幼いため、久光か、その長男の忠義のいずれかにするようにと・・・。

そして・・・1858年7月16日、島津斉彬死去・・・50歳で生涯を終えました。
明治という新しい時代を見ることなく・・・・・!!

日本の行く末を案じながら、その生涯を終えた島津斉彬・・・
しかし、その遺志は受け継がれ、日本を新しい時代へと導いて行きます。
島津家の家督は、弟の久光が辞退したため、その息子・忠義が相続しました。
久光は、後見役を務めました。
そして、久光は、斉彬の遺志を継ぎ、西郷たちと共に幕末から明治維新へかけての薩摩藩をけん引していきます。
彼等が目指したのは、順聖院様御深志(斉彬)の遺志の実現でした。
それは、幕府、朝廷、藩という枠を超えた挙国一致体制を築き、日本を西欧列強の植民地にされないような国にすることです。
斉彬の遺志と夢を実現するという共通の目的を持っていたからこそ、薩摩藩士たちは分裂せずに明治維新での重責を担っていくこととなるのです。
その一人、西郷隆盛は、新政府の中心人物として廃藩置県や警察制度の導入などに関わり、近代国家の礎を築きました。
そして、西郷同様下級武士から出世した大久保利通は、富国強兵を明治政府のスローガンとし、殖産興業政策を推進・・・富岡製糸場などの官営模範工場を日本各地に作り、近代産業の育成に尽力しました。

斉彬は、近代日本のプランナーだったのです。
日本を強く豊かな国にすることを夢見て、実現に向けて邁進し、様々な功績を残した幕末の名君・・・島津斉彬・・・

「維新の折、薩摩から人材が多く出たのは、斉彬の教育感化によるものである」by勝海舟

斉彬がいたからこそ、明治維新があった・・・そう言っても過言ではありません。

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幕末、・・・日本は未曽有の国難に直面していました。
攘夷か、開国か!!
国論は、真っ二つに別れ、遂には武力による討伐・・・明治維新へと突き進みます。
そんな幕末動乱の時代に、危機に立ち向かった先陣の英知とは・・・??

①老中首座・阿部正弘
200年以上守ってきた鎖国の危機に、阿部は人々の納得を取り付けながらシステムを変えるという最も困難な仕事に取り組みました。
1853年、ペリー浦賀に来航!!
その中には、最新鋭の蒸気軍艦二隻の姿もありました。
逆風をものともせず進む巨大な黒船・・・
これまで目にしたこともない黒船の異形に人々はパニックに陥りました。
当時の瓦版に書かれたペリーの姿は、同じ人間とも思えない風貌・・・黒船打ち払うべしという攘夷の声は、日本全土へと広がっていきます。
しかし、備えはまったくと言っていいほどなされていませんでした。
阿部が老中になる前年・・・1842年イギリスがアヘン戦争に勝利・・・清に領土を割譲させたという知らせは日本にも届いていました。
ところが、当時の幕府財政は火の車・・・海岸を守るための軍艦や砲台に回す資金はありませんでした。
ペリーはさらに、江戸湾内に船を進めます。
そこには驚くべき意図が・・・!!
ペリーが本国に提出した江戸湾の測量図があります。
ペリーは、江戸湾を測量し、どこまで陸地に近づけるかを調べていました。
国土への直接攻撃をにおわせる示威行動でした。
その上でアメリカは、船舶の補給基地として港を開くことと、交易の開始を要求します。
余りにも強引な開国要求でした。
ペリーの圧力に屈して鎖国を捨てれば幕府の威信は地に落ちる・・・
高まる攘夷の中、阿部は前代未聞の方法に踏み切ります。
それまで幕府政治への参加を許されなかった御三家や外様大名・旗本に、国書を開示し、意見を聴収します。
それは、挙国一致で当たるという幕府始まって以来の方針転換でした。

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挙国一致の課題は、大きな大名との協調政策です。
国の一番重要な政策について意見を聞きます。
有力大名の半数が、鎖国を守るためには戦争も仕方ないと主張!!
その代表が、水戸藩の徳川斉昭!!
御三家として大きな影響力を持っていました。

「刀や槍の戦いでは我が国に分がある
 電光石火のごとく戦えば、かの夷族を鏖にすることは掌のうちにある」by斉昭

圧倒的な攘夷派を前に、選択を迫られた阿部・・・!!

黒船に積まれていた最新式のペキサンス砲・・・その特徴は、爆弾を的に対して水平に発射できること!!
命中率が高く、破壊力も大きい!!
ペリー艦隊の攻撃によって、海岸沿いの下町は完全に火の海になる恐れがありました。
御城下が灰になるほどの事態になれば、幕府の威信は地に落ちてしまう・・・??

「外寇への備えは、交易の利潤をもって当てる」by勝海舟
勝は、通商を行って、利益を得ることが、国防の強化につながると説いていました。
しかし、通商を認めることは鎖国を捨て去ること・・・
国法を曲げては、幕府は弱腰であると、大名からの声が沸き起こるであろう!!

ハッキリとは回答しない・・・??
回答延引策は、薩摩藩主・島津斉彬たちが唱えていました。

「交渉は出来る限り引き延ばす・・・3年ほど待てば、軍備も整うのでその後に打ち払う」by斉彬

攘夷か?開国か?それとも回答延引策?
いずれを選んでも困難な道でした。
先の来航から半年経った1854年1月・・・ペリーは再び江戸湾に現れました。
果たして、阿部の選択は・・・??
それは、”ぶらかす”・・・回答延引策でした。
1853年6月、将軍・家慶死去・・・
阿部はそのことを口実に、交渉延期を申し入れます。
しかし、ペリーはこれを黙殺!!

「将軍の死は公務を遅らせる理由にはならない」byペリー

引き延ばしはもはや通用しない!!
阿部は、諸大名と共に撮るべき方策を協議しました。
実際の交渉にあたる役人は、通商まで譲歩しなければまとまらないと主張!!
しかし、阿部はあくまで慎重でした。
打ち出したのは、「開港容認・通商拒絶」でした。
1854年2月10日・・・
圧倒的な武力を持つアメリカに対する綱渡りのような交渉が始まります。
阿部の意を受けた役人は、頑なに通商を拒みます。
日本海国という名誉を祖国アメリカにもたらすことを重視していたペリーは、次第に焦り始めました。

「このまま通商に固執することは得策なのか・・・??」byペリー

交渉開始から1か月・・・日米和親条約締結。
開港を許したのは、大都会から離れた下田と箱館。
そこでは、航海に必要な物資の補給だけを認めました。
通商に関する要求は、完全に退けたのです。
阿部はいかにしてこの結果を手にしたのでしょうか?
近年、広島県福山でその資料が発見されました。
阿部の腹心である軍学者・江木鰐水の手記によると・・・
交渉のさ中、黒船に乗り込んだ江木は、事細かく書いています。
ペリーが話すときの声は温和・・・
交渉相手のことを事細かく調べたうえでの交渉に臨むことで、阿部は薄氷の勝利を得ました。
しかし、阿部は、自らが用意した日本の未来を見ることはできませんでした。
未曽有の国内に対処してきた重荷が、その肉体を確実にむしばんでいました。
1857年、阿部正弘死去・・・享年39歳でした。

②長州藩・高杉晋作
1864年・・・それは、長州藩が国内外の危機に直面し、がけっぷちに立たされた運命の年でした。
国政の主導権を握ろうとする長州に対し、薩摩藩と会津藩が反撃!!
世に言う禁門の変が勃発します。
7月19日、薩摩・会津の連合軍と衝突した長州軍は、僅か1日で惨敗・・・
御所に向かって発砲した長州藩は、時の帝・孝明天皇によって朝敵の烙印を押されてしまいました。
状況はさらに深刻化・・・
それは、武力によって外国船を打ち払おうとする祖国・長州藩の暴走でした。
8月5日、下関戦争・・・
長州は、関門海峡を航行する外国商船を砲撃!!
激怒した欧米列強によって報復攻撃を受けます。
関門海峡の殆どの砲台が列強連合軍により占領!!
植民地化という最悪の危機が予想されました。
追いつめられた長州は、停戦交渉を要請・・・
そしてその難しい立場での交渉に登場した男こそ、高杉晋作でした。
8月8日・・・交渉の席上、列強側は300万ドルという巨額の賠償金を要求。
晋作は啖呵を切ります。

「もし、戦争を続けるというのなら、長州は最後の一人になるまで戦うつもりだ」by高杉晋作

晋作たちの強硬な姿勢に、列強側は態度を一変・・・
関門海峡の砲台撤去、水・食糧・燃料補給のため下関上陸を求めてきました。
晋作たちは、本来は幕府の権限であるはずの下関の開港を独断で受け入れます。
下関を開港し、貿易を行えば、富国強兵を推し進めることが出来る・・・
晋作たちは、交渉の土壇場で、未来の実利につながる決断をしました。

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1864年7月・・・第一次長州征伐・・・幕府は朝敵の長州を攻め滅ぼすべく13万の大軍を大坂に・・・!! 
その一報を受け、長州藩の上層部が真っ二つに分かれます。
抗戦派・・・大義名分のため幕府に抵抗
恭順派・・・藩存続のため幕府に謝罪
この対立です。
11月12日、恭順派によって長州藩の三家老が切腹・・・幕府への徹底恭順の証とされました。
抗戦派に組していた晋作は、身の危険を感じ、九州・筑前藩に亡命!!
再起の時を伺っていました。
この時、晋作にはどのような選択があったのでしょうか?

内乱挙兵の決起策か??
藩士以外の武士や、庶民で編成された奇兵隊を!!
最新式の銃を装備し、西洋式の戦術を学んだ長州の軍です。
それとも冷静に交渉の道を選び、藩の大義名分を取り戻す・・・??
朝敵の汚名をどうしたらいいのか・・・??

晋作の決断は・・・決起策でした。
反乱の兵をあげ、武力によって藩の方針を覆す道を選びました。

11月25日、高杉晋作、長州に帰還!!
奇兵隊をはじめとする諸隊に反乱の決起参加を要求します。
しかし、諸隊幹部は無謀な戦いだと消極的な態度に・・・!!
その姿勢に晋作は叫びます。

「僕は、毛利家300年来の家臣だ
 たとえこの身が討ち倒れようと長州に殉じる!!」by晋作

ここに、反乱軍は挙兵します。
晋作たちは長州藩の経済の要・下関の会所を制圧!!
さらに、藩の軍艦を強奪することに成功!!
最初は消極的だった奇兵隊たちが動き出しました。
反乱軍は、800人の大軍勢に膨れ上がります。

1865年1月7日、大田絵堂の戦い・・・
恭順派率いる軍の正規軍と激突します。
野戦戦術と、最新式のミニエー銃を使うことを学んだ奇兵隊は、藩の正規軍を圧倒!!
そして、晋作決起からおよそ40日後・・・
藩主・毛利敬親によって、徹底恭順は撤回!!
もし攻撃を受ければ、最期の一兵まで戦い抜くこと・・・武備恭順を藩の方針とさだめました。
晋作の決起が導いた奇跡の勝利・・・次なる幕府との戦争が始まる中、晋作はまったく独自の構想を抱いていました。
長州の将来について晋作が記した意見書・・・回復私儀・・・
そこには、晋作が最も力を入れている方策があります。
それが、「大割拠」でした。
徳川一強の時代は終わった・・・

「今こそ、我が長州藩の下関を世界に向けて開こう
 そして、欧米列強の力にも十分に対抗できる国力を身につけるのだ
 世界五大陸にこの長州藩を押し出して、長州の大割拠、独立を成し遂げるのだ」by晋作

しかし、その夢が実現することはありませんでした。
1867年4月14日、高杉晋作病没・・・享年29歳でした。
あまりにも早すぎる突然の死でした。

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③薩摩藩家老・小松帯刀

小松帯刀・・・薩摩で島津家に次ぐ名門の家に生まれ、28歳の若さで家老に就任。
当時、権力の座にあった国父・島津久光の抜擢によるものでした。
帯刀は久光のもと、富国強兵を推し進めました。
綿・・・当時、綿花はアメリカで始まった南北戦争の影響で世界的に品薄となっていました。
帯刀は、西国諸藩から綿花を調達し、ヨーロッパへ輸出・・・
その利益で5隻もの蒸気船を購入、海軍の創設に力を注ぎました。

1863年、帯刀は、久光から京都での政治工作を任されます。
目的は、雄藩連合です。
これまで幕府では、一部の譜代大名が政治や外交を独占・・・
外様藩である薩摩や長州は蚊帳の外に置かれていました。
薩摩は有力大名が手を組んで政治に参加する雄藩連合を構想し、実現に向けて動き出しました。
このことが、幕府側との対立を引き起こすこととなりました。
御所を警護する一橋慶喜、京都守護職・会津藩松平容保、京都所司代・桑名藩松平定敬ら一会桑勢力です。
1964年7月、慶喜は朝敵・長州を討つべく、15万の大軍を大坂に集結させました。
第一次長州征伐の発動です。
ところが、これに対し薩摩は思いもよらない行動に出ます。
10月、小松帯刀、慶喜に征伐中止を進言!!
その要因は、京都政局のパワーバランスでした。
一会桑は、有力な藩を国政運営に加えたくありませんでした。
薩摩としては、長州を敵に回さない方が得・・・恩を売るという考えがありました。
薩摩の行動は素早く・・・長州に対して禁門の変を主導した三家老を処刑し、幕府に謝罪するように打診します。
長州がこの条件を受諾したことで、第一次長州征伐中止・・・!!

薩摩への警戒を強める慶喜・・・
再起へ虎視眈々の長州・・・
幕末の風雲はいよいよ急を告げます。
1865年、幕府側の巻き返しが始まりました。
15万の大軍が、大坂へ・・・第二次長州征伐です。
幕府は諸外国に対し、長州に武器を売らないように要請!!
長州は、絶体絶命の窮地に陥りました。
この時、帯刀は驚くべき決断をします。
薩摩名義で7300丁もの銃を購入、長州へあっせんしたのです。
長州の使者に対し帯刀はこう答えています。

「幕府の嫌疑等意に介してはいない・・・ 如何なることでも尽力する」by帯刀

薩長両藩は、1866年1月・・・長州から木戸孝允が上京します。
帯刀のもとで交渉を担当したのは西郷隆盛!!
幕府側に対する武力行使も辞さない強硬派です。
ところが、西郷が発したのは思いもよらない一言でした。

「ここはまず、幕府の処分をあまんじて受け入れよ」by隆盛

この時点で、幕府は長州に藩主親子の引退、領地10万石削減などを通告する見通しとなっていました。
過酷な処分を受け入れよという西郷・・・実は背景には国父・島津久光の意向がありました。
注目すべき資料は、島津久光に宛てた伊達宗城の書簡です。

「近頃西郷はしきりに暴論を主張している 久光公は依然として持重」

久光にとっては幕府に対する武装蜂起など思いもよらない・・・
急遽京都藩邸に使者を送り、藩士全員に厳しく自重を命じました。
西郷と帯刀は、朝敵の汚名を晴らす政治工作は動けても、幕府への武力行使には協力できない状況に追い込まれていました。
しかし、長州は既に臨戦態勢にありました。
更なる処分を受け入れるはずもありませんでした。
交渉は平行線をたどり、木戸はついに帰国を口にしました。
このままでは薩長提携に向けて動いたことは、すべて水泡に帰す・・・
帯刀は交渉を続けるか否かの決断に迫られました。

交渉は打ち切るしかないのか??
このままいけば、幕朝開戦の可能性が極めて高い・・・久光公の本意は、幕府と事を構えることにないのは明らか・・・家老として、その御意志を越えてまで、長州との提携を進めることが許されるのだろうか??
しかし、久光の方針に従えば、薩長提携の道は閉ざされてしまう・・・!!
それは目指す雄藩連合からの後退を意味していました。

ここで長州を孤立させていいのだろうか・・・??
雄藩連合が頓挫してしまう・・・
久光公を説得して、同盟締結に持っていけないだろうか・・・??

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小松帯刀の選択は、薩長同盟締結でした。
幕府との対決にひた走る長州との同盟を、帯刀は独断で締結したのです。
薩長同盟には、両藩の公式文書は存在しません。
唯一その内容を伝える木戸孝允の書簡・・・そこからは、政治家・小松帯刀の周到な計算が読み取れます。
そこには巧妙なロジックが隠されていました。
戦うとしたら一会桑・・・と書かれています。
つまり、幕府とは言っていないのです。
一会桑との対立は、そう遠くはない・・・久光サイドも理解できていました。
薩摩が生き残るためには、長州を絶対に滅ぼしてはならない・・・帯刀は久光の許容範囲すれすれで同盟を結び、事後承諾を勝ち取ったのです。
新たな時代・・・明治を切り開いた薩長同盟・・・その意義とは・・・??

久光主導から、小松、西郷、大久保による主導に転換していきつつあるきっかけになりました。
両藩の間での正式の合意文書がない・・・第5条の決戦条項を久光には見せられなかったのでしょう。
それは、久光の初期の方針を逸脱したものだったからです。

全て自分が責任を負う・・・それが、歴史の方向を決定づけました。
阿部正弘、高杉晋作、小松帯刀・・・身分は違えど、三人に共通するのは、新たな時代は自分が作るという責任感でした。

老中・阿部正弘は、死の1年前、幕府の路線を大きく変更しました。

「交易互市の利益をもって富国強兵の基本とする」by阿部正弘

開国通商に舵を切ると宣言したのです。

その志は確かに受け継がれます。
鹿児島のとある釜元・・・薩摩焼は帯刀の進言で輸出用に作られたものです。
ヨーロッパで上流階級に珍重され、注文が殺到しました。
小松帯刀は病のため36歳で亡くなりました。
しかし、彼は最後まで来るべき時代の輝かしい日本の未来を夢見ていたのです。


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